瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
東京夢華録 巻三 般載雜賣
東京般載車、大者曰「太平」、上有箱無蓋、箱如构欄而平、板壁前出兩木、長二三尺許、駕車人在中間、兩手扶捉鞭駕之。前列騾或驢二十餘、前後作兩行;或牛五七頭拽之。車兩輪與箱齊、後有兩斜木腳拖夜;中間懸一鐵鈴、行即有聲、使遠來者車相避。仍於車後繫驢騾二頭、遇下峻險橋路、以鞭謕之、使倒坐綞車、令緩行也。可載數十石。官中車惟用驢、差小耳。其次有「平頭車」、亦如「太平車」而小、兩輪前出長木作轅、木梢橫一木、以獨牛在轅內、項負橫木、人在一邊、以手牽牛鼻繩駕之、酒正店多以此載酒梢桶矣。梢桶如長水桶、面安靨口、每梢三斗許、一貫五百文。又有宅眷坐車子、與「平頭車」大抵相似、但椶作蓋、及前後有构欄門、垂簾。又有獨輪車、前後二人把駕、兩旁兩人扶柺、前有驢拽、謂之「串車」、以不用耳子轉輪也。般載竹木瓦石。但無前轅、止一人或兩人推之。此車往往賣糕及餻麋之類人用、不中載物也。平盤兩輪、謂之「浪子車」、唯用人拽。又有載巨石大木、只有短梯盤而無輪、謂之「癡車」、皆省人力也。又有駞騾驢馱子、或皮或竹為之、如方匾竹、兩搭背上、斛㪷則用布袋駞之。
〔訳〕《運送車輌》
東京の荷車は、大きいものを「太平」といった。車台の上に板塀がついているが無蓋である。板塀は手摺上をした平板なもので、その前方に長さ二、三尺あまりの二本の腕木が突き出している。馭者はその間に身を置き、鞭と取り綱を左右の手に持って車をあやつる。前にはラバあるいはロバ二十余頭をずらりと二列につなぐか、または牛が五頭から七頭ぐらいで引く。車の両輪は板塀と高さが等しい。車台の後ろには二本の斜めに延びた木の足があり、その中間に鉄の鈴がつるしてあって、動くと鳴り、遠くから通行人にも車を避けるよう注意させた。なお、車の後ろにもロバかラバを二頭つなぎ、急な道や橋を下る場合、鞭をふるっておどし、車を後ろから引かせて制動をかけ、ゆっくりと進ませた。この車は数十石〔数トン〕もの荷を積載することができた。官庁の車も、ただロバを用いる点が違うだけで、これとほとんど同じであった。その次に平頭車というのがあった。これは太平車に似てより小さく、両輪の前方に長い木を突き出して轅木(ながき)とし、その端に横木を渡し、1頭の牛をその轅木の中に入れて、横木を牛のうなじに乗せた。人はその横に立ち、手で牛の鼻綱をとって引いて行くのだ。正酒店(おやみせ)は多くこの車に酒の梢桶(たる)をのせた。梢桶は、長い水桶状で、表面に靨口(えくぼぐち)がついている。毎梢(ひとたる)に三斗ばかりはいり、値段は一貫五百文であった。
また、婦人之乗りの牛車があった。平頭車とだいたい同じだが、ただシュロで屋根を葺き、前後には手摺のついた出入り口があり、簾を垂らしていた。また、車輪が一つだけの車もあった。前後を二人で持ってあやつり、両側も二人がささえ持つ。前にロバをつけて引くのは「串車(かんしゃ)」といい、耳子転輪を用いなかった。この車は竹木瓦石を運搬した。前の轅木(ながえ)がなく、一人きりか、あるいは二人ぐらいで押して行く一輪車もあった。この車は糕(むしもの)や餻麋(こうび)を売るものが多く用い、物品を運搬するにはもちいなかった。平らな車台に両輪がついたものだけは「浪子車(ろうししゃ)」といい、人が引くのにだけ用いた。また巨石大木を載せるのに、短いはしご形で、車輪のない車台だけのものがあり、これを癡車(ちしゃ)といった。また、ロバ・ラバの背に駄載する荷は、皮あるいは竹で作った四角く平たい竹かご状のもので、背の両側に振り分けて載せた。穀物は布袋を用いて駄載した。
※太平=この車はばかでかくて鈍重であり、いったん雨雪に会えば身動きできなくなるので、俗に太平車と称したという。
※板塀=原文では「箱」。車の物を積載する囲いの意で、必ずしも箱形をしていなくてもよい。太平車の「箱」なるものは、車台の左右両側に立てられた、手摺状の二枚の板塀であり、車台の前後は開いている。
※梢桶=梢は筲(ふご)のこと。中国では水売りが天秤棒で担ぎ運ぶ水桶を「水筲(シュイシャオ)」という。
※靨口=不明。「清明上河図」に描かれている梢桶をのせた平頭車ふうの車の図に、梢桶の表面の真ん中に、それを抜いて酒をくみ出すとおぼしき栓のようなものがついている。これをいうのであろうか。
※牛車=原文では「車子」。一頭の牛で引く婦人乗りの車を車子といった。
※耳子転輪=不明。一輪車を両側から支えて動かす者のことか、あるいは両側につける補助輪のようなものか。
※餻麋=点心の一種か。
※浪子車=「よたぐるま」といった意味。日本の大八車のようなもの。
※癡車=「まぬけぐるま」といった意味。いわゆる「ころ」の台。
東京般載車、大者曰「太平」、上有箱無蓋、箱如构欄而平、板壁前出兩木、長二三尺許、駕車人在中間、兩手扶捉鞭駕之。前列騾或驢二十餘、前後作兩行;或牛五七頭拽之。車兩輪與箱齊、後有兩斜木腳拖夜;中間懸一鐵鈴、行即有聲、使遠來者車相避。仍於車後繫驢騾二頭、遇下峻險橋路、以鞭謕之、使倒坐綞車、令緩行也。可載數十石。官中車惟用驢、差小耳。其次有「平頭車」、亦如「太平車」而小、兩輪前出長木作轅、木梢橫一木、以獨牛在轅內、項負橫木、人在一邊、以手牽牛鼻繩駕之、酒正店多以此載酒梢桶矣。梢桶如長水桶、面安靨口、每梢三斗許、一貫五百文。又有宅眷坐車子、與「平頭車」大抵相似、但椶作蓋、及前後有构欄門、垂簾。又有獨輪車、前後二人把駕、兩旁兩人扶柺、前有驢拽、謂之「串車」、以不用耳子轉輪也。般載竹木瓦石。但無前轅、止一人或兩人推之。此車往往賣糕及餻麋之類人用、不中載物也。平盤兩輪、謂之「浪子車」、唯用人拽。又有載巨石大木、只有短梯盤而無輪、謂之「癡車」、皆省人力也。又有駞騾驢馱子、或皮或竹為之、如方匾竹、兩搭背上、斛㪷則用布袋駞之。
〔訳〕《運送車輌》
※太平=この車はばかでかくて鈍重であり、いったん雨雪に会えば身動きできなくなるので、俗に太平車と称したという。
※板塀=原文では「箱」。車の物を積載する囲いの意で、必ずしも箱形をしていなくてもよい。太平車の「箱」なるものは、車台の左右両側に立てられた、手摺状の二枚の板塀であり、車台の前後は開いている。
※梢桶=梢は筲(ふご)のこと。中国では水売りが天秤棒で担ぎ運ぶ水桶を「水筲(シュイシャオ)」という。
※靨口=不明。「清明上河図」に描かれている梢桶をのせた平頭車ふうの車の図に、梢桶の表面の真ん中に、それを抜いて酒をくみ出すとおぼしき栓のようなものがついている。これをいうのであろうか。
※牛車=原文では「車子」。一頭の牛で引く婦人乗りの車を車子といった。
※耳子転輪=不明。一輪車を両側から支えて動かす者のことか、あるいは両側につける補助輪のようなものか。
※餻麋=点心の一種か。
※浪子車=「よたぐるま」といった意味。日本の大八車のようなもの。
※癡車=「まぬけぐるま」といった意味。いわゆる「ころ」の台。
最近の政局を見ていると、「民主党よ、与党をやめちまえ!」と言いたくなる。やっぱり、松下政経塾出身者のような、温室育ちで政治的経験のない世間知らずで、ただ政治的野心だけが旺盛な人間に日本が牛耳られているように思えてしかたない。今朝のウェブニュースより
クローズアップ2012:一体改革修正協議 急ぐ民主、相次ぎ譲歩 合意、首相前のめり ―― 税と社会保障の一体改革関連法案をめぐる民主、自民、公明の修正協議は12日、「総合こども園」の撤回など社会保障分野で民主党が譲歩を重ねる形で進んだ。15日を目標に合意を急ぐ野田佳彦首相の「前のめり」の姿勢が際立つ一方、民主党内では「マニフェスト棚上げ」や「増税先行」への反発が強まり、12日に始まった党内議論は初日から紛糾。野党との修正協議が合意に近づくほど足元の民主党内の緊迫度が増すジレンマが首相を苦しめる。/「どうやって成案を得るかを国民は注視している。『決めきる政治』を実現するため、修正合意を目指す」/野田首相は12日の衆院予算委員会で、3党の修正協議の早期決着に期待感を示した。その上で、一体改革関連法案について「今国会中に成立を期す。成立とは参院を含めて多数決で可決させることだ」と強調した。/首相は消費増税を柱とする一体改革関連法案の今国会成立に「政治生命を懸ける」と繰り返し明言してきた。自民党が期限とする15日までの合意を実現し、21日の会期末までに衆院で採決しなければ、与党少数の参院で法案を成立させる道は断たれる。法案不成立なら、首相は求心力を失い、政権は一気に流動化しかねない。 (毎日新聞 2012年06月13日 東京朝刊)
選挙前の政界再編はない、15日までに合意なければ修正協議は決裂=石原自民幹事長 ―― [東京 13日ロイター] 自民党の石原伸晃幹事長は13日、都内で講演し、社会保障・税一体改革の修正協議後に直ちに政界再編が起きる可能性はなく、再編が起きるとすれば選挙後だとの見方を示した。修正協議そのものについては、15日までに合意できなければ決裂するとの見通しを示した。
<1年内に選挙が展望できる状況、連立申し入れあっても自民は受けず>
石原幹事長は、修正協議後の政界再編の可能性について「確率論として、今度の政策マターで、行動を共にしたものがすぐ採決が終わった段階で、あるいは採決が終わらないでも、一緒になるかというと、ならないと思う」と述べ、1年以内の選挙が展望できる状況で、消費増税をめぐる政界再編には否定的な見方を示した。/また「仮に修正合意して、民主党の人が何人かこぼれるようなことになると政権運営は不安定になる。民主党側から、仮定の話だが、連立の申し入れがあるのかもしれないが、その時、野党自民党がそれにハイそうですねとは、選挙が近いだけに、党内世論としてならない」と指摘。政界再編が起こるとすれば「選挙が終わった後だ」との見通しを示した。
<修正協議「ボールは民主党に」、信を問う日は近い>
