瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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b7ee748f.jpeg  どうも、詩の一部を取り出して表記するのはなんとも中途半端で、あんまり感心しない。昨日のブログで取り上げた李白の「梁園吟」の全文を取り上げることにした。
 天宝三載(744年)の春、李白は長安を辞して東に向かう途中、洛陽に立ち寄る。都で著名の詩人が洛陽に来たというので、杜甫は李白を訪ねたという。杜甫は李白の強烈な個性に魅せられ、李白と共に旅をしたいと思うが、丁度そのとき、杜甫の祖母が亡くなり、秋になったら陳留(河南省開封市)で再会しようと約束して別れる。李白の「梁園吟」は、長安を去り、梁園に至ったときの作という。秋八月になって杜甫が李白のあとを追うと、李白はすでに宋州(河南省商丘市)に移っていたという。杜甫は宋州で李白と再会し、そのころ近くを旅していた高適(こうせき)も加わって三詩人の梁宋(りょうそう)の旅がはじまったという。
 
  梁園吟  李白
我浮黄河去京闕  我黄河に浮かんで京闕を去り    
挂席欲進波連山  席(むしろ)を挂けて進まんと欲すれば波山を連ぬ
天長水闊厭遠渉  天は長く水は闊くして遠渉に厭き
訪古始及平臺間  古を訪うて始めて及ぶ平臺の間
平臺爲客憂思多  平臺に客と爲りて憂思多く
對酒遂作梁園歌  酒に對して遂に作る梁園の歌
却憶蓬池阮公詠  却って憶ふ蓬池の阮公の詠
因吟緑水揚洪波  因って吟ず緑水洪波を揚ぐるを
洪波浩蕩迷舊國  洪波 浩蕩 舊國に迷ひ
路遠西歸安可得  路遠くして西歸安んぞ得る可けんや
人生達命豈暇愁  人生命に達すれば豈に愁ふるに暇あらん
且飲美酒登高樓  且らく美酒を飲まん高樓に登りて
〔訳〕わたしは黄河の舟に乗って都の関〔潼関:陝西省東端〕を去り、
   むしろの帆を揚げて進もうとすると波は山に連なる。
   空ははるかに水は広く遠い旅行にあきたが
   古蹟を訪うてはじめは平台〔梁の孝王の離宮〕のあたりに着いた。
   平台に旅人となってうれいは多く
   酒にむかってとうとう梁園の歌を作った。
   蓬池の阮籍先生の詠を思い出し
   「清らかな水は大波を揚げ」とうたう。
   大波はひろびろとしてこの古の梁国で迷い
   路は遠く西に帰ることもできそうもない。
   人の生きるのは天命だとさとれば愁える暇もなく
   ひとまずうまい酒を飲もうて高楼にのぼる。
※阮籍先生:晋の詩人阮籍の「詠嘆」に「徘徊蓬池上、還顧望大梁。淥水揚洪波、曠野莽茫茫」とある。
 
平頭奴子搖大扇  平頭の奴子大扇を搖るがし
五月不熱疑清秋  五月も熱からず清秋かと疑ふ
玉盤楊梅爲君設  玉盤の楊梅 君が爲に設け
呉鹽如花皎白雪  呉鹽は花の如く白雪よりも皎し
持鹽把酒但飲之  鹽を持ち酒を把って但だ之を飲まん
莫學夷齊事高潔  學ぶ莫かれ夷齊の高潔を事とするを
昔人豪貴信陵君  昔人豪貴とす信陵君
今人耕種信陵墳  今人耕種す信陵の墳
荒城虚照碧山月  荒城虚しく照らす碧山の月
古木盡入蒼梧雲  古木盡(ことごと)く入る蒼梧の雲
粱王宮闕今安在  粱王の宮闕今安くにか在る
枚馬先歸不相待  枚馬先づ歸って相ひ待たず
〔訳〕平頭巾のボーイが大団扇であおぎ
   夏の五月も暑くなく秋が来たかとおもう。
   玉の平鉢に盛ったヤマモモはきみのためにあつらえた
   また呉の塩は花のようで白さは雪のよう。
   塩をつまみ酒をとりあげひたすらにのみ
   伯夷・淑斉のまねをして高潔なふりをするな。
   昔の人で豪貴だったのは信陵君なのだか
   今の人間はその墳(つか)を耕している。
   荒城はむなしく碧山の月が照らし
   古木はすべて蒼悟の山の雲に隠された。
   梁王の宮殿はいまどこにあるのか
   枚乗(ばいじょう)も司馬相如も帰ってしまった。
※呉の塩:今の江蘇省あたりで作った塩。酒の肴となる。
※伯夷・淑斉:殷末の伯夷・淑斉の兄弟は周の粟は食わないといって餓死した。
※信陵君:戦国時代の魏の公子無忌。その墓は凌儀県〔今の開封市〕にあった。
※枚乗も司馬相如も:原文では「枚馬」。枚乗(ばい じょう、生没年不詳)・司馬相如(しば しょうじょ、紀元前179年 - 紀元前117年)ともに梁の孝王に仕えた文人で、王の死後郷里に帰った。
※汴水:開封のあたりを流れる淮水の支流。開封を汴京と称したことあるのはこのため。
 
舞影歌聲散淥池  舞影 歌聲 淥池(ろくち)に散じ
空餘汴水東流海  空しく餘す汴水の東にかた海に流るるを
沈吟此事涙滿衣  此の事を沈吟して涙衣に滿つ
黄金買醉未能歸  黄金もて醉を買ひ未だ歸る能はず
連呼五白行六博  五白を連呼し六博を行ひ
分曹賭酒酣馳輝  曹を分かち酒を賭して馳輝に酣(ゑ)ふ
酣馳輝          馳輝に酣ひて
歌且謠          歌ひ且つ謠へば 
意方遠          意 方に遠し
東山高臥時起來  東山に高臥して時に起ち來る
欲濟蒼生未應晩  蒼生を濟はんと欲すること未だ應に晩からざるべし
〔訳〕かつての舞も歌も淥池にあとかたもなく
   あだに残っているのは東に流れて海に入る汴水だけだ
   このことをよく思えば涙は衣をぬらすので
   黄金で酒の酔いを買ったが未だ家には帰れない。
   「五白だ、五白だ」といって博奕(ばくち)をし、
   組を分け酒を賭け熱中して時間をすごす。
   歌い歌って、行く末のことを思う。
   東山に高臥し時を見て立ち上がり
   人民を救おうとしてもまだ遅すぎるはずはない。
 
 東坡志林 巻二 記道人戲語
 紹聖二年五月九日、都下有道人坐相國寺賣諸禁方、緘題其一曰:賣「賭錢不輸方」。少年有博者、以千金得之。歸、發視其方、曰、「但止乞頭。」道人亦善鬻術矣、戲語得千金、然亦未嘗欺少年也。
3ca75dae.jpeg〔訳〕《道人の戯語》紹聖二(1095)年五月九日。都に一人の道人がいて、相国寺に坐っていろいろなマジナイの秘法を売っていたが、その一つに「賭博(ばくち)に絶対負けぬ法」と封筒の表に書いてあるのがあった。一人の賭博ずきの若者がそれを千金で買い、帰ってから中を開けてみると、それには、
「ただ乞頭(きっとう)をやめよ(賭博をするな)。」
と書いてあった。この道人、商売の術にもたけていたのだ。戯語によって千金を儲けたのだが、しかし決して若者をだましたわけでもなかったのである。
 
4889d25a.jpeg※乞頭:「唐国史補〔李肇他著〕」に拠れば「什一而取、謂之乞頭〔什一にして取る、これを「乞頭」と謂う〕」とある。十分の一を取ることを「乞頭」ということらしい。すなわち、賭博に於ける『寺銭』のことらしい。寺銭とは博打の主催者が売上から抜く手数料の事で、昔はお寺が博打の主催者となっていた為、寺銭と言う名前がついたという。
※李白は天宝三載〔744年〕長安を去って、梁園〔漢の初め、梁の孝王の庭園〕のあった今の河南省開封市にいたり、「梁園吟」をつくっている。この最後九句の部分より、
 
