瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
夢渓筆談 巻17より 正午の牡丹
歐陽公嘗得一古畫牡丹叢、其下有一貓、未知其精粗。丞相正肅吳公與歐公姻家、一見曰:“此正午牡丹也。何以明之?其花披哆而色燥、此日中時花也;貓眼黑睛如線、此正午貓眼也。有帶露花、則房斂而色澤。貓眼早暮則睛圓、日漸中狹長、正午則如一線耳。”此亦善求古人心意也。
〔訳〕欧陽公〔欧陽脩〕が、かつて群り咲く牡丹の花の下に猫のいる古画を手に入れたが、それがどれほどよく描けているか判っていなかった。欧公と姻戚の丞相(じょうしょう)正肅(せいしゅく)呉公は一目見てこう言った。
「これは午後の牡丹ですな。なんでそれが判るかって。花が開ききり、しかも色がかわいている。これは日中の花です。猫の目のひとみの穴も糸のようになっている。これは正午の猫の目です。露をおびた花なら花ぶさがすぼまっているし色もつややか、猫の目も朝や晩にはひとみの穴はまんまる、正午に近づくにつれて細くせばまり、正午だけ一本の線のようになるのです」
いやまたよく古人の筆意をつかんだものだ。
※正肅呉公とは呉育〔1004~58年〕のことで、字は春卿、諡が正肅。宋の仁宗の時、資政殿大学士・尚書左丞となる。若い時から博学であったと言う。
夢渓筆談 巻17より 遠近法
李成畫山上亭館及樓塔之類、皆仰畫飛檐、其說以謂自下望上、如人平地望塔檐間、見其榱桷。此論非也。大都山水之法、蓋以大觀小、如人觀假山耳。若同真山之法、以下望上、只合見一重山、豈可重重悉見、兼不應見其溪谷間事。又如屋舍、亦不應見其中庭及後巷中事。若人在東立、則山西便合是遠境;人在西立、則山東卻合是遠境。似此如何成畫?李君蓋不知以大觀小之法、其間折高、折遠、自有妙理、豈在掀屋角也。
〔訳〕李成が画く山上の亭館(やかた)や楼塔(たかどの)のたぐいは、みな高い軒を仰ぎ見るように画いてある。下から上を望めば、人が平地で塔を見上げるように、軒のたるきまで見えるものだから、というのであるが、この論は間違っている。おおむね山水を画く法というものは、人が築山を見るように、実際には大きなものを、実際より小さく見取るものである。もしすべて本当の山の大きさの通りに山々を画く法を取って、下から上をのぞんだら、山がひとつ見えるだけで、重なり合う山々を見渡すことはおろか、谷あいのこまごましたものまで見えるわけはない。また家屋について、その中庭や屋敷の後ろまで見えるはずはない。もし人が東側に立てば山の西側は遠方に位置するものだし、西側に立てば山の東側が遠方になるもの。これをどのようにして画にすればよいか。李成は、大きなものを小さく見取る法〔遠近法を取り入れた鳥瞰(ちょうかん)図法〕を知らないのだ。屋根のすみをはねあげるなどということではなくて、高さを按排したり、遠近を安排するところに画のうまみがあるのだ。
※李成(りせい、919~967年頃)、字は咸熙(かんき)。五代、北宋初期の山水画家。青州〔現在の山東省濰坊〕の人。唐の宗室とも言われる。営丘に移り住んだ事から李営丘ともいう。北宋初期には范寬、関仝と並んで「三家鼎峙(ていじ)」とも言われ、多く淡墨の山水を描いて「惜墨如金」ともよばれ、夢霧の如しとも言われた。のち、郭煕〔かくき、1023?~1085?年〕などがその画風を継承し、李郭派と呼ばれた。「喬松平遠図」が伝世の中で最もよくその画風を伝えるとされる。
歐陽公嘗得一古畫牡丹叢、其下有一貓、未知其精粗。丞相正肅吳公與歐公姻家、一見曰:“此正午牡丹也。何以明之?其花披哆而色燥、此日中時花也;貓眼黑睛如線、此正午貓眼也。有帶露花、則房斂而色澤。貓眼早暮則睛圓、日漸中狹長、正午則如一線耳。”此亦善求古人心意也。
「これは午後の牡丹ですな。なんでそれが判るかって。花が開ききり、しかも色がかわいている。これは日中の花です。猫の目のひとみの穴も糸のようになっている。これは正午の猫の目です。露をおびた花なら花ぶさがすぼまっているし色もつややか、猫の目も朝や晩にはひとみの穴はまんまる、正午に近づくにつれて細くせばまり、正午だけ一本の線のようになるのです」
いやまたよく古人の筆意をつかんだものだ。
夢渓筆談 巻17より 遠近法
李成畫山上亭館及樓塔之類、皆仰畫飛檐、其說以謂自下望上、如人平地望塔檐間、見其榱桷。此論非也。大都山水之法、蓋以大觀小、如人觀假山耳。若同真山之法、以下望上、只合見一重山、豈可重重悉見、兼不應見其溪谷間事。又如屋舍、亦不應見其中庭及後巷中事。若人在東立、則山西便合是遠境;人在西立、則山東卻合是遠境。似此如何成畫?李君蓋不知以大觀小之法、其間折高、折遠、自有妙理、豈在掀屋角也。
夢渓筆談 巻13より 築城の奇策
李允則守雄州、北門外民居極多、城中地窄、欲展北城、而以遼人通好、恐其生事、門外舊有東嶽行宮、允則以銀為大香爐、陳於廟中、故不設備。一日、銀爐為盜所攘、乃大出募賞、所在張榜、捕賊甚急。久之不獲、遂聲言廟中屢遭寇、課夫築墻圍之。其實展北城也、不逾旬而就、虜人亦不怪之、則今雄州北關城是也。大都軍中詐謀、未必皆奇策、但當時偶能欺敵、而成奇功。時人有語雲:“用得著、敵人休;用不著、自家羞。”斯言誠然。
〔訳〕李允則〔953-1028年〕が雄州を治めていた時、北門外には住民が非常に多かった。城内は土地が狭いので、北に城壁を伸ばしたいと思ったが、遼国と友好関係を結んでいる際でもあり、いざこざが起こっては困る。門外に旧くから東嶽廟の別院があった。允則は銀で大香炉を作り、廟中に置き放しにし、わざと何の用心もしなかった。ある日、銀の香炉は泥棒に盗まれてしまった。すると大々的に賞金をかけ。方々に布告を張り出して、盗賊詮議の厳しさといったらなかった。だが何時まで経っても捕まらないので、ついに廟のなかがしばしば賊に荒らされるからと声明を発して人夫をかり出すと牆(かべ)を築き廟を囲んでしまった。じつはこうして北に城壁を伸ばしたのであった。十日もかからぬうちに出来上がってしまったが、遼人もこれを変には思わなかった。これがいまの雄州の北関城である。だいたい軍中の策謀というものは、すべて奇策によるものとは限らないが、この場合はたまたま敵を完全にあざむいて奇功を立てることが出来た。当時「用いてこそてきが冷や汗をかき、用いなかったら味方が恥をかく」といった人がいるが、まことにその通りである。
※李允則(953-1028年)は宋の神宗〔997~1021年〕の時の人。河北の滄州・瀛州・雄州など宋と遼の国境地帯の知事を二十余年間務めた。
