瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
[255] [256] [257] [258] [259] [260] [261] [262] [263] [264] [265]
6bbfe67a.jpeg 東アジアの漢字文化圏で用いられる血縁集団の名称を姓(かばね、せい)という。その範囲は地域や時代によって変動し、氏や名字といった他の血縁集団名と様々な階層関係にあった。
 名字とは平安中期頃から、武士などが「名田(みょうでん)」にちなんだ「字(あざな)」を作るようになったことから、「名田の字」で「名字」となった。「苗字」の表記は江戸時代以降で、「苗」の字は苗裔〔びょうえい、末孫〕の意味からである。江戸時代には「苗字」でほぼ固定してきたが、『苗字帯刀』によって武士と一部の庶民を除き、名乗ることが許されていなかった。平民の使用が許されたのは、明治3年(1870年)の『平民苗字許可令』であるが、当時の国民は政府を信用していなかったため、つけることで余分に課税されるのではないかと警戒し、名乗る者は少なかったという。すべての国民が名乗るようになったのは、明治8年(1875年)、名乗ることが義務付けられた『平民苗字必称義務令』による。
 
 日本には十数万もの種類の名字があるといわれているが、大きくわけて、古来からの姓をそのまま使用しているものと、平安以降に生まれた名字を名乗っているものとにわけるとことができる。
 
A.姓をそのまま名乗っているもの
 日本には数多くの名字が存在するが、これらが古代からすべてあったわけではない。その大部分は、平安後期から室町地代にかけて爆発的に増えた「名字」で、それ以前は韓国や中国同様、「姓」の種類は限られたものであった。明治以降、多くの家は「名字」を戸籍として登録したが、「姓」を登録した家も少なからずあった。こうした姓には大きく次のような種類がある。
1. )賜姓皇族:天皇家には名字がない。従って、天皇家から分家して一家を興す際には、天皇から新しい名字を賜って独立した。これを賜姓皇族といい、「源」「平」「橘」などが有名であるが、他にも「清原」「在原」などがある。江戸時代以前は、家を継がない皇族は分家せずに僧籍に入るのが一般的であった。しかし、明治以降は宮家の分家は新しく家を興すことになった。こうして戦前に新たに12家が新名字で創立さた。さらに、戦後にはGHQの指令で、今度は11家の宮家そのものが皇族を離れ、新しい名字を作っている。この時できた名字が最後の賜姓皇族で、「久邇」「東久邇」「北白川」などがある。
2. 古代豪族:古代においては天皇(大王)家も有力豪族の中で最大の勢力を誇る一族にすぎず、他にも有力な氏族は多数存在していた。日本を統一した大王家は、こうした豪族達に姓を与えることで、その地位や役職をあきらかにしたのである。豪族の多くは、系図も書き換えて、天皇家とつながるようにしている。「蘇我」「物部」「大伴」などの大和地方の有力一族の他に、岡山県の「吉備」や、群馬県の「毛野」など、地方にも多くの豪族がいた。また、藤原氏も古代豪族中臣氏の末裔であった。
3. 渡来人:4世紀以降、日本よりも文明の進んでいた中国や朝鮮半島から、政権争いに敗れた一族など、多くの氏族が移り住んできた。彼らは進んだ技術を持っていたため、中には大和朝廷で重要なポストを占める一族も現れた。当時の大和朝廷は開かれた国家で、出自が外国であることによる差別はなかったようで、たとえば、漢の弓月君の子孫と称する秦氏は、今の京都市太秦に住み、全国に広がっている。土佐の戦国大名・長宗我部氏も秦氏の末裔ということだし、江戸時代の一関藩主の田村家や、室町時代の大名大内家なども、系図上では渡来人の末裔ということになっている。
4. 神官:古代においては、神社は大きな役割をしめていた。全国の有力神社には、それぞれその神事を司る一族があり、独自の発展をしていた。宇佐神宮(大分県)の宇佐氏、阿蘇神社(熊本県)の阿蘇氏、出雲大社(島根県)の出雲氏などがそうで、彼らの中には、鎌倉時代以降は武士化したものもある。たとえば、長野県の諏訪氏はこうした神官から出て、戦国大名となり、江戸時代には高島藩の藩主となっている。
 
