瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
夢渓筆談 巻11より 河工の高超
慶歷中、河決北都商胡、久之未塞、三司度支副使郭申錫親住董作。凡塞河決垂合、中間一埽、謂之“合龍門”、功全在此。是時屢塞不合。時合楷門埽長六十步。有水工高超者獻議、以謂埽身太長、人力不能壓、埽不至水底、礦河流不斷、而繩纜多絕。今當以六十步為三節、每節埽長二十步、中間以索連屬之、先下第一節、待其至底空壓第二、第三。舊工爭之、以為不可、雲:“二十步埽、不能斷漏。徒用三節、所費當倍、而決不塞。”超謂之曰:“第一埽水信未斷、然勢必殺半。壓第二埽、止用半力、水縱未斷、不過小漏耳。第三節乃平地施工、足以盡人力。處置三節既定、即上兩節自為濁泥所淤、不煩人功。”申錫主前議、不聽超說。是時賈魏分帥北門、獨以超之言為然、陰遣數千人於下流收漉流埽。既定而埽果流、而河決愈甚、申錫坐謫。卒用超計、商胡方定。
〔訳〕慶暦年間〔宋、仁宗の年号、1041~48年〕に黄河は北部〔宋の北京であった大名府、今の河北省大名県〕に属する商胡〔いま河北省濮陽県の東方〕で堤が切れて、長い間塞ぐことができなかった。三司度支副使〔全国の財政収支を管理する役所の副長官〕の郭申錫(998~1074年)がみずから赴いて工事を監督することになった。
そもそも黄河の決壊口を塞ぐ場合、いよいよ決壊口を締め切るという時に、決壊口に入れる最後のひとつの巨大な蛇籠を「合竜門」といい、これがうまくいって初めて締め切り工事は完成するのである。この時には何度も締め切ろうとしたが、その合竜門に用いた蛇籠の高さは六十歩〔約90m〕だったが、治水工事の職人である高超という男がこう献議した。
蛇籠が大きすぎて人力で押し入れきれず、河底まで沈まないので、決壊口の流れを止めることが出来ず、縄も切れてしまうものが多い。そこで六十歩を三部分に分け、各部分の蛇籠の高さを二十歩〔約30m〕ずつにし、各蛇籠の間を縄でつなげる。そして第一の蛇籠が底に着いてから第二、第三の蛇籠を押し入れればよかろうと。古顔の職人はこれに反対して、それは出来ない相談とばかり、「二十歩の蛇籠では決壊口を塞ぐことができず、むだに三個を使うことになり、費用は倍もかかり、堤を締め切ることは出来まい」と言った。超はこれに対して「第一の蛇籠ではたしかに水流を止めることはできないが、水勢は必ず半分に弱まるから、第二の蛇籠は半分の力で押し入れることが出来、水流もまた断ち切れぬとはいえ、みずが少しもれていると言う程度になる。第三の蛇籠は〔もう水面に出ていて〕平地の上で工事をするようなものだから、工事人の力を思う存分発揮できる。このようにして三個の蛇籠を据え付けてしまえば、上の二個の蛇籠には自然と泥土が堆積していき人力を煩わさずにすむ」と言うのであった。
申錫は前者の意見を採用して、超の説に耳を傾けなかった。この時、賈魏公〔宋の宰相になり英宗の時、魏国公に封じられた賈昌朝〕が北京大名府(だいめいふ)の留守〔りゅうしゅ、天子に代わって都を守る官)をつとめていたが、彼だけは超の言葉をもっともだと認めて、〔申錫の工事は失敗するであろうと考えていたので〕ひそかに数千人を下流に派遣して流されてくる蛇籠を拾いあげさせようとした。
さて、規定の計画通りに施行したところ、蛇籠は果たして流されてしまい、決壊口はますます大きくなり、郭申錫はこのため降格処分を受けた。結局、超の計画を用いて、商湖の決壊口はやっと塞ぐことができたのである。
※蛇籠とは、原文には「埽(そう)」とあり、刈り取った葦や柳の枝を重ねて敷き詰め、その上に土と砕石を載せ、さらに心棒として太い竹製の網を入れて、巻いて束ね、その上を竹で編んだ高さ数丈、長さはその倍もある巨大な竹籠。これを数百人から千人に近い人夫がひいて低湿地に積み上げ「埽岸(そうがん)」とよんだと、『宋史』河渠志にある。
