瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
漢書 李廣・蘇建傳 より (2)
律知武終不可脅、白單于。單于愈益欲降之、乃幽武置大窖中、絕不飲食。天雨雪、武臥齧雪與旃毛并咽之、數日不死、匈奴以為神、乃徙武北海上無人處、使牧羝、羝乳乃得歸。別其官屬常惠等、各置他所。武既至海上、廩食不至、掘野鼠去屮實而食之。杖漢節牧羊、臥起操持、節旄盡落。積五六年、單于弟於靬王弋射海上。武能網紡繳、檠弓弩、於靬王愛之、給其衣食。三歲餘、王病、賜武馬畜服匿穹廬。王死後、人眾徙去。其冬、丁令盜武牛羊、武復窮厄。
〔訳〕衛律は蘇武がどうしても脅しに乗らぬと見て、単于に申し上げる。単于はいよいよますます蘇武を降伏させたいと思う。そこで武を大きな穴蔵に幽閉しておき、まったく飲食物を与えずに置いた。雪が降ってきた。武は寝たまま、雪をかじり、毛氈の毛と一緒に飲みこむ。数日経っても死なない。匈奴はただ人でないと思い、武を北海〔バイカル湖〕のほとり、人なきところに移し、牡羊を飼わせた。牡羊が仔を産んだら、帰してやろうという。部下の常恵らは別々にして、おのおのよそに置いた。蘇武は北海のほとりに着いた。食糧を届けてくれる者もいない。野鼠を掘り、草の根を貯蔵して食べる。漢の節〔使者の杖〕を杖について羊を飼い、寝ても覚めても放さない。節についていた水牛の尾はすっかり落ちてしまった。かくて五・六年。単于の弟の於靪王(おけんおう)が北海のほとりで弋(いぐるみ)で狩りをした。蘇武は網を編んだり、弋に使う繳(よりいと)を紡いだり、弓や弩を矯(た)め直す術を心得ていた。於靪王は蘇武を可愛がり、衣食を与えてくれた。三年余りして於靪王は病んだ。蘇武に馬などの家畜・甕・天幕を下された。王が死ぬと、供の者も引っ越して行った。その冬丁霊の民が牛や羊を盗んだので、蘇武はまたまた困窮した。
初、武與李陵俱為侍中、武使匈奴明年、陵降、不敢求武。久之、單于使陵至海上、為武置酒設樂、因謂武曰:「單于聞陵與子卿素厚、故使陵來說足下、虛心欲相待。終不得歸漢、空自苦亡人之地、信義安所見乎?前長君為奉車、從至雍棫陽宮、扶輦下除、觸柱折轅、劾大不敬、伏劍自刎、賜錢二百萬以葬。孺卿從祠河東后土、宦騎與黃門駙馬爭船、推墮駙馬河中溺死、宦騎亡、詔使孺卿逐捕不得、惶恐飲藥而死。來時、大夫人已不幸、陵送葬至陽陵。子卿婦年少、聞已更嫁矣。獨有女弟二人、兩女一男、今復十餘年、存亡不可知。人生如朝露、何久自苦如此!陵始降時、忽忽如狂、自痛負漢、加以老母繫保宮、子卿不欲降、何以過陵?且陛下春秋高、法令亡常、大臣亡罪夷滅者數十家、安危不可知、子卿尚復誰為乎?願聽陵計、勿復有云。」武曰:「武父子亡功德、皆為陛下所成就、位列將、爵通侯、兄弟親近、常願肝腦塗地。今得殺身自效、雖蒙斧鉞湯鑊、誠甘樂之。臣事君、猶子事父也、子為父死亡所恨。願勿復再言。」陵與武飲數日、復曰:「子卿壹聽陵言。」武曰:「自分已死久矣!王必欲降武、請畢今日之驩、效死於前!」陵見其至誠、喟然歎曰:「嗟乎、義士!陵與衛律之罪上通於天。」因泣下霑衿、與武決去。
〔訳〕当初、蘇武は李陵とともに侍中になっていた。蘇武が匈奴に使いして、その翌年に李陵が匈奴に降参したのだが、李陵は恥じて蘇武を尋ねて来ようとはしなかった。しばらくしてから、単于は李陵を北海のほとりに遣わし、蘇武のために酒宴を開き音楽を奏でさせた。それをしおに李陵が蘇武にいうよう、
