瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
〔アングル〕小沢新党結成、政界再編の序曲に 解散「11月説」や「来年1月説」も ―― [東京 11日 ロイター] 消費増税法案に反対し民主党を除名された小沢一郎元代表らが11日、正式に新党を立ち上げる。世論調査でみる小沢新党への国民の期待度は15%前後と低調だが、党内に残る「離党予備軍」が波乱要因となり、野田政権は野党頼みの政権運営を強いられている。法案成立後の衆院解散・総選挙も「11月解散」説から「来年1月の通常国会冒頭解散」説まで現実味をもって語られ始めた。民主党の分裂により、衆院解散・総選挙後の政界再編に向けた動きが始まったといえそうだ。
<総選挙後、第3極を巻き込んだ政界再編も>
党内の潜在的な矛盾を白日のもとにさらした民主党分裂が、政界再編の引き金を引いた。自民党の石原伸晃幹事長は先月、政界再編が起きるとすれば「選挙後だ」とその可能性を指摘。小沢氏の離党後には、民主党内でも選挙後の政界再編が「クリアーになった」(閣僚経験者)、「(選挙後の民・自・公大連立の可能性は)ある」(首相周辺筋)との声があがる。民主党分裂で政策の方向性の不一致が解消される結果だ。/政治アナリストの伊藤惇夫氏は「自民、民主とも分裂し、みんなの党や橋下氏(率いる大阪維新の会)を巻き込んだ政界再編になる」と第3極も巻き込んだ政界再編のうねりを予見した。/報道によると、橋下徹大阪市長は10日、今後の政局に関し「自民党と民主党で政界再編が起こる。首相を核に集まると、力強い政権になる」と述べ、初めて、野田首相を中心にした政界再編に期待する考えを示した。小沢氏も秋波を送る「大阪維新の会」との連携ができなければ、小沢新党の勢力は次の総選挙後には半減し「展望がない」(伊藤氏)。渦中の橋下氏の発言は今後の政局を左右することにもなりそうだ。
<自民も「今や早期解散は考えていない」との声>
消費増税を含む社会保障・税一体改革法案は順調に進めば、8月上旬には参院での採決の環境が整う。早期解散に追い込みたい自民・公明両党は、内閣不信任案や首相問責決議案を出して、解散に追い込むことも選択肢とするが、「今や早期解散は考えていない」(民主党幹部)との見方がもっぱらだ。法案成立直後の解散では消費増税の是非が争点化されてしまうためだ。/とはいえ、解散・総選挙が視野に入ってきたのも事実。政界からは「今年の秋から任期満了の来年夏までの間でタイミングをみるということだろう」(首相周辺筋)、「来年1月の通常国会冒頭解散」(閣僚経験者)などの声が公然と聞かれ始めた。与野党に太いパイプを持つ、たちあがれ日本の園田博之幹事長は今月初めのNHKの番組で、解散は11月になるとの見通しを示した。/ 「11月説」は、野田佳彦首相が9月民主党代表選で再選を果たした勢いで、内閣改造・3役人事を行い、9月下旬に臨時国会を召集。懸案の補正予算案や今通常国会で積み残される可能性も出てきた12年度特例公債法案を処理した後、解散に打って出るという見方だ。消費増税法案の採決がお盆明け後にずれ込めば、特例公債法案の会期内成立が難しくなり、同法案成立をカードにした話し合い解散が濃厚になるという。/民主党の前原誠司・政調会長は5日の記者会見で「秋に臨時国会を開き、景気対策やそれまでに議員定数削減など身を削る努力をするなかで、国民に信を問う環境を作っていくべきだ」と早期解散をけん制すると同時に臨時国会後の解散を示唆した。/公明党の斉藤鉄夫幹事長代行も9日のBSフジの番組で、特例公債法案について「賛成することは普通考えられないが、唯一考えられるのは政権側が大きな約束をすることだ。たとえば、衆院解散だ」と述べ、解散と引き換えに賛成する姿勢をにじませている。/秋の解散が「政権が追い込まれて解散」するのに対して、「来年1月の通常国会冒頭解散説」は、「自らの意志で解散に打って出るということ」(閣僚経験者)。この時には、消費増税への理解を得るために不可欠な「国会議員の身を切る努力」実現に向けた環境整備も整うとの読みがある。/関係者によると、「一票の格差」是正と国会議員定数削減を含む選挙制度改革は、法案が成立しても政府の衆院選挙区画審議会(区割審)が区割り案を策定し実施に移すまで「最短4カ月」かかるという。仮に今通常国会で法案が成立すれば、新制度での適用も可能になるタイミングになるとみられている。/衆院解散・総選挙は「早くても秋」(政治アナリスト・伊藤氏)と見込まれ、秋以降は「常在戦場」となりそうだ。
<「離党予備軍」の動静次第で政局流動化>
もっとも足元の政権運営の道は平たんではない。野田首相が政治生命をかけて取り組む消費増税法案は、順当にいけば、自民・公明の協力を得て、圧倒的多数で成立する公算が高い。しかし、法案に反対しながら党内に残り、小沢新党と連携を強める鳩山由紀夫元代表らの離党予備軍の動きが、内閣不信任決議案の提出とからみ、与野党の関心事になっている。/小沢氏は新党旗揚げ後に「新党きづな」と統一会派を組み、内閣不信任案提出などで政権に攻勢をかける構えだ。だが、統一会派を組んでも衆議院での勢力は46人で、内閣不信任案提出が可能な51人には満たない。鳩山グループからの離党が揺さぶりのきっかけとなる。/仮に小沢氏を中心とする野党が内閣不信任案を提出しても、自民党は同調しないとの見方が優勢だ。消費増税の3党合意に反対しての不信任案には同調しがたいとみられるためだ。しかし「感情論が噴き出せば、事態は一気に流動化する」(民主党幹部)リスクも否定できない。/さらに、自民党は、法案に反対しながら党内に残り、増税反対を主張し続ける鳩山氏に対して、厳格な処分どころか当初の処分を軽減した輿石体制に批判を強めている。石原伸晃幹事長は「民主党の中で改めることなく、引き続き(法案に)反対だということを参議院で言う人が呼応して出てくれば、そういう事態(参院での否決)も全く否定できない」と述べ、参院採決で反対に転じる可能性も示唆した。そうなれば、政局は一気に流動化する。 〔ロイター 2012年 07月 11日 16:05 JST〕
東京夢華録 巻八 端午
端午節物:百索、艾花、銀樣皷兒花、花巧畫扇、香糖果子、糉子、白團。紫蘇、菖蒲、木瓜並皆茸切、以香藥相和、用梅紅匣子盛裹。自五月一日及端午前一日、賣桃、柳、葵花、蒲葉、佛道艾、次日家家鋪陳於門首、與糉子、五色水團、茶酒供養。又釘艾人於門上、士庶遞相宴賞。
〔訳〕端午の節句の祝い物といえば、百索(いろいと)・艾花(よもぎかざり)・銀様鼓児花(ぎんのたいこかざり)・花巧画扇(かざりせんす)・香糖果子(かとうがし)・糉子(ちまき)・白い団子がある。またシソ・ショウブ・木瓜(ぼけ)をみな細かく切り、香薬をまぜ、紅梅色の小箱に詰める。五月一日から端午の前日まで、モモ・ヤナギ・ヒマワリ・ショウブの葉・仙道ヨモギを売る。翌日(すなわち五月五日)、家々はこれらを門口に敷き並べ、糉子(ちまき)・五色の団子・茶や酒を供え、またヨモギで作った人形を門に釘付けして、人々は互いに飲み食いをしあった。
※端午:都の商店の者達は、五月一日を端一、二日を端二と数えて行き、五月五日を端五と呼んだという。
※百索:子供が首にかける五色の糸。我が国で鯉のぼりに用いる五色の吹流しもこの五色の糸に由来する。五色のいとに邪悪をはらう力があるという信仰は後漢時代からあったという。
※艾花:五月五日、ヨモギの葉でトラの形をつくり、あるいは綾絹をもって小さなトラをつくりヨモギのはをつけ物を艾虎(がいこ)といい、これをつければ邪を払うことが出来たと信じられた。
※銀様鼓児花:俗に小鼓を作って梁にかけたり台に載せておく、端午の節句の飾り物の一つであったらしい。
※花巧画扇:小さな扇子で、紅・白・青色の色物や、刺繍をしたもの、画をかいたものなどを端午の節句に贈りあったという。
※香糖果子:糖蜜韻果とも糖霜韻果ともいい砂糖漬けの果物を原料とする菓子。
※糉子:マコモの葉でモチゴメを包み、クリやナツメを加え灰汁で煮て食べたという。これが宋代の粽であった。
※モモ・…… 仙道ヨモギ:これらは中国ではいずれも邪を祓う力があると考えられていた。
