瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
東坡志林 巻一 養生難在去慾
昨日太守楊君彩、通判張公規邀餘出遊安國寺、坐中論調氣養生之事。餘云:「皆不足道、難在去慾。」張云:「蘇子卿齧雪啖氈、蹈背出血、無一語少屈、可謂了生死之際矣、然不免為胡婦生子。窮居海上、而況洞房綺疏之下乎?乃知此事不易消除。」眾客皆大笑。餘愛其語有理、故為記之。
〔訳〕《欲を去ることのむずかしさ》昨日、大守の楊君采(ようくんさい)、通判の張公規(ちょうこうき)に迎えられて安国寺に遊びに出掛けた。いろいろ話をするうち、長寿法の話になった。私は言った。
「どれもお話にならないね。むずかしいのは欲を絶つことだよ」
すると張が言った。
「蘇子卿は雪を噛み、氈〔せん、毛織物〕を食い、背中を踏まれて血が出ても、一言の弱音さえ吐かなかった。全く生死を超越していたと言ってよい。にもかかわらず彼は胡(えびす)の女に子供を生ませている。バイカル湖のほとりで苦しい生活をしていてさえそうなのだ。ましてきらびやかな暖かい洞房のなかではなおさらのことだ。それからみても欲望の絶ちがたいことがわかります」
居合わせた人々はみな大笑いをした。私はその言葉の筋道の立ったのに感心したので、ここに記しておく。
※蘇子卿:蘇武〔そぶ、BC140頃?~60年)中国・前漢時代の人。字は子卿。父は衛尉・蘇建。兄は蘇嘉、弟は蘇賢。漢の武帝(在位BC140~87年)に仕え、匈奴に使者に立ち、捕虜となって十九年を過した人物。蘇武の事跡等に関しては『漢書』《李廣蘇建傳》にある。他に、『文選』に李陵が蘇武に与えた詩3首と蘇武に答えた書と共に、蘇武の詩が4首収められている。蘇武と李陵の贈答の詩については、宋期の厳羽〔生卒年不祥〕が記した『滄浪詩話』に「五言詩は李陵・蘇武に起こる」と記されている。
詩四首 其三 前漢・蘇子卿
結髮爲夫妻、 結髮 夫妻と爲(な)り、
恩愛兩不疑。 恩愛 兩(ふた)つながら 疑はず。
歡娯在今夕、 歡娯 今夕に 在り、
婉及良時。 婉(えんゑん) 良時に 及ぶ。
征夫懷往路、 征夫 往路を 懷(おも)ひ、
起視夜何其。 起ちて 夜の 何其(いかん)を 視(み)る。
參辰皆已沒、 參辰 皆な 已(すで)に沒す、
去去從此辭。 去り去りて 此れ從(よ)り 辭せん。
行役在戰場、 行役して 戰場に 在らば、
相見未有期。 相ひ見ること 未だ 期 有らず。
握手一長歎、 手を握り 一たび長歎すれば 、
涙爲生別滋。 涙は 生別の 爲に 滋(しげ)し。
努力愛春華、 努力して 春華を 愛し、
莫忘歡樂時。 歡樂の時を 忘るる莫(なか)れ。
生當復來歸、 生きては 當(まさ)に 復(ま)た 來(きた)り歸るべく、
死當長相思。 死しては 當(まさ)に 長(とこし)へに 相ひ思ふべし。
〔訳〕元服して、夫婦(みょうと)となってより
互いの愛を 疑わなかった。
楽しみつくすも 今宵限り
時をのがさず 睦みあおう
旅立つものは 前途を想い
起ちあがり 更け行く夜を伺(うかが)う
星たちも もうみな沈んだ
いよいよ今が 別れの時
使いとして 戦場へ行けば
再会は あてにはできぬ
手を握り 深いため息
生身(なまみ)裂く別れに 涙はしとど
気をつけて 若い日を愛(いとお)しみ
睦みあった日々を 忘れまい
命があれば 帰りもしよう
命がつきても 思い思おう
※『詩四首』と題して文撰の雑詩の項に載せる五言詩。ここに取り上げた第三首は夫婦との、他の詩は友人または兄弟との別離を詠う。
昨日太守楊君彩、通判張公規邀餘出遊安國寺、坐中論調氣養生之事。餘云:「皆不足道、難在去慾。」張云:「蘇子卿齧雪啖氈、蹈背出血、無一語少屈、可謂了生死之際矣、然不免為胡婦生子。窮居海上、而況洞房綺疏之下乎?乃知此事不易消除。」眾客皆大笑。餘愛其語有理、故為記之。
「どれもお話にならないね。むずかしいのは欲を絶つことだよ」
すると張が言った。
「蘇子卿は雪を噛み、氈〔せん、毛織物〕を食い、背中を踏まれて血が出ても、一言の弱音さえ吐かなかった。全く生死を超越していたと言ってよい。にもかかわらず彼は胡(えびす)の女に子供を生ませている。バイカル湖のほとりで苦しい生活をしていてさえそうなのだ。ましてきらびやかな暖かい洞房のなかではなおさらのことだ。それからみても欲望の絶ちがたいことがわかります」
居合わせた人々はみな大笑いをした。私はその言葉の筋道の立ったのに感心したので、ここに記しておく。
※蘇子卿:蘇武〔そぶ、BC140頃?~60年)中国・前漢時代の人。字は子卿。父は衛尉・蘇建。兄は蘇嘉、弟は蘇賢。漢の武帝(在位BC140~87年)に仕え、匈奴に使者に立ち、捕虜となって十九年を過した人物。蘇武の事跡等に関しては『漢書』《李廣蘇建傳》にある。他に、『文選』に李陵が蘇武に与えた詩3首と蘇武に答えた書と共に、蘇武の詩が4首収められている。蘇武と李陵の贈答の詩については、宋期の厳羽〔生卒年不祥〕が記した『滄浪詩話』に「五言詩は李陵・蘇武に起こる」と記されている。
詩四首 其三 前漢・蘇子卿
結髮爲夫妻、 結髮 夫妻と爲(な)り、
恩愛兩不疑。 恩愛 兩(ふた)つながら 疑はず。
歡娯在今夕、 歡娯 今夕に 在り、
婉及良時。 婉(えんゑん) 良時に 及ぶ。
征夫懷往路、 征夫 往路を 懷(おも)ひ、
起視夜何其。 起ちて 夜の 何其(いかん)を 視(み)る。
參辰皆已沒、 參辰 皆な 已(すで)に沒す、
去去從此辭。 去り去りて 此れ從(よ)り 辭せん。
行役在戰場、 行役して 戰場に 在らば、
相見未有期。 相ひ見ること 未だ 期 有らず。
握手一長歎、 手を握り 一たび長歎すれば 、
涙爲生別滋。 涙は 生別の 爲に 滋(しげ)し。
努力愛春華、 努力して 春華を 愛し、
莫忘歡樂時。 歡樂の時を 忘るる莫(なか)れ。
生當復來歸、 生きては 當(まさ)に 復(ま)た 來(きた)り歸るべく、
死當長相思。 死しては 當(まさ)に 長(とこし)へに 相ひ思ふべし。
互いの愛を 疑わなかった。
楽しみつくすも 今宵限り
時をのがさず 睦みあおう
旅立つものは 前途を想い
起ちあがり 更け行く夜を伺(うかが)う
星たちも もうみな沈んだ
いよいよ今が 別れの時
使いとして 戦場へ行けば
再会は あてにはできぬ
手を握り 深いため息
生身(なまみ)裂く別れに 涙はしとど
気をつけて 若い日を愛(いとお)しみ
睦みあった日々を 忘れまい
命があれば 帰りもしよう
命がつきても 思い思おう
※『詩四首』と題して文撰の雑詩の項に載せる五言詩。ここに取り上げた第三首は夫婦との、他の詩は友人または兄弟との別離を詠う。
昨年7月に独立したばかりの南スーダンで全面的な戦闘に突入する恐れがあるという。
今朝のウェブニュースより
制圧の油田地帯から撤兵へ=北側との交渉環境づくりか-南スーダン ―― 【ロンドン時事】南スーダンのキール大統領は20日、声明を出し、10日に制圧したスーダン領の油田地帯ヘグリグに駐留する部隊に対し即時撤収を命じたことを明らかにした。北側のスーダンとの交渉を行う環境づくりの一環と伝えられる。一方、スーダンのフセイン国防相はヘグリグを20日に奪還したと語った。/南スーダンの首都ジュバからの報道によると、キール大統領は「3日以内に撤兵を完了する」と言明した。南スーダン側は、ヘグリグをめぐる北側との領有権争いは国際的な調停に委ねる意向という。(jijicom. 2012/04/20-22:45)
治安情勢の調査指示 南スーダンPKOで防衛相 陸自は週明けに報告 ―― 陸上自衛隊が国連平和維持活動〔PKO〕で展開している南スーダンとスーダンの間で衝突が激化している問題で、田中直紀防衛相が治安情勢の徹底調査を指示した事が20日、分かった。田中氏は現地調査団の派遣も検討するよう求めたが、調査団を送れば2次隊の派遣時期が遅れる。このため、現地を訪問中の陸自中央即応集団司令官が週明けに視察結果を報告することで調査団派遣は見送り、活動も継続する方針だ。/陸自は今年1月から南スーダンの首都・ジュバに1次隊となる施設部隊を順次送り、3月中に約210人の要員が到着した。宿営地を設営しながら、道路や橋の補修などインフラ整備を行っている。/南スーダンは昨年7月、スーダンから分離独立したばかりで、両国は油田地帯の領有権などをめぐり対立。今月10日、南スーダン側が国境付近のヘグリグ油田を武力制圧したのを機に緊張が高まった。スーダンのバシル大統領は18日、大規模な軍事攻撃を示唆している。/情勢の緊迫化を受け、田中氏は今週に入り、陸自部隊の活動継続に支障がないか確認するため、2次隊の派遣前に現地調査団を送ることを検討するよう省内で指示した。15日に国境地帯のユニティ州マヨムにある他国のPKO部隊基地がスーダン軍機に空爆されたことで、田中氏は危機感を強めたという。/ただ、調査団を送ることになれば、1次隊と2次隊の交代時期がずれ込むことは避けられない。/陸自は2次隊として5月から6月にかけ約330人を送る計画で、今月末に派遣命令を出すことを予定している。仮に調査団を派遣するとすれば、団の編成から派遣後の報告まで数週間かかる。その間、2次隊に対する派遣命令の発出や移動時期・手段の確定も先送りを余儀なくされる。/2次隊の到着まで1次隊は現地にとどまらざるを得ず、活動期間も延びる。初動部隊として緊張状態の中で活動した上、帰国が遅れることになれば隊員の士気も低下しかねず、「2次隊は予定どおりのスケジュールで派遣すべきだ」(防衛省幹部)との声が多い。/治安情勢についても岩崎茂統合幕僚長が19日(戦闘地域はジュバから500キロぐらい離れており、任務に影響はない」と明言。フランス通信(AFP)によると、南スーダンのキール大統領は20日、ヘグリグの油田地帯から軍を即時撤退させるとの声明を発表した。 〔産経ニュース 2012.4.21 01:30 〕