「単于さまには、わしが子卿〔武の字〕どのと昵懇であったと聞かれたもので、わしにそなたを説き伏せるようとの仰せ。単于さまには隔意無(の)うそなたをもてなすおつもりじゃ。そなた、どうせ漢に帰ること相かなわず、あだに人なき土地で身を苦しめても、その忠義だれが見知ってくれよう? 以前、そなたの兄者の長君(嘉の字)どのには、帝のお供をして雍〔よう、陝西省翔県〕の棫陽(よくよう)宮に参ったおり、お車を支えながら、ご門内の石畳を降りる際、柱に突き当たり、轅(ながえ)を折ったで、大不敬罪にとわれ、剣で自害をなされた。銭二百万を下げ渡され、それで葬いを出された。弟御の孺卿〔じゅけい、賢の字〕どのには、帝が河東〔山西省〕の后土〔大地の神〕の祭に行かれる御供したおり、騎馬の宦官が黄門駙馬〔こうもんふば、天使の添え馬を司る長官〕と船を取り合い、駙馬を河中に押し落として溺れ死にさせ、下手人は逃げた。勅命で孺卿どのが召し取りに行かれたが、つかまらず、恐れ入って毒を飲んで果てられた。わしがこちらへ来るおり、そなたの母君はすでに身没(まか)られて、わしも陽陵〔陝西省咸陽県〕まで野辺送りさせて頂いた。子卿どのの嫁御はまだお若かったが、聞けばもう再縁されたとのこと。妹御が二人、娘御が二人、男の御子が一人だけ残っておられたが、それも今ではもう十年余り、生死のほども知れがたい。人の命は朝露のようなもの。何でかように久しゅう自分から苦労なさる? わしも降参して間もないころは、ぼんやりとして気違い同然。漢にそむいたことで胸は痛む。その上老母は保宮〔宮中の獄舎〕に縛られておるわ。子卿どのが降参しとうない気持ちとて、わしより甚だしゅうはないはず〔蘇武の方が家族への顧慮が少なくてすむ〕。それに陛下はもうお年を召され、お触れは気紛れなもの。大臣のうち、罪も無(の)うて一族皆殺しにされたもの、数十件もある。忠義だてしたとて明日の命ははかりがたい。子卿どの、この上、だれのために苦労なさるる? 何とぞわしのいうとおりになされい。もうなにも申さるるな!」武がいうよう、
「わしが親子は手柄も器量もないに、いずれも陛下のお引き立てを蒙り、位は列将、爵は列侯に加えて頂いた。兄弟ともにお側近う使われた。つねづね身を粉に砕いてご奉公したいと願うていた。今、身を殺して忠義を尽くし得れば、胴切り釜茹での刑になろうとも、甘んじてお受けいたす。臣が君に仕えるは、子が父に仕えると同じこと。子が父のために死んでも、悔やむことはない。同かもう二度と言うてくれるな!」
李陵は、蘇武と飲み暮らして数日、また言いかけた。
「子卿どの、たってわしの言うことを肯(き)かれい」
武「わしはもうとっくに、死んだものと覚悟しておる。そなたがどうでもわしを降参させようとあらば、今日一日楽しゅう飲んだあと、そなたの目の前で死んで見せよう」
李陵は蘇武のまじり気のない真心を見て取ると、ほっと吐息していった。
「ああ、義士じゃ。わしと衛律との罪は天道様も見通しというもの」
そこではらはらと落涙して襟を濡らした。蘇武に別れを告げて立ち去る。
陵惡自賜武、使其妻賜武牛羊數十頭。後陵復至北海上、語武:「區脫捕得雲中生口、言太守以下吏民皆白服、曰上崩。」武聞之、南鄉號哭、歐血。旦夕臨、數月。昭帝即位、數年、匈奴與漢和親。漢求武等、匈奴詭言武死。後漢使復至匈奴、常惠請其守者與俱、得夜見漢使、具自陳道。教使者謂單于、言天子射上林中、得雁、足有係帛書、言武等在某澤中。使者大喜、如惠語以讓單于。單于視左右而驚、謝漢使曰:「武等實在。」於是李陵置酒賀武曰:「今足下還歸、揚名於匈奴、功顯於漢室、雖古竹帛所載、丹青所畫、何以過子卿!陵雖駑怯、令漢且貰陵罪、全其老母、使得奮大辱之積志、庶幾乎曹柯之盟、此陵宿昔之所不忘也。收族陵家、為世大戮、陵尚復何顧乎? 已矣!令子卿知吾心耳。異域之人、壹別長絕!」陵起舞、歌曰:「徑萬里兮度沙幕、為君將兮奮匈奴。路窮絕兮矢刃摧、士眾滅兮名已隤。老母已死、雖欲報恩將安歸!」陵泣下數行、因與武決。單于召會武官屬、前以降及物故、凡隨武還者九人。