B.名字を名乗っているもの
  現在、多くの人は、「姓」ではなく、「名字」を使用している。この名字には以下のようなものがある。
63f11f32.jpeg1.地名に由来する名字:日本人の名字で、最も種類が多いのが地名を起源とするものだという。これにはいくつかのパターンがあるが、最も多いのは、都から地方に降った人が、住み着いた地名を名字にしたのものである。さらに、分家した次男や三男も新しい土地に移り住むと、そこの地名を名字としたため、有力な一族ほど、本家の周囲の地名を名字とした分家が多くあることになる。武田家や佐竹家といった鎌倉時代からの名家の系図をみると、本家近くの地名を名乗った人が沢山出てくる。都からの移住者でなくても、ある土地の支配者は、自らがその土地の領主であることを明確に示すために、地名を名字として名乗った。地名に由来する名字は、特定の地名を発祥地としているため、比較的そのルーツを探りやすいが、同じ地名が他にもある、という点に注意が必要。たとえば、「石川」という地名は各地にあるので、いろいろなところから「石川」という名字が生まれている。基本的に、地名を名字にできるのはその土地の有力者のみであることが多く、ルーツとなる地名のところに行っても、その名字が極端に多いというわけではない。地名由来の名字にはもう一つの顔があり、ある土地の出身者が別の土地に行って成功した場合、出身地の地名を名字とすることがよくあった。よその土地とは行っても、江戸時代以前にそんなに遠くに行くことはなく、多くはルーツとなった土地から少し離れている、という程度のことが多い。そのため、地名由来の名字の場合は、発祥地となる地名から少しだけ離れた所にその名字が固まっていることがよくある。
2.地形や風景に由来する名字:地名由来についで多いのが、地形や土地の様子、自然の風景などを名字にしたものである。ある土地に住んでいる人が、皆地名を名字とすると、集落中すべて同じ名字になってしまう。これでは、他家と自家を区別するためという名字の本来の意味が失われてしまうので、自分の家の場所の特徴を名字とした。日本は山と川が多く、平地は可能な限り開墾して田畑にしたため、「山」「川」「田」などのつく名字は、数が非常に多くなっている。この他では、「池」「林」「森」「原」「浜」なども地形由来の名字でよく使われる漢字である。こうした名字は、同じような地形があればどこでも同じ名字が発生するわけで、ルーツを探るのは困難となる。地名のルーツも多くは地形であるから、地名由来の名字と地形由来の名字はかなり重なっている。
3.方位や位置関係に由来する名字:文字通り「東西南北」などの方位を表わす名字である。基本的には地形由来の名字と同じで、同じ土地の中での家の位置関係を示したものである。「東西南北」の他にも、「前後奥」「上中下」「右左」などもこの中に含まれる。また複合した名字として「西の方の村」で「西村」や、南東を意味する「巽」などもあり、種類はそれほど多くないが、名乗っている人は非常に多いのが特徴で、これらも通常は発祥地の特定は難しい。沖縄では、新しい分家ができた際、本家との位置関係で、「前」「後」「西」「東」などを名字の頭につけた。そのため、沖縄では、こういった漢字で始まる名字が沢山ある。
4.職業に由来する名字:現代と違って、江戸時代以前は職業は基本的には世襲であった。そのため、自分の職業を名字としたものが多数ある。古代では、犬や鳥を飼っていた「犬養」「鳥飼」、朝廷の大蔵を管理した「大蔵」、荘園の管理をした「荘司」など、公的な職業を名字としたものが主流であった。室町時代以降、貨幣経済が発展してからは、自らの商売を名字としたものが登場した。「○屋」とつく名字がそうで、これには、扱っている商品をつけたもの(鍋屋とか)と、自分の出身地をつけたもの(越後屋とか)がある。明治時代になって名字を届ける際、そのまま「~屋」で届けた家もあるが、「屋」を「谷」に変えたたり(加賀谷など)、「屋」を完全に取ったりしたことも結構多く、これらは一見職業姓とは気づかないこともある。商人の町として栄えた、富山県射水市の旧新湊地区では、ほとんどの家が「屋」をとって名字としたため、この地区には「花」「米」など、ものの名前がそのまま名字となったものが沢山あるという。また、秋田市や大阪府の岸和田市などでは「屋」を「谷」に変えて登録したため、この地方の電話帳をみると、いろいろな種類の「~谷」さんが大量に並んでいるという。
5.藤のつく名字:日本で最も多い名字である佐藤をはじめ、安藤・伊藤・江藤・加藤・工藤・後藤・近藤・斎藤など、下に「藤」のつく名字がいくつかある。いずれも大変ポピュラーなものだが、その大部分が、藤原氏から生まれたものだという。平安時代は藤原氏が朝廷を完全に支配していました。そのため、公家をはじめ、下級官僚なども藤原氏ばかりで区別がつかなくなり、名字(家号)を使用して区別するようになった。しかし、名門「藤原」の名を消し去らないよう、「藤」の漢字を残して、地名や職業と組み合わせた。たとえば、伊勢に所領のある藤原氏は、伊勢の「伊」と藤原の「藤」で「伊藤」、斎宮頭をつとめる藤原氏は「斎藤」という具合である。その後、中央でうだつのあがらない官僚は地方に行って住み着き、全国に「○藤」姓が広がっていったのだという。
6.僧侶の名字:江戸時代以前、僧籍に入ると俗世間を離れるために、公式に名字を捨てた。現在では武士以外も名字があったというのは定説であるが、僧侶は正式に名字のない人達だった。しかし、明治維新後は、彼らも名字を持つことが義務づけられた。僧侶は武士や庄屋階級の出身者が多く、本来の名字もあったのだろうが、あえて仏教用語や経典にある言葉を名字として採用していることが多かったという。そのため、僧侶の名字には、仏教関係の難しい漢字や読み方のものが多くみられる。爺が戦時中疎開していた広島県の三次にも梵(そよぎ)なんて名字があったが、廣島カーブの梵英心(そよぎえいしん、1980年生)選手はその一族かもしれない。
7.主君から賜った名字など、独特の由来を持つもの:戦で功績をあげた時などに、主君から褒美として名字を賜ることがある。たとえば、織田信長が美濃の伊木山城を攻めた際、功をあげた2人の家臣に伊木という名字を与えている。1家はのちに岡山藩の家老となったという。江戸時代になると、借金を引き受けてくれた町人に名字を与える、ということもあった。江戸時代の譜代大名の大河内家や滝脇家のように、将軍家から松平の名字をもらったため、やむを得ず「松平」と名乗ってが、幕府の崩壊とともに本来の名字に戻したというケースもある。この他にも、徳川家康に粥を振るまったことからもらったという静岡県の「小粥」家や、源義経から授かったという岩手県の「風呂」家など、各地にあるという。また、戦で負けた際、二十里逃げたところで無事敵から逃れることができたため、そのまま住み着いて「二十里(つりふじ・いそすり)」を名字にしたなど、名字には色々な由来があるものである。こうした名字の場合、由来はその家だけに代々伝わるものなので、どこかで伝達がもれてしまえば、由来は誰にも解らなくなってしまうもの。自分の名字の由来などもふくめて、各家の起源などは、大切に子孫に伝えていってもらいたいものである。
 
