瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
[258] [259] [260] [261] [262] [263] [264] [265] [266] [267] [268]
 今日から7月。2012年も早半分が過ぎた。日本の政治の先行きは未だに見えてこない。
 今朝のウェブニュースより 
 【社説】「闇将軍」小沢氏に日本再生のチャンス与えた消費増税 ――過去20年間にわたって消費増税を政治家に働きかけてきた日本の財務省がついに、思い通りの結果を手に入れた。6月26日に衆議院を通過した法案は、現行5%の消費税率を2014年4月に8%、2015年10月に10%にまで引き上げるというものだった。官僚たちは金融危機を防ぐために必要な措置だと言うが、経済に占める政府の割合が拡大されるのも事実である。これにより官僚はさらに大きな力を握ることになる。/この法案の可決によって得をしたのは財務省ぐらいだろう。6月6日付の朝日新聞の朝刊に掲載された世論調査の結果によると、回答者の56%は増税に反対していた。経済にとっても痛手となるはずだ。結果として、野田佳彦首相が率いる政権の余命はいくばくもなくなった。/野田首相が代表を務める民主党所属の衆議院議員のうち57人がこの法案に反対票を投じた。野党である自民党、公明党の協力で衆議院を通過した同法案だが、参議院での可決後、両党は衆院解散・総選挙に追い込むため内閣に不信任案を提出することを明言している。/これで優位に立ったのが、民主党内で造反を主導した小沢一郎氏である。その駆け引きのうまさから「闇将軍」として知られる同氏は民主党を離党し、新党を結成するとみられている。小沢氏への国民の支持は、4月に政治資金規正法違反事件で無罪となったこと、消費増税に長年反対してきたことなどが好感されて高まることもあり得る。/そうなれば日本にとっては朗報である。小沢氏は減税と官僚制度改革に的を絞った新党設立のために自民党からの離反者を取り込んだり、選挙戦術を駆使したりするかもしれない。経済政策をめぐる論争がついに公の場に移され、1980年代のバブル崩壊からずっと問題を先送りにしてきた一連のコンセンサス主義の短命政権とは違う選択肢が有権者に与えられるかもしれない。/これに似たことが起きるのではという期待感は、小沢氏の力で民主党が自民党に大勝し、政権交代が起きた2009年にもあった。しかし、初めて与党になった民主党の政治は、公的部門の組合の支持に頼っていることもあり、過去の保守的な党派政治に姿を変えてしまった。政治家が財務省の圧力に抗うのは容易ではない。というのも財務省には公共支出を各選挙区に振り分ける権限があり、これで政治家の再選を後押しすることも可能だからである。結局、消費増税をする前に行政機関を徹底的に見直し、無駄や不正を排除することを約束した民主党の選挙時のマニフェストが守られることはなかった。/財務省の支配から脱却するには、米国の保守系草の根運動「ティーパーティー(茶会)」のようなものが必要になろう。日本の保守的な政治制度では無理なことのようにも思えるが、勇気づけられるような兆候もある。たとえば、大阪市や名古屋市で勢力を誇っている地域政党は「大きな政府」に異議を唱え、自由主義市場原理経済派のみんなの党もまだ小規模ながら全国的な支持を集め始めている。/増税の開始が転換点になるかもしれない。1997年に消費税率が3%から5%に引き上げられた時のことを振り返ってみよう。経済はそれまでプラス成長を示していたが、翌四半期には前期比で2.9%、年率換算では11.2%も縮小し、1974年以来で最大の下げ幅となった。好調だった輸出の伸びがなければ、その縮小幅は14.7%にもなっていたという。消費の低迷はその後も続き、自動車の販売台数に至っては減少が32カ月間も続いた。/その影響が政治に現れるのにも長い時間はかからなかった。翌年、自民党は参議院の議席で過半数を失い、当時の橋本龍太郎首相は辞任に追い込まれた。景気がようやく回復したのは、小沢氏が当時代表を務めていた自由党が自民党との連立の条件として減税を要求してからのことだった。/小沢氏を説得力のある改革の先導者候補にしているのは、同氏の官僚制度に対する根深い不信感である。衆議院で民主党を過半数割れに追い込むには、小沢氏は少なくとも54人の民主党議員を引き連れて離党する必要がある。/「小沢チルドレン」と呼ばれる初当選議員にとって財務省に刃向うことは、大きなリスクとなる。そうした造反議員たちが慰めを見出せるとしたら、それは国民の間で広がっている無駄な政府支出や失敗に終わったケインズ主義的な景気刺激策に対する不信感だろう。既得権益という時限爆弾は早急に処理されるべきであり、景気回復は規制緩和によって実現されるべきである。さもないと日本はギリシャのような危機に直面することになるだろう。今の日本に欠かせないのは、こうした議論を始めることである。 (The Wall Street Journal. 2012年6月29日 15:57 JST)
 
0b893420.jpeg 昨日、西宮在住のYU氏より黒田清輝「木かげ、1898年」の絵葉書を頂いた。曰く、「その後お変わりなくお過しのことと存じます。地元のそうめん、揖保の糸を少しばかりお送りいたしますのでご笑味ください。7月上旬に着くと思います。/不順な天気が続きますが、どうぞご自愛の上お元気でご活躍ください。/まずはとり急ぎそうめんご送付おしらせまで 草々」
 
b1203d9d.jpeg
244db3b7.jpeg 黒田清輝(くろだ せいき、1866~1924年):「せいき」は画家名で、本名は「きよてる」。明治26(1893)年7月、27歳の洋画家黒田清輝は9年にわたるフランス留学を終えて帰国した。法律家を志して渡仏しながら、絵に興味を抱くようになり、文化の重要性や自らの資質の認識から画家へ志望を転向。外光派のサロン画家ラファエル・コランに師事し、アカデミックな絵画教育を受けて明治24年「読書」でサロンに入選。
  ここ2・3日は桜橋西詰を起点とし、テラスを北上 白鬚橋を渡り、向島遊歩道を南下、途中からテラスに降りてさらに南下、東武線橋梁の袂でテラスを上り、枕橋・吾妻橋を渡って、テラス沿いに桜橋まで北上するというコースで休み休み歩行。所要時間2時間、歩数大凡1万歩、距離7㎞強。
 
