瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 徐陵の「毛永喜にに別る」(五言詩)を記す。
 別毛永嘉  徐陵
願子厲風規  願はくは子 、風規に厲(はげ)み
帰来振羽儀  帰来 羽儀を振い
嗟余今老病  嗟(ああ) 余れ今老い病む
此別空長離  此の別 空しく長(とこし)へに離れん
白馬君來哭  白馬 君 來たり哭(こく)すとも
黄泉我何知  黄泉(こうせん) 我れ何ぞ知らん
徒労脱宝剣  徒に労せん宝剣を脱し
空掛隴頭枝  空しく隴頭(ろうとう)の枝に掛かるを
〔訳〕《毛永喜に別れる》
   願わくは君よ 厳しく風諫の道に則り
   世の鑑(かがみ)と称(たた)えられ 帰任されんことを
   ああ 今や 老いさらばえて
   此の別れが 永遠(とわ)のものとなるであろう
   君が白馬に乗り 弔いに駆けつけても
   黄泉(よみ)にいる私が どうしてそれと知ろう
   たとえ 宝剣を腰からはずして
   墓前の枝に掛けても せんないこと
 
※毛喜〔生没年不詳〕、字は伯武(はくぶ)。永喜内史に任ぜられたので、「永喜」と呼ばれた。陳の重臣で宣帝〔在位568~581年〕に信任され、丹陽尹・史部尚書となったが、陳の後主に疎まれ、永喜内史に左遷された。『南史』の伝によれば、かれが永喜内史になったのは、至徳元〔583〕年で、徐陵の没年に当たるという。彼が詩に詠んだことが事実となったわけである。
 
※1行目の『風規=風諫の道』とは、それとなく諌めることである。説苑〔劉向《BC77~BC6年》作〕に「諫有五:一曰正諫、二曰降諫、三曰忠諫、四曰指諫、五曰諷諫」とあり、正諫とは真正面からの諫言、降諫はいったんリーダーの意見を受け入れた上で後から徐々にする諫言、忠諫は感情を隠さず真心を込めてする諫言、指諫は誰に憚ることなく愚直なまでにする諫言、諷諫は婉曲に諷刺する諫言であるとする。これら五種類の中で、中国人は古来「諷諫」を最上とする。それは真正面から強固に諫言すればリーダーのプライドを傷つけるだけでなく、自分の身を危うくするからである。
 
※2行目の『羽儀』については、『易経』漸の爻辞に
4f2a3344.jpeg 上九。鴻漸于陸[逵]。其羽可用為儀。吉。上九。鴻の逵に漸む。其の羽用って儀と為すべし。吉。》
象曰、其羽可用為儀、吉、不可亂也。《象曰、其の羽用って儀と為すべしの吉は、乱るべからざるなり。》
と見える。鴻は天空に去って帰らずとも、その落とした羽は儀式の飾りにすることが出来るとの意。ここでは「永喜で治績をあげ、それが後の模範となる意」に用いている。
 
※5行目の「白馬君來哭」は、『後漢書』列伝71「独行伝」にある范式の『張劭が死に、葬列が墓穴の所まで来るが、棺を吊り降ろそうとしても動かない。母が棺を撫で「何か心残りがあるのか」と問い、そのまま待つ。やがて夢で親友の死を知った范式(=巨卿)が駆けつけ、彼が棺の引き綱を取ると、棺は動き出す』。という故事によるという。〔後漢書の范式については、後日調べてみるつもり〕
 
※最後の2行「徒労脱宝剣 空掛隴頭枝」は次の故事によるものという。
史記 呉太伯世家 第一 より
 季札之初使、北過徐君。徐君好季札劍、口弗敢言。季札心知之、為使上國、未獻。還至徐、徐君已死、於是乃解其寶劍、系之徐君冢樹而去。從者曰:「徐君已死、尚誰予乎?」季子曰:「不然。始吾心已許之、豈以死倍吾心哉!」
22cb6294.jpeg〔訳〕季札が諸国歴訪の途についたとき、まず呉の北方徐〔江蘇省〕を通過した。徐の君主は、季札が帯びていた剣を欲しがったが、口には出さなかった。季札も、徐君の希望に気がついていた。しかし、諸国を訪問する儀礼として、剣を帯びていなければならなかったので、献上しなかった。やがて歴訪を終えて、帰途また徐についたとき、徐君はすでに死んでいた。そこでのその宝剣をといて、徐君の墓側の樹にかけて去った。従者が問うた。
「徐の君主はすでに死んでしまわれました。それですのに、ああして、誰に与えようというのですか」
「いや、そうではない。はじめに、徐君がわが剣を望まれたとき、わしは差し上げようと心に誓ったのだ。いま徐君が亡くなられたからといって、わが心の誓いにそむくわけにはいかないのだ」
  一昨日の夕刻、我孫子市在住のIKUO氏より電話が入り、「メールを入れておいたのですが、明日午後1時過ぎに母と淺草をデートするので、立ち寄ってもよいですか?」ということ。勿論OK返事をしたが、メールを開くと、
「日高先生/お久し振りです。/明日、5月13日(日)の午後一時半頃にお伺いしても良いかお教え下さい。/久し振りに母と浅草をデートする予定です。/来月には、窪田の兄弟で母を喜寿の旅行(日光)に連れ行く予定に成っていますが、ご存知の通り、足並みが揃わず、YOSHIEが苦労をしているようです。/時間がなく申し訳ありませんが、本日中にお教え下さい。/もし時間の都合がつけば、母とお伺いさせて頂きます。/宜しくお願い致します。 I・K」とあった。
 おそらく母の日のプレゼントに淺草でご馳走でもするのだろう。
 昨日、午後1時過ぎ、IKUO氏が現れたが、母上の姿が見えない。遠慮して外で待っているとのこと、すぐに呼びにいってもらうことにする。家の婆様も交えて、4人で暫し歓談。聞くところに拠れば母上は週に3回の透析を行われているとのこと。1回の透析に4時間かかるということだ。
 でも、日頃の生活には差し障りないのだろうか、お見かけする所、お元気のようであった。
19821ff0.jpeg 今朝ほど写真貼付してメールしておいた。「昨日はお母上と郁夫君にご来訪戴き、お土産まで頂きありがとうございます。/いろいろと話をうかがわせて頂き大変楽しかったです。又、ついでの時にはいつでもお立ち寄り下さい。/来週の土・日は三社祭で淺草は賑わうことでしょう。/写真を貼付送信いたします。/まずは、お礼旁写真貼付まで/日高 節夫」
 