石原幹事長は、自民・公明・民主間の修正協議の行方については「合意を目指している」としながらも、「今、ボールは民主党にある」と指摘。1)修正協議が合意した場合、2)決裂した場合、3)採決が見送られる場合の3パターンでその後の展開を展望した。/合意した場合には「衆院で合意内容で(法案を)採決し、参議院に送る。1カ月少し会期を延長すれば、参院も通り成立する」という。/一方、修正協議では、民主党が09年衆院選の政権公約の柱とした「最低保障年金制度導入」などの一時棚上げを迫っており、民主党内の反発が高まっている。社会保障制度に関する実務者協議の担当者である長妻昭元厚労相さえも「最低保障年金や年金一元化を取り下げるくらいなら国民に信を問うたらよい」と反発しており、民主党の党内手続きは紛糾している。/石原幹事長は「私たちは(修正協議について)15日の日時を区切っているので、合意ができなければ決裂だ」と協議を打ち切る方針を示し、停滞する民主党の議論をけん制した。そのうえで、修正協議が決裂した場合には「野田首相は(会期末の)21日までに衆院で採決すると言っているのだから、当然、衆院で採決を行うだろう。行わなければ、公約違反だ。衆院で民主党20+ 件がまとまっていれば、私たちが反対しても通る。通れば、参議院で修正協議が続くことになる」と衆院採決を促した。/また、石原幹事長は、党内融和を優先し分裂回避に動く輿石東幹事長の選択肢として「採決をしないオプションもゼロではない」と指摘。その場合、野田政権はレームダックになるとしたうえで「小泉元首相のように、国民の皆さんに聞いてみたいと言って解散するか。しかし、それもなかなか難しい。民主党の反対はいるが、自民党が賛成すればなんとか衆院も通るとなれば、衆院で採決になる。しかし、民主党の参議院(議員)のなかに反対がどれだけいるのか誰も数えていない。そうすると、自民党が協力しても、参議院で否決される可能性もある」と、展望した。/そのうえで、石原幹事長は「野田首相のリーダーシップ、党内をとりまとめることに期待している。その結果、国民に信を問う日は近いのではないか」と語った。 (REUTERS 2012年 06月 13日 17:35 JST)
選挙前の政界再編はない、15日までに合意なければ修正協議は決裂=石原自民幹事長 ―― [東京 13日ロイター] 自民党の石原伸晃幹事長は13日、都内で講演し、社会保障・税一体改革の修正協議後に直ちに政界再編が起きる可能性はなく、再編が起きるとすれば選挙後だとの見方を示した。修正協議そのものについては、15日までに合意できなければ決裂するとの見通しを示した。
<1年内に選挙が展望できる状況、連立申し入れあっても自民は受けず>
石原幹事長は、修正協議後の政界再編の可能性について「確率論として、今度の政策マターで、行動を共にしたものがすぐ採決が終わった段階で、あるいは採決が終わらないでも、一緒になるかというと、ならないと思う」と述べ、1年以内の選挙が展望できる状況で、消費増税をめぐる政界再編には否定的な見方を示した。/また「仮に修正合意して、民主党の人が何人かこぼれるようなことになると政権運営は不安定になる。民主党側から、仮定の話だが、連立の申し入れがあるのかもしれないが、その時、野党自民党がそれにハイそうですねとは、選挙が近いだけに、党内世論としてならない」と指摘。政界再編が起こるとすれば「選挙が終わった後だ」との見通しを示した。
<修正協議「ボールは民主党に」、信を問う日は近い>
石原幹事長は、自民・公明・民主間の修正協議の行方については「合意を目指している」としながらも、「今、ボールは民主党にある」と指摘。1)修正協議が合意した場合、2)決裂した場合、3)採決が見送られる場合の3パターンでその後の展開を展望した。/合意した場合には「衆院で合意内容で(法案を)採決し、参議院に送る。1カ月少し会期を延長すれば、参院も通り成立する」という。/一方、修正協議では、民主党が09年衆院選の政権公約の柱とした「最低保障年金制度導入」などの一時棚上げを迫っており、民主党内の反発が高まっている。社会保障制度に関する実務者協議の担当者である長妻昭元厚労相さえも「最低保障年金や年金一元化を取り下げるくらいなら国民に信を問うたらよい」と反発しており、民主党の党内手続きは紛糾している。/石原幹事長は「私たちは(修正協議について)15日の日時を区切っているので、合意ができなければ決裂だ」と協議を打ち切る方針を示し、停滞する民主党の議論をけん制した。そのうえで、修正協議が決裂した場合には「野田首相は(会期末の)21日までに衆院で採決すると言っているのだから、当然、衆院で採決を行うだろう。行わなければ、公約違反だ。衆院で民主党20+ 件がまとまっていれば、私たちが反対しても通る。通れば、参議院で修正協議が続くことになる」と衆院採決を促した。/また、石原幹事長は、党内融和を優先し分裂回避に動く輿石東幹事長の選択肢として「採決をしないオプションもゼロではない」と指摘。その場合、野田政権はレームダックになるとしたうえで「小泉元首相のように、国民の皆さんに聞いてみたいと言って解散するか。しかし、それもなかなか難しい。民主党の反対はいるが、自民党が賛成すればなんとか衆院も通るとなれば、衆院で採決になる。しかし、民主党の参議院(議員)のなかに反対がどれだけいるのか誰も数えていない。そうすると、自民党が協力しても、参議院で否決される可能性もある」と、展望した。/そのうえで、石原幹事長は「野田首相のリーダーシップ、党内をとりまとめることに期待している。その結果、国民に信を問う日は近いのではないか」と語った。 (REUTERS 2012年 06月 13日 17:35 JST)
昨夜の雨が早朝まで続く。徘徊に出かけられず。朝っぱらからパソコンを開いて、ブログを打つ。
今朝のウェブニュースより
最古の戸籍記す木簡出土 太宰府・国分松本遺跡 ―― 福岡県太宰府市教委は12日、同市国分の国分松本遺跡から、人名や身分など戸籍の内容を記した国内最古の木簡が出土した、と発表した。用いられた語句から、律令(りつりょう)国家体制を整える大宝律令(701年)以前に作成されたとみられ、7世紀代にさかのぼる戸籍関連史料は初めて。国家統治の基となる戸籍制度が、大宝律令以前から機能していたことを示す貴重な史料として注目される。/国分松本遺跡は古代の大宰府政庁から北西に1.2キロ。今年3~6月の調査で河川跡から出土した木簡10点のうち、1点(長さ31センチ、幅8.2センチ、厚さ8ミリ)の両面に、地名や人名、続柄などが記されていた。/地名の「嶋評(しまのこおり)」は現在の福岡県糸島市から福岡市西区にかけての地域。「評」は大宝律令以前の地方行政単位で、後の「郡」に当たる。/人名は「建部身麻呂(たけるべのみまろ)」「白髪部伊止布(しらかべのいとふ)」など16人分が確認され、「兵士」などの身分、「母」や「子」など続柄が添えられたものや、「戸」(世帯)の増減を示す「附」「去」の文字もあった。天武天皇が685年に定めた冠位の一つ「進大弐(しんだいに)」の記述もあり、「評」の表記と合わせて685~701年の間に作成されたと推定される。/坂上康俊・九州大大学院教授(日本古代史)によると、この木簡は住民の異動を記していることから、戸籍を基に毎年作成する「計帳」に関係する可能性が高いという。/古代日本では、大宝律令以前の法制度として、持統天皇が689年に「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を制定し、翌690年に全国で「庚寅年籍(こういんねんじゃく)」が作られた。しかし浄御原令の実態ははっきりせず、庚寅年籍も現存していない。坂上教授は木簡について「浄御原令での戸籍・計帳制度がシステマチックに運用されていたことを示す第一級史料」としている。/また木簡に遠隔地の嶋評の記述があり、出土場所が大宰府政庁に近いことから、太宰府市教委は遺跡の近くに筑前国を管轄する役所が存在した可能性があるとみている。/同市教委は16日午前10時から、同市国分の市文化ふれあい館などで現地説明会を開く。
◇ ◇
▼徴税と徴兵が目的か
平川南国立歴史民俗博物館館長(日本古代史)の話 誰にでも身近な戸籍のルーツが見つかり、多くの情報が読み取れるのは画期的だ。見つかったのは690年に作られた戸籍である庚寅年籍(こういんねんじゃく)からの異動内容を記録した木簡とみられる。紙の戸籍が後世に残るのはまれで、木簡が出土しないかぎり、実態は永久に分からないものだった。木簡が作られた7世紀後半は、大陸や朝鮮半島との緊張関係が続いた時代で、徴税だけでなく兵士の確保を主な目的に戸籍が整備されたと考えられる。=2012/06/13付 西日本新聞朝刊= 2012年6月13日 01:11
東京夢華録 巻二 飲食果子(3)
又有外來托賣炙雞、燠鴨、羊腳子、點羊頭、脆筋巴子、薑蝦、酒蟹、獐巴、鹿脯、從食蒸作、海鮮、時菓、旋切萵苣生菜、西京笋。又有小兒子、著白虔布衫、青花手巾、挾白磁缸子、賣辣菜。又有托小盤賣乾果子、乃旋炒銀杏、栗子、河北鵝梨、梨條、梨乾、梨肉、膠棗、棗圈、梨圈、桃圈、核桃、肉牙棗、海紅、嘉慶子、林檎旋、烏李、李子旋、櫻桃煎、西京雪梨、夫梨、甘棠梨、鳳梄梨、鎮府濁梨、河陰石榴、河陽查子、查條、沙苑榅桲、回馬孛萄、西川乳糖、獅子糖、霜蜂兒、橄欖、溫柑、綿棖金橘、龍眼、荔枝、召白藕、甘蔗、漉梨、林檎乾、枝頭乾、芭蕉乾、人面子、巴覽子、榛子、榧子、蝦具之類。諸般蜜煎香藥、果子罐子、黨梅、柿膏兒、香藥、小元兒、小臈茶、鵬沙元之類。更外賣軟羊諸色包子、豬羊荷包、燒肉乾脯、玉板鮓A、鮓片醬之類。其餘小酒店、亦賣下酒、如煎魚、鴨子、妙雞兔、煎燠肉、梅汁、血羹、粉羹之類。每分不過十五錢。諸酒店必有廳院、廊廡掩映、排列小閤子、吊窗花竹、各垂簾幙、命妓歌笑、各得穩便。