As long as war is regarded as wicked, it will always have its fascination. When it is looked upon as vulgar, it will cease to be popular. OSCAR WILDE, The Critic as Artist
〔訳〕戦争が邪悪なものとみなされている限り、それは常に魅力的である。それが下品な見下ろすべきものとされいる場合、それは人気とりとして利用できなくなる。 オスカー ワイルド アーチストとしての評論家
※Oscar Wilde(オスカー ワイルド、1854~1900年)は、アイルランド出身の詩人、作家、劇作家。耽美的・退廃的・懐疑的だった19世紀末の、旗手のように語られている。


朝食後、桜橋を渡り向島を遊歩道に沿って南下、牛嶋神社から言問橋を渡って、隅田公園遊歩道を通って、吾妻橋まで南下。テラスを通って桜橋まで北上。携帯軒籙では6917歩、4.6km、昨日よりは少々記録が伸びたようである。遅咲きのサトザクラが盛りで、ソメイヨシノより色も濃く綺麗である。昨日は二十四節気の「穀雨」、この頃の春雨は田畑を潤し、穀物の成長を助けると言う。
牡丹 皮日休
落尽残紅始吐芳 残紅落ち尽くして 始めて芳を吐く
佳名喚作百花王 佳名喚びて 百花の王と作す
競誇天下無双艶 競ひ誇る 天下無双の艶
独占人間第一香 独り占む 人間第一の香
〔訳〕春の名残の花が全て散った後に咲き始め、
素晴らしい名は、「百花の王」と呼び讃えられる。
「天下に並ぶものの無い」あでやかさを誇り、
「この世で最も香しい花」の名を独り占めしている。
※日皮休:皮 日休(ひ じつきゅう 830年代~ 883年)は、中国唐代の詩人、革命的社会派の学者である。襄陽(現在の湖北省襄陽市)出身。字は襲美、号は閑気布衣、鹿門子、醉吟先生、醉士。友人に、同年代の詩人である陸亀蒙(陸龜蒙)がおり、二人を合わせて皮陸と呼ぶことがある。
今朝のウェブニュースより
As long as war is regarded as wicked, it will always have its fascination. When it is looked upon as vulgar, it will cease to be popular. OSCAR WILDE, The Critic as Artist
〔訳〕戦争が邪悪なものとみなされている限り、それは常に魅力的である。それが下品な見下ろすべきものとされいる場合、それは人気とりとして利用できなくなる。 オスカー ワイルド アーチストとしての評論家
牡丹 皮日休
落尽残紅始吐芳 残紅落ち尽くして 始めて芳を吐く
佳名喚作百花王 佳名喚びて 百花の王と作す
競誇天下無双艶 競ひ誇る 天下無双の艶
独占人間第一香 独り占む 人間第一の香
素晴らしい名は、「百花の王」と呼び讃えられる。
「天下に並ぶものの無い」あでやかさを誇り、
「この世で最も香しい花」の名を独り占めしている。
※日皮休:皮 日休(ひ じつきゅう 830年代~ 883年)は、中国唐代の詩人、革命的社会派の学者である。襄陽(現在の湖北省襄陽市)出身。字は襲美、号は閑気布衣、鹿門子、醉吟先生、醉士。友人に、同年代の詩人である陸亀蒙(陸龜蒙)がおり、二人を合わせて皮陸と呼ぶことがある。
午前4時50分家を出て、桜橋中学校と野球場の間道を抜けて隅田川べりに出る。テラスを吾妻橋まで南下。地図で見ると約1.4km、歩いては休み、休んでは歩いて凡そ1時間強。携帯の〔1日の歩数〕を見ると、5332歩、3.5km歩いたことになっている。やっと、5000歩を超えたところ、去年徘徊を中断するまでは、1万歩近く歩いていたのだから、回復するまではまだまだ時間がかかりそうである。
野球場に沿った草むらの中に白い菖蒲(あやめ)か杜若(かきつばた)らしきものが咲いている。「いずれ菖蒲か杜若」というが、アヤメの語源は剣状の細い葉が縦に並んでいる様子が文目(あやめ)模様であるから。または、花基部の網目模様からという説もあるようだ。カキツバタの語源は杜若の色(青紫)を染み出させ布などに書き付けた、つまり衣の染料に使われたことから「書付花」と呼ばれていたのが訛ったものといわれるのだそうだ。アヤメは畑地のような乾燥地で栽培するのに適し、カキツバタは水辺などの湿地帯に適するというから写真に収めた花は菖蒲(あやめ)に違いない。
テラスに降りて桜橋を潜ると正面に言問橋。おやおやこの前まで昔の橋灯が取り払われ、仮の橋灯が付けられていたのが、どうやらやっと新しい橋灯が取り付けられたらしい。これは、きっとスカイツリー効果に違いない。
今朝の新聞によると、昨夜はダイオード照明をすべて点灯させる初のライトアップ試験が行われたらしい。 今朝のウェブニュースより
「粋」に「雅」…スカイツリー初のライトアップ ―― 5月22日に開業する東京スカイツリー(東京都墨田区)で19日夜、塔に設置された計1995この発光ダイオード(LED)照明をすべて点灯させる初のライトアップ試験が行われた。/試験は午後7時頃から始まり、ツリーは「粋(いき)」と名付けられた隅田川をイメージした水色と、「雅(みやび)」と呼ばれる紫色に彩られた。/開業後は1日ごとに「粋」と「雅」の点灯を行う予定。 (2012年4月19日23時09分 読売新聞)
東坡志林 巻一 塗巷小兒聽說三國語
王彭嘗云:「塗巷中小兒薄劣、其家所厭苦、輒與錢、令聚坐聽說古話。至說三國事、聞劉玄德敗、顰蹙有出涕者;聞曹操敗、即喜唱快。以是知君子小人之澤、百世不斬。」彭、愷之子、為武吏、頗知文章、餘嘗為作哀辭、字大年。

〔訳〕《町家の子供と三国志の話》王彭(おうほう)がかつてこんな話をした…
「町家では子供たちの腕白なのに閉口して、金をやって昔話を聞きに行かせる。すると彼らは、三国時代の物語を面白がって聞き、劉玄徳が負けたと聞くと、しきりに眉をしかめ、涙を流すものさえある。また曹操が負けたと聞くと、嬉しがって痛快痛快とはやし立てるのである。これからみても君子と小人との影響は百世の後までも変わらぬことがわかる」
王彭は愷(がい)の子で、辜式(こしき)の吏である。相当に文章もわかる。私はかつて彼のために哀辞を描いてやったことがある。字は大年といった。
今朝の新聞によると、昨夜はダイオード照明をすべて点灯させる初のライトアップ試験が行われたらしい。 今朝のウェブニュースより
東坡志林 巻一 塗巷小兒聽說三國語
王彭嘗云:「塗巷中小兒薄劣、其家所厭苦、輒與錢、令聚坐聽說古話。至說三國事、聞劉玄德敗、顰蹙有出涕者;聞曹操敗、即喜唱快。以是知君子小人之澤、百世不斬。」彭、愷之子、為武吏、頗知文章、餘嘗為作哀辭、字大年。
「町家では子供たちの腕白なのに閉口して、金をやって昔話を聞きに行かせる。すると彼らは、三国時代の物語を面白がって聞き、劉玄徳が負けたと聞くと、しきりに眉をしかめ、涙を流すものさえある。また曹操が負けたと聞くと、嬉しがって痛快痛快とはやし立てるのである。これからみても君子と小人との影響は百世の後までも変わらぬことがわかる」
王彭は愷(がい)の子で、辜式(こしき)の吏である。相当に文章もわかる。私はかつて彼のために哀辞を描いてやったことがある。字は大年といった。
東坡志林 巻一 憶王子立
僕在徐州、王子立、子敏皆館於官舍、而蜀人張師厚來過、二王方年少、吹洞簫飲酒杏花下。明年、餘謫黃州、對月獨飲、嘗有詩云:「去年花落在徐州、對月酣歌美清夜。今日黃州見花發、小院閉門風露下。」蓋憶與二王飲時也。張師厚久已死、今年子立復為古人、哀哉!