 昨夜、マイチの奥様より携帯にメールが入った。曰く、「日高先生/ご無沙汰しております。/昨日無事に納骨すみました。/その際、墓守の方に『昨日、どなたかがお墓を訪ねて来られましたよ。』と言われました。先生だったんですね。/先生のブログ拝見しました。/写真まで載せて頂きまして、ありがとうございます。/三社祭に間に合って良かったです。/お時間があったら是非お立ち寄り下さい。/前野」
 早速返信しておいた。「来週の土日は三社様のお祭り、あの場所ならYUJI君もゆっくり祭りを楽しむことが出来ますね。なにかの時にはお参りさせていただきます。わざわざのメールありがとうございました。日高」

 この五月にタイに出向したSEKIチャンから僕の携帯へメールが入った。曰く、「 日高先生/会社のPCからで失礼いたします。/ご連絡が遅くなりましたが、無事にタイに着任できました。/さすがにバンコクの熱気はすさまじいものがあり、毎日が驚きの連続ですが、なんとかやっております。/是非、一度、遊びに来てください。/連絡させていただきます。S」
 早速返信メールを出した。「メールありがとう。/無事に着任よかったですね。/今週末は三社祭です。参加出来なくて残念ですね。/このメールは私用であっても使ってよいものなのでしょうかね。/好いのなら、PCでのメールが遣り取りできて、便利なのですがね。写真など貼付送信も出来るしね。/これからは、メールは下記のアドレス宛にPCで送ってくださるとよいでしょう。時にはタイの珍しい写真などもね。/先ずは、メールのお礼まで/日高」
 
 東坡志林 稗海本巻二 記徐陵語
 徐陵多忘、每不識人、人以此咎之。曰:“公自難記、若曹劉沈謝輩、暗中摸索、亦合認得。”誠哉是言。
〔訳〕《徐陵(じょりょう)》徐陵は忘れっぽい人で、人の顔をおぼえていないのが毎々だった。人がこのことで彼を咎めると、彼は言った。
「君の顔をおぼえろといわれたって、無理な注文というもの。これがもし曹(そう)・劉(りゅう)とか沈(しん)・謝(しゃ)といった人々の顔だったら、暗闇で手探りしたって、すぐに見分けがつくんだろうがね」
 全く、そのとおりである。
 
35cb4343.jpeg※徐陵(507~583年): 南朝梁、陳の文人貴族。字は孝穆(こうぼく)。梁代から文名がたかく、548年には梁朝の使節として東魏を訪問したが、江南に侯景の乱が勃発し、555年の帰国まで辛酸をなめた。陳代に尚書僕射に栄進。梁の簡文帝の皇太子時代、その東宮に父の徐摛(じょち)、および庾肩吾・庾信父子とともに奉職したころの軽艶の詩文は、〈宮体〉(宮体詩)とか〈徐廋体〉とかよばれて世にむかえられた。
 
※曹=曹植(そう しょく、または、そう ち、192~232年)は、中国後漢末から三国時代の人物で、魏の皇族。字は子建。陳王に封じられ、諡は思であったことから陳思王とも呼ばれる。唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた人物でもある。曹操の正嫡の三男。
 劉=劉楨(りゅう てい、?~217年)は、中国、後漢末に曹操に仕えた文学者。字は公幹。建安七子の一人。東平寧陽(現山東省)の人。後漢の宗室の子孫。
 沈=沈約(しん やく、441~513年)は、中国南朝を代表する文学者、政治家。呉興武康(現在の浙江省武康県)の人。字は休文。
 謝=謝眺(しゃ ちょう、464~499年)は中国南北朝時代、南斉の詩人。字は玄暉(げんき)。陳郡陽夏(現河南省)の人。同族の謝霊運(385~433年)・謝恵連(394~433年)とともに、六朝時代の山水詩人として名高く、あわせて「三謝」と称される。
  本日は爺婆の53回目の結婚記念日。当時お世話になった人々はほとんど逝ってしまった。仲人であったS先生ご夫妻は言うまでもなく、戦中戦後私を女手で育ててくれた母、結婚後ずっとお世話に成りっ放(ぱ)なしであった婆様のご両親…… 我々二人を祝福して式に参加してくれたほとんどの人々がいまは鬼籍に名を連ねる。やがて、我々もまたこの人たちの後を追うことになるのだろう。
 