端午節物:百索、艾花、銀樣皷兒花、花巧畫扇、香糖果子、糉子、白團。紫蘇、菖蒲、木瓜並皆茸切、以香藥相和、用梅紅匣子盛裹。自五月一日及端午前一日、賣桃、柳、葵花、蒲葉、佛道艾、次日家家鋪陳於門首、與糉子、五色水團、茶酒供養。又釘艾人於門上、士庶遞相宴賞。
〔訳〕端午の節句の祝い物といえば、百索(いろいと)・艾花(よもぎかざり)・銀様鼓児花(ぎんのたいこかざり)・花巧画扇(かざりせんす)・香糖果子(かとうがし)・糉子(ちまき)・白い団子がある。またシソ・ショウブ・木瓜(ぼけ)をみな細かく切り、香薬をまぜ、紅梅色の小箱に詰める。五月一日から端午の前日まで、モモ・ヤナギ・ヒマワリ・ショウブの葉・仙道ヨモギを売る。翌日(すなわち五月五日)、家々はこれらを門口に敷き並べ、糉子(ちまき)・五色の団子・茶や酒を供え、またヨモギで作った人形を門に釘付けして、人々は互いに飲み食いをしあった。
※端午:都の商店の者達は、五月一日を端一、二日を端二と数えて行き、五月五日を端五と呼んだという。
※百索:子供が首にかける五色の糸。我が国で鯉のぼりに用いる五色の吹流しもこの五色の糸に由来する。五色のいとに邪悪をはらう力があるという信仰は後漢時代からあったという。
※艾花:五月五日、ヨモギの葉でトラの形をつくり、あるいは綾絹をもって小さなトラをつくりヨモギのはをつけ物を艾虎(がいこ)といい、これをつければ邪を払うことが出来たと信じられた。
※銀様鼓児花:俗に小鼓を作って梁にかけたり台に載せておく、端午の節句の飾り物の一つであったらしい。
※花巧画扇:小さな扇子で、紅・白・青色の色物や、刺繍をしたもの、画をかいたものなどを端午の節句に贈りあったという。
※香糖果子:糖蜜韻果とも糖霜韻果ともいい砂糖漬けの果物を原料とする菓子。
※モモ・…… 仙道ヨモギ:これらは中国ではいずれも邪を祓う力があると考えられていた。
東京夢華録 巻八 四月八日
四月八日佛生日、十大禪院各有浴沸齋會、煎香藥糖水相遺、名曰「浴佛水」。迤邐時光晝永、氣序清和。榴花院落、時聞求友之鶯;細柳亭軒、乍見引雛之燕。在京七十二戶諸正店、初賣煑酒、市井一新。唯州南清風樓最宜夏飲。初嘗青杏、乍薦櫻桃、時得佳賓、觥酧交作。是月、茄瓠初出上市、東華門爭先供進、一對可直三五十千者。時果則御桃、李子、金杏、林檎之類。
〔訳〕四月八日は釈迦の誕生日だ。十大禅寺ではそれぞれ潅仏会(かんぶつえ)を開き、香薬を煎じた糖水(あまちゃ)を贈り、これを「浴仏水(よくぶつすい)」といった。うららかでのどかな、時は清和(せいわ)と呼ばれる四月である。ザクロの花が庭に咲けば、友を求めるウグイスの声が聞かれ、細い柳の葉がしだれかかる亭(ちん)の軒端には雛(ひな)を連れたツバメが見られる。都の七十二軒の正酒店(おやみせ)では、初の煮酒(しゃしゅ)を売り出し、市井の酒は一新する。だが州南の清風楼がもっとも夏飲むのによろしい。青いアンズを賞味したり、サクランボをすすめたり、よき飲み友だちを得ては杯をくみかわすのだった。この月にユウガオの果実が初めて市場に出る。東華門では先を争ってこれを売り出し、ひとつで三十貫から五十貫もの値段がした。この時期の果物といえば、モモ・スモモ・アンズ・リンゴのたぐいであった。
※清和:俗に陰暦四月を清和月という。ちょうど現在の初夏の頃である。
※煮酒:宋代には酒は専売で政府の酒庫(さかぐら)に収納された。四月には煮酒を、九月には清酒の庫を開いた。煮酒は夏に飲む酒である。
※ユウガオ:原文では「茄瓠(かこ)」。ユウガオの実、すなわちフクベとかナリヒサゴとか呼ばれるものには二種あり、細長い果形のものは若い果実を食用にし、丸い果形のものは干瓢(かんぴょう)の原料になる。
四月八日佛生日、十大禪院各有浴沸齋會、煎香藥糖水相遺、名曰「浴佛水」。迤邐時光晝永、氣序清和。榴花院落、時聞求友之鶯;細柳亭軒、乍見引雛之燕。在京七十二戶諸正店、初賣煑酒、市井一新。唯州南清風樓最宜夏飲。初嘗青杏、乍薦櫻桃、時得佳賓、觥酧交作。是月、茄瓠初出上市、東華門爭先供進、一對可直三五十千者。時果則御桃、李子、金杏、林檎之類。
〔訳〕四月八日は釈迦の誕生日だ。十大禅寺ではそれぞれ潅仏会(かんぶつえ)を開き、香薬を煎じた糖水(あまちゃ)を贈り、これを「浴仏水(よくぶつすい)」といった。うららかでのどかな、時は清和(せいわ)と呼ばれる四月である。ザクロの花が庭に咲けば、友を求めるウグイスの声が聞かれ、細い柳の葉がしだれかかる亭(ちん)の軒端には雛(ひな)を連れたツバメが見られる。都の七十二軒の正酒店(おやみせ)では、初の煮酒(しゃしゅ)を売り出し、市井の酒は一新する。だが州南の清風楼がもっとも夏飲むのによろしい。青いアンズを賞味したり、サクランボをすすめたり、よき飲み友だちを得ては杯をくみかわすのだった。この月にユウガオの果実が初めて市場に出る。東華門では先を争ってこれを売り出し、ひとつで三十貫から五十貫もの値段がした。この時期の果物といえば、モモ・スモモ・アンズ・リンゴのたぐいであった。
※清和:俗に陰暦四月を清和月という。ちょうど現在の初夏の頃である。
※煮酒:宋代には酒は専売で政府の酒庫(さかぐら)に収納された。四月には煮酒を、九月には清酒の庫を開いた。煮酒は夏に飲む酒である。
※ユウガオ:原文では「茄瓠(かこ)」。ユウガオの実、すなわちフクベとかナリヒサゴとか呼ばれるものには二種あり、細長い果形のものは若い果実を食用にし、丸い果形のものは干瓢(かんぴょう)の原料になる。
今日は新聞の休刊日。浅草寺の境内では「ほおずき市」が開かれる。今朝のウェブニュースより、
東京・浅草寺:「ほおずき市」始まる 10日まで ―― 東京都台東区の浅草寺で9日、約200年続く夏の風物詩「ほおずき市」が始まった。境内には約120店が並び、朱色に色づいたホオズキが、訪れた人の目を楽しませていた。10日まで。/今年は節電のため、露店の電球約600個をすべてLEDに変更した。/この日にお参りすると、4万6000日分の御利益があると言われ、江戸時代から多くの人が参拝。ホオズキの実が体に良いと言われたため、浅草寺でも市が開かれるようになったという。/午前7時~午後10時。2日間で約55万人の人出が見込まれる。 〔毎日新聞 2012年07月09日 11時05分(最終更新 07月09日 11時36分)〕
東京夢華録 巻七 駕回儀衛
駕回則御裹小帽、簪花乘馬、前後從駕臣寮。百司儀衛悉賜花。大觀初、乘驄馬至太和宮前、忽宣「小烏」、其馬至御前拒而不進、左右曰:「此願封官。」勑賜龍驤將軍、然後就轡;蓋「小烏」平日御愛之馬也。莫非錦繡盈都、花光滿日、御香拂路、廣樂喧空。寶騎交馳、綵棚夾路、綺羅珠翠、戶戶神仙;畫閣紅樓、家家洞府。遊人士庶、車馬萬數。妓女舊日多乘驢、宣、政間惟乘馬、披涼衫、將蓋頭背繫冠子上。少年狎客往往隨後、亦跨馬輕衫小帽。有三五文身惡少年控馬、謂之「花褪馬」。用短繮促馬頭刺地而行、謂之「鞅韁」。呵喝馳驟、競逞駿逸。遊人往往以竹竿挑掛終日關撲所得之物而歸。仍有貴家士女、小轎插花、不垂簾幙。自三月一日至四月八日閉池、雖風雨亦有遊人、路無虛日矣。是月季春、萬花爛熳、牡丹、芍藥、棣棠、木香、種種上市。賣花者以馬頭竹藍鋪排、歌叫之聲、清奇可聽。晴簾靜院、曉幙高樓、宿酒未醒、好夢初覺、聞之莫不新愁易感、幽恨懸生、最一時之佳況。諸軍出郊、合教陣隊。