  梁園吟  李白   〔後 九句〕
舞影歌聲散綠池  舞影 歌聲 綠池に散じ
空餘汴水東流海  空しく餘す汴水の東のかた海に流るるを
沈吟此事涙滿衣  此の事を沈吟して涙衣に滿つ
黄金買醉未能歸  黄金もて醉を買ひ未だ歸る能はず
連呼五白行六博  五白を連呼し六博を行ひ
分曹賭酒酣馳輝  曹を分かち酒を賭して馳輝に酣(ゑ)ふ
酣馳輝        馳輝に酣ひて
歌且謠        歌ひ且つ謠へば 
意方遠        意 方に遠し
東山高臥時起來  東山に高臥して時に起ち來る
欲濟蒼生未應晩  蒼生を濟はんと欲すること未だ應に晩からざるべし
7b0dc00c.jpeg〔訳〕舞姫の舞いも歌声も綠池に消え去り、
今はただ汴水が空しく東に流れていくだけ、
このことを思うと涙があふれて衣をぬらす、
金をはたいて飲み続け、帰るのはやめよう
五白の掛け声を連呼し六博の博打を楽しみ、
二手に分かれて酒を賭け馳せ行くときの間に酔う、
時の間に酔い、歌いかつ謡えば、心ははるかかなたにさまよい出る
しばらく東山に臥せて時がきたら立ち上がろう、
世の民を救おうとするこの気概はまだまだ捨てたものではない
 
李白は長安を追放されるや、船に乗って黄河を下り、東へと向かった。その途次洛陽で杜甫と出会ったのは有名な話だ。その後二人は行動を共にして、更に黄河を下っていった。この詩は洛陽の下流、開封近くにある梁園に立ち寄った際の作。梁園とは前漢の文帝の子梁孝王が築いた庭園。詩にある平臺は梁園にあり、また阮籍は梁園付近の蓬池に遊んだ。李白はそうした史実を引用しながら、過去の栄華と今日の歓楽、そして未来への思いを重層的に歌い上げている。李白が誰と飲んでいるのかは定かではないが、杜甫である可能性は高いという。李白はその男と酒を酌み交わしながら、長安への後髪引かれる思いを吐露しつつ、機会があったらもう一旗あげようとする抱負を歌いこんだものであろう。
 
 東坡志林 巻一 措大喫飯
 有二措大相與言志、一云:「我平生不足惟飯與睡耳、他日得志、當飽喫飯、飯了便睡、睡了又喫飯。」一云:「我則異於是、當喫了又喫、何暇復睡耶!」吾來廬山、聞馬道士嗜睡、於睡中得妙。然吾觀之、終不如彼措大得喫飯三昧也。
〔訳〕《貧書生と飯》二人の貧書生がそれぞれ理想としていることを語り合った。一人が言った。
「私はかねがね不足に思っているのは飯と睡眠だけだ。いつか志を得たならば、腹一杯飯を食って睡り、睡ったらまた飯を食うようにしたいものだ」
 もう一人は言った。
「私はそれとちがう。飯を食った上に又食いたいな。睡るひまなんかありはしない」
 私は廬山に来て、馬(ば)と言う道士がよく睡り、睡りの中に妙境を得ているという話を聞いた。しかし、私から見れば、ついにかの貧書生が飯食い三昧を得ているのには及ばないと思う。
 
東坡志林 巻一 記六一語
 頃歲孫莘老識歐陽文忠公、嘗乘間以文字問之、云:「無它術、唯勤讀書而多為之、自工。世人患作文字少、又嬾讀書、每一篇出、即求過人、如此少有至者。疵病不必待人指擿、多作自能見之。」此公以其嘗試者告人、故尤有味。
〔訳〕《六一居士の語》最近、孫莘老(そんしんろう)が王陽文忠公の面識を得、ある日、公のおひまな時をうかがって文章に上達する法をたずねたところが、公はいわれた。
「特別に術はない。ただ読書に勤め、そして沢山作れば自然に上手になる。世間の人々の欠点は文章を作る量が少なく、しかも読書を怠っていることだ。そのくせ一篇を発表するごとに人を凌いでやろうと考えている。それでは先ず良い文章はできない。文章の欠点は人から指摘されなくても、沢山作れば自然にみえてくるものだ」
 文忠公はご自分の体験をはなされたのであって、だからこそ特に味わいが深いのである。
 
※歴史上はじめて号を用いた人物は、中国北宋の欧陽修とされる。一万巻の蔵書・一千巻の拓本・一張の琴・一局の碁・一壺の酒・一人の居士ということから「六一居士」と号した。それ以降、名だたる文人がこれに倣ったという。名や字と異なり、自身で名付けたり、他人によって名付けられる。現在では使用目的に応じ、筆名、雅号、画号、俳名、芸名、源氏名、狂名、候名などがある。わが号の『拙痴无』などはまず狂名というべきか。
 欧陽 修(おうよう しゅう、歐陽脩/欧阳修、1007~1072年)は、北宋の仁宗~神宗期の政治家、詩人・文学者、歴史学者。字は永叔、醉翁・六一居士と号す。謚号は文忠。唐宋八大家の一人。
 
※孫莘老:孫覚 (1028~1090年)といい、莘老は字。高郵(現江蘇省揚州市近郊)の人で、北宋初期の文学者にして教育家の胡瑗(こえん、993~1059年)に学び、進士に及第。以後さまざまな要職を歴任した。王安石とも文学的才能を認め合って親交があったが、その政治的意見は異なり、とくに「青苗法」には激しく反対したという。また孫莘老は黄庭堅の「外舅」つまりは岳父である。
「孫莘老寄墨四首」は、蘇軾が孫覚(そん・かく)から墨を送られた喜びをうたった詩である。その一首目を記しておく。
 
徂徠无老松 徂徠(そらい)に老松(ろうしょう)无(な)く、
易水无良工 易水(えきすい)に良工无(な)し
珍材取楽浪 珍材を楽浪(らくろう)に取るも、
妙手惟潘翁 妙手は惟(た)だ潘翁(はんおう)
魚胞熟万杵 魚胞(ぎょほう)は万杵(まんしょう)に熟し、
犀角盤双龍 犀角(さいかく)は双龍を盤(ばん)す
墨成不敢用 墨(すみ)成(な)って敢えて用いず、
進入蓬莱宮 進んで入る蓬莱宮(ほうらいきゅう)
蓬莱春昼永 蓬莱(ほうらい)の春昼(しゅんちゅう)永(なが)く、
玉殿明房槞 玉殿(ぎょくでん)明房(めいぼう)の槞(ろう)
金箋洒飛白 金箋(きんせん)は飛白(ひはく)を洒(ふる)い、
瑞霧萦長虹 瑞霧(ずいむ)に長虹の萦(めぐ)る
遥憐醉常侍 遥(はるか)に憐(あわれ)む醉常侍(すいじょうじ)、
一笑開天容 一笑(いっしょう)して天容を開く
d8de86e2.jpeg〔訳〕魯の国に良質な松烟の材料となる老松は尽きてしまい、
   易水の優れた墨工もいなくなってしまった
   楽浪(高麗)からもたらされた珍しい材料(高麗墨)があるが、
   それを上等な墨に仕上げることが出来るのは潘谷だけである
   魚胞から取った膠を用い、杵で万回もついて成熟させ、
   硬い犀角に彫った双龍がとぐろを巻いている
   墨が出来ても敢えて使う事はせず、
   そのまま蓬莱宮へ納められるのだ
   宮廷の春の昼中はとても永(なが)く、
   金殿玉楼の部屋の窓には明るい光が差し込んでいる
   金箔を張った紙に飛白の書を揮毫すれば、
   神々しい霧が立ち込めて長い虹がかかるようだ
   〔都を追われて〕飲んだくれている、
   〔かつてのあなたの〕近臣を憐れと思し召し、一笑に付してお許しください
 東坡志林 巻一 子瞻患赤眼
 餘患赤目、或言不可食膾。餘欲聽之、而口不可、曰、「我與子為口、彼與子為眼、彼何厚、我何薄?以彼患而廢我食、不可。」子瞻不能決。口謂眼曰、「他日我㽽、汝視物吾不禁也。」管仲有言、「畏威如疾、民之上也;從懷如流、民之下也。」又曰、「燕安酖毒、不可懷也。」《禮》曰:「君子莊敬日強、安肆日偷。」此語乃當書諸紳、故餘以「畏威如疾」為私記雲。
e40fcea0.jpeg〔訳〕《子瞻、赤目を患う》私が赤目を患った。ある人が膾(なます)を食ってはいけないと言ったので、私はその通りにしようと思った。ところが口が反対した。
「いつだったか俺がものの言えぬ病気にかかったとき、お前は相変わらずものを見ていた。それを俺はいけないといってとめはしなかったぞ。管仲の言葉にも『威を畏るること疾のごときは、民の上なり。懐に従うこと流るるが如きは民の下なり(君の威令を病気のように恐れるのは、民の上の部であり、自分の欲望に任せてとどまることを知らないのは、民の下の部である)』とあり、『燕安は酖毒なり、懐うべからず(のんびりと楽をするのは、猛毒のように人に害を与えるから、決してこれに耽ってはならぬ。春秋左氏伝)』ともある。『礼記』にも『君子荘敬なれば日に強く、安肆〔あんし、安逸〕ならば日に偸む』とある。この語は決して忘れぬように、これを紳〔しん、大帯〕に書き留めておくべきである」
 そこで私は「威を畏るること疾のごとく」、ひそかにここに書き付けておく。
 