〔訳〕《王子立を憶う》私が徐州にいたとき、王子立(おうしりゅう)・子敏(しびん)がいずれも官舎に下宿していた。そこへ蜀の人張師厚(ちょうしこう)が訪ねてきたので、まだ若かった王氏兄弟は洞簫〔どうしょう、尺八のようなもの〕を吹き、杏の花の下で酒を飲んだのだった。その翌年、私は黄州に流され、月に向かって独り飲み、こんな詩をつくった。
去年 花落ちて徐州にあり
月に対して酣歌し清夜を美(よみ)す
今日黄州に花の発(ひら)くを見る
小院 門を閉す 風露の下
これらは王兄弟と飲んだ時のことを思い出して作ったのである。
※徐州は今の江蘇省銅山県、蘇軾は煕寧10(1077)年、徐州の知事となって来任し、元豊2(1079)年まで在任、翌3年、黄州に流された。
月夜(げつや)客と杏花(きょうか)の下(もと)に飲む <蘇東坡(そとうは)>
杏花簾(れん)に飛んで 餘春(よしゅん)を散(さん)ず
明月(めいげつ)戸(こ)に入りて 幽人(ゆうじん)を尋(たず)ぬ
衣(い)を褰(かか)げ月に歩(ほ)して 花影(かえい)を踏(ふ)めば
炯(けい)として流水の 青蘋(せいひん)を涵(ひた)すが如し
花閒(かかん)に酒を置けば 清香(せいこう)發(はつ)し
爭(いか)でか長條(ちょうじょう)を挽(ひ)きて 香雪(こうせつ)を落とさん
山城(さんじょう)酒薄く 飲むに堪(た)えざらん
君に勸(すす)む且(しばら)く吸(す)え 杯中(はいちゅう)の月
洞簫(どうしょう)聲(こえ)は斷(た)ゆ月明の中(うち)
惟(た)だ憂(うれ)う月落ちて 酒杯の空(むな)しからんを
明朝(みょうちょう)地を捲(ま)いて 春風(しゅんぷう)惡(あ)しくば
但(ただ)だ見(み)ん綠葉(りょくよう)の 殘紅(ざんこう)を棲(す)ましむるを
〔訳〕すだれにはらはらとふりかかる杏の花びらに、のこりの春の散らされてゆく今宵――
戸口からさしこむ明月が、世をわびて住まう主の客人(まろうど)となった。
庭に歩み出た私は、思わず衣のすそをかかげて、地上にちらついている花影の中に踏みこんだ。
その影はあまりにくっきりと鮮かで、青い浮草が、
流水のひたひたとよせる波にもてあそばれているさま、さながらであったからである。
杏の樹の花かげに酒を汲めば、酒から清らかな香りが漂ってくる。
なにも杏の樹の長い枝を手でたわめて、香りたかい雪のような花弁を杯中に落すことはない。
それにしても山あいのまちの酒はうすくてお口にあうまいから、
君にはまあ杯中の月を飲んでいただこう。
(洞簫を吹いていた兄弟も杯をとった)洞簫の音がぴたっとやんだ。
あとに残るのは、しらじらとさえわたる月光ばかり。
そうだ、いずれ月も落ち酒杯も傾けつくすときがくる。
その時味わわねばならぬ空しさが今から気がかりだ。
明朝、春につきもののいとわしい強風が、砂塵をまきあげて吹きまくるなら、
この杏の樹ももう、散り残った紅の花が、いきおいのよい緑の葉の中に、
遠慮ぎみにすみかを与えられているにすぎないであろう。
※この詩は、作者が元豊(げんぽう)2(1079)年の春、徐州にいた時の作で、蘇東坡の官舎に寄寓していた王子立(おうしりつ)・王子敏(おうしびん)の兄弟と、蜀から来た客の張師厚(ちょうしこう)の3人とともに、春の夜、花間で酒盛りをしたことを歌ったものであるという。
僕在徐州、王子立、子敏皆館於官舍、而蜀人張師厚來過、二王方年少、吹洞簫飲酒杏花下。明年、餘謫黃州、對月獨飲、嘗有詩云:「去年花落在徐州、對月酣歌美清夜。今日黃州見花發、小院閉門風露下。」蓋憶與二王飲時也。張師厚久已死、今年子立復為古人、哀哉!