 今日はまた、今年2月2日に亡くなったYM君の「百か日」に当たる。百か日は「卒哭忌(そつこくき)」ともいわれ、故人が亡くなった悲しみに区切りをつける日で、故人への悲しみのために泣き暮らしていたのを泣きやむ日を意味するらしいが、百か日、一周忌、三回忌は中国で行われていたしきたりであると聞く。
d301cbe6.jpeg 朝食後、花川戸公園を通り、二天門を潜って、浅草寺境内へ。午前10時前というのに、修学旅行の中学生・高校生で混み合っている。仲見世の裏道を通って雷門へ。雷門通りを西進して西浅草の清光寺に行ってみる。墓守の小父さんに、前野家の墓を訊ねていると、事務受付から女子の係員が出てきて、丁寧に案内してくださった。明日の土曜日に納骨の法要が行われるとのことであった。

23304dfe.jpeg 清光寺の山門正面に長谷川一夫の碑と岡崎屋勘六墓がある。それぞれの説明板を呼んだが、長谷川一夫の碑には略歴が書いてあるだけで、この碑が清光寺にある謂れについては触れていなかった。

10e38b29.jpeg
3bec028b.jpeg 岡崎屋勘六は歌舞伎の看板、番付に使われる書体を考案した人らしい。説明板に曰く、
『岡崎屋勘六』 いわゆる歌舞伎文字である勘亭流の祖。勘六は、号を勘亭と称し、延享三(1746)年江戸に生まれる。堺町(現中央区日本橋)に住み、後家流の書を指南して能書家として知られる。勘亭流の生まれるもとは、同町中村座の依頼で安永八(1779)年春の狂言の大名題を書いたことに始まるといわれている。以来、中村座の看板を書き続け、その独特の書風は鳥居派の芝居絵とともに世に流行した。天明年中(1781~88年)からは勘亭流といえる一家の書法として公表。文化二(1805)年59歳で没するまで、もっぱら劇場のための看板や番付の執筆を業とした。墓石裏面に

 と、勘亭流文字で刻まれている。
 
 スカイツリーブームで、隅田川周辺にはアート環境プロジェクト(アート作品、アートベンチ)と称して、我々凡人にはよく理解の出来ないへんちくりんな作品が建てられている。本日通った花川戸公園にも、「石の舟」と称する得体の知れない石が置かれていた。説明板に曰く、
c7865338.jpeg「石の舟」 【作品解説】 以前、台東区内にあった旧福井中学校の校舎の敷石を再利用し、作品の基盤として残した。そして、その上に大きな自然の玉石を設置した。この石は、共に茨城県産花崗岩である。玉石には隣接する浅草小学校の子供たちと藝大生が協力してつくったブロンズの人や動物の頭部(顔)が110個以上埋めこまれている。
この彫刻のテーマである過去・現在・未来の時間を、これまで台東区(浅草橋)の公共施設の一部であった敷石を記憶の積層と捉え、大きな玉石を地球とみたて、皆でつくった人間や動物のブロンズが地球上に生きる多くの生き物の現在を表している。そして「石の舟」が東京スカイツリーを眺め見つめることで未来を想い、時を漂う。本プロジェクトに関わった誰もが、周囲の環境(花川戸公園)と呼応し、これから長く愛され、しっかりと地域に根付く彫刻であることを望む。
【設置場所】 花川戸公園南(台東区)
 
挽歌詩(其一)  晋 陶淵明
有生必有死 生有れば必ず死有り
早終非命促 早く終うるも命の促さるるにはあらず
昨暮同爲人 昨暮は同じく人たりしに
今旦在鬼録 今旦は鬼録に在り
魂氣散何之 魂氣は散じて何くにか之く
枯形寄空木 枯形を空木に寄す
嬌兒索父啼 嬌兒は父を索めて啼き
良友撫我哭 良友は我を撫して哭く
得失不復知 得失 復た知らず
是非安能覺 是非 安んぞ能く覚らんや
千秋萬歳後 千秋万歳の後
誰知榮與辱 誰か栄と辱とを知らんや
但恨在世時 但だ恨む 在世の時
飮酒不得足 酒を飮むこと 足るを得ざりしを
789d50fa.jpeg〔訳〕命ある者は必ず死ぬ。
   若くして死んだからとて
       寿命が縮まったわけではないのだ。
   昨日の暮れは皆と同じく生きていたのに、
   今日の朝は死者の名簿に名を連ねている。
   魂は体から離れてどこへ行ったのだろう。
   亡骸だけが棺おけの中に横たわっている。
   まだ幼い息子が父を求めて泣き、
   親しい友が亡骸を撫でて号泣している。
   死者にはもう物事の得失はわからない。
   まして何が良くてなにが悪いかなど、わからない。
   千年万年の後はこの世の栄誉や恥辱などどうでもいいことだ。
   ただ惜しいのは生きていた時、十分に酒を飲まなかったこと
 
