瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
今朝も早くから小雨模様。徘徊はやめて、パソコンに向かう。
ホトトギスの名は「ホトホト」と聞こえる鳴き声からで、「ス」はカラス・ウグイスなどの「ス」と同じく、小鳥の類を表す接尾語と考えられる。漢字で「時鳥」と表記されることから「時(とき)」と関連付ける説もあるが、ホトトギスの仲間の鳴き声を「ホトホト」と表現した文献も残っているため、鳴き声からと考えるのが妥当であろう。江戸時代に入ると、ホトトギスの鳴き声は「ホンゾンカケタカ(本尊かけたか)」「ウブユカケタカ(産湯かけたか)」、江戸時代後期には「テッペンカケタカ(天辺かけたか)」などと表現されるようになり、名前が鳴き声に由来することが解りづらくなった。ホトトギスの漢字表記は吃驚するほど多く、全部はとても憶え切れない。ホトトギスについて調べてみた。
ホトトギス〔杜鵑、学名 Cuculus poliocephalus〕は、カッコウ目・カッコウ科に分類される鳥類の一種。特徴的な鳴き声とウグイスなどに托卵する習性で知られていて、日本では古来から様々な文書に登場し、いろいろな漢字表記や異名が多い。
漢字表記は杜鵑・時鳥・子規・不如帰・杜宇・蜀魂・田鵑・霍公鳥・霍公・郭公・杜魂・布谷・無常鳥・黄昏鳥・夕影鳥・菖蒲鳥・時鳥〉・山時鳥・沓手鳥・山郭公など20種以上あり、 また、異名には、文目鳥(あやめどり)・妹背鳥(いもせどり)・卯月鳥(うづきどり)・勧農鳥(かんのうちょう)・早苗鳥(さなえどり)・子規(しき)・死出田長(しでのたおさ)・蜀魂(しょっこん)・黄昏鳥(たそがれどり)・橘鳥(たちばなどり)・偶鳥(たまさかどり)・夜直鳥(よただどり)・魂迎鳥(たまむかえどり)・杜宇(とう)・時鳥(ときつどり)など15種ぐらいはある。
常璩〔じょうきょ、生卒年不祥、西晋~五胡十六国時代の蜀国の役人〕が著した「華陽国志」巻3「蜀志」冒頭に描かれた古代蜀の項に次のような話が書かれている。
蜀の国が衰退して荒れ果てていたのを見かねた杜宇(とう)が農耕を指導して蜀を再興し、彼は帝王の座に着き望帝と称した。望帝杜宇は長江の氾濫に悩まされたが、それを治める男を取り立て宰相にした。やがて、彼は帝位を譲られ叢帝となり、望帝は山中に隠居した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスとなり、生前、得意とした農耕を始める季節(春~初夏)が来ると、それを民に告げるため、杜宇の魂化身ホトトギスは鋭く鳴くようになったと云う。時が流れて、蜀は秦に攻め滅ぼされた。それを知った杜宇ホトトギスは嘆き悲しみ“不如帰去(帰り去くに如かず:帰ることが出来ない)”と鳴きながら血を吐いたので、口が赤く染まった。
ホトトギスを不如帰、杜宇、杜鵑、蜀魂、蜀鳥、杜魄、蜀魄などと表記されるようになったのは以上のような故事によるものといわれている。
ホトトギスは全長は28cmほどで、ヒヨドリよりわずかに大きく、ハトより小さい。頭部と背中は灰色で、翼と尾羽は黒褐色をしている。胸と腹は白色で、黒い横しまが入るが、この横しまはカッコウやツツドリよりも細くて薄い。目のまわりには黄色のアイリングがある。
アフリカ東部、マダガスカル、インドから中国南部までに分布する。インドから中国南部に越冬する個体群が5月頃になると中国北部、朝鮮半島、日本まで渡ってくる。日本では5月中旬ごろにくる。他の渡り鳥よりも渡来時期が遅いのは、托卵の習性のために対象とする鳥の繁殖が始まるのにあわせることと、食性が毛虫類を捕食するため、早春に渡来すると餌にありつけないためである。カッコウなどと同様に食性は肉食性で、特にケムシを好んで食べる。また、自分で子育てをせず、ウグイス等に托卵する習性がある。オスの鳴き声はけたたましいような声で、「キョッキョッキョキョキョキョ!」と聞こえ、「ホ・ト・…・ト・ギ・ス」とも聞こえる。早朝からよく鳴き、夜に鳴くこともある。この鳴き声の聞きなしとして「特許許可局」や「テッペンカケタカ」が知られる。