〔訳〕《還幸》還幸には主上は小帽をかぶり花を髪挿(かざ)され、馬にお乗りになる。前後の供廻りの臣下や儀仗兵にもことごとく花を賜わった。大観〔徽宗の1107~1110年〕初年に、主上は驄馬(あしげ)に乗って太和宮の前までこられると、ふいに「小烏(しょうう)」を連れてまいれ、とおおせられた。ところが「小烏」はご前に来ると、足をふんばって動こうとしない。お側付きの者が「これは官位がほしいのでございましょう」と申し上げたので、主上はこの馬に竜驤将軍の位を授けられた。すると馬はいうことを聞いて、轡をつけさせたという。この「小烏」は日頃主上が可愛がられていた馬であった。都の中には、錦織りなす花が春の光に咲きほこって花やかな色彩が満ち溢れ、かぐわしい香りは道に流れ、盛大な楽の音が鳴り響き、着飾った騎馬の人々が行き交う。色絹で飾った屋台は道も狭しと結い立てられ、薄絹の美服をまとい真珠やヒスイを身につけた仙女のような女たちが門ごとに立ち並んでいるし、楼閣(たかどの)は華やかに彩られていて、家々も神仙のすみかのようであった。人々はみな喪のみ遊山にくりだし、その車馬は万をもって数えた。彼女たちは、むかしはたいていロバに乗ったが、政和・宣和年間〔宋、徽宗の年号、1111~1125年〕になるともっぱら馬に乗るようになり、涼衫(コート)をはおり、蓋頭(かずき)を冠子(かむり)の後につけていた。往々年若い馴染みの客が妓女の後に従い、これまた軽やかな衫(うわぎ)に小帽といういでたちであった。また三人五人と連れ立った入れ墨姿の若いやくざたちが手綱をしぼって馬をとめ立ちふさがるのを「花褪馬(はなくたし)」といった。また短い手綱を用いて馬の頭を後ろに引きしめ、足を地面に突き刺すように上下させて進むのは「鞅韁(しめたづな)」といった。めいめい叱咤して馬を駆り、自分の馬の素晴しさを競い合うのだった。また見物人の中には竹竿をかついで、一日中「漢撲(かけ)」をして歩き、勝って手に入れた品物を竿にかけて帰るのであった。また貴家の令嬢たちも、小さな轎(こし)に花を挿して飾りたて、簾や幕などは取り払って町を行くのだった。三月一日から始って四月八日に金明地の庭園がとざされるまで、風雨の日にも見物人があって、ほとんど人の来ぬ日はなかった。この月は春の季(すえ)に当たり、よろずの花が咲きほこり、ボタン・シャクヤク・ヤマブキ・木香(もっこう)などが市場に出る。花売りが竹籠に花を並べ、歌うようにして呼び売りをするのは、なかなかさわやかでよかった。もの静かな屋敷や暁の高殿で目醒(ざ)た時、この売り声を聞くと、かならず胸には清らかな情感があふれて、さまざまな物思いにふける、なんともすばらしいひとときであった。なお、諸軍が郊外に出て、合同の隊形展開訓練をした。
※還幸:三月、清明節の頃に行なわれる金明池での諸行事が終わり、皇帝が宮城に戻る前後の開封のありさまである。
※小烏:「小」は可愛いものにつける接頭語。「烏」は馬の毛並みが黒かったことをあらわす。
※涼衫:都の士人は公服を着て乗馬する際には黲衣(薄い青黒色のコート)を着、これを涼衫(りょうさん)といった。今のダスターコートのようなもの。
※蓋頭:婦女が道を歩く時に頭からすっぽり被る四角い薄絹。婚礼には紅い薄絹を被った。ここでは馬に乗るので、飛ばぬように後頭部の冠にとめて後ろになびかせる粋なスタイルにしたのであろう。
※鞅韁(おうきょ):短い手綱をつけて馬の頭を後ろに引き締めると馬の首は高く上り、手綱が鞅〔馬の胸から鞍にかけ渡す革緒〕のような位置にくるのでなづけられた。
※春の季:陰暦では、一・二・三月が春だから、三月は春の末。
東京夢華録 巻七 駕回儀衛
駕回則御裹小帽、簪花乘馬、前後從駕臣寮。百司儀衛悉賜花。大觀初、乘驄馬至太和宮前、忽宣「小烏」、其馬至御前拒而不進、左右曰:「此願封官。」勑賜龍驤將軍、然後就轡;蓋「小烏」平日御愛之馬也。莫非錦繡盈都、花光滿日、御香拂路、廣樂喧空。寶騎交馳、綵棚夾路、綺羅珠翠、戶戶神仙;畫閣紅樓、家家洞府。遊人士庶、車馬萬數。妓女舊日多乘驢、宣、政間惟乘馬、披涼衫、將蓋頭背繫冠子上。少年狎客往往隨後、亦跨馬輕衫小帽。有三五文身惡少年控馬、謂之「花褪馬」。用短繮促馬頭刺地而行、謂之「鞅韁」。呵喝馳驟、競逞駿逸。遊人往往以竹竿挑掛終日關撲所得之物而歸。仍有貴家士女、小轎插花、不垂簾幙。自三月一日至四月八日閉池、雖風雨亦有遊人、路無虛日矣。是月季春、萬花爛熳、牡丹、芍藥、棣棠、木香、種種上市。賣花者以馬頭竹藍鋪排、歌叫之聲、清奇可聽。晴簾靜院、曉幙高樓、宿酒未醒、好夢初覺、聞之莫不新愁易感、幽恨懸生、最一時之佳況。諸軍出郊、合教陣隊。
〔訳〕《還幸》還幸には主上は小帽をかぶり花を髪挿(かざ)され、馬にお乗りになる。前後の供廻りの臣下や儀仗兵にもことごとく花を賜わった。大観〔徽宗の1107~1110年〕初年に、主上は驄馬(あしげ)に乗って太和宮の前までこられると、ふいに「小烏(しょうう)」を連れてまいれ、とおおせられた。ところが「小烏」はご前に来ると、足をふんばって動こうとしない。お側付きの者が「これは官位がほしいのでございましょう」と申し上げたので、主上はこの馬に竜驤将軍の位を授けられた。すると馬はいうことを聞いて、轡をつけさせたという。この「小烏」は日頃主上が可愛がられていた馬であった。都の中には、錦織りなす花が春の光に咲きほこって花やかな色彩が満ち溢れ、かぐわしい香りは道に流れ、盛大な楽の音が鳴り響き、着飾った騎馬の人々が行き交う。色絹で飾った屋台は道も狭しと結い立てられ、薄絹の美服をまとい真珠やヒスイを身につけた仙女のような女たちが門ごとに立ち並んでいるし、楼閣(たかどの)は華やかに彩られていて、家々も神仙のすみかのようであった。人々はみな喪のみ遊山にくりだし、その車馬は万をもって数えた。彼女たちは、むかしはたいていロバに乗ったが、政和・宣和年間〔宋、徽宗の年号、1111~1125年〕になるともっぱら馬に乗るようになり、涼衫(コート)をはおり、蓋頭(かずき)を冠子(かむり)の後につけていた。往々年若い馴染みの客が妓女の後に従い、これまた軽やかな衫(うわぎ)に小帽といういでたちであった。また三人五人と連れ立った入れ墨姿の若いやくざたちが手綱をしぼって馬をとめ立ちふさがるのを「花褪馬(はなくたし)」といった。また短い手綱を用いて馬の頭を後ろに引きしめ、足を地面に突き刺すように上下させて進むのは「鞅韁(しめたづな)」といった。めいめい叱咤して馬を駆り、自分の馬の素晴しさを競い合うのだった。また見物人の中には竹竿をかついで、一日中「漢撲(かけ)」をして歩き、勝って手に入れた品物を竿にかけて帰るのであった。また貴家の令嬢たちも、小さな轎(こし)に花を挿して飾りたて、簾や幕などは取り払って町を行くのだった。三月一日から始って四月八日に金明地の庭園がとざされるまで、風雨の日にも見物人があって、ほとんど人の来ぬ日はなかった。この月は春の季(すえ)に当たり、よろずの花が咲きほこり、ボタン・シャクヤク・ヤマブキ・木香(もっこう)などが市場に出る。花売りが竹籠に花を並べ、歌うようにして呼び売りをするのは、なかなかさわやかでよかった。もの静かな屋敷や暁の高殿で目醒(ざ)た時、この売り声を聞くと、かならず胸には清らかな情感があふれて、さまざまな物思いにふける、なんともすばらしいひとときであった。なお、諸軍が郊外に出て、合同の隊形展開訓練をした。
※還幸:三月、清明節の頃に行なわれる金明池での諸行事が終わり、皇帝が宮城に戻る前後の開封のありさまである。
※小烏:「小」は可愛いものにつける接頭語。「烏」は馬の毛並みが黒かったことをあらわす。
※涼衫:都の士人は公服を着て乗馬する際には黲衣(薄い青黒色のコート)を着、これを涼衫(りょうさん)といった。今のダスターコートのようなもの。
※蓋頭:婦女が道を歩く時に頭からすっぽり被る四角い薄絹。婚礼には紅い薄絹を被った。ここでは馬に乗るので、飛ばぬように後頭部の冠にとめて後ろになびかせる粋なスタイルにしたのであろう。
※鞅韁(おうきょ):短い手綱をつけて馬の頭を後ろに引き締めると馬の首は高く上り、手綱が鞅〔馬の胸から鞍にかけ渡す革緒〕のような位置にくるのでなづけられた。
※春の季:陰暦では、一・二・三月が春だから、三月は春の末。
今朝も早朝から、雨。
東京夢華録 巻七 駕登寶津樓諸軍呈百戲 二