〔訳〕また、外から炙雞(しゃけい)、燠鴨(おうおう)、羊腳子(ようきゃくし)、點羊頭、脆筋巴子(ぜいきんはし)、薑蝦(きょうか)、酒蟹(しゅかい)、獐巴(しょうは)、鹿脯(ろくほ)、從食蒸作(じゅうしょくじょうさく)、海鮮時菓(かいせんじか)、旋切萵苣生菜(せんせつわきょしょうさい)、西京〔せいけい〕の笋(たけのこ)を手の上にのせて売りに来るものがあった。また、白い虔布(こわぬの)の衫(ひとえ)に青い綿布の手巾(てふき)をもち、白磁の缸(かめ)を小脇にかかえて辣菜〔ちっさい、辛子と大根を煮付けたもの。ぴりりと辛い〕を売る子供もいた。また、手のひらに小皿をのせて、乾し果物、すなわち旋炒銀杏(いりぎんなん)、栗子(くり)、河北の鵝梨(がり)、梨條(りじょう)、梨乾、梨肉、膠棗(こうそう)、棗圈、梨圈、桃圈、核桃(くるみ)、肉牙棗(にくがそう)、海紅(かいこう)、嘉慶子(かけいし)、林檎旋(りんごせん)、烏李(うり)、李子旋櫻桃(りしせんおうとう)、煎西京雪梨(せんさいけいせつり)、夫梨(ふり)、甘棠梨(かんとうり)、鳳梄梨(ほうせいり)、鎮府〔江蘇章〕の濁梨(だくり)、河陰〔河南省)の石榴(ざくろ)、河陽〔河南省〕の查子(しどみ)、查條(さじょう)、沙苑〔陝西省〕の榅桲(まるめろ)、回馬〔西域〕の孛萄(ぶどう)、西川〔陝西省〕の乳糖、獅子糖、霜蜂兒(そうほうじ)、橄欖(かんらん)、溫州〔淅江省〕の蜜柑(みかん)、綿棖(だいだい)、金橘(きなかん)、龍眼肉、荔枝(れいし)、召白藕(しょうはくれんこん)、甘蔗(さとうきび)、漉梨(ろくり)、林檎乾(りんごかん)、枝頭乾(しとうかん)、芭蕉乾、人面子(じんめんし)、巴覽子(はらんし)、榛子(しんし)、榧子(ひし)、蝦具(かぐ)のたぐいを売るものもあれば、さまざまな蜜煎(みつづけ)の香薬菓子罐子(かんし)、黨梅(とうばい)、柿膏兒(しこうじ)、香薬小元兒(こだんご)、小臈茶(しょうろうちゃ)、鵬沙元(ほうさがん)のたぐいを売るものもあった。さらに外では軟羊諸色包子(ひつじのにくまんじゅう)、豬や羊の荷包(かほう)、燒肉、乾肉、玉板鮓A(ぎょくばんさは)、鮓片醬(さへんしょう)のたぐいを売っていた。そのほかの小さな酒店でも酒の肴を売った。煎魚、鴨子(おうし)、妙雞兔(しょうけいとう)、煎燠肉、梅汁、血羹(けっこう)、粉羹(ふんこう)のたぐいのようなものであり、それぞれ値段は十五文を越えなかった。各酒店には、必ず庁院(ざしき)があった。ひさしを重なり合わせてずらりと並んだ小座敷には、窓に花竹をあしらい、それぞれ簾や幙(とばり)をたらして、妓女を呼んで歌笑し、思いのままに遊ぶことが出来た。
※酒蟹=カニの酒漬けのこと 脯(ほ)=乾し肉 従食蒸作=饅頭(マントウ)、包子〔パオズ、餡入り饅頭〕、糕〔こう、蒸しパン〕、元〔がん、団子〕、月餅(げっぺい)などの蒸し菓子系統の点心類 萵苣生菜(わきょしょうさい)=チサ〔レタス〕。中国ではチサの茎の皮をはいで生で食べ、これを俗に萵筍(ウォンスン)という。
※鵞利(がり)=黄河の南北に産する梨の一種で皮が薄く、汁が多いもの 海紅=海棠(かいどう)の実。中国の海棠は日本のカイドウとは別種のナガサキリンゴのこと。 喜慶子=東都の喜慶坊にスモモの木があり、その実が美味かったので喜慶子といったという 査子=木瓜に似た落葉潅木クサボケの実で、酸味があり食用になるので、日本ではシドミという。 回馬=馬姓を名のる回教徒をさす。中国西北地方に住み漢語を話す回教徒たちは、マホメットを馬聖人と呼び、その馬の字をもって、自分の漢字姓とするのがつねであった。 乳糖=砂糖を精製してして、牛乳と混ぜ石蜜としたものを乳糖といい、四川だけに作られたという。 獅子糖=乳糖の一種。四川の乳糖獅子は冬至前に作られたものは色が白くて好くもつが、冬至後に作られたものはすぐ駄目になるという。 人面子=広東省に産する植物の実。桃の実ににて、その核が、両目・口・鼻の揃った人面の形をしているので、この名がある。実は蜜漬けにすると甘酸味がして美味。 巴覧子(はらんし)=杏の核に似た実で、色が白く西蕃から来たもの。木は桜桃に似ている。 榛子=ハシバミの実。 榧子=カヤの実 菓子罐子=いま中国で言う果子乾児(カキ・レンコン・アンズなどの乾したものに砂糖を混ぜ熱湯でふやかした、どろりとした食品)にあたるものか? 柿膏兒=モチゴメに干し柿を混ぜ、搗き潰して蒸したもの。俗にカキヅキというとあるものに類したものか? 元児=小さな団子のこと。ふつう「円」と書く。大きな団子は「団」 小﨟茶=﨟茶とは、茶の葉を餅状に固めて表面に蝋を塗った茶。蝋茶とも書く。 荷包=本来「巾着」のこと巾着型をした料理名に好く使われる。例えば、「荷包蛋(ホーパオタン)」といえば、鶏卵を巾着状に油で煮たもの 玉板鮓A=魚の漬物や干物の類。
※酒閣を庁院と呼び、酒閣内に寝台をそっと隠してあるものもあったという。都では楼上の酒客の席はそれぞれ小室となっており、これを酒閣子といった。つまり二階の小部屋のこと。
今朝のウェブニュースより
◇ ◇
▼徴税と徴兵が目的か
平川南国立歴史民俗博物館館長(日本古代史)の話 誰にでも身近な戸籍のルーツが見つかり、多くの情報が読み取れるのは画期的だ。見つかったのは690年に作られた戸籍である庚寅年籍(こういんねんじゃく)からの異動内容を記録した木簡とみられる。紙の戸籍が後世に残るのはまれで、木簡が出土しないかぎり、実態は永久に分からないものだった。木簡が作られた7世紀後半は、大陸や朝鮮半島との緊張関係が続いた時代で、徴税だけでなく兵士の確保を主な目的に戸籍が整備されたと考えられる。=2012/06/13付 西日本新聞朝刊= 2012年6月13日 01:11
東京夢華録 巻二 飲食果子(3)
又有外來托賣炙雞、燠鴨、羊腳子、點羊頭、脆筋巴子、薑蝦、酒蟹、獐巴、鹿脯、從食蒸作、海鮮、時菓、旋切萵苣生菜、西京笋。又有小兒子、著白虔布衫、青花手巾、挾白磁缸子、賣辣菜。又有托小盤賣乾果子、乃旋炒銀杏、栗子、河北鵝梨、梨條、梨乾、梨肉、膠棗、棗圈、梨圈、桃圈、核桃、肉牙棗、海紅、嘉慶子、林檎旋、烏李、李子旋、櫻桃煎、西京雪梨、夫梨、甘棠梨、鳳梄梨、鎮府濁梨、河陰石榴、河陽查子、查條、沙苑榅桲、回馬孛萄、西川乳糖、獅子糖、霜蜂兒、橄欖、溫柑、綿棖金橘、龍眼、荔枝、召白藕、甘蔗、漉梨、林檎乾、枝頭乾、芭蕉乾、人面子、巴覽子、榛子、榧子、蝦具之類。諸般蜜煎香藥、果子罐子、黨梅、柿膏兒、香藥、小元兒、小臈茶、鵬沙元之類。更外賣軟羊諸色包子、豬羊荷包、燒肉乾脯、玉板鮓A、鮓片醬之類。其餘小酒店、亦賣下酒、如煎魚、鴨子、妙雞兔、煎燠肉、梅汁、血羹、粉羹之類。每分不過十五錢。諸酒店必有廳院、廊廡掩映、排列小閤子、吊窗花竹、各垂簾幙、命妓歌笑、各得穩便。
※酒蟹=カニの酒漬けのこと 脯(ほ)=乾し肉 従食蒸作=饅頭(マントウ)、包子〔パオズ、餡入り饅頭〕、糕〔こう、蒸しパン〕、元〔がん、団子〕、月餅(げっぺい)などの蒸し菓子系統の点心類 萵苣生菜(わきょしょうさい)=チサ〔レタス〕。中国ではチサの茎の皮をはいで生で食べ、これを俗に萵筍(ウォンスン)という。
※鵞利(がり)=黄河の南北に産する梨の一種で皮が薄く、汁が多いもの 海紅=海棠(かいどう)の実。中国の海棠は日本のカイドウとは別種のナガサキリンゴのこと。 喜慶子=東都の喜慶坊にスモモの木があり、その実が美味かったので喜慶子といったという 査子=木瓜に似た落葉潅木クサボケの実で、酸味があり食用になるので、日本ではシドミという。 回馬=馬姓を名のる回教徒をさす。中国西北地方に住み漢語を話す回教徒たちは、マホメットを馬聖人と呼び、その馬の字をもって、自分の漢字姓とするのがつねであった。 乳糖=砂糖を精製してして、牛乳と混ぜ石蜜としたものを乳糖といい、四川だけに作られたという。 獅子糖=乳糖の一種。四川の乳糖獅子は冬至前に作られたものは色が白くて好くもつが、冬至後に作られたものはすぐ駄目になるという。 人面子=広東省に産する植物の実。桃の実ににて、その核が、両目・口・鼻の揃った人面の形をしているので、この名がある。実は蜜漬けにすると甘酸味がして美味。 巴覧子(はらんし)=杏の核に似た実で、色が白く西蕃から来たもの。木は桜桃に似ている。 榛子=ハシバミの実。 榧子=カヤの実 菓子罐子=いま中国で言う果子乾児(カキ・レンコン・アンズなどの乾したものに砂糖を混ぜ熱湯でふやかした、どろりとした食品)にあたるものか? 柿膏兒=モチゴメに干し柿を混ぜ、搗き潰して蒸したもの。俗にカキヅキというとあるものに類したものか? 元児=小さな団子のこと。ふつう「円」と書く。大きな団子は「団」 小﨟茶=﨟茶とは、茶の葉を餅状に固めて表面に蝋を塗った茶。蝋茶とも書く。 荷包=本来「巾着」のこと巾着型をした料理名に好く使われる。例えば、「荷包蛋(ホーパオタン)」といえば、鶏卵を巾着状に油で煮たもの 玉板鮓A=魚の漬物や干物の類。
東京夢華録 巻二 飲食果子(2)
所謂茶飯者、乃百味羹、頭羹、新法鵪子羹、三脆羹、二色腰子、蝦蕈、雞蕈、渾砲等羹、旋索粉、玉碁子、群仙羹、假河魨、白渫虀、貨鱖魚、假元魚、決明兜子、決明湯虀、肉醋托胎襯腸、沙魚兩熟、紫蘇魚、假蛤蜊、白肉夾面子、茸割肉胡餅、湯骨頭乳炊羊、A羊、鬧廳羊、角B腰子、鵝鴨排蒸、荔枝腰子、還元腰子、燒臆子、入爐細項蓮花鴨簽、酒炙肚胘、虛汁垂絲羊頭、入爐羊、羊頭簽、鵝鴨簽、雞簽、盤兔、炒兔、蔥潑兔、假野狐、金絲肚羹、石肚羹、假炙獐、煎鵪子、生炒肺、炒蛤蜊、炒蟹、煠蟹、洗手蟹之類、逐時旋行索喚、不許一味有闕。或別呼索變造下酒、亦即時供應。