去年 花落ちて徐州にあり
月に対して酣歌し清夜を美(よみ)す
今日黄州に花の発(ひら)くを見る
小院 門を閉す 風露の下
これらは王兄弟と飲んだ時のことを思い出して作ったのである。
※徐州は今の江蘇省銅山県、蘇軾は煕寧10(1077)年、徐州の知事となって来任し、元豊2(1079)年まで在任、翌3年、黄州に流された。
杏花簾(れん)に飛んで 餘春(よしゅん)を散(さん)ず
明月(めいげつ)戸(こ)に入りて 幽人(ゆうじん)を尋(たず)ぬ
衣(い)を褰(かか)げ月に歩(ほ)して 花影(かえい)を踏(ふ)めば
炯(けい)として流水の 青蘋(せいひん)を涵(ひた)すが如し
花閒(かかん)に酒を置けば 清香(せいこう)發(はつ)し
爭(いか)でか長條(ちょうじょう)を挽(ひ)きて 香雪(こうせつ)を落とさん
山城(さんじょう)酒薄く 飲むに堪(た)えざらん
君に勸(すす)む且(しばら)く吸(す)え 杯中(はいちゅう)の月
洞簫(どうしょう)聲(こえ)は斷(た)ゆ月明の中(うち)
惟(た)だ憂(うれ)う月落ちて 酒杯の空(むな)しからんを
明朝(みょうちょう)地を捲(ま)いて 春風(しゅんぷう)惡(あ)しくば
但(ただ)だ見(み)ん綠葉(りょくよう)の 殘紅(ざんこう)を棲(す)ましむるを
〔訳〕すだれにはらはらとふりかかる杏の花びらに、のこりの春の散らされてゆく今宵――
戸口からさしこむ明月が、世をわびて住まう主の客人(まろうど)となった。
庭に歩み出た私は、思わず衣のすそをかかげて、地上にちらついている花影の中に踏みこんだ。
その影はあまりにくっきりと鮮かで、青い浮草が、
流水のひたひたとよせる波にもてあそばれているさま、さながらであったからである。
杏の樹の花かげに酒を汲めば、酒から清らかな香りが漂ってくる。
なにも杏の樹の長い枝を手でたわめて、香りたかい雪のような花弁を杯中に落すことはない。
それにしても山あいのまちの酒はうすくてお口にあうまいから、
君にはまあ杯中の月を飲んでいただこう。
(洞簫を吹いていた兄弟も杯をとった)洞簫の音がぴたっとやんだ。
あとに残るのは、しらじらとさえわたる月光ばかり。
そうだ、いずれ月も落ち酒杯も傾けつくすときがくる。
その時味わわねばならぬ空しさが今から気がかりだ。
明朝、春につきもののいとわしい強風が、砂塵をまきあげて吹きまくるなら、
この杏の樹ももう、散り残った紅の花が、いきおいのよい緑の葉の中に、
遠慮ぎみにすみかを与えられているにすぎないであろう。
※この詩は、作者が元豊(げんぽう)2(1079)年の春、徐州にいた時の作で、蘇東坡の官舎に寄寓していた王子立(おうしりつ)・王子敏(おうしびん)の兄弟と、蜀から来た客の張師厚(ちょうしこう)の3人とともに、春の夜、花間で酒盛りをしたことを歌ったものであるという。
東坡志林 巻一 儋耳夜書
己卯上元、餘在儋耳、有老書生數人來過、曰:「良月佳夜、先生能一出乎?」予欣然從之。步城西、入僧舍、歷小巷、民夷雜揉、屠酤紛然、歸舍已三鼓矣。舍中掩關熟寢、已再鼾矣。放杖而笑、孰為得失?問先生何笑;蓋自笑也、然亦笑韓退之釣魚無得、更欲遠去。不知釣者、未必得大魚也。
〔訳〕《儋耳(たんじ)の夜》己卯の年〔元符二(1098)年〕の上元節の日〔正月十五日〕に私は儋耳〔たんじ、海南省海口市(海南島北西部)、蘇軾はこの流謫地に前後3年いた〕にいた。老書生が数人私のもとにやって来て、
「いい月夜です。先生、ちょっと散歩にいらっしゃいませんか」という。私は喜んでついて行った。
ぶらぶら城西を歩き、僧舎に入り、狭い横道を通った。漢人と蛮人が雑居し、肉屋やら酒店やらがごたごたに並んでいた。宿に帰ったのはもう三鼓〔十二時〕過ぎていた。宿の人々は水門を締めて、もう高鼾で寝ていた。私は杖をおいて笑った。どっちが得だか損だかと思ったからである。
「先生、何をお笑いですか」と聞かれたが、つまり自分で自分を笑ったのである。しかしまた韓退之の
「魚を釣りにいって連れなければ、もっと遠方まで行くがよい」という意味の詩をを笑ったものでもあった。というのが、いくら遠方まで出かけたところで、必ずしも大きな魚が釣れるとは限らないからである。
※韓愈の『贈侯喜』という詩の最後の部分に「君欲釣魚須遠去、大魚豈肯居沮洳〔君魚を釣らんと欲せばすべからく遠く去るべし、大魚豈肯えて沮洳〔そじょ、泥沼〕に居らんや〕」とある。
春夜 宋 蘇軾
春宵一刻値千金、 春宵(しゅんせう)一刻 値(あたひ)千金、
花有淸香月有陰。 花に淸香有り 月に陰(かげ)有り。
歌管樓臺聲細細、 歌管(かくゎん)樓臺(ろうだい)
聲(こゑ)細細(さいさい)、
鞦韆院落夜沈沈。 鞦韆(しうせん)院落(ゐんらく)
夜(よる)沈沈(ちんちん)。
〔訳〕春の夜はほんのわずかな時間が
千金もの値打ちある、
花には清らかな香りがただよっており、
月はおぼろにかすみ、
なんともいえぬ風情である。
先ほどまで歌を歌ったり、楽器を奏したりして、
にぎやかだった高殿も、
今はかすかに聞こえるばかり、
中庭には、置き捨てられたぶらんこが一つ。
夜は静かにふけていく。
己卯上元、餘在儋耳、有老書生數人來過、曰:「良月佳夜、先生能一出乎?」予欣然從之。步城西、入僧舍、歷小巷、民夷雜揉、屠酤紛然、歸舍已三鼓矣。舍中掩關熟寢、已再鼾矣。放杖而笑、孰為得失?問先生何笑;蓋自笑也、然亦笑韓退之釣魚無得、更欲遠去。不知釣者、未必得大魚也。
「いい月夜です。先生、ちょっと散歩にいらっしゃいませんか」という。私は喜んでついて行った。
ぶらぶら城西を歩き、僧舎に入り、狭い横道を通った。漢人と蛮人が雑居し、肉屋やら酒店やらがごたごたに並んでいた。宿に帰ったのはもう三鼓〔十二時〕過ぎていた。宿の人々は水門を締めて、もう高鼾で寝ていた。私は杖をおいて笑った。どっちが得だか損だかと思ったからである。
「先生、何をお笑いですか」と聞かれたが、つまり自分で自分を笑ったのである。しかしまた韓退之の
「魚を釣りにいって連れなければ、もっと遠方まで行くがよい」という意味の詩をを笑ったものでもあった。というのが、いくら遠方まで出かけたところで、必ずしも大きな魚が釣れるとは限らないからである。
※韓愈の『贈侯喜』という詩の最後の部分に「君欲釣魚須遠去、大魚豈肯居沮洳〔君魚を釣らんと欲せばすべからく遠く去るべし、大魚豈肯えて沮洳〔そじょ、泥沼〕に居らんや〕」とある。
春夜 宋 蘇軾
春宵一刻値千金、 春宵(しゅんせう)一刻 値(あたひ)千金、
花有淸香月有陰。 花に淸香有り 月に陰(かげ)有り。
歌管樓臺聲細細、 歌管(かくゎん)樓臺(ろうだい)
聲(こゑ)細細(さいさい)、
鞦韆院落夜沈沈。 鞦韆(しうせん)院落(ゐんらく)
夜(よる)沈沈(ちんちん)。
千金もの値打ちある、
花には清らかな香りがただよっており、
月はおぼろにかすみ、
なんともいえぬ風情である。
先ほどまで歌を歌ったり、楽器を奏したりして、
にぎやかだった高殿も、
今はかすかに聞こえるばかり、
中庭には、置き捨てられたぶらんこが一つ。
夜は静かにふけていく。
昨日15日の日曜日、新婚のkazu・eri夫妻が淺草を訪ねてくれた。午前10時に雷門で待ち合わせと決まった。足のほうはまだ快(よ)くなってはいない。家から、裏道を通って、二天門を潜り五重塔前まで来るとどうにも歩けなくなり、婆様だけを、雷門まで二人を迎えに遣(や)らす。爺は五重塔の前で待つことにして、婆様が本堂を案内する。まだ午前10時過ぎだというのに、境内は人ごみでごった返している。今日は五重塔の参詣日であるから、昨年暮れ亡くなったeriちゃんの祖母様の両親(この爺の両親でもあるが)の位牌にお参りする。塔内を一巡して、影向堂(ようごどう)にお参りする。Kazu君がハーバード大学の大学院に入学するため、これから2年間、アメリカはボストンで生活する二人の無事を祈って、二人の干支(えと)である、戌年の守り本尊阿弥陀如来と酉年の守り本尊不動明王のお守りを買って、持って貰うことにした。昼飯後、隅田公園を川沿いに家までとも思ったのであるが、どうにもこの爺の足と腰が思うようにならないので、松屋前から北めぐりんに乗って、帰宅した。家でアルバムを見たり、eriちゃんのお祖母ちゃん(この爺のアネサマ)の話をしたりした後、二人は爺の家を辞して帰って行った。