次有馬上抱紅繡之毬、擊以紅錦索、擲下於地上、數騎追逐射之、左曰「仰手射」、右曰「合手射」、謂之「拖繡毬」。又以柳枝插於地、數騎以剗子箭、或弓或弩射之、謂之「A柳枝」。又有以十餘小旗、遍裝輪上而背之出馬、謂之「旋風旗」。又有執旗挺立鞍上、謂之「立馬」。或以身下馬、以手攀鞍而復上、謂之「騗馬」。或用手握定鐙袴、以身從後鞦來往、謂之「跳馬」。忽以身離鞍、屈右腳掛馬鬃、左腳在鐙、左手把鬃、謂之「獻鞍」、又曰「棄鬃背坐」。或以兩手握鐙袴、以肩著鞍橋、雙腳直上、謂之「倒立」。忽擲腳著地、倒拖順馬而走、復跳上馬、謂之「拖馬」。或留左腳著鐙、右腳出鐙、離鞍橫身、在鞍一邊、右手捉鞍、左手把鬃存身、直一腳順馬而走、謂之「飛仙膊馬」。又存身拳曲在鞍一邊、謂之「鐙裡藏身」。或右臂挾鞍、足著地順馬而走、謂之「趕馬」。或出一鐙、墜身著鞦、以手向下綽地、謂之「綽塵」。或放令馬先走、以身追及、握馬尾而上、謂之「豹子馬」。或橫身鞍上、或輪弄利刃、或重物、大刀、雙刀百端訖、有黃衣老兵、謂之「黃院子」數輩、執小繡龍旗前導宮監馬騎百餘、謂之「妙法院女童」;皆妙齡翹楚、結束如男子、短頂頭巾、各著雜色錦繡撚金絲番段窄袍、紅綠吊敦束帶、莫非玉羈金勒、寶花韉、豔色耀日、香風襲人。馳驟至樓前、團轉數遭、輕簾皷聲、馬上亦有呈驍藝者。中貴人許畋押隊、招呼成列、皷聲一齊擲身下馬、一手執弓箭、攬韁子、就地如男子儀、拜舞山呼訖、復聽皷聲、騗馬而上。大抵禁庭如男子裝者、便隨男子禮起居。復馳驟團旋分合陣子訖、分兩陣、兩兩出陣、左右使馬直背射弓、使番鎗或草棒、交馬野戰。呈驍騎訖、引退、又作樂。先設綵結小毬門於殿前、有花裝男子百餘人、皆裹角子向後拳曲花幞頭、半著紅半著青錦襖子、義襴束帶、絲鞋。各跨雕鞍花䪌驢子、分為兩隊、各有朋頭一名、各執綵畫毬杖、謂之「小打」。一朋頭用杖擊弄毬子、如綴毬子、方墜地、兩朋爭占、供與朋頭。左朋擊毬子過門入盂為勝、右朋向前爭占、不令入盂、互相追逐、得籌謝恩而退。續有黃院子引出宮監百餘、亦如小打者、但加之珠翠裝飾、玉帶紅靴、各跨小馬、謂之「大打」。人人乘騎精熟、馳驟如神、雅態輕盈、妍姿綽約、人間但見其圖畫矣。呈訖。
〔訳〕《主上、宝津楼に登られ、諸軍、百戯を御覧に供す〔清明二〕2》つぎに馬に乗り、紅い錦の紐をつけた紅い刺繍をした毬(まり)を抱えた者があらわれる。毬を地面に投げると五、六騎の武者が追って弓で射る。左で射るのを「仰手射(ゆんでうち)」、右で射るのを「合手射(めてうち)」といい、この競技は「拖綉毬(まりひき)」といった。また柳の枝を地面に挿し、これを五、六騎の武者が弓あるいは弩(いしゆみ)に剗子箭(いたつき)をつがえているのを「A柳枝(やなぎだおし)」という。それから十本あまりの小旗を輪の上につけて背負いながら馬を走らすのを「旋風坡沲(はたわ)」といい、旗を持って鞍の上にたつのは「立馬(たちうま)」という。また走っている馬からおり、ふたたび鞍によじもどり、もとどおり馬上にまたがるのを「騗馬(とびのり)」、手で鐙袴(あぶみかわ)を、鞦(しりがい)から跳び乗るのを「跳馬(うまとび)」、突然鞍から離れて右足をまげて馬の鬃(たてがみ)にかけ左足は鐙にのせて左手で鬃をつかむのを「獻鞍(くらさげ)」とか「棄鬃背坐(たてがみのり)」、両手で鐙袴をにぎり肩を鞍につけて両足を真上に上げるのを「倒立(さかだち)」という。ふいに足を地面につけて制動をかけながら馬とともに走り、また馬に乗るのは「拖馬(ひきずり)」、左足を鐙にのせて右足は鐙からはずし、鞍から身を離して身を横たえたり、鞍の片側で右手で鞍をつかみ、左手に鬃をつかんで身をささえ、片足をのばして馬とともに走るのを「飛仙膊馬(せんにんのり)」という。また鞍の片側に身をまげかくすのは「鐙裏蔵身(あぶみがくれ)」、右ひじで鞍をはさみ、足で地を蹴って馬とともに走るのは「趕馬(うまおい)」、片方の鐙をはずし、からだを鞦(しりがい)のほうにまで倒して手で地面の土をつかみ取るのは「綽塵(ちりつかみ)」、馬を先に走らせ、自分は後から追いついて馬の尾をつかんで乗るのを「豹子馬(とびのり)」という。鞍の上に身を横たえ、鋭い刀を手玉のように輪を描いて投げたり、重い得物や大刀とか二本の刀を使ったりもする。このようなさまざまの馬術を演じ終わると、黄衣の老兵があらわれる。これを「黄院子(きいろやっこ)」という。ついで竜を刺繍した小さな旗を持った五、六人の前導について、馬に乗った宮女が百余騎あらわれる。これらは「妙法院の女童(めわらべ)」という。妙齢のしなやかなからだをした乙女たちが、みな男姿になり、頂の短い頭巾をかぶり、身にぴったりついた色とりどりの絹地に金色のぬいとりをした緞子(どんす)の袍(ほう)を着、紅か緑の束帯をつけているし、乗馬にはみんな金や宝玉を飾ったおもがいや飾りも美々しい鐙・韉(くらしき)をつけ、そのあでやかさは輝くばかり、かぐわしい香りが人を襲うのだった。宝津楼の前まで馬を走らせてくると、数回円を画いて走り、軽快な太鼓の音とともに、これまた馬術を手並みを見せるのだ。宦官(かんがん)の許畋(きょでん)が隊列を掌握し、号令をかけて整列させる。太鼓がいっせいにとどろくと、みなひらりと馬からおり、片手に弓矢を持ち、手綱を取りながら男子の作法で拝舞をし主上の万歳を唱えた。唱え終わるとまた太鼓がとどろき、みなは馬にとび乗る。このように宮廷で男装した婦人は、男子の礼にしたがって振る舞うのが常だった。ふたたび集合して円を画いて走ったり、散開と集合をくりかえしてさまざまの陣形を作ってみせた。それが終ると両陣にわかれ、双方から左右の使馬直(このえきへい)が出陣し、弓を後ろ向きに射たり、槍や棒を用い入り乱れて野戦を展開して馬術の手並みをご覧に供した。これが終ってみなが退場すると、また楽曲が演奏される。と、まず殿前に小さな毬門(きゅうもん)が色絹で結い立てられ、花やかな装いの男子百余人が入場する。めいめい角が後ろに彎曲した花幞(かざりかむり)をかぶり、その半分は紅、半分は青の襖子(あわせ)を着、義襴(ぎらん)束帯に絹の鞋(くつ)をはいて、美しい模様のついた鞍・鞍敷きをつけたロバにまたがっている。二組に分かれ、各組に朋頭(くみがしら)が一名、そしてめいめいはみな手に毬杖(きゅうじょう)を持つ。これを「小打」と呼んだ。一方の朋頭が杖でマリを蹴毬のように打ち上げて地面に落ちると、双方争ってマリを取り合い朋頭にマリを送る。片方の組がマリを打って先に毬門に入れると勝ちだが、一方の組も走り寄ってマリを奪い入らせぬようにして、互いに追いつ追われつ争い、勝負が決まると皇恩を謝して退場した。続いて黄衣の老兵が宮女百余人ほひきいてあらわれる。やはり「小打」と同じようないでたちだが、ただ宝石で身を飾り、玉帯に紅い長靴をはき、めいめい小馬に乗っている点が違い、これは「大打」と呼んだ。みな馬術の手並みもあざやかで、神業のように馳せるその身のこなしは、軽やかでもあり、あでやかでもあって、俗世間では絵でしか見られぬ美しさであった。これで百戯はすべて終了である。
※剗子箭(さんしせん):矢じりの先が尖っていない矢。日本でも木や鉄製で頭が尖っていない矢じりのついた矢を平題箭(いたつき)と呼んで、弓術練習に用いた。
※韉(せん):鞍の下に敷く皮。
※花幞:幞頭(ぼくとう)は、四角い布で頭を包み後頭部でしばった頭巾が起源の冠で、冠の後両側に4本または2本の角〔つの、脚(あし)とも言う〕が出ており、その角にはさまざまな形のものがあった。
※義襴(ぎらん)束帯:義襴は、袍の裾に付け加える飾りの布。日本でも袍の裾の左右につける横幅の布を襴(らん、または すそつき)といった。「束帯」は、冠と帯をつけた礼装をいう。
今日は七夕。今朝も早朝から雨。
東京夢華録 巻七 駕登寶津樓諸軍呈百戲 一
駕登寶津樓、諸軍百戲呈於樓下。先列皷子十數輩、一人搖雙皷子、近前進致語、多唱「青春三月」、《驀山溪》也。唱訖、皷笛舉、一紅巾者弄大旗、次獅豹入場、坐作進退、奮迅舉止畢。次一紅巾者、手執兩白旗子、跳躍旋風而舞、謂之「撲旗子」。及上竿、打筋斗之類訖、樂部舉動、琴家弄令。有花妝輕健軍士百餘、前列旗幟、各執雉尾、蠻牌、木刀、初成行列拜舞、互變開門奪橋等陣、然後列成偃月陣。樂部復動蠻牌令、數內兩人出陣對舞、如擊刺之狀、一人作奮擊之勢、一人作僵仆。出場凡五七對、或以鎗對牌、劍對牌之類。忽作一聲如霹靂、謂之「爆仗」、則蠻牌者引退、煙火大起、有假面披髮、口吐狼牙煙火、如鬼神狀者上場。著青帖金花短後之衣、帖金皂袴、跣足、攜大銅鑼隨身、步舞而進退、謂之「抱鑼」。遶場數遭、或就地放煙火之類。又一聲爆仗、樂部動《拜新月慢》曲、有面塗青碌、戴面具、金睛、飾以豹皮錦繡看帶之類、謂之「硬鬼」。或執刀斧、或執杵棒之類、作腳步蘸立、為驅捉視聽之狀。又爆仗一聲、有假面長髯、展裹綠袍鞾簡如鍾馗像者、傍一人以小鑼相招和舞步、謂之「舞判」。繼有二三瘦瘠、以粉塗身、金睛白面、如髑髏狀、繫錦繡圍肚看帶、手執軟仗、各作魁諧趨蹌、舉止若排戲、謂之「啞雜劇」。又爆仗響、有煙火就湧出、人面不相覩、煙中有七人、皆披髮文身、著青紗短後之衣、錦繡圍肚看帶、內一人金花小帽、執白旗、餘皆頭巾、執真刀、互相格鬥擊刺、作破面剖心之勢、謂之「七聖刀」。忽有爆仗響、又復煙火。出散處以青幕圍繞、列數十輩、皆假面異服、如祠廟中神鬼塑像、謂之「歇帳」。又爆仗響、卷退。次有一擊小銅鑼、引百餘人、或巾裹、或雙髻、各著雜色半臂、圍肚看帶、以黃白粉塗其面、謂之「抹蹌」。各執木棹刀一口、成行列、擊鑼者指呼、各拜舞起居畢、喝喊變陣子數次、成一字陣、兩兩出陣格鬥、作奪刀擊刺之態百端訖、一人棄刀在地、就地擲身、背著地有聲、謂之「扳落」。如是數十對訖、復有一裝田舍兒者入場、念誦言語訖、有一裝村婦者入場、與村夫相值、各持棒杖互相擊觸、如相敺態。其村夫者以杖背村婦出場畢。後部樂作、諸軍繳隊雜劇一段、繼而露臺弟子雜劇一段、是時弟子蕭住兒、丁都賽、薛子大、薛子小、楊總惜、崔上壽之輩、後來者不足數。合曲舞旋訖、諸班直常入祗候子弟所呈馬騎。先一人空手出馬、謂之「引馬」。次一人磨旗出馬、謂之「開道旗」。