※宋は、真宗の景徳元〔1004〕年に、遼の大軍が宋国内に侵入して黄河畔の澶州〔河南省濮陽県〕にまで達したので、遼に優位を譲る講和条約〔澶淵の盟約〕を結んだ。この講和条約の条件には、
1.宋は軍備として遼に毎年絹二十万匹・銀十万両をおくる。2.宋の真宗は遼の聖宗の母を叔母とし、遼国は兄弟の交わりをする。3.遼・宗の国境は現状のままとする。 などがあった。
※東嶽廟は山東省の東嶽泰山の神を祭る廟。人間の生死を司り陰界を支配するものとして信仰された。
李允則守雄州、北門外民居極多、城中地窄、欲展北城、而以遼人通好、恐其生事、門外舊有東嶽行宮、允則以銀為大香爐、陳於廟中、故不設備。一日、銀爐為盜所攘、乃大出募賞、所在張榜、捕賊甚急。久之不獲、遂聲言廟中屢遭寇、課夫築墻圍之。其實展北城也、不逾旬而就、虜人亦不怪之、則今雄州北關城是也。大都軍中詐謀、未必皆奇策、但當時偶能欺敵、而成奇功。時人有語雲:“用得著、敵人休;用不著、自家羞。”斯言誠然。
〔訳〕李允則〔953-1028年〕が雄州を治めていた時、北門外には住民が非常に多かった。城内は土地が狭いので、北に城壁を伸ばしたいと思ったが、遼国と友好関係を結んでいる際でもあり、いざこざが起こっては困る。門外に旧くから東嶽廟の別院があった。允則は銀で大香炉を作り、廟中に置き放しにし、わざと何の用心もしなかった。ある日、銀の香炉は泥棒に盗まれてしまった。すると大々的に賞金をかけ。方々に布告を張り出して、盗賊詮議の厳しさといったらなかった。だが何時まで経っても捕まらないので、ついに廟のなかがしばしば賊に荒らされるからと声明を発して人夫をかり出すと牆(かべ)を築き廟を囲んでしまった。じつはこうして北に城壁を伸ばしたのであった。十日もかからぬうちに出来上がってしまったが、遼人もこれを変には思わなかった。これがいまの雄州の北関城である。だいたい軍中の策謀というものは、すべて奇策によるものとは限らないが、この場合はたまたま敵を完全にあざむいて奇功を立てることが出来た。当時「用いてこそてきが冷や汗をかき、用いなかったら味方が恥をかく」といった人がいるが、まことにその通りである。
※李允則(953-1028年)は宋の神宗〔997~1021年〕の時の人。河北の滄州・瀛州・雄州など宋と遼の国境地帯の知事を二十余年間務めた。
※宋は、真宗の景徳元〔1004〕年に、遼の大軍が宋国内に侵入して黄河畔の澶州〔河南省濮陽県〕にまで達したので、遼に優位を譲る講和条約〔澶淵の盟約〕を結んだ。この講和条約の条件には、
1.宋は軍備として遼に毎年絹二十万匹・銀十万両をおくる。2.宋の真宗は遼の聖宗の母を叔母とし、遼国は兄弟の交わりをする。3.遼・宗の国境は現状のままとする。 などがあった。
夢渓筆談 巻13より 蓼花吟
瓦橋關北與遼人為鄰、素無關河為陰。往歳六宅使何承矩守瓦橋、始議因陂澤之地、瀦水為塞。欲自相視、恐其謀泄。日會僚佐、泛船置酒賞蓼花、作《蓼花遊》數十篇、令座客屬和;畫以為圖、傳至京師、人莫喻其意。自此始壅諸澱。慶歷中、內侍楊懷敏復踵為之。至熙寧中、又開徐村、柳莊等濼、皆以徐、鮑、沙、唐等河、叫猴、雞距、五眼等泉為之原、東合滹沱、漳、淇、易、白等水並大河。於是自保州西北沈遠濼、東盡滄州泥枯海口、幾八百裏、悉為瀦潦、闊者有及六十裏者、至今倚為藩籬。或謂侵蝕民田、歳失邊粟之入、此殊不然。深、冀、滄、瀛間、惟大河、滹沱、漳水所淤、方為美田;淤澱不至處、悉是斥鹵、不可種藝。異日惟是聚集遊民、亂堿煮鹽、頗幹鹽禁、時為寇盜。自為瀦濼、奸鹽遂少。而魚蟹菇葦之利、人亦賴之。

〔訳〕瓦橋関(がきょうかん)は、北は遼人の勢力範囲と接しているが、もともとは障害とすべき河川がなかった。先年六宅使〔宋の武官名〕の何承矩(かしょうく)が瓦橋の守備に当たった時、初めて沼や湿地に水を留めて障害とした。承矩はみずからそのさまを視察したいと思い、その計画が敵に漏れないようにと、日毎に幕僚を集め、船を用意し酒を用意して蓼(たで)の花見としゃれ込んだ。「蓼花吟」数十編を作って、一座の見物客にも和して詩作させ、その絵を作って地図の代わりとしたのである。舟遊びのうわさは都にまで伝わったが、その心意を悟った者はいなかった。このときから河北の諸沼沢に水を溜めるようになったのである。慶暦年間〔宋、仁宗の年号。1041~48年〕に、宦官の楊懐敏(ようかいびん)がまたその工事をした。煕寧(きねい)年間〔宋、神宋の年号。1066~77年〕にまた徐村・柳荘などの湖を作ったが、みな徐・鮑・沙河などの河川や叫猴(きょうこう)・鶏距(けいきょ)・五眼などの泉の水を源としたもので、東は滹沲(こだ)・漳(しょう)・淇(き)・易(えき)・白河などの河川と黄河に合流している。かくて保州(河北省保定)の西北の沈遠濼(ちんえんはく)から、東は滄州〔そうしゅう、河北省滄県〕の泥枯海(でいこかい)の口まで、ほとんど八百里が、すっかり水で覆われ、幅の広い所では六十里もあって、いまに至るまで国の守りとなっている。
民の田をつぶし、国境地帯の穀物収入をなくしたと言う者もいるが、それは大いに違う。深州〔河北省深県〕・冀州〔同冀県〕・滄州・瀛州〔同河間県〕一帯〔河北東南部〕では、黄河・滹沲河・漳水流域だけが沃土を堆積しいて美田を作ることが出来るが、堆積の及んでないところはみな塩分の多い土壌で、耕作は出来ないのだ。かつてこの地帯には浮浪人ばかりが集まっていて、地面に凝固している塩をこそぎとり塩を焼くなど、法をおかして塩を作り、しばしば徒党をくんで強盗までした。湖沼を作ってからは、勝手に塩を作る者もすくなくなり、一方水産物やマコモ・アシなどがなどの利点もあって、ひとびともまたこれに頼って暮らしているのだ。
※瓦橋関は今の北京の南方、河北省雄県。宋の領有となってから雄州とあらため、遼〔契丹〕と接する国境第一線の用地であった。
※何承矩〔かしょうく、生没年不詳〕は、宋初太宗の頃の人で、端拱(たんきょう)年間〔988~989年〕に河北で郡治に当たっていたとき契丹(きたい)が国境を騒がすので、その騎兵部隊の進出を防ぐために水を引き沼沢地を作り、稲田をひらいて屯田兵を置く作を上奏、河北縁辺屯田使が置かれることになった。
瓦橋關北與遼人為鄰、素無關河為陰。往歳六宅使何承矩守瓦橋、始議因陂澤之地、瀦水為塞。欲自相視、恐其謀泄。日會僚佐、泛船置酒賞蓼花、作《蓼花遊》數十篇、令座客屬和;畫以為圖、傳至京師、人莫喻其意。自此始壅諸澱。慶歷中、內侍楊懷敏復踵為之。至熙寧中、又開徐村、柳莊等濼、皆以徐、鮑、沙、唐等河、叫猴、雞距、五眼等泉為之原、東合滹沱、漳、淇、易、白等水並大河。於是自保州西北沈遠濼、東盡滄州泥枯海口、幾八百裏、悉為瀦潦、闊者有及六十裏者、至今倚為藩籬。或謂侵蝕民田、歳失邊粟之入、此殊不然。深、冀、滄、瀛間、惟大河、滹沱、漳水所淤、方為美田;淤澱不至處、悉是斥鹵、不可種藝。異日惟是聚集遊民、亂堿煮鹽、頗幹鹽禁、時為寇盜。自為瀦濼、奸鹽遂少。而魚蟹菇葦之利、人亦賴之。