 今朝のウェブニュースより
2f4c8d52.jpeg 小沢“控訴”で大ダメージ! 再び被告で復権戦略を大幅転換か ―― 資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐり、政治資金規正法違反(虚偽記載)罪で強制起訴された民主党の小沢一郎元代表(69)を無罪とした東京地裁判決について、検察官役の指定弁護士3人は9日、控訴の可否を協議し、無罪を不服として控訴する方針を決定した。小沢氏の無罪は確定せず、再び刑事裁判を抱える「被告」となる。剛腕政治家の「完全復権」は先送りとなり、今後の政治活動も大幅に制約されそうだ。
 「特段、高揚や緊張はない。よく話し合って結論を出したい」
 指定弁護士のまとめ役、大室俊三弁護士(62)は9日午前9時半ごろ、東京都内の個人事務所に立ち寄った際、待ち受けた報道陣に話した。大室弁護士は今月2日、「心証としては『黒』(有罪)だと思うからこそ控訴したい」と話していたが、その思いを通したことになる。
 先月26日の東京地裁判決は、元秘書らによる虚偽記載を認定し、小沢氏の「事件後も収支報告書など見たこともない」という証言も、「およそ信用できない」と断定。小沢氏と元秘書の間に政治資金収支報告書の記載をめぐる「報告・了承」があったことまで認めた。/ところが、なぜか「元秘書との共謀」までは認めず、禁錮3年の求刑に対して「無罪」を言い渡した。/小沢氏や周辺議員らは大喜びしたが、「限りなく黒に近い灰色」(東京都の石原慎太郎知事)、「政界の霧はさらに深くなった」(自民党の小泉進次郎衆院議員)といった論評や感想が続出した。
 通常の刑事裁判では、検察が判決に不服がある場合、上級庁(高検、最高検)と協議して控訴や上告を決定する。今回の裁判は、一般人による検察審査会での二度の起訴議決を受けて指定弁護士が強制起訴したため、指定弁護士3人で控訴を判断した。
 運命の日、小沢氏は午前7時半前、黒っぽいスーツに白いマスク姿で東京都世田谷区の自宅をワゴン車で出発。知り合いを見つけたのか窓を開け、手を振る姿も。文京区の日本医大病院で診察を受け、出てきた際はマスクを外しており、その表情は硬かった。
 今回の控訴は、小沢氏にとってダメージが極めて大きい。
 1審無罪を受け、小沢氏は「党員資格停止」処分を解除し、完全復権に動き出す戦略を描いていた。野田佳彦首相が「不退転の決意」で進める消費税増税路線を、小沢氏は「国民への背信行為」と批判してきたが、党内最大勢力を率いる立場を生かし、さらに圧力を強めるとみられていた。
 ところが、再び「被告」となり、刑事裁判を抱えることで、復権戦略は大きく方針転換されそうだ。
 政治評論家の浅川博忠氏は「これで、小沢氏自身が9月の民主党代表選に出馬することは不可能になった。党の役職復帰も無理だろう。小沢グループでも『もう付いていけない』という議員が出てくる。党内各派の草刈り場となり、小沢グループは半減するのでは。小沢氏の政治力・影響力は激減する。一方、野田首相は一体改革成立に強気になり、小沢氏やグループ議員の党議拘束違反に厳しく対処するはず。離党→新党結成しても、大阪市の橋下徹市長は小沢新党とは組まないだろう」と語っている。  〔zakzak 2012.05.09〕
 
