瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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  3月17日のブログで、大木あまりさんの俳句を角川の「俳句」3月号から写し取るのに、「踏青と いうは闘う 一歩かな」という句を「青踏と いうは闘う 一歩かな」としてしまった。どうやら、『闘う』の語に惑わされて平塚らいてう主幹の雑誌『青鞜』を思い出し、それに曳きづられて間違ってしまったらしい(どうやらこの瘋癲爺は青鞜の「鞜」も「踏」と覚えていたらしい。まったくアホな奴じゃ)。
 昨日の 清明 の記事で書いたように、踏青は 「中国で、仲春から晩春にかけて行われる郊外の散歩、文字どおり青き草を踏む意である。初春の野に春をさぐる〈探春〉に次ぐ遊びであり、唐代以後、盛んになった。地方によっては、一定の日に行う行事となったが、一般には清明(せいめい)節前後、特に郊外への墓参の後、ついでに芳樹の下や桃や李(すもも)の咲く中で酒宴を開き、春の盛りの山野を楽しんだ。おそらく緑へのあこがれに基づく行事であろう。唐詩のなかに頻出する。」という。日本では「踏青」または「青き踏む」として俳句の春の季語となっている。
 
 二月二日   李商隠
二月二日江上行   二月二日  江上(こうじょう)を行く
東風日暖聞吹笙   東風(とうふう) 日(ひ)暖かくして
                吹笙(すいしょう)を聞く
花鬚柳眼各無頼   花鬚(かしゅ) 柳眼(りゅうがん) 
                各々(おのおの)無頼(ぶらい)
紫蝶黄蜂倶有情   紫蝶(しちょう)  黄蜂(こうほう) 
                倶(とも)に情(じょう)有り
万里憶帰元亮井   万里  帰るを憶(おも)う
                元亮(げんりょう)の井(せい)
三年従事亜夫営   三年  事(こと)に従う
                亜夫(あふ)の営(えい)
新灘莫悟遊人意   新灘(しんたん)は
                遊人(ゆうじん)の意(い)を悟る莫(な)く
更作風簷雨夜声   更に作(な)す  風簷(ふうえん)雨夜(うや)の声
bb717440.jpeg〔訳〕二月二日踏青の日 川のほとりを歩んでゆくと
   日は暖かに春の風 笛の音も聞こえてくる
   鬚(ひげ)のような花の蕊(しべ)
            柳葉の目にも魅力があり
   紫蝶も黄色の蜂も ともに愁いを含んでいる
   陶淵明のように 故郷に思いを馳せながら
   はや三年の日月を 周亜夫のもとで仕えてきた
   新灘の早瀬の音は 旅人の心を解せず
   夜の軒端の雨風の 音さながらに鳴っている

c092bfb0.jpeg※ 李商隠(812~ 858年)は、晩唐の官僚政治家で、時代を代表する漢詩人。字は義山、号は玉谿生。また獺祭魚と呼ばれる。懐州河内(現・河南省沁陽市)の人。官僚としては不遇だったが、その妖艶で唯美的な詩風は高く評価されて多くの追随者を生み、北宋初期に一大流行を見る西崑体の祖となった。

  青鞜(せいとう)は、明治44(1911)年9月から大正5(1916)年2月まで52冊発行された、女性による月刊誌。主に平塚らいてうが、末期だけ伊藤野枝(1895~1923年)が中心だった。
明治末の日本では、女性は良妻賢母が道であり、選挙権はなかった。治安警察法は女性の政治活動を禁じていたが、欧米ではフェミニズムが叫ばれ、それが日本にも伝えられていた。
4af1d071.jpeg 生田長江〔いくたちょうこう、1882~1936年〕が平塚明(はる、当時25歳)に、女性だけの文芸誌の発行を勧め、迷う平塚を、日本女子大学の同窓、保持研子〔やすもちよしこ、1885~1947年、当時26歳〕が後押しした。知友を訪ねて誘い、2人と中野初子(25歳)、木内錠子(ていこ、24歳)、物集和子(もずめかずこ、23歳)が発起人となり、明治44(1911)年9月、『青鞜』を創刊した。一千部が、全国にはけたという。
 『青鞜』の名は、生田長江がつけた。"Blue Stocking(ブルーストッキング)"の和訳であるという。Blue Stockingは、19世紀にロンドンで始まった黒でない綠の長靴下、転じて、趣味のいい婦人の意であるという。創業時の社員は、岩野清子(岩野泡鳴の内縁の妻)、茅野雅子、田村とし子、野上八重子、水野仙子ら18人、賛助員は、長谷川時雨、与謝野晶子、森しげ子(森鴎外の妻)、小金井喜美子、岡田八千代、国木田治子ら7人だった。社員は会費を納めた。そして平塚の母が資金を援助したという。
1053d84e.jpeg 創刊号の表紙は、長沼智恵子が描き、巻頭を与謝野の詩が飾った。そして平塚が、『原始女性は太陽であった』に始まる創刊の辞を載せ、初めて「らいてう」の筆名を使ったという。



7235ad9b.jpeg   ブログ集20号が出来たので、いつもの方に発送するため、花川戸のクロネコ店まで出かけた。東武線の鉄橋のところから、隅田公園に入り、テラスを通って帰宅した。途中、ベンチに座って、携帯に書き込みの練習をした。宝塚在住のS氏にたどたどしく、メールを入れてみた。曰く、「クロネコヤマトメール便をだして、隅田川のテラスでメールを書いています。ブログ集20号は明後日にはそちらに着くでしょう。対岸の桜がきれいです。日高」
 帰宅して、暫くすると携帯が鳴り、メールが入った。S氏からの返信に曰く、「いつもお気遣い戴き有難うございます。20号を楽しみにしております。 墨田の桜並木、さぞかしの眺めだと拝察しております。私の勝手ですが、年をとったせいでしょうが、満開の桜を見ながら、その美しさや優しさの中に、私の脳裏に刻まれた戦時中を思い起こしてしまいます。桜の花に例えながら、祖国を守ると言う使命の為に、散って行った先輩方の思いが忍ばれてなりません。本当に老いたと思います。現代の世相と調和しがたい今日この頃です。体調に留意してください。」
 いやはや、携帯はすぐにメールを見ることが出来て、便利だかなれない入力に手間がかかる。パソコンのほうがブラインドタッチできるので早く入力できる。パソコンのメールを持っている方にはパソコンのメールを使わせてもらった。曰く、「本日「プログ集20」を発送しました。/どうも製本がうまくいかなくて、閉じテープが少々曲がっているものがありますが、ご勘弁下さい。/明後日には到着すると思います。/4月15日、待乳山本龍院大広間にて『「語座」安全特別公演』というのがあるそうです。私もどんなものかはよく存じませんが、宜しければ行って見ませんか。/
https://skydrive.live.com/?cid=d4b02dc0f18f0c92&id=D4B02DC0F18F0C92%21234
 会場は僕ん家(ち)のすぐ近くで、同じ町内です。宜しかったらお知らせ下さい。/まずは、お知らせまで。 
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