現在の緑町から桜木町に至るあたりを“牧の野”と呼んでいたころのことです。そのころのこのあたりは、今日のような賑やかさはなく、一面の蓮田か葦の生い茂った寂しい所でした。ですから“牧の野”の名がついたのでしょう。
この牧の野の地続きに“千住宿”がありましたが、千住宿は、奥州方面から江戸入りをする第一歩の地であり、また、江戸を去る第一歩の地でもありました。
したがって、その繁盛ぶりは目を見張るものがあり、問屋場、旅籠(ハタゴ゙)(宿)(ヤド゙) 商売屋(アキナイヤ)などが軒をならべていました。
そうした中に、峰岸楼という食売旅籠が2丁目にありました。食売旅籠とは、お客が宿泊するばかりか、それ以外に、女中さんつまり飯盛女に接待してもらう歓楽の場所でした。その峰岸楼に、“お牧さん”という若くて器量よしの女中さんがいました。お牧さんは、器量がよいばかりではなく、素直で気立てもよいので、お客の評判が大変よかったようです。
そうしたことから、“お牧さん”“お牧さん”と、指名のお客が多く、いわば峰岸楼の看板的な存在でした。お牧さんが、ここに奉公にあがったのは数年前ですが、なんでも川越在の農家の娘で、家の事情から前借りでここに住み込んだようです。
言葉に多少の訛語(ナマリ) はありましたが、かえってそれが器量と気立てのよさにひきたてられて、ひとつの愛嬌とさえなっておりました。
それはある晩のことでした。たまたま訪れてくれたお客の中に、川越夜舟の船頭がおりました。最初のうちはそれと気づきませんでしたが、話をする言葉つきに、自分と共通するものを感じ親しさを覚えました。相手の船頭も、女の言葉の中に相通ずるものをくみとって、ふるさとを同じくする者であることを知りました。何もわからない他国で、同国の者とめぐり会えることほど、心強く思うことはありません。二人の心はいつしか結ばれて、逢う瀬を楽しむ回数も次第に増え、その評判は、峰岸楼の朋輩や船頭仲間にまで伝わりました。
二人はそのうちに夫婦になる約束をするだろうと、占師のように先々を見通した言葉を吐くおせっかいやまで出てきました。
ところで、ご当人の心はおせっかいやの言葉どおり決っておりました。ただそれができないのは、前借金があることです。
このお金を返済しないかぎり、お牧さんは自由の身になれないのです。自由の身になれなければ、船頭のおかみさんにはなれまん。
二人にとってこのときほど、世の中のはかなさを感じたことはありませんでした。そこで、自分達の望みを果たすために、ある夜駆け落ちをすることにしました。日時を決め、約束の場所は人気の少ない“牧の野”としました。峰岸楼をそっと抜け出したお牧さんは、人目を避けるように裏通りから牧の野へまいりました。腰をかがめて、葦の葉で身を隠しながら恋しい人の来るのを待ち続けました。が、いくら待っても約束を交わした人は、この約束の場所牧の野には姿を見せませんでした。このままでは峰岸楼へは帰れませんし、かといって故郷へも帰ることはできません。思いあまったお牧さんは、夢遊病者のように歩き回って千住河岸(カシ) にたどりつきました。
そして、心変わりをした男への怒りと悲しみを抱いて、荒川へ自らの身を沈めてしまいました。それからというものは、川越夜舟が牧の野のあたりを通りますと、その葦の茂みから大蛇が出てきて、船の横腹にぶつかって転覆させるということが度々続きました。
この話を聞いた千住宿の人達は、思いがかなわなかったお牧さんの祟(タタリ)にちがいないと言いました。大蛇に船を沈められた船頭達は、仲間の不信行為を恥じて、お牧さんの故郷である川越にお地蔵様をたてて、その冥福を祈ったということです。
その後は、大蛇の出ることもなく、川越夜舟は平穏な運航を続けることができたと伝えられています。
ただわからないのは、お牧さんとの約束を履行しなかった船頭の消息ですが、いつしか川越夜船から姿を消したそうです。
※川越夜船 川越と江戸との間を定期的に運航し、品物や人を運搬していました。川越をおよそ午後4時ごろ出帆し、千住河岸へ翌朝の8時ごろ、16、7時間かけて着くので、いつとはなしに“川越夜舟”の名がついたそうです。
※船頭気質 板子一枚下は地獄だ。“宵越しの銭は持たない”というのが船頭気質で、千住河岸へ着くと、千住宿の飯盛女を相手に一夜を明かし派手な遊びをしたようです。
※食売旅籠 平旅籠と区別して食売旅籠というのがありました。平旅籠は、ただ宿泊だけを目的としたものですが、食売旅籠は、それ以外に女中さん(飯盛女)のサービスがついていました。飯盛女のことを遊女と呼んでいます。
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