25f4fefa.jpeg 小沢裁判「国民騙したメディアは猛省すべき」と鳥越俊太郎氏 ―― それは、小沢一郎氏の“陸山会裁判”でも繰り返された。なぜ、新聞・テレビは捜査や裁判の冤罪構造に斬り込もうとしないのか。/ジャーナリスト・鳥越俊太郎氏は、「それは陸山会事件そのものがメディアによってつくりあげられた事件だったからだ」と指摘する。
 すべてのスタートは政権交代前の2009年の「西松建設事件」だった。/検察は建設業者がダム建設の受注を有利にしようと小沢氏の事務所にお金を持っていったという古典的な贈収賄シナリオを描き、新聞にバンバンとリークしたことが発端だった。新聞はそれを検証せずに垂れ流すように書いていった。/新聞が建設会社から小沢氏にカネが渡ったのが事実のような書き方をして、それを追いかけるように特捜部の捜査が進んでいく。情報の出元は同じだから各紙横並びの記事になり、国民には、『どの新聞も書いているから小沢氏は何か悪いことをしている』という印象が植え付けられる。その繰り返しを何年も続けたので、“小沢一郎は巨悪”というイメージがつくられてしまった」(鳥越氏)
 判決後にもテレビは街頭インタビューで、「無罪? おかしいんじゃないか」と答える国民の声を放映した。メディアが国民に「小沢は巨悪」のイメージを植え付け、無罪判決が出ると今度は国民に「おかしい」といわせていかにも国民が判決に納得していないように報じる。これこそ戦前のメディアが得意としていた危険な世論操作である。こんなかつて取った杵柄はしまっておくほうがよい。/鳥越氏が続ける。
「総選挙前の西松事件は政権交代を阻止する、政権交代後の陸山会事件は小沢氏を政治の中枢からできるだけ遠ざけるという特捜部の考える“正義”のための捜査だった。それにメディアが完全に乗って世論はつくられた。国民はメディアに騙されてきたのであり、メディアは猛省しなければならない」
 毎日新聞記者から『サンデー毎日』編集長、テレビ朝日『スーパーモーニング』のコメンテーターを歴任し、新聞・テレビの報道第一線に立ってきた鳥越氏の発言だけに迫真性と説得力がある。(週刊ポスト2012年5月18日号)
  5月といえば、祭りの月。東京では、来週辺りから6月にかけて、土・日といえば東京の下町のどこかでは祭礼が行われている。
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400a4bcf.jpeg 徳川家康は江戸に幕府を開くに当たり、現在の大手町にあった平将門をまつる神田明神を、江戸城の鬼門に当たる北東の方角の湯島に移転し、江戸の総鎮守(守り神)に認定。神社だけでは鬼門の守りが不安なので、江戸城湯島の延長線上に寛永寺も建立。さらに、裏鬼門の南西の方角の溜池山王に日枝神社を設置、その延長線上に増上寺を作ったという。そのため、神田と山王の二つの神社の祭りは、神輿や山車が城内まで入ることが許され、天下祭りと呼ばれて規模が拡大。拡大のあまり、毎年開催すると金がかかり過ぎるようになり、交互の隔年開催と決められたそうだ。その慣習は今もつづいており、どちらの神社も、祭礼の基本となる宗教行事は毎年行うものの、神輿の出る本祭りは、2年に一度。神輿の出ない年は陰祭りと呼ばれ、今年は山王が本祭りで、神田が陰祭りになっている(祭りは地元の寄付金によって成立しており、毎年やると地元の負担が大きすぎるため、観光資源化している三社祭を除けば、下町の大きな祭りはたいてい隔年開催となっている)。
 この二つが江戸の二大祭りであることには誰も文句のつけようがない事実なのであるが、日本人は元来が『三大云々』お好き。じゃあ、江戸三大祭りを選ぶってことになると、あとの一つは何かという問題になる。「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様。」と、狂歌に歌われたこともあって、江戸三大祭は「日枝神社山王祭・神田明神神田祭り・富岡八幡宮深川八幡祭り」とする向きもあるが、ここは地元びいきで、訊ねた人、答える人によってそれぞれ見解が異なってくる。
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201b2367.jpeg この問題に昔から名乗りを挙げているのが、浅草の三社祭りと深川富岡八幡宮の深川祭りであるという。神田・山王の祭りが武士の祭りとすれば、こちらは町人の祭り。喧嘩っ速い江戸の町人気質を反映してか、浅草と深川はことごとく対立しており、例えば、5月に行われる三社祭りでは、下に履く股引きは足首までの長いものが粋とされているのに対し、8月に行われる深川祭りでは、神輿の担ぎ手に水をかけまくるので、ボトムは膝までの短い半股引でなければならない。かけ声も、浅草が「そいや、そいや」なのに対し、深川は頑なに「わっしょい、わっしょい」。みこしの担ぎ方も、三社祭りは、別名喧嘩みこしと呼ばれるほど荒々しく、激しく上下動させるのに対し、深川祭りは、木場で材木を運ぶ要領で腰を使い上下動を抑えるのがよいとされています。深川では、上下動の激しい担ぎ方は浅草担ぎと呼ばれ、これをやっているとみこしの下からつまみ出されてしまうという始末だという。
 まあ、こんな対立などせずに、武家の祭りから2つ、町家の祭りから2つ仲良く取って、江戸四大祭りとは、いかないものだろうか。
 
東坡志林 巻四 劉凝之沈麟士
 南史:劉凝之為人認所著履、即與之、此人後得所失履、送還、不肯復取。又沈麟士亦為鄰人認所著履、麟士笑曰:「是卿履耶?」即與之。鄰人得所失履、送還、麟士曰:「非卿履耶?」笑而受之。此雖小事、然處事當如麟士、不當如凝之也。
759a5cea.jpeg〔訳〕《劉凝之(りゅうぎょうし)と沈士麟(しんしりん)》『南史』によると、劉凝之ははいていた履(くつ)を人から自分のだといわれて、すぐ脱いで与えた。そのあとその男が、
「失くした履が見つかりました」
といって送り返すと、彼はどうしても受け取ろうとはしなかったという。また、沈士麟も、隣人からはいていた履を自分のだといわれて、笑いながら
「あなたの履だったのですか」
といってすぐ与えた。そのあと隣人がなくした履が見つかったからといっと送り返すと、士麟は
「貴方の履ではなかったのですか」
といって、笑って受け取ったという。
 これは小さなことだが、世に処するには士麟のようであるべきで、凝之のようにあってはならぬとおもうのである。
 
※『南史』:唐の李延寿〔生没年不詳、唐の歴史家〕撰、南朝の宋・斉・梁・陳四代のことを記した史書。
 
  昨日西宮のYK氏〔鳴尾のuさん〕より、久し振りに絵葉書が届いた。随分長い間便りがなかったので心配していた。一昨日も横浜のIN氏から電話があったので、消息を尋ねてみたが、あまりはっきりしたことは判らなかった。
e03206a8.jpeg どうやら西宮市の大谷美術館で開かれているグェッリーノ・トラモンティ展に出かけてらしい。絵はがきの絵は、グェッリーノ・トラモンティ「水瓶」1961年 とあった。
「G.Wもあと1日となったが君はいかがおすごしですか。サンデー毎日の私にとって特に変わったこともなく、小磯美術館・大谷美術館へ行って来ました。関東は雨が多いようですね。東京スカイツリーも5/26にオープンで浅草も賑やかになるでしょう。機会があれば一度行ってみたいものです。東京タワーはいったことがあります。お体に気をつけてこの5月を元気でお過し下さい。
  安かろう 危険だろうと 家で寝る(川柳) 草々」 という文面あった。
 最後の川柳はまるでこの瘋癲爺のG.W. を言っているようだ。
 