〔訳〕《主上、宝津楼に登られ、諸軍、百戯を御覧に供す〔清明二〕1》主上が宝津楼に登られると、諸軍が楼の下で、百戯を御覧に供した。まず鼓手が十数人並び、一人が振り鼓を振り鳴らし、おん前に近づき祝儀の言葉を奏上する。多くは「青春三月驀山渓」を歌う。歌がすむと、鼓笛が奏せられ、紅い頭巾をした者が、大きな旗を翻して登場、ついで獅豹(ししまい)が出て、さまざまなしぐさをしたり激しい立ち回りをする。これがすむと、つぎは紅い頭巾をした者が、手に二つの白い旗を持ち、跳躍したり旋風のように回転したりして踊り、これを「撲旗士(はたふり)」という。それから竿登り、打筋斗(とんぼがえり)のたぐいが行なわれた後、花やかに粧(よそお)った軽快で凛々しい武士が百余人登場する。前列は旗をなびかせ、それぞれ雉尾(とりげ)や蛮牌(たて)や木刀を手にしている。はじめ整列して拝舞をしてから、開門・奪橋などに陣形を変え、さいごに偃月陣の陣形をとる。楽部がこんどは「蛮牌」の曲を演奏すると、陣の中から二人が出てきて対舞をする。立ち回りふうなもので、一方が激しく打ちかかるさまを、一方は打ち倒されるさまを演ずる。およそ五・六組が登場したが、いずれも槍と牌(たて)、あるいは剣と牌といったたぐいの組合わせであった。突然、霹靂(へきれき)のような音が鳴り響く。これを「爆仗〔ばくじょう、爆竹〕」という。と、蛮牌(たて)を演じた者たちは退場して、煙火(はなび)が燃え上がると、ざんばら髪で口から狼のような牙を突き出し煙を吐く仮面をつけた鬼神のような姿をした者が登場する。青地に金色の花模様の短後(うしろみじか)の衣(ころも)を着、金を摺った黒の袴をつけ、はだしで大きなドラを持って舞い歩く。これを「抱鑼(ドラもち)」といい、舞台を数回廻り、ところどころに煙火のたぐいを放った。また爆竹が鳴り、楽隊が「拝新月慢」の曲を演奏すると、顔を濃緑色に塗り金色の睛(ひとみ)をした仮面を付け、豹の皮に錦の帯などで身を飾った者があらわれる。これを「硬鬼(こうき)」という。手に刀や斧あるいは杵や棒などを持ち、歩いたり止まったりして、なにかを追い捉え調べるふりをする。また爆竹が鳴ると、仮面に長い髯をつけ、緑の袍(ほう)に身を包み革長靴をはいた鍾馗(しょうき)の像のような姿のものが、かたわらの小さいドラを持った者とともに舞い歩むのを「舞判(ぶはん)」といった。ついで二、三人の、やせたからだに白粉を塗り金色の睛(ひとみ)の白い仮面をかぶった骸骨のような姿の者があらわれる。錦の囲肚看帯(はらあておび)をつけ、手に柔らかい杖をもちそれぞれおどけたりよろけたり、そのしぐさがしばいがかりだったので、これを「唖雑劇(だんまり)」という。また爆竹が響くと、煙火の煙が湧き上がり、人の顔もさだかに見分けられぬ煙が立ち込める中から、ざんばら髪で、文身(いれずみ)をし、青い薄絹の短後(うしろみじか)の衣を着、錦の囲肚看帯(はらあておび)をつけた七人の者があらわれる。その中の一人は金花の小帽子をかぶり白旗を持っている。他はみな頭巾をつけ真剣を持ち、格闘しあい、顔を切ったり心臓を突いたりするさまをし、これを「七聖刀」という。突然、爆竹が響くと、またまた煙火だ。ほうぼうに青い幕を張り巡らし、めいめいの仮面をつけた異様な服を着た者が数十人並んださまは、廟中の神鬼の塑像さながらだ。これを「歇帳(けっちょう)」という。また爆竹が響くと、この連中は幕をまいて退場する。つぎに小ドラを一撃すると百人あまりもの人数がくりだす。頭巾で頭を包んだ者と、双髺(ふたつまげ)をつけた者とに分かれ、めいめい色とりどりの半臂(そでなし)に、囲肚看帯(はらあておび)をつけ、顔には黄白の粉を塗っている。これを「抹蹌(まつそう)」という。みな木の棹刀(なぎなた)一口(ひとふり)を持って行列して出て来る。ドラを打つ者が指図し号令をかけると、それぞれ拝舞をしてから居ずまいを正しおえると、ときの声をあげて数度陣形を変える。一字形の陣になると双方から陣を出て格闘をはじめ、刀を奪ったり斬りあったりするさまを見せた。一人が刀を地に捨て、その場に身を投げるようにドスンと背から地に落ちるのを「叛落(はんらく)」といった。このようにして数十番が終ると、こんどは田舎者に扮した役が出て来る。口上を言い終わると、田舎女に扮した役が入場し、田舎者と組んで、棒を持って打ち合い、けんかのさまを演じる。この田舎者が杖で田舎女を背負って退場してしまうと、楽部が演奏を始め、諸軍が編成した雑劇(しばい)が一段演じられる。ついで教坊の役者たちによってまた雑劇が一段演じられる。この当時の教坊の役者には、蕭住児(しょうじゅうじ)・丁都賽(ていとさい)・薛子大(せつしだい)・薛子小・楊総惜(ようそうしゃく)・崔上寿(さいじょうじゅ)などがいたが、その後は数うるにたらぬものばかりだった。楽舞が終ると、諸禁衛隊に入隊して常に主上のお側近くに仕えている子弟たちが馬術をご覧に供した。まず一人が徒手で馬を引き出し、これを「引馬」という。ついで一人が旗を振り馬に乗って出てくる。これを「開道旗」という。
※百戯:宋代の雑楽百戯には各種軽業と歌舞劇があり、みな左右軍に隷属し散居していたが、大饗宴があるごとに、饗宴をつかさどる官署である官徽院がこれを召集した。
※振り鼓:原文では「搖雙皷子」とあり、揺〔振り〕とあるその動作から、雙皷子というのは振り鼓であり、手にとって振り鳴らしたものと思われる。
※驀山渓:「上陽春」ともよばれる詞〔宋代流行の小唄〕の曲名。
※雉尾:儀仗用の長い柄がついたキジの羽毛製の団扇。
※蛮牌:蛮王の顔が画いてある円形の楯。
※偃月陣:三日月形に並ぶ陣形。
※後短衣の衣:後ろが短く激しい動作に邪魔にならぬようになっている着物。
今夕はちゃぼ女史の父上の通夜で代々幡斎場に出かける予定。
東京夢華録 巻七 駕登寶津樓諸軍呈百戲 一
駕登寶津樓、諸軍百戲呈於樓下。先列皷子十數輩、一人搖雙皷子、近前進致語、多唱「青春三月」、《驀山溪》也。唱訖、皷笛舉、一紅巾者弄大旗、次獅豹入場、坐作進退、奮迅舉止畢。次一紅巾者、手執兩白旗子、跳躍旋風而舞、謂之「撲旗子」。及上竿、打筋斗之類訖、樂部舉動、琴家弄令。有花妝輕健軍士百餘、前列旗幟、各執雉尾、蠻牌、木刀、初成行列拜舞、互變開門奪橋等陣、然後列成偃月陣。樂部復動蠻牌令、數內兩人出陣對舞、如擊刺之狀、一人作奮擊之勢、一人作僵仆。出場凡五七對、或以鎗對牌、劍對牌之類。忽作一聲如霹靂、謂之「爆仗」、則蠻牌者引退、煙火大起、有假面披髮、口吐狼牙煙火、如鬼神狀者上場。著青帖金花短後之衣、帖金皂袴、跣足、攜大銅鑼隨身、步舞而進退、謂之「抱鑼」。遶場數遭、或就地放煙火之類。又一聲爆仗、樂部動《拜新月慢》曲、有面塗青碌、戴面具、金睛、飾以豹皮錦繡看帶之類、謂之「硬鬼」。或執刀斧、或執杵棒之類、作腳步蘸立、為驅捉視聽之狀。又爆仗一聲、有假面長髯、展裹綠袍鞾簡如鍾馗像者、傍一人以小鑼相招和舞步、謂之「舞判」。繼有二三瘦瘠、以粉塗身、金睛白面、如髑髏狀、繫錦繡圍肚看帶、手執軟仗、各作魁諧趨蹌、舉止若排戲、謂之「啞雜劇」。又爆仗響、有煙火就湧出、人面不相覩、煙中有七人、皆披髮文身、著青紗短後之衣、錦繡圍肚看帶、內一人金花小帽、執白旗、餘皆頭巾、執真刀、互相格鬥擊刺、作破面剖心之勢、謂之「七聖刀」。忽有爆仗響、又復煙火。出散處以青幕圍繞、列數十輩、皆假面異服、如祠廟中神鬼塑像、謂之「歇帳」。又爆仗響、卷退。次有一擊小銅鑼、引百餘人、或巾裹、或雙髻、各著雜色半臂、圍肚看帶、以黃白粉塗其面、謂之「抹蹌」。各執木棹刀一口、成行列、擊鑼者指呼、各拜舞起居畢、喝喊變陣子數次、成一字陣、兩兩出陣格鬥、作奪刀擊刺之態百端訖、一人棄刀在地、就地擲身、背著地有聲、謂之「扳落」。如是數十對訖、復有一裝田舍兒者入場、念誦言語訖、有一裝村婦者入場、與村夫相值、各持棒杖互相擊觸、如相敺態。其村夫者以杖背村婦出場畢。後部樂作、諸軍繳隊雜劇一段、繼而露臺弟子雜劇一段、是時弟子蕭住兒、丁都賽、薛子大、薛子小、楊總惜、崔上壽之輩、後來者不足數。合曲舞旋訖、諸班直常入祗候子弟所呈馬騎。先一人空手出馬、謂之「引馬」。次一人磨旗出馬、謂之「開道旗」。