民の田をつぶし、国境地帯の穀物収入をなくしたと言う者もいるが、それは大いに違う。深州〔河北省深県〕・冀州〔同冀県〕・滄州・瀛州〔同河間県〕一帯〔河北東南部〕では、黄河・滹沲河・漳水流域だけが沃土を堆積しいて美田を作ることが出来るが、堆積の及んでないところはみな塩分の多い土壌で、耕作は出来ないのだ。かつてこの地帯には浮浪人ばかりが集まっていて、地面に凝固している塩をこそぎとり塩を焼くなど、法をおかして塩を作り、しばしば徒党をくんで強盗までした。湖沼を作ってからは、勝手に塩を作る者もすくなくなり、一方水産物やマコモ・アシなどがなどの利点もあって、ひとびともまたこれに頼って暮らしているのだ。
※瓦橋関は今の北京の南方、河北省雄県。宋の領有となってから雄州とあらため、遼〔契丹〕と接する国境第一線の用地であった。
※何承矩〔かしょうく、生没年不詳〕は、宋初太宗の頃の人で、端拱(たんきょう)年間〔988~989年〕に河北で郡治に当たっていたとき契丹(きたい)が国境を騒がすので、その騎兵部隊の進出を防ぐために水を引き沼沢地を作り、稲田をひらいて屯田兵を置く作を上奏、河北縁辺屯田使が置かれることになった。
夢渓筆談 巻13より 名将とは
狄青戍涇原日、嘗與虜戰、大勝、追奔數裏。虜忽壅遏山踴、知其前必遇險。士卒皆欲奮擊。青遽鳴鉦止之、虜得引去。驗其處、果臨深澗、將佐皆侮不擊。青獨曰:“不然。奔亡之虜、忽止而拒我、安知非謀?軍已大勝、殘寇不足利、得之無所加重;萬一落其術中、存亡不可知。寧悔不擊、不可悔不止。”青後平嶺寇、賊帥儂智高兵敗奔邕州、其下皆欲窮其窟穴。青亦不從、以謂趨利乘勢、入不測之城、非大將軍。智高因而獲免。天下皆罪青不入邕州、脫智高於垂死。然青之用兵、主勝而已。不求奇功、故未嘗大敗。計功最多、卒為名將。譬如弈棋、已勝敵可止矣、然猶攻擊不已、往往大敗。此青之所戒也、臨利而能戒、乃青之過人處也。
〔訳〕狄青(てきせい)が涇原〔けいげん、甘肅省涇川県〕を守備していた時、かつて敵〔タングート〕と戦い、大いに勝って数十里も追撃した。と、敵は山で道を塞がれて進めぬ様子、きっと険しい地形にぶつかったに違いないと思われた。士卒はみな奮い立ってそこを襲おうとした。ところが、青は鉦(かね)を鳴らして進撃を止めさせたので、敵は逃げ去ることが出来た。そこへ行って調べたところ、やはり深い谷川にのぞんでいたので、幕僚達はみな追い撃ちを止めたことを残念がった。ところが青だけは、
「いや、逃げる敵がふいに止まってわれわれの進路をふさいだのは、計略だったかも知れぬ。敗残兵を撃ったところで、何の足しにもなるまい。万一敵の計略にかかったら、どうなるかわからぬのだ。追い撃ちを止めたのことを残念がるのはいいが、追撃を思いとどまらなかったことを残念がるようなことになってはこまるではないか」と。
青は後に中国南方の反徒平定に赴き、敵将儂智高〔のうちこう、チワン族の首領〕の軍を破り邕州〔ようしゅう、広西チワン族自治区南寧〕に敗走させた。部下たちが敵の潜む本拠まで掃討しようとしたとき、青はまた反対した。勢いに乗って深入りして、状況判断のつかぬ敵の城に入りこむのは大将のやることではないと考えたからである。智高はおかげで逮捕をまぬがれた。
天下はみな青が邕州に入らず、智高を窮地から抜け出させてしまったことをせめた。しかし、青の用兵は、勝てばいい主義でめざましい大勝利など求めないからこそ、いまだかつて大敗したことがないのである。戦功の数でいえば最も多いということになり、結局は名将ということになった。これはたとえば碁を打つようなもので、もう勝っていて敵を止めることができるのに、なお攻めを止めなければ大敗することが多い。これを青は用心したのである。好調の時に引き締めることができる、これが青の他人よりすぐれている所なのである。
※狄青〔1008~1057年〕は北宋の農民出身の将軍で、慎重寡言かつ機が熟すれば勇断という人となりと、兵卒より身を起こしたので、つねに士卒と飢寒労苦をともにする戦いぶりとで、将士の信頼も厚く、着実に戦勝を勝ち取っていったので北宋随一の名将とされた。タングヘート族の西夏と戦ったのは、仁宗の宝元年間〔1038~40年〕。儂智高の軍と戦ったのは皇祐四~五〔1052~53年〕で、この時、大越〔ベトナムの李朝の国号〕の国王李徳政が宋に援軍を送ろうと申し出たが、狄青は内乱鎮定に外国の援助を借りることはいけないと力説して反対し、宋軍の力だけで内乱を鎮定したのであった。宋庁の軍事を統べる最高機関である枢密院の長官〔枢密使〕になった。
※今でも中国のベトナムに接する地域と、ベトナム北部に住むチワン系の少数民族は儂(ノン)族といっているが、儂智高はその儂族の首酋(しゅしゅう)。儂氏はもと南漢劉氏に服属していたが、宋が南漢を滅ぼすと宋に内属、しかし宋の太宗によるベトナム討伐失敗後は、ベトナムの李朝大越国に服属、さらに智高の父儂存福の時、宋に通じて大越に反して独立、長生国をたてたが大越の討伐を受ける。子の智高は大越に反しつつ、宋の領内、いまの広西チワン族自治区内に侵入し南天国と称し宋への内属を願い出たが許されなかった。そこで皇祐四年、邕州を陥(おとしい)れ宋の領内に大南国を建てたのである。狄青の軍に破られた後、儂智高は大理〔雲南省〕へ逃亡したが、その後の生死は不明という。
狄青戍涇原日、嘗與虜戰、大勝、追奔數裏。虜忽壅遏山踴、知其前必遇險。士卒皆欲奮擊。青遽鳴鉦止之、虜得引去。驗其處、果臨深澗、將佐皆侮不擊。青獨曰:“不然。奔亡之虜、忽止而拒我、安知非謀?軍已大勝、殘寇不足利、得之無所加重;萬一落其術中、存亡不可知。寧悔不擊、不可悔不止。”青後平嶺寇、賊帥儂智高兵敗奔邕州、其下皆欲窮其窟穴。青亦不從、以謂趨利乘勢、入不測之城、非大將軍。智高因而獲免。天下皆罪青不入邕州、脫智高於垂死。然青之用兵、主勝而已。不求奇功、故未嘗大敗。計功最多、卒為名將。譬如弈棋、已勝敵可止矣、然猶攻擊不已、往往大敗。此青之所戒也、臨利而能戒、乃青之過人處也。
〔訳〕狄青(てきせい)が涇原〔けいげん、甘肅省涇川県〕を守備していた時、かつて敵〔タングート〕と戦い、大いに勝って数十里も追撃した。と、敵は山で道を塞がれて進めぬ様子、きっと険しい地形にぶつかったに違いないと思われた。士卒はみな奮い立ってそこを襲おうとした。ところが、青は鉦(かね)を鳴らして進撃を止めさせたので、敵は逃げ去ることが出来た。そこへ行って調べたところ、やはり深い谷川にのぞんでいたので、幕僚達はみな追い撃ちを止めたことを残念がった。ところが青だけは、