〔訳〕いわゆる「茶飯(さかな)」とは、百味羹、頭羹(とうこう)、新法鵪子(あんし)羹、三脆(さんぜい)羹、二色腰子(ようし)、蝦蕈(かしん)、雞蕈(けいしん)、渾砲等(こんほうとう)羹、旋索粉(せんさんふん)、玉碁子(きし)、群仙(ぐんせん)羹、假河魨(かかとん)、白渫虀(はくちようせい)、貨鱖魚(かけつぎょ)、假元魚(かげんぎょ)、決明兜子(けつめいようし)、決明湯虀(とうせい)、肉醋托胎襯腸(にくさくたくたいしんちょう)、沙魚兩熟、紫蘇(しそ)魚、假蛤蜊(こうり)、白肉夾面子、茸割肉胡餅(じょうかつにくこへい)、湯骨頭乳炊羊(とうこつとうにゅうすいよう)、A羊(とんよう)、鬧廳羊(とうちょうよう)、角B(かくしゃ)腰子、鵝鴨排蒸(がほうはいじょう)、荔枝(れいし)腰子、還元腰子、燒臆子(しょうおくし)、入爐細項蓮花鴨簽(にゅうろさいこうれんかおうせん)、酒炙肚胘(しゅしゃとげん)、虛汁垂絲羊頭(きょじゅうすいしようとう)、入爐羊(にゅうろよう)、羊頭簽、鵝鴨簽、雞簽、盤兔(ばんと)、炒兔(しょうと)、蔥潑兔(そうはつと)、假野狐(かやこ)、金絲肚羹、石肚羹、假炙獐(かしゃしょう)、煎鵪子(せんあんし)、生炒肺(せいしょうはい)、炒蛤蜊、炒蟹、煠蟹、洗手蟹のたぐいである。つぎつぎに店の中をまわって注文をとり、一品でも欠けることは許されなかった。もし別に変わった品を注文しても、すぐさま求めに応じて整えられるのであった。
※「茶飯」とは酒の肴のことであり、以下列挙された食品名にはおよその見当がついてもはっきりとは判らない物が多い。中国の料理名は、材料名と調理法の名称を組み合わせて示すのが原則で、ここに列挙された食品名もほぼその原則に従っているものと思われる。本文中の調理方法〔傍線―でしめす〕の名称を拾ってみると
羹〔こう〕=「あんかけ汁」 虀〔せい〕=細切りにして味噌などに和えること。〔和え物〕 假〔仮〕=擬製料理、たとえば「仮蟹」といえば、黄魚〔黄グチ〕を原料として、蟹の肉のように擬製したもの 煠〔渫〕=「炸(さ)」に同じで、てんぷらにすること 湯=「すまし汁」「吸物」 熟〔じゅく〕=煮えが通るまで煮ること 焼=炙(しゃ)と同じか、または煮付けることの二種の調理法に用いる語 炙=直接火にかざして炙り焼くこと 簽(せん)=北京の料理屋では「炸肥腸(チャフエイチャン)」を「炸簽(チャヂエン」)という。炸肥腸という料理はよく白煮した肥腸(大腸)を三、四寸に切り、強火で1・2分、こんがりと油で挙げたものを、炒って粉末にした山椒と塩を混ぜたものをつけて食べる料理をいう。 炒(しょう)=少量のあぶらで炒め煮ること 煎=多量の油で揚げる。
次に判る範囲で材料名〔網掛け〕を拾ってみると、
鵪子(あんし)=ウズラの卵 腰子(ようし)=腎臓のこと。とくに豚の腎臓は中国料理では盛んに用いられる 蕈(しん)=きのこ 索粉(さくふん)=青大豆の粉で作った索麺(そうめん) 碁子(きし)=本来碁石のことであるが、小麦粉を水で固く練って、板の上で薄くしたものを、竹筒の切り口で押し切ったものらしい。これを煮て黄粉をかけた「碁子麺(きしめん)」と呼ばれる点心の菓子があったという。
河魨(かとん)=河豚(ふぐ)のこと 河鱖魚(かけつぎょ)=江南地方でよく獲れる魚で、アイナメのたぐいで美味という 決明=ハブソウとよばれるマメ科の薬草。約10㎝のさやになる種子を緩下強壮剤として利用する。ハブ茶として茶の代用ともする。 沙魚(さぎょ)=サメ 白肉=南宋では水煮の肉を言うが、北宋では圧して油を抜いた肉を言った。 胡餅=現在中国で言う焼餅(シャオピン)、うどん粉を練って薄く焼いたもの。名称の由来については胡人が常食していたからとも、胡麻が付いていたからとも言う。 肚胘(とげん)=牛羊の重弁胃のこと。ふつう百葉という。反芻の一時食物を貯える胃。 獐(しょう)=ノロのこと。鹿に似てより小型のもの。
所謂茶飯者、乃百味羹、頭羹、新法鵪子羹、三脆羹、二色腰子、蝦蕈、雞蕈、渾砲等羹、旋索粉、玉碁子、群仙羹、假河魨、白渫虀、貨鱖魚、假元魚、決明兜子、決明湯虀、肉醋托胎襯腸、沙魚兩熟、紫蘇魚、假蛤蜊、白肉夾面子、茸割肉胡餅、湯骨頭乳炊羊、A羊、鬧廳羊、角B腰子、鵝鴨排蒸、荔枝腰子、還元腰子、燒臆子、入爐細項蓮花鴨簽、酒炙肚胘、虛汁垂絲羊頭、入爐羊、羊頭簽、鵝鴨簽、雞簽、盤兔、炒兔、蔥潑兔、假野狐、金絲肚羹、石肚羹、假炙獐、煎鵪子、生炒肺、炒蛤蜊、炒蟹、煠蟹、洗手蟹之類、逐時旋行索喚、不許一味有闕。或別呼索變造下酒、亦即時供應。
※「茶飯」とは酒の肴のことであり、以下列挙された食品名にはおよその見当がついてもはっきりとは判らない物が多い。中国の料理名は、材料名と調理法の名称を組み合わせて示すのが原則で、ここに列挙された食品名もほぼその原則に従っているものと思われる。本文中の調理方法〔傍線―でしめす〕の名称を拾ってみると
羹〔こう〕=「あんかけ汁」 虀〔せい〕=細切りにして味噌などに和えること。〔和え物〕 假〔仮〕=擬製料理、たとえば「仮蟹」といえば、黄魚〔黄グチ〕を原料として、蟹の肉のように擬製したもの 煠〔渫〕=「炸(さ)」に同じで、てんぷらにすること 湯=「すまし汁」「吸物」 熟〔じゅく〕=煮えが通るまで煮ること 焼=炙(しゃ)と同じか、または煮付けることの二種の調理法に用いる語 炙=直接火にかざして炙り焼くこと 簽(せん)=北京の料理屋では「炸肥腸(チャフエイチャン)」を「炸簽(チャヂエン」)という。炸肥腸という料理はよく白煮した肥腸(大腸)を三、四寸に切り、強火で1・2分、こんがりと油で挙げたものを、炒って粉末にした山椒と塩を混ぜたものをつけて食べる料理をいう。 炒(しょう)=少量のあぶらで炒め煮ること 煎=多量の油で揚げる。
鵪子(あんし)=ウズラの卵 腰子(ようし)=腎臓のこと。とくに豚の腎臓は中国料理では盛んに用いられる 蕈(しん)=きのこ 索粉(さくふん)=青大豆の粉で作った索麺(そうめん) 碁子(きし)=本来碁石のことであるが、小麦粉を水で固く練って、板の上で薄くしたものを、竹筒の切り口で押し切ったものらしい。これを煮て黄粉をかけた「碁子麺(きしめん)」と呼ばれる点心の菓子があったという。
河魨(かとん)=河豚(ふぐ)のこと 河鱖魚(かけつぎょ)=江南地方でよく獲れる魚で、アイナメのたぐいで美味という 決明=ハブソウとよばれるマメ科の薬草。約10㎝のさやになる種子を緩下強壮剤として利用する。ハブ茶として茶の代用ともする。 沙魚(さぎょ)=サメ 白肉=南宋では水煮の肉を言うが、北宋では圧して油を抜いた肉を言った。 胡餅=現在中国で言う焼餅(シャオピン)、うどん粉を練って薄く焼いたもの。名称の由来については胡人が常食していたからとも、胡麻が付いていたからとも言う。 肚胘(とげん)=牛羊の重弁胃のこと。ふつう百葉という。反芻の一時食物を貯える胃。 獐(しょう)=ノロのこと。鹿に似てより小型のもの。
東京夢華録 巻二 飲食果子(1)
凡店內賣下酒廚子、謂之「茶飯量酒博士」。至店中小兒子、皆通謂之「大伯」。更有街坊婦人、腰繫青花布手巾、綰危髻、為酒客換湯斟酒、俗謂之「焌糟」。更有百姓入酒肆、見子弟少年輩飲酒、近前小心供過、使令買物命妓、取送錢物之類、謂之「閑漢」。又有向前換湯斟酒歌唱、或獻果子香藥之類、客散得錢、謂之「廝波」。又有下等妓女、不呼自來、筵前歌唱、臨時以些小錢物贈之而去、謂之「劄客」、亦謂之「打酒坐」。又有賣藥或果實蘿蔔之類、不問酒客買與不買、散與坐客、然後得錢、謂之「撒暫」。如此處處有之。唯州橋炭張家、乳酪張家、不放前項人入店、亦不賣下酒、唯以好淹藏菜蔬、賣一色好酒。
〔訳〕《飲み物・食べ物・果物》すべて酒店内では、酒の肴を売る料理人を「茶飯量酒博士(さけさかなのマスター)」と呼び、店内の小僧たちも、みな「大伯(にいさん)」と呼んだ。それから町方の女で、腰に青い綿布の手布(てふき)をまきつけ、危髷(たかまげ)に結いあげ、酒客の吸物をとりかえたり、お酌をしたりする女を、俗に「焌糟(おしゃく)」といった。さらに町人で酒楼に入り、若殿ばらが酒を飲んでいるのを見ると、進み出てまめまめしくつかえ、物を買ったり、妓女を呼んだり、銭や物のやりとりなどをするものを「閑漢(のだいこ)」といい、また、進み出て吸物をとりかえ、酌をし、歌ったり、あるいは果物や香薬のたぐいを献じたりして、客が帰る際に金をもらうものを「斯波(たいこもち)」といった。また、下等の妓女で、呼ばぬのに向こうからやって来て、客が飲んでいる前で唱(うた)を歌い、そのばでわずかばかりの心付けをやると立ち去るのを「剳客(ながし)」とも「打酒坐(さけのざもち)」ともいった。それから薬を売ったり、果物・大根〔中国では大根も果物として賞味される〕の類も売り、酒客が買うと買わぬとを問わす座客にくばり、あとで金をもらうのを「撒暫(くばりおき)」といった。こうした連中どこの店にもいたものだ。ただ州橋〔東京城内を流れる汴河にかかる諸橋のうち、御街の正面にかかるのが天漢橋で俗に州橋と呼ばれた〕の炭張家・乳酪張家〔二軒の張家を、客たちは炭――黒い――張家と、乳酪――これは牛羊の乳の脂肪を固めて造った食品で白い――張家という呼び名で区別したのだ〕は、鼓のような連中を店に入らせず、また酒の肴も売らず、ただ気のきいた漬物の野菜だけを突き出しに、好い酒一色を売った。
凡店內賣下酒廚子、謂之「茶飯量酒博士」。至店中小兒子、皆通謂之「大伯」。更有街坊婦人、腰繫青花布手巾、綰危髻、為酒客換湯斟酒、俗謂之「焌糟」。更有百姓入酒肆、見子弟少年輩飲酒、近前小心供過、使令買物命妓、取送錢物之類、謂之「閑漢」。又有向前換湯斟酒歌唱、或獻果子香藥之類、客散得錢、謂之「廝波」。又有下等妓女、不呼自來、筵前歌唱、臨時以些小錢物贈之而去、謂之「劄客」、亦謂之「打酒坐」。又有賣藥或果實蘿蔔之類、不問酒客買與不買、散與坐客、然後得錢、謂之「撒暫」。如此處處有之。唯州橋炭張家、乳酪張家、不放前項人入店、亦不賣下酒、唯以好淹藏菜蔬、賣一色好酒。
東京夢華録 巻二 酒樓