※『燕安は……云々』の出典は春秋左氏伝。
春秋左氏伝 閔公〔在位BC661~660年〕元年
 元年、春、不書卽位、亂故也。狄人伐邢。管敬仲言於齊侯曰、戎狄豺狼。不可厭也。諸夏親暱。不可弃也。宴安酖毒。不可懷也。詩云、豈不懷歸。畏此簡書。簡書、同惡相恤之謂也。請救邢以從簡書。齊人救邢。
〔訳〕元年、春、即位を書かないのは、乱〔で正式の礼が行われぬこと〕のため。狄(てき)の人が邢(けい)を伐った。〔邢は急ぎ触れ文を発し、斉に救いを求めた。〕管敬仲は斉侯に申した。
「戎や狄は山犬・狼ですから、味をしめさせてはなりませぬ。中国の諸侯は親しいものゆえ見殺しには出来ませぬ。又酒宴などの楽しみは酖毒でして、これに慣れてはなりませぬ。詩に、
   家居の安きわすれめや
   ただこのふみをかしこみて  〔詩経 小雅 出車 より〕
ともうしますが、触れ文〔原文に「簡書」という〕は同じ苦しみを救いあうわけのものでございます。どうぞ邢を救って、この告げ文の義理を果たしたいものでございます」
 そこで斉の人が邢を助けに向かった。
 
※紳とは大帯のことで、古人はとっさの備忘にそれを大帯に書き付けたという(図参照)。出典は論語。
論語 衛霊公篇
 子張問行。子曰。言忠信。行篤敬。雖蛮貊之邦行矣。言不忠信。行不篤敬。雖州里。行乎哉。立則見其参於前也。在輿則見其倚於衡也。夫然後行。子張書諸紳。
〔読み下し〕子張、行わるることを問う。子曰く、言うこと忠信にして、行い篤敬ならば、蛮貊の邦と雖も行われん。言うこと忠信ならず、行い篤敬ならずんば、州里と雖も行われんや。立てば其の前に参(まじ)わるを見、輿(こし)に在りては其の衡に倚(よ)るを見て、夫れ然る後に行われん。子張これを紳に書す。
559d1d68.jpeg〔訳〕子張が〔自分の意志通りに〕おこなわれるにはどうしたらよいかたずねた。先生がおっしゃった。「言葉が誠実であり、行いが慎重篤実であれば、蛮人の国であっても行われるだろうが、言葉に誠実がなく行いがおろそかでお粗末ならば、故郷の村里でも到底思い通りにはいかないだろう。立っているときはそのことが目の前にちらちらし、また車に乗ったときは車前のくび木によりかかって見える、そんな風であっておこなわれるものだ」 子張はこの言葉を大帯に書き付けた。
 史記 刺客列伝 第二十六
 曹沫者、魯人也、以勇力事魯莊公。莊公好力。曹沫為魯將、與齊戰、三敗北。魯莊公懼、乃獻遂邑之地以和。猶復以為將。齊桓公許與魯會于柯而盟。桓公與莊公既盟於壇上、曹沫執匕首劫齊桓公、桓公左右莫敢動、而問曰:「子將何欲?」曹沫曰:「齊彊魯弱、而大國侵魯亦甚矣。今魯城壞即壓齊境、君其圖之。」桓公乃許盡歸魯之侵地。既已言、曹沫投其匕首、下壇、北面就群臣之位、顏色不變、辭令如故。桓公怒、欲倍其約。管仲曰:「不可。夫貪小利以自快、棄信於諸侯、失天下之援、不如與之。」於是桓公乃遂割魯侵地、曹沫三戰所亡地盡復予魯。
fbc1dc8d.jpeg〔訳〕曹沫は魯人である。勇力にすぐれていて、魯の荘公につかえた。荘公は勇力を好んだのである。曹沫は魯の将軍となって斉と戦い、三度敗北した。魯の荘公はおそれて、遂邑(山東省)の地を献じて斉と和睦しようとしたが、なお曹沫を将軍のままにしておいた。斉の桓公は魯の荘公と柯〔か、山東省〕で改名することを承諾した。そして、桓公が荘公と壇上で和睦の盟いをしていると、曹沫は匕首を手にして斉の桓公を怯(おびやか)した。桓公の左右の者はただあわてふためくだけで、あえて止めようとする者がなかった。桓公は問うた。
「そなたは、どうして欲しいと言うのか」
 曹沫は言った。
「斉は強大で魯は弱小です。その大国の斉が魯を侵略すること、甚だしいものがあります。いまや、魯の国都の城壁は壊(こわ)れ、斉の国境は魯の国都に迫っております。こうした状況についてご一考いただきたいのです」
 そこで、桓公は魯を侵略した地をことごとく返すことを約束した。その言葉が終ると、曹沫は匕首をすてて、壇を下って北面して群臣の席に帰った。顔色は変わらず、言葉つきも平常どおりだった。桓公は怒って、その約束にそむこうとした。すると管仲が言った。
「いけません。そもそも小利を貪ってご満足なさいますと、諸侯に対して信をすてる結果になり、天下の援助をうしなってしまいましょう。お与えになるにこしたことはありません」
 かくて、桓公は魯を侵略した地を返し、曹沫が三戦してうしなった地は、ことごとくまた魯にあたえられた。
 