2e56b943.jpegGuerrino Ttamonti (1915-1992)
ファエンツァ生まれ。1930年代に彫刻のコンクールで受賞を重ねる。その後、ヴェネチアやローマで画家や文学者たちと交流し、絵画も手がけるようになる。'40年代末からは陶芸制作を再開させ、'52年と'55年にファエンツァ市主催の全国陶芸コンクールでグランプリに輝く。'53年からはカステッリの美術学校で、'59年からはフォッリの芸術院で教鞭を執る。'60年代に高火度による結晶釉を駆使した〈二重構造のフォルム〉シリーズを展開。さらに'60年代の終わり頃からは、ガラス釉を厚く施した色彩豊かな絵画的表現の作風へと転換し、それと並行して絵画の制作活動を盛んにおこなう。
 
 今朝ほど、宝塚にいるKS氏から、電話があり、彼もYK氏と時たま電話で連絡を取り合っているらしい。
 
東坡志林 巻三 論貧士
 俗傳書生入官庫、見錢不識。或怪而問之、生曰:“固知其為錢、但怪其不在紙裹中耳。”予偶讀淵明歸去來詞雲:“幼稚盈室、瓶無儲粟。”乃知俗傳信而有徵。使瓶有儲粟、亦甚微矣、此翁平生只於瓶中見粟也耶? 馬後紀:夫人見大練以為異物;晉惠帝問飢民何不食肉糜、細思之皆一理也、聊為好事者一笑。永叔常言:“孟郊詩:‘鬢邊雖有絲、不堪織寒衣’、縱使堪織、能得多少?”
〔訳〕《貧書生と銭》俗伝によると、ある書生が官庫に入って、銭を見たが、それが何だか呑み込めぬ様子。ある人が不審に思って聞くと、書生は
「むろん銭であることは知っていますよ。ただそれが財布の中にないのを不思議に思っただけです」
と答えたという。私はたまたま陶淵明の「帰去来の辞」に
bb0576d4.jpeg「幼稚は室に盈(み)ち、瓶(かめ)に儲粟(ちょぞく)無し」
とあるのを読み、はじめて俗語の信にしてにして徴あるを知った。仮に瓶に儲粟があったにしても、ほんのちょっぴりだったに相違なく、淵明翁はふだん瓶の中にしか粟(穀物)を見なかったのではあるまいか。「馬后記」(『後漢書』)によると、この皇后は大練をよほど珍しいものだと思っておられた。晋の恵帝は飢餓に苦しんでいる民にむかって
「なぜ肉入りの粥をくわぬのか」
といった。それらのことを細かに考えてみると、みな同じ道理である。いささか好事家の一笑にきょうしたい。
欧陽得永淑(欧楊修)がよくいっておられた。
「孟郊〔751~814年、唐の詩人〕の詩に
  『鬢辺に絲(しらが)有りと雖も、寒衣を識るに堪えず』
とあるが、たとえ識ることができたとしても、いくらもえられるものではあるまい」と。
  今朝のウェブニュースより
59c65ab2.jpeg 10万の“ホタル”川面に スカイツリーと光の競演 ―― 発光ダイオード(LED)の電球約10万個をホタルに見立て、東京の隅田川に流すイベント「東京ホタル」が6日夜、あった。川べりでは開業間近の東京スカイツリーも同時にライトアップ。光の競演に、多くの人がカメラを手に見入った。/太陽光パネルで蓄電したLEDを入れた直径8.5センチの電球を1個千円で買った人々が、隅田川にかかる言問橋付近から川面へ投げ入れた。東京都内の会社員山崎守さん(44)は「スカイツリーの青色とマッチしていて、きれい。昔田舎で見たホタルの乱舞のよう」と話した。/「川との共生」をテーマに墨田区や台東区、東京芸大などでつくる実行委員会が主催。投げ込まれた電球は川下にネットを張って回収した。 (産経ニュース 2012.5.6 20:40)
 