0b7a8874.jpeg 日本人の姓(名字)で一番多い姓は何だろう? 或る人が「東北ではでは『佐藤工藤は馬の糞』って言われているよ」 と言っていた。東北地方には、それほどたくさんの佐藤姓、工藤姓が多いということだろう。日本は、他のアジア圏に比べて突出して姓が多い。これは、姓の由来が他のアジア諸国と異なることによるという。しかし、中には幽霊名字と言われる「実在しない姓」がまことしやかに語られている場合があり、正確な数は特定できていない。
 2010年現在日本国内に多い名字〔上位10位まで〕をネットで調べてみると、
1 佐藤(サトウ、サドウ)約1、928、000人 北海道・東北地方をはじめとする東日本(特に秋田県)や東九州に多い名字で、関西圏では大阪府・兵庫県を除きそれほど多くはない。沖縄県ではむしろ珍しい名字。中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。藤原秀郷の子孫、左衛門尉公清が佐藤を称するに始まる。「藤」は藤原の氏を表す。「佐」は下野国佐野庄、または左衛門尉(さえもんのじょう)の職名を表しています。秀郷流藤原氏流は下野国佐野庄発祥。秀郷流藤原姓波多野氏流、岩代国信夫庄発祥の奥州藤原氏流、ほか、相馬氏流、那須氏流等関東に多い理由でもある。尾張氏流、紀伊氏流などもある。家紋は源氏車や藤などがある。
2 鈴木(スズキ、ススキ、ススギ)約1、707、000人 愛知県(特に三河)・静岡県及び南関東・東北地方に多い。南関東のランキングでは1位。発祥地は和歌山県海南市だが、西日本(特に九州・沖縄地方)にはさほど多くはない。古代の氏族であり、物部の伴造(とものみやつこ)として軍事、刑罰を担当した物部氏族穂積氏の子孫、現和歌山県と三重県南部である紀伊国熊野の豪族で熊野神社勧請で広まる。左記のように紀伊国熊野発祥の族は穂積姓、紀伊国牟婁郡鈴木庄発祥の族は藤原南家がある。桓武平氏千葉氏流、清和源氏松平氏族、美和下流、駿河龍、雑賀流、泡流、関東流、東北流などがある。語源は、田の中の穂積みに立てた一本の棒、稲魂招来用で、鈴木氏はその化身とされる。家紋は竹笹、竹に笠、笠、鷹の羽など。
3 高橋(タカハシ、タカバシ)約1、416、000人 この名字も東北地方をはじめ東日本(とくに岩手県の北上市周辺)や中四国地方に多い傾向がある。古代の氏族であり、物部の伴造(とものみやつこ)として軍事、刑罰を担当した物部氏族の高橋連、伊勢神宮祠官、弥彦大宮司など全国的に様々な流派がみられる。古代高橋邑人の末裔、大和国添上郡高橋発祥の高橋朝臣は安倍氏族、三河国賀茂郡高橋郷発祥の族は藤原北家大森氏族、遠江国城飼郡高橋郷発祥の族は物部氏族と藤原南家狩能氏族と二流ある。駿河国庵原郡高橋発祥の族は大宅氏族、ほか佐々木氏流、彌彦大宮氏流、利仁流藤原姓後藤氏族、丹波の族、伊予国大三島の大祝家で越智氏族などある。語源は、高い橋、高い柱。川に高い橋を架けることにあこがれ、また、天と地を結ぶために柱を立てることは祭祀の一つであり、高橋氏は職掌も司った。それにより氏の名や地名も発生したとされる。
4 田中(タナカ、ダナカ、デンチュウ)約1、336、000 全国満遍なく分布し、大半の都道府県で上位にランクされるが、密度では西日本(沖縄県を除く)の方が多い。大阪府・山陰地方・福岡県のランキングでは1位であり、西日本全体でも1位を誇る。東日本でも関東地方(特に埼玉県入間・比企地域)・甲信越地方(特に長野県)・北海道では密度が高い。蘇我氏族の田中臣、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)、古代氏族であり、美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏などの様々な流派がみられる。大和国高市郡発祥は田中直の末裔、近江国高島郡発祥の族は佐々木氏流愛知族、甲斐国山梨郡発祥の族は清和源氏安田氏族、伊豆国多方郡発祥の族は桓武平氏北条氏族などさまざまみられる。家紋はかたばみ、木瓜など。語源は、田の中、耕作のための田居の語から発生したとされる。
5渡辺(ワタナベ、ワタベ)約1、135、000人 発祥地は大阪市中央区で、沖縄県を除く全国に満遍なく分布するが、密度は山梨県や静岡県など東日本南部または中京地方・九州(特に大分県)に多い。嵯峨天皇の皇子で源姓を賜った氏(嵯峨源氏)、源融四世の孫、渡辺綱の子孫。現大阪府北部と兵庫県の一部である摂津国西成郡渡辺が起源(ルーツ)である。他にも秀郷流藤原姓荒木氏族や赤松氏族、賀茂族などがある。家紋は三つ星に一、三つ星、丸に三つ星など。語源は、大阪淀川の渡しのあるあたりの意味。
6 伊藤(イトウ)約1、080、000人 中京地方及び東北地方・関東地方・近畿地方・山陰地方に多い。件数は愛知県が最も多いが、密度では三重県の方が多い。愛知県名古屋市では市町村としては最も件数が多い。中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。藤原秀郷の子孫、佐藤公清の曾孫基景が現三重県である伊勢に住み称したのに始まる。他にも伊豆国四方郡伊東庄発祥の族は藤原南家河津流であり伊東と記す。ほか相良流、越智流、伊香流などがある。家紋は庵木瓜、横木瓜、藤など。語源は、「伊」が伊勢または伊豆、「藤」が藤原氏を表している。藤原南家の流れであり、仁寿8年(852年)に藤原為憲の官職が「木工助」であったため「工藤大夫」と称した工藤氏を源流とする。その後、工藤氏の一部子孫が駿河に移住した駿河工藤に対して、東伊豆に移動した工藤氏の子孫が「伊豆工藤」と称し、この「伊豆工藤」が後に「伊藤」となった。また同じく工藤氏からは、工藤行政という人物が鎌倉幕府に仕えた際、鎌倉二階堂に屋敷を構えたのを機に"二階堂"を称した。よって二階堂氏も源流を同じくする。尚、伊豆工藤氏から分かれた奥州工藤氏は後に「栗谷川氏(厨川氏)」を名乗り、煙山氏、葛巻氏、田頭氏など多くの分派を広げた。またこれとは別に、藤原秀郷流の武士で伊勢国に領地を得て、「伊勢の藤原」を意味する伊藤を名乗った伊藤基景の名字に由来する伊藤氏も存在する。
7 山本(ヤマモト)約1、077、000人 どちらかといえば西日本に多いが、東北地方は多くない。北陸地方・山陽地方では1位、近畿地方・山陰地方では2位。東日本でも埼玉県や静岡県では上位にランクされる。賀茂社神職家、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)、日下部氏(古代日下部の職名から起こり、多くはその部民の末。草壁ともいう)など様々な流派がみられる。語源は、山のふもと。山の神との関係で神官が多い。賀茂姓、荒木田姓、度会姓などがある。家紋は巴、州浜、山本字、柏などがある。
8 中村(ナカムラ)約1、058、000人 全国に分布するどちらかといえば西日本に多い。特に近畿・九州地方に多い。中村連、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)など様々な流派がみられる。語源は、小さな村が大きくなると東出村、西出村のように分村ができ、このとき本村を中村ということから来ている。地名も多い。
9 小林(コバヤシ、オバヤシ)約1、019、000人 関東・信越・近畿・中国地方に多い。大神姓、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)秀郷流など、神官系に多数みられる。語源は、祭りに由来する小囃しや、小さな林、人家に近い林、灌木の茂みなどである。とくに目立つのは上野と信濃の小林氏である。上野の小林氏は桓武平氏の出で、緑野郡小林と多野郡御厨小林を根拠とした秩父氏高山党の分かれという。一方、信濃の小林氏は伊那郡と諏訪郡から発祥した二つの流れがあり、いずれも諏訪神家にゆかりがある。諏訪郡の小林氏は諏訪氏と同族であり、伊那郡の小林氏は知久氏の分かれである。知久氏は 清和源氏満快流だが、諏訪氏と姻戚関係があり諏訪氏とは同族とみなされる。その他、木曽義仲の子孫、藤原氏の流れという小林氏もいる。また、神官も多く見られ、伊勢の度会姓小林氏、大和宇陀郡小林の大神姓小林などがある。これは、木を伐採したのち山の神を祭ることに由来するようだ。さらに上総・下総・相模に平姓小林氏、下総・甲斐・三河・大和に藤原姓小林氏、東北の羽前・飽海郡、岩代・合津郡から発祥した小林氏がある。
10 斎藤(サイトウ)約980、000人 中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。藤原利仁の子、斎宮頭叙用が斎藤を称するに始まる。「斎」は斎宮頭の斎を表し、「藤」は藤原氏を表している。
となっている。
 因みに日高姓の全国順位は344位〔およそ6万3300人〕であった。現鹿児島県である薩摩、現鹿児島県東部である大隅の有名氏族は清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、子孫に現鹿児島県である薩摩藩の士族。ほか嵯峨天皇の皇子で源姓を賜った氏(嵯峨源氏)松浦党などにもみられる。「高」は高い様を表す。わが「日高」は、どうやら『松浦(まつら)党』の系統を引くものらしい。いうなれば、海賊の一統が、瀬戸内海から吉備地方を北上して石見(いわみ)地方に入ったものらしい。
e250f76d.jpeg  桜橋~白髭橋間をひと回りする。橋場の遊歩道沿いのマンションの裏庭に、木槿(むくげ)が溢れ落ちんばかりに咲き誇っている。「槿花一日の栄」というが、誠に人間の一生ははかないものだ。
 