 曹劌〔そうけい、生没年不詳〕について調べてみた。
 
春秋左氏傳 荘公十年
 十年、春、齊師伐我、公將戰、曹劌請見。其鄉人曰、肉食者謀之、又何間焉、劌曰、肉食者鄙、未能遠謀、乃入見、問何以戰。公曰、衣食所安、弗敢專也、必以分人。對曰、小惠未遍、民弗從也、公曰、犧牲玉帛、弗敢加也、必以信、對曰、小信未孚、神弗福也、公曰、小大之獄、雖不能察、必以情。對曰、忠之屬也、可以一戰、戰則請從、公與之乘、戰于長勺、公將鼓之、劌曰、未可、齊人三鼓、劌曰、可矣、齊師敗績、公將馳之、劌曰、未可、下視其轍、登軾而望之、曰、可矣、遂逐齊師、既克、公問其故。對曰:夫戰、勇氣也。一鼓作氣、再而衰、三而竭、彼竭我盈、故克之、夫大國難測也、懼有伏焉、吾視其轍亂、望其旗靡、故逐之。
90f53048.jpeg〔読み下し文〕十年、春、斉師の我を伐つに、公将(まさ)に戦はんとす。曹劌(そうけい)見を請ふ。其の郷人曰く、「肉食の者之を謀る、又た何を閒せん」と。劌曰く、「肉食の者は鄙(ひ)にして、未だ能く遠謀せず」と。乃ち入りて見(まみ)ゆ。問ふ、「何を以て戦はん」と。公曰く、「衣食安んずる所、敢へて専らにせざるなり、以て必ず人に分かつ」と。對へて曰く、「小恵未だ偏ぜず、民は従はざるなり」と。公曰く、「犠牲玉帛(ぎせいぎょくはく)、敢へて加えざるなり、必ず信を以てす」と。對へて曰く、「小信未だ孚(まこと)ならず、神は福せざるなり」と。公曰く、「小大の獄、察する能はずと雖も、必ず情を以てす」對へて曰く、「忠の属なり、以て一戦す可し、戦はば則ち請ふ従はん」と。公、之に乗を与へ、長勺(ちょうしゃく)に戰ふ。公将に鼓して之(ゆ)かんとす。劌曰く、「未だ可ならず」と。斉人三鼓す。劌曰く、「可なり」と。斉師の敗績するに、公将(まさ)に馳して之(ゆ)かんとす。劌曰く、「未だ可ならず」と。下りて其の轍(わだち)を視、軾(しょく)に登りて之を望みて曰く、「可なり」と。遂に斉師を逐ふ。既に克(か)つ。公、其の故を問ふ。對へて曰く、「夫(そ)れ戦ひは勇気なり。一鼓気を作(な)し、再びして衰へ、三にして竭(つ)く。彼は竭き我は盈つ、故に之に克つ。夫れ大国は測り難きなり。伏有るを懼(おそ)るに、吾れ其の轍の乱るるを観、其の旗の靡(なび)くを望む。故に之を逐(お)ふ」と。
3d930b0a.jpeg〔訳〕十年、春、斉の軍が攻め寄せたので、公は戦おうとされた。すると曹劌(そうけい)が公にお眼通りを願った。その里の人が、
「肉を食べている人(貴人)たちのなさることだ。何のまたさし出口をしようぞ」と言うと、劌は、
「肉を食べている人は頭が悪い。少しも目先が利かないのだ」と答え、やがて朝廷に上ってまみえ、公が何を当てにして戦いをなさるのかとたずね申した。公は答えて、
「わたしは、自分でこれはいまいとか美しいとか思う食物や着物は、独り占めにせずに、きっと下々に分けてやっているのだ」と言われた。曹劌は申した。
「そうした小さなお恵みでは行き渡りませぬ。下々は従い申さぬでございましょう」
「牲(にえ)や玉や幣にいい加減の付け加えは言わず、必ずありのままを申し上げておる」
「小さな信義は通じませぬ。神々も福をくださらぬでありましょう」
「訴えごとは大きいのにも小さいのにも、しっかり見分けは出来ぬまでも、必ずまごころで当たっている」
「それは忠にかなっていらっしゃいます。それによって一合戦できましょう。お戦いのときにはお供つかまつりとう存じます」
 公はこの男とともに乗られた。さて長勺で戦ったが、公が攻め太鼓を打とうとされると、劌は、
「まだ、まだ」と言う。斉の人が三度打ってから、劌は言った。
「それ、よろしい」
 斉の軍が負けた。公が追い討ちをかけようとされると、
「まだまだ」と言い、見下ろして敵の轍(わだち)をしらべ、車の柄に乗って敵のさまをながめ、
「よしっ」と言い、ただちに、斉の軍を追い撃ちした。さてすでに戦いに勝ってから、公が勝ったわけを問われると、答えて、
「戦というものは勇気一つでございます。第一の太鼓で気が振るい、第二で衰え、第三で尽きるのでございます。あちらは尽き、こちらは満ちる。それで勝てました。また大国〔の出かた〕と申しますと、測りにくうございます。伏兵ありはせぬかと思いました。そこで轍を調べますと乱れており、旗を眺めますとなびいていましたので追い討ちをかけました」
  漢書 李廣・蘇建傳 より (3)
 武以元始六年春至京師。詔武奉一太牢謁武帝園廟、拜為典屬國、秩中二千石、賜錢二百萬、公田二頃、宅一區。常惠、徐聖、趙終根皆拜為中郎、賜帛各二百匹。其餘六人老歸家、賜錢人十萬、復終身。常惠後至右將軍、封列侯、自有傳。武留匈奴凡十九歲、始以彊壯出、及還、須髮盡白。武來歸明年、上官桀子安與桑弘羊及燕王、蓋王謀反。武子男元與安有謀、坐死。
〔訳〕蘇武は始原六〔BC81〕年の春に都に帰った。帝のお声がかりで、蘇武は牛羊豚を供えて、今は亡き武帝の廟にお参りした。典属国〔異属取締役〕禄高二千石に任命され、銭二百万、公田二頃〔けい、一頃は1.8ha〕、宅地一区画を頂戴した。常恵・徐聖(じょせい)・趙終根は皆、中郎〔宿衛の官、六百石〕に任ぜられ、それぞれ絹二百匹を賜わった。残る六人は年老いているので家に帰ったが、各自銭十万を賜わり、終身賦役を免ぜられた。常恵は後に右将軍にまで出世し、列侯に封ぜられた。常恵については本書に別に伝記がある。蘇武は匈奴に留まることおよそ十九年。当初、出発した時は血気壮んな年輩〔四十歳〕であったが、帰るおりには、髭も髪も真っ白になっていた。蘇武が帰還した翌年、上官桀の息子の上官安が、桑弘羊(そうくよう)および燕王〔武帝の子〕・蓋主〔燕王の姉、蓋王に嫁す〕とともに反逆を謀った〔霍光伝〕。武の息子の蘇元は、上官安と密謀があったというかどで、連坐して死刑になった。
 
 初桀、安與大將軍霍光爭權、數疏光過失予燕王、令上書告之。又言蘇武使匈奴二十年不降、還乃為典屬國、大將軍長史無功勞、為搜粟都尉、光顓權自恣。及燕王等反誅、窮治黨與、武素與桀、弘羊有舊、數為燕王所訟、子又在謀中、廷尉奏請逮捕武。霍光寢其奏、免武官。數年、昭帝崩、武以故二千石與計謀立宣帝、賜爵關內侯、食邑三百戶。久之、衛將軍張安世薦武明習故事、奉使不辱命、先帝以為遺言。宣帝即時召武待詔宦者署、數進見、復為右曹典屬國。以武著節老臣、令朝朔望、號稱祭酒、甚優寵之。
〔訳〕もともと、上官桀と安とは、大将軍霍光と権力を争っており、たびたび霍光の過失を箇条書きにして、燕王に渡し、燕王から上奏告発させたものである。また次のようにも言った。
「蘇武は匈奴に使いして二十年も降参しませなんだに、帰ってみれば、何と典属国にしかなれず、大将軍の長史〔副官、楊敞〈?~BC74年〉を指す〕は何の功労もなしに、捜粟都尉〔軍官で米の徴発にに任ずる〕に出世しました。大将軍霍光が専断放恣、かばかりにございます」
 燕王らが反いて死罪になるに及んで、一味の者が厳しく詮議された。蘇武は上官桀・桑弘羊と古いなじみで、何度も燕王の上訴の中に引き合いに出された上、息子も一味に加担したため、廷尉〔司法大官〕は上奏して、蘇武の逮捕を願い出た。しかし霍光はその上奏文を握りつぶし、蘇武を免職するに止めた。数年して昭帝は崩御した〔BC74年〕。蘇武はもと二千石だったというので宣帝擁立の計画に与り、その功で関内侯〔諸侯の下位、実封なく畿内に住む〕の爵を賜わり、三百戸分の租税を食録とする身分になった。大分たってから、衛将軍〔前後左右将軍同列〕の張安世〔?~BC62年〕が、蘇武を推薦した。故事に明るく、使者となって君命を辱めず、先帝のご遺言の中にも触れられておられる、という理由である。宣帝は即時、蘇武を召し出され、宦官の役所の待詔〔不時のご下問に応ずる役〕に任じた。たびたび引見せられ、ふたたび右曹〔加官、尚書の仕事の下請け〕典属国となった。蘇武が苦節を貫いた老臣であるというので、朔日(ついたち)と望日(じゅうごにち)には参内させ、特に祭酒〔礼儀・祭祠を司る〕の称号を賜わり、大いに優遇された。
 