日本では、激情的ともいえるさえずりに仮託して、古来ホトトギスの和歌が数多く詠まれ、すでに万葉集にも見ることができる。鳴き声が聞こえ始めるのとほぼ同時期に花を咲かせる橘や卯の花と取り合わせて詠まれることが多い。
宇能花毛 未開者 霍公鳥 佐保乃山邊 来鳴令響 大伴家持 〔万葉集 八巻 1477〕
卯(う)の花も、いまだ咲かねば、霍公鳥(ほととぎす)、
佐保(さほ)の山辺(やまへ)に、来鳴(きな)き響(とよ)もす
〔訳〕卯(う)の花もまだ咲いてもいないのに、霍公鳥(ほととぎす)は佐保(さほ)の山辺(やまべ)にやってきて鳴いている。
他にも夜に鳴く鳥として珍重され、その年に初めて聞くホトトギスの鳴き声を忍音(しのびね)といい、これも珍重した。枕草子ではホトトギスの初音を人より早く聞こうと夜を徹して待つ様が描かれている。
小学唱歌『夏は来ぬ』の冒頭部も「卯(う)の花の、匂う垣根に時鳥(ほととぎす)、早も来鳴きて忍音(しのびね)もらす、夏は来ぬ」ではじまる。
平安時代以降には「郭公」の字が当てられることも多い。これはホトトギスとカッコウがよく似ていることからくる誤りによるものと考えられている。芭蕉もこの字を用いている。其角の句に「あの声で蜥蜴(とかげ)食らうか時鳥」がある。ホトトギスは美しい声で鳴くが醜いトカゲなどの爬虫類や虫などを食べる、すなわち「人や物事は見かけによらない」ということを指すのだという
鳴かないホトトギスを三人の天下人がどうするのかで性格を後世の人が川柳で言い表している〔これらの川柳は本人の自作ではなく、江戸時代後期の平戸藩主・松浦清の随筆『甲子夜話』に見える〕。
「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」→織田信長の短気さと気難しさを表現している。
「鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤」→豊臣秀吉の好奇心旺盛なひとたらしぶりを表現している。
「なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様」→徳川家康の忍耐強さを表している。
一説によると、ここでのホトトギスは「前田利家」を著しているとも言う。
ホトトギスというユリ科の植物がある。花びらにある紫色の斑紋がホトトギス(小鳥)の胸の斑紋と似ていることから付けられたとされている.ホトトギス(小鳥)のは横縞模様であるが、野草の斑紋には横縞模様から大小の斑点まで様々なものがある。
ホトトギス属〔杜鵑草属、学名 Tricyrtis〕は、ユリ科植物の属のひとつ。概ね次のような特徴を持つ多年生草本植物である。山野の林下や林縁、崖や傾斜地などの、日当たりの弱いところに自生する。葉は互生し、楕円形で長く、葉脈は縦方向で、表面には毛が生える。花期は初夏から秋にかけてで、雌雄同花で上向きに咲き、花弁が 6枚で直径数cm程度のもので 2〜4日程度咲くことが多い。ジョウロウホトトギス類は黄色く下方向に向く釣鐘型の花を 4〜5日ほどつけるものが多い。
東アジア(日本、台湾、朝鮮半島)に分布し、19種が確認されている。そのうち日本では 13種(変種を除く)が確認されており、うち 10種は日本固有種である。 日本列島を中心に分布していることから、日本が原産であると推定されている。