※百戯:宋代の雑楽百戯には各種軽業と歌舞劇があり、みな左右軍に隷属し散居していたが、大饗宴があるごとに、饗宴をつかさどる官署である官徽院がこれを召集した。
※振り鼓:原文では「搖雙皷子」とあり、揺〔振り〕とあるその動作から、雙皷子というのは振り鼓であり、手にとって振り鳴らしたものと思われる。
※驀山渓:「上陽春」ともよばれる詞〔宋代流行の小唄〕の曲名。
※雉尾:儀仗用の長い柄がついたキジの羽毛製の団扇。
※偃月陣:三日月形に並ぶ陣形。
※後短衣の衣:後ろが短く激しい動作に邪魔にならぬようになっている着物。
今夕はちゃぼ女史の父上の通夜で代々幡斎場に出かける予定。
昨日扇橋にいる塾友のKY女史よりちゃぼ女史の父上の訃報が携帯メールで入った。曰く、
「おはようございます。/昨晩 Mさんからメールがありました。『父が今日亡くなりました。91歳の大往生でした。/今スーツ姿で笑っています。自宅で看取る事が出来ました。(m~-~)』との事です。/暮れからお母様の看病疲れからご自身が肺炎を拗らせてはいたものの、退院して2人で介護の方達のお世話になりながら、気持ちはしっかりしてるので、と東京マラソンの時には聞いてたので、回復されたのかと思っていたのですが… /葬儀の予定をお知らせします。通夜 7日18時~19時、告別式 8日11時~12時 場所は代々幡斎場です。/私は8日は行けないので、お通夜に伺います。 KY」
ちゃぼ女史はこの爺にブログを書く事を進めてくれた人。東京マラソンの折にはK女史と一緒にこの爺を訪ねてくれた。早速ちゃぼ女史に携帯でお悔やみのメールを出しておいた。曰く、
「心からご冥福をお祈りいたします。 先ほどKちゃんよりお父上ご逝去の報せを受けました。先ずは『ご愁傷様です』心からお悔やみ申し上げます。九十歳といえば、天寿を全うされたのですから、ご家族の方々もきおちすることなく、ご自愛の上、お見送り下さい。/ご冥福をお祈りいたします。 合掌/お通夜には参加して、おみおくりさせていただきます。 日高節夫・道子」
昨日は早朝の雨で徘徊を取り止めたが、今朝はいつものように桜橋を起点に、白鬚橋→吾妻橋→桜橋と一周して、帰宅した。山谷掘水門広場には、今月末の28日(土)の隅田川花火大会の資材置き場が設けられた。橋場の遊歩道に木槿(むくげ)の花が咲いていた。
白居易は詠じている。
「槿花一日自為栄 (木槿〈むくげ〉の花は一日しか咲かないが、それでもすばらしい栄華だ)
何須恋世常憂死 (人の世を恋々と慕って、死を憂いてもしょうがない)」と。
積雨輞川荘作〔王維〕 積雨 輞川荘の作
積雨空林烟火遅 積雨(せきう) 空林 烟火(えんか)遅し
蒸藜炊黍餉東菑 藜(あかざ)を蒸し黍を炊いで東菑(とうし)に餉す
漠漠水田飛白鷺 漠漠(ばくばく)たる水田に白鷺(はくろ)飛び
陰陰夏木囀黄鸝 陰陰たる夏木(かぼく)に黄鸝(こうり)囀る
山中習静観朝槿 山中に習静して朝槿(ちょうきん)を観(かん)じ
松下清斎折露葵 松下(しょうか)に清斎して露葵(ろき)を折る
野老与人争席罷 野老(やろう)は人と席を争うことを罷(や)む
海鷗何事更相疑 海鷗(かいおう) 何事ぞ 更に相(あい)疑う
〔訳〕降りつづく雨 人気のない林 煙は緩(ゆる)やかに流れ
藜(あかざ)を蒸し黍を炊いて 畑での食事をつくる
靄のかかる水田で 白鷺は舞い
小暗い夏の木立で 鶯は鳴く
山中で座禅を組み 槿(むくげ)の花を見て無常を悟り
松の木蔭で斎戒し 清らかな葵(あおい)を食とする
田舎住まいの老人は 席次を争う気もなくなり
海の鷗よ どうしたことか まだ私を疑っているのか
「おはようございます。/昨晩 Mさんからメールがありました。『父が今日亡くなりました。91歳の大往生でした。/今スーツ姿で笑っています。自宅で看取る事が出来ました。(m~-~)』との事です。/暮れからお母様の看病疲れからご自身が肺炎を拗らせてはいたものの、退院して2人で介護の方達のお世話になりながら、気持ちはしっかりしてるので、と東京マラソンの時には聞いてたので、回復されたのかと思っていたのですが… /葬儀の予定をお知らせします。通夜 7日18時~19時、告別式 8日11時~12時 場所は代々幡斎場です。/私は8日は行けないので、お通夜に伺います。 KY」
ちゃぼ女史はこの爺にブログを書く事を進めてくれた人。東京マラソンの折にはK女史と一緒にこの爺を訪ねてくれた。早速ちゃぼ女史に携帯でお悔やみのメールを出しておいた。曰く、
「心からご冥福をお祈りいたします。 先ほどKちゃんよりお父上ご逝去の報せを受けました。先ずは『ご愁傷様です』心からお悔やみ申し上げます。九十歳といえば、天寿を全うされたのですから、ご家族の方々もきおちすることなく、ご自愛の上、お見送り下さい。/ご冥福をお祈りいたします。 合掌/お通夜には参加して、おみおくりさせていただきます。 日高節夫・道子」
白居易は詠じている。
「槿花一日自為栄 (木槿〈むくげ〉の花は一日しか咲かないが、それでもすばらしい栄華だ)
何須恋世常憂死 (人の世を恋々と慕って、死を憂いてもしょうがない)」と。
積雨輞川荘作〔王維〕 積雨 輞川荘の作
積雨空林烟火遅 積雨(せきう) 空林 烟火(えんか)遅し
蒸藜炊黍餉東菑 藜(あかざ)を蒸し黍を炊いで東菑(とうし)に餉す
漠漠水田飛白鷺 漠漠(ばくばく)たる水田に白鷺(はくろ)飛び
陰陰夏木囀黄鸝 陰陰たる夏木(かぼく)に黄鸝(こうり)囀る
山中習静観朝槿 山中に習静して朝槿(ちょうきん)を観(かん)じ
松下清斎折露葵 松下(しょうか)に清斎して露葵(ろき)を折る
野老与人争席罷 野老(やろう)は人と席を争うことを罷(や)む
海鷗何事更相疑 海鷗(かいおう) 何事ぞ 更に相(あい)疑う
〔訳〕降りつづく雨 人気のない林 煙は緩(ゆる)やかに流れ
藜(あかざ)を蒸し黍を炊いて 畑での食事をつくる
靄のかかる水田で 白鷺は舞い
小暗い夏の木立で 鶯は鳴く
山中で座禅を組み 槿(むくげ)の花を見て無常を悟り
松の木蔭で斎戒し 清らかな葵(あおい)を食とする
田舎住まいの老人は 席次を争う気もなくなり
海の鷗よ どうしたことか まだ私を疑っているのか
昨夜来の雨は、夜明け共に上がりそうだが、公園内や隅田川沿いのテラスのベンチは雨のため、座れそうもない。途中休憩無しにはとても徘徊できない情けなき現状なれば、朝の徘徊は諦める。
東京夢華録 巻六 元宵 二
綵山左右、以綵結文殊、普賢、跨獅子白象、各於手指出水五道、其手搖動。用轆轤絞水上燈山尖高處、用木櫃貯之、逐時放下、如瀑布狀。又於左右門上、各以草把縛成戲龍之狀、用青幕遮籠、草上密置燈燭數萬盞、望之蜿蜒如雙龍飛走。自燈山至宣德門樓橫大街、約百餘丈、用棘刺圍遶、謂之「棘盆」、內設兩長竿、高數十丈、以繒綵結束、紙糊百戲人物、懸於竿上、風動宛若飛仙。內設樂棚、差衙前樂人作樂雜戲、并左右軍百戲、在其中駕坐一時呈拽。宣德樓上、皆垂黃緣、簾中一位、乃御座。用黃羅設一綵棚、御龍直執黃蓋、掌扇、列於簾外。兩朵樓各掛燈毬一枚、約方圓丈餘、內燃椽燭、簾內亦作樂。宮嬪嬉笑之聲、下聞於外。樓下用枋木壘成露臺一所、綵結欄檻、兩邊皆禁衛排立、錦袍、幞頭簪賜花、執骨朵子、面此樂棚。教坊、鈞容直、露臺弟子、更互雜劇。近門亦有內等子班直排立。萬姓皆在露臺下觀看、樂人時引萬姓山呼。