 武所得賞賜、盡以施予昆弟故人、家不餘財。皇后父平恩侯、帝舅平昌侯、樂昌侯、車騎將軍韓增、丞相魏相、御史大夫丙吉皆敬重武。武年老、子前坐事死、上閔之、問左右:「武在匈奴久、豈有子乎?」武因平恩侯自白:「前發匈奴時、胡婦適產一子通國、有聲問來、願因使者致金帛贖之。」上許焉。後通國隨使者至、上以為郎。又以武弟子為右曹。武年八十餘、神爵二年病卒。甘露三年、單于始入朝。上思股肱之美、乃圖畫其人於麒麟閣、法其形貌、署其官爵姓名。唯霍光不名、曰大司馬大將軍博陸侯姓霍氏、次曰衛將軍富平侯張安世、次曰車騎將軍龍镪侯韓增、次曰後將軍營平侯趙充國、次曰丞相高平侯魏相、次曰丞相博陽侯丙吉、次曰御史大夫建平侯杜延年、次曰宗正陽城侯劉德、次曰少府梁丘賀、次曰太子太傅蕭望之、次曰典屬國蘇武。皆有功德、知名當世、是以表而揚之、明著中興輔佐、列於方叔、召虎、仲山甫焉。凡十一人、皆有傳。自丞相黃霸、廷尉于定國、大司農朱邑、京兆尹張敞、右扶風尹翁歸及儒者夏侯勝等、皆以善終、著名宣帝之世、然不得列於名臣之圖、以此知其選矣。
〔訳〕蘇武は頂戴した褒美の品、ことごとく従弟・友人に施し、家には財産を残さなかった。皇后の父平恩侯許伯平、cdbd264e.jpeg帝の母方の叔父平昌侯王無故(むこ)・楽昌侯王武、車騎将軍の韓増(かんぞう)、御史大夫〔官吏の検察を司る〕の丙吉(へいきつ)、みな武を尊敬した。蘇武は年老い、息子は先に事件に連坐して死んだ。帝は哀れに思し召し、左右の者に問うた。
「蘇武は匈奴に長らく逗留しておったが、ひょっとして子がありはせぬか?」
 蘇武は平恩侯を通じて申し上げた。
「さきに匈奴を出立するおり、胡(えびす)の妻がちょうど一子を産みました。名は通国。便りが参ったこともございます。願わくば、使者にことづけ、金と絹とを届けて、身柄を買い受けとうぞんじますが」
 帝はそれを許した。後、通国は使者に連れられてやってきた。帝は郎に任命した。その上、蘇武の弟の子を曹武に任じた。蘇武は年八十余りで、神爵二〔BC60〕に病死した。
 甘露三〔BC51〕年、単于が始めて入朝した。帝は股肱の臣の徳を思い、その人々を麒麟閣〔武帝が麒麟を捕らえた記念に建てた〕に描かせた。本人の顔型に似せて、官爵姓名を題してある。霍光だけは尊んで名を書かずに「大司馬大将軍霍氏」と題した。次は「衛将軍富平侯〔山東省陽信県の大名〕張安世」、次は「車騎将軍竜額侯韓増」、次は「後将軍営平候趙充国」、次は「丞相高平侯〔山東省鄒県の領主〕魏相」、次は「丞相博陽侯〔山東省奉安県の領主〕丙吉」、次は「御史大夫建平侯〔河南省永城県の領主〕杜延年(どえんねん)」、次は「宗正〔帝の親族を司る〕陽城侯〔河南省汝南県の領主〕劉徳」、次は「少府〔天子の給養を司る〕梁丘賀(りょうきゅうが)」、次は「太子太傅〔たいふ、皇太子の守り役〕蕭望之(しょうぼうし)」、次は「典属国蘇武」と題する。いずれも功績徳望があり、当正知名の人である。故にこれを表彰し、古の方叔・召虎・仲山甫(ほ)〔ともに周の中興の英主、宣王を補佐した〕にならぶ、漢室中興の補佐たることを、ここに明らかにしたのである〔宣帝は漢中興の英主とされる〕。すべて十一人。それぞれ本書に伝記がある。丞相黄覇(こうは)をはじめ、廷尉于定国(うていこく)、大司農〔農林大臣〕朱邑(しゅゆう)、京兆尹〔京都所司代〕張敞(ちょうしょう)、右扶風〔京都西部の所司代〕尹翁帰(いんおうき)、および儒者の夏侯勝らは、みな終わりを全うした人で、宣帝の世に著名であったが、名臣の肖像画に列なることはできなかった。これでもって右に掲げられた人々がいかに厳しくえりぬかれた者であるかが知れるであろう。
 今朝のウェブニュースより
c457b80f.jpeg 【小沢元代表に無罪】検察の失策、公判左右 判決、強引捜査を批判 内部でも「当然の指摘」―― 小沢一郎民主党元代表への判決で東京地裁は26日、無罪を言い渡した。元代表立件を最終目標としながら、土壇場で不起訴とした検察のメンツはかろうじて保たれた。しかし、事実に反する捜査報告書の作成など強制起訴の議決につながった捜査の在り方が厳しく問われた。検察の失策が、今回の裁判を左右したのは否定できない。/元代表の「政治とカネ」に絡み、東京地検特捜部が捜査した事件は西松建設の巨額献金事件と陸山会の収支報告書虚偽記入事件の二つ。狙いは公共事業受注が目的のゼネコンと、業者選定に強い影響力を持つ小沢事務所との癒着の解明だった。/二つの事件の捜査で、元秘書らの逮捕、起訴にはこぎ着けたが、元代表を狙った捜査は難航。結局、起訴断念に追い込まれた。/元代表にとって誤算だったのが検察審査会。市民11人で構成され、法改正によって強制的に起訴できる権限を持つようになった。2010年4月の「起訴相当」議決を経て、起訴すべきだとする2度目の議決を10月に公表。元代表は11年1月、検察官役の指定弁護士によって強制起訴された。/「あとは市民の判断」と傍観を決め込んでいた検察に突然逆風が吹き込んできたのが、10年9月。/大阪地検特捜部による厚生労働省の文書偽造事件の捜査で、検事による証拠の改ざん、隠蔽(いんぺい)が発覚。続いて、陸山会事件の公判でも東京地検特捜部による「ストーリーありき」の強引な取り調べの実態が明らかになっていく。/今回の公判で、公訴棄却を求めた元代表側に対し、地裁は強制起訴自体を適法で有効とする一方、「事実に反する内容の捜査報告書を作成した上で、検察審査会に送付することはあってはならない」と厳しく指摘した。/判決に、特捜部経験のある法務省幹部は「特捜部が起訴できなかった以上、無罪は予想通り」と平静を装ったが「裁判所の厳しい姿勢を感じる。国民からも『特捜部を廃止しろ』との声が強まるかもしれない」と本音を漏らした。/「捜査批判は覚悟していた。当然の指摘だ」と述べた別の法務省幹部は続けた。「検察改革を進め、必ず立て直す」  (共同通信 2012/04/26 15:05)
 