〔訳〕李陵は自分の名で蘇武に物をやることをはばかり、己れの妻(単于の娘)から蘇武に牛羊数十等を贈らせた。その後、李陵は再び北海のほとりに行き、蘇武に告げた。
「区脱〔おうだつ、漢との境にいる匈奴〕が雲中〔山西―綏遠(すいえん)〕の漢民を生け捕りにしたが、虜の言うには、太守以下、役人も民もみな白い服〔喪服〕を着ており、『お上〔武帝〕がなくなられた』といっておるのを聞いた由じゃ」
蘇武はそれを聞くと、南のほうに向かって慟哭回向し、血を吐くまで哭き続けた。数ヶ月というもの、朝晩の哭(こく)を欠かさなかった。昭帝が即位し〔BC86年〕、数年して匈奴と漢が和睦した。漢は蘇武らを引き渡せという。匈奴は蘇武は死んだと嘘をついた。後、漢の使者がまた匈奴に行く。常恵(? ~BC47年)は番人に頼み込み、番人と連れ立って夜中に漢の使者と会うことができた。詳しく事の経緯を陳述した上、使者に教えて言う。
「単于にこういいなされ、『漢の天子が上林〔陝西省にある御料林〕で狩りをなされ、雁を射落したところ、雁の足に絹の手紙が結び付けてあった。文面よれば、蘇武らはしかじかの沢のなかにいるとの事でござるが』と」
使者は大いに喜び、常恵にいわれたとおり、単于を責めた。単于はびっくりして左右を見回したが、漢の使者に詫びた。
「まことは、蘇武ら、生きておる」
ここで李陵は酒盛りして蘇武を祝っていう。
「今、そなたは帰られる。名を匈奴に轟かせ、手柄は漢廷に輝くであろう。古(いにしえ)の史(ふみ)に記し、丹青(えのぐ)で描いた〔御所の壁面に功臣の肖像あり〕功臣とて、子卿どのに過ぎる者があろうか? わしは愚かで腰抜けとはいえ、もしあの時、漢がしばしわが罪を目こぼしし、わが老母をながらえさせ、大きな恥を雪(すす)がんとの積もる志をふるい立てる機会(おり)をくれていたならば、柯(か)の盟いにおける曹劌〔そうけい、〕にも劣らぬ働きをして見せようものを! これこそわしが平生忘れずに持っていた志じゃ。それをわしの一家を捕らえて皆殺しにし、世間に晒し者にされては、わしとて、もはや後ろ髪引かるる気は無(の)うなった。さらばじゃ。子卿どのにわしの心を知ってもらいたかったまでのこと。お互い異国の人間。一たび別れなば、二度と会うこともなるまい」
陵は立ち上がって舞った。歌っていう
万里を径(へ)て沙漠を度(わた)り、
君が将となって匈奴に奮う。
路窮絶(とだ)え矢刃は摧(くだ)け、
士衆は滅びて名すでに隤(くず)る。
老母はすでに死したれば、
恩に報いんと欲すと雖も将(はた)安(いずく)にか帰せん。
李陵ははらはらと涙を流し、そのまま蘇武と別れた。単于は蘇武の部下を呼び集めた。さきに降参した者、亡くなった者があり、蘇武について帰る者は全部で九人である。
※曹劌(そうけい): 春秋左氏伝では曹劌、史記では曹沫〔そうまつ、 生没年未詳〕と記されるので読み方は(カイ)が正しいとされるという。魯の荘公に仕えた将軍。人物については後日調べてみようと思う。
