瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
夢渓筆談 巻13より 蓼花吟
瓦橋關北與遼人為鄰、素無關河為陰。往歳六宅使何承矩守瓦橋、始議因陂澤之地、瀦水為塞。欲自相視、恐其謀泄。日會僚佐、泛船置酒賞蓼花、作《蓼花遊》數十篇、令座客屬和;畫以為圖、傳至京師、人莫喻其意。自此始壅諸澱。慶歷中、內侍楊懷敏復踵為之。至熙寧中、又開徐村、柳莊等濼、皆以徐、鮑、沙、唐等河、叫猴、雞距、五眼等泉為之原、東合滹沱、漳、淇、易、白等水並大河。於是自保州西北沈遠濼、東盡滄州泥枯海口、幾八百裏、悉為瀦潦、闊者有及六十裏者、至今倚為藩籬。或謂侵蝕民田、歳失邊粟之入、此殊不然。深、冀、滄、瀛間、惟大河、滹沱、漳水所淤、方為美田;淤澱不至處、悉是斥鹵、不可種藝。異日惟是聚集遊民、亂堿煮鹽、頗幹鹽禁、時為寇盜。自為瀦濼、奸鹽遂少。而魚蟹菇葦之利、人亦賴之。
〔訳〕瓦橋関(がきょうかん)は、北は遼人の勢力範囲と接しているが、もともとは障害とすべき河川がなかった。先年六宅使〔宋の武官名〕の何承矩(かしょうく)が瓦橋の守備に当たった時、初めて沼や湿地に水を留めて障害とした。承矩はみずからそのさまを視察したいと思い、その計画が敵に漏れないようにと、日毎に幕僚を集め、船を用意し酒を用意して蓼(たで)の花見としゃれ込んだ。「蓼花吟」数十編を作って、一座の見物客にも和して詩作させ、その絵を作って地図の代わりとしたのである。舟遊びのうわさは都にまで伝わったが、その心意を悟った者はいなかった。このときから河北の諸沼沢に水を溜めるようになったのである。慶暦年間〔宋、仁宗の年号。1041~48年〕に、宦官の楊懐敏(ようかいびん)がまたその工事をした。煕寧(きねい)年間〔宋、神宋の年号。1066~77年〕にまた徐村・柳荘などの湖を作ったが、みな徐・鮑・沙河などの河川や叫猴(きょうこう)・鶏距(けいきょ)・五眼などの泉の水を源としたもので、東は滹沲(こだ)・漳(しょう)・淇(き)・易(えき)・白河などの河川と黄河に合流している。かくて保州(河北省保定)の西北の沈遠濼(ちんえんはく)から、東は滄州〔そうしゅう、河北省滄県〕の泥枯海(でいこかい)の口まで、ほとんど八百里が、すっかり水で覆われ、幅の広い所では六十里もあって、いまに至るまで国の守りとなっている。
民の田をつぶし、国境地帯の穀物収入をなくしたと言う者もいるが、それは大いに違う。深州〔河北省深県〕・冀州〔同冀県〕・滄州・瀛州〔同河間県〕一帯〔河北東南部〕では、黄河・滹沲河・漳水流域だけが沃土を堆積しいて美田を作ることが出来るが、堆積の及んでないところはみな塩分の多い土壌で、耕作は出来ないのだ。かつてこの地帯には浮浪人ばかりが集まっていて、地面に凝固している塩をこそぎとり塩を焼くなど、法をおかして塩を作り、しばしば徒党をくんで強盗までした。湖沼を作ってからは、勝手に塩を作る者もすくなくなり、一方水産物やマコモ・アシなどがなどの利点もあって、ひとびともまたこれに頼って暮らしているのだ。
※瓦橋関は今の北京の南方、河北省雄県。宋の領有となってから雄州とあらため、遼〔契丹〕と接する国境第一線の用地であった。
※何承矩〔かしょうく、生没年不詳〕は、宋初太宗の頃の人で、端拱(たんきょう)年間〔988~989年〕に河北で郡治に当たっていたとき契丹(きたい)が国境を騒がすので、その騎兵部隊の進出を防ぐために水を引き沼沢地を作り、稲田をひらいて屯田兵を置く作を上奏、河北縁辺屯田使が置かれることになった。