580f7bee.jpeg
6ed5923a.jpeg 宝塚在住のKS氏に写真を添えて携帯メールを出す。曰く、「朝日に映えるスカイツリー 今朝4時40分に剣客商売の舞台である橋場のテラスから撮ったスカイツリーです。/淺草の味を少しだけ味わって戴こうと心ばかりの品をお送り致しました。そのうちお手元に届くと存じます。ご笑納下さい。/このあとすぐに、昨日の日刊ゲンダイの記事をFAXでお送りします。 淺草の瘋癲爺より」
 
 東京夢華録は難読の文字や意味不明の言葉が多く四苦八苦している。今日は、また明日は7月というのに、季節はずれの記事とはなってしまった。
 
東京夢華録 卷六 正月
 正月一日年節、開封府放關撲三日。士庶自早互相慶賀、坊巷以食物、動使、果實、柴炭之類、歌叫關撲。如馬行、潘樓街、州東宋門外、州西梁門外踴路、州北封丘門外、及州南一帶、皆結綵棚、鋪陳冠梳、珠翠、頭面、衣著、花朵、領抹、靴鞋、玩好之類、間列舞場歌館、車馬交馳。向晚、貴家婦女縱賞關賭、入場觀看、入市店飲宴、慣習成風、不相笑{左音右牙}。至寒食、冬至三日亦如此。小民雖貧者、亦須新潔衣服、把酒相酬爾。

〔訳〕《正月》年の初めは「年始(新年の節会)」で、開封府では三日間関撲(かけ)を許可した。士庶は朝早くから互いに慶賀しあい、町々では食物・道具・果物・薪炭の類を賭博方式で売り、「関撲(かけ)」と節をつけて客を呼ぶのだった。馬行・潘楼街・州東の宋門外・州西の梁門外の踴路(ようろ)・州北の封丘門外および州南一帯〔当時、土地の者は東京城の四隅を州東・州西・州南・州北と呼んでいた〕にはみな色絹で飾った屋台が作られ、冠や櫛・珍珠翠玉・頭飾り・衣類・花・領抹・靴鞋(はきもの)・玩好(おもちゃ)のたぐいが並び、その間には踊りや歌の小屋も立ち、車馬が間を縫ってはしるのだった。夜になると貴家の婦女も自由に関撲(かけ)を見て歩き、小屋に入って見物したり、市の店に入って飲み食いしたりしたが、慣習となっているので笑いそしる者はなかった。「寒食」と「冬至」の三日間も同様であった。下ざまの者も、たとえ貧乏煮んでも、新しいさっぱりとした衣服を着て酒をくみかわした。

※関撲:宋代には賭博方式で商売をする小商人があり、これを「関撲」とか「撲売」といった。客は欲しい品物に幾文かの銭を賭け、それから銅銭を地面あるいは瓦鉢の中に投げ、銭の裏がみな上を向けば「渾純〔ぞろ、あるいは渾成〕といい、客の勝ちとなり、銭を払わずその品を得ることが出来た。また、アメうりが三尺ほどの円板に鳥・魚・器物の絵を描いたものを回転させ、羽のついた針で射当てさせ絵に当たったものにアメを渡した。楚の遺習は日本の祭りの露店などにみられる。関僕は正月・冬至・寒食の三節句だけ許され、平日は禁じられていたが、南宋になるといつでもできたらしい。
※領抹:不明。首に巻くスカーフ・マフラーのたぐいか?

 KS氏からの携帯返信メールに曰く、「一人のPhoto 芸術家 来客のため返信が遅れました。/いままで種々スカイトリーのPhotoに接してきましたが、朝日に匂う川面に投影されたスカイトリーは初めて観させて戴きました。/若い頃には考えられないほどの科学の進歩=瞬時に誰もがPhoto芸術家になれる刻をみせてもらいました。本当に感動しています。/小沢氏については同感の意を表したく存じますが、ここしばらくが気にかかります。それにつけても松下塾の哲学と人間性の無さを実感しております。/芋焼酎は7月14日朝便着に指定しております。 (6/30 13:36)」 
2468ce80.jpeg 今朝も白鬚橋~吾妻橋間を一周。桜橋西詰めテラスで一休みしていると、久し振りに白鬚橋の方からテラスを南下してくるワンさんに出会った。ここのところ携帯を持参するようになって、デジカメは持ち歩かなくなったので、写真は撮らなかったが、元気そうで明日土曜は塾友連中とゴルフに行くということであった。
 本日の歩行記録では、やっと1万歩を超え、距離も7kmを超えたようだ。しかし、とても続けては歩けない。休み休みで、時間は2時間を超えてしまった。
 