f88ecb51.jpeg スカイツリー 両陛下が視察 ――  天皇、皇后両陛下は二十六日午前、開業を五月二十二日に控えた東京スカイツリー(東京都墨田区)を視察された。/両陛下は、エレベーターを乗り継いで、ツリーで登れる最上部の第二展望台へ。高さ四百五十メートルからの眺望は雨雲に覆われて遠くまでは見渡せなかったが、全面ガラス張りになった天望回廊のスロープをゆっくりと巡り、担当者から「あれが浅草寺です」などと説明を受けながら外の景色を見下ろした。/また、天皇陛下はツリーの構造や電波塔としての役割、東日本大震災の影響についても質問。ツリーの高さが「武蔵国」にちなんだ六百三十四メートルあることを聞くと「ああ、そうなの」と感心したように話していた。  (東京新聞 2012年4月26日 夕刊)
 漢書 李廣・蘇建傳 より (2)
 律知武終不可脅、白單于。單于愈益欲降之、乃幽武置大窖中、絕不飲食。天雨雪、武臥齧雪與旃毛并咽之、數日不死、匈奴以為神、乃徙武北海上無人處、使牧羝、羝乳乃得歸。別其官屬常惠等、各置他所。武既至海上、廩食不至、掘野鼠去屮實而食之。杖漢節牧羊、臥起操持、節旄盡落。積五六年、單于弟於靬王弋射海上。武能網紡繳、檠弓弩、於靬王愛之、給其衣食。三歲餘、王病、賜武馬畜服匿穹廬。王死後、人眾徙去。其冬、丁令盜武牛羊、武復窮厄。
23cbe81e.jpeg〔訳〕衛律は蘇武がどうしても脅しに乗らぬと見て、単于に申し上げる。単于はいよいよますます蘇武を降伏させたいと思う。そこで武を大きな穴蔵に幽閉しておき、まったく飲食物を与えずに置いた。雪が降ってきた。武は寝たまま、雪をかじり、毛氈の毛と一緒に飲みこむ。数日経っても死なない。匈奴はただ人でないと思い、武を北海〔バイカル湖〕のほとり、人なきところに移し、牡羊を飼わせた。牡羊が仔を産んだら、帰してやろうという。部下の常恵らは別々にして、おのおのよそに置いた。蘇武は北海のほとりに着いた。食糧を届けてくれる者もいない。野鼠を掘り、草の根を貯蔵して食べる。漢の節〔使者の杖〕を杖について羊を飼い、寝ても覚めても放さない。節についていた水牛の尾はすっかり落ちてしまった。かくて五・六年。単于の弟の於靪王(おけんおう)が北海のほとりで弋(いぐるみ)で狩りをした。蘇武は網を編んだり、弋に使う繳(よりいと)を紡いだり、弓や弩を矯(た)め直す術を心得ていた。於靪王は蘇武を可愛がり、衣食を与えてくれた。三年余りして於靪王は病んだ。蘇武に馬などの家畜・甕・天幕を下された。王が死ぬと、供の者も引っ越して行った。その冬丁霊の民が牛や羊を盗んだので、蘇武はまたまた困窮した。
 
 初、武與李陵俱為侍中、武使匈奴明年、陵降、不敢求武。久之、單于使陵至海上、為武置酒設樂、因謂武曰:「單于聞陵與子卿素厚、故使陵來說足下、虛心欲相待。終不得歸漢、空自苦亡人之地、信義安所見乎?前長君為奉車、從至雍棫陽宮、扶輦下除、觸柱折轅、劾大不敬、伏劍自刎、賜錢二百萬以葬。孺卿從祠河東后土、宦騎與黃門駙馬爭船、推墮駙馬河中溺死、宦騎亡、詔使孺卿逐捕不得、惶恐飲藥而死。來時、大夫人已不幸、陵送葬至陽陵。子卿婦年少、聞已更嫁矣。獨有女弟二人、兩女一男、今復十餘年、存亡不可知。人生如朝露、何久自苦如此!陵始降時、忽忽如狂、自痛負漢、加以老母繫保宮、子卿不欲降、何以過陵?且陛下春秋高、法令亡常、大臣亡罪夷滅者數十家、安危不可知、子卿尚復誰為乎?願聽陵計、勿復有云。」武曰:「武父子亡功德、皆為陛下所成就、位列將、爵通侯、兄弟親近、常願肝腦塗地。今得殺身自效、雖蒙斧鉞湯鑊、誠甘樂之。臣事君、猶子事父也、子為父死亡所恨。願勿復再言。」陵與武飲數日、復曰:「子卿壹聽陵言。」武曰:「自分已死久矣!王必欲降武、請畢今日之驩、效死於前!」陵見其至誠、喟然歎曰:「嗟乎、義士!陵與衛律之罪上通於天。」因泣下霑衿、與武決去。
〔訳〕当初、蘇武は李陵とともに侍中になっていた。蘇武が匈奴に使いして、その翌年に李陵が匈奴に降参したのだが、李陵は恥じて蘇武を尋ねて来ようとはしなかった。しばらくしてから、単于は李陵を北海のほとりに遣わし、蘇武のために酒宴を開き音楽を奏でさせた。それをしおに李陵が蘇武にいうよう、
「単于さまには、わしが子卿〔武の字〕どのと昵懇であったと聞かれたもので、わしにそなたを説き伏せるようとの仰せ。単于さまには隔意無(の)うそなたをもてなすおつもりじゃ。そなた、どうせ漢に帰ること相かなわず、あだに人なき土地で身を苦しめても、その忠義だれが見知ってくれよう? 以前、そなたの兄者の長君(嘉の字)どのには、帝のお供をして雍〔よう、陝西省翔県〕の棫陽(よくよう)宮に参ったおり、お車を支えながら、ご門内の石畳を降りる際、柱に突き当たり、轅(ながえ)を折ったで、大不敬罪にとわれ、剣で自害をなされた。銭二百万を下げ渡され、それで葬いを出された。弟御の孺卿〔じゅけい、賢の字〕どのには、帝が河東〔山西省〕の后土〔大地の神〕の祭に行かれる御供したおり、騎馬の宦官が黄門駙馬〔こうもんふば、天使の添え馬を司る長官〕と船を取り合い、駙馬を河中に押し落として溺れ死にさせ、下手人は逃げた。勅命で孺卿どのが召し取りに行かれたが、つかまらず、恐れ入って毒を飲んで果てられた。わしがこちらへ来るおり、そなたの母君はすでに身没(まか)られて、わしも陽陵〔陝西省咸陽県〕まで野辺送りさせて頂いた。子卿どのの嫁御はまだお若かったが、聞けばもう再縁されたとのこと。妹御が二人、娘御が二人、男の御子が一人だけ残っておられたが、それも今ではもう十年余り、生死のほども知れがたい。人の命は朝露のようなもの。何でかように久しゅう自分から苦労なさる? わしも降参して間もないころは、ぼんやりとして気違い同然。漢にそむいたことで胸は痛む。その上老母は保宮〔宮中の獄舎〕に縛られておるわ。子卿どのが降参しとうない気持ちとて、わしより甚だしゅうはないはず〔蘇武の方が家族への顧慮が少なくてすむ〕。それに陛下はもうお年を召され、お触れは気紛れなもの。大臣のうち、罪も無(の)うて一族皆殺しにされたもの、数十件もある。忠義だてしたとて明日の命ははかりがたい。子卿どの、この上、だれのために苦労なさるる? 何とぞわしのいうとおりになされい。もうなにも申さるるな!」武がいうよう、
「わしが親子は手柄も器量もないに、いずれも陛下のお引き立てを蒙り、位は列将、爵は列侯に加えて頂いた。兄弟ともにお側近う使われた。つねづね身を粉に砕いてご奉公したいと願うていた。今、身を殺して忠義を尽くし得れば、胴切り釜茹での刑になろうとも、甘んじてお受けいたす。臣が君に仕えるは、子が父に仕えると同じこと。子が父のために死んでも、悔やむことはない。同かもう二度と言うてくれるな!」
 李陵は、蘇武と飲み暮らして数日、また言いかけた。
「子卿どの、たってわしの言うことを肯(き)かれい」
武「わしはもうとっくに、死んだものと覚悟しておる。そなたがどうでもわしを降参させようとあらば、今日一日楽しゅう飲んだあと、そなたの目の前で死んで見せよう」
 李陵は蘇武のまじり気のない真心を見て取ると、ほっと吐息していった。
「ああ、義士じゃ。わしと衛律との罪は天道様も見通しというもの」
 そこではらはらと落涙して襟を濡らした。蘇武に別れを告げて立ち去る。
 