二人が帰って、しばらくすると塾友のsekiちゃんから電話があり、訪ねてくれた。彼は来月5月からタイに赴任することになり、しばし日本をあとにするということで、その挨拶に来た。彼の勤務先の会社のタイの工場がこのたびのタイの大洪水のため水没し、その復旧の使命でタイに出向することになったという。4・5年はタイで勤務することになるので「ご挨拶」にということであった。
いやはや、爺の若い頃に比べれば、世界は狭くなったものだ。若者達よ、人生は一度だけ、失敗を怖れず思う存分羽ばたくがいい。さすれば、前途は開けて行くものだ。
東坡志林 巻一 記遊松風亭
餘嘗寓居惠州嘉祐寺、縱步松風亭下、足力疲乏、思欲就林止息。望亭宇尚在木末、意謂是如何得到?良久忽曰:「此間有甚麼歇不得處!」由是如掛鉤之魚、忽得解脫。若人悟此、雖兵陣相接、皷聲如雷霆、進則死敵、退則死法、當甚麼時也不妨熟歇。
「ここにだって何も休める場所がないわけではない」
そう思うと、あたかも釣り糸にかかって魚が、急にするりと逃げ出せたような気持ちであった。もし人がこのことを悟ったならば、たとえ兵陣相接し、鼓声雷のごとく、進めば敵に殺されるし、退けば死刑に処せられるという、切羽づまった場合でも、何時だってゆっくり休息できるはずである。
※紹聖元(1094)年、蘇軾は新法に反対したため、十月にこの地に流され、嘉祐寺に住んでいたという。
東坡志林 巻一 遊沙湖
黃州東南三十里為沙湖、亦曰螺師店、予買田其間。因往相田得疾、聞麻橋人龐安常善醫而聾、遂往求療。安常雖聾、而穎悟絕人、以紙畫字、書不數字、輒深了人意。餘戲之曰:「餘以手為口、君以眼為耳、皆一時異人也。」疾愈、與之同遊清泉寺。寺在蘄水郭門外二里許、有王逸少洗筆泉、水極甘、下臨蘭溪、溪水西流。餘作歌云:「山下蘭芽短浸溪、鬆間沙路淨無泥、蕭蕭暮雨子規啼。誰道人生無再少? 君看流水尚能西、休將白髮唱黃雞。」是日劇飲而歸。
〔訳〕《沙湖に遊ぶ》黄州の東南三十里に沙湖というところがある。螺師店(らしてん)ともいう。私はその地に田を買い、その田を見に行って病気にかかった。麻橋に龐安常(ほうあんじょう)という人がいて、聾(つんぼ)だか上手な医者だと聞いたので、治療を求めていった。常安は聾だけれども非常に頭がよくて、紙に字を書いて、幾字も書かぬ内にすぐ人の言おうとすることを察するのであった。私はふざけて言った。
「私は手を口とするし、君は目を耳とする。どちらも変わった人間だね」
病気が治ると、彼と一緒に清泉寺に遊んだ。その寺は蘄水県〔きすいけん、今の湖北省キ(氵+希)水県。黄州の東百里たらずのところにある〕の郭門外二里ほどのところにあり、王逸少〔303~361年、晋の書家王羲之〕の洗筆泉(せんひつせん)がある。水は極めて甘い。下は蘭渓に臨み、その水は西に流れている。私は次のような詩を作った。
山下 蘭芽短く 渓に浸(ひた)り
松間の沙路 淨(きよ)くして泥無し
蕭々(しょうしょう)たる暮雨 子規啼く
誰か道う 人生再び少(わか)きこと無しと
君看(み)よ 流水なお能く西す
白髪を将(もっ)て黄雞を唱うこと休れ
この日は大いに飲んで帰った。
※漢の『楽府詩集』の「長歌行」に「百川東到海、何時復西歸。少壯不努力、老大徒傷悲。〔すべての川の東して海に注げば、再び西に帰ることはなし、若い時代(とき)に励んでおかねば、歳とって悲しみをかこつことになろう〕」とあるに拠り、しかし、この蘭渓の水は西に流れているではないかという意であり、さらになにも白髪頭になったからといって嘆くことは無いといっているのである。
東坡志林 巻三 參寥求醫
龐安常為醫、不志於利、得善書古畫、喜輒不自勝。九江胡道士、頗得其術、與予用藥、無以酬之、為作行草數紙而已、且告之曰、「此安常故事、不可廢也。」參寥子病、求醫於胡、自度無錢、且不善書畫、求予甚急。予戲之曰、「子粲(三祖僧璨大師)、可(無可)、皎(皎然)、徹(靈徹)之徒、何不下轉語作兩首詩乎?龐、胡二君與吾輩遊、不日索我於枯魚之肆矣。」
〔訳〕《參寥子が医者を求める》龐安は常に医療を施すにあたり、その志は利益を得ることには無く、善い書画を手に得たいと望み、(逸品に出会うと)喜んで欲しいとおもう気持ちを抑えられなかった。九江湖の道士は其の術に大変優れていて、私に用いる藥を与えてくれ、その報酬を求めず、(報酬の代わりに)数枚の紙に行草の書を書かせたのみだった。そうしてこう告げた「この龐安にとっては、いつもしてきたことです、やめられません。」參寥子が病気になり、医者を胡に求めたが、どうやっても金錢が無く、また書画も自分ではうまく書けずに、たいへん急いで私に(書いてくれと)求めてきた。私は戲れてこう言った「子粲よ、明晰で、すべてに堪能なお方よ、どうして言葉を操って詩文を作ってあげないのかい?」龐、胡の二人と吾輩は、遊んで意地悪をした。彼は莊子のように「(今水をくれないのなら)魚の乾物屋の店で私をお探しください」とは言わなかった。
※參寥子〔さんりょうし、生没年不詳〕:釈道潜(しゃくどうせん)は、北宋後期の著名な詩僧。生没年不詳。おおよそ宋の神宗・哲宗・徽宗の時代に生きていた。本名は曇潜、参寥子は号、俗姓は何。於潜(浙江省臨安の西)の人。蘇軾、秦観らと唱和の詩がある。詩風は清新、風雅で、成就は大変高い。
臨平道中 釈道潜 (北宋)
風蒲猟猟弄軽柔 蒲を風(ふ)くこと猟猟として 軽柔を弄(もてあそ)び
欲立蜻蜓不自由 立たんと欲する蜻蜓(せいてい) 自由ならず
五月臨平山下路 五月 臨平山下の路(みち)
藕花無数満汀洲 藕花 無数 汀洲に満つ
〔訳〕 《臨平山の道中にて》
風に吹かれている蒲は、
さらさらと軽く柔らかな葉をそよがせている。
トンボが葉にとまろうとしているが、
揺れているので思うように行かない。
真夏、五月の臨平山のふもとの道では、
ハスの花が数知れず、水際一面に咲いている。
黃州東南三十里為沙湖、亦曰螺師店、予買田其間。因往相田得疾、聞麻橋人龐安常善醫而聾、遂往求療。安常雖聾、而穎悟絕人、以紙畫字、書不數字、輒深了人意。餘戲之曰:「餘以手為口、君以眼為耳、皆一時異人也。」疾愈、與之同遊清泉寺。寺在蘄水郭門外二里許、有王逸少洗筆泉、水極甘、下臨蘭溪、溪水西流。餘作歌云:「山下蘭芽短浸溪、鬆間沙路淨無泥、蕭蕭暮雨子規啼。誰道人生無再少? 君看流水尚能西、休將白髮唱黃雞。」是日劇飲而歸。
「私は手を口とするし、君は目を耳とする。どちらも変わった人間だね」
病気が治ると、彼と一緒に清泉寺に遊んだ。その寺は蘄水県〔きすいけん、今の湖北省キ(氵+希)水県。黄州の東百里たらずのところにある〕の郭門外二里ほどのところにあり、王逸少〔303~361年、晋の書家王羲之〕の洗筆泉(せんひつせん)がある。水は極めて甘い。下は蘭渓に臨み、その水は西に流れている。私は次のような詩を作った。
山下 蘭芽短く 渓に浸(ひた)り
松間の沙路 淨(きよ)くして泥無し
蕭々(しょうしょう)たる暮雨 子規啼く
誰か道う 人生再び少(わか)きこと無しと
君看(み)よ 流水なお能く西す
白髪を将(もっ)て黄雞を唱うこと休れ
この日は大いに飲んで帰った。
※漢の『楽府詩集』の「長歌行」に「百川東到海、何時復西歸。少壯不努力、老大徒傷悲。〔すべての川の東して海に注げば、再び西に帰ることはなし、若い時代(とき)に励んでおかねば、歳とって悲しみをかこつことになろう〕」とあるに拠り、しかし、この蘭渓の水は西に流れているではないかという意であり、さらになにも白髪頭になったからといって嘆くことは無いといっているのである。
東坡志林 巻三 參寥求醫