 淺草は相変わらずスカイツリーを中心とする話題で振り回されているようだ。今朝のウェブニュースより、
02bcc8dc.jpeg 2階建てオープンバス 停留所で乗降OK 路線では日本初 ―― 日の丸自動車興業(本社・文京区)は三十日から、停留所で乗り降りできる二階建てオープンデッキの「スカイホップバス」を都内三ルートで運行する。同様のバスで観光ルートを回る例はあるが、路線バスとしては日本初という。/三ルートは、▽浅草・東京スカイツリー▽お台場▽六本木・東京タワー-で、いずれも丸の内三菱ビル(千代田区)が起点。浅草方面のルートでは秋葉原(末広町)、上野松坂屋、駒形(雷門)、とうきょうスカイツリー駅前など、下町の観光名所、商業施設に停留所を設けた。日本語のガイドが同乗し、イヤホンを使って英語、中国語、韓国語の音声ガイドを聞くことも可能。雨天の際は、透明な屋根を付けたバスが走る。/運行は午前十時台から午後八時台で、いずれも一時間おき。浅草方面のコースは、土、日、祝日は三十分おきとなる。乗車には、三コースすべてで使える二十四時間券(大人千八百円)、四十八時間券(同二千五百円)が必要。券の使用時間は、最初の乗車時からカウントする。/日の丸自動車興業の富田浩安社長は二十八日の会見で「三百六十度視界が開けたバスで、都内観光を楽しんでほしい」とPRした。 (東京新聞 2012年6月29日)
 
f99d43a9.jpeg スカイホップバスとは
 スカイバス(2F建てオープンバス:晴れ用)とスカイトップ(ガラス張り:雨用)の導入で都内を周遊するバスで、お一人様24時間1800円で何度も乗り降りが自由にできる。/都内3コースをどこで乗ってもどこで降りても定額なので、都内名所めぐりに最適だという。
■コース紹介■
【スカイツリーコース】丸の内三菱ビル⇒日本橋三井記念美術館⇒秋葉原⇒東本願寺前⇒とうきょうスカイツリー駅前⇒駒形⇒上野松坂屋⇒新日本橋駅⇒丸の内三菱ビル
【六本木コース】丸の内三菱ビル⇒ホテルニューオータニ⇒東京ミッドタウン⇒六本木ヒルズ⇒東京タワー⇒丸の内三菱ビル
【お台場コース】丸の内三菱ビル⇒東京タワー⇒フジテレビ⇒アクアシティお台場⇒ヴィーナスフォート⇒東京ベイ有明ワシントンホテル⇒豊洲⇒築地銀座⇒丸の内三菱ビル
 
8b04bcbc.jpeg
d1ed329d.jpeg スカイツリー楽しめる新型水上バス ―― 先月、オープンした東京スカイツリーの景色を楽しむことができる隅田川の水上バス路線に、宇宙船をイメージした新しい船が登場し、28日から運航を始めました。/お台場と浅草を結ぶ水上バス路線に28日から登場したのは、261人乗りの「ホタルナ」という船です。/デザインは「銀河鉄道999」などの作者、松本零士さんが担当し、宇宙船をイメージした丸みを帯びた船体が特徴です。/窓や天井のほとんどがガラス張りになっているため、近づくと見えにくくなる東京スカイツリーも、船内にいながら楽しむことができます。/また東京湾の区間では、船の屋上に出て景色を楽しむこともできるということです。/広島県から観光に訪れていた女性は「ガラスが大きいのでスカイツリーもとてもよく見えました。一番乗りのチケットだったので、宝物にしたいと思います」と話していました。/水上バス会社によりますと、先月22日のスカイツリーの開業以来、浅草から水上バスを利用する人は15パーセント増えていて、来月11日にはスカイツリーの展望台の当日券の販売が始まるため、さらに利用客の増加が見込まれるということです。/水上バス会社の守谷慎一郎社長は「新しい船で川から見えるスカイツリーの風景を多くの人に楽しんでもらいたい」と話していました。 (NHK News Web 6月28日 22時51分)
 
2cd85b83.jpeg  今朝は4時15分に家を出る。久し振りに白鬚橋を渡り、向島の遊歩道からテラスにおりて、隅田川を南下。吾妻橋を渡って、台東区側の隅田公園内の遊歩道を通って6時10分に帰宅した。携帯の記録によれば、9810歩・歩行距離6.7キロメートル。

679c9e68.jpeg
a252dc23.jpeg 吾妻橋の西詰入口から隅田公園に入って間もなくの所に「グリーンプラネット」と名付けられた異様な建造物が建っている。説明板に曰く、「東京スカイツリーとの呼応性として、東京スカイツリー対自分の世界を作る。また、円形のフォルムで電波や大気を受け止める器の形は、環境との調和を感じさせる。場と人を繋ぐ空間には、原初的な風景の器の中に小動物の視点を体験する装置として、見知らぬ人たちと交流できる空間を演出する。それにより一個人が大人と子供、あるいは強者と弱者の枠を取り払い同等の存在として現れる。」
 フォルムの穴からカメラを差し込んでスカイツリーの写真を撮ってみた。
 民主党執行部は27日、社会保障・税一体改革関連法案の衆院本会議採決で小沢一郎元代表ら57人が反対票を投じるなど大量の造反者が出たことを受け、処分問題の調整に入ったという。
 今朝の朝日新聞に「耕論 小沢一郎」という、珍しい記事が出ていたので、これをスキャンコピーして、宝塚市のKS氏に送ることにした。まず、携帯でメールする。曰く、「今朝4時40分、隅田川の日の出です。/今朝の朝日新聞にちょっと目を引く記事が出ていたので拡大コピーして、この後すぐにFAXで送ります。/瘧癲爺 セッチン」
 続いて、拡大スキャンして、プリントしたものをFAXした。すぐに、KS氏より、お礼の電話が入った。
77ca3107.jpeg
a4c34790.jpeg
c2ff539a.jpeg