本日は日曜日、午前10時雨が止んだので、言問橋~桜橋周辺をひと回りしてみる。
言問橋西詰の遊歩道の行き止まりの所〔スカイネットの直ぐ傍〕で青いシートをかぶせその下で宴会を開いている若者の一団が居たので、何をしているのかと、訊ねたところ、今度の日曜日に開催される隅田川花火大会の場所取りだという。どうやら、どこかの大学の部活のグループらしい。勿論、交代ではあろうが、1週間ここに釘付けになるのらしい。
桜橋から山谷掘り水門広場を抜け、聖天様の前の信号を渡ったところで塾友のtoruちゃんがワンちゃんと散歩するのとであった。しばし、立ち話。
ホトトギスの名は「ホトホト」と聞こえる鳴き声からで、「ス」はカラス・ウグイスなどの「ス」と同じく、小鳥の類を表す接尾語と考えられる。漢字で「時鳥」と表記されることから「時(とき)」と関連付ける説もあるが、ホトトギスの仲間の鳴き声を「ホトホト」と表現した文献も残っているため、鳴き声からと考えるのが妥当であろう。江戸時代に入ると、ホトトギスの鳴き声は「ホンゾンカケタカ(本尊かけたか)」「ウブユカケタカ(産湯かけたか)」、江戸時代後期には「テッペンカケタカ(天辺かけたか)」などと表現されるようになり、名前が鳴き声に由来することが解りづらくなった。ホトトギスの漢字表記は吃驚するほど多く、全部はとても憶え切れない。ホトトギスについて調べてみた。
ホトトギス〔杜鵑、学名 Cuculus poliocephalus〕は、カッコウ目・カッコウ科に分類される鳥類の一種。特徴的な鳴き声とウグイスなどに托卵する習性で知られていて、日本では古来から様々な文書に登場し、いろいろな漢字表記や異名が多い。
漢字表記は杜鵑・時鳥・子規・不如帰・杜宇・蜀魂・田鵑・霍公鳥・霍公・郭公・杜魂・布谷・無常鳥・黄昏鳥・夕影鳥・菖蒲鳥・時鳥〉・山時鳥・沓手鳥・山郭公など20種以上あり、 また、異名には、文目鳥(あやめどり)・妹背鳥(いもせどり)・卯月鳥(うづきどり)・勧農鳥(かんのうちょう)・早苗鳥(さなえどり)・子規(しき)・死出田長(しでのたおさ)・蜀魂(しょっこん)・黄昏鳥(たそがれどり)・橘鳥(たちばなどり)・偶鳥(たまさかどり)・夜直鳥(よただどり)・魂迎鳥(たまむかえどり)・杜宇(とう)・時鳥(ときつどり)など15種ぐらいはある。
常璩〔じょうきょ、生卒年不祥、西晋~五胡十六国時代の蜀国の役人〕が著した「華陽国志」巻3「蜀志」冒頭に描かれた古代蜀の項に次のような話が書かれている。
蜀の国が衰退して荒れ果てていたのを見かねた杜宇(とう)が農耕を指導して蜀を再興し、彼は帝王の座に着き望帝と称した。望帝杜宇は長江の氾濫に悩まされたが、それを治める男を取り立て宰相にした。やがて、彼は帝位を譲られ叢帝となり、望帝は山中に隠居した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスとなり、生前、得意とした農耕を始める季節(春~初夏)が来ると、それを民に告げるため、杜宇の魂化身ホトトギスは鋭く鳴くようになったと云う。時が流れて、蜀は秦に攻め滅ぼされた。それを知った杜宇ホトトギスは嘆き悲しみ“不如帰去(帰り去くに如かず:帰ることが出来ない)”と鳴きながら血を吐いたので、口が赤く染まった。
ホトトギスを不如帰、杜宇、杜鵑、蜀魂、蜀鳥、杜魄、蜀魄などと表記されるようになったのは以上のような故事によるものといわれている。
