瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
夢渓筆談 巻13より 名将とは
狄青戍涇原日、嘗與虜戰、大勝、追奔數裏。虜忽壅遏山踴、知其前必遇險。士卒皆欲奮擊。青遽鳴鉦止之、虜得引去。驗其處、果臨深澗、將佐皆侮不擊。青獨曰:“不然。奔亡之虜、忽止而拒我、安知非謀?軍已大勝、殘寇不足利、得之無所加重;萬一落其術中、存亡不可知。寧悔不擊、不可悔不止。”青後平嶺寇、賊帥儂智高兵敗奔邕州、其下皆欲窮其窟穴。青亦不從、以謂趨利乘勢、入不測之城、非大將軍。智高因而獲免。天下皆罪青不入邕州、脫智高於垂死。然青之用兵、主勝而已。不求奇功、故未嘗大敗。計功最多、卒為名將。譬如弈棋、已勝敵可止矣、然猶攻擊不已、往往大敗。此青之所戒也、臨利而能戒、乃青之過人處也。
〔訳〕狄青(てきせい)が涇原〔けいげん、甘肅省涇川県〕を守備していた時、かつて敵〔タングート〕と戦い、大いに勝って数十里も追撃した。と、敵は山で道を塞がれて進めぬ様子、きっと険しい地形にぶつかったに違いないと思われた。士卒はみな奮い立ってそこを襲おうとした。ところが、青は鉦(かね)を鳴らして進撃を止めさせたので、敵は逃げ去ることが出来た。そこへ行って調べたところ、やはり深い谷川にのぞんでいたので、幕僚達はみな追い撃ちを止めたことを残念がった。ところが青だけは、
「いや、逃げる敵がふいに止まってわれわれの進路をふさいだのは、計略だったかも知れぬ。敗残兵を撃ったところで、何の足しにもなるまい。万一敵の計略にかかったら、どうなるかわからぬのだ。追い撃ちを止めたのことを残念がるのはいいが、追撃を思いとどまらなかったことを残念がるようなことになってはこまるではないか」と。
青は後に中国南方の反徒平定に赴き、敵将儂智高〔のうちこう、チワン族の首領〕の軍を破り邕州〔ようしゅう、広西チワン族自治区南寧〕に敗走させた。部下たちが敵の潜む本拠まで掃討しようとしたとき、青はまた反対した。勢いに乗って深入りして、状況判断のつかぬ敵の城に入りこむのは大将のやることではないと考えたからである。智高はおかげで逮捕をまぬがれた。
天下はみな青が邕州に入らず、智高を窮地から抜け出させてしまったことをせめた。しかし、青の用兵は、勝てばいい主義でめざましい大勝利など求めないからこそ、いまだかつて大敗したことがないのである。戦功の数でいえば最も多いということになり、結局は名将ということになった。これはたとえば碁を打つようなもので、もう勝っていて敵を止めることができるのに、なお攻めを止めなければ大敗することが多い。これを青は用心したのである。好調の時に引き締めることができる、これが青の他人よりすぐれている所なのである。
※狄青〔1008~1057年〕は北宋の農民出身の将軍で、慎重寡言かつ機が熟すれば勇断という人となりと、兵卒より身を起こしたので、つねに士卒と飢寒労苦をともにする戦いぶりとで、将士の信頼も厚く、着実に戦勝を勝ち取っていったので北宋随一の名将とされた。タングヘート族の西夏と戦ったのは、仁宗の宝元年間〔1038~40年〕。儂智高の軍と戦ったのは皇祐四~五〔1052~53年〕で、この時、大越〔ベトナムの李朝の国号〕の国王李徳政が宋に援軍を送ろうと申し出たが、狄青は内乱鎮定に外国の援助を借りることはいけないと力説して反対し、宋軍の力だけで内乱を鎮定したのであった。宋庁の軍事を統べる最高機関である枢密院の長官〔枢密使〕になった。
※今でも中国のベトナムに接する地域と、ベトナム北部に住むチワン系の少数民族は儂(ノン)族といっているが、儂智高はその儂族の首酋(しゅしゅう)。儂氏はもと南漢劉氏に服属していたが、宋が南漢を滅ぼすと宋に内属、しかし宋の太宗によるベトナム討伐失敗後は、ベトナムの李朝大越国に服属、さらに智高の父儂存福の時、宋に通じて大越に反して独立、長生国をたてたが大越の討伐を受ける。子の智高は大越に反しつつ、宋の領内、いまの広西チワン族自治区内に侵入し南天国と称し宋への内属を願い出たが許されなかった。そこで皇祐四年、邕州を陥(おとしい)れ宋の領内に大南国を建てたのである。狄青の軍に破られた後、儂智高は大理〔雲南省〕へ逃亡したが、その後の生死は不明という。
狄青戍涇原日、嘗與虜戰、大勝、追奔數裏。虜忽壅遏山踴、知其前必遇險。士卒皆欲奮擊。青遽鳴鉦止之、虜得引去。驗其處、果臨深澗、將佐皆侮不擊。青獨曰:“不然。奔亡之虜、忽止而拒我、安知非謀?軍已大勝、殘寇不足利、得之無所加重;萬一落其術中、存亡不可知。寧悔不擊、不可悔不止。”青後平嶺寇、賊帥儂智高兵敗奔邕州、其下皆欲窮其窟穴。青亦不從、以謂趨利乘勢、入不測之城、非大將軍。智高因而獲免。天下皆罪青不入邕州、脫智高於垂死。然青之用兵、主勝而已。不求奇功、故未嘗大敗。計功最多、卒為名將。譬如弈棋、已勝敵可止矣、然猶攻擊不已、往往大敗。此青之所戒也、臨利而能戒、乃青之過人處也。