  しばらくして、携帯にメールが届いた。曰く、「今朝はご連絡有難う御座いました。/朝日新聞が小沢一郎擁護に近いこの様な「小沢一郎感」を掲載することと、消費税衆議院通過の翌日であったことも意味あることだと考えられます。昨日の衆議院での可決のさまを見る時、歴史の輪に繋がる「大政翼賛会」の雰囲気を肌で感じ、寒気を覚えたのかもしれませんね。どちらにせよモンロー主義の悪弊と我身の瞬時の欲望にのみ流される政治家は見るに耐えません。理念と希望と言えば美しく聞こえますが、政治家たるもの少しは筋の通る理念を見せて欲しいものです。何かしらこのまま死にたくはない気がします。まだまだ精神的には政治に対する青春期を脱していないのかもしれません。」
 
東京夢華録 巻五 娶婦 二
 婿於床前請新婦出、二家各出綵段、綰一同心、謂之「牽巾」、男掛於笏、女搭於手、男倒行出、面皆相向。至家廟前參拜畢、女復倒行、扶入房講拜。男女各爭先後對拜畢、就床、女向左、男向右坐、婦女以金錢綵果散擲、謂之「撒帳」。男左女右、留少頭髮、二家出疋段、釵子、木梳、頭鬚之類、謂之「合髻」。然後用兩盞以綵結連之、互飲一盞、謂之「交盃酒」。飲訖、擲盞并花冠子於床下、盞一仰一合、俗云「大吉」、則眾喜賀。然後掩帳訖。宮院中即親隨人抱女婿去、已下人家即行出房、參謝諸親、復就坐飲酒。散後。次日五更、用一卓、盛鏡臺鏡子於其上、望上展拜、謂之「新婦拜堂」。次拜尊長親戚、各有綵段巧作鞋枕等為獻、謂之「賞賀」。尊長則復換一疋回之、謂之「答賀」。婿往參婦家、謂之「拜門」。有力能趣辦、次日即往、謂之「復面拜門」;不然、三日七日皆可。賞賀亦如女家之禮。酒散、女家具皷吹從物、迎婿還家、三日、女家送綵段、油蜜蒸餅、謂之「蜜和油蒸餅」。其女家來作會、謂之「煖女」。七日則取女歸、盛送綵段頭面與之、謂之「洗頭」。一月則大會相慶、謂之「滿月」。自此以後、禮數簡矣。
287f9d65.jpeg〔訳〕《婚礼二》花婿が床(ねだい)の前で花嫁に帳(とばり)の外に出てくるように言うと、両家から出し合った色絹を、一つの同心結びに結い、これを「牽巾(ちぎりのぬの)」という。この絹を婿は笏(しゃく)に、嫁はてにかけて、互いに顔を向き合わせたまま婿が後ずさりして部屋を出る。家廟の前に出て参拝をすませると、こんどは嫁が後ずさりして行き、部屋に入ると拝をするのだが、婿と嫁はそれぞれ先を争って拝をしあう。それがすむと床にあがるが、嫁は左向きに婿は右向きに坐り女たちが金銭・色絹・果物をまき散らす。これを「撒帳(ねやまき)」という。男が左、女が右で、少し髪の毛をのばし、両家から色絹・釵子(かんざし)・木櫛・かもじのたぐいを出す儀式を「合髺(まげあわせ)」という。つぎに二つの杯を色絹の紐でつなぎ、いっしょにその杯で酒を飲み、これを「交杯酒(さかずきかわし)」という。飲み終わると、杯と花冠子(はなかむり)を床の下に投げ、杯のひとつが上向き、ひとつが下向きになれば、俗に大吉といって、みなめでたがる。それから帳(とばり)をおおうのである。そのあと、宮中ではお側づきの者が花婿を抱えて閨房を出、下(しも)ざまのいえではそのまますぐ閨房を出て、親族たちに挨拶をして、また座について酒を飲んだ。式が散じて、つぎの日五更(午前四時ごろ)に卓子(テーブル)の上に鏡台と鏡を置き、花嫁は上天を望んで礼拝し、これを「新婦拝堂」という。つぎに尊長親戚を拝し、それぞれに色絹や手作りの布靴とか枕を献じ、これを「賞賀」といった。婿が嫁の家に挨拶に行くのを「拝門(さとまいり)」という。できることならつぎの日すぐ行くが、これを「復面拝門(おりかえしのさとまいり)」という。そうでなかったら三日後でも七日後でもいい。お礼返しは、嫁の家がしたと同様にする。酒宴がすむと、嫁の家では楽隊やら行列の飾り物やらをととのえて婿たけを贈り帰す〔嫁は実家に残るのである)。婚礼後三日後に、嫁の家では色絹・油・蜜と蒸餅(むしがし)を届け、これを「蜜和油蒸餅(みつわゆじょうへい)」という。嫁の家の者が婿の家に来て宴会を開くのは「煖女(むすめはげまし)」といった。七日には実家に残った嫁を婿の方から迎えにきて婚家に帰る。その際嫁の家では色絹・頭飾りを十分嫁に与え、これを「洗頭(せんとう)」といった。一ヵ月目には両家が集まって大宴会を開き祝いあう。これを「満月」といった。これからあとの儀礼はたいしたものはない。
 