「いや、逃げる敵がふいに止まってわれわれの進路をふさいだのは、計略だったかも知れぬ。敗残兵を撃ったところで、何の足しにもなるまい。万一敵の計略にかかったら、どうなるかわからぬのだ。追い撃ちを止めたのことを残念がるのはいいが、追撃を思いとどまらなかったことを残念がるようなことになってはこまるではないか」と。
青は後に中国南方の反徒平定に赴き、敵将儂智高〔のうちこう、チワン族の首領〕の軍を破り邕州〔ようしゅう、広西チワン族自治区南寧〕に敗走させた。部下たちが敵の潜む本拠まで掃討しようとしたとき、青はまた反対した。勢いに乗って深入りして、状況判断のつかぬ敵の城に入りこむのは大将のやることではないと考えたからである。智高はおかげで逮捕をまぬがれた。
天下はみな青が邕州に入らず、智高を窮地から抜け出させてしまったことをせめた。しかし、青の用兵は、勝てばいい主義でめざましい大勝利など求めないからこそ、いまだかつて大敗したことがないのである。戦功の数でいえば最も多いということになり、結局は名将ということになった。これはたとえば碁を打つようなもので、もう勝っていて敵を止めることができるのに、なお攻めを止めなければ大敗することが多い。これを青は用心したのである。好調の時に引き締めることができる、これが青の他人よりすぐれている所なのである。
本日は二十四節気の雨水。旧暦正月(睦月)の中気にあたり、温かさに雪が雨にかわり、氷がとけ始める頃だという。
田園楽 王維
桃紅復含宿雨 桃は紅にして 復た宿雨を含み
柳緑更帯春煙 柳は緑にして 更に春煙を帯ぶ
花落家僮未掃 花落ちて家僮掃はず
鴬啼山客猶眠 鴬啼きて山客猶ほ眠る
〔訳〕桃の花は紅く 昨夜の雨を含んで
柳は緑に しかも春霞をまとっている
花が散っても うちの下男は掃こうともしない
鶯が鳴いても 山中の人はまだ眠っている
夢渓筆談 巻13より 濠州武芸談
濠州定遠縣一弓手、善用矛、遠近皆伏其能。有一偷、亦善擊剌、常蔑視官軍、唯與此弓手不相下、曰:“見必與之決生死。”一日、弓手者因事至村步、適值偷在市飲灑、勢不可避、遂曳矛而鬥。觀者如堵墻。久之、各未能進。弓手者忽謂偷曰:“尉至矣。我與爾皆健者、汝敢與我尉馬前決生死乎?”偷曰:“喏。”弓手應聲刾之、一舉而斃、蓋乘其隙也。又有人曾遇強寇鬥、矛刃方接、寇先含水滿口、噀其面。其人愕然、刃已揕胸。後有一壯士復與寇遇、已先知睷水之事。寇復用之、水才出口、矛已洞頸。蓋已陳芻狗、其機已泄、恃勝失備、反受其害。
〔訳〕濠州定遠県〔あんきしょう〕に弓の狙撃兵で矛の使い手がいて遠近のものはみなその腕前に感服していた。ここにもうひとり刀の刺突がうまい盗賊がいて、いつも官兵を馬鹿にしていたが、ただこの狙撃兵とだけは意地を張り合い、「今にきっとあいつと生きるか死ぬかきめてやる」といっていた。
ある日、狙撃兵が用事で船着場に来た頃、たまたま盗賊が市場で酒を飲んでいる所に出会い、とうとう矛を取って戦う羽目になってしまった。見物人が垣根のように取り巻く中、しばらくは両方ともじっとにらみ合ったまま。狙撃兵が不意に盗賊に言った。
「警部が来たぜ。おれもお前も男だ。警部殿の馬前で生きるか死ぬか決めようじゃないか」
「よかろう」と盗賊が応えた途端、狙撃兵は盗賊を突き刺し、一挙に倒してしまった。盗賊の隙に乗じたのである。
またある人がかつて手強い賊に襲われて戦った。矛の刃がまさに触れようとした時、賊はあらかじめ口いっぱいに含んでおいた水を突然顔に吹きかけた。その人がはっとした時、すでに賊の刃は胸に突き刺さっていた。のちある壮士がまたこの賊とであったが、すでに前もって水を吹きかけることは知っていたから、賊が同じ手を用い、口からつと水を吹いた途端、矛はその頸(くび)を貫いていた。一度使ったらもう役に立たないものをまた持ち出した所で、そのからくりはもうばれているのだ。勝ち誇って用心を怠るのでは、かえってその害を受けるというものだ。
夢渓筆談 巻13より 地図
熙寧中、高麗人貢、所經州縣、悉要地圖、所至皆造送、山川道路、形熱險易、無不備載、至揚州、牒州取地圖。是時丞相陳秀公守揚、紿使者欲盡見兩浙所供供圖、仿其規模供造。及圖至、都聚而焚之、具以事聞。
〔訳〕煕寧年間〔宋、神宗の年号、1068~77年〕に、高麗が入貢した際、高麗の使者は通過する州県ごとに、いちいち地図を求めた。どこでもみな地図を作って送ったが、山川道路、地勢の険不険、すべて記入してあった。揚州に付くとここの州庁にも文書をよこして地図を求める。このとき丞相陳秀公が揚州の知事をしていたが、使者をあざむいて、両淅各州県で提出した地図を全部拝見してそれにならって揚州の地図を作って差し上げたいと言った。地図が届くと、全部を集めて燃やしてしまい、ことの顛末を朝廷に奏上した。
※陳秀公〔1011~79年〕は、本名は升之。宋の仁宗・神宗の時の人。神宗の初年に丞相となったが、王安石と意見が合わず、揚州に出向して知事をつとめ、秀国公に封ぜられた。当時宋は、北方の遼、西北方の西夏にしばしば苦しめられていたから、東北方、遼に接して国力を充実しつつあった高麗にも警戒の目を注いだのであった。
田園楽 王維
桃紅復含宿雨 桃は紅にして 復た宿雨を含み
柳緑更帯春煙 柳は緑にして 更に春煙を帯ぶ
花落家僮未掃 花落ちて家僮掃はず
鴬啼山客猶眠 鴬啼きて山客猶ほ眠る
柳は緑に しかも春霞をまとっている
花が散っても うちの下男は掃こうともしない
鶯が鳴いても 山中の人はまだ眠っている
夢渓筆談 巻13より 濠州武芸談
濠州定遠縣一弓手、善用矛、遠近皆伏其能。有一偷、亦善擊剌、常蔑視官軍、唯與此弓手不相下、曰:“見必與之決生死。”一日、弓手者因事至村步、適值偷在市飲灑、勢不可避、遂曳矛而鬥。觀者如堵墻。久之、各未能進。弓手者忽謂偷曰:“尉至矣。我與爾皆健者、汝敢與我尉馬前決生死乎?”偷曰:“喏。”弓手應聲刾之、一舉而斃、蓋乘其隙也。又有人曾遇強寇鬥、矛刃方接、寇先含水滿口、噀其面。其人愕然、刃已揕胸。後有一壯士復與寇遇、已先知睷水之事。寇復用之、水才出口、矛已洞頸。蓋已陳芻狗、其機已泄、恃勝失備、反受其害。
ある日、狙撃兵が用事で船着場に来た頃、たまたま盗賊が市場で酒を飲んでいる所に出会い、とうとう矛を取って戦う羽目になってしまった。見物人が垣根のように取り巻く中、しばらくは両方ともじっとにらみ合ったまま。狙撃兵が不意に盗賊に言った。
「警部が来たぜ。おれもお前も男だ。警部殿の馬前で生きるか死ぬか決めようじゃないか」