律知武終不可脅、白單于。單于愈益欲降之、乃幽武置大窖中、絕不飲食。天雨雪、武臥齧雪與旃毛并咽之、數日不死、匈奴以為神、乃徙武北海上無人處、使牧羝、羝乳乃得歸。別其官屬常惠等、各置他所。武既至海上、廩食不至、掘野鼠去屮實而食之。杖漢節牧羊、臥起操持、節旄盡落。積五六年、單于弟於靬王弋射海上。武能網紡繳、檠弓弩、於靬王愛之、給其衣食。三歲餘、王病、賜武馬畜服匿穹廬。王死後、人眾徙去。其冬、丁令盜武牛羊、武復窮厄。
〔訳〕衛律は蘇武がどうしても脅しに乗らぬと見て、単于に申し上げる。単于はいよいよますます蘇武を降伏させたいと思う。そこで武を大きな穴蔵に幽閉しておき、まったく飲食物を与えずに置いた。雪が降ってきた。武は寝たまま、雪をかじり、毛氈の毛と一緒に飲みこむ。数日経っても死なない。匈奴はただ人でないと思い、武を北海〔バイカル湖〕のほとり、人なきところに移し、牡羊を飼わせた。牡羊が仔を産んだら、帰してやろうという。部下の常恵らは別々にして、おのおのよそに置いた。蘇武は北海のほとりに着いた。食糧を届けてくれる者もいない。野鼠を掘り、草の根を貯蔵して食べる。漢の節〔使者の杖〕を杖について羊を飼い、寝ても覚めても放さない。節についていた水牛の尾はすっかり落ちてしまった。かくて五・六年。単于の弟の於靪王(おけんおう)が北海のほとりで弋(いぐるみ)で狩りをした。蘇武は網を編んだり、弋に使う繳(よりいと)を紡いだり、弓や弩を矯(た)め直す術を心得ていた。於靪王は蘇武を可愛がり、衣食を与えてくれた。三年余りして於靪王は病んだ。蘇武に馬などの家畜・甕・天幕を下された。王が死ぬと、供の者も引っ越して行った。その冬丁霊の民が牛や羊を盗んだので、蘇武はまたまた困窮した。
初、武與李陵俱為侍中、武使匈奴明年、陵降、不敢求武。久之、單于使陵至海上、為武置酒設樂、因謂武曰:「單于聞陵與子卿素厚、故使陵來說足下、虛心欲相待。終不得歸漢、空自苦亡人之地、信義安所見乎?前長君為奉車、從至雍棫陽宮、扶輦下除、觸柱折轅、劾大不敬、伏劍自刎、賜錢二百萬以葬。孺卿從祠河東后土、宦騎與黃門駙馬爭船、推墮駙馬河中溺死、宦騎亡、詔使孺卿逐捕不得、惶恐飲藥而死。來時、大夫人已不幸、陵送葬至陽陵。子卿婦年少、聞已更嫁矣。獨有女弟二人、兩女一男、今復十餘年、存亡不可知。人生如朝露、何久自苦如此!陵始降時、忽忽如狂、自痛負漢、加以老母繫保宮、子卿不欲降、何以過陵?且陛下春秋高、法令亡常、大臣亡罪夷滅者數十家、安危不可知、子卿尚復誰為乎?願聽陵計、勿復有云。」武曰:「武父子亡功德、皆為陛下所成就、位列將、爵通侯、兄弟親近、常願肝腦塗地。今得殺身自效、雖蒙斧鉞湯鑊、誠甘樂之。臣事君、猶子事父也、子為父死亡所恨。願勿復再言。」陵與武飲數日、復曰:「子卿壹聽陵言。」武曰:「自分已死久矣!王必欲降武、請畢今日之驩、效死於前!」陵見其至誠、喟然歎曰:「嗟乎、義士!陵與衛律之罪上通於天。」因泣下霑衿、與武決去。
〔訳〕当初、蘇武は李陵とともに侍中になっていた。蘇武が匈奴に使いして、その翌年に李陵が匈奴に降参したのだが、李陵は恥じて蘇武を尋ねて来ようとはしなかった。しばらくしてから、単于は李陵を北海のほとりに遣わし、蘇武のために酒宴を開き音楽を奏でさせた。それをしおに李陵が蘇武にいうよう、
「単于さまには、わしが子卿〔武の字〕どのと昵懇であったと聞かれたもので、わしにそなたを説き伏せるようとの仰せ。単于さまには隔意無(の)うそなたをもてなすおつもりじゃ。そなた、どうせ漢に帰ること相かなわず、あだに人なき土地で身を苦しめても、その忠義だれが見知ってくれよう? 以前、そなたの兄者の長君(嘉の字)どのには、帝のお供をして雍〔よう、陝西省翔県〕の棫陽(よくよう)宮に参ったおり、お車を支えながら、ご門内の石畳を降りる際、柱に突き当たり、轅(ながえ)を折ったで、大不敬罪にとわれ、剣で自害をなされた。