※同心結び:中国では男女の愛情を示す結び方とされている。日本では「けまん結び」とよばれ、組紐を輪違いにむすぶもの
※撒帳:この行事は漢の武帝が李夫人を迎えたときに始るという。帝は夫人を帳中に入れ、宮女たちに五色の同心結びや花果を投げさせ、着物の裾にこれを取って盛り、得ること多ければ子も多しとした。のち唐の中宗の頃になると長命富貴と刻のある銭をまいたという。
※合髺:両家から出した簪類で新郎新婦が結髪する儀式であろう。
※拝堂:拝天地ともいい、新婚のものが礼堂で天地を拝する儀式である。
※蜜和油蒸餅:中国では「蜜裏調油」といえば親密でしっくり行くことを意味し、蜜と油は夫婦円満の縁起物とされている。蒸餅とは小麦粉をこねて蒸した食品。中国で言う「餅」は日本とは異なり、小麦粉を原料として、焼いたり蒸したりしてつくる食品の総称である。この贈物をすることを「送三朝礼」といい、色絹、アヒルの卵、金銀の瓶に入れた蜜と油、それに餅などを、嫁の家から婿の家に贈るのである。
※洗頭:拝門は新婚夫婦二人がいっしょにする。そして婿だけが先に家に帰り、嫁は実家に残って、あとで婿の方から嫁を迎えに来る。この時、実家が嫁に色絹・頭飾りなどを与えて返すのが「洗頭」。本文ではこの行事の間に「煖女」の説明が入っているが、これは婚礼後九日以内のある一日に行うものであるという。
東京夢華録 巻五 娶婦 一
 凡娶媳婦、先起草帖子、兩家允許、然後起細帖子、序三代名諱、議親人有服親田產官職之類。次檐許口酒、以絡盛酒瓶、裝以大花八朵、羅絹生色或銀勝八枚、又以花紅繳檐上、謂之「繳檐紅」、與女家。女家以淡水二瓶、活魚三五箇、筯一雙、悉送在元酒瓶內、謂之「回魚筯」。或下小定、大定、或相媳婦與不相。若相媳婦、即男家親人或婆往女家看中、即以釵子插冠中、謂之「插釵子」;或不入意、即留一兩端綵段、與之壓驚、則此親不諧矣。其媒人有數等、上等戴蓋頭、著紫背子、說官親宮院恩澤;中等戴冠子、黃包髻、背子、或只繫裙、手把青涼傘兒、皆兩人同行。下定了、即旦望媒人傳語。遇節序、即以節物頭面羊酒之類追女家、隨家豐儉。女家多回巧作之類。次下財禮、次報成結日子。次過大禮、先一日或是日早下催妝冠帔花粉、女家回公裳花幞頭之類。前一日女家先來掛帳、鋪設房臥、謂之「鋪房」。女家親人有茶酒利市之類。至迎娶日、兒家以車子或花檐子發迎客引至女家門、女家管待迎客、與之綵段、作樂催妝上車檐、從人未肯起、炒咬利市、謂之「起檐子」、與了然後行。迎客先回至兒家門、從人及兒家人乞覓利市錢物花紅等、謂之「欄門」。新婦下車子、有陰陽人執斗、內盛穀豆錢果草節等呪祝、望門而撒、小兒輩爭拾之、謂之「撒穀豆」、俗云厭青羊等殺神也。新人下車檐、踏青布條或氈席、不得踏地、一人捧鏡倒行、引新人跨鞍驀草及秤上過。入門、於一室內當中懸帳、謂之「坐虛帳」;或只徑入房中坐於床上、亦謂之「坐富貴」。其送女客、急三盞而退、謂之「走送」。眾客就筵三盃之後、婿具公裳花勝簇面、於中堂昇一榻、上置椅子、謂之「高坐」。先媒氏請、次姨氏或妗氏請、各斟一盃飲之;次丈母請、方下坐。新人門額、用綵一段、碎裂其下、橫抹掛之、婿入房、即眾爭撦小片而去、謂之「利市繳門紅」。