 陵惡自賜武、使其妻賜武牛羊數十頭。後陵復至北海上、語武:「區脫捕得雲中生口、言太守以下吏民皆白服、曰上崩。」武聞之、南鄉號哭、歐血。旦夕臨、數月。昭帝即位、數年、匈奴與漢和親。漢求武等、匈奴詭言武死。後漢使復至匈奴、常惠請其守者與俱、得夜見漢使、具自陳道。教使者謂單于、言天子射上林中、得雁、足有係帛書、言武等在某澤中。使者大喜、如惠語以讓單于。單于視左右而驚、謝漢使曰:「武等實在。」於是李陵置酒賀武曰:「今足下還歸、揚名於匈奴、功顯於漢室、雖古竹帛所載、丹青所畫、何以過子卿!陵雖駑怯、令漢且貰陵罪、全其老母、使得奮大辱之積志、庶幾乎曹柯之盟、此陵宿昔之所不忘也。收族陵家、為世大戮、陵尚復何顧乎? 已矣!令子卿知吾心耳。異域之人、壹別長絕!」陵起舞、歌曰:「徑萬里兮度沙幕、為君將兮奮匈奴。路窮絕兮矢刃摧、士眾滅兮名已隤。老母已死、雖欲報恩將安歸!」陵泣下數行、因與武決。單于召會武官屬、前以降及物故、凡隨武還者九人。
3e79f035.jpeg〔訳〕李陵は自分の名で蘇武に物をやることをはばかり、己れの妻(単于の娘)から蘇武に牛羊数十等を贈らせた。その後、李陵は再び北海のほとりに行き、蘇武に告げた。
「区脱〔おうだつ、漢との境にいる匈奴〕が雲中〔山西―綏遠(すいえん)〕の漢民を生け捕りにしたが、虜の言うには、太守以下、役人も民もみな白い服〔喪服〕を着ており、『お上〔武帝〕がなくなられた』といっておるのを聞いた由じゃ」
 蘇武はそれを聞くと、南のほうに向かって慟哭回向し、血を吐くまで哭き続けた。数ヶ月というもの、朝晩の哭(こく)を欠かさなかった。昭帝が即位し〔BC86年〕、数年して匈奴と漢が和睦した。漢は蘇武らを引き渡せという。匈奴は蘇武は死んだと嘘をついた。後、漢の使者がまた匈奴に行く。常恵(? ~BC47年)は番人に頼み込み、番人と連れ立って夜中に漢の使者と会うことができた。詳しく事の経緯を陳述した上、使者に教えて言う。
「単于にこういいなされ、『漢の天子が上林〔陝西省にある御料林〕で狩りをなされ、雁を射落したところ、雁の足に絹の手紙が結び付けてあった。文面よれば、蘇武らはしかじかの沢のなかにいるとの事でござるが』と」
 使者は大いに喜び、常恵にいわれたとおり、単于を責めた。単于はびっくりして左右を見回したが、漢の使者に詫びた。
「まことは、蘇武ら、生きておる」
 ここで李陵は酒盛りして蘇武を祝っていう。
「今、そなたは帰られる。名を匈奴に轟かせ、手柄は漢廷に輝くであろう。古(いにしえ)の史(ふみ)に記し、丹青(えのぐ)で描いた〔御所の壁面に功臣の肖像あり〕功臣とて、子卿どのに過ぎる者があろうか? わしは愚かで腰抜けとはいえ、もしあの時、漢がしばしわが罪を目こぼしし、わが老母をながらえさせ、大きな恥を雪(すす)がんとの積もる志をふるい立てる機会(おり)をくれていたならば、柯(か)の盟いにおける曹劌〔そうけい、〕にも劣らぬ働きをして見せようものを! これこそわしが平生忘れずに持っていた志じゃ。それをわしの一家を捕らえて皆殺しにし、世間に晒し者にされては、わしとて、もはや後ろ髪引かるる気は無(の)うなった。さらばじゃ。子卿どのにわしの心を知ってもらいたかったまでのこと。お互い異国の人間。一たび別れなば、二度と会うこともなるまい」
 陵は立ち上がって舞った。歌っていう
  万里を径(へ)て沙漠を度(わた)り、
  君が将となって匈奴に奮う。
  路窮絶(とだ)え矢刃は摧(くだ)け、
  士衆は滅びて名すでに隤(くず)る。
  老母はすでに死したれば、
  恩に報いんと欲すと雖も将(はた)安(いずく)にか帰せん。
 李陵ははらはらと涙を流し、そのまま蘇武と別れた。単于は蘇武の部下を呼び集めた。さきに降参した者、亡くなった者があり、蘇武について帰る者は全部で九人である。
 
2f29b6a6.jpeg※曹劌(そうけい): 春秋左氏伝では曹劌、史記では曹沫〔そうまつ、 生没年未詳〕と記されるので読み方は(カイ)が正しいとされるという。魯の荘公に仕えた将軍。人物については後日調べてみようと思う。
  漢書の目次を見ると、「蘇武伝」というのは列伝の中にない。『漢書』などの史書類は、引用された伝名がそのまま目次に載っているとは限らないという。目次には親の名前を載せて、親の伝の後に子の伝を記述している形式が、『漢書』においては一般的であるらしい。『漢書』巻54に「李広蘇建伝」とあるので、その中に李広の子李陵、蘇建の子蘇武の伝記があるはずと、調べてみた。
 
漢書 李廣・蘇建傳 より (1)
 武字子卿、少以父任、兄弟並為郎、稍遷至栘中廄監。時漢連伐胡、數通使相窺觀、匈奴留漢使郭吉、路充國等、前後十餘輩。匈奴使來、漢亦留之以相當。天漢元年、且鞮侯單于初立、恐漢襲之、乃曰:「漢天子我丈人行也。」盡歸漢使路充國等。武帝嘉其義、乃遣武以中郎將使持節送匈奴使留在漢者、因厚輅單于、答其善意。武與副中郎將張勝及假吏常惠等募士斥候百餘人俱。既至匈奴、置幣遺單于。單于益驕、非漢所望也。
20c2ed82.jpeg〔訳〕蘇武は、字を子卿(しけい)という。若年のころ、父任〔または父陰という。父が国に功労ある場合、その子が官吏になれる〕でもって、兄弟共々郎〔宿衛官、役人の試補がなる〕になった。だんだん出世して移中厩〔いちゅうきゅう、宮中のうまやの名〕の厩奉行になった。そのころ、漢は続けさまに夷(えびす)を討ち、度々使者を往き来させて、互いに隙を窺っていた。匈奴は漢の使者、郭吉・路充国らを、前後十数人抑留したが、漢の方でも、その仕返しに匈奴の使者がくると、これを抑留していた。天漢元{〔BC100〕年、旦鞮侯(しょていこう)単于は位に即いたばかので、漢に襲われることを恐れた。そこで
「漢の天子は、われらが親爺どの同然じゃ」
といい、漢の使者路充国らを全部帰してよこした。武帝は殊勝な心ばえだと思い、蘇武を遣わし、中郎将(宿衛官の長、二千石)の資格で、節〔勅使のしるしとなる杖〕を持たせ、漢に抑留されていた匈奴の使者を送り届けると共に、単于に手厚い礼物を贈り、その好意に答えようとした。武は副中郎将の張勝、仮ま役人常恵らと、兵士・斥候百人を募集して、出発した。匈奴に到着すると、引き出物を並べて単于に贈った。単于は前にも増して威張りかえっており、漢側の期待したような態度ではない。
 