9c609e85.jpeg 今年は、あの一番の元気者で、明るかったマイチが帰らぬ人となってしまった。最近は何かにつけてはちょっとしたことでマイチの姿が思い出される。帰宅後、古いアルバムからマイチの幼かった日(中学1年)の写真を取り出してスキャンしてみた。 
6cb487d2.jpeg 今年2月2日マイチが帰らぬ人となり、もうすぐに新盆が来る。浅草寺では毎年、8月15日に万霊燈篭供養会が行なわれるが、爺の本名「日高節夫」を施主として、「德譽祐心居士〔マイチの戒名〕」の霊を供養して戴くよう申し込んである。
 塾友諸君で、マイチと関わりある方々には無理のない範囲で、皆さん方がお誘い合わせの上お詣りして戴きたいものである。
 場所 浅草寺本堂  時刻 午後6時30分より
 
 なお、供養会は7時ごろまでには終わると言うことなので、このあと「マイチを肴にして、一杯やろう」と言うことで、現在ナベちゃんにお骨折り願っている。8月に入ったら、参加希望の方は10日までに、ナベちゃんか、もしくはこの爺(プロフィールにあるメールアドレス、または電話03-3874-7808)へご連絡をお願いする。おそらく、
 場所 ひさご通の「タケヤ」  時刻 午後7時30分ごろ  会費 四・五千円ぐらい
詳しいことが知りたい方は申し込みの際にお尋ね戴きたい。
 
 なお、マイチの思い出など、追悼文の書ける方はこの爺のブログに掲載させてもらいたいものだ。爺のメールへその旨を添えて送信してくだされば、掲載させて戴く。数が多ければ、追悼文集にしてもよいと思っている。
 
泰山不要欺毫末、 泰山(たいざん)は毫末(ごうまつ)も欺くを要せず、
顔子無心羨老彭。 顔子(がんし)は老彭(ろうほう)を羨(うらや)む心無
             し。
松樹千年終是朽、 松樹(しょうじゅ)千年、終に是れ朽ち、
槿花一日自為栄。 槿花(きんか)一日(いちじつ)、自ら栄を為す。
何須戀世常憂死、 何ぞ須(もち)ひん世を恋(した)ひ常に死を憂ふる
             を、
亦莫嫌身漫厭生。 亦た身を嫌(いと)ひ漫(みだ)りに生を厭ふこと莫
             れ。
生去死来都是幻、 生去(せいきょ)死来(しらい)、都(すべ)て是れ
             幻(げん)、
幻人哀楽繁何情。 幻人(げんじん)哀楽(あいらく)、何情(かじょう)に
             繁(かか)る。 
〔訳〕あの雄大な泰山は少しも拘泥するところなく、
   夭折した顔回は彭祖の長寿を羨む心無し。
   松の木も千年すれば終には朽ち、
   むくげの花は一日にして自ずからその生を全うする。
   いたずらに世を恋(こい)しみ死を憂う必要はなく、
   いたずらに身を嫌い生を厭う必要もない。
   生死の去来はすべて幻、
   されば幻なる人が哀楽するは果たして何の情なのか。
 
  昨日の朝、宝塚のS氏に送信したご来光の写真のお礼のメールが、携帯に入っていた。曰く、「FW:御礼 相変わらず早朝の散歩には感心しております。この暑さに花火見物を楽しみにする江戸っ子ならぬ人々の多さに驚いています。多分、江戸っ子は斜に構えて花火を楽しんでいるのかも…。今晩の隅田川の花火は何か想定外・今までに経験したことのない松下流花火であれば面白いかもしれませんね。「花火の明るさも電気料金に加算されるのかな…」とも言いたい今日この頃です。皮肉だとしても、この様な事を言えば江戸っ子に叱られるかもしれませんね。当方、猛暑の連日 マンションの狭さと腰痛のため行き場なし。なにはともあれ、体調に留意されますことを念じております。写真有難う御座いました。はっきり見たいので、パソコンから打ち出しました。そのため返事が遅れ申訳けありませんでした。
 
9312ca4a.jpeg
4ef81324.jpeg
76be3387.jpeg




 昨夜は、花火が終って、ついつい話し込み就寝したのは夜中の0時過ぎ。朝起きるとまだアルコールが残っており、朝の徘徊は取り止めた。撮影した花火の写真を見たが、どれもピンボケ。花火の写真は三脚無しでは到底無理。
 
 ウェブニュースから花火の記事2つ。
 
6a53e03b.jpeg ツリー展望台からも大輪に歓声 隅田川花火、2万発 ―― 東京・下町の夏の風物詩、隅田川花火大会が28日、東京都台東区と墨田区にまたがる会場で開かれ、5月に開業した東京スカイツリー(墨田区)の展望台でも2万発を超える花火に歓声が上がった。/高さ450メートルの「天望回廊」と同350メートルの「天望デッキ」が特別営業され、約186倍の抽選に当たった客ら計約750人が入場。眼下に次々と広がる花火の大輪を楽しんだ。/浴衣姿で妹と訪れた千葉県印西市の会社員近藤紀子さん(38)は「抽選に当たってびっくりした。上から見下ろす花火なんて初めてなので感動しました」とうれしそうだった。(Doshin 07/28 21:36)
 
a3e4767a.jpeg 展望台から隅田川花火=スカイツリー、700人楽しむ ―― 高さ世界一の電波塔、東京スカイツリー「東京都墨田区、634メートル)の展望台で28日夜、「隅田川花火大会」にあわせ、入場者700人限定の特別営業が行われた。打ち上げられた花火は約2万発。入場者は花火が彩った夜空を楽しみ、連続して何発も打ち上げられたフィナーレでは一斉に歓声を上げた。/抽選方式で売り出された入場券は倍率186倍の「プラチナチケット」となっていた。千葉県松戸市の主婦小栗理恵さん「39」は家族4人で来場。スカイツリーの展望台に来たのは2度目だが「ここから花火を見るチャンスは一生に一度。きれいに見えて良かった」と満足そうに話した。(jijicom 2012/07/28-21:17)
 
  昨日の朝、宝塚のS氏に送信したご来光の写真のお礼のメールが、携帯に入っていた。曰く、
FW:御礼 相変わらず早朝の散歩には感心しております。この暑さに花火見物を楽しみにする江戸っ子ならぬ人々の多さに驚いています。多分、江戸っ子は斜に構えて花火を楽しんでいるのかも…。今晩の隅田川の花火は何か想定外・今までに経験したことのない松下流花火であれば面白いかもしれませんね。「花火の明るさも電気料金に加算されるのかな…」とも言いたい今日この頃です。皮肉だとしても、この様な事を言えば江戸っ子に叱られるかもしれませんね。当方、猛暑の連日 マンションの狭さと腰痛のため行き場なし。なにはともあれ、体調に留意されますことを念じております。写真有難う御座いました。はっきり見たいので、パソコンから打ち出しました。そのため返事が遅れ申訳けありませんでした。
 
 昨夜は、花火が終って、ついつい話し込み就寝したのは夜中の0時過ぎ。朝起きるとまだアルコールが残っており、朝の徘徊は取り止めた。撮影した花火の写真を見たが、どれもピンボケ。花火の写真は三脚無しでは到底無理。
 
