瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
今朝は早朝から雨、徘徊にも 今朝は早朝から雨、徘徊にも行けず。
飮湖上 湖上に飲す
初晴後雨 初め晴れ後雨 蘇軾
朝曦迎客艶重岡 朝曦(ちょうぎ)客を迎えて重岡(ちょうこう)艶やかに
晩雨留人入酔郷 晩雨(ばんう)人を留めて酔郷(すいきょう)に入らしむ
此意自佳君不會 此意(このい)自(おのず)から佳(か)なるに 君会(かい)せずや
一杯當属水仙王 一杯 当(まさ)に水仙王(すいせんおう)に属(すす)むべし
水光瀲艶晴方好 水光瀲艶(れんえん)として晴れて方(まさ)に好し
山色空濛雨亦奇 山色空濛(くうもう)として雨亦(また)奇なり
若把西湖比西子 若し西湖を把(とら)へて西子に比すれば
淡粧濃抹總相宜 淡粧(たんしょう)濃抹(のうまつ)總(すべ)て相ひ宜し
〔訳〕《湖上に飲む 晴れていたのが やがて雨に変わった》
朝日が迎えてくれるかのように山々を彩っていたが
夕べの雨は引き止めるかのごとく酔郷に誘ってくれた
この趣のおもしさ 君に解ってもらえぬものならば
一杯は水仙王どのに捧げずばなるまい
さざ波に躍る湖水の光 これこそ晴れた日の美しさだが
おぼろに煙る山々の色 雨の風情もまたおもしろい
西湖をたとえてみよう あの西施(せいし)の
薄化粧でも濃く塗り上げても みなよく似合う姿に
※七言絶句、二首の連作。1075年、蘇軾37歳。西湖での作という。
※水仙王:西湖の水神。作者の自注に、湖上に水仙王の廟があるという。
※西施:春秋時代の女性。中国史上代表的な美人のひとりとして、多くの伝説がある。西湖と直接には関係ないが、越の国の出身であり、西湖も同じ越に属する。
東京夢華録 巻二 東角樓街巷
自宣德東去東角樓、乃皇城東南角也。十字街南去薑行。高頭街北去、從紗行至東華門街、晨暉門、寶籙宮、直至舊酸棗門、最是鋪席要鬧。宣和間展夾城牙道矣。東去乃潘樓街、街南曰「鷹店」、只下販鷹鶻客、餘皆真珠疋帛香藥鋪席。南通一巷、謂之「界身」、並是金銀綵帛交易之所。屋宇雄壯、門面廣闊、望之森然。每一交易、動即千萬、駭人聞見。以東街北曰潘樓酒店、其下每日自五更市合、買賣衣物書畫珍玩犀玉。至平明、羊頭、肚肺、赤白腰子、嬭房、肚胘、鶉兔、鳩鴿、野味、螃蟹、蛤蜊之類訖、方有諸手作人上市買賣零碎作料。飯後飲食上市、如酥蜜食、棗(食+固)、豆沙團子、香糖果子、蜜煎雕花之類。向晚賣河婁頭面、冠梳領抹、珍玩動使之類。東去則徐家瓠羹店。街南桑家瓦子、近北則中瓦、次裡瓦。其中大小勾欄五十餘座。內中瓦子蓮花棚、牡丹棚、裡瓦子夜叉棚、象棚最大、可容數千人。自丁先現、王團子、張七聖輩、後來可有人於此作場。瓦中多有貨藥、賣卦、喝故衣、探搏、飲食、剃剪、紙畫、令曲之類。終日居此、不覺抵暮。
〔訳〕《東角楼(とうかくろう)付近の街巷(まちまち)》宣徳楼から東のかた、東角楼〔城郭の四隅に建てられた物見櫓を「角楼」という〕へと行けば、皇城〔都城内でも宮城地域と官庁地域とにさらにおのおのの城壁に囲まれていて、宮城・皇城とよばれた〕の東南角である。十字街を南に行けば薑行〔しょうがいち、「行」とは本来商人の同業組合のことで、政府の公認保護の下に営業を独占し、商品価格の決定等をして組合員の利益を擁護したもの〕で、高頭街を北へ行き、紗行(うすぎぬいち)から東華門街〔宮城の城壁東側中央の門。その門外の商店街では宮中の用品の売買がおこなわれたので、非常に繁盛して天下の奇品が集まっていたという〕・晨暉門(しんきもん)・宝籙宮(ほうろくきゅう)をへて旧酸棗門〔さんそうもん、東京の北の城門で、河南省延津県すなわち旧酸棗県に通じる道に当たっていたのでこう呼ばれた〕までの道筋は、もっとも店舗がにぎわしかった。