〔訳〕《婚礼一》一般に嫁をもらうには、まず仮の書付を取り交わし、そこで両家が婚姻を承諾すると詳しい書付を取り交わした。過去三代にわたる家系や、媒酌人・有服親〔喪に服する関係にある親族〕・田産・官職の類をしるしたものである。つぎに幾瓶かの酒の荷を贈る。酒を入れた瓶に、大輪の花八輪、色あざやかな薄絹とか銀の頭飾りを八つ、さらに祝儀の紅絹(もみ)を荷にまといつける。これを「繳檐紅(もみのしゅうぎ)」と呼んで嫁の家に贈るのである。嫁の家では真水二瓶に活き魚四、五尾、箸一膳を、贈られた酒瓶に入れてお返しとし、これを「回魚筋〔かいぎょちょ、魚箸(なはし)の返し〕という。また、固めの品を贈る儀式をしたり、どんな嫁か見立てをする。嫁の見立てをする場合には、婿の家の親族か母が、嫁の家に出向き、見て気に入れば、釵子(かんざし)を冠に挿し、これを「挿釵子(かんざしさし)」といった。もし気に入らない場合には、色絹の一、二匹を「厭驚(えんぎなおし)」として贈る。こうすればこの縁はこわれたのだ。結婚仲介人も数等級に分かれていた。上等の仲介人は蓋頭(かずき)をかぷり、紫の背子(からぎぬ)を着、官吏の縁談や宮中での婚姻をとりもつ。中等の仲介人は冠をいただき、黄の布で髻(まげ)を包み、背子を着、あるいは礼装用の裙(スカート)つけただけの者もあり、手に青い日傘を持つ。双方が同行して、固めの品を贈る儀式をすると即日結婚仲介人に知らせるのだ。この間にたまたま節句にあえば、節句用品や頭飾り、羊と酒などを、さらに嫁の家に贈るが、その多少は家々の暮らし向きに応じた。嫁の家では多く手芸品のたぐいを返礼とした。つぎに結納金を贈り、ついで挙式の日取りを知らせる。その次が結婚の大礼だが、その前日か当日早く、嫁の家に花嫁の支度を促す意味の儀式として、かぶりものや白粉を贈り、嫁の家からは婿の家へ花婿衣装や花幞頭(はなかぶり)のたぐいを返礼とする。また前日に嫁の家のものが先に婿の家に来て帳(とばり)をかけ寝間の支度を整えるのを「鋪房(ねやごしらえ)」といい、嫁の家の親族が茶・酒・祝儀のたぐいを負担した。嫁を迎える日になると、婿の家では牛車か花檐子(かざりこし)で迎え役を出して嫁の家の門口まで行かせる。嫁の家では迎え役をもてなし、祝儀の色絹を与える。と音楽がかなでられては花嫁の支度をうながす。やがて花嫁は乗物に乗るが、従者は発(た)とうとせず祝儀を口々に催促する。その催促を「起檐子(こしおこし)」といって、祝儀をあたえるとやつと発つのであった。迎え役は一足先に婿の家の門口に帰り着く。従者や婿の家の者がこのように祝儀の金品や紅絹(もみ)を催促するのを「欄門(かどふさぎ)」といった。婿の家に着いて花嫁が牛車から降りると、陰陽師が、中に穀物・豆・銭・果物・草節(わらしべ)などを盛った斗(ます)を持ち、まじないを唱えながら門口に向かってまき、子供たちは争ってこれを拾う。これを「撒穀豆(まめまき)」といって、俗に青羊などの凶神を忌んでやるのだといっている。花嫁は乗物から降りると青い木綿か毛氈の敷物を踏んで歩き、地面を踏んではならない。一人が鏡をささげて後ずさりしながら花嫁を導き、鞍をまたがせ、草と秤の上を越させて、中央に帳をかけた一室に入れる。これを「坐虚帳(かりのねやいり)」という。真っすぐに閨房(ねや)にはいり、床(ねだい)に坐ることもあるがこれを「坐富貴(ざふうき)」という。嫁を送ってきた者は、さっさと三杯の酒を飲んで引き取ることになっており、これを「走送(はしりおくり)」という。みなが宴席について三杯飲んだあと、花婿は花婿衣装に花勝(かみかざり)をつけ顔をおおって、中堂(なかやしき)の搨〔とう、細長い台〕の上に置いた椅子に上る。これを「高座(こうざ)」という。まず、結婚仲介人が酒をすすめ、つぎに花婿の母の姉妹あるいは母の兄弟の妻がすすめ、それぞれ一杯ずつ飲むと、つぎに花嫁の母がすすめて、やっと座をおりるのであった。花嫁の部屋の入口の額には一枚の色絹の下端を細かく裂いたものを横にして掛け、花婿が部屋に入ったとたん、みなは争ってこれをちぎり取る。これを「利市繳門紅(ものみのしゅうぎとり)」という。
 
※荷:原文では「檐」。宋代には檐は担に通じて用いられ、檐子は二竿をもってかつぐものであり、(華沲腰)のこと。後世これをふつう轎子(きょうし)というが、唐から北宋にかけてこれを檐子(たんし)といった。これに祝いの酒荷を載せてはこんだのである。
※固めの品を贈る儀式:原文には「大定、小定」とある。婿の家から嫁の家に婚約のしるしとして固めの品を贈る儀式を「小定」、さらに挙式の日から一月ほど前になって、式の日取りの通知書と花嫁衣裳・指輪などを送る儀式を「大定」という。
※結婚仲介人:原文では「媒人」。これは媒氏と呼ばれ、結婚仲介を業とする婦人のことである。
※嫁の家に花嫁の支度を促す意味の儀式:原文「催粧」。婚礼の直前に婿の家で嫁の家に贈物をする儀式。
※花檐子:当時のいわゆる「こし」は皇后のもちいるものは「輿」、それより小型で一般人が婚礼などで用いるものを「檐子」と呼んだらしい。
※欄門:唐人は嫁が来ると、門で待ち構えて祝儀をせびり、これを「障車」といったが、詔が出て禁じられたという。
※撒穀豆:以下のような話がある。漢の京房の娘が翼奉の息子に嫁ぐことになり、翼奉が婚礼の日をえらんだ。ところが京房〔彼は易者であり預言者としても有名であった〕は、その日は三煞神(さんさつしん)画文にいるから不吉だという。三煞とは青羊・烏鶏・青牛の三凶神、この三神が門にいたのでは嫁ははいることができず、もしこれを犯せば尊長を損ない子も出来ぬというのだ。そこで嫁が門に来た時、穀豆や草で凶神を払うことにした。以来、婚礼に「撒穀豆」の儀式が行われるようになったという。(宋の高承「事物起源」より)
※鞍:唐では国初の婚礼はみな胡虜の法にならい、女を馬鞍の側に座らせたとある。婚礼に鞍を用いるのは北朝騎馬民族系の遺風なのである。鞍は入口の閾(しきい)の上に置かれる。閾に花嫁の足が触れると不幸があるという俗信からとか、鞍は平安の安にも通じるからなどと説明されている。
※花勝:頭飾りの一種で、髷に左右一文字にさす簪の両端に垂らした飾り。
  昨日は夏至。今朝は早朝より雨。徘徊できず。
 今朝のウェブニュースより
72e58785.jpeg 一体改革:小沢元代表「新党考える」26日採決、民主緊迫 ―― 通常国会の会期を9月8日まで79日間延長することが決まった21日、民主党の小沢一郎元代表は税と社会保障の一体改革関連法案の衆院採決で反対することを輿石東幹事長に伝え、元代表を含め49人のグループ議員が集まった会合では離党・新党結成も視野に行動することを宣言した。出席者からは野田佳彦首相宛ての離党届を集め、採決後の集団離党も辞さない構え。党分裂の危機に緊迫する民主党執行部は野田佳彦首相が21日を目指してきた衆院採決を26日に先送りし、反対派・中間派を説得する時間稼ぎへと動いた。/小沢元代表は21日、東京都内のホテルで開いたグループ会合で「採決の時は、我々の主張が正しいという大きな渦になるよう頑張ってください」と造反を呼びかけた。そのうえで「まず最善の策を追求し、今の政権の考え方を変えるように頑張る。次善の策として新党立ち上げも考えねばならない」と離党・新党結成に言及した。  〔毎日新聞 2012年06月21日 21時33分(最終更新 06月22日 01時28分)
 