 ウェブニュースから花火の記事2つ。
 
ツリー展望台からも大輪に歓声 隅田川花火、2万発 ―― 東京・下町の夏の風物詩、隅田川花火大会が28日、東京都台東区と墨田区にまたがる会場で開かれ、5月に開業した東京スカイツリー(墨田区)の展望台でも2万発を超える花火に歓声が上がった。/高さ450メートルの「天望回廊」と同350メートルの「天望デッキ」が特別営業され、約186倍の抽選に当たった客ら計約750人が入場。眼下に次々と広がる花火の大輪を楽しんだ。/浴衣姿で妹と訪れた千葉県印西市の会社員近藤紀子さん(38)は「抽選に当たってびっくりした。上から見下ろす花火なんて初めてなので感動しました」とうれしそうだった。(Doshin 07/28 21:36)
 
展望台から隅田川花火=スカイツリー、700人楽しむ ―― 高さ世界一の電波塔、東京スカイツリー「東京都墨田区、634メートル)の展望台で28日夜、「隅田川花火大会」にあわせ、入場者700人限定の特別営業が行われた。打ち上げられた花火は約2万発。入場者は花火が彩った夜空を楽しみ、連続して何発も打ち上げられたフィナーレでは一斉に歓声を上げた。/抽選方式で売り出された入場券は倍率186倍の「プラチナチケット」となっていた。千葉県松戸市の主婦小栗理恵さん「39」は家族4人で来場。スカイツリーの展望台に来たのは2度目だが「ここから花火を見るチャンスは一生に一度。きれいに見えて良かった」と満足そうに話した。(jijicom 2012/07/28-21:17)
 今夕は7時過ぎより、隅田川花火大会が開催される。
77c52b75.jpeg 隅田川花火大会は、1732年に発生した大飢饉とコレラの死者を弔うため、1733年7月9日(旧暦、享保18年5月28日)両国の川開きに花火を催したのが始まりとされる。この当時は20発前後の花火で、かなりのんびりとしたものであった。打ち上げは最初期は鍵屋が担当したが、1810年に鍵屋の分家の玉屋(創業者は玉屋清吉、のちの玉屋市兵衛)が創業し、2業者体制となり、双方が腕を競いあっていた。鍵屋と玉屋は異なる打ち揚げ場所から交互に花火を揚げたため、観客は双方の花火が上がったところで、よいと感じた業者の名を呼んだ。これが、花火見物でおなじみの「たまやー」「かぎやー」の掛け声の由来といわれる。当時評判がよかったのは玉屋のほうで、「玉やだと又またぬかすわと鍵や云ひ」と川柳にあるように、玉屋の掛け声ばかりで鍵屋の名を呼ぶものがいない、といわれた時代もある。ただし、玉屋は1843年に火災を起こし、江戸処払いを命じられ、1代限りで断絶した。ただし、その後も江戸のすぐ近くで細々と営業していたという説もある。
 両国川開きの花火は、明治維新や第二次世界大戦などにより数度中断した。1961年から1977年まで、交通事情の悪化等により中断するが、1978年に現在の名称「隅田川花火大会」として復活し、以後毎年続けられている。
 毎年100万人近い人出が見込まれるこの大会は、桜橋下流から言問橋上流までの第1会場と、駒形橋下流から厩橋上流の第2会場合計で2万発以上の花火が打ち上がり、同時に、花火コンクールが行われる。今回はスカイツリーのライトアップの競演もあり、話題となっている。 
3f72bead.jpeg
c7b0eb85.jpeg
e063851c.jpeg



74fceba7.jpeg 今朝は起き抜けに、桜橋~言問橋を一周する。桜橋の下流に花火打ち上げのための浮桟橋が設けられた。桜橋を渡って、向島の遊歩道を南下する。遊歩道は、今夕の花火見物のための場所取りの人たちで占領されごったがえしている。酒を飲んで大声で放吟しているもの、麻雀やトランプを楽しんでいるもの、はたまた道に見っともない寝姿を曝け出している男女等で、所狭しと歩く場所すらない始末。言問橋を渡り、川沿いの遊歩道を北上。ここもまた、場所取りの人々が、大勢屯している。なかには、夏休みに入るとすぐから、1週間あまりも同じ場所に釘付けになっている若者のクループもある。こんな中の間を抜けて、再び桜橋手前から山谷掘水門広場を突っ切って帰宅した。
 
8a5d0937.jpeg 昨夕はロンドンで第30回夏季オリンピックの開会式が開かれたという。今朝のウェブニュースより
ロンドン五輪:開幕 204ヵ国・地域の1万500人参加 ――【ロンドン井上英介】五輪史上初めて同一都市3度目の開催となる第30開花期オリンピック大会は、27日羐「日本時間28日未明」~開会式を実施、28日は柔道、水泳、体操など19競技が行われる。今大会には、204の国・地域から選手約1万500人が参加。女子ボクシングの開催により、初めて実施全競技に女性参加種目が設けられ、史上初めて全参加国・地域から女性アスリートが出場する予定。ロンドン五輪組織委員会は、地球環境を守る「サステナビリティー(持続可能性)」を運営方針に掲げ、経済発展などを示す従来型とは違った新しい五輪を目指す。/今大会で実施されるのは、26競技302種目。前回の北京五輪28競技から野球とソフトボールが消えた。女性の肌の露出がイスラムの教えに反するとして出場を認めてこなかったサウジアラビア、カタール、ブルネイ3カ国が初めて女性選手を送る。  〔毎日新聞 2012年07月28日 05時00分(最終更新 07月28日 08時20分)〕
  「決めるべきことを先送りしないで、決めるときに決める政治を行う。これが日本において最大の政治改革だ」 大隈重信にでもなったつもりか? 母校・早大で講演したドジョウ首相に、「何を言ってるんだ」と呆れた国民も多かったはずだ。 日刊ゲンダイの記事2つ。
 
83b6fc81.jpeg 共通の敵 小沢一郎が去り 激化する民主党の内ゲバオスプレイ配備では前原VS玄葉  ―― 在日米軍基地へのオスプレイ配備をめぐって政府と党の対立が露呈した民主党政権。政府批判の急先鋒が前原誠司政調会長(50)だった。前原は「国民の納得」を盾に配備延期を主張。これに「地元の民意を軽く見ているということはない」と真っ向反論したのが玄葉光一郎外相(48)だった。/前原VS玄葉の構図に、民主党内からは「また始まった」と呆れる声が上がっている。この2人、もともと犬猿の仲なのだ。/「前原と玄葉は共に1993年の初当選組で松下政経塾でも8期生の同期。安保・外交を志向する前原さんが先に出世しましたが、昨秋の野田内閣発足で玄葉さんが外相に就任し、2人のライバル意識がますます強まりました」(民主党関係者)
 前原は政調会長なのにやたらと外遊し要人に会う。今年のゴールデンウイークには、ロシアのラブロフ外相とモスクワで北方領土について会談。今月16日にはソウルを訪問し、韓国の金外交通商相らと会談した。前原は「オレの方が外交は上だ」と言いたいのだろうが、外交にシャシャリ出てくる行動が玄葉の感情をさらに逆なでする。/「前原さんが“言うだけ番長”と批判された時は、玄葉さんは『オレは“言ったらやる番長”だ』とバカにしていたそうです」(前出の民主党関係者)/ま、この2人に限らず松下政経塾出身者は、野田、樽床、原口といずれも自分が一番と思っているから、結局、いがみ合う。これまでは「反小沢」というキーワードの下、共通の敵がいたが、小沢離党でそれがなくなれば、お互いにライバルを蹴落としにかかる。オスプレイをめぐる一幕は、民主党の「内ゲバ」の序の口。これからますます激しくなりそうだ。 〔2012年7月25日掲載〕
 