銭二百万を下げ渡され、それで葬いを出された。弟御の孺卿〔じゅけい、賢の字〕どのには、帝が河東〔山西省〕の后土〔大地の神〕の祭に行かれる御供したおり、騎馬の宦官が黄門駙馬〔こうもんふば、天使の添え馬を司る長官〕と船を取り合い、駙馬を河中に押し落として溺れ死にさせ、下手人は逃げた。勅命で孺卿どのが召し取りに行かれたが、つかまらず、恐れ入って毒を飲んで果てられた。わしがこちらへ来るおり、そなたの母君はすでに身没(まか)られて、わしも陽陵〔陝西省咸陽県〕まで野辺送りさせて頂いた。子卿どのの嫁御はまだお若かったが、聞けばもう再縁されたとのこと。妹御が二人、娘御が二人、男の御子が一人だけ残っておられたが、それも今ではもう十年余り、生死のほども知れがたい。人の命は朝露のようなもの。何でかように久しゅう自分から苦労なさる? わしも降参して間もないころは、ぼんやりとして気違い同然。漢にそむいたことで胸は痛む。その上老母は保宮〔宮中の獄舎〕に縛られておるわ。子卿どのが降参しとうない気持ちとて、わしより甚だしゅうはないはず〔蘇武の方が家族への顧慮が少なくてすむ〕。それに陛下はもうお年を召され、お触れは気紛れなもの。大臣のうち、罪も無(の)うて一族皆殺しにされたもの、数十件もある。忠義だてしたとて明日の命ははかりがたい。子卿どの、この上、だれのために苦労なさるる? 何とぞわしのいうとおりになされい。もうなにも申さるるな!」武がいうよう、
「わしが親子は手柄も器量もないに、いずれも陛下のお引き立てを蒙り、位は列将、爵は列侯に加えて頂いた。兄弟ともにお側近う使われた。つねづね身を粉に砕いてご奉公したいと願うていた。今、身を殺して忠義を尽くし得れば、胴切り釜茹での刑になろうとも、甘んじてお受けいたす。臣が君に仕えるは、子が父に仕えると同じこと。子が父のために死んでも、悔やむことはない。同かもう二度と言うてくれるな!」
李陵は、蘇武と飲み暮らして数日、また言いかけた。
「子卿どの、たってわしの言うことを肯(き)かれい」
武「わしはもうとっくに、死んだものと覚悟しておる。そなたがどうでもわしを降参させようとあらば、今日一日楽しゅう飲んだあと、そなたの目の前で死んで見せよう」
李陵は蘇武のまじり気のない真心を見て取ると、ほっと吐息していった。
「ああ、義士じゃ。わしと衛律との罪は天道様も見通しというもの」
そこではらはらと落涙して襟を濡らした。蘇武に別れを告げて立ち去る。
陵惡自賜武、使其妻賜武牛羊數十頭。後陵復至北海上、語武:「區脫捕得雲中生口、言太守以下吏民皆白服、曰上崩。」武聞之、南鄉號哭、歐血。旦夕臨、數月。昭帝即位、數年、匈奴與漢和親。漢求武等、匈奴詭言武死。後漢使復至匈奴、常惠請其守者與俱、得夜見漢使、具自陳道。教使者謂單于、言天子射上林中、得雁、足有係帛書、言武等在某澤中。使者大喜、如惠語以讓單于。單于視左右而驚、謝漢使曰:「武等實在。」於是李陵置酒賀武曰:「今足下還歸、揚名於匈奴、功顯於漢室、雖古竹帛所載、丹青所畫、何以過子卿!陵雖駑怯、令漢且貰陵罪、全其老母、使得奮大辱之積志、庶幾乎曹柯之盟、此陵宿昔之所不忘也。收族陵家、為世大戮、陵尚復何顧乎? 已矣!令子卿知吾心耳。異域之人、壹別長絕!」陵起舞、歌曰:「徑萬里兮度沙幕、為君將兮奮匈奴。路窮絕兮矢刃摧、士眾滅兮名已隤。老母已死、雖欲報恩將安歸!」陵泣下數行、因與武決。單于召會武官屬、前以降及物故、凡隨武還者九人。