「よかろう」と盗賊が応えた途端、狙撃兵は盗賊を突き刺し、一挙に倒してしまった。盗賊の隙に乗じたのである。
またある人がかつて手強い賊に襲われて戦った。矛の刃がまさに触れようとした時、賊はあらかじめ口いっぱいに含んでおいた水を突然顔に吹きかけた。その人がはっとした時、すでに賊の刃は胸に突き刺さっていた。のちある壮士がまたこの賊とであったが、すでに前もって水を吹きかけることは知っていたから、賊が同じ手を用い、口からつと水を吹いた途端、矛はその頸(くび)を貫いていた。一度使ったらもう役に立たないものをまた持ち出した所で、そのからくりはもうばれているのだ。勝ち誇って用心を怠るのでは、かえってその害を受けるというものだ。
夢渓筆談 巻13より 地図
熙寧中、高麗人貢、所經州縣、悉要地圖、所至皆造送、山川道路、形熱險易、無不備載、至揚州、牒州取地圖。是時丞相陳秀公守揚、紿使者欲盡見兩浙所供供圖、仿其規模供造。及圖至、都聚而焚之、具以事聞。
〔訳〕煕寧年間〔宋、神宗の年号、1068~77年〕に、高麗が入貢した際、高麗の使者は通過する州県ごとに、いちいち地図を求めた。どこでもみな地図を作って送ったが、山川道路、地勢の険不険、すべて記入してあった。揚州に付くとここの州庁にも文書をよこして地図を求める。このとき丞相陳秀公が揚州の知事をしていたが、使者をあざむいて、両淅各州県で提出した地図を全部拝見してそれにならって揚州の地図を作って差し上げたいと言った。地図が届くと、全部を集めて燃やしてしまい、ことの顛末を朝廷に奏上した。
夢渓筆談 巻11より 塩価安定法
陜西顆鹽、舊法官自搬運、置務拘賣。兵部員外郎範祥始為鈔法、令商人就邊郡入錢四貫八百售一鈔、至解池請鹽二百斤、任其私賣、得錢以實塞下、省數十郡搬運之勞。異日輦車牛驢以鹽役死者、歳以萬計、冒禁抵罪者、不可勝數;至此悉免。行之既久、鹽價時有低昂、又於京師置都鹽院、陜西轉運司自遣官主之。京師食鹽、斤不足三十五錢、則斂而不發、以長鹽價;過四十、則大發庫鹽、以壓商利。使鹽價有常、而鈔法有定數。行之數十年、至今以為利也。
〔訳〕陝西の顆塩(かえん)は、旧専売法では、役所がみずから運搬し、市場を設けて売りさばきまでしていた。兵部員下郎の范祥(はんしょう)が初めて塩鈔(えんしょう)を発行して商人に運搬売りさばきをさせる方法を採用した。商人が陝西の辺境に入るのに銭四貫八百文を収めさせて塩鈔一枚を与え、解池に着くと二百斤の塩と引き換えて、売りさばきはその自由に任せたのである。得た利益で辺境の警備を充実させることが出来、数十郡にわたる運搬の労を省くことも出来た。以前には手車やら牛やら驢馬やらみな塩の運搬にかり出され、そのために死ぬものが、年に万を数えたし、禁を犯して塩を私売して罪にふれる者も数え切れぬほどあったが、塩鈔の法が行われるようになってすっかりなくなった。
この法がおこなわれるようになってだいぶ経つ間に、塩の価格が時により高下するようになった。そこで都〔開封〕に都塩院〔塩価調整局〕を置き、陝西転運使がみずから担当官を派遣してこれを主管した。都で塩が一斤三十五文に足らぬ場合には、退蔵政策を執り塩を出荷せず、塩の価格が上って四十文をこえると貯蔵してあった塩を大量に出荷して、商人がぼろ儲けできないように値をおさえて塩価を安定させ、塩鈔の発行も定額を守れるようにしたのである。この方法を行って数十年、今に至るまでその恩恵を受けているわけである。
※宋代の中国で産した塩には、淮南・淅江などの海岸で作られる粉末状の「末塩〔海塩〕」、山西省解州などにある塩池からとれる粒状の「顆塩〔池塩〕」、四川の塩井からなどから汲みあげて取る「井塩」、そして甘粛の土崖から取れる岩塩「崖塩」の4種があった。この4種の内で主要なものが淮淅の末塩と解州〔いまの山西省運城県、宋代にはこの地方は陝西路に属していた〕を主産地とする顆塩である。当時塩を販売しようとする商人は首都開封にある専売局「榷貨務〈かくかむ〉」に代価を納めて、塩鈔という現物引換券をもらい、これを産地にもっていって塩の払い下げを受けた。
※宋の仁宗の慶暦8(1048)年に范祥が解州塩法の改革を行ない、陝西の秦・延・鎭戎などの九つの折博務という専売支局で解塩の塩鈔を発行することにして、この利益は軍糧調達に用いられた。
陜西顆鹽、舊法官自搬運、置務拘賣。兵部員外郎範祥始為鈔法、令商人就邊郡入錢四貫八百售一鈔、至解池請鹽二百斤、任其私賣、得錢以實塞下、省數十郡搬運之勞。異日輦車牛驢以鹽役死者、歳以萬計、冒禁抵罪者、不可勝數;至此悉免。行之既久、鹽價時有低昂、又於京師置都鹽院、陜西轉運司自遣官主之。京師食鹽、斤不足三十五錢、則斂而不發、以長鹽價;過四十、則大發庫鹽、以壓商利。使鹽價有常、而鈔法有定數。行之數十年、至今以為利也。
この法がおこなわれるようになってだいぶ経つ間に、塩の価格が時により高下するようになった。そこで都〔開封〕に都塩院〔塩価調整局〕を置き、陝西転運使がみずから担当官を派遣してこれを主管した。都で塩が一斤三十五文に足らぬ場合には、退蔵政策を執り塩を出荷せず、塩の価格が上って四十文をこえると貯蔵してあった塩を大量に出荷して、商人がぼろ儲けできないように値をおさえて塩価を安定させ、塩鈔の発行も定額を守れるようにしたのである。この方法を行って数十年、今に至るまでその恩恵を受けているわけである。
※宋代の中国で産した塩には、淮南・淅江などの海岸で作られる粉末状の「末塩〔海塩〕」、山西省解州などにある塩池からとれる粒状の「顆塩〔池塩〕」、四川の塩井からなどから汲みあげて取る「井塩」、そして甘粛の土崖から取れる岩塩「崖塩」の4種があった。この4種の内で主要なものが淮淅の末塩と解州〔いまの山西省運城県、宋代にはこの地方は陝西路に属していた〕を主産地とする顆塩である。当時塩を販売しようとする商人は首都開封にある専売局「榷貨務〈かくかむ〉」に代価を納めて、塩鈔という現物引換券をもらい、これを産地にもっていって塩の払い下げを受けた。
※宋の仁宗の慶暦8(1048)年に范祥が解州塩法の改革を行ない、陝西の秦・延・鎭戎などの九つの折博務という専売支局で解塩の塩鈔を発行することにして、この利益は軍糧調達に用いられた。
夢渓筆談 巻11より 銭塘江の築堤
錢塘江、錢氏時為石堤、堤外又植大木十余行、謂之“滉柱”。寶元、康定間、人有獻議取滉柱、可得良材數十萬。杭帥以為然。既而舊木出水、皆朽敗不可用。而滉柱一空、石堤為洪濤所激、歳歳摧決。蓋昔人埋柱以折其怒勢、不與水爭力、故江濤不能為患。杜偉長為轉運使、人有獻說、自浙江稅場以東、移退數裏為月堤、以避怒水。眾水工皆以為便、獨一老水工以為不然、密諭其黨日:“移堤則歳無水患、若曹何所衣食?”眾人樂其利、乃從而和之。偉長不悟其計、費以鉅萬、而江堤之害、仍歳有之。近年乃講月堤之利、濤害稍稀。然猶不若滉柱之利、然所費至多、不復可為。