アフリカ東部、マダガスカル、インドから中国南部までに分布する。インドから中国南部に越冬する個体群が5月頃になると中国北部、朝鮮半島、日本まで渡ってくる。日本では5月中旬ごろにくる。他の渡り鳥よりも渡来時期が遅いのは、托卵の習性のために対象とする鳥の繁殖が始まるのにあわせることと、食性が毛虫類を捕食するため、早春に渡来すると餌にありつけないためである。カッコウなどと同様に食性は肉食性で、特にケムシを好んで食べる。また、自分で子育てをせず、ウグイス等に托卵する習性がある。オスの鳴き声はけたたましいような声で、「キョッキョッキョキョキョキョ!」と聞こえ、「ホ・ト・…・ト・ギ・ス」とも聞こえる。早朝からよく鳴き、夜に鳴くこともある。この鳴き声の聞きなしとして「特許許可局」や「テッペンカケタカ」が知られる。
日本では、激情的ともいえるさえずりに仮託して、古来ホトトギスの和歌が数多く詠まれ、すでに万葉集にも見ることができる。鳴き声が聞こえ始めるのとほぼ同時期に花を咲かせる橘や卯の花と取り合わせて詠まれることが多い。
宇能花毛 未開者 霍公鳥 佐保乃山邊 来鳴令響 大伴家持 〔万葉集 八巻 1477〕
卯(う)の花も、いまだ咲かねば、霍公鳥(ほととぎす)、
佐保(さほ)の山辺(やまへ)に、来鳴(きな)き響(とよ)もす
〔訳〕卯(う)の花もまだ咲いてもいないのに、霍公鳥(ほととぎす)は佐保(さほ)の山辺(やまべ)にやってきて鳴いている。
他にも夜に鳴く鳥として珍重され、その年に初めて聞くホトトギスの鳴き声を忍音(しのびね)といい、これも珍重した。枕草子ではホトトギスの初音を人より早く聞こうと夜を徹して待つ様が描かれている。
小学唱歌『夏は来ぬ』の冒頭部も「卯(う)の花の、匂う垣根に時鳥(ほととぎす)、早も来鳴きて忍音(しのびね)もらす、夏は来ぬ」ではじまる。
平安時代以降には「郭公」の字が当てられることも多い。これはホトトギスとカッコウがよく似ていることからくる誤りによるものと考えられている。芭蕉もこの字を用いている。其角の句に「あの声で蜥蜴(とかげ)食らうか時鳥」がある。ホトトギスは美しい声で鳴くが醜いトカゲなどの爬虫類や虫などを食べる、すなわち「人や物事は見かけによらない」ということを指すのだという
鳴かないホトトギスを三人の天下人がどうするのかで性格を後世の人が川柳で言い表している〔これらの川柳は本人の自作ではなく、江戸時代後期の平戸藩主・松浦清の随筆『甲子夜話』に見える〕。
「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」→織田信長の短気さと気難しさを表現している。
「鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤」→豊臣秀吉の好奇心旺盛なひとたらしぶりを表現している。
「なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様」→徳川家康の忍耐強さを表している。
一説によると、ここでのホトトギスは「前田利家」を著しているとも言う。
東アジア(日本、台湾、朝鮮半島)に分布し、19種が確認されている。そのうち日本では 13種(変種を除く)が確認されており、うち 10種は日本固有種である。 日本列島を中心に分布していることから、日本が原産であると推定されている。
本日は日曜日、午前10時雨が止んだので、言問橋~桜橋周辺をひと回りしてみる。
早朝から、雨。徘徊はお休み。
日本の祭りとその名称の由来について調べてみた。
七夕(たなばた、しちせき)は、日本、台湾、中国、韓国、ベトナムなどにおける節供、節日の一つ。旧暦の7月7日の夜のことであるが、日本では明治改暦以降、お盆が7月か8月に分かれるように、7月7日又は月遅れの8月7日に分かれて七夕祭りが行われる。五節句〔人日《1月7日》,上巳《3月3日》、端午《5月5日》、七夕《7月7日》、重陽《9月9日》〕の一つにも数えられる。