d1fcaa13.jpeg 夏至の夜、節電に思いを スカイツリーも消灯 ―― 夏至の21日夜、全国各地の盛り場や観光地などで照明が一斉に落とされた。先月開業した東京スカイツリーでも通常のライトアップが消灯され、地球温暖化防止のPRに一役買った。/イベントは、環境省が2003年から取り組んでおり、不要な明かりを消すことで、照明に慣れた日常を見直そう、という狙いがある。午後8時から2時間の消灯の呼びかけに、全国の1万6千を超える施設や企業が賛同した。
 東京・六本木の東京ミッドタウンでは、夏至に合わせ、ろうそくをともすイベントが開かれた。/約2千本用意された明かりには子どもたちの願い事などが書き入れられている。広場に形づくられた巨大な星が、都心のビルの谷間で瞬いた。
 
  山亭夏日          高駢  
緑樹陰濃夏日長 緑樹(りょくじゅ)陰濃(こま)かにして 夏日長し
楼台倒影入池塘 楼台影を倒(さかさ)まにして 池塘(ちとう)に入る
水晶簾動微風起 水晶の簾(すだれ)動いて 微風起こり
一架薔薇満院香 一架の薔薇(しょうび) 満院(まんいん)香(かんば)し
〔訳〕樹々の木陰は緑が濃く、夏の日差しは長い。
   池畔の高楼はその影を逆さまに池に映している。
   水晶の簾がサラサラと動いて 微かな風が起こり、
   薔薇の棚からの香りが庭一面にたちこめている。
 
728782b2.jpeg 高駢:晩唐の官僚、詩人。字は千里。幽州(現在の河北省)の人。武芸に秀で、また文学にも熱心で文士と盛んな交流があった。各地の節度使を歴任。黄巣の乱を討伐し、その武力を国中に知らしめた。後に高駢の天下をうかがう気配を見てとった朝廷により渤海郡王への任命と引き換えに兵権を剥奪された。晩年は失意の中で神仙思想に傾き奇行が多かったという。光啓3(887)年、部下の畢師鐸〔ひつしたく、?~888年〕に殺された。
 
 台風4号が日本に上陸するという。梅雨時の台風襲来は平成16年以来、8年ぶりだという。
 今朝のウェブニュースより
b25d2126.jpeg 台風4号 19日夕方~夜、最接近 ―― 岡山地方気象台は18日、強い台風4号について、19日夕方から夜にかけて県内に最接近すると発表した。強い風や高潮、土砂災害などに注意を呼びかけている。/18日午後5時現在の発表によると、台風4号が予想進路を進んだ場合、19日昼前から局地的に雷を伴った激しい雨になるおそれがある。同日午後6時までの24時間降水量は、県内平均で40ミリ、多いところでは80ミリで、その後も降り続く見通し。また、ここ数日の雨で地盤が緩んでいる場所では、土砂災害への警戒も必要という。/風は19日昼前から強くなり、最大風速は南部の陸上で13メートル(最大瞬間風速25メートル)、海上で18メートル(同30メートル)、北部の陸上で12メートル(同25メートル)と予想。普段より干満の差が激しい大潮の時期と重なるため、満潮時刻(宇野港では19日午後11時49分)前後には高潮にも注意が必要という。/同気象台は「台風4号は移動速度が速く、予想より早く接近する可能性がある。早めの対応を」としている。
                 ◇
 県内の自治体は18日、台風4号への警戒を強めた。/岡山市は、危機管理課の職員ら約10人を集め、対策会議を開いた。昨年9月の台風12号では、本庁と各区役所間での情報伝達や、避難所の職員配置がスムーズに行かなかったことから、▽区役所の担当職員を連絡係として本庁に配置する▽避難勧告が出た場合、指定避難所に職員を男女各1人配置する――ことなどを確認。土のうの備蓄状況についても、19日午前中までに確認するよう指示した。/市危機管理課は「昨年の反省に立ち、万全の対応をしたい」としている。/倉敷市は、職員約50人が本庁駐車場で土のう4000袋を作った。普段から市内54か所の倉庫に計3万1000袋の土のうを備蓄しているが、市防災危機管理室は「わざわざ倉庫まで取りに行かなくても済むようにした。家屋浸水に素早く対応したい」としている。  (2012年6月19日  読売新聞)
 
  約客        趙師秀
黄梅時節家家雨  黄梅(こうばい)の時節 家家の雨
青草池塘処処蛙  青草(せいそう)の池塘(ちとう) 処処(しょしょ)の蛙
有約不来過夜半  約 有るも来たらず 夜半を過ぎ
閑敲棋子落灯花  閑(ひま)に棋子(きし)を敲(たた)けば 灯火 落つ
 