〔訳〕銭塘江は、銭氏の時に石で堤を築き、堤の外に大きな木材を十余列も打ち込んで、これを「滉柱(こうちゅう)」と呼んだ。宝元・康定年間〔いずれも宋、仁宗の年号。1038~40年〕に、滉柱を取れば良材数十万が得られるだろうと建議する者がいた。杭州の長官はこの建議を受け入れた。ところが古材木だから水中から抜き出してみると、みな腐っていて役に立たない。しかも滉柱がなくなってしまったら、石の堤は激しい大波に洗われて、年ごとに崩れていった。思うに昔の人は柱を打ち込んで怒涛の勢いを弱めて水勢が直接ぶつからぬようにしたから、銭塘江の大波も災いを及ぼさなかったのである。
杜偉長が転運使をしていた時、淅江の税関辺りから堤を数里退後させ、堰月形の堤を築いて激しい水勢を避けてはどうかと建議した人があった。堤防工事の職人達もみななるほどと言ったが、ただ一老職人だけは首を振らず、そっと仲間達に「堤を移したら毎年水害が起こらなくなる。お前たち何で食って行くんだ」とそそのかした。みなも堤防修理で得をしたほうが良いと、老職人の説に一同加担した。偉長はそんないきさつに気がつかなかったので、巨万の工費を費やしながら江堤の損害は依然として毎年起こった。
近年になってやっと偃月形の堤の利点を取り上げるようになり、大浪による害も少なくなったが、やはり何と言っても滉柱の良さには及ばない。しかし経費が大変なので二度と滉柱を打ち込むわけにはいかないのである。
※五代の時、淅江は呉越国(907~978年)の銭氏が領有していた。呉越国は唐末の動乱期に自衛団の杭州八都を背景として銭鏐(せんりゅう)が江南の主要地を支配して建国。土木工事・荒田開発に努力し、租税は重かったが戦乱がなかったので経済・文化にすぐれていた。貿易にもつとめ、契丹・高麗とも通交し、日本にもその貿易船が来航していると言う。
※滉柱とは深い水中にささっている柱のこと。銭塘江岸は土質が悪く波が荒いので、築堤には古来苦労したらしく、石を積んだり、蛇籠を用いたり、巨材を打ち込んだり、さまざまの工夫がなされた。
※宋の仁宗の頃の名臣杜杞〔とき、1005~50年〕は字を偉長といい、広西の蛮夷を征討したこと、諸伝を博覧し、陰陽術数の学に通じていたことで有名。宋代には各路〔州・郡の上にある地方行政単位〕に徴税や地方財政を統轄し中央への穀物産物輸送を主管する役所である転運司が置かれ、その長官を転運使といって、非常に多くの権限を握っていた。
錢塘江、錢氏時為石堤、堤外又植大木十余行、謂之“滉柱”。寶元、康定間、人有獻議取滉柱、可得良材數十萬。杭帥以為然。既而舊木出水、皆朽敗不可用。而滉柱一空、石堤為洪濤所激、歳歳摧決。蓋昔人埋柱以折其怒勢、不與水爭力、故江濤不能為患。杜偉長為轉運使、人有獻說、自浙江稅場以東、移退數裏為月堤、以避怒水。眾水工皆以為便、獨一老水工以為不然、密諭其黨日:“移堤則歳無水患、若曹何所衣食?”眾人樂其利、乃從而和之。偉長不悟其計、費以鉅萬、而江堤之害、仍歳有之。近年乃講月堤之利、濤害稍稀。然猶不若滉柱之利、然所費至多、不復可為。
杜偉長が転運使をしていた時、淅江の税関辺りから堤を数里退後させ、堰月形の堤を築いて激しい水勢を避けてはどうかと建議した人があった。堤防工事の職人達もみななるほどと言ったが、ただ一老職人だけは首を振らず、そっと仲間達に「堤を移したら毎年水害が起こらなくなる。お前たち何で食って行くんだ」とそそのかした。みなも堤防修理で得をしたほうが良いと、老職人の説に一同加担した。偉長はそんないきさつに気がつかなかったので、巨万の工費を費やしながら江堤の損害は依然として毎年起こった。
近年になってやっと偃月形の堤の利点を取り上げるようになり、大浪による害も少なくなったが、やはり何と言っても滉柱の良さには及ばない。しかし経費が大変なので二度と滉柱を打ち込むわけにはいかないのである。
※滉柱とは深い水中にささっている柱のこと。銭塘江岸は土質が悪く波が荒いので、築堤には古来苦労したらしく、石を積んだり、蛇籠を用いたり、巨材を打ち込んだり、さまざまの工夫がなされた。
※宋の仁宗の頃の名臣杜杞〔とき、1005~50年〕は字を偉長といい、広西の蛮夷を征討したこと、諸伝を博覧し、陰陽術数の学に通じていたことで有名。宋代には各路〔州・郡の上にある地方行政単位〕に徴税や地方財政を統轄し中央への穀物産物輸送を主管する役所である転運司が置かれ、その長官を転運使といって、非常に多くの権限を握っていた。
夢渓筆談 巻11より 河工の高超
慶歷中、河決北都商胡、久之未塞、三司度支副使郭申錫親住董作。凡塞河決垂合、中間一埽、謂之“合龍門”、功全在此。是時屢塞不合。時合楷門埽長六十步。有水工高超者獻議、以謂埽身太長、人力不能壓、埽不至水底、礦河流不斷、而繩纜多絕。今當以六十步為三節、每節埽長二十步、中間以索連屬之、先下第一節、待其至底空壓第二、第三。舊工爭之、以為不可、雲:“二十步埽、不能斷漏。徒用三節、所費當倍、而決不塞。”超謂之曰:“第一埽水信未斷、然勢必殺半。壓第二埽、止用半力、水縱未斷、不過小漏耳。第三節乃平地施工、足以盡人力。處置三節既定、即上兩節自為濁泥所淤、不煩人功。”申錫主前議、不聽超說。是時賈魏分帥北門、獨以超之言為然、陰遣數千人於下流收漉流埽。既定而埽果流、而河決愈甚、申錫坐謫。卒用超計、商胡方定。
〔訳〕慶暦年間〔宋、仁宗の年号、1041~48年〕に黄河は北部〔宋の北京であった大名府、今の河北省大名県〕に属する商胡〔いま河北省濮陽県の東方〕で堤が切れて、長い間塞ぐことができなかった。三司度支副使〔全国の財政収支を管理する役所の副長官〕の郭申錫(998~1074年)がみずから赴いて工事を監督することになった。
そもそも黄河の決壊口を塞ぐ場合、いよいよ決壊口を締め切るという時に、決壊口に入れる最後のひとつの巨大な蛇籠を「合竜門」といい、これがうまくいって初めて締め切り工事は完成するのである。この時には何度も締め切ろうとしたが、その合竜門に用いた蛇籠の高さは六十歩〔約90m〕だったが、治水工事の職人である高超という男がこう献議した。