七夕の行事は、中国から伝来し奈良時代に広まった「牽牛星(けんぎゅうせい)」と「織女星(しょくじょ)」の伝説と、手芸や芸能の上達を祈願する中国の習俗「乞巧奠(きつこうでん)」が結びつけられ、日本固有の行事となったものであるという。
七夕が「たなばた」と呼ばれるようになった由来は、織女の伝説を元にした語源説で、「棚機つ女(たなばたつめ)」の下略(「つ」は「の」の意味)とする説が一般的である。しかし、古くから農村地域では、豊作を祈り種を撒く「種播祭り(たなばたまつり)」が存在しているため、宮中で行われた「しちせき」が民間に広まった時に混同され、「たなばた」と呼ばれるようになったとも考えられている。
青森ねぶた祭は、七夕祭りの灯籠流しの変形であろうといわれているが、その起源は定かではない。奈良時代(710~794年)に中国から渡来した「七夕祭」と、古来から津軽にあった習俗と精霊送り、人形、虫送り等の行事が一体化して、紙と竹、ローソクが普及されると灯籠となり、それが変化して人形、扇ねぶたになったと考えられている。初期のねぶたの形態は「七夕祭」であったが、そこに登場する練り物の中心が「ねぶた」と呼ばれる「灯籠」であり、七夕祭は7月7日の夜に穢(けが)れを川や海に流す、禊(みぞぎ)の行事として灯籠を流して無病息災を祈った。これが「ねぶた流し」と呼ばれ、現在の青森ねぶたの海上運行に表れている。
「ねぶた(ねぷた・ねふた)」という名称は、東北地方を始め、信越地方「ネンブリ流し」、関東地方「ネブチ流し・ネボケ流し・ネムッタ流し」等の民族語彙分布と方言学から「ねむりながし」の眠りが「ねぶた」に転訛したものと考えられている。
だんじりの語源は諸説あり、屋台をじりじりと動かすことから、「台ずり」が転じたか「台躙り(だいにじり)」が転じたとする説、「山車(だし)」が一部方言化されたとする説、道教や密教で「祭場」や「塚」を意味する「壇」を引きづる意味から、「だんじり」になったとする説などあるが、正確な語源は未詳である。その他、後醍醐天皇の孫に当たる尹良(ただよし)親王〔?~1424年、後醍醐天皇の皇孫にあたるとされるが歴史学的には存在に疑問ありとされる〕が信州大川原で自害させられ、その子である良王親王が家臣に命じて仇敵の台尻大隅守を滅ぼし、その時「台尻討った」と皆が喜びはやした言葉が尾張津島天王の祭礼に残り、「台尻」が訛って「だんじり」になったとする説がある。この近郊地域では、主に「山車」が用いられるが、尾張津島天王祭では「だんじり船」と言われ、注目に値する。
漢字は「壇尻」や「楽車」のほか、「台尻」、「地車」、「花車」、「屋台」など多くの漢字が当てられいているため、これらに語源をもとめることは無意味である。
岸和田だんじり祭りの由来は、元禄16年(1703年)、岸和田藩主であった岡部長泰〔1650~1724年、和泉岸和田藩の第3代藩主〕公が、京都伏見稲荷を岸和田城内の三の丸に祀り、五穀豊穣を祈願した稲荷祭が始まりとされる。
当初のだんじりは簡素なもので、現在のようなだんじりが曳かれるようになったのは、文化・文政期頃といわれる。
よさこい祭り(よさこいまつり)は、毎年8月9日の前夜祭、8月10日と11日の本番、12日の全国大会と後夜祭の4日間にわたって高知県高知市で開催される祭り。延べ約100万人の人出があり、四国三大祭り〔阿波おどり、新居浜太鼓まつり、よさこい祭り〕の一つである。
高知県に残る民謡。囃子詞として「よさこい、よこさい」と歌われる。その起源については諸説あり、いまだ特定には至っていない。
慶長年間(1596年-1615年)、山内一豊が入国して高知城を築いたとき、作事場で歌われた木遣り唄のヨイショコイという掛け声が変化したとする説(この場合はヨイショコイという掛け声の意)、正徳年間(1711年-1776年)、大奥女中の絵島と歌舞伎役者の生島新五郎の情話が絵島節となって諸国に流行し、それが土佐に伝わって変化したという説(この場合は夜にいらっしゃいという意)。