宣和年間に城壁にはさまれた道を広げたものである。東に行くと潘楼街だ。通りの南は鷹店(ようてん)といって、タカやクマタカを商う旅商人ばかり、その他はみな真珠・反物・薬物を商う店だった。南に通ずる通りのひとつは界身(かいしん)といって、ずらりと金銀やいろとりどりの絹を取引する店が立ち並び、どっしりとした建物、広い間口の店々は、見るからに堂々たる有様で、取引ごとに千万もの金品を動かし、人々の耳目を驚かした。その東の通りの北側は、潘楼酒店という酒楼で、その下では毎日五更(午前四時ごろ)から市がたち、衣類・書画・珍貴な愛玩物とか犀の角や宝玉などを売買した。夜が明け放つと、羊の頭・
肚肺(はいぞう)・赤白腰子(じんぞう)・肚胘(いぶくろ)や、ウズラ・ウサギ・ハトなど山林で取れる食用の禽獣と、カニ・A蛤蜊(しおふき)のたぐいの取引が終わり、さまざまな職人が市に出てきて、こまごまとした材料を売買する。またB酥蜜食(そみつしょく)・C棗《食+固》(そうこ)・D豆沙団子(とうさだんご)・E香糖果子(こうとうかし)・F蜜煎雕花(みつせんちょうか)のたぐいの食後用の飲食物も市に出た。夕方にはG河婁(そば)・頭面(あたまかざり)・H冠梳(かんそ)・I領抹(りょうまつ)や珍貴な愛玩物とか道具類を売った。その東へ行くと徐家瓠羹店〔ここうてん、門前に屋台風のものを作り、それに豚や羊を掛けて売る店とあるが、瓠羹というのがどんな食べ物かというのは解らない〕があった。通りの南は桑家(そうか)瓦子〔がし、瓦肆・瓦舎とも書かれ、宋元代都市中にあった盛り場をいい、商人と芸人の集中区域であった〕で、北寄りは中瓦(ちゅうが)、その奥は裏瓦(りが)といった。瓦子の中には大小の演芸小屋〔原文では「勾欄」。勾欄とは手摺の意味であるが、当時の演芸小屋は手摺がついていたのでこのように呼ばれた。舞台は野天の広場に日本の能舞台や神楽殿のように作られ、観客はみな立って見たようである〕が五十余座あり、中でも中瓦子の蓮荷棚・牡丹棚、裏瓦子の夜叉棚・象棚〔棚とは小屋掛けの意。日本で中村座・歌舞伎座などと呼ぶ「座」にあたる〕はもっとも大きく、数千人を収容することができた。丁先現・王団子・張七聖〔北宋の神宗の頃から徽宗の代に活躍した俳優の名〕のやからが出てから、ここの舞台に立った俳優はかなりの数になる。瓦子の中には薬売りや、八卦見、古着売り、飲食物の賭け売り、切り紙芸人のたぐいも大勢いて、一日中ここにいたら、日が暮れるのも気がつかなかった。
A蛤蜊:あさりの一種で、和名しおふきとよばれるもの。はまぐりは「文蛤」という
B酥蜜食:酥とは、牛や羊の乳をよく煮立てて器に入れ、冷えてから表面の結皮を取ったもの。クリームのたぐい。酥油といえばバター。
C棗《食+固》:棗菰(なつめ)の形に似た小さい蒸し団子。
D豆沙団子:豆餡いりの団子。豆沙は豆を煮潰して作った餡。
E香糖果子:ショウブ・ショウガ・アンズ・ウメ・スモモ・シソをみな糸切りにして、塩漬けにして乾かし百早頭といい、あるいはこれらの果物を糖蜜に漬けて梅皮の中に入れて醸梅という菓子をつくった。みな端午の菓子である。
F蜜煎雕花:蜜煎は、蜜漬けの菓子。雕花は不祥。
G河婁:元の『農書』に、ソバを粉にひき、湯餅〔掛けうどん〕風に作り、これを河漏(かろう)といって常食するとある。
H冠梳:婦人の冠と梳(くし)をいう。婦人の冠はもと沙を漆で固めてつくり、金銀・真珠・翡翠や花飾りを付けたものであるが、北宋の仁宗の時、白角で作った三尺もの長さの冠に、一尺もの梳をつけるのが宮中から流行しだしたので、皇祐元(1049)年に、冠は幅一尺、高さ四寸を超えてはならず、梳も四寸以下との詔が出されたという。しかし、その後も梳を象牙や玳瑁で作るという贅沢がりゅうこうしたという。
I領抹:不祥。首に巻くスカーフ・マフラーのたぐいか?