東坡志林 巻三 記與歐公語
 歐陽文忠公嘗言:有患疾者、醫問其得疾之由、曰、“乘船遇風、驚而得之。”醫取多年柂牙為柂工手汗所漬處、刮末雜丹砂茯神之流、飲之而愈。今本草註別藥性論雲、“止汗、用麻黃根節及故竹扇為末服之。”文忠因言:“醫以意用藥多此比、初似兒戲、然或有驗、殆未易致詰也。”予因謂公:“以筆墨燒灰飲學者、當治昬惰耶? 推此而廣之、則飲伯夷之盥水、可以療貪;食比幹之餕餘、可以已佞;舐樊噲之盾、可以治怯;齅西子之珥、可以療惡疾矣。”公遂大笑。元祐六年閏八月十七日、舟行入潁州界、坐念二十年前見文忠公於此、偶記一時談笑之語、聊復識之。
〔訳〕《欧公と語った言葉》欧陽文忠がかつてこう言われた。
「病気にかかった人があった。医者からどうして病気にかかったのかと聞かれ、船に乗っているとき風に遇い、驚いたのが元ですと答えると、医者は長年使った梶(かじ)の、船頭の手の汗の浸み込んだ部分を削り取って粉末にし、それに丹砂や茯苓(ぶくりょう)などをまぜて飲ませたら、たちまち全快したそうだ。現に『本草』の注にも『別薬性論』を引いて、汗を止めるには麻黄の根節と古い竹の扇を粉末にして服用すればよいとある」
 文忠公はさらに
「大体このように医は意を以って薬を用いることが多い。一見これはいささか児戯に類するようではあるが、案外効験のあることもあり、まんざら馬鹿にしたようなものではなさそうだ。
 そこで私は公に言った。
「では筆墨を焼いた灰を学徒に飲ませると、頭がよくなり、怠け癖がなおりましょうか。さらにこれを推し進めれば、伯夷の手を洗った後の水を飲めば貪欲が癒せるし、比干の食べ残し食えば侫奸〔ねいかん、道徳的、もしくは精神的な価値のないこと〕がやめられるし、樊噲(はんかい)の盾和をねぶれば卑怯が直せるし、西施(せいし)の耳玉を嗅げば醜い顔が美しくなれるというわけでしょうか」
 そういうと公はとうとう大笑いされた。元祐六(1090)年閏八月十七日、舟ようやく頴州に入った。ふと二十年前、文忠公にここでお目にかかったことを思い出し、偶々一時談笑の語を思い出し、いささかここに記しておく。
 
cefd479c.jpeg※丹砂や茯苓:丹砂は辰砂(しんしゃ、cinnabar)ともいい、硫化水銀(HgS)からなる鉱物である。茯苓とは、サルノコシカケ科マツホドの菌核のことを言う。漢方の生薬として用いられる。




2b085b79.jpeg※本草:『神農本草経』といい、神農氏の後人の作とされるが、実際の撰者は不詳である。365種の薬物を上品・中品・下品の三品に分類して記述している。上品は無毒で長期服用が可能な養命薬、中品は毒にもなり得る養性薬、下品は毒が強く長期服用が不可能な治病薬としている。

※伯夷:周の粟をはことを潔しとせず、首陽山に薇(わらび)を采って食い、餓死した人。孟子は「聖の清なるものなり」といっている。

孟子 万章(下) より
 孟子曰:「伯夷、聖之清者也;伊尹、聖之任者也;柳下惠、聖之和者也;孔子、聖之時者也。孔子之謂集大成。集大成也者、金聲而玉振之也。金聲也者、始條理也;玉振之也者、終條理也。始條理者、智之事也;終條理者、聖之事也。智、譬則巧也;聖、譬則力也。由射於百步之外也、其至、爾力也;其中、非爾力也。」
(書き下し文)孟子曰く、伯夷は聖の清なる者なり。伊尹は聖の任なる者なり。柳下恵は聖の和なる者なり。孔子は聖の時なる者なり。孔子はこれを集めて大成すと謂う。集めて大成すとは、金声(きんせい)して玉振(ぎょくしん)することなり。金声すとは条理を始めるなり。玉振すとは条理を終うるなり。条理を始めるは智の事なり。条理を終うるは聖の事なり。智は譬えば則ち巧なり。聖は譬えば則ち力なり。由(なお)、百歩の外に射るがごとし。その至るは爾の力なり。その中たる(あたる)は爾の力に非ざるなり。
〔訳〕孟子はおっしゃった。「伯夷は、聖人の中で清潔(潔癖)なタイプである。伊尹は、聖人の中で責任感の強いタイプである。柳下恵は、聖人の中で調和を重んじるタイプである。孔子は、聖人の中でも時代(歴史)を越えた最高の聖人である。孔子は、それらの聖人の特徴を集めて総合したような人物である。集めて総合するというのは、音楽を演奏する際に、まず金属の打楽器を鳴らし、最後に玉の打楽器を振るわせて鳴らすようなものだ。金属の打楽器を鳴らすのは、音楽の秩序を始めることである。玉の打楽器を振るわせるのは、音楽の秩序を終結させることである。音楽の秩序を始めるのは知性の仕事であり、音楽の秩序を終結させるのは聖の仕事である。知性(智恵)は譬えて言えば、技巧のようなものである。聖は譬えて言えば力のようなものである。百歩以上の距離で射撃をするとすると、的まで届くのはあなたの力であり、的に命中するのはあなたの力ではない(技巧のお陰である。)」
 
※比干・樊噲・西施:比干は淫乱な殷の紂王を諌めて殺された忠臣。樊噲〔はんかい、?~BC189年〕は漢の高祖の武将、鴻門の会で、高祖が項羽に刺されようとするのをすくおうと、とめる衛兵を盾で突き倒して中に入った。西施は、古代越の美人。
※頴州(えいしゅう):今の安徽省阜陽県。蘇軾は元祐六(1019)年に竜図閣学士から地方に出されて頴州の知事になった。その二十年前といえば、欧陽脩が退官して、頴州に隠遁した時である。
 