51934ca9.jpeg 米軍2兆円回収の悪巧み ウソ八百並べ宙に飛ぶ オスプレイ配備 <言いなりの日本に売りつけ元を取る> ―― 防衛省は25日、「MV22オスプレイ」の事故調査チームを設置、8月に米国に派遣することを決めた。調査といっても、米軍から説明を聞き、操縦シミュレーターで確認する程度だから、とても期待できない。
 だいたい、オスプレイについての日米両政府の説明はデタラメばかりだ。特にヒドイのは「事故率は低い」というウソ。防衛省は米側の言い分をうのみにし、10万飛行時間当たりの事故率を「1.93」と説明。普天間基地の現行機〔CH46〕の事故率(1.11)と同レベルか、むしろ「老朽化するCHを使い続ける方が危ない」(森本防衛相)と強調しているが、イカサマだ。/「この数字は、損害額200万ドル(約1億5600万円)以上か、死者発生の『Aクラス事故』に限ったもの。200万ドル未満やケガ人発生程度の『B、Cクラス事故』は含めず、意図的に低く見せている疑いが濃厚です」(沖縄県政担当記者)/フザケたことに、同型機の「CV22オスプレイ」の事故率は(13.47)と突出して高い。MVは海兵隊、CVは空軍が使用。CVは特殊作戦機のため、事故が多いのはやむを得ない――というのが、日本政府のスタンスだが、両機の違いは「CVだけには夜間飛行に備えた地形追随レーダーが装備されている程度。もちろん、レーダーの有無と事故は関係ありません」(軍事ジャーナリストの神浦元彰氏)/こんなポンコツCVを米軍は2016年までに嘉手納基地に9機も配備する計画なのだ。/「『騒音は低い』という説明もマヤカシです。あくまで、固定翼モードで高度飛行している際の話で、周辺住民に影響する着陸時の最大騒音は現行機よりはるかに大きい」(前出の県政担当記者)/米軍はなぜ、ウソ八百を並べ立てて「オスプレイ」を日本に配備したいのか。/「すでに米国は80年代からオスプレイ開発費に2兆円以上を費やしています。この間、カネだけでなく、多くの兵士が命を失った。今さら、製造、配備を中止するわけにはいかないのです」(神浦元彰氏=前出)/自分たちに言いなりの日本に持っていけば、開発費を回収できる――。米国の魂胆はそんなところだろう。事実、7月上旬に英国で開かれた航空ショーで、米海兵隊幹部は海外の通信社に「日本の海上自衛隊はオスプレイを買う」と漏らしたという。日本が欠陥ヘリ購入なんて悪夢である。 〔2012年7月26日 掲載〕
  昨夜、夜中に雨が降ったらしい。公園のベンチはどこも濡れていて、休む場所もない。花火の場所取りの若者が酒を飲んで大声で喚いている。桜橋~言問橋を歩いただけで帰宅し、新聞もまだ来ていないようなので、パソコンのニュースを見る。
 
 ここ数日のオスプレイについてのウェブニュースより
f159197a.jpeg オスプレイ抗議に1100人 岩国で集会や行進 ―― 垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの米海兵隊岩国基地への先行搬入が近づいた22日、搬入などに反対する集会が地元岩国市の市役所前広場であった。中国5県のほか、四国や沖縄などから約1100人「主催者発表」が参加し、×印を付けたオスプレイの写真を掲げて、絶対反対の意思をアピールした。/真夏日となったこの日の集会で、実行委員会の吉岡光則委員長が「地元の反対の声を無視した行為に満身の怒りを込めて抗議する」と声を上げた。米軍機の騒音被害が及ぶ岩国市由宇町の大学3年喜良紗也香さん(20)らも登壇し「日本のどの地域でも飛んでほしくない」と訴えた。/集会には、岩国に先行搬入後に配備が予定される沖縄県からも住民団体のメンバーらが続々と詰めかけ、「全国で危険な低空飛行が繰り広げられることになる。何とか力を合わせてオスプレイを阻止したい」などと共闘を呼び掛けた。/岩国搬入と国内配備撤回を求めるアピール案を採択。参加者全員で×印を付けたオスプレイの写真を頭上に掲げ、反対の意思を示して閉会。周辺約1キロをデモ行進した。/オスプレイを積んだ民間輸送船は22日よる、関門海峡を抜けた。23日朝にも岩国沖に姿を現すとみられる。/基地に近い岩国市尾津町の主婦布施里美さん(39)は3歳の長男を連れて参加し「小さい子がいる親としては安心して住める町であってほしい。一人の声は小さいがみんなで反対の意思を伝えたい」と話していた。 (中国新聞 '12/7/23)
 
 オスプレイ安全策を協議へ=日米合同委 ―― 日米両政府は26日、地位協定に基づく日米合同委員会を都内で開催する。米軍岩国基地(山口県岩国市)に一時駐機のため陸揚げされた米海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイについて、運用上の安全確保策を協議する。/日本側は外務省の秋葉剛男北米局参事官や防衛省の鈴木良之地方協力局次長が、米側は在日米軍司令部の担当者が出席する予定。/合同委について玄葉光一郎外相は25日、外務省を訪れた二井関成山口県知事に対し、「運用ルールや低空飛行の問題をしっかり協議する」と語った。日本政府は、配備先の米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)での運用や日本国内各地で計画する低空飛行訓練について、住民の安全に配慮した飛行ルートや高度設定を求める方針だ。/オスプレイをめぐり日米両政府は、4月以降にモロッコと米フロリダで起きた墜落事故に関する米軍の調査で機体の安全性が確認されない限り、日本では飛ばさないことを申し合わせている。  (jijicom 2012/07/26-05:16)
 