龐安常為醫、不志於利、得善書古畫、喜輒不自勝。九江胡道士、頗得其術、與予用藥、無以酬之、為作行草數紙而已、且告之曰、「此安常故事、不可廢也。」參寥子病、求醫於胡、自度無錢、且不善書畫、求予甚急。予戲之曰、「子粲(三祖僧璨大師)、可(無可)、皎(皎然)、徹(靈徹)之徒、何不下轉語作兩首詩乎?龐、胡二君與吾輩遊、不日索我於枯魚之肆矣。」
〔訳〕《參寥子が医者を求める》龐安は常に医療を施すにあたり、その志は利益を得ることには無く、善い書画を手に得たいと望み、(逸品に出会うと)喜んで欲しいとおもう気持ちを抑えられなかった。九江湖の道士は其の術に大変優れていて、私に用いる藥を与えてくれ、その報酬を求めず、(報酬の代わりに)数枚の紙に行草の書を書かせたのみだった。そうしてこう告げた「この龐安にとっては、いつもしてきたことです、やめられません。」參寥子が病気になり、医者を胡に求めたが、どうやっても金錢が無く、また書画も自分ではうまく書けずに、たいへん急いで私に(書いてくれと)求めてきた。私は戲れてこう言った「子粲よ、明晰で、すべてに堪能なお方よ、どうして言葉を操って詩文を作ってあげないのかい?」龐、胡の二人と吾輩は、遊んで意地悪をした。彼は莊子のように「(今水をくれないのなら)魚の乾物屋の店で私をお探しください」とは言わなかった。
※參寥子〔さんりょうし、生没年不詳〕:釈道潜(しゃくどうせん)は、北宋後期の著名な詩僧。生没年不詳。おおよそ宋の神宗・哲宗・徽宗の時代に生きていた。本名は曇潜、参寥子は号、俗姓は何。於潜(浙江省臨安の西)の人。蘇軾、秦観らと唱和の詩がある。詩風は清新、風雅で、成就は大変高い。
臨平道中 釈道潜 (北宋)
風蒲猟猟弄軽柔 蒲を風(ふ)くこと猟猟として 軽柔を弄(もてあそ)び
欲立蜻蜓不自由 立たんと欲する蜻蜓(せいてい) 自由ならず
五月臨平山下路 五月 臨平山下の路(みち)
藕花無数満汀洲 藕花 無数 汀洲に満つ
風に吹かれている蒲は、
さらさらと軽く柔らかな葉をそよがせている。
トンボが葉にとまろうとしているが、
揺れているので思うように行かない。
真夏、五月の臨平山のふもとの道では、
ハスの花が数知れず、水際一面に咲いている。
昨日は、パソコンのご機嫌が悪く、外から来たメールが届かず、メールボックス内のメールを削除したにもかかわらず、
「メールが送信者に送り返されました。/送り返されたのは以下のメールです。
送信者: = ■■■■ 件名: = ■■■■ 日時:Sun Apr 8 22:03:41 2012
メールボックス内のメールを削除したのち、送信者に再送を依頼してください。
不要なメールをメールボックスから削除するには、WebMailを利用します。
WebMailにログインして不要なメールを削除し、ごみ箱を空にしてください。」との表示が出る。
WebMailにログインするなんて、どのようにしてよいか解らぬ。
塾友のMN君に電話して尋ねると、一度j-com に見てもらったがいいということ。
今朝、j-comにFAXを入れ、担当者に電話して留守電にコメントを入れておくも、夕方4時近くになってもなしのつぶて。
あらあら不思議、横浜のN氏が心配して入れてくれたメールがちゃんと届いているではないか。
自分の携帯で自分のパソコンに写真入のメールをしてみだら、ちゃんと入るではないか。まったく狐につつまれたよう。

今日は旧暦3月19日、早朝隅田公園の隅田川沿いに吾妻橋~桜橋の間を歩いてみた。痛い足を引きずりながら、休み休み歩いた歩数は携帯の表示によれば、4800歩ばかり。満開の桜の間に19日の月が美しい。アハハ、月見で一杯、桜で一杯まさしくテッポウじゃ。こいつは朝から縁起がエエわい。テラスにおりて、桜橋まで引き返す。久し振りにご来光を見た。
「メールが送信者に送り返されました。/送り返されたのは以下のメールです。
送信者: = ■■■■ 件名: = ■■■■ 日時:Sun Apr 8 22:03:41 2012
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不要なメールをメールボックスから削除するには、WebMailを利用します。
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WebMailにログインするなんて、どのようにしてよいか解らぬ。
塾友のMN君に電話して尋ねると、一度j-com に見てもらったがいいということ。
今朝、j-comにFAXを入れ、担当者に電話して留守電にコメントを入れておくも、夕方4時近くになってもなしのつぶて。
あらあら不思議、横浜のN氏が心配して入れてくれたメールがちゃんと届いているではないか。
自分の携帯で自分のパソコンに写真入のメールをしてみだら、ちゃんと入るではないか。まったく狐につつまれたよう。
釈迦(ゴータマ・シッダッタ)が旧暦の4月8日に生まれたという伝承に基づいて、今日は潅仏会――花まつり――とされる。お釈迦様の誕生日である。
玄奘(げんじょう)の旅行記 大唐西域記 巻六の 劫比羅伐窣堵国(カピラヴァストウこく)の記に、仏陀生誕の聖跡について記してある。曰く、
「灵神冥衛多蒙痊愈箭泉东北行八九十里至臘伐尼林。有释種浴池。澄清皎镜雜华彌漫。其北二十四五步有无憂华樹。今已枯悴。菩薩诞灵之处。菩薩以吠舍佉月后半八日。当此三月八日。上座部则曰。以吠舍佉月后半十五日。当此三月十五日。次东窣堵波。无憂王所建。二龙浴太子处也。菩薩生已不扶而行于四方各七步。而自言曰。天上天下唯我独尊。今茲而往生分已尽。隨足所蹈出大蓮花。二龙踊出住虛空中而各吐水。一冷一煖以浴太子。浴太子窣堵波东有二清泉。傍建二窣堵波。是二龙從地踊出之处。菩薩生已支属宗亲莫不奔驰求水盥浴。夫人之前二泉涌出。一冷一煖遂以浴洗。其南窣堵波。是天帝释捧接菩薩处。菩薩初出胎也。天帝释以妙天衣跪接菩薩。次有四窣堵波。是四天王抱持菩薩处也。菩薩從右脅生已。四大天王以金色毡衣捧菩薩置金机上。至母前曰。夫人诞斯福子诚可欢庆。諸天尚喜况世人乎。」
〔訳〕箭泉〔せんせん、釈迦競技の旧跡〕より北東へ行くこと八、九十里で臘伐尼(ルンビニー)林に至る。釈種が水浴する池がある。水は清く鏡のようにとりどりの花は咲き乱れている。その北二十四、五歩の所に無憂華樹(むゆうげじゅ)があるが、いまはもう涸れてしまっている。菩薩が降誕された処である。菩薩は吠舎佉(ヴァイシャーカ)月〔二月〕の後半の八日に生まれられた。この〔中国の〕三月八日に当たる。上座部では吠舎佉月の後半の十五日であるという。これは〔中国の〕三月十五日に当たる。東隣の窣堵波〔stūpa〕は無憂王〔アショカ王、在位:BC268?~232?年頃〕が建てたものである。二匹の竜が太子ら水浴ざせた処である。菩薩は生まれられるや、手助けなくして四方に行かれること各七歩されて、自ら、「天上天下、唯我のみ独り尊し。今より以後、私の持ち前の生はもはや尽くした〔これが最後身であり、今後は輪廻転生(りんねてんしょう)することはない〕。」と言われた。足の踏むにつれ大きな蓮の花でて、二匹の竜が踊り出てきて虚空に止まり、それぞれ水を吐いた。一はつめたく、一は暖かく、その水で太子を浴(ゆあみ)したてまつったのである。浴太子窣堵波の東に二つの清い泉があり、傍に二つの窣堵波が建ててある。二匹の竜が地中より踊り出た処である。菩薩が生まれられるや親族縁者はみな走り回り水を求めて浴させようとした。〔すると〕夫人の前に二つの泉が湧き出てきた。一は冷たく、一は暖かかった。それで身を洗われたのである。その南の窣堵波は、帝釈天が菩薩を捧げ受けた処である。菩薩が始めて胎内をでられるや、帝釈天は微妙な天衣で菩薩を跪き受けた。その隣に四つの窣堵波がある。四天王が菩薩を抱きまいらせた処である。菩薩が〔麻耶夫人の〕右脇から生まれるや、四天王は金色の氎衣(ちょうい)で菩薩を捧げ、金机の上に安置し、母の前に進み出て、「夫人がこの福徳備われるお子様をお生みになりましたことは、誠に慶賀すべきことであります。諸天人も喜んでいます。ましてこの世の人の喜びはいうまでもありません」と言った。