慶歷中、河決北都商胡、久之未塞、三司度支副使郭申錫親住董作。凡塞河決垂合、中間一埽、謂之“合龍門”、功全在此。是時屢塞不合。時合楷門埽長六十步。有水工高超者獻議、以謂埽身太長、人力不能壓、埽不至水底、礦河流不斷、而繩纜多絕。今當以六十步為三節、每節埽長二十步、中間以索連屬之、先下第一節、待其至底空壓第二、第三。舊工爭之、以為不可、雲:“二十步埽、不能斷漏。徒用三節、所費當倍、而決不塞。”超謂之曰:“第一埽水信未斷、然勢必殺半。壓第二埽、止用半力、水縱未斷、不過小漏耳。第三節乃平地施工、足以盡人力。處置三節既定、即上兩節自為濁泥所淤、不煩人功。”申錫主前議、不聽超說。是時賈魏分帥北門、獨以超之言為然、陰遣數千人於下流收漉流埽。既定而埽果流、而河決愈甚、申錫坐謫。卒用超計、商胡方定。
〔訳〕慶暦年間〔宋、仁宗の年号、1041~48年〕に黄河は北部〔宋の北京であった大名府、今の河北省大名県〕に属する商胡〔いま河北省濮陽県の東方〕で堤が切れて、長い間塞ぐことができなかった。三司度支副使〔全国の財政収支を管理する役所の副長官〕の郭申錫(998~1074年)がみずから赴いて工事を監督することになった。
そもそも黄河の決壊口を塞ぐ場合、いよいよ決壊口を締め切るという時に、決壊口に入れる最後のひとつの巨大な蛇籠を「合竜門」といい、これがうまくいって初めて締め切り工事は完成するのである。この時には何度も締め切ろうとしたが、その合竜門に用いた蛇籠の高さは六十歩〔約90m〕だったが、治水工事の職人である高超という男がこう献議した。
蛇籠が大きすぎて人力で押し入れきれず、河底まで沈まないので、決壊口の流れを止めることが出来ず、縄も切れてしまうものが多い。そこで六十歩を三部分に分け、各部分の蛇籠の高さを二十歩〔約30m〕ずつにし、各蛇籠の間を縄でつなげる。そして第一の蛇籠が底に着いてから第二、第三の蛇籠を押し入れればよかろうと。古顔の職人はこれに反対して、それは出来ない相談とばかり、「二十歩の蛇籠では決壊口を塞ぐことができず、むだに三個を使うことになり、費用は倍もかかり、堤を締め切ることは出来まい」と言った。超はこれに対して「第一の蛇籠ではたしかに水流を止めることはできないが、水勢は必ず半分に弱まるから、第二の蛇籠は半分の力で押し入れることが出来、水流もまた断ち切れぬとはいえ、みずが少しもれていると言う程度になる。第三の蛇籠は〔もう水面に出ていて〕平地の上で工事をするようなものだから、工事人の力を思う存分発揮できる。このようにして三個の蛇籠を据え付けてしまえば、上の二個の蛇籠には自然と泥土が堆積していき人力を煩わさずにすむ」と言うのであった。
申錫は前者の意見を採用して、超の説に耳を傾けなかった。この時、賈魏公〔宋の宰相になり英宗の時、魏国公に封じられた賈昌朝〕が北京大名府(だいめいふ)の留守〔りゅうしゅ、天子に代わって都を守る官)をつとめていたが、彼だけは超の言葉をもっともだと認めて、〔申錫の工事は失敗するであろうと考えていたので〕ひそかに数千人を下流に派遣して流されてくる蛇籠を拾いあげさせようとした。
さて、規定の計画通りに施行したところ、蛇籠は果たして流されてしまい、決壊口はますます大きくなり、郭申錫はこのため降格処分を受けた。結局、超の計画を用いて、商湖の決壊口はやっと塞ぐことができたのである。
※蛇籠とは、原文には「埽(そう)」とあり、刈り取った葦や柳の枝を重ねて敷き詰め、その上に土と砕石を載せ、さらに心棒として太い竹製の網を入れて、巻いて束ね、その上を竹で編んだ高さ数丈、長さはその倍もある巨大な竹籠。これを数百人から千人に近い人夫がひいて低湿地に積み上げ「埽岸(そうがん)」とよんだと、『宋史』河渠志にある。
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