凡京師酒店、門首皆縛綵樓歡門、唯任店入其門、一直主廊約百餘步、南北天井兩廊皆小閤子、向晚燈燭熒煌、上下相照、濃妝妓女數百、聚於主廊槏面上、以待酒客呼喚、望之宛若神仙。北去楊樓、以北穿馬行街、東西兩巷、謂之大小貨行、皆工作伎巧所居。小貨行通雞兒巷妓館、大貨行通牋紙店、白礬樓、後改為豐樂樓。宣和間、更修三層相高、五樓相向、各有飛橋欄檻、明暗相通、珠簾繡額、燈燭晃耀。初開數日、每先到者賞金旗、過一兩夜則已。元夜則每一瓦隴中皆置蓮燈一盞。內西樓後來禁人登眺、以第一層下視禁中。大抵諸酒肆瓦市、不以風雨寒暑、白晝通夜、駢闐如此。州東宋門外仁和店、姜店、州西宜城樓、藥張四店、班樓、金梁橋下劉樓、曹門蠻王家、乳酪張家、州北八仙樓、戴樓門張八家園宅正店、鄭門河王家、李七家正店、景靈宮東牆長慶樓。在京正店七十二戶、此外不能遍數、其餘皆謂之「腳店」。賣貴細下酒、迎接中貴飲食、則第一白廚、州西安州巷張秀、以次保康門李慶家、東雞兒巷郭廚、鄭皇后宅後宋廚、曹門塼筒李家、寺東骰子李家、黃胖家。九橋門街市酒店、綵樓相對、繡旆相招、掩翳天日。政和後來、景靈宮東牆下長慶樓尤盛。
〔訳〕《酒楼(しゅろう)》都の酒店は、みなその門口に綵楼歓門(かざりもん)を結い立てた。任店(じんてん)という酒店についていえば、その門をはいると、真っ直ぐに大廊下が約百歩も続き、南北の中庭の両側の廊下には、ずらりとこ座敷が並んでいた。夕べともなれば、燈火があかあかと上下を照らし、厚化粧の妓女が数百人、大廊下の戸口に集まって、客を待ち声を掛けるそのさまはさながら仙女を見るようであった。北に楊楼へと行き、それから馬行街を北に突き抜けると、その東西両側の二つの小路(こうじ)を、大・小貨行といい、みな職人のいるところだ。小貨行は雞児巷(けいじこう)の妓館に通じ、大貨行は、牋紙店・白礬楼(はくはんろう)に通じた。白礬楼〔はくはんろう、北宋東京の最大の酒楼。もともと明礬を売っていた店が酒楼になったので、この名があるという〕は後に豊楽楼と名を改め、宣和年間(宋、徽宗の年号、1119~1125年)にさらに三階建てに高く改築し直した。五つの楼が向かいあい、それぞれ橋楼・欄杆がめぐらされ、内外相通じ、珠簾(たますだれ)や色あざやかな額がかかり、燈火は燦然ときらめいていた。初店開きの数日は、先着者に賞として金旗を贈って一晩か二晩過させた。元宵〔げんしょう、1月15日の燈篭祭り〕の夜になると、屋根瓦の一列ごとにみな蓮華燈ひとつずつ置くのだった。その楼の内西の楼は、後に人が登って眺めることを禁じた。一番上から下に宮中が見えたからだ。たいていの酒肆(しゅし)・瓦市(がし)は風雨寒暑の別なく、昼間から夜通し軒並みに賑わっていた。州東の宗門外には、仁和店・姜店、州西には宜城楼・薬張四店・班楼、金梁橋下には劉楼、曹門には蛮王家・乳酪張家、州北には八仙楼、戴楼門には張八家園宅正店(えんたくせいてん)、鄭門河には王家・李七家正店、景霊宮の東璧には長慶楼があった。都には正酒店(おやみせ)が七十二戸あったが、そのほかはとても数えきれず、それらはみな脚店(こみせ)と呼んだ。贅をこらした酒の肴を売り、宮仕えの貴人を常客とした店といえば、第一は、白厨と州西の安州巷にあった張秀、ついで保康門の李慶家、東雞児巷の郭厨、鄭皇后の屋敷の後の宋厨、曹門の磚筒李家、相国寺の東の骰子李家・黄胖家などであった。これらの町々の酒店は色絹で飾った楼を結い立てて向かいあい、互いに色あざやかに刺繍をした旆(のぼり)をかかげて客を呼び、ために日の光もかげるほどであった。政和年間(宋、徽宗の年号、1111~1117年)から後は景霊宮東壁の長慶楼が一番繁盛した。
※宋代の酒楼は、酒肆(しゅし)・酒店などとも呼ばれ、小座敷があり、料理を出すので、日本の料亭に似ているが、あくまでも料理より酒中心なのが特色。多くは二階建てで、階上は多くの小座敷に分かれ、妓女を侍らせ酒を飲む所。階下は広間になっていて、客が各自勝手に席を見つけて座り、ちょっといっぱい引っかけるところであった。
※当時、土地のものは東京城の四隅を州東・州西・州北・州南と呼んでいた。
※宋代には酒も政府の専売で、酒を三石以上密売すれば死刑になった。宋は遼・金に多額の歳幣を送るため酒の専売を、厳しく実施して、その専売収入は塩のそれを上回っていた。酒は官営および酒税を収める私営の醸造所で作り、酒務という役所が監督した。この政府専売の酒を直接仕入れてうる大店もしくは老舗を「正店」とか「正酒店」と呼び、さらに正店から酒を買って売買する店を「脚店(こてん)」と呼んだ。酒天は酒の上上げを増やすために妓女を置き料理を出し、料理屋風にしたのである。
凡京師酒店、門首皆縛綵樓歡門、唯任店入其門、一直主廊約百餘步、南北天井兩廊皆小閤子、向晚燈燭熒煌、上下相照、濃妝妓女數百、聚於主廊槏面上、以待酒客呼喚、望之宛若神仙。北去楊樓、以北穿馬行街、東西兩巷、謂之大小貨行、皆工作伎巧所居。小貨行通雞兒巷妓館、大貨行通牋紙店、白礬樓、後改為豐樂樓。宣和間、更修三層相高、五樓相向、各有飛橋欄檻、明暗相通、珠簾繡額、燈燭晃耀。初開數日、每先到者賞金旗、過一兩夜則已。元夜則每一瓦隴中皆置蓮燈一盞。內西樓後來禁人登眺、以第一層下視禁中。大抵諸酒肆瓦市、不以風雨寒暑、白晝通夜、駢闐如此。州東宋門外仁和店、姜店、州西宜城樓、藥張四店、班樓、金梁橋下劉樓、曹門蠻王家、乳酪張家、州北八仙樓、戴樓門張八家園宅正店、鄭門河王家、李七家正店、景靈宮東牆長慶樓。在京正店七十二戶、此外不能遍數、其餘皆謂之「腳店」。賣貴細下酒、迎接中貴飲食、則第一白廚、州西安州巷張秀、以次保康門李慶家、東雞兒巷郭廚、鄭皇后宅後宋廚、曹門塼筒李家、寺東骰子李家、黃胖家。九橋門街市酒店、綵樓相對、繡旆相招、掩翳天日。政和後來、景靈宮東牆下長慶樓尤盛。
※宋代の酒楼は、酒肆(しゅし)・酒店などとも呼ばれ、小座敷があり、料理を出すので、日本の料亭に似ているが、あくまでも料理より酒中心なのが特色。多くは二階建てで、階上は多くの小座敷に分かれ、妓女を侍らせ酒を飲む所。階下は広間になっていて、客が各自勝手に席を見つけて座り、ちょっといっぱい引っかけるところであった。
※当時、土地のものは東京城の四隅を州東・州西・州北・州南と呼んでいた。
※宋代には酒も政府の専売で、酒を三石以上密売すれば死刑になった。宋は遼・金に多額の歳幣を送るため酒の専売を、厳しく実施して、その専売収入は塩のそれを上回っていた。酒は官営および酒税を収める私営の醸造所で作り、酒務という役所が監督した。この政府専売の酒を直接仕入れてうる大店もしくは老舗を「正店」とか「正酒店」と呼び、さらに正店から酒を買って売買する店を「脚店(こてん)」と呼んだ。酒天は酒の上上げを増やすために妓女を置き料理を出し、料理屋風にしたのである。
今朝は早朝から雨、徘徊にも 今朝は早朝から雨、徘徊にも行けず。
飮湖上 湖上に飲す
初晴後雨 初め晴れ後雨 蘇軾
朝曦迎客艶重岡 朝曦(ちょうぎ)客を迎えて重岡(ちょうこう)艶やかに
晩雨留人入酔郷 晩雨(ばんう)人を留めて酔郷(すいきょう)に入らしむ
此意自佳君不會 此意(このい)自(おのず)から佳(か)なるに 君会(かい)せずや
一杯當属水仙王 一杯 当(まさ)に水仙王(すいせんおう)に属(すす)むべし
水光瀲艶晴方好 水光瀲艶(れんえん)として晴れて方(まさ)に好し
山色空濛雨亦奇 山色空濛(くうもう)として雨亦(また)奇なり
若把西湖比西子 若し西湖を把(とら)へて西子に比すれば
淡粧濃抹總相宜 淡粧(たんしょう)濃抹(のうまつ)總(すべ)て相ひ宜し
〔訳〕《湖上に飲む 晴れていたのが やがて雨に変わった》
朝日が迎えてくれるかのように山々を彩っていたが
夕べの雨は引き止めるかのごとく酔郷に誘ってくれた
この趣のおもしさ 君に解ってもらえぬものならば
一杯は水仙王どのに捧げずばなるまい
さざ波に躍る湖水の光 これこそ晴れた日の美しさだが
おぼろに煙る山々の色 雨の風情もまたおもしろい
西湖をたとえてみよう あの西施(せいし)の
薄化粧でも濃く塗り上げても みなよく似合う姿に
※七言絶句、二首の連作。1075年、蘇軾37歳。西湖での作という。
※水仙王:西湖の水神。作者の自注に、湖上に水仙王の廟があるという。
※西施:春秋時代の女性。中国史上代表的な美人のひとりとして、多くの伝説がある。西湖と直接には関係ないが、越の国の出身であり、西湖も同じ越に属する。
東京夢華録 巻二 東角樓街巷
自宣德東去東角樓、乃皇城東南角也。十字街南去薑行。高頭街北去、從紗行至東華門街、晨暉門、寶籙宮、直至舊酸棗門、最是鋪席要鬧。宣和間展夾城牙道矣。東去乃潘樓街、街南曰「鷹店」、只下販鷹鶻客、餘皆真珠疋帛香藥鋪席。南通一巷、謂之「界身」、並是金銀綵帛交易之所。屋宇雄壯、門面廣闊、望之森然。每一交易、動即千萬、駭人聞見。以東街北曰潘樓酒店、其下每日自五更市合、買賣衣物書畫珍玩犀玉。至平明、羊頭、肚肺、赤白腰子、嬭房、肚胘、鶉兔、鳩鴿、野味、螃蟹、蛤蜊之類訖、方有諸手作人上市買賣零碎作料。飯後飲食上市、如酥蜜食、棗(食+固)、豆沙團子、香糖果子、蜜煎雕花之類。向晚賣河婁頭面、冠梳領抹、珍玩動使之類。東去則徐家瓠羹店。街南桑家瓦子、近北則中瓦、次裡瓦。其中大小勾欄五十餘座。內中瓦子蓮花棚、牡丹棚、裡瓦子夜叉棚、象棚最大、可容數千人。自丁先現、王團子、張七聖輩、後來可有人於此作場。瓦中多有貨藥、賣卦、喝故衣、探搏、飲食、剃剪、紙畫、令曲之類。終日居此、不覺抵暮。