瓦橋關北與遼人為鄰、素無關河為陰。往歳六宅使何承矩守瓦橋、始議因陂澤之地、瀦水為塞。欲自相視、恐其謀泄。日會僚佐、泛船置酒賞蓼花、作《蓼花遊》數十篇、令座客屬和;畫以為圖、傳至京師、人莫喻其意。自此始壅諸澱。慶歷中、內侍楊懷敏復踵為之。至熙寧中、又開徐村、柳莊等濼、皆以徐、鮑、沙、唐等河、叫猴、雞距、五眼等泉為之原、東合滹沱、漳、淇、易、白等水並大河。於是自保州西北沈遠濼、東盡滄州泥枯海口、幾八百裏、悉為瀦潦、闊者有及六十裏者、至今倚為藩籬。或謂侵蝕民田、歳失邊粟之入、此殊不然。深、冀、滄、瀛間、惟大河、滹沱、漳水所淤、方為美田;淤澱不至處、悉是斥鹵、不可種藝。異日惟是聚集遊民、亂堿煮鹽、頗幹鹽禁、時為寇盜。自為瀦濼、奸鹽遂少。而魚蟹菇葦之利、人亦賴之。
〔訳〕瓦橋関(がきょうかん)は、北は遼人の勢力範囲と接しているが、もともとは障害とすべき河川がなかった。先年六宅使〔宋の武官名〕の何承矩(かしょうく)が瓦橋の守備に当たった時、初めて沼や湿地に水を留めて障害とした。承矩はみずからそのさまを視察したいと思い、その計画が敵に漏れないようにと、日毎に幕僚を集め、船を用意し酒を用意して蓼(たで)の花見としゃれ込んだ。「蓼花吟」数十編を作って、一座の見物客にも和して詩作させ、その絵を作って地図の代わりとしたのである。舟遊びのうわさは都にまで伝わったが、その心意を悟った者はいなかった。このときから河北の諸沼沢に水を溜めるようになったのである。慶暦年間〔宋、仁宗の年号。1041~48年〕に、宦官の楊懐敏(ようかいびん)がまたその工事をした。煕寧(きねい)年間〔宋、神宋の年号。1066~77年〕にまた徐村・柳荘などの湖を作ったが、みな徐・鮑・沙河などの河川や叫猴(きょうこう)・鶏距(けいきょ)・五眼などの泉の水を源としたもので、東は滹沲(こだ)・漳(しょう)・淇(き)・易(えき)・白河などの河川と黄河に合流している。かくて保州(河北省保定)の西北の沈遠濼(ちんえんはく)から、東は滄州〔そうしゅう、河北省滄県〕の泥枯海(でいこかい)の口まで、ほとんど八百里が、すっかり水で覆われ、幅の広い所では六十里もあって、いまに至るまで国の守りとなっている。
民の田をつぶし、国境地帯の穀物収入をなくしたと言う者もいるが、それは大いに違う。深州〔河北省深県〕・冀州〔同冀県〕・滄州・瀛州〔同河間県〕一帯〔河北東南部〕では、黄河・滹沲河・漳水流域だけが沃土を堆積しいて美田を作ることが出来るが、堆積の及んでないところはみな塩分の多い土壌で、耕作は出来ないのだ。かつてこの地帯には浮浪人ばかりが集まっていて、地面に凝固している塩をこそぎとり塩を焼くなど、法をおかして塩を作り、しばしば徒党をくんで強盗までした。湖沼を作ってからは、勝手に塩を作る者もすくなくなり、一方水産物やマコモ・アシなどがなどの利点もあって、ひとびともまたこれに頼って暮らしているのだ。
※瓦橋関は今の北京の南方、河北省雄県。宋の領有となってから雄州とあらため、遼〔契丹〕と接する国境第一線の用地であった。
※何承矩〔かしょうく、生没年不詳〕は、宋初太宗の頃の人で、端拱(たんきょう)年間〔988~989年〕に河北で郡治に当たっていたとき契丹(きたい)が国境を騒がすので、その騎兵部隊の進出を防ぐために水を引き沼沢地を作り、稲田をひらいて屯田兵を置く作を上奏、河北縁辺屯田使が置かれることになった。
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