〔訳〕狄青(てきせい)が涇原〔けいげん、甘肅省涇川県〕を守備していた時、かつて敵〔タングート〕と戦い、大いに勝って数十里も追撃した。と、敵は山で道を塞がれて進めぬ様子、きっと険しい地形にぶつかったに違いないと思われた。士卒はみな奮い立ってそこを襲おうとした。ところが、青は鉦(かね)を鳴らして進撃を止めさせたので、敵は逃げ去ることが出来た。そこへ行って調べたところ、やはり深い谷川にのぞんでいたので、幕僚達はみな追い撃ちを止めたことを残念がった。ところが青だけは、
「いや、逃げる敵がふいに止まってわれわれの進路をふさいだのは、計略だったかも知れぬ。敗残兵を撃ったところで、何の足しにもなるまい。万一敵の計略にかかったら、どうなるかわからぬのだ。追い撃ちを止めたのことを残念がるのはいいが、追撃を思いとどまらなかったことを残念がるようなことになってはこまるではないか」と。
青は後に中国南方の反徒平定に赴き、敵将儂智高〔のうちこう、チワン族の首領〕の軍を破り邕州〔ようしゅう、広西チワン族自治区南寧〕に敗走させた。部下たちが敵の潜む本拠まで掃討しようとしたとき、青はまた反対した。勢いに乗って深入りして、状況判断のつかぬ敵の城に入りこむのは大将のやることではないと考えたからである。智高はおかげで逮捕をまぬがれた。
天下はみな青が邕州に入らず、智高を窮地から抜け出させてしまったことをせめた。しかし、青の用兵は、勝てばいい主義でめざましい大勝利など求めないからこそ、いまだかつて大敗したことがないのである。戦功の数でいえば最も多いということになり、結局は名将ということになった。これはたとえば碁を打つようなもので、もう勝っていて敵を止めることができるのに、なお攻めを止めなければ大敗することが多い。これを青は用心したのである。好調の時に引き締めることができる、これが青の他人よりすぐれている所なのである。
※狄青〔1008~1057年〕は北宋の農民出身の将軍で、慎重寡言かつ機が熟すれば勇断という人となりと、兵卒より身を起こしたので、つねに士卒と飢寒労苦をともにする戦いぶりとで、将士の信頼も厚く、着実に戦勝を勝ち取っていったので北宋随一の名将とされた。タングヘート族の西夏と戦ったのは、仁宗の宝元年間〔1038~40年〕。儂智高の軍と戦ったのは皇祐四~五〔1052~53年〕で、この時、大越〔ベトナムの李朝の国号〕の国王李徳政が宋に援軍を送ろうと申し出たが、狄青は内乱鎮定に外国の援助を借りることはいけないと力説して反対し、宋軍の力だけで内乱を鎮定したのであった。宋庁の軍事を統べる最高機関である枢密院の長官〔枢密使〕になった。
※今でも中国のベトナムに接する地域と、ベトナム北部に住むチワン系の少数民族は儂(ノン)族といっているが、儂智高はその儂族の首酋(しゅしゅう)。儂氏はもと南漢劉氏に服属していたが、宋が南漢を滅ぼすと宋に内属、しかし宋の太宗によるベトナム討伐失敗後は、ベトナムの李朝大越国に服属、さらに智高の父儂存福の時、宋に通じて大越に反して独立、長生国をたてたが大越の討伐を受ける。子の智高は大越に反しつつ、宋の領内、いまの広西チワン族自治区内に侵入し南天国と称し宋への内属を願い出たが許されなかった。そこで皇祐四年、邕州を陥(おとしい)れ宋の領内に大南国を建てたのである。狄青の軍に破られた後、儂智高は大理〔雲南省〕へ逃亡したが、その後の生死は不明という。
この記事にコメントする
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
sechin@nethome.ne.jp です。
カレンダー
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
最新記事
(10/07)
(10/01)
(09/07)
(09/05)
(08/29)
最新コメント
[m.m 10/12]
[爺の姪 10/01]
[あは♡ 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
[ままだいちゅき 09/20]
[ままだいちゅき 09/20]
[ままだいちゅき 09/20]
[爺 09/20]
[ままだいちゅき 09/20]
最新トラックバック
ブログ内検索
カウンター