※臘伐尼林:ルンビニー(梵語のLumbiniの音写)園のこと。釈迦誕生の地。父浄飯王の迦毘羅(かびら)城と母摩耶夫人の郷里天臂(てんぴ)城との間にあった林苑。現在のネパール南西部、インドとの国境近くのタライ地方にあるルンミンディ村。
※無憂花樹:『因果経』に「夫人は彼の園内に一大樹あるを見る。名付けて無憂と言う。花色香鮮、枝葉分布し、極めて茂盛となす。即ち右手を挙げてこれを牽摘せんと欲するに、菩薩は漸漸に右脇より出づ」とある。
※釈尊の生年月日については異説が多い。南方伝により最近の南アジア仏教諸国はBC544年仏滅とするが、学問的には承認されない。従来は北方伝中の一説によりBC565年降誕、BC486年仏滅とされてきた。学問的にはBC463年降誕、BC383年仏滅という一つの推測がされている。生誕の日も『西域記』所伝のものの他に、二月八日説、四月七日説、四月八日説などがある。
※釈迦降誕時の状を『因果経』に「菩薩漸漸右脇より出づ。時に樹下にも亦七宝七茎の蓮花生ず。大なること車輪の如し。菩薩即便(すなわ)地蓮花上に堕ち、扶持する者なくして自ら行くこと七歩、その右手を挙げて師子吼(ししく)す。『我は一切の天人の中において最尊最勝なり。無量の生死、今において尽きんとす。此の生は一切の人天を利益せん』と。この言を説き已(おわ)るや、時に四天王は即ち天繒(てんそう)を以って太子の身を接(う)け宝机上に置く。釈提桓因は手に宝蓋を執り、大梵天王は又、白払を持ち、左右に侍立す。難陀竜王・優波難陀竜王は虚空中より清浄水を吐くに、一は温、一は涼にして太子の身を灌ぐ」とある。
「灵神冥衛多蒙痊愈箭泉东北行八九十里至臘伐尼林。有释種浴池。澄清皎镜雜华彌漫。其北二十四五步有无憂华樹。今已枯悴。菩薩诞灵之处。菩薩以吠舍佉月后半八日。当此三月八日。上座部则曰。以吠舍佉月后半十五日。当此三月十五日。次东窣堵波。无憂王所建。二龙浴太子处也。菩薩生已不扶而行于四方各七步。而自言曰。天上天下唯我独尊。今茲而往生分已尽。隨足所蹈出大蓮花。二龙踊出住虛空中而各吐水。一冷一煖以浴太子。浴太子窣堵波东有二清泉。傍建二窣堵波。是二龙從地踊出之处。菩薩生已支属宗亲莫不奔驰求水盥浴。夫人之前二泉涌出。一冷一煖遂以浴洗。其南窣堵波。是天帝释捧接菩薩处。菩薩初出胎也。天帝释以妙天衣跪接菩薩。次有四窣堵波。是四天王抱持菩薩处也。菩薩從右脅生已。四大天王以金色毡衣捧菩薩置金机上。至母前曰。夫人诞斯福子诚可欢庆。諸天尚喜况世人乎。」
〔訳〕箭泉〔せんせん、釈迦競技の旧跡〕より北東へ行くこと八、九十里で臘伐尼(ルンビニー)林に至る。釈種が水浴する池がある。水は清く鏡のようにとりどりの花は咲き乱れている。その北二十四、五歩の所に無憂華樹(むゆうげじゅ)があるが、いまはもう涸れてしまっている。菩薩が降誕された処である。菩薩は吠舎佉(ヴァイシャーカ)月〔二月〕の後半の八日に生まれられた。この〔中国の〕三月八日に当たる。上座部では吠舎佉月の後半の十五日であるという。これは〔中国の〕三月十五日に当たる。東隣の窣堵波〔stūpa〕は無憂王〔アショカ王、在位:BC268?~232?年頃〕が建てたものである。二匹の竜が太子ら水浴ざせた処である。菩薩は生まれられるや、手助けなくして四方に行かれること各七歩されて、自ら、「天上天下、唯我のみ独り尊し。今より以後、私の持ち前の生はもはや尽くした〔これが最後身であり、今後は輪廻転生(りんねてんしょう)することはない〕。」と言われた。足の踏むにつれ大きな蓮の花でて、二匹の竜が踊り出てきて虚空に止まり、それぞれ水を吐いた。一はつめたく、一は暖かく、その水で太子を浴(ゆあみ)したてまつったのである。浴太子窣堵波の東に二つの清い泉があり、傍に二つの窣堵波が建ててある。二匹の竜が地中より踊り出た処である。菩薩が生まれられるや親族縁者はみな走り回り水を求めて浴させようとした。〔すると〕夫人の前に二つの泉が湧き出てきた。一は冷たく、一は暖かかった。それで身を洗われたのである。その南の窣堵波は、帝釈天が菩薩を捧げ受けた処である。菩薩が始めて胎内をでられるや、帝釈天は微妙な天衣で菩薩を跪き受けた。その隣に四つの窣堵波がある。四天王が菩薩を抱きまいらせた処である。菩薩が〔麻耶夫人の〕右脇から生まれるや、四天王は金色の氎衣(ちょうい)で菩薩を捧げ、金机の上に安置し、母の前に進み出て、「夫人がこの福徳備われるお子様をお生みになりましたことは、誠に慶賀すべきことであります。諸天人も喜んでいます。ましてこの世の人の喜びはいうまでもありません」と言った。
※無憂花樹:『因果経』に「夫人は彼の園内に一大樹あるを見る。名付けて無憂と言う。花色香鮮、枝葉分布し、極めて茂盛となす。即ち右手を挙げてこれを牽摘せんと欲するに、菩薩は漸漸に右脇より出づ」とある。
※釈尊の生年月日については異説が多い。南方伝により最近の南アジア仏教諸国はBC544年仏滅とするが、学問的には承認されない。従来は北方伝中の一説によりBC565年降誕、BC486年仏滅とされてきた。学問的にはBC463年降誕、BC383年仏滅という一つの推測がされている。生誕の日も『西域記』所伝のものの他に、二月八日説、四月七日説、四月八日説などがある。
3月17日のブログで、大木あまりさんの俳句を角川の「俳句」3月号から写し取るのに、「踏青と いうは闘う 一歩かな」という句を「青踏と いうは闘う 一歩かな」としてしまった。どうやら、『闘う』の語に惑わされて平塚らいてう主幹の雑誌『青鞜』を思い出し、それに曳きづられて間違ってしまったらしい(どうやらこの瘋癲爺は青鞜の「鞜」も「踏」と覚えていたらしい。まったくアホな奴じゃ)。
昨日の 清明 の記事で書いたように、踏青は 「中国で、仲春から晩春にかけて行われる郊外の散歩、文字どおり青き草を踏む意である。初春の野に春をさぐる〈探春〉に次ぐ遊びであり、唐代以後、盛んになった。地方によっては、一定の日に行う行事となったが、一般には清明(せいめい)節前後、特に郊外への墓参の後、ついでに芳樹の下や桃や李(すもも)の咲く中で酒宴を開き、春の盛りの山野を楽しんだ。おそらく緑へのあこがれに基づく行事であろう。唐詩のなかに頻出する。」という。日本では「踏青」または「青き踏む」として俳句の春の季語となっている。
二月二日 李商隠
二月二日江上行 二月二日 江上(こうじょう)を行く
東風日暖聞吹笙 東風(とうふう) 日(ひ)暖かくして
吹笙(すいしょう)を聞く
花鬚柳眼各無頼 花鬚(かしゅ) 柳眼(りゅうがん)
各々(おのおの)無頼(ぶらい)
紫蝶黄蜂倶有情 紫蝶(しちょう) 黄蜂(こうほう)
倶(とも)に情(じょう)有り
万里憶帰元亮井 万里 帰るを憶(おも)う
元亮(げんりょう)の井(せい)
三年従事亜夫営 三年 事(こと)に従う
亜夫(あふ)の営(えい)
新灘莫悟遊人意 新灘(しんたん)は
遊人(ゆうじん)の意(い)を悟る莫(な)く
更作風簷雨夜声 更に作(な)す 風簷(ふうえん)雨夜(うや)の声
〔訳〕二月二日踏青の日 川のほとりを歩んでゆくと
日は暖かに春の風 笛の音も聞こえてくる
鬚(ひげ)のような花の蕊(しべ)
柳葉の目にも魅力があり
紫蝶も黄色の蜂も ともに愁いを含んでいる
陶淵明のように 故郷に思いを馳せながら
はや三年の日月を 周亜夫のもとで仕えてきた
新灘の早瀬の音は 旅人の心を解せず
夜の軒端の雨風の 音さながらに鳴っている
※ 李商隠(812~ 858年)は、晩唐の官僚政治家で、時代を代表する漢詩人。字は義山、号は玉谿生。また獺祭魚と呼ばれる。懐州河内(現・河南省沁陽市)の人。官僚としては不遇だったが、その妖艶で唯美的な詩風は高く評価されて多くの追随者を生み、北宋初期に一大流行を見る西崑体の祖となった。
青鞜(せいとう)は、明治44(1911)年9月から大正5(1916)年2月まで52冊発行された、女性による月刊誌。主に平塚らいてうが、末期だけ伊藤野枝(1895~1923年)が中心だった。