〔訳〕《元宵二》色絹で飾られた屋台の左右には、色絹で文殊菩薩・普賢菩薩が獅子と白象にまたがっている像が作られ、それぞれの手指から五筋の水が噴き出し、その手も揺れ動くのだ。高い燈山のてっぺんにも巻揚機で水をくみ上げ、木の桶にためてどんどん滝のように水を落とした。また、左右の門のうえには草(わら)で龍が戯れる姿を作り、青い布幕でこれを覆い、その上に数万皿の燈火をすき間なくおき並べた。これを遠くから望み見るとまるで双龍が身をくねらせて飛行しているように見えた。燈山から宣徳門の横の大通りまで、約百余丈は、棘刺(いばら)で囲み、これを「棘盆(いばらやま)」と呼んだ。囲みの内側には、高さ数十丈、色絹を巻きつけた二本の長い竿が立っている。紙糊(はりこ)で作られた百戯に登場する人物の像が、その竿にかけられ風に揺られてさながら飛仙のようだった。また、囲みの内側には奏楽の屋台が設けられ、開封府の衙前楽人(おやといがくし)が出向いて演奏し、主上が座につかれると、雑劇(しばい)および左右軍の百戯がいっせいに演じられた。宣徳楼上には黄の縁飾りのついた御簾(みす)が垂らされ、その中に主上の御座があり、黄の薄絹を張った日除け棚が設けられている。御簾の外には御龍直〔ぎょりゅうちょく、親衛儀仗兵〕が黄の薄絹の傘と掌扇〔しょうせん、長い柄に大きな扇のついた儀仗の具〕を持ってんでいる。宣徳門の左右にある楼には、それぞれ一丈あまりもある毬形の大提灯が一つずつかけられて、なかに大蝋燭(ろうそく)がともされる。御簾の中でも楽が奏せられ、宮女たちの笑いざわめく声が下にまで聞こえた。楼の下には蘇枋(すおう)の木で露台を作り、欄杆に色絹を巻きつけた。その両側にはこの台に面して近衛兵が立ち並び、錦の袍(ひたたれ)、下賜された花を挿した幞頭(かむり)に、手には骨朶子(こんぼう)を持っている。台では教坊の鈞容直(ぐんがくたい)、露台の弟子(ていし)たちが代わる代わる雑劇を演じた。また門の近くには内等子(りきし)、班直(とのいびと)が立ち並んでおり、万民はみな露台の下で見物し、時々楽師たちは万民が皇帝万歳をとなえる音頭をとるのだった。
※棘盆:燈山には鳳燈・水燈などさまざまなものがあったが、そのなかでも棘盆燈はもっともりっぱなものであったという。
※衙前楽人:衙前は宋代の役(えき)のひとつであるが、兵役とも力役ともちがう。一般に職役とよばれるもので、衙前に召されたものは、官物を主管し供給する職務を受け持った。非常に辛いものであったので王安石の変法後は、賃金を払う雇役となり、以後衙前は官府の雇役人をさす言葉となった。ここの衙前楽人というのも、開封府のお雇い楽師であったようである。
※左右軍の百戯:北宋時代、東京で百戯を演じた芸人集団には左軍と右軍があり、ともに開封府の雇役楽人であった。この左右軍とは陸軍の軍ではなく、宋代に京城内の内外を左右南北の各区に分けたうちの、その左ⅸと右ⅸのことで、開封府がこの左右区から衙前として官府に召し出した百戯芸人の演芸を左右軍の百戯と呼んだ。男も女もおり、みな紅い頭巾に色絹の服を着ていたという。
※骨朶子:武器の一種。鉄あるいは堅木で作った棍棒ふうのもので、その端には球形の大きな玉がついている。
※鈞容直:教坊(皇室経営の歌舞教習所)に属する儀仗軍楽隊。軍中から音楽をよくする者を選び、皇帝の行列に従い馬に乗って楽を奏し前導したもの。はじめ引竜直と呼ばれたが、宋の太宗の淳化年間〔990~994年〕に鈞容直とかいしょうした。
※露台の弟子:上元観燈に当たっては宣徳楼前に露台を設け、台上で教坊の楽を奏し、小児隊が楽舞した。教坊に属する小児の楽団員のこと。
※内等子:諸軍から腕力の特にすぐれた力士を選んで編成した近衛兵。
※班直:北宋で禁衛を担当する官薯であった殿前司に属し、宮中に宿直する左右班および内殿直などの禁衛武士の総称。
東京夢華録 巻六 元宵 二
綵山左右、以綵結文殊、普賢、跨獅子白象、各於手指出水五道、其手搖動。用轆轤絞水上燈山尖高處、用木櫃貯之、逐時放下、如瀑布狀。又於左右門上、各以草把縛成戲龍之狀、用青幕遮籠、草上密置燈燭數萬盞、望之蜿蜒如雙龍飛走。自燈山至宣德門樓橫大街、約百餘丈、用棘刺圍遶、謂之「棘盆」、內設兩長竿、高數十丈、以繒綵結束、紙糊百戲人物、懸於竿上、風動宛若飛仙。內設樂棚、差衙前樂人作樂雜戲、并左右軍百戲、在其中駕坐一時呈拽。宣德樓上、皆垂黃緣、簾中一位、乃御座。用黃羅設一綵棚、御龍直執黃蓋、掌扇、列於簾外。兩朵樓各掛燈毬一枚、約方圓丈餘、內燃椽燭、簾內亦作樂。宮嬪嬉笑之聲、下聞於外。樓下用枋木壘成露臺一所、綵結欄檻、兩邊皆禁衛排立、錦袍、幞頭簪賜花、執骨朵子、面此樂棚。教坊、鈞容直、露臺弟子、更互雜劇。近門亦有內等子班直排立。萬姓皆在露臺下觀看、樂人時引萬姓山呼。
※棘盆:燈山には鳳燈・水燈などさまざまなものがあったが、そのなかでも棘盆燈はもっともりっぱなものであったという。
※衙前楽人:衙前は宋代の役(えき)のひとつであるが、兵役とも力役ともちがう。一般に職役とよばれるもので、衙前に召されたものは、官物を主管し供給する職務を受け持った。非常に辛いものであったので王安石の変法後は、賃金を払う雇役となり、以後衙前は官府の雇役人をさす言葉となった。ここの衙前楽人というのも、開封府のお雇い楽師であったようである。
※骨朶子:武器の一種。鉄あるいは堅木で作った棍棒ふうのもので、その端には球形の大きな玉がついている。
※鈞容直:教坊(皇室経営の歌舞教習所)に属する儀仗軍楽隊。軍中から音楽をよくする者を選び、皇帝の行列に従い馬に乗って楽を奏し前導したもの。はじめ引竜直と呼ばれたが、宋の太宗の淳化年間〔990~994年〕に鈞容直とかいしょうした。
※露台の弟子:上元観燈に当たっては宣徳楼前に露台を設け、台上で教坊の楽を奏し、小児隊が楽舞した。教坊に属する小児の楽団員のこと。
※内等子:諸軍から腕力の特にすぐれた力士を選んで編成した近衛兵。
※班直:北宋で禁衛を担当する官薯であった殿前司に属し、宮中に宿直する左右班および内殿直などの禁衛武士の総称。
帰宅後、夫人に携帯メールした。曰く、「テスト送信 今朝ほどは失礼。テスト送信を兼ね初めて携帯でメールします。/今朝ほど撮った写真です。 日高」
折り返し、夫人よりメールが入る。曰く、「とても良く写っています。有難うございました。M子」
政界は大揺れに揺れているようだ。このぬかるみはどこまで続くのだろう。今朝のウェブニュースより
今日は早朝まで雨が残り、徘徊は取り止め。
東京夢華録 巻六 元宵 一
正月十五日元宵、大內前自歲前冬至後、開封府絞縛山棚、立木正對宣德樓、遊人已集御街。兩廊下奇術異能、歌舞百戲、鱗鱗相切、樂聲嘈雜十餘里、擊丸蹴踘、踏索上竿。趙野人、倒喫冷淘;張九哥、吞鐵劍;李外寧、藥法傀儡;小健兒、吐五色水、旋燒泥丸子;大特落、灰藥;榾柮兒、雜劇;溫大頭、小曹、嵇琴;党千、簫管;孫四、燒煉藥方;王十二、作劇術;鄒遇、田地廣、雜扮;蘇十、孟宣、築毬;尹常賣、《五代史》;劉百禽、䖝蟻;楊文秀、皷笛。更有猴呈百戲、魚跳刀門、使喚蜂蝶、追呼螻蟻。其餘賣藥、賣卦、沙書、地謎、奇巧百端、日新耳目。至正月七日、人使朝辭出門、燈山上綵、金碧相射、錦繡交輝。面北悉以綵結、山呇上皆畫神仙故事。或坊市賣藥賣卦之人、橫列三門、各有綵結金書大牌、中曰「都門道」、左右曰「左右禁衛之門」、上有大牌曰「宣和與民同樂」。
〔訳〕《元宵一》正月十五日は元宵節だ。宮城の前には歳末から冬至まで開封府が、宣徳楼〔宮城正門〕の真向かいに屋台を結い立て、見物人は早くから御街の両廊下におしかけた。奇術や珍しい見世物、歌舞や百戯が、ずらりとひしめき並び、楽の音は十余里もの間に賑わしく鳴り響き、丸(たま)を撃つもの、鞠を蹴るもの、綱渡りをするもの、高い竿に登るものもいる。趙野人は逆立ちして冷淘(れいとう)を食べて見せる。張九哥は鉄剣を飲む。李外寧は薬法傀儡(やくほうぐくつ)をあやつる。小健児(しょうけんじ)は五色の水を吐き出し、泥の玉を焼く。大特落(だいとくらく)の灰薬、榾柮児(こつとつじ)の雑劇(しばい)もあり、温大頭と小曹は嵆琴(けいきん)を弾く。党千は簫管(しょうかん、尺八のたぐい)を吹く。孫四は薬を焼煉して調剤する。王十二は劇術(たちまわり)を見せる。鄒遇(すうぐう)と田地広(でんちこう)は雑扮(ちゃばん)、蘇十(そじゅう)と孟宣(もうせん)は築毬(けまり)、尹常売(いんじょうばい)は五代史を語る。劉百禽(りゅうひゃっきん)は虫蟻(むし)使いだ。楊文秀は鼓笛。さらに猿芝居やら、魚の刃渡りとか、螻(けら)や蟻を使うものもいる。そのほか薬売り、八卦見、地面の砂に書いた謎解きとか、珍しいものが沢山あり、毎日目新しい見聞を得ることが出来た。正月七日、新年の祝賀に来た諸国の使者が朝廷を辞して外に出るときには、燈山に五色の絹がかけられて、なんとも絢爛豪華であった。北側(宮城正門に面する側)に、五色の絹を張りめぐらして燈山の上にはずらりと神仙の物語が描いてあるのだ。また、町の薬売り、八卦見たちも三つの飾り門を並べて建てた。真ん中は「都問答」、左右は「左・右禁衛之門」と名付け、その上の大きな額に「宣和(徽宗の年号)、民と楽しみを同じうする」と書してあった。