〔訳〕《東角楼(とうかくろう)付近の街巷(まちまち)》宣徳楼から東のかた、東角楼〔城郭の四隅に建てられた物見櫓を「角楼」という〕へと行けば、皇城〔都城内でも宮城地域と官庁地域とにさらにおのおのの城壁に囲まれていて、宮城・皇城とよばれた〕の東南角である。十字街を南に行けば薑行〔しょうがいち、「行」とは本来商人の同業組合のことで、政府の公認保護の下に営業を独占し、商品価格の決定等をして組合員の利益を擁護したもの〕で、高頭街を北へ行き、紗行(うすぎぬいち)から東華門街〔宮城の城壁東側中央の門。その門外の商店街では宮中の用品の売買がおこなわれたので、非常に繁盛して天下の奇品が集まっていたという〕・晨暉門(しんきもん)・宝籙宮(ほうろくきゅう)をへて旧酸棗門〔さんそうもん、東京の北の城門で、河南省延津県すなわち旧酸棗県に通じる道に当たっていたのでこう呼ばれた〕までの道筋は、もっとも店舗がにぎわしかった。宣和年間に城壁にはさまれた道を広げたものである。東に行くと潘楼街だ。通りの南は鷹店(ようてん)といって、タカやクマタカを商う旅商人ばかり、その他はみな真珠・反物・薬物を商う店だった。南に通ずる通りのひとつは界身(かいしん)といって、ずらりと金銀やいろとりどりの絹を取引する店が立ち並び、どっしりとした建物、広い間口の店々は、見るからに堂々たる有様で、取引ごとに千万もの金品を動かし、人々の耳目を驚かした。その東の通りの北側は、潘楼酒店という酒楼で、その下では毎日五更(午前四時ごろ)から市がたち、衣類・書画・珍貴な愛玩物とか犀の角や宝玉などを売買した。夜が明け放つと、羊の頭・
肚肺(はいぞう)・赤白腰子(じんぞう)・肚胘(いぶくろ)や、ウズラ・ウサギ・ハトなど山林で取れる食用の禽獣と、カニ・A蛤蜊(しおふき)のたぐいの取引が終わり、さまざまな職人が市に出てきて、こまごまとした材料を売買する。またB酥蜜食(そみつしょく)・C棗《食+固》(そうこ)・D豆沙団子(とうさだんご)・E香糖果子(こうとうかし)・F蜜煎雕花(みつせんちょうか)のたぐいの食後用の飲食物も市に出た。夕方にはG河婁(そば)・頭面(あたまかざり)・H冠梳(かんそ)・I領抹(りょうまつ)や珍貴な愛玩物とか道具類を売った。その東へ行くと徐家瓠羹店〔ここうてん、門前に屋台風のものを作り、それに豚や羊を掛けて売る店とあるが、瓠羹というのがどんな食べ物かというのは解らない〕があった。通りの南は桑家(そうか)瓦子〔がし、瓦肆・瓦舎とも書かれ、宋元代都市中にあった盛り場をいい、商人と芸人の集中区域であった〕で、北寄りは中瓦(ちゅうが)、その奥は裏瓦(りが)といった。瓦子の中には大小の演芸小屋〔原文では「勾欄」。勾欄とは手摺の意味であるが、当時の演芸小屋は手摺がついていたのでこのように呼ばれた。舞台は野天の広場に日本の能舞台や神楽殿のように作られ、観客はみな立って見たようである〕が五十余座あり、中でも中瓦子の蓮荷棚・牡丹棚、裏瓦子の夜叉棚・象棚〔棚とは小屋掛けの意。日本で中村座・歌舞伎座などと呼ぶ「座」にあたる〕はもっとも大きく、数千人を収容することができた。丁先現・王団子・張七聖〔北宋の神宗の頃から徽宗の代に活躍した俳優の名〕のやからが出てから、ここの舞台に立った俳優はかなりの数になる。瓦子の中には薬売りや、八卦見、古着売り、飲食物の賭け売り、切り紙芸人のたぐいも大勢いて、一日中ここにいたら、日が暮れるのも気がつかなかった。
A蛤蜊:あさりの一種で、和名しおふきとよばれるもの。はまぐりは「文蛤」という
B酥蜜食:酥とは、牛や羊の乳をよく煮立てて器に入れ、冷えてから表面の結皮を取ったもの。クリームのたぐい。酥油といえばバター。
C棗《食+固》:棗菰(なつめ)の形に似た小さい蒸し団子。
D豆沙団子:豆餡いりの団子。豆沙は豆を煮潰して作った餡。
E香糖果子:ショウブ・ショウガ・アンズ・ウメ・スモモ・シソをみな糸切りにして、塩漬けにして乾かし百早頭といい、あるいはこれらの果物を糖蜜に漬けて梅皮の中に入れて醸梅という菓子をつくった。みな端午の菓子である。
F蜜煎雕花:蜜煎は、蜜漬けの菓子。雕花は不祥。
G河婁:元の『農書』に、ソバを粉にひき、湯餅〔掛けうどん〕風に作り、これを河漏(かろう)といって常食するとある。
H冠梳:婦人の冠と梳(くし)をいう。婦人の冠はもと沙を漆で固めてつくり、金銀・真珠・翡翠や花飾りを付けたものであるが、北宋の仁宗の時、白角で作った三尺もの長さの冠に、一尺もの梳をつけるのが宮中から流行しだしたので、皇祐元(1049)年に、冠は幅一尺、高さ四寸を超えてはならず、梳も四寸以下との詔が出されたという。しかし、その後も梳を象牙や玳瑁で作るという贅沢がりゅうこうしたという。
I領抹:不祥。首に巻くスカーフ・マフラーのたぐいか?
飮湖上 湖上に飲す
初晴後雨 初め晴れ後雨 蘇軾
朝曦迎客艶重岡 朝曦(ちょうぎ)客を迎えて重岡(ちょうこう)艶やかに
晩雨留人入酔郷 晩雨(ばんう)人を留めて酔郷(すいきょう)に入らしむ
此意自佳君不會 此意(このい)自(おのず)から佳(か)なるに 君会(かい)せずや
一杯當属水仙王 一杯 当(まさ)に水仙王(すいせんおう)に属(すす)むべし
水光瀲艶晴方好 水光瀲艶(れんえん)として晴れて方(まさ)に好し
山色空濛雨亦奇 山色空濛(くうもう)として雨亦(また)奇なり
若把西湖比西子 若し西湖を把(とら)へて西子に比すれば
淡粧濃抹總相宜 淡粧(たんしょう)濃抹(のうまつ)總(すべ)て相ひ宜し
朝日が迎えてくれるかのように山々を彩っていたが
夕べの雨は引き止めるかのごとく酔郷に誘ってくれた
この趣のおもしさ 君に解ってもらえぬものならば
一杯は水仙王どのに捧げずばなるまい
さざ波に躍る湖水の光 これこそ晴れた日の美しさだが
おぼろに煙る山々の色 雨の風情もまたおもしろい
西湖をたとえてみよう あの西施(せいし)の
薄化粧でも濃く塗り上げても みなよく似合う姿に
※七言絶句、二首の連作。1075年、蘇軾37歳。西湖での作という。
※水仙王:西湖の水神。作者の自注に、湖上に水仙王の廟があるという。
※西施:春秋時代の女性。中国史上代表的な美人のひとりとして、多くの伝説がある。西湖と直接には関係ないが、越の国の出身であり、西湖も同じ越に属する。
東京夢華録 巻二 東角樓街巷
自宣德東去東角樓、乃皇城東南角也。十字街南去薑行。高頭街北去、從紗行至東華門街、晨暉門、寶籙宮、直至舊酸棗門、最是鋪席要鬧。宣和間展夾城牙道矣。東去乃潘樓街、街南曰「鷹店」、只下販鷹鶻客、餘皆真珠疋帛香藥鋪席。南通一巷、謂之「界身」、並是金銀綵帛交易之所。屋宇雄壯、門面廣闊、望之森然。每一交易、動即千萬、駭人聞見。以東街北曰潘樓酒店、其下每日自五更市合、買賣衣物書畫珍玩犀玉。至平明、羊頭、肚肺、赤白腰子、嬭房、肚胘、鶉兔、鳩鴿、野味、螃蟹、蛤蜊之類訖、方有諸手作人上市買賣零碎作料。飯後飲食上市、如酥蜜食、棗(食+固)、豆沙團子、香糖果子、蜜煎雕花之類。向晚賣河婁頭面、冠梳領抹、珍玩動使之類。東去則徐家瓠羹店。街南桑家瓦子、近北則中瓦、次裡瓦。其中大小勾欄五十餘座。內中瓦子蓮花棚、牡丹棚、裡瓦子夜叉棚、象棚最大、可容數千人。自丁先現、王團子、張七聖輩、後來可有人於此作場。瓦中多有貨藥、賣卦、喝故衣、探搏、飲食、剃剪、紙畫、令曲之類。終日居此、不覺抵暮。
肚肺(はいぞう)・赤白腰子(じんぞう)・肚胘(いぶくろ)や、ウズラ・ウサギ・ハトなど山林で取れる食用の禽獣と、カニ・A蛤蜊(しおふき)のたぐいの取引が終わり、さまざまな職人が市に出てきて、こまごまとした材料を売買する。またB酥蜜食(そみつしょく)・C棗《食+固》(そうこ)・D豆沙団子(とうさだんご)・E香糖果子(こうとうかし)・F蜜煎雕花(みつせんちょうか)のたぐいの食後用の飲食物も市に出た。夕方にはG河婁(そば)・頭面(あたまかざり)・H冠梳(かんそ)・I領抹(りょうまつ)や珍貴な愛玩物とか道具類を売った。その東へ行くと徐家瓠羹店〔ここうてん、門前に屋台風のものを作り、それに豚や羊を掛けて売る店とあるが、瓠羹というのがどんな食べ物かというのは解らない〕があった。通りの南は桑家(そうか)瓦子〔がし、瓦肆・瓦舎とも書かれ、宋元代都市中にあった盛り場をいい、商人と芸人の集中区域であった〕で、北寄りは中瓦(ちゅうが)、その奥は裏瓦(りが)といった。瓦子の中には大小の演芸小屋〔原文では「勾欄」。勾欄とは手摺の意味であるが、当時の演芸小屋は手摺がついていたのでこのように呼ばれた。舞台は野天の広場に日本の能舞台や神楽殿のように作られ、観客はみな立って見たようである〕が五十余座あり、中でも中瓦子の蓮荷棚・牡丹棚、裏瓦子の夜叉棚・象棚〔棚とは小屋掛けの意。日本で中村座・歌舞伎座などと呼ぶ「座」にあたる〕はもっとも大きく、数千人を収容することができた。丁先現・王団子・張七聖〔北宋の神宗の頃から徽宗の代に活躍した俳優の名〕のやからが出てから、ここの舞台に立った俳優はかなりの数になる。瓦子の中には薬売りや、八卦見、古着売り、飲食物の賭け売り、切り紙芸人のたぐいも大勢いて、一日中ここにいたら、日が暮れるのも気がつかなかった。
A蛤蜊:あさりの一種で、和名しおふきとよばれるもの。はまぐりは「文蛤」という
B酥蜜食:酥とは、牛や羊の乳をよく煮立てて器に入れ、冷えてから表面の結皮を取ったもの。クリームのたぐい。酥油といえばバター。
C棗《食+固》:棗菰(なつめ)の形に似た小さい蒸し団子。
D豆沙団子:豆餡いりの団子。豆沙は豆を煮潰して作った餡。
E香糖果子:ショウブ・ショウガ・アンズ・ウメ・スモモ・シソをみな糸切りにして、塩漬けにして乾かし百早頭といい、あるいはこれらの果物を糖蜜に漬けて梅皮の中に入れて醸梅という菓子をつくった。みな端午の菓子である。
F蜜煎雕花:蜜煎は、蜜漬けの菓子。雕花は不祥。
G河婁:元の『農書』に、ソバを粉にひき、湯餅〔掛けうどん〕風に作り、これを河漏(かろう)といって常食するとある。
H冠梳:婦人の冠と梳(くし)をいう。婦人の冠はもと沙を漆で固めてつくり、金銀・真珠・翡翠や花飾りを付けたものであるが、北宋の仁宗の時、白角で作った三尺もの長さの冠に、一尺もの梳をつけるのが宮中から流行しだしたので、皇祐元(1049)年に、冠は幅一尺、高さ四寸を超えてはならず、梳も四寸以下との詔が出されたという。しかし、その後も梳を象牙や玳瑁で作るという贅沢がりゅうこうしたという。
I領抹:不祥。首に巻くスカーフ・マフラーのたぐいか?