明治末の日本では、女性は良妻賢母が道であり、選挙権はなかった。治安警察法は女性の政治活動を禁じていたが、欧米ではフェミニズムが叫ばれ、それが日本にも伝えられていた。
生田長江〔いくたちょうこう、1882~1936年〕が平塚明(はる、当時25歳)に、女性だけの文芸誌の発行を勧め、迷う平塚を、日本女子大学の同窓、保持研子〔やすもちよしこ、1885~1947年、当時26歳〕が後押しした。知友を訪ねて誘い、2人と中野初子(25歳)、木内錠子(ていこ、24歳)、物集和子(もずめかずこ、23歳)が発起人となり、明治44(1911)年9月、『青鞜』を創刊した。一千部が、全国にはけたという。
『青鞜』の名は、生田長江がつけた。"Blue Stocking(ブルーストッキング)"の和訳であるという。Blue Stockingは、19世紀にロンドンで始まった黒でない綠の長靴下、転じて、趣味のいい婦人の意であるという。創業時の社員は、岩野清子(岩野泡鳴の内縁の妻)、茅野雅子、田村とし子、野上八重子、水野仙子ら18人、賛助員は、長谷川時雨、与謝野晶子、森しげ子(森鴎外の妻)、小金井喜美子、岡田八千代、国木田治子ら7人だった。社員は会費を納めた。そして平塚の母が資金を援助したという。
創刊号の表紙は、長沼智恵子が描き、巻頭を与謝野の詩が飾った。そして平塚が、『原始女性は太陽であった』に始まる創刊の辞を載せ、初めて「らいてう」の筆名を使ったという。
ブログ集20号が出来たので、いつもの方に発送するため、花川戸のクロネコ店まで出かけた。東武線の鉄橋のところから、隅田公園に入り、テラスを通って帰宅した。途中、ベンチに座って、携帯に書き込みの練習をした。宝塚在住のS氏にたどたどしく、メールを入れてみた。曰く、「クロネコヤマトメール便をだして、隅田川のテラスでメールを書いています。ブログ集20号は明後日にはそちらに着くでしょう。対岸の桜がきれいです。日高」
帰宅して、暫くすると携帯が鳴り、メールが入った。S氏からの返信に曰く、「いつもお気遣い戴き有難うございます。20号を楽しみにしております。 墨田の桜並木、さぞかしの眺めだと拝察しております。私の勝手ですが、年をとったせいでしょうが、満開の桜を見ながら、その美しさや優しさの中に、私の脳裏に刻まれた戦時中を思い起こしてしまいます。桜の花に例えながら、祖国を守ると言う使命の為に、散って行った先輩方の思いが忍ばれてなりません。本当に老いたと思います。現代の世相と調和しがたい今日この頃です。体調に留意してください。」
いやはや、携帯はすぐにメールを見ることが出来て、便利だかなれない入力に手間がかかる。パソコンのほうがブラインドタッチできるので早く入力できる。パソコンのメールを持っている方にはパソコンのメールを使わせてもらった。曰く、「本日「プログ集20」を発送しました。/どうも製本がうまくいかなくて、閉じテープが少々曲がっているものがありますが、ご勘弁下さい。/明後日には到着すると思います。/4月15日、待乳山本龍院大広間にて『「語座」安全特別公演』というのがあるそうです。私もどんなものかはよく存じませんが、宜しければ行って見ませんか。/
https://skydrive.live.com/?cid=d4b02dc0f18f0c92&id=D4B02DC0F18F0C92%21234
会場は僕ん家(ち)のすぐ近くで、同じ町内です。宜しかったらお知らせ下さい。/まずは、お知らせまで。
昨日の 清明 の記事で書いたように、踏青は 「中国で、仲春から晩春にかけて行われる郊外の散歩、文字どおり青き草を踏む意である。初春の野に春をさぐる〈探春〉に次ぐ遊びであり、唐代以後、盛んになった。地方によっては、一定の日に行う行事となったが、一般には清明(せいめい)節前後、特に郊外への墓参の後、ついでに芳樹の下や桃や李(すもも)の咲く中で酒宴を開き、春の盛りの山野を楽しんだ。おそらく緑へのあこがれに基づく行事であろう。唐詩のなかに頻出する。」という。日本では「踏青」または「青き踏む」として俳句の春の季語となっている。
二月二日 李商隠
二月二日江上行 二月二日 江上(こうじょう)を行く
東風日暖聞吹笙 東風(とうふう) 日(ひ)暖かくして
吹笙(すいしょう)を聞く
花鬚柳眼各無頼 花鬚(かしゅ) 柳眼(りゅうがん)
各々(おのおの)無頼(ぶらい)
紫蝶黄蜂倶有情 紫蝶(しちょう) 黄蜂(こうほう)
倶(とも)に情(じょう)有り
万里憶帰元亮井 万里 帰るを憶(おも)う
元亮(げんりょう)の井(せい)
三年従事亜夫営 三年 事(こと)に従う
亜夫(あふ)の営(えい)
新灘莫悟遊人意 新灘(しんたん)は
遊人(ゆうじん)の意(い)を悟る莫(な)く
更作風簷雨夜声 更に作(な)す 風簷(ふうえん)雨夜(うや)の声
日は暖かに春の風 笛の音も聞こえてくる
鬚(ひげ)のような花の蕊(しべ)
柳葉の目にも魅力があり
紫蝶も黄色の蜂も ともに愁いを含んでいる
陶淵明のように 故郷に思いを馳せながら
はや三年の日月を 周亜夫のもとで仕えてきた
新灘の早瀬の音は 旅人の心を解せず
夜の軒端の雨風の 音さながらに鳴っている
青鞜(せいとう)は、明治44(1911)年9月から大正5(1916)年2月まで52冊発行された、女性による月刊誌。主に平塚らいてうが、末期だけ伊藤野枝(1895~1923年)が中心だった。
明治末の日本では、女性は良妻賢母が道であり、選挙権はなかった。治安警察法は女性の政治活動を禁じていたが、欧米ではフェミニズムが叫ばれ、それが日本にも伝えられていた。
『青鞜』の名は、生田長江がつけた。"Blue Stocking(ブルーストッキング)"の和訳であるという。Blue Stockingは、19世紀にロンドンで始まった黒でない綠の長靴下、転じて、趣味のいい婦人の意であるという。創業時の社員は、岩野清子(岩野泡鳴の内縁の妻)、茅野雅子、田村とし子、野上八重子、水野仙子ら18人、賛助員は、長谷川時雨、与謝野晶子、森しげ子(森鴎外の妻)、小金井喜美子、岡田八千代、国木田治子ら7人だった。社員は会費を納めた。そして平塚の母が資金を援助したという。
帰宅して、暫くすると携帯が鳴り、メールが入った。S氏からの返信に曰く、「いつもお気遣い戴き有難うございます。20号を楽しみにしております。 墨田の桜並木、さぞかしの眺めだと拝察しております。私の勝手ですが、年をとったせいでしょうが、満開の桜を見ながら、その美しさや優しさの中に、私の脳裏に刻まれた戦時中を思い起こしてしまいます。桜の花に例えながら、祖国を守ると言う使命の為に、散って行った先輩方の思いが忍ばれてなりません。本当に老いたと思います。現代の世相と調和しがたい今日この頃です。体調に留意してください。」
いやはや、携帯はすぐにメールを見ることが出来て、便利だかなれない入力に手間がかかる。パソコンのほうがブラインドタッチできるので早く入力できる。パソコンのメールを持っている方にはパソコンのメールを使わせてもらった。曰く、「本日「プログ集20」を発送しました。/どうも製本がうまくいかなくて、閉じテープが少々曲がっているものがありますが、ご勘弁下さい。/明後日には到着すると思います。/4月15日、待乳山本龍院大広間にて『「語座」安全特別公演』というのがあるそうです。私もどんなものかはよく存じませんが、宜しければ行って見ませんか。/
https://skydrive.live.com/?cid=d4b02dc0f18f0c92&id=D4B02DC0F18F0C92%21234
会場は僕ん家(ち)のすぐ近くで、同じ町内です。宜しかったらお知らせ下さい。/まずは、お知らせまで。
プロフィール
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目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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