瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 昨夜の内に横浜のYMさんからメールがはいった。曰く、
「YMです。このたびは、メールとお写真をありがとうございました。/お返事出すのが遅れてしまいすみませんでした。/日高先生の思いやりと行動力の速さには、本当に頭が下がります。/告別式にも参列できませんでしたから、未だに私の中では、信じられません。/日高先生が、書いていますようにきっとMさんの事は、語りつくせないのだと思います。/私でさえそう思うのですから、先生や、同級生の方々のことを思いますと、涙が出てきます。/心からご冥福を祈るとともに みなさんを思いやる日高先生 道子先生に感謝いたします。」
 
c7c9696e.JPG 北宋末から南宋初期にかけて活躍した葉夢得(1077~1148年)の避暑録話のなかに「范文正公の奇怪さ」に付いて書いた一文を見つけたので、掲載しておく。
 



 避暑録話 巻四より 范文正公の奇怪さ
 陸龜蒙作《怪松圖贊》、謂草木之性本無怪、生不得地、有物遏之、而陽氣作於內、則憤而為怪。範文正公初數以言事動朝廷、當權者不喜、每目為怪人。文正知之、及後復用為西帥、上疏請城京師以備敵、曰:「吾又將怪矣。」乃書《龜蒙贊》以遺當權者、曰:「朝廷方太平、不喜生事。某於搢紳中獨如妖言、既齟齬不得伸辭、因乖戾得無如龜蒙之松乎?」時雖知其諷己、訖不能盡用其言。
〔訳〕陸亀蒙の「怪松図の賛」にいう、「草木はその本性として、も友と奇怪なはえ方はせぬ。ただ土地が所を得ず、その成長を妨げる何かがあると、生気が内にこもって、勃然として奇怪な形を作る」と。
 范文正公は、当初しばしば意見を具申して朝廷をゆさぶったため、当路者はこれが気に入らず、いつも公を怪人〔奇っ怪な人間〕あつかいにしていた。公はそのことを知っていて、西帥となった時、意見書をたてまつり、国都の城壁を堅固にして夷狄(いてき)に備えるよう請願したが、その時公は「またしても怪人あつかいにされるさ」と言って、そこで陸亀蒙の賛を書いて当路者たちに送り届け、こう付け足した――「朝廷におかれては、時まさに太平のため、事を起こすことを喜ばれませぬが、それがしは公卿のなかで、ただ独り妖言をなしております。なにかとぎくしゃくとして申したきことも申せぬため、かくは亀蒙の松のごときひねくれ方とはあいなりましょう」。その時みな、自分たちがあてつけられているのだとは知ったが、ついに公の建言をすべて採用するには至らずじまいだった。
 
※陸亀蒙〔りくきもう、?~881年〕は中国、晩唐の詩人。字(あざな)は魯望(ろぼう)。蘇(そ)州(江蘇省)の人。科挙に及第せず、一時、地方官の幕僚となって出仕したものの、やがて松江(しょうこう)(江蘇省)の甫里(ほり)に隠棲(いんせい)して晴耕雨読の気ままな生涯を終えた。これは、彼と『松陵集』で詩を唱和しあった皮日休(ひじつきゆう)とともに、晩唐期における士人の新しい生き方を示したものといえる。詩風は穏やかな情感を詠じ、きわめて清麗と評される。詩文集はその隠棲の地にちなんで『唐甫里先生文集』20巻とも、松江の別名、笠沢(りゅうたく)にちなんで『笠沢叢書(そうしょ)』四巻ともいう。その雑文(小品文(しょうひんぶん))は比喩(ひゆ)や風刺に富み、後の魯迅(ろじん)によって鋭い現実批判の文章として称賛されたものである。
60916650.JPG※范仲淹は蘇州呉県(江蘇省蘇州市)の出身で、2歳の時に父を失って母が長山の朱氏に再嫁したのでその姓に従い、名を説と改めたが、成長して生家を知るとともに本姓にもどした。應天府に行って苦学し、1015年に大中祥符中進士に及第して広徳軍司理参事となり晏殊〔あん しゅ、991~1055年〕に薦められて秘閣校理となり、つねに天下のことを論じて士大夫の気節を奮いたたせていた。仁宗が親政の時にあたって中央で採用され吏部員外郎となったが、宰相の呂夷簡〔りょいかん、979~1044年〕に抗論して饒州に左遷された。以後、彼を支持した余靖〔よせい、1000~1064年)・尹洙〔いん しゅ、1001~1047年〕・欧陽修〔おうよう しゅう100~1072年〕も次々と朝廷を去り、自らを君子の朋党と称した。1038年に李元昊が西夏〔タングート族〕をたてると、轉運使〔西帥〕として陝西をその侵攻から防ぎ辺境を守ること数年、号令厳明にして士卒を愛し、羌人は仲淹が龍圖閣直学士であることから「龍圖老子」と呼び、夏人は戒め合ってあえて国境を侵すことなく「小范老子、胸中自ずから数万甲兵あり」と恐れはばかった。そうした功績により諫官をしていた欧陽修が推薦し枢密副使・参知政事となった。仲淹は富弼〔ふひつ、1004~1083年〕とともに上奏して、1.黜捗(ちゅっちょく)を明らかにし、2.僥倖を抑え、3.貢挙を精密にし、4.長官を厳選し、5.公田を均一にし、6.農桑を厚くし、7.武備を修め、8.恩信を推し、9.命令を重んじ、10.徭役を減ずる、などの十策を献じ施政の改革を図ったが、当時はすでに朋党の争いが弊害をあらわしており彼の案も悦ばれず、河東陝西宣撫使として出向し戸部侍郎などを歴任した。穎州に赴任する途上で没する。兵部尚書を追贈された。
 
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