他に、鹿児島県の「夜さ来い晩に来い」という囃子詞を持つ民謡が伝えられたとする説(土佐から鹿児島へ伝わったという説もある)、夜這いの風習と関連させて農耕生活の場で歌われていたと推定する説、よってらっしゃいを意味する土佐の昔言葉という説、などがある。
よさこい節には数百曲に及ぶ替え歌が残っており、どの歌がどの時代に作られたものかは定かではない。純信(じゅんしん、1819~1888年)は五台山竹林寺脇坊の住職をしていた頃、鋳掛屋の娘で20歳年下の大野馬と禁断の恋をする。安政2年(1855年)5月19日深夜、馬と駆落ち、笹口番所の裏道から阿波に入り、讃岐琴平の旅籠に泊まっていたところ、関所破りで捕まり、同年9月、高知城下の晒し場で面晒しの刑を受け、国外追放になる。伊予の亀吉の庇護のもと寺子屋で教えていたが、亀吉の死後その地を離れ、晩年は美川村で慶翁徳念和尚を名乗って生活し、その地で死去。この話は後に浄瑠璃となり、よさこい節で、「土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい」と歌われている。
「くんち」とは、九州北部における秋祭りに対する呼称であり、収穫を感謝して奉納される祭であるという。「おくんち」と称される場合もある。ほとんどのくんち行事に共通する要素として、神社から御旅所まで神輿による御神幸が行われることがある。またそこに大名行列や稚児行列、山車(曳山、山笠など)、囃子、踊り、獅子舞などが加わるが、何が加わるかについてはその地域ごとに大きく異なり、同じ「くんち」と一括りにできないほど多彩なものになっている。現代においては御神幸よりもそれに加わるものの方がイベントとしてメインの扱いを受けており、神事としての意味合いはかなり薄れている。
博多おくんち(はかたおくんち)は、福岡県福岡市博多区にある櫛田神社の秋の例祭。秋の豊穣に感謝する祭りである。長崎くんち(長崎県長崎市)や唐津くんち(佐賀県唐津市)と並ぶ日本三大くんちとされている。
多くのくんちでは平仮名表記の「(お)くんち」を正式名称として使っているが、語源の説により「(御)九日」、「(御)供日」「(御)宮日」と幾つかの漢字表記がある。
九日説:旧暦の9月9日、重陽の節句に行われた祭であることから「九日(くんち)」という呼び名が定着したという説。長崎など、この説を有力としている地区は多いが、九日は通常「ここのか」や「ここんか」と発声される。9月19日、9月29日を含めた日程で三九日(さんくにち、みくにち)としての祭礼を行っている地域もあり、これが元ともいわれる。現在は参加者の都合から休日などに日程をずらして行われているくんちも多い。この説をとる祭りが多いにもかかわらず漢字表記として「九日」が使われることがほとんどないのは、日程について誤解を与えないためであるとされる。昔から九日に行われていなかったくんちもあるが、これに対しては呼び名だけが伝わったためという説明がされる。
供日説:収穫した作物を神に供える日、「供日(くにち)」から転じて「くんち」になったとする説。漢字表記がされる場合にはこの表記が使われていることも多いが、後から当て字として考えられたものともいわれる。
宮日説;お宮に対して祭を行うため「宮日」ということだが、くんちの呼称が秋祭りに限られることが説明しにくいため、後から当て字として考えられたものともいわれる。
「どんたく」は、オランダ語で「日曜日」「休日」を意味する「Zondag(ゾンターク)」に由来するといわれ、zondagは「土曜日」や「半日休み」を意味する「半ドン」の語源でもあるという。