飮湖上 湖上に飲す
初晴後雨 初め晴れ後雨 蘇軾
朝曦迎客艶重岡 朝曦(ちょうぎ)客を迎えて重岡(ちょうこう)艶やかに
晩雨留人入酔郷 晩雨(ばんう)人を留めて酔郷(すいきょう)に入らしむ
此意自佳君不會 此意(このい)自(おのず)から佳(か)なるに 君会(かい)せずや
一杯當属水仙王 一杯 当(まさ)に水仙王(すいせんおう)に属(すす)むべし
水光瀲艶晴方好 水光瀲艶(れんえん)として晴れて方(まさ)に好し
山色空濛雨亦奇 山色空濛(くうもう)として雨亦(また)奇なり
若把西湖比西子 若し西湖を把(とら)へて西子に比すれば
淡粧濃抹總相宜 淡粧(たんしょう)濃抹(のうまつ)總(すべ)て相ひ宜し
〔訳〕《湖上に飲む 晴れていたのが やがて雨に変わった》
朝日が迎えてくれるかのように山々を彩っていたが
夕べの雨は引き止めるかのごとく酔郷に誘ってくれた
この趣のおもしさ 君に解ってもらえぬものならば
一杯は水仙王どのに捧げずばなるまい
さざ波に躍る湖水の光 これこそ晴れた日の美しさだが
おぼろに煙る山々の色 雨の風情もまたおもしろい
西湖をたとえてみよう あの西施(せいし)の
薄化粧でも濃く塗り上げても みなよく似合う姿に
※七言絶句、二首の連作。1075年、蘇軾37歳。西湖での作という。
※水仙王:西湖の水神。作者の自注に、湖上に水仙王の廟があるという。
※西施:春秋時代の女性。中国史上代表的な美人のひとりとして、多くの伝説がある。西湖と直接には関係ないが、越の国の出身であり、西湖も同じ越に属する。
東京夢華録 巻二 東角樓街巷
自宣德東去東角樓、乃皇城東南角也。十字街南去薑行。高頭街北去、從紗行至東華門街、晨暉門、寶籙宮、直至舊酸棗門、最是鋪席要鬧。宣和間展夾城牙道矣。東去乃潘樓街、街南曰「鷹店」、只下販鷹鶻客、餘皆真珠疋帛香藥鋪席。南通一巷、謂之「界身」、並是金銀綵帛交易之所。屋宇雄壯、門面廣闊、望之森然。每一交易、動即千萬、駭人聞見。以東街北曰潘樓酒店、其下每日自五更市合、買賣衣物書畫珍玩犀玉。至平明、羊頭、肚肺、赤白腰子、嬭房、肚胘、鶉兔、鳩鴿、野味、螃蟹、蛤蜊之類訖、方有諸手作人上市買賣零碎作料。飯後飲食上市、如酥蜜食、棗(食+固)、豆沙團子、香糖果子、蜜煎雕花之類。向晚賣河婁頭面、冠梳領抹、珍玩動使之類。東去則徐家瓠羹店。街南桑家瓦子、近北則中瓦、次裡瓦。其中大小勾欄五十餘座。內中瓦子蓮花棚、牡丹棚、裡瓦子夜叉棚、象棚最大、可容數千人。自丁先現、王團子、張七聖輩、後來可有人於此作場。瓦中多有貨藥、賣卦、喝故衣、探搏、飲食、剃剪、紙畫、令曲之類。終日居此、不覺抵暮。
〔訳〕《東角楼(とうかくろう)付近の街巷(まちまち)》宣徳楼から東のかた、東角楼〔城郭の四隅に建てられた物見櫓を「角楼」という〕へと行けば、皇城〔都城内でも宮城地域と官庁地域とにさらにおのおのの城壁に囲まれていて、宮城・皇城とよばれた〕の東南角である。十字街を南に行けば薑行〔しょうがいち、「行」とは本来商人の同業組合のことで、政府の公認保護の下に営業を独占し、商品価格の決定等をして組合員の利益を擁護したもの〕で、高頭街を北へ行き、紗行(うすぎぬいち)から東華門街〔宮城の城壁東側中央の門。その門外の商店街では宮中の用品の売買がおこなわれたので、非常に繁盛して天下の奇品が集まっていたという〕・晨暉門(しんきもん)・宝籙宮(ほうろくきゅう)をへて旧酸棗門〔さんそうもん、東京の北の城門で、河南省延津県すなわち旧酸棗県に通じる道に当たっていたのでこう呼ばれた〕までの道筋は、もっとも店舗がにぎわしかった。宣和年間に城壁にはさまれた道を広げたものである。東に行くと潘楼街だ。通りの南は鷹店(ようてん)といって、タカやクマタカを商う旅商人ばかり、その他はみな真珠・反物・薬物を商う店だった。南に通ずる通りのひとつは界身(かいしん)といって、ずらりと金銀やいろとりどりの絹を取引する店が立ち並び、どっしりとした建物、広い間口の店々は、見るからに堂々たる有様で、取引ごとに千万もの金品を動かし、人々の耳目を驚かした。その東の通りの北側は、潘楼酒店という酒楼で、その下では毎日五更(午前四時ごろ)から市がたち、衣類・書画・珍貴な愛玩物とか犀の角や宝玉などを売買した。夜が明け放つと、羊の頭・