(訳)梅の実が黄色く熟する時節は、どの家もどの家も雨の中に閉ざされ、
青々と草が生い茂る池のつつみのそこかしこから、カエルの鳴き声が聞こえて来る。
約束をしたはずなのに友人は訪ねては来ず、とうとう真夜中を過ぎてしまった。
ひまにまかせて碁石をパチリと打つと、おや、灯花がポトリと落ちた。
 
096512d3.jpeg 趙師秀〔ちょうししゅう、1170~1219年〕:字は紫芝(しし)。号は霊秀(れいしゅう)、または天楽(てんらく)。永嘉(浙江省温州)の人。
 中国、南宋時代、13世紀の初頭に活躍した4人の詩人を永嘉四霊という。4人とも永嘉(浙江省永嘉県)の人であり、字号に霊の字を含むから永嘉四霊と称された。すなわち、徐照(?~1211年、字は霊暉)、徐璣(1162~1214年、号は霊淵)、翁巻(生没年不明、字は霊舒)、趙師秀(1170~1219?、号は霊秀)の4人である。徐璣と趙師秀は仕官の経験をもつが、微官であり、徐照と翁巻は終生野に在った。民間詩人の最初に位置しており、いわゆる〈江湖派〉の先駆となった。
 東京夢華録 卷五 民俗
 凡百所賣飲食之人、裝鮮淨盤合器皿、車檐動使奇巧可愛、食味和羹、不敢草略。其賣藥賣卦、皆具冠帶。至於乞丐者、亦有規格。稍似懈怠、眾所不容。其士農工商諸行百戶衣裝、各有本色、不敢越外。謂如香鋪裹香人、即頂帽披背;質庫掌事、即著皂衫角帶不頂帽之類。街市行人、便認得是何色目。加之人情高誼、若見外方之人為都人凌欺、眾必救護之。或見軍鋪收領到鬥爭公事、橫身勸救、有陪酒食檐官方救之者、亦無憚也。或有從外新來、鄰左居住、則相借徣動使、獻遺湯茶、指引買賣之類。更有提茶瓶之人、每日鄰里互相支茶、相問動靜。凡百吉凶之家、人皆盈門。其正酒店戶、見腳店三兩次打酒、便敢借與三五百兩銀器。以至貧下人家、就店呼酒、亦用銀器供送。有連夜飲者、次日取之。諸妓館只就店呼酒而已、銀器供送、亦復如是。其闊略大量、天下無之也。以其人煙浩穰、添十數萬眾不加多、減之不覺少。所謂花陣酒池、香山藥海。別有幽坊小巷、燕館歌樓、舉之萬數、不欲繁碎。
5a806dd6.jpeg〔訳〕《民俗》都中どこでも飲食物を売る者は、清潔な食器類をととのえ、車や荷道具もいつも綺麗に飾り、料理・吸物の味わいも、少しもいい加減にしなかった。 薬売りも八卦見はみな冠帯をつけていた。乞食にさえも決まった身なりがあり、すこしでもおざなりな恰好をすれば誰も相手にしなかった。 およそ士農工商、もろもろの業者の身なりには、それぞれ特色があって、そのきまりにはずれることは決してなかったのである。香料店で香を包む手代たちは帽子を被り背子(からぎぬ)を着る、質屋の番頭は黒の衫(ひとえ)に角帯をつけ帽子は被らぬ、といった具合だったから、町行く人々も、すぐにどんな身分のものかわかった。 そのうえ、人情が厚く、もしよそから来た者が町方の者にいじめられているのを見ると、必ずみんなでこれを助けかばった。また、お上に収領(めしあげ)られてのいざこざで、その筋と争うものを見れば、間に割って入って事を丸めたり、お上に酒肴の付け届けをしてもらい下げてやることさえしり込みせずにするのだった。また、他所から新しく都にやって来た人には、隣近所の住人が道具を貸してあげたり、湯茶を届けたり、商売の手引きなどもしてやった。また、茶瓶(ちゃびん)をさげて毎日隣近所を廻って茶をつぎ交わし、世間話に興ずる人もいたし、どこであろうと吉凶のある門には参会者がいっぱいであった。正酒店(おやみせ)では、脚店(こみせ)が二、三度酒を買うと、四、五百両(目方で四五貫)ほどもの銀の食器を貸してやったし、極貧の下級階級の者でも酒店(のみや)にいって酒を注文すれば銀の酒器をだした。夜通し飲む客があっても、銀の酒器は翌日まで下げない。妓館もみな酒店に入って酒をとるのだが、銀器で酒を出すことには変わりなく、その鷹揚(おうよう)なことは天下無比であった。 人家ははてしなく並んでいたから、十数万人の人間が動いたぐらいでは増減など感じなかった。まさに花の陣、酒の池、香の山、薬の海というところか。小路(こうじ)小路にある料亭妓楼にいたっては、数えあげれば万という数になったが、くだくだしいから省く。
 
※背子=短くて幅広の袖のついた、合わせ襟で帯を締める長上着。
※宋代の各都市の商人・職人は、官府に対して普通の商業税を納めるほか、一種の科役負担があり、軍器所などで働かされたり、官府から商品を法外に安い値段、あるいは無償で納めさせられる場合もあり、官府に銭を納めて科役を逃れる免行銭の制が出来たほどであるという。おそらくこうした事情からしばしば紛争の怒ることもあったという。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


小冊子の紹介
カレンダー
04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
最新コメント
[enken 02/23]
[中村東樹 02/04]
[m、m 02/04]
[爺の姪 01/13]
[レンマ学(メタ数学) 01/02]
[m.m 10/12]
[爺の姪 10/01]
[あは♡ 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
最新トラックバック
ブログ内検索
カウンター
Powered by ニンジャブログ  Designed by ゆきぱんだ
Copyright © 瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り All Rights Reserved
/