f84f20d6.jpeg Osprey(オスプレイ)とはアメリカ軍の最新鋭輸送機(ティルトローター機)の愛称。米国防省のJVX(統合垂直離着陸機)計画の下、ベル社とボーイング社が開発した。現在、海兵隊用「MV22」と空軍用「CV22」の2機種が製造されている。初飛行は1989年で、正式配備は2007年。イラク、アフガニスタン、リビアでの実戦にも投入されている。日本の米軍基地にも、老朽化が指摘されているCH46(輸送用ヘリ)の後継機として配備が計画され、12年7月23日に「MV22」12機が岩国基地(山口県)に搬入された。点検作業等を経たのち、同年10月、「世界一危険な基地」とされる普天間基地(沖縄県)に移される。今後、更に12機が導入される予定。オスプレイは、左右の固定翼にそれぞれ回転翼(ローター)を備えている。その角度を97.5度から0度まで(垂直方向から水平方向まで)変えることにより、ヘリのように垂直離着陸や空中停止することも、飛行機のように水平に高速飛行することも可能。また、中間の60~75度で、短距離離着陸 (STOL)もできる。時速は約500キロメートルで、CH46の2倍近い。航続距離は約3900キロメートルで、CH46の5倍以上。作戦行動半径(人員・物資を搭載して、目的地と往復できる距離)も約600キロメートルで、CH46の約4倍。空中給油も可能で、1回の補給で行動半径は1000キロメートルを超える。これは、沖縄を中心にすると、朝鮮半島、中国大陸東部、南シナ海までを含む範囲。輸送兵員も24人でCH46の2倍、貨物の搭載量も約3倍。飛行高度も最高約7500メートルで、他機からの攻撃も受けにくい。こうした点から政府内では、北朝鮮や中国に対する軍事抑止力としての期待が高まっている。しかし、ヘリと航空機の「良いとこどり」のシステムは複雑で、操縦にも高度な技術を要する。開発段階から計8回(配備後は4回)も重大事故を起こしており、犠牲者数は36人に及んでいる。米国では「ウィドウ・メーカー」(未亡人製造器)の汚名が付けられ、最近も12年4月にモロッコで、6月に米国フロリダ州で事故を起こしている。いずれも事故原因が解明されておらず、とりわけ基地周辺での安全性が懸念されるが、「海兵隊の資料によると、10万飛行時間当たりのオスプレイの事故率は1.93であり、海兵隊戦闘機の平均2.45と比べて低く、またCH46の1.11とも大差ない」という反論もある。ただし、これには空軍用機の事故は含まれておらず、また、09年に海兵隊が事故認定の基準を引き上げたこと、事故隠蔽(いんぺい)の疑いも指摘されていることなどから、数値の信憑性(しんぴょうせい)を疑問視する声は強い。
《昨日の続き》
1268a67d.jpeg 文月は陰暦7月をさす。短冊に歌や字を書き、書道の上達を祈った七夕の行事に因み、「文披月(ふみひらきづき)」が転じたとする説が有力とされる。/その他、陰暦七月が稲穂が膨らむ月であるため、「穂含月(ほふみづき)」「含月(ふくみづき)」からの転とする説。/稲穂の膨らみを見る月であるため、「穂見月(ほみづき)」からの転とする説もある。/英語での月名、Julyは、ユリウス暦を創った共和政ローマ末期の政治家、Julius Caesar (ユリウス・カエサル)にちなむ。Caesarは紀元前45年にユリウス暦を採用するのと同時に、7月の名称を「Quintilis(クィンティリス)」から自分の家門名に変更したという。
 
1ea5801c.jpeg 葉月は陰暦8月の和名。新暦では九月上旬から十月上旬の秋にあたるため、葉の落ちる月「葉落ち月」が転じて「葉月」になったとする説。/北方から初めて雁が来る月なので、「初来月」「初月」から「葉月」になったとする説。/稲の穂が張る月「穂張り月」「張り月」から、「葉月」になったとする説がある。/「葉落ち月」の説が有力にも思えるが、必ずしも漢字がそのまま残るとは限らず、当て字の可能性もあるため、正確な語源は未詳。/英語名Augustは、ローマ皇帝Augustus(アウグストゥス)に由来する。アウグストゥスは紀元前1世紀、誤って運用されていたユリウス暦の運用を修正するとともに、8月の名称を「Sextilis」から自分の名に変更した。
 
 長月は陰暦9月の和名。語源は諸説あり、新暦の十月上旬から十一月の上旬にあたり、夜がだんだん長くなる「夜長月(よながつき)」の略とする説。/その他、雨が多く降る時季であるため、「長雨月(ながめつき)」からとする説。/「稲刈月(いなかりづき)」「稲熟月(いなあがりつき)」「穂長月(ほながづき)」の約や、稲を刈り収める時期のため、「長」は稲が毎年実ることを祝う意味からといった説。/「名残月(なこりのつき)」が転じたとする説などがある。/この中でも「夜長月」の略とする説とする説は、中古より広く信じられている説で最も有力とされている。/英語での月名、Septemberは、ラテン語表記に同じで、これはラテン語で「第7の」という意味の「septem」の語に由来しているのに不一致が生じているのは、BC46年に、それまで3月を年の始めとしていたのを1月を年の始めとすると改めたにもかかわらず、名称を変えなかった為である。
 
 神無月は陰暦10月をさす。語源は、神を祭る月であることから「神の月」とする説が有力とされ、「無」は「水無月」と同じく「の」を意味する格助詞「な」である。/中世の俗説には、10月に全国の神々が出雲大社に集まり、諸国に神がいなくなることから「神無月」になったとする説があり、出雲国(現在の島根県)では反対に「神有月・神在月(かみありづき)」と呼ばれる。/その他の説では、雷の鳴らない月で「雷無月(かみなしづき)」が転じたとする説や、新穀で酒を醸す月なので「醸成月(かみなしづき)」が転じたとする説がある。/英語での月名、Octoberは、ラテン語表記に同じで、これはラテン語で「第8の」という意味の「octo」の語に由来している。実際の月の番号とずれているのは、BC46年まで使われていたローマ暦が3月起算で、(そのため年末の2月は日数が少ない)3月から数えて8番目という意味である。
 
 霜月は陰暦11月の和名。「霜降り月・霜降月(しもふりつき)」の略とする説が有力とされる。/その他、十は満ちた数で一区切りなので上月になり、それに対して下月とする説や、「神無月」を「上な月」と考えて「下な月」とする説など、上下の「下」とみる説。/「食物月(をしものつき)」の略とする説や、「摺籾月(すりもみづき)」の意味など諸説あるが、いずれも有力とはされていない。/英語での月名、Novemberは、「9番目の月」の意味で、ラテン語で「第9の」という意味の「novem」の語に由来している。
 
 師走は陰暦12月の和名。当て字で、語源は以下の通り諸説あり、正確な語源は未詳である。/師匠の僧がお経をあげるために、東西を馳せる月と解釈する「師馳す(しはす)」がある。この説は、平安末期の「色葉字類抄(いろはじるいしょう)」に、「しはす」の注として説明されている。/現代の「師走」と漢字の意味も近く、古い説であるため有力に思えるが、「師馳す」説は民間語源で、この説を元に「師走」の字が当てられたと考えられる。/その他、「年が果てる」意味の「年果つ(としはつ)」が変化したとする説。/「四季の果てる月」を意味する「四極(しはつ)」からとする説。/「一年の最後になし終える」意味の「為果つ(しはつ)」からとする説などがある。/英語での月名、Decemberは、「10番目の月」の意味で、ラテン語で「第10の」という意味の「decem」の語に由来している。
 暦法における月齢(げつれい)とは、直前の朔の瞬間からの経過時間を日を単位として表したものである。特に、ある日の正午の月齢をその日の月齢と呼ぶこともある。概ね、月の満ち欠け(月相)と連動するが、必ず一致するわけではない。例えば、望(満月)の瞬間の月齢は13.8から15.8の間で変動する。すなわち、月齢14の日が満月とは限らない。これは月の軌道が楕円であるため、満ち欠けの速度が一定にはならないからである。また、朔の瞬間を含む日が旧暦の月始め(1日)だったので、月齢の値と旧暦の日付は関連があることになる。
 月齢(数字)と月名、月相(写真)
f1711cf7.jpeg 1:朔(さく)/新月(しんげつ) | 2:既朔(きさく) | 3:三日月(みかづき) | 7/8:上弦(じょうげん) | 13:十三夜(じゅうさんや) | 14:小望月(こもちづき)/幾望(きぼう) | 15:望(ぼう)/満月(まんげつ)/望月(もちづき) | 16:十六夜(いざよい)/既望(きぼう) | 17:立待月(たちまちづき) | 18:居待月(いまちづき) | 19:寝待月(ねまちづき)/臥待月(ふしまちづき) | 20:更待月(ふけまちづき) | 22/23:下弦(かげん) | 29/30:晦(つごもり)
 