肚肺(はいぞう)・赤白腰子(じんぞう)・肚胘(いぶくろ)や、ウズラ・ウサギ・ハトなど山林で取れる食用の禽獣と、カニ・A蛤蜊(しおふき)のたぐいの取引が終わり、さまざまな職人が市に出てきて、こまごまとした材料を売買する。またB酥蜜食(そみつしょく)・C棗《食+固》(そうこ)・D豆沙団子(とうさだんご)・E香糖果子(こうとうかし)・F蜜煎雕花(みつせんちょうか)のたぐいの食後用の飲食物も市に出た。夕方にはG河婁(そば)・頭面(あたまかざり)・H冠梳(かんそ)・I領抹(りょうまつ)や珍貴な愛玩物とか道具類を売った。その東へ行くと徐家瓠羹店〔ここうてん、門前に屋台風のものを作り、それに豚や羊を掛けて売る店とあるが、瓠羹というのがどんな食べ物かというのは解らない〕があった。通りの南は桑家(そうか)瓦子〔がし、瓦肆・瓦舎とも書かれ、宋元代都市中にあった盛り場をいい、商人と芸人の集中区域であった〕で、北寄りは中瓦(ちゅうが)、その奥は裏瓦(りが)といった。瓦子の中には大小の演芸小屋〔原文では「勾欄」。勾欄とは手摺の意味であるが、当時の演芸小屋は手摺がついていたのでこのように呼ばれた。舞台は野天の広場に日本の能舞台や神楽殿のように作られ、観客はみな立って見たようである〕が五十余座あり、中でも中瓦子の蓮荷棚・牡丹棚、裏瓦子の夜叉棚・象棚〔棚とは小屋掛けの意。日本で中村座・歌舞伎座などと呼ぶ「座」にあたる〕はもっとも大きく、数千人を収容することができた。丁先現・王団子・張七聖〔北宋の神宗の頃から徽宗の代に活躍した俳優の名〕のやからが出てから、ここの舞台に立った俳優はかなりの数になる。瓦子の中には薬売りや、八卦見、古着売り、飲食物の賭け売り、切り紙芸人のたぐいも大勢いて、一日中ここにいたら、日が暮れるのも気がつかなかった。
A蛤蜊:あさりの一種で、和名しおふきとよばれるもの。はまぐりは「文蛤」という
B酥蜜食:酥とは、牛や羊の乳をよく煮立てて器に入れ、冷えてから表面の結皮を取ったもの。クリームのたぐい。酥油といえばバター。
C棗《食+固》:棗菰(なつめ)の形に似た小さい蒸し団子。
D豆沙団子:豆餡いりの団子。豆沙は豆を煮潰して作った餡。
E香糖果子:ショウブ・ショウガ・アンズ・ウメ・スモモ・シソをみな糸切りにして、塩漬けにして乾かし百早頭といい、あるいはこれらの果物を糖蜜に漬けて梅皮の中に入れて醸梅という菓子をつくった。みな端午の菓子である。
F蜜煎雕花:蜜煎は、蜜漬けの菓子。雕花は不祥。
G河婁:元の『農書』に、ソバを粉にひき、湯餅〔掛けうどん〕風に作り、これを河漏(かろう)といって常食するとある。
H冠梳:婦人の冠と梳(くし)をいう。婦人の冠はもと沙を漆で固めてつくり、金銀・真珠・翡翠や花飾りを付けたものであるが、北宋の仁宗の時、白角で作った三尺もの長さの冠に、一尺もの梳をつけるのが宮中から流行しだしたので、皇祐元(1049)年に、冠は幅一尺、高さ四寸を超えてはならず、梳も四寸以下との詔が出されたという。しかし、その後も梳を象牙や玳瑁で作るという贅沢がりゅうこうしたという。
I領抹:不祥。首に巻くスカーフ・マフラーのたぐいか?
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目高 拙痴无
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誕生日:
1932/02/04
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