蛇籠が大きすぎて人力で押し入れきれず、河底まで沈まないので、決壊口の流れを止めることが出来ず、縄も切れてしまうものが多い。そこで六十歩を三部分に分け、各部分の蛇籠の高さを二十歩〔約30m〕ずつにし、各蛇籠の間を縄でつなげる。そして第一の蛇籠が底に着いてから第二、第三の蛇籠を押し入れればよかろうと。古顔の職人はこれに反対して、それは出来ない相談とばかり、「二十歩の蛇籠では決壊口を塞ぐことができず、むだに三個を使うことになり、費用は倍もかかり、堤を締め切ることは出来まい」と言った。超はこれに対して「第一の蛇籠ではたしかに水流を止めることはできないが、水勢は必ず半分に弱まるから、第二の蛇籠は半分の力で押し入れることが出来、水流もまた断ち切れぬとはいえ、みずが少しもれていると言う程度になる。第三の蛇籠は〔もう水面に出ていて〕平地の上で工事をするようなものだから、工事人の力を思う存分発揮できる。このようにして三個の蛇籠を据え付けてしまえば、上の二個の蛇籠には自然と泥土が堆積していき人力を煩わさずにすむ」と言うのであった。
申錫は前者の意見を採用して、超の説に耳を傾けなかった。この時、賈魏公〔宋の宰相になり英宗の時、魏国公に封じられた賈昌朝〕が北京大名府(だいめいふ)の留守〔りゅうしゅ、天子に代わって都を守る官)をつとめていたが、彼だけは超の言葉をもっともだと認めて、〔申錫の工事は失敗するであろうと考えていたので〕ひそかに数千人を下流に派遣して流されてくる蛇籠を拾いあげさせようとした。
さて、規定の計画通りに施行したところ、蛇籠は果たして流されてしまい、決壊口はますます大きくなり、郭申錫はこのため降格処分を受けた。結局、超の計画を用いて、商湖の決壊口はやっと塞ぐことができたのである。
※蛇籠とは、原文には「埽(そう)」とあり、刈り取った葦や柳の枝を重ねて敷き詰め、その上に土と砕石を載せ、さらに心棒として太い竹製の網を入れて、巻いて束ね、その上を竹で編んだ高さ数丈、長さはその倍もある巨大な竹籠。これを数百人から千人に近い人夫がひいて低湿地に積み上げ「埽岸(そうがん)」とよんだと、『宋史』河渠志にある。
慶歷中、河決北都商胡、久之未塞、三司度支副使郭申錫親住董作。凡塞河決垂合、中間一埽、謂之“合龍門”、功全在此。是時屢塞不合。時合楷門埽長六十步。有水工高超者獻議、以謂埽身太長、人力不能壓、埽不至水底、礦河流不斷、而繩纜多絕。今當以六十步為三節、每節埽長二十步、中間以索連屬之、先下第一節、待其至底空壓第二、第三。舊工爭之、以為不可、雲:“二十步埽、不能斷漏。徒用三節、所費當倍、而決不塞。”超謂之曰:“第一埽水信未斷、然勢必殺半。壓第二埽、止用半力、水縱未斷、不過小漏耳。第三節乃平地施工、足以盡人力。處置三節既定、即上兩節自為濁泥所淤、不煩人功。”申錫主前議、不聽超說。是時賈魏分帥北門、獨以超之言為然、陰遣數千人於下流收漉流埽。既定而埽果流、而河決愈甚、申錫坐謫。卒用超計、商胡方定。
〔訳〕慶暦年間〔宋、仁宗の年号、1041~48年〕に黄河は北部〔宋の北京であった大名府、今の河北省大名県〕に属する商胡〔いま河北省濮陽県の東方〕で堤が切れて、長い間塞ぐことができなかった。三司度支副使〔全国の財政収支を管理する役所の副長官〕の郭申錫(998~1074年)がみずから赴いて工事を監督することになった。
そもそも黄河の決壊口を塞ぐ場合、いよいよ決壊口を締め切るという時に、決壊口に入れる最後のひとつの巨大な蛇籠を「合竜門」といい、これがうまくいって初めて締め切り工事は完成するのである。この時には何度も締め切ろうとしたが、その合竜門に用いた蛇籠の高さは六十歩〔約90m〕だったが、治水工事の職人である高超という男がこう献議した。
蛇籠が大きすぎて人力で押し入れきれず、河底まで沈まないので、決壊口の流れを止めることが出来ず、縄も切れてしまうものが多い。そこで六十歩を三部分に分け、各部分の蛇籠の高さを二十歩〔約30m〕ずつにし、各蛇籠の間を縄でつなげる。そして第一の蛇籠が底に着いてから第二、第三の蛇籠を押し入れればよかろうと。古顔の職人はこれに反対して、それは出来ない相談とばかり、「二十歩の蛇籠では決壊口を塞ぐことができず、むだに三個を使うことになり、費用は倍もかかり、堤を締め切ることは出来まい」と言った。超はこれに対して「第一の蛇籠ではたしかに水流を止めることはできないが、水勢は必ず半分に弱まるから、第二の蛇籠は半分の力で押し入れることが出来、水流もまた断ち切れぬとはいえ、みずが少しもれていると言う程度になる。第三の蛇籠は〔もう水面に出ていて〕平地の上で工事をするようなものだから、工事人の力を思う存分発揮できる。このようにして三個の蛇籠を据え付けてしまえば、上の二個の蛇籠には自然と泥土が堆積していき人力を煩わさずにすむ」と言うのであった。
さて、規定の計画通りに施行したところ、蛇籠は果たして流されてしまい、決壊口はますます大きくなり、郭申錫はこのため降格処分を受けた。結局、超の計画を用いて、商湖の決壊口はやっと塞ぐことができたのである。
登岳陽楼 杜甫
昔聞洞庭水 昔(むかし)聞(き)く 洞庭(どうてい)の水(みず)
今上岳陽楼 今(いま)上(のぼ)る 岳陽楼(がくようろう)
呉楚東南圻 呉楚(ごそ) 東南(とうなん)に坼(さ)け
乾坤日夜浮 乾坤(けんこん) 日夜(にちや)浮(うか)ぶ
親朋無一字 親朋(しんぽう) 一字(いちじ)無(な)く
老病有孤舟 老病(ろうびょう) 孤舟(こしゅう)有(あ)り
戎馬関山北 戎馬(じゅうば) 関山(かんざん)の北(きた)
憑軒悌泗流 軒(けん)に憑(よ)りて 涕泗(ていし)流(なが)る
〔訳〕昔から話には聞いていた洞庭湖。
いま、その水を見渡せる岳陽楼に登った。
呉と楚は、湖によって東と南に引き裂かれ、
天も地も、日夜この湖に浮かんでいる
思えば親戚からも友人からも、一通の便りさえなく、
老いて病むこの身には、
ただ一艘の小舟があるばかり。
砦のある山々の北のほうでは、
いまなお軍馬の 蹄の音がしきりにする。
楼台の欄干によりかかりながら、
故郷に帰れない悲しみに涙があふれて止まらない。
望洞庭湖贈張丞相
(洞庭湖に望んで張丞相に贈る)孟浩 然
八月湖水平 八月湖水 平らかに
涵虚混太清 虚を涵して太清(たいせい)に混(こん)ず
氣蒸雲夢沢 氣は蒸す雲夢(うんぼう)の沢(たく)
波撼岳陽城 波は撼(ゆる)す 岳陽城(がくようじょう)
欲済無舟楫 済(わた)らんと欲するも舟楫(しゅうしゅう)無く
端居恥聖明 端居(たんきょ)して聖明に恥ず
坐観垂釣者 坐(そぞ)ろに釣を垂るる者を観(み)て、
徒有羨魚情 徒(いたず)らに魚(うお)を羨むの情(じょう)有り
〔訳〕 秋八月 洞庭はまんまんと水をたたえる
大空をひたし
末は水か天かみわけもつかぬ
雲夢(うんぼう)の沼からわきおこる雲
岳陽城をどよもす波