 時間単位の「月」は、日次経過を知る際に天体の月の相(満ち欠け)の様子を見ることで容易に認識できることから生じた。新月から次の新月までの周期を指す1朔望月である約29.53日から30日(大の月)もしくは29日(小の月)を1か月としていた。この周期単位を用いる太陰暦では、1年は約354.4日となってしまい、季節の循環を司る太陽が天球を一巡する周期である365.2422日と、三年で1か月程度ずれが積み重なるため、閏月を適宜加える太陰太陽暦が作られたのである。
 
 日本では伝統的に、現代暦の各月に太陰暦で使われた呼称を引き継いだ和名(和風月名)が置かれている。一方で、「一月」「二月」という表記も古代から使用され、最古の例は奈良時代の720年に編纂された『日本書紀』(神武紀)に見られる漢字「二月」に片仮名の訓で「キサラギ」など、数字表記と和風月名が併記された部分がある。なお11月は「十有一月(シモツキ)」、12月は「十有二月(シハス)」である。また、各月には様々な異称がある。
 太陰暦で使われた呼称の語源について、調べてみた。ちなみに、暦の語源は「日読み(かよみ)」が転じた言葉であるという。「日」を「か」と読むのは、「二日(ふつか)」「三日(みっか)」などと同じ「ひ」の交替形。「読み」は「数える」を意味し、「日読み」で「日を追って数える」ことを意味する。「かよみ」から「こよみ」の転は、「よ」の母音が「か」の母音に影響を与えたことによるものだという。720年の『日本書紀』には、朝鮮半島から渡来した暦博士によって暦が初めて作られ、持統四年の勅令で暦法が公式に採用されたと記されている。
 
 睦月とは、陰暦正月(1月)をさす。/睦月は、親類知人が互いに往来し、仲睦まじくする月からとする説が有力とされる。/その他、稲の実をはじめて水に浸す月で、「実月(むつき)」が転じたとする説。/元になる月で、「もとつき」が「むつき」に転じたとする説がある。/英語のJanuaryは、ローマ神話の出入り口とドアの神Janus(ヤヌス)にちなむ。年の入り口にあたることから、Janusの月となった。
 
 如月とは、陰暦2月をさす。/寒さで着物を更に重ねて着ることから、「着更着(きさらぎ)」とする説が有力とされる。/その他、気候が陽気になる季節で「気更来(きさらぎ)」「息更来(きさらぎ)」とする説。
草木が生えはじめる月で「生更木(きさらぎ)」とする説。/草木の芽が張り出す月で「草木張り月(くさきはりづき)」が転じたとする説がある。/Februaryはローマ神話のFebruus〔フェブルウス、古代ローマにおいて、毎年2月に執り行われた慰霊祭Februaria(フェブルアーリア) の主神〕をまつる祭りから取ったと言われている。
 
 弥生とは、陰暦3月をさす。/「弥生(いやおい)」が変化したものとされる。「弥(いや)」は、「いよいよ」「ますます」などの意味。「生(おい)」は、「生い茂る」と使われるように草木が芽吹くことを意味する。/
草木がだんだん芽吹く月であることから、弥生となった。/英語のMarchはローマ神話のMars〔マルス、戦と農耕の神〕の月を意味するMartius(マルティウス)から取ったもの。
 
 卯月とは、陰暦4月をさす。/卯の花が咲く季節なので、「卯の花月」の略とする説が有力とされ、卯月の「う」は「初」「産」を意味する「う」で、一年の循環の最初を意味したとする説もある。/その他、稲を植える月で「植月」が転じたとする説もあるが、皐月の語源と近く、似た意味から別の月名が付けられたとは考え難い。/また、十二支の四番目が「卯」であることから、干支を月に当てはめ「卯月」になったとする説もあるが、他の月で干支を当てた例がないため不自然である。仮に、卯月だけに干支が当てらたとしても、月に当てられる十二支は一月から順ではなく、陰暦の四月が「巳」、「卯」は陰暦の二月である。/英語での月名、Aprilはラテン語のAprilis 〔Venus(ウェヌス)相当するギリシャの女神Aphrodītē(アフロディーテ)のエトルリア名Apruより〕に捧げられた月。
 
 皐月は陰暦5月をさす。耕作を意味する古語「さ」から、稲作の月として「さつき」になった。/早苗を植える月「早苗月(さなえづき)」が略され、「さつき」になったとする説もあるが、「早苗」の「さ」も耕作の「さ」が語源とされる。/漢字「皐」には「神に捧げる稲」の意味があるため、皐月が当てられたと思われる。/英語名などのMayはローマ神話で豊穣を司る女神Maia (マイア) の名に因むといわれている。12か月で唯一英語名に略称が存在しない(英語名の略称は3文字で表すため、もともと3文字の5月は略称が無い)。
 
5a424261.jpeg 水無月は陰暦6月をさす。水の無い月と書くが、水が無いわけではない。水無月の「無」は、神無月の「な」と同じく「の」にあたる連体助詞「な」で、「水の月」という意味である。陰暦六月は田に水を引く月であることから、水無月と言われるようになった。/旧暦の六月は梅雨が明けた時期になるため、新暦に当てはめて解釈するのは間違いで、水無月は「水の無い月」とするものもある。/しかし、「水の月」説は新暦以前から伝えられており、新暦に合わせたものではない。/「水の無い月」の説は梅雨を基準にされているが、梅雨の時期である旧暦五月「皐月」が梅雨に関係していないため不自然で考え難い。/英語名であるJuneはローマ神話のJuppiter(ユピテル、ジュピター)の妻Juno(ユノ、ジュノー)から取られた。Junoが結婚生活の守護神であることから、6月に結婚式を挙げる花嫁を「June bride」(ジューン・ブライド、6月の花嫁)と呼び、この月に結婚をすると幸せになれるといわれる。
 
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


小冊子の紹介
カレンダー
04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
最新コメント
[enken 02/23]
[中村東樹 02/04]
[m、m 02/04]
[爺の姪 01/13]
[レンマ学(メタ数学) 01/02]
[m.m 10/12]
[爺の姪 10/01]
[あは♡ 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
最新トラックバック
ブログ内検索
カウンター
Powered by ニンジャブログ  Designed by ゆきぱんだ
Copyright © 瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り All Rights Reserved
/