『東京夢華録』を拾い読みしているが、内容によく理解できないところが多くて、なかなか先に進めない。
北宋は、汴梁〔べんりょう、今の河南省開封〕を帝都とし汴京または東京(とうけい)と呼び、洛陽を西京(せいけい)と呼んだ。その東京がもっとも繁栄した北宋第八代皇帝徽宗皇帝の崇寧(すうねい)宣和年間〔1102~1125年〕頃の姿を、南宋初期の紹興十七〔1147〕年に、孟元老〔号は幽蘭居士〕なる人が追懐して書いたのが『東京夢華録』である。この書について、著者はその自序で「古人は夢に華胥(かしょ)という理想国に遊んだが、私もいま東京にいたころのよき時代を追懐すると華胥の夢からさめたように思え、そこで本書を『夢華録』と名付けた」といっている。金に占領された東京の住民の多くは、南宋の都臨安〔いまの淅江省杭州〕に逃れたものの、みな佳き時代の佳き都東京をひどく懐かしんだようで、本書が淳煕十四〔1187〕年二観光されると臨安の人士に大いに愛読されたという。
隋・唐代の首都・長安は人口100万人に達した巨大な都市であったが、条坊ごとに周囲を牆壁に囲まれ、条坊間の夜間通行が制限されるなど閉鎖的で、都市文化も貴族中心であった。これに対し、北宋代の開封には通行の制限はなく、瓦子(がし)と呼ばれる盛り場では、昼夜を問わず飲食店・商店・劇場といった店が開かれ、大道芸が行われるなど、多くの住民が都市生活を謳歌し、繁栄を極めていた。
栄華期の開封を回想して誌された『東京夢華録』は、単なる旧都の回想録に留まらず、北宋代の首都・開封の市民生活を詳細に描いた貴重な風俗志でもあるという。
著者の孟元老についてはまだよく判っていないらしい。本書の彼の自伝に
「亡父に従って官吏として南北各地に移り住み、崇寧二〔1103〕年に都に上り、城内西部、金梁橋の西の夾道の南に住まいを定め…… 靖康元年〔北宋の亡びた年1126年〕のあくる年南に来た」
とあることから、東京には20余年住んでいたということになる。
東京夢華録 巻二 御街
坊巷御街、自宣德樓一直南去、約闊二百餘步、兩邊乃御廊、舊許市人買賣於其間、自政和間官司禁止、各安立黑漆杈子、路心又安朱漆杈子兩行、中心御道、不得人馬行往、行人皆在廊下朱杈子之外。杈子裡有磚石甃砌御溝水兩道、宣和間盡植蓮荷、近岸植桃李梨杏、雜花相間、春夏之間、望之如繡。
〔訳〕《御街(ぎょがい)》城内の御街という通りは、宣徳楼から真南に走り、幅は約二百余歩あった。通りの両側は御廊といい、以前は商人がそこで商いをするのを許されていたが、政和年間〔北宋、徽宗の年号、1111~1117年〕に役所が禁止し、両側の御廊にそれぞれ黒い漆塗りの柵〔直欄杆(ちょくらんかん)〕が立てられ、その真ん中の御廊は、人馬の通行を許さず、通行人はみな廊下や朱の柵の外を通った。柵の中には磚石(れんが)でたたんだ掘割が二筋あり、宣和年間(徽宗の1119~1125年)に掘割一面にハスを植えた。岸辺にはモモ・スモモ・ナシ・アンズを植えたので、色とりどりの花がまじりあい、春から夏にかけて、これを望めば、色あざやかな刺繍のようであった。
※御街とは、天子の通る大通りの意。北宋〔960~1127年〕の都、東京〔とうけい、今の河南省開封〕内の、大内すなわち宮城の南正面の門「宣徳門」から、旧京城すなわち内城の南正面の門「朱雀門」に至る幅約三○○メートルの道路。
※宣徳楼とは、宣徳門のことで、大内南面中央に位置する宮城の正門であり壮麗な楼門であった。
※柵は、原文では「杈子(さし)」とあり、宋代には寺廟や楼門などに人間の身長ほどの高さの柵〔直欄杆〕を立てて人の入るのを防ぎ、「拒馬杈子(きょばさし)」といった。
隋・唐代の首都・長安は人口100万人に達した巨大な都市であったが、条坊ごとに周囲を牆壁に囲まれ、条坊間の夜間通行が制限されるなど閉鎖的で、都市文化も貴族中心であった。これに対し、北宋代の開封には通行の制限はなく、瓦子(がし)と呼ばれる盛り場では、昼夜を問わず飲食店・商店・劇場といった店が開かれ、大道芸が行われるなど、多くの住民が都市生活を謳歌し、繁栄を極めていた。
栄華期の開封を回想して誌された『東京夢華録』は、単なる旧都の回想録に留まらず、北宋代の首都・開封の市民生活を詳細に描いた貴重な風俗志でもあるという。
著者の孟元老についてはまだよく判っていないらしい。本書の彼の自伝に
「亡父に従って官吏として南北各地に移り住み、崇寧二〔1103〕年に都に上り、城内西部、金梁橋の西の夾道の南に住まいを定め…… 靖康元年〔北宋の亡びた年1126年〕のあくる年南に来た」
とあることから、東京には20余年住んでいたということになる。
東京夢華録 巻二 御街
坊巷御街、自宣德樓一直南去、約闊二百餘步、兩邊乃御廊、舊許市人買賣於其間、自政和間官司禁止、各安立黑漆杈子、路心又安朱漆杈子兩行、中心御道、不得人馬行往、行人皆在廊下朱杈子之外。杈子裡有磚石甃砌御溝水兩道、宣和間盡植蓮荷、近岸植桃李梨杏、雜花相間、春夏之間、望之如繡。
〔訳〕《御街(ぎょがい)》城内の御街という通りは、宣徳楼から真南に走り、幅は約二百余歩あった。通りの両側は御廊といい、以前は商人がそこで商いをするのを許されていたが、政和年間〔北宋、徽宗の年号、1111~1117年〕に役所が禁止し、両側の御廊にそれぞれ黒い漆塗りの柵〔直欄杆(ちょくらんかん)〕が立てられ、その真ん中の御廊は、人馬の通行を許さず、通行人はみな廊下や朱の柵の外を通った。柵の中には磚石(れんが)でたたんだ掘割が二筋あり、宣和年間(徽宗の1119~1125年)に掘割一面にハスを植えた。岸辺にはモモ・スモモ・ナシ・アンズを植えたので、色とりどりの花がまじりあい、春から夏にかけて、これを望めば、色あざやかな刺繍のようであった。
※宣徳楼とは、宣徳門のことで、大内南面中央に位置する宮城の正門であり壮麗な楼門であった。
※柵は、原文では「杈子(さし)」とあり、宋代には寺廟や楼門などに人間の身長ほどの高さの柵〔直欄杆〕を立てて人の入るのを防ぎ、「拒馬杈子(きょばさし)」といった。
横浜のIN氏から、メールあり。
「ご無沙汰していますが、お元気ですか。/4月下旬から、家内の咳が止まらず、これはオペラ「椿姫」のMET実況中継を見に行ったために、主役のヴィオレッタの結核に感染したか?? と勘ぐったくらい、毎晩、こんこん咳が治らなかった。/一か月半経過して、昨今ようやく沈静して、すこしは亭主に憎まれ口もきけるようになり、病状は快方に向かったが、まだ安心はならない。/私は因果??? と元気。だが夜中のトイレ起床のときに喉の渇きを覚えるようになった。ここ十年、微温湯を枕元に置いて寝てはいるが、喉がからからになって眼が覚める。死んだおふくろが、死ぬ前にわたしの顔を見ると『喉がからから』と甘えていたのを思い出す。/浅草地区は、ここのところ、スカイツリー景気で、大変な雑踏だろうと想像して、寄りつかないでいるが、君は元気にしているかと、心配になって、このメールを送ります。/今週の月曜日に、西宮のK君から、ファックスを貰って、「点滴入院から退院してきました。抗がん剤は1時間、あとはひたすらポカリスエット」の点滴をするらしい。/いままで1カ月に一回、抗がん剤の点滴を受けに、点滴入院をしていたが、今回から2カ月に一回になった由。抗がん剤を打って、一週間目が『しんどさ』のピークになるというから、今日あたりから、『しんどさ』がピークに来るころだろう。この「しんどさ」と言う奴が、経験者ではないと分からないらしくて、わたしの銀行友達が、『言うに言われぬしんどさ』といっていたから、その症状でしょう。/浅草が少し落ち着いたら、神奈川三馬鹿トリオで、君といっしょに飲みたいと思っています。Sなんぞは、いつも「日高を誘って飲もうぜ」と言っているよ。/とりあえず、近況のお伺いまで…。」
ブログ集21が届いた知らせのメールあり。
横浜のIN氏から、「日高 節夫 様/きょう夕方、クロネコメール便で、掲題「ブログ集」XXI号が届きました。/ありがとうございました。」
藤沢のMY氏から、「本日夕刻ブログ集を受領しました。いつも有難うございます。/スカイツリー狂騒曲も少しは収まってきましたか? 先日N君とも話したのですが、その内一度お邪魔しようじやないかと云うことになりました。近いうちに相談させてください。/先ずはブログ集受領の御礼まで。」
宝塚のKS氏から、「昨日21号有難く拝受致しました。/定期検査のため遅く帰宅しましたので、返事が遅れました。/相変わらず事実に基づく客観的表現と共に、漢詩に依る主体性を諄々と記載される様に感銘を受けております。/貴兄の人となりにひかれる種々の方々との繋がりと、スカイツリーのコントラストが何とも言えず、また花の写真には家内も嬉しそうにしておりました。/貴兄の本音はお会いしてゆっくりお話ししなければ聞けないと存じますが、たまには心からの怒りの表現を観てみたいと存じています。 今後とも御身大切に、御奥様に宜しくお伝え下さい。/まずは御礼まで」
また、西宮のYK氏からは、FAXあり。曰く、「ブログ集拝受(お礼)/本日標記XXIいただきました。ありがとう。/私は6/1~6/4と兵庫医大へ点滴入院していました。/今まで毎月が2ヶ月に1回となり、CEA値も6.2(正常値は5以下)まで下りました。/最近は午前中のあんま(マッサージ)、午後のなるお神社徘徊が日課となっています。/貴兄の言うとおり息災で頑張りましょう。/いまからブログ集楽しくよませていただきます。/まずはブログ集拝受お礼まで (以上)」
CEA値の意味がわからなかったので、インターネットで調べてみた。
CEA:消化器系がんの腫瘍マーカー
CEAは胎児の消化器細胞だけにあるタンパクの一種ですが、がん細胞が増殖している組織内からもつくり出されます。消化器系がんのスクリーニング検査として広く用いられ、また、がん治療後の経過観察、再発や転移の早期発見にも重要です。
CEAは胃がんや大腸がんの腫瘍マーカーとして知られていますが、進行胃がんの30~40%にしか検出されません。肝臓がん、胆道がんにも用いられます。ただし、胆管がんでは必ず上昇するとは限らず、胆のうがんではCA19-9ほど顕著には上昇しません。
膵臓がんの場合は、スクリーニング検査としては不十分で、治療効果の特定に有効です。
消化器系がん以外のがんでも広く陽性を示す反面、臓器特異性は低いので、この検査だけでは診断はできません。また、陽性になるのは進行がんが多く、早期がんの診断には適さないので注意が必要です。
CEAの基準値:5.0ng/ml以下
健康な人でも約3%の人は基準値を超える場合があるとされており、高齢や喫煙でもやや上昇する傾向があります。がんが進行するにつれて高値となり、基準値の倍以上ではがんの疑いが濃厚、4倍以上では転移がんが疑われます。
異常値の場合