ここを渡ろうにも舟はないが
じっと坐っているだけでは聖明の天子にはずかしい
釣り糸を垂れる人をぼんやりと眺めるうち
むだとは知りつつ 私にも魚を欲しがる心がおこってくる

※洞庭湖を東北端岳陽の城壁から眺望した作。張丞相は宰相の張九齢で、詩の後半には九齢の援助を得て官途に就き、聖天子(玄宗)のもとで働きたい願望がこめられている。「魚を欲しがる心」は、「淵に臨んで魚を欲しがるよりは、あとへさがって網をむすぶがよい〔漢書、董仲舒伝〕」にもとずく。何かを希望するなら、それが実現できるような方法を考え努力すべきだという譬え。
昔聞洞庭水 昔(むかし)聞(き)く 洞庭(どうてい)の水(みず)
今上岳陽楼 今(いま)上(のぼ)る 岳陽楼(がくようろう)
呉楚東南圻 呉楚(ごそ) 東南(とうなん)に坼(さ)け
乾坤日夜浮 乾坤(けんこん) 日夜(にちや)浮(うか)ぶ
親朋無一字 親朋(しんぽう) 一字(いちじ)無(な)く
老病有孤舟 老病(ろうびょう) 孤舟(こしゅう)有(あ)り
戎馬関山北 戎馬(じゅうば) 関山(かんざん)の北(きた)
憑軒悌泗流 軒(けん)に憑(よ)りて 涕泗(ていし)流(なが)る
いま、その水を見渡せる岳陽楼に登った。
呉と楚は、湖によって東と南に引き裂かれ、
天も地も、日夜この湖に浮かんでいる
思えば親戚からも友人からも、一通の便りさえなく、
老いて病むこの身には、
ただ一艘の小舟があるばかり。
砦のある山々の北のほうでは、
いまなお軍馬の 蹄の音がしきりにする。
楼台の欄干によりかかりながら、
故郷に帰れない悲しみに涙があふれて止まらない。
望洞庭湖贈張丞相
(洞庭湖に望んで張丞相に贈る)孟浩 然
八月湖水平 八月湖水 平らかに
涵虚混太清 虚を涵して太清(たいせい)に混(こん)ず
氣蒸雲夢沢 氣は蒸す雲夢(うんぼう)の沢(たく)
波撼岳陽城 波は撼(ゆる)す 岳陽城(がくようじょう)
欲済無舟楫 済(わた)らんと欲するも舟楫(しゅうしゅう)無く
端居恥聖明 端居(たんきょ)して聖明に恥ず
坐観垂釣者 坐(そぞ)ろに釣を垂るる者を観(み)て、
徒有羨魚情 徒(いたず)らに魚(うお)を羨むの情(じょう)有り
大空をひたし
末は水か天かみわけもつかぬ
雲夢(うんぼう)の沼からわきおこる雲
岳陽城をどよもす波
ここを渡ろうにも舟はないが
じっと坐っているだけでは聖明の天子にはずかしい
釣り糸を垂れる人をぼんやりと眺めるうち
むだとは知りつつ 私にも魚を欲しがる心がおこってくる
浄土真宗では、故人は臨終と同時に仏(諸仏)になると考えるので、中陰期間は、故人に対する追慕、故人を通して「生と死」について考え、謹慎し求法の生活をする期間であるという。
甥のHNの報せによると、本日福岡の市内にある真宗本願寺派の西光寺において満中陰の法要を行ない、お骨は西光寺の納骨堂に納めると言う。
岳陽楼記 范文正
慶歴四年春、滕子京謫、守巴陵郡。越明年、政通人和、百廃具興。乃重修岳陽楼、増其旧制、刻唐賢今人之詩賦于其上、属予作文以記之。
予観夫巴陵勝状、在洞庭一湖。銜遠山、呑長江、浩浩蕩蕩、横無際涯、朝暉夕陰、気象万千。此則岳陽楼之大観也。前人之述備矣。然則北通巫峡、南極瀟湘、遷客騒人、多会于此。覧物之情、得無異乎。
若夫霪雨霏霏、連月不開、陰風怒号、濁浪排空、日星隠曜、山岳潜形、商旅不行、檣傾楫摧、薄暮冥冥、虎嘯猿啼、登斯楼也、則有去国懐郷、憂讒畏譏、満目蕭然、感極而悲者矣。
至若春和景明、波瀾不驚 上下天光、一碧万頃、沙鴎翔集、錦鱗游泳、岸芷汀蘭、郁郁青青、而或長煙一空、晧月千里、浮光耀金、静影沈璧、漁歌互答、此楽何極。登斯楼也、則有心曠神怡、寵辱皆忘、把酒臨風、其喜洋洋者矣。
嗟夫。予嘗求古仁人之心、或異二者之為何哉。不以物喜、不以己悲。居廟堂之高、則憂其民、処江湖之遠、則憂其君。是進亦憂、退亦憂。然則何時而楽耶。其必曰、先天下之憂而憂、後天下之楽而楽歟。噫、微斯人、吾誰与帰。
〔訳〕 慶暦四(1044)年の春、滕子京が左遷されて巴陵郡(湖南省岳陽)の太守となった。かくてその翌年には、ここの政治は行き届いて人々の間は平和に、多くの廃れていたものがいずれも復興した。岳陽楼の復讐もようやくおこなわれ、元の形に増築し、唐代のすぐれた人々、今の人々の詩賦を楼上に刻み、私に頼んで文章を書き残させたのである。
私の見るところでは、あの巴陵のすぐれた景色は、洞庭湖一つにかかっている。遠くの山脈(やまなみ)の影をうつし、揚子江の流れを呑みこみ、広々とうち広がって、どこまでも果てしがなく、朝日の光、夕ぐれのうす闇に、気象は千変万化する。これが岳陽楼からの一望であり、古人の述べつくしてきたところである。だからこそ北は巫峡の果て、南は潚水・湘水の果まで、流浪の旅人や憂愁の詩人たちの多くがこの地に集まったが、風物を眺めての心情が、さまざまであったのも当然であろう。
もし長雨が降り続き、幾月も晴れやらず、陰気な風が唸り声を上げ、濁った波が空をつき、日も星も光をかくし、峰々も姿をひそめ、行商人や旅人も進めず、帆柱は傾き楫はくだけ、夕闇が黒々と迫って、虎がうそむき猿がなくとき、この楼に登れば、後にした故郷を思い、人々の非難になやみ、目前のものすべてが物寂しく、感極まって悲しむものもあるだろう。
またもし、春おだやかに景色も明るく、波ひとつさわがず、天地に光みなぎり、万頃(広大な広さ)の広がりは碧一色、かもめが飛び交い集い、銀輪の魚が泳ぎ回り、岸辺の芷(よろいぐさ)、水際の蘭が、芳香を放って青々と伸び、あるいはまた、たなびくもやが空一帯にかかり、輝く月が千里を照らし、水面の光が金色におどり、ひっそりとした月影は湖水に璧を沈めたようにみえ、漁師の歌が互いに呼び合うとき、その楽しさは尽き果てぬ。このとき楼に登れば、心はのびのびと悦びに満ち、世の栄誉恥辱もみな忘れ去り、酒杯を手にして風に向かい、心にうれしさの満ち溢れる人もいるであろう。
ああ、私はかつて古代の仁者の心を探り求めたが、さきの悲喜二つのいずれとも異なる場合があるのは、何故であろうか。外物のことでは喜ばず、おのれのことで悲しまぬからである。朝廷の高いくらいにあるときは、おのれの民を憂い、人里離れた所に隠れ住むときは、わが主君のために憂う。進んで仕えていても憂い、退いて民間にいても憂うるのだ。とすればいつになれば楽しむのか。その人はかならず「天下の人の憂いに先立って憂い、天下の人の楽しみに後(おく)れて楽しむ」というであろう。そうした人がいなければ、私はいったい誰に帰依すればよいのか。
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