※元宵:正月・七月・十月の十五日をそれぞれ上元・中元・下元という。元宵とは、上元の夜の意。つまり旧正月満月の夜のことで、中国では灯篭祭りをする習慣になっているが、これは漢の武帝が夜通し太一神を祭った故事を唐代に沿襲のが起源であるという。
※百戯:雑技とも呼ばれ、軽業・曲技・武技・舞踊あるいは簡単な芝居などを含む演芸。
※冷淘:菜麺店(うどんや)では、もっぱら菜麺・虀淘(せいとう)・冷淘(れいとう)を売ったという。宋代の文章には淘という字がつくものが麺料理店のメニューによく出てくるという。冷淘は、いま中国で涼粉(リャンフェン)と呼ばれるもののたぐいか。涼粉は豆の粉から作ったトコロテン風の大衆食品である。
※薬方傀儡:薬発傀儡とも書かれ、花火の中から各種の人物や鳥獣を打ち出すもの。四月八日に相国寺の浴仏会で、金盤中に置かれた二尺ほどの釈迦像は金盤中を七歩周行したので、これを見たものは愕然としたというが、当今の薬物傀も、蓋しこの遺意を得たものであろうといわれる。もともと傀儡は操り人形のことで、懸糸傀儡は糸で吊るしてあやつるMarionette(マリオネット)のこと。杖頭傀儡は、日本の文楽人形に近く、人形の頭についた主棒を片手に、人形の両手に着いた細い棒を一方の手に持ってあやつる。花火を使う操り人形は日本にもあり綱火と呼ばれ、いまでも茨城県高岡に伝わっているという。杉の大木の間に綱を渡し、滑車で人形を吊るし、その顔や手足に花火をつけて「三番叟」や「浦島」を踊る人形の姿を夜空にくっきりと浮かび上がらせる。
※大特落の灰落:不明。やはり火薬を用いる芸か。
※榾柮児:木の根っこの意があり、また当時の通俗的な食品にもこれと同音の団子の類の製麺菓子があった。芸人の仇名か、宋代の雑劇には奇妙な名称のものが少なくなかったから、これも榾柮児雑劇という雑劇の一種かもしれない。
※雑劇:宋代の雑劇の内容は雑多とはいえ、その主要なものは白(せりふ)と唱(うた)があり、音楽としては唐に始る大曲という楽曲を用いた、一種の歌舞劇風の芝居であった。
※嵆琴:宋代に流行した嵆琴は、奚琴とも書かれ、いまの胡弓の祖。唐代よりその名が見えるが、小円筒形の胴に短い棹をつけて二弦を張ったもので、唐宋代には撥弦楽器だった。元代から弓で弾く擦弦楽器となったという。
※劇術:剣戟や弓術などの武技のことか?
※雑扮:雑劇の後でやる狂言。多くは山東・河北の田夫野人に扮しての茶番狂言であるという。
※笑毬:蹴鞠は笑毬鞠ともいい、牛や豚の胞に空気を詰めて、これを少年たちが囲んで蹴り、できるだけ長い間地上に落とさぬのをよしとするゲームである。
※尹常売:ここに出てくる芸人の名は、客などがつけた仇名ふうのものと思われるものが多く、尹常売の「常売」は、当時の俗語で、こまごました雑貨を呼び売りして歩く街頭の小商人のこと。尹某はもと常売をしていたものか?
※五代史:唐が亡び、宋の太祖が宋朝を開くまでの間の後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五代の史話を語る講談。
※虫蟻使い:芸人の名が百禽所からもうかがえるように、虫蟻といっても、虫だけではなく当時は鳥・獣・魚・虫を使う芸はみな「弄百禽」と呼んだらしい。
※燈山:日本で祭礼にだす飾り屋台を山車とか山鉾というが、「燈山」とは燈篭を飾り立てた屋台のことである。
東京夢華録 巻六 元宵 一
正月十五日元宵、大內前自歲前冬至後、開封府絞縛山棚、立木正對宣德樓、遊人已集御街。兩廊下奇術異能、歌舞百戲、鱗鱗相切、樂聲嘈雜十餘里、擊丸蹴踘、踏索上竿。趙野人、倒喫冷淘;張九哥、吞鐵劍;李外寧、藥法傀儡;小健兒、吐五色水、旋燒泥丸子;大特落、灰藥;榾柮兒、雜劇;溫大頭、小曹、嵇琴;党千、簫管;孫四、燒煉藥方;王十二、作劇術;鄒遇、田地廣、雜扮;蘇十、孟宣、築毬;尹常賣、《五代史》;劉百禽、䖝蟻;楊文秀、皷笛。更有猴呈百戲、魚跳刀門、使喚蜂蝶、追呼螻蟻。其餘賣藥、賣卦、沙書、地謎、奇巧百端、日新耳目。至正月七日、人使朝辭出門、燈山上綵、金碧相射、錦繡交輝。面北悉以綵結、山呇上皆畫神仙故事。或坊市賣藥賣卦之人、橫列三門、各有綵結金書大牌、中曰「都門道」、左右曰「左右禁衛之門」、上有大牌曰「宣和與民同樂」。
※元宵:正月・七月・十月の十五日をそれぞれ上元・中元・下元という。元宵とは、上元の夜の意。つまり旧正月満月の夜のことで、中国では灯篭祭りをする習慣になっているが、これは漢の武帝が夜通し太一神を祭った故事を唐代に沿襲のが起源であるという。
※百戯:雑技とも呼ばれ、軽業・曲技・武技・舞踊あるいは簡単な芝居などを含む演芸。
※冷淘:菜麺店(うどんや)では、もっぱら菜麺・虀淘(せいとう)・冷淘(れいとう)を売ったという。宋代の文章には淘という字がつくものが麺料理店のメニューによく出てくるという。冷淘は、いま中国で涼粉(リャンフェン)と呼ばれるもののたぐいか。涼粉は豆の粉から作ったトコロテン風の大衆食品である。
※大特落の灰落:不明。やはり火薬を用いる芸か。
※榾柮児:木の根っこの意があり、また当時の通俗的な食品にもこれと同音の団子の類の製麺菓子があった。芸人の仇名か、宋代の雑劇には奇妙な名称のものが少なくなかったから、これも榾柮児雑劇という雑劇の一種かもしれない。
※雑劇:宋代の雑劇の内容は雑多とはいえ、その主要なものは白(せりふ)と唱(うた)があり、音楽としては唐に始る大曲という楽曲を用いた、一種の歌舞劇風の芝居であった。
※劇術:剣戟や弓術などの武技のことか?
※雑扮:雑劇の後でやる狂言。多くは山東・河北の田夫野人に扮しての茶番狂言であるという。
※笑毬:蹴鞠は笑毬鞠ともいい、牛や豚の胞に空気を詰めて、これを少年たちが囲んで蹴り、できるだけ長い間地上に落とさぬのをよしとするゲームである。
※尹常売:ここに出てくる芸人の名は、客などがつけた仇名ふうのものと思われるものが多く、尹常売の「常売」は、当時の俗語で、こまごました雑貨を呼び売りして歩く街頭の小商人のこと。尹某はもと常売をしていたものか?
※五代史:唐が亡び、宋の太祖が宋朝を開くまでの間の後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五代の史話を語る講談。
※虫蟻使い:芸人の名が百禽所からもうかがえるように、虫蟻といっても、虫だけではなく当時は鳥・獣・魚・虫を使う芸はみな「弄百禽」と呼んだらしい。
※燈山:日本で祭礼にだす飾り屋台を山車とか山鉾というが、「燈山」とは燈篭を飾り立てた屋台のことである。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
sechin@nethome.ne.jp です。
カレンダー
04 | 2025/05 | 06 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | ||||
4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
最新コメント
[enken 02/23]
[中村東樹 02/04]
[m、m 02/04]
[爺の姪 01/13]
[レンマ学(メタ数学) 01/02]
[m.m 10/12]
[爺の姪 10/01]
[あは♡ 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
最新トラックバック
ブログ内検索
カウンター