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 夢渓筆談 巻13より 築城の奇策
 李允則守雄州、北門外民居極多、城中地窄、欲展北城、而以遼人通好、恐其生事、門外舊有東嶽行宮、允則以銀為大香爐、陳於廟中、故不設備。一日、銀爐為盜所攘、乃大出募賞、所在張榜、捕賊甚急。久之不獲、遂聲言廟中屢遭寇、課夫築墻圍之。其實展北城也、不逾旬而就、虜人亦不怪之、則今雄州北關城是也。大都軍中詐謀、未必皆奇策、但當時偶能欺敵、而成奇功。時人有語雲:“用得著、敵人休;用不著、自家羞。”斯言誠然。
〔訳〕李允則〔953-1028年〕が雄州を治めていた時、北門外には住民が非常に多かった。城内は土地が狭いので、北に城壁を伸ばしたいと思ったが、遼国と友好関係を結んでいる際でもあり、いざこざが起こっては困る。門外に旧くから東嶽廟の別院があった。允則は銀で大香炉を作り、廟中に置き放しにし、わざと何の用心もしなかった。ある日、銀の香炉は泥棒に盗まれてしまった。すると大々的に賞金をかけ。方々に布告を張り出して、盗賊詮議の厳しさといったらなかった。だが何時まで経っても捕まらないので、ついに廟のなかがしばしば賊に荒らされるからと声明を発して人夫をかり出すと牆(かべ)を築き廟を囲んでしまった。じつはこうして北に城壁を伸ばしたのであった。十日もかからぬうちに出来上がってしまったが、遼人もこれを変には思わなかった。これがいまの雄州の北関城である。だいたい軍中の策謀というものは、すべて奇策によるものとは限らないが、この場合はたまたま敵を完全にあざむいて奇功を立てることが出来た。当時「用いてこそてきが冷や汗をかき、用いなかったら味方が恥をかく」といった人がいるが、まことにその通りである。
 
※李允則(953-1028年)は宋の神宗〔997~1021年〕の時の人。河北の滄州・瀛州・雄州など宋と遼の国境地帯の知事を二十余年間務めた。
 
※宋は、真宗の景徳元〔1004〕年に、遼の大軍が宋国内に侵入して黄河畔の澶州〔河南省濮陽県〕にまで達したので、遼に優位を譲る講和条約〔澶淵の盟約〕を結んだ。この講和条約の条件には、
1.宋は軍備として遼に毎年絹二十万匹・銀十万両をおくる。2.宋の真宗は遼の聖宗の母を叔母とし、遼国は兄弟の交わりをする。3.遼・宗の国境は現状のままとする。 などがあった。

4bf943d7.JPG※東嶽廟は山東省の東嶽泰山の神を祭る廟。人間の生死を司り陰界を支配するものとして信仰された。
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