明治はじめ頃から用いられた語で、慶応4(1868)年から明治9(1876)年にかけ、毎月1と6の日が休日だったことから、「一六のどんたく」「一六休暇(ぞんたく)」とも表現された。
博多どんたくは、冶承3(1179)年小正月の松囃子として始まり、福岡と博多の町が交流する行事ともなったという。明治5(1872)年、新政府下の福岡県知事により松囃子の禁止令が出されたが、明治12(1879)年に松囃子を復活させるため、「どんたく」と呼称を変えて再開された。昭和16(1941)年の太平洋戦争によって一時中止されたが、戦災の町を復興させようと昭和21(1946)年に復活し、昭和37(1962)年には、「博多どんたく港まつり」として、市民総参加の福岡市民の祭りに位置づけられるようになった。年々盛んになり、ゴールデンウィーク中、日本最大の祭りとなった。
日本の祭りとその名称の由来について調べてみた。
七夕の行事は、中国から伝来し奈良時代に広まった「牽牛星(けんぎゅうせい)」と「織女星(しょくじょ)」の伝説と、手芸や芸能の上達を祈願する中国の習俗「乞巧奠(きつこうでん)」が結びつけられ、日本固有の行事となったものであるという。
七夕が「たなばた」と呼ばれるようになった由来は、織女の伝説を元にした語源説で、「棚機つ女(たなばたつめ)」の下略(「つ」は「の」の意味)とする説が一般的である。しかし、古くから農村地域では、豊作を祈り種を撒く「種播祭り(たなばたまつり)」が存在しているため、宮中で行われた「しちせき」が民間に広まった時に混同され、「たなばた」と呼ばれるようになったとも考えられている。
「ねぶた(ねぷた・ねふた)」という名称は、東北地方を始め、信越地方「ネンブリ流し」、関東地方「ネブチ流し・ネボケ流し・ネムッタ流し」等の民族語彙分布と方言学から「ねむりながし」の眠りが「ねぶた」に転訛したものと考えられている。
漢字は「壇尻」や「楽車」のほか、「台尻」、「地車」、「花車」、「屋台」など多くの漢字が当てられいているため、これらに語源をもとめることは無意味である。
岸和田だんじり祭りの由来は、元禄16年(1703年)、岸和田藩主であった岡部長泰〔1650~1724年、和泉岸和田藩の第3代藩主〕公が、京都伏見稲荷を岸和田城内の三の丸に祀り、五穀豊穣を祈願した稲荷祭が始まりとされる。
当初のだんじりは簡素なもので、現在のようなだんじりが曳かれるようになったのは、文化・文政期頃といわれる。
高知県に残る民謡。囃子詞として「よさこい、よこさい」と歌われる。その起源については諸説あり、いまだ特定には至っていない。
慶長年間(1596年-1615年)、山内一豊が入国して高知城を築いたとき、作事場で歌われた木遣り唄のヨイショコイという掛け声が変化したとする説(この場合はヨイショコイという掛け声の意)、正徳年間(1711年-1776年)、大奥女中の絵島と歌舞伎役者の生島新五郎の情話が絵島節となって諸国に流行し、それが土佐に伝わって変化したという説(この場合は夜にいらっしゃいという意)。
他に、鹿児島県の「夜さ来い晩に来い」という囃子詞を持つ民謡が伝えられたとする説(土佐から鹿児島へ伝わったという説もある)、夜這いの風習と関連させて農耕生活の場で歌われていたと推定する説、よってらっしゃいを意味する土佐の昔言葉という説、などがある。