〔訳〕李陵は自分の名で蘇武に物をやることをはばかり、己れの妻(単于の娘)から蘇武に牛羊数十等を贈らせた。その後、李陵は再び北海のほとりに行き、蘇武に告げた。
「区脱〔おうだつ、漢との境にいる匈奴〕が雲中〔山西―綏遠(すいえん)〕の漢民を生け捕りにしたが、虜の言うには、太守以下、役人も民もみな白い服〔喪服〕を着ており、『お上〔武帝〕がなくなられた』といっておるのを聞いた由じゃ」
蘇武はそれを聞くと、南のほうに向かって慟哭回向し、血を吐くまで哭き続けた。数ヶ月というもの、朝晩の哭(こく)を欠かさなかった。昭帝が即位し〔BC86年〕、数年して匈奴と漢が和睦した。漢は蘇武らを引き渡せという。匈奴は蘇武は死んだと嘘をついた。後、漢の使者がまた匈奴に行く。常恵(? ~BC47年)は番人に頼み込み、番人と連れ立って夜中に漢の使者と会うことができた。詳しく事の経緯を陳述した上、使者に教えて言う。
「単于にこういいなされ、『漢の天子が上林〔陝西省にある御料林〕で狩りをなされ、雁を射落したところ、雁の足に絹の手紙が結び付けてあった。文面よれば、蘇武らはしかじかの沢のなかにいるとの事でござるが』と」
使者は大いに喜び、常恵にいわれたとおり、単于を責めた。単于はびっくりして左右を見回したが、漢の使者に詫びた。
「まことは、蘇武ら、生きておる」
ここで李陵は酒盛りして蘇武を祝っていう。
「今、そなたは帰られる。名を匈奴に轟かせ、手柄は漢廷に輝くであろう。古(いにしえ)の史(ふみ)に記し、丹青(えのぐ)で描いた〔御所の壁面に功臣の肖像あり〕功臣とて、子卿どのに過ぎる者があろうか? わしは愚かで腰抜けとはいえ、もしあの時、漢がしばしわが罪を目こぼしし、わが老母をながらえさせ、大きな恥を雪(すす)がんとの積もる志をふるい立てる機会(おり)をくれていたならば、柯(か)の盟いにおける曹劌〔そうけい、〕にも劣らぬ働きをして見せようものを! これこそわしが平生忘れずに持っていた志じゃ。それをわしの一家を捕らえて皆殺しにし、世間に晒し者にされては、わしとて、もはや後ろ髪引かるる気は無(の)うなった。さらばじゃ。子卿どのにわしの心を知ってもらいたかったまでのこと。お互い異国の人間。一たび別れなば、二度と会うこともなるまい」
陵は立ち上がって舞った。歌っていう
万里を径(へ)て沙漠を度(わた)り、
君が将となって匈奴に奮う。
路窮絶(とだ)え矢刃は摧(くだ)け、
士衆は滅びて名すでに隤(くず)る。
老母はすでに死したれば、
恩に報いんと欲すと雖も将(はた)安(いずく)にか帰せん。
李陵ははらはらと涙を流し、そのまま蘇武と別れた。単于は蘇武の部下を呼び集めた。さきに降参した者、亡くなった者があり、蘇武について帰る者は全部で九人である。
※曹劌(そうけい): 春秋左氏伝では曹劌、史記では曹沫〔そうまつ、 生没年未詳〕と記されるので読み方は(カイ)が正しいとされるという。魯の荘公に仕えた将軍。人物については後日調べてみようと思う。
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目高 拙痴无
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92
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1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
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