8f68bc59.jpeg  朝桜橋から吾妻橋を渡り向島遊歩道から言問橋を渡って帰宅。昨日・今日と言問橋-吾妻橋間で何でも「東京ホタル」というイベントが行われているらしく、隅田公園が騒がしい。今朝の歩行は携帯によると6445歩を記録していた。足が悪いということで、昨日は福岡の甥から、今朝は水門会のN氏から見舞いの電話が入った。

 今日のウェブニュースから、
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3c1d4d8e.jpeg 光で彩る隅田川 ―― 隅田川を五感で楽しむイベント「東京ホタル」が5日、隅田川を挟んだ台東、墨田両区で開かれた。/こいのぼりなどを掲げたこども船の水上パレードに続き、芸術家日比野克彦氏監修の「ひかりの神輿(みこし)」が登場。東京芸大の学生と地元の子どもたちに担がれ、陸上と水上をパレードした。このほか、「川のこどものくに」と題した紙芝居を発表した。/祭りは6日も開かれ、東京スカイツリーを点灯するほか、約10万個の太陽光蓄電の発光ダイオード「いのり星」を午後6時半から隅田川に流す。 (東京新聞 2012年5月6日)

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e5e2c9dd.jpeg 夕飯後、「東京ホタル」とは如何なるものやと、言問橋に出て、隅田公園を一巡して帰宅した。言問橋上は人波でとても川面を見ることも出来ない。それでも人波をかいくぐって、東京ホタルらしき写真を撮った。7時半スカイツリーがライトアップされたが、とても写真には撮れない。帰宅して、三階の部屋からライトアップされた写真を撮ったが、夜の撮影は難しく、ピンボケになってしまった。本日は旧暦3月16日スカイツリーの左下に十六夜の月が写っていた。
 
00c936ad.jpeg  10日程も前になるか、朝の徘徊で言問橋を東から西に向けて渡っていると、橋の中央より少し淺草よりの所で、歩道と車道の境の手摺から車道を覗き込みながら、呼び止めるご婦人がいた。近寄ってみると、手摺の真下に浅草と本所の境界を示す標識がある。戦時中の東京大空襲時の話などして、問われるままに元聖天町で塾を開いていたと答えると、「あゝ、先生ですか」ということで、そのご婦人が元塾生のTakaeさんTomomiさんの母上であることが判った。それから続けさまに3・4日間毎朝言問橋の上ですれ違うようになった。1度などは「Tomomiの北海道のお土産ですから」と昆布の詰め合わせまで頂いてしまった。
fc592ec4.jpeg 話によると現在は長野県の大町にすんでいて、もう25年間もスキーのinstructorをしているとのことである。当時の臨海学校は前期・後期とわかれ、小学4年からの参加できた。当時高1であった姉のTakaeさんと一緒に最低学年の小学4年で参加した。
 水泳練習では空に浮かぶ雲が綿菓子に見え、東京に帰ったらいっぱい綿菓子を食べたいといって、頑張ったことを覚えている。昭和46〔1971〕年の夏〔7月〕であった。
 
 一昨日、夜9時ごろ携帯に塾友のMN君からメールが入った。一に曰く、「夜分すいません:突然すいません。聖天町にいたNIさんて覚えていますか? 臨海にも参加した事があるようですが誰と同級でしょうか? Koshiと職場が同じそうで話題に上がってます。M」続いて、二に曰く、「すいません!返信有難うございます。先日sekiちゃんがお届けしたTシャツの釣愛塾で送別会をしています。Koshiとkazukoとrieに先生の携帯連絡先を教えましたので近々連絡がいくと思います。M」
 一のメールに答えて曰く、「僕のブログへもコメントが入ったことがあります。一度会いたいね。日高」
d407d60b.jpeg NIさん〔写真の最右端〕は、昭和45〔1970〕年の前期〔7月〕に小学4年で臨海学校に参加した。色白の少女で、日焼けが心配だった。当時の文集に曰く、
「塾臨 い○○○ な○○ 塾臨へ行った。静岡県に行った。/はじめて海を見た時、素晴しいと思った。初めて泳いだ時はこわかった。けれども、だんだん慣れてきて、泳ぐのがおもしろくなった。午前中はたくさん泳ぐので、昼食がおいしかった。昼寝はなかなか寝つかれないので友だちとしゃべっていた。夜はキャンプファイヤーやフォークダンスをやって面白かった。床にはいると、泳ぎつかれているので、三分もたたにいうちらぐっすり眠ってしまう。/五日目ぐらいになると、ひぶくれができて、皮がむけるので、痛くて痛くて、おふろにもはいれない。そのうち、だんだんかゆくなってきた。/終わりに近づくにつれて、すいかわりや水上運動会などがあり楽しかった。すいかわりは柴野君がわった。水上運動会は白組が優勝した。わたしも白組だ。優勝チームはコカコーラ、二位はカルピス、三位は麦茶、四位はただの水で乾杯した。/コンパも面白かった。高校生たちは、こわい話をするので、こわくて、トイレにも行けなかった。/十日間がとてもみじかくかんじた。」
 以前、僕のブログに彼女のコメントが入り、家族で西伊豆を訪ねたということで、メールで長松寺〔臨海の宿舎〕の写真を送ってきたことがある。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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