CEAが高値である場合、体のどこかにがんがある可能性が高いので、症状にあわせてほかの血液検査やX線造影、超音波、CTなど消化器系を中心に、肺や婦人科などの精密検査も必要になります。また、がんは進行性であり、CEAの高値ががんによる場合は上昇傾向を示すため、1~2ヵ月後に再検査を行います。これで変動がなければ、高値でも心配ないことがあります。
CEAは、がんを切除したり、抗がん剤療法でがんが縮小したりすると値は低下します。その後の経過観察でのCEAの再上昇は、がんの再発やほかの臓器への転移などを疑わせる指標のひとつとして重要になるため、2~3ヶ月に1回は測定します。
もし、再上昇を認めた場合は、ただちに腹部超音波検査や腹部CTなどの精密検査が必要です。
「ご無沙汰していますが、お元気ですか。/4月下旬から、家内の咳が止まらず、これはオペラ「椿姫」のMET実況中継を見に行ったために、主役のヴィオレッタの結核に感染したか?? と勘ぐったくらい、毎晩、こんこん咳が治らなかった。/一か月半経過して、昨今ようやく沈静して、すこしは亭主に憎まれ口もきけるようになり、病状は快方に向かったが、まだ安心はならない。/私は因果??? と元気。だが夜中のトイレ起床のときに喉の渇きを覚えるようになった。ここ十年、微温湯を枕元に置いて寝てはいるが、喉がからからになって眼が覚める。死んだおふくろが、死ぬ前にわたしの顔を見ると『喉がからから』と甘えていたのを思い出す。/浅草地区は、ここのところ、スカイツリー景気で、大変な雑踏だろうと想像して、寄りつかないでいるが、君は元気にしているかと、心配になって、このメールを送ります。/今週の月曜日に、西宮のK君から、ファックスを貰って、「点滴入院から退院してきました。抗がん剤は1時間、あとはひたすらポカリスエット」の点滴をするらしい。/いままで1カ月に一回、抗がん剤の点滴を受けに、点滴入院をしていたが、今回から2カ月に一回になった由。抗がん剤を打って、一週間目が『しんどさ』のピークになるというから、今日あたりから、『しんどさ』がピークに来るころだろう。この「しんどさ」と言う奴が、経験者ではないと分からないらしくて、わたしの銀行友達が、『言うに言われぬしんどさ』といっていたから、その症状でしょう。/浅草が少し落ち着いたら、神奈川三馬鹿トリオで、君といっしょに飲みたいと思っています。Sなんぞは、いつも「日高を誘って飲もうぜ」と言っているよ。/とりあえず、近況のお伺いまで…。」
ブログ集21が届いた知らせのメールあり。
横浜のIN氏から、「日高 節夫 様/きょう夕方、クロネコメール便で、掲題「ブログ集」XXI号が届きました。/ありがとうございました。」
藤沢のMY氏から、「本日夕刻ブログ集を受領しました。いつも有難うございます。/スカイツリー狂騒曲も少しは収まってきましたか? 先日N君とも話したのですが、その内一度お邪魔しようじやないかと云うことになりました。近いうちに相談させてください。/先ずはブログ集受領の御礼まで。」
宝塚のKS氏から、「昨日21号有難く拝受致しました。/定期検査のため遅く帰宅しましたので、返事が遅れました。/相変わらず事実に基づく客観的表現と共に、漢詩に依る主体性を諄々と記載される様に感銘を受けております。/貴兄の人となりにひかれる種々の方々との繋がりと、スカイツリーのコントラストが何とも言えず、また花の写真には家内も嬉しそうにしておりました。/貴兄の本音はお会いしてゆっくりお話ししなければ聞けないと存じますが、たまには心からの怒りの表現を観てみたいと存じています。 今後とも御身大切に、御奥様に宜しくお伝え下さい。/まずは御礼まで」
また、西宮のYK氏からは、FAXあり。曰く、「ブログ集拝受(お礼)/本日標記XXIいただきました。ありがとう。/私は6/1~6/4と兵庫医大へ点滴入院していました。/今まで毎月が2ヶ月に1回となり、CEA値も6.2(正常値は5以下)まで下りました。/最近は午前中のあんま(マッサージ)、午後のなるお神社徘徊が日課となっています。/貴兄の言うとおり息災で頑張りましょう。/いまからブログ集楽しくよませていただきます。/まずはブログ集拝受お礼まで (以上)」
CEA値の意味がわからなかったので、インターネットで調べてみた。
CEA:消化器系がんの腫瘍マーカー
CEAは胎児の消化器細胞だけにあるタンパクの一種ですが、がん細胞が増殖している組織内からもつくり出されます。消化器系がんのスクリーニング検査として広く用いられ、また、がん治療後の経過観察、再発や転移の早期発見にも重要です。
CEAは胃がんや大腸がんの腫瘍マーカーとして知られていますが、進行胃がんの30~40%にしか検出されません。肝臓がん、胆道がんにも用いられます。ただし、胆管がんでは必ず上昇するとは限らず、胆のうがんではCA19-9ほど顕著には上昇しません。
膵臓がんの場合は、スクリーニング検査としては不十分で、治療効果の特定に有効です。
消化器系がん以外のがんでも広く陽性を示す反面、臓器特異性は低いので、この検査だけでは診断はできません。また、陽性になるのは進行がんが多く、早期がんの診断には適さないので注意が必要です。
CEAの基準値:5.0ng/ml以下
健康な人でも約3%の人は基準値を超える場合があるとされており、高齢や喫煙でもやや上昇する傾向があります。がんが進行するにつれて高値となり、基準値の倍以上ではがんの疑いが濃厚、4倍以上では転移がんが疑われます。
異常値の場合
CEAが高値である場合、体のどこかにがんがある可能性が高いので、症状にあわせてほかの血液検査やX線造影、超音波、CTなど消化器系を中心に、肺や婦人科などの精密検査も必要になります。また、がんは進行性であり、CEAの高値ががんによる場合は上昇傾向を示すため、1~2ヵ月後に再検査を行います。これで変動がなければ、高値でも心配ないことがあります。
CEAは、がんを切除したり、抗がん剤療法でがんが縮小したりすると値は低下します。その後の経過観察でのCEAの再上昇は、がんの再発やほかの臓器への転移などを疑わせる指標のひとつとして重要になるため、2~3ヶ月に1回は測定します。
もし、再上昇を認めた場合は、ただちに腹部超音波検査や腹部CTなどの精密検査が必要です。
今朝は金星が太陽面を通過するという。朝から雨で徘徊には出かけられなかったが、先日の金環日食の時は曇天にも拘わらずテラスはカメラマンで混雑していたが、この天気ではどうなんだろう。
日本列島の南海上では台風3号が北東方向に通過中という。このまま梅雨入りとなるのだろうか。
今朝のウェブニュースより
台風接近、金星の太陽面通過観察難しい? 東海より東の地域 ―― 気象庁は5日、日本の南海上を東寄りに進む台風3号の影響で今後、台風が接近する伊豆、小笠原両諸島や西・東日本の太平洋側でしけの恐れがあるとして、警戒を呼び掛けた。/一方、6日は太陽の手前を、黒い点のような金星が横切る「金星の太陽面通過」が全国で見られるはずだが、同庁の予報では東海より東の地域は曇りや雨の所が多く、観察は厳しそうだ。/同庁によると、台風は5日夜、風速25メートル以上の暴風域を伴い九州の南海上を北東に進んだ。6日朝に四国から近畿の南海上に、同日夕には関東の南海上に達する見込み。7日朝に温帯低気圧に変わる予想。/ 6日は伊豆諸島で最大風速20メートル、伊豆、小笠原両諸島で波の高さ6メートルの大しけが見込まれる。西・東日本の太平洋沿岸も台風からのうねりが入り、波の高さが4メートルのしけになる所があるという。
〔共同〕(日本経済新聞 2012/6/5 23:11)
梅雨(ばいう) 杜甫
南京犀浦道 南京犀浦(なんけいさいほ)の道
四月熟黄梅 四月の黄梅熟(じゅく)す
湛湛長江去 湛湛(たんたん)として 長江去り
冥冥細雨來 冥冥(めいめい)として 細雨来(きた)る
茅茨疎易濕 茅茨(ぼうし)は疎(そ)にして 湿(うるお)い安く
雲霧密難開 雲霧(うんむ)は密(みつ)にして 開け難し
竟日蛟龍喜 竟日(きょうじつ) 蛟龍(こうりゅう)喜び
盤渦與岸囘 盤渦(ばんか) 岸と回(めぐ)る
〔訳〕南京〔成都〕の犀浦県にあるわが草堂の道では、
(旧暦)四月になると梅の実が黄色く熟する。
その頃には増水した長江の水は満々とたたえて流れ去り
梅雨の細やかな雨がうっとうしく降ってくる。
わが草堂の茅葺きの屋根は疎らに葺いてあるから、雨がしみやすく
雲や霧が深くたれこめて、なかなか晴れることがない。
この雨空に、蛟龍は喜んでいるだろう、
急に増水した水面の渦が岸の地形に従ってぐるぐるとうずまいている。
日本列島の南海上では台風3号が北東方向に通過中という。このまま梅雨入りとなるのだろうか。
今朝のウェブニュースより
台風接近、金星の太陽面通過観察難しい? 東海より東の地域 ―― 気象庁は5日、日本の南海上を東寄りに進む台風3号の影響で今後、台風が接近する伊豆、小笠原両諸島や西・東日本の太平洋側でしけの恐れがあるとして、警戒を呼び掛けた。/一方、6日は太陽の手前を、黒い点のような金星が横切る「金星の太陽面通過」が全国で見られるはずだが、同庁の予報では東海より東の地域は曇りや雨の所が多く、観察は厳しそうだ。/同庁によると、台風は5日夜、風速25メートル以上の暴風域を伴い九州の南海上を北東に進んだ。6日朝に四国から近畿の南海上に、同日夕には関東の南海上に達する見込み。7日朝に温帯低気圧に変わる予想。/ 6日は伊豆諸島で最大風速20メートル、伊豆、小笠原両諸島で波の高さ6メートルの大しけが見込まれる。西・東日本の太平洋沿岸も台風からのうねりが入り、波の高さが4メートルのしけになる所があるという。
〔共同〕(日本経済新聞 2012/6/5 23:11)
梅雨(ばいう) 杜甫
南京犀浦道 南京犀浦(なんけいさいほ)の道
四月熟黄梅 四月の黄梅熟(じゅく)す
湛湛長江去 湛湛(たんたん)として 長江去り
冥冥細雨來 冥冥(めいめい)として 細雨来(きた)る
茅茨疎易濕 茅茨(ぼうし)は疎(そ)にして 湿(うるお)い安く
雲霧密難開 雲霧(うんむ)は密(みつ)にして 開け難し
竟日蛟龍喜 竟日(きょうじつ) 蛟龍(こうりゅう)喜び
盤渦與岸囘 盤渦(ばんか) 岸と回(めぐ)る
〔訳〕南京〔成都〕の犀浦県にあるわが草堂の道では、
(旧暦)四月になると梅の実が黄色く熟する。
その頃には増水した長江の水は満々とたたえて流れ去り
梅雨の細やかな雨がうっとうしく降ってくる。
わが草堂の茅葺きの屋根は疎らに葺いてあるから、雨がしみやすく
雲や霧が深くたれこめて、なかなか晴れることがない。
この雨空に、蛟龍は喜んでいるだろう、
急に増水した水面の渦が岸の地形に従ってぐるぐるとうずまいている。
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目高 拙痴无
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sechin@nethome.ne.jp です。
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