 方欲發使送武等、會緱王與長水虞常等謀反匈奴中。緱王者、昆邪王姊子也、與昆邪王俱降漢、後隨浞野侯沒胡中。及衛律所將降者、陰相與謀劫單于母閼氏歸漢。會武等至匈奴、虞常在漢時素與副張勝相知、私候勝曰:「聞漢天子甚怨衛律、常能為漢伏弩射殺之。吾母與弟在漢、幸蒙其賞賜。」張勝許之、以貨物與常。後月餘、單于出獵、獨閼氏子弟在。虞常等七十餘人欲發、其一人夜亡、告之。單于子弟發兵與戰。緱王等皆死、虞常生得。
fe1b80b8.jpeg〔訳〕今しも匈奴から使者を出して、蘇武らをおくりだそうというおりから、緱王(こうおう)と長水の虞常らが、匈奴のなかで謀反をしようとした。緱王とは昆邪〔こんや、異族の一〕王の姉の子である。昆邪王とともに漢に降参し、後、浞野侯趙破奴のともをして〔匈奴を討ったが敗れて〕匈奴にとらえられた。これが、衛律が引き連れて匈奴に投降した虞常と陰謀をたてた。単于の母閼氏(えんし)を脅迫して漢に帰参しようと言うのである。そこへ蘇武らが匈奴にやってきた。虞常は漢にいたころ、ずっと副使の張勝と知り合いであった。こっそり勝をたずねていう。
「聞けば漢の天子様には、いたく衛律を怨んでおられる由。それがしが、漢のために、弩を隠し持ち、衛律めを射殺してのけましょう。それがしの母と弟が漢におりまする。律を殺したご褒美をそれにやって頂ければ幸甚でござりまする」
 張勝は承知し、持参の金品を虞常にあたえた。後、一月余りして、単于は猟に出た。閼氏の子弟だけが残っている。虞常ら七十余人はかねての手筈に取り掛かる。その一人が夜中に逃亡し、密告した。単于の子弟は兵士を繰り出して迎え撃つ。緱王らは皆殺され、虞常は生け捕りになった。
 
 單于使衛律治其事。張勝聞之、恐前語發、以狀語武。武曰:「事如此、此必及我。見犯乃死、重負國。」欲自殺、勝、惠共止之。虞常果引張勝。單于怒、召諸貴人議、欲殺漢使者。左伊秩訾曰:「即謀單于、何以復加?宜皆降之。」單于使衛律召武受辭、武謂惠等:「屈節辱命、雖生、何面目以歸漢!」引佩刀自刺。衛律驚、自抱持武、馳召毉。鑿地為坎、置熅火、覆武其上、蹈其背以出血。武氣絕、半日復息。惠等哭、輿歸營。單于壯其節、朝夕遣人候問武、而收繫張勝。
〔訳〕単于は衛律に事件を取り調べさせる。張勝はそれと聞くと、前の虞常との話が明るみにではせぬかと心配になり、一部始終を蘇武に打ち明けた。武が言う。
「さような仕儀であったか。かくてはわしもかかありあいになるは必定。縄目の恥にかかってから死んだのでは、重ね重ねお国に迷惑をかける」
 自殺しようとする。勝・恵らがともどもに押し止めた。果たして虞常は張勝を巻き添えにした。単于は怒り、貴人たちを召集して、漢の使者を殺そうと相談した。左尹秩訾〔さいんちつし、匈奴の王号の一〕が言うに、
「〔衛律を殺そうと謀っただけで死罪にするとならば〕もし単于さまを殺そうと謀った場合、それ以上如何なる罰を加えられましょうぞ。皆のものの命だけはお助けあったがようございましょう」
 単于は衛律を代理に遣わして、蘇武を呼び出し、訊問に答えさせた。蘇武は常恵らに向かって言う。
「臣としての操を曲げ、君命を辱めては、たとい生き延びるとも、何の面目あって漢に帰れよう」
 佩刀をぬくなり、おのが胸に刺す。衛律は驚いて自身で蘇武を抱きとめ、急ぎ医者をよんだ。地面を掘って穴をあけた中に、燠火〈おき〉をいけ、蘇武を穴の上にうつぶせにし、その背中を踏んで鬱血を出させた。蘇武は息も絶えていたが半日で息を吹き返した。常恵らは泣きながら輿に載せて陣屋に帰った。単于は蘇武の気節を天晴れに思い、朝夕人をやって蘇武を見舞わせる一方、張勝を投獄した。
 
 武益愈、單于使使曉武。會論虞常、欲因此時降武。劍斬虞常已、律曰:「漢使張勝謀殺單于近臣、當死、單于募降者赦罪。」舉劍欲擊之、勝請降。律謂武曰:「副有罪、當相坐。」武曰:「本無謀、又非親屬、何謂相坐?」復舉劍擬之、武不動。律曰:「蘇君、律前負漢歸匈奴、幸蒙大恩、賜號稱王、擁眾數萬、馬畜彌山、富貴如此。蘇君今日降、明日復然。空以身膏草野、誰復知之!」武不應。律曰:「君因我降、與君為兄弟、今不聽吾計、後雖欲復見我、尚可得乎?」武罵律曰:「女為人臣子、不顧恩義、畔主背親、為降虜於蠻夷、何以女為見?且單于信女、使決人死生、不平心持正、反欲鬥兩主、觀禍敗。南越殺漢使者、屠為九郡;宛王殺漢使者、頭縣北闕;朝鮮殺漢使者、即時誅滅。獨匈奴未耳。若知我不降明、欲令兩國相攻、匈奴之禍從我始矣。」
〔訳〕蘇武はだんだん快(よ)くなった。単于は使いをやって蘇武を説得した。ちょうど虞常の裁きをつける段になったが、これをしおに蘇武を降参させようというつもりである。虞常を剣で斬ったあと、衛律が言うには、
「漢の使者張勝は、単于の近臣〔自分のこと〕を殺さんとした廉にて、死罪申し付くる。ただし、単于におかれては、降参を申し出る者あらば、罪を赦そうとの仰せじゃ」
 剣を振り上げて張勝を斬ろうとする。勝は降参したいという。律は蘇武に向かっていう、
「副使が罪を犯した上は、その方も同罪であるぞ」
 武「もともと相談には与(あずか)り申さぬ。しかも親族でもない。何故に同罪といわれる?」
 衛律は再度剣をあげて突きつける。蘇武は動じない。律が言う、
「蘇君! わしは先に漢にそむいて匈奴に身を寄せたが、幸いに大恩を蒙り、号を賜わって王とよばれておる。かかえる民は数万、飼い馬などは山に満ちておる。それほどの身分じゃ。蘇君も、今日降参なされば、明日は同様の身分になられよう。あだに身を草原のこやしとなさっても、誰が知ってくれよう?」
 蘇武は答えない。衛律はさらにいった。
「君がわしをなかだちに降参なされば、わしと君は兄弟じゃ。今、わしの言うことを聞かれねば、あともう一度わしに会いたいとお思いでも、かないませぬぞ」
 蘇武は衛律を罵っていう。
「きさまは人の臣、人の子でありながら、恩義を思わないで、主にそむき親にそむき、野蛮人に降参した。何できさまに会う用やある? それに単于はきさまを信ずればこそ、人を活かす殺すかを委せらたに、平心に正しい裁きをつけようとせぬのみか、かえって双方の君主を戦わせ、災難が起こるのを高見の見物する気でおる。南越は漢の使者を殺したばかりに、滅ぼされ九つの郡になった。宛王〔大宛の王〕は漢の使者を殺したため、首を北の城門に梟(さら)された。朝鮮は漢の使者を殺した故に、すぐと誅滅された。匈奴だけはまださような仕儀に立ち入らずにおる。きさまはわしが降参する気のないこと、とくと承知の上にて、〔漢の使者たるわしを殺して〕漢と匈奴と合戦させようと致しおる。匈奴の災難は、わしからはじまるであろうぞ」
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目高 拙痴无
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93
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1932/02/04
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