よさこい節には数百曲に及ぶ替え歌が残っており、どの歌がどの時代に作られたものかは定かではない。純信(じゅんしん、1819~1888年)は五台山竹林寺脇坊の住職をしていた頃、鋳掛屋の娘で20歳年下の大野馬と禁断の恋をする。安政2年(1855年)5月19日深夜、馬と駆落ち、笹口番所の裏道から阿波に入り、讃岐琴平の旅籠に泊まっていたところ、関所破りで捕まり、同年9月、高知城下の晒し場で面晒しの刑を受け、国外追放になる。伊予の亀吉の庇護のもと寺子屋で教えていたが、亀吉の死後その地を離れ、晩年は美川村で慶翁徳念和尚を名乗って生活し、その地で死去。この話は後に浄瑠璃となり、よさこい節で、「土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい」と歌われている。
博多おくんち(はかたおくんち)は、福岡県福岡市博多区にある櫛田神社の秋の例祭。秋の豊穣に感謝する祭りである。長崎くんち(長崎県長崎市)や唐津くんち(佐賀県唐津市)と並ぶ日本三大くんちとされている。
多くのくんちでは平仮名表記の「(お)くんち」を正式名称として使っているが、語源の説により「(御)九日」、「(御)供日」「(御)宮日」と幾つかの漢字表記がある。
九日説:旧暦の9月9日、重陽の節句に行われた祭であることから「九日(くんち)」という呼び名が定着したという説。長崎など、この説を有力としている地区は多いが、九日は通常「ここのか」や「ここんか」と発声される。9月19日、9月29日を含めた日程で三九日(さんくにち、みくにち)としての祭礼を行っている地域もあり、これが元ともいわれる。現在は参加者の都合から休日などに日程をずらして行われているくんちも多い。この説をとる祭りが多いにもかかわらず漢字表記として「九日」が使われることがほとんどないのは、日程について誤解を与えないためであるとされる。昔から九日に行われていなかったくんちもあるが、これに対しては呼び名だけが伝わったためという説明がされる。
供日説:収穫した作物を神に供える日、「供日(くにち)」から転じて「くんち」になったとする説。漢字表記がされる場合にはこの表記が使われていることも多いが、後から当て字として考えられたものともいわれる。
宮日説;お宮に対して祭を行うため「宮日」ということだが、くんちの呼称が秋祭りに限られることが説明しにくいため、後から当て字として考えられたものともいわれる。
明治はじめ頃から用いられた語で、慶応4(1868)年から明治9(1876)年にかけ、毎月1と6の日が休日だったことから、「一六のどんたく」「一六休暇(ぞんたく)」とも表現された。
博多どんたくは、冶承3(1179)年小正月の松囃子として始まり、福岡と博多の町が交流する行事ともなったという。明治5(1872)年、新政府下の福岡県知事により松囃子の禁止令が出されたが、明治12(1879)年に松囃子を復活させるため、「どんたく」と呼称を変えて再開された。昭和16(1941)年の太平洋戦争によって一時中止されたが、戦災の町を復興させようと昭和21(1946)年に復活し、昭和37(1962)年には、「博多どんたく港まつり」として、市民総参加の福岡市民の祭りに位置づけられるようになった。年々盛んになり、ゴールデンウィーク中、日本最大の祭りとなった。
橋下徹大阪市長の女性問題、ネットの声は? ―― 19日に発売された「週刊文春」(7月26日号)において、橋下徹大阪市長の女性問題が報じられた。/同記事では、2006~07年頃、大阪・北新地の高級クラブで働いていたホステスが、橋下市長と不倫関係にあったことを詳細に伝えており、発売前日となる18日、橋下市長も市庁舎で会見を行い、これを認めている。/「正直、大変な状況だ。親のポカで子供には本当に申し訳ない」「知事になる前までは、聖人君子のような生き方をしていたわけではない」と語った橋下市長。記事では「客室乗務員などのコスプレをリクエストしていた」などと書かれていたが、この真偽を問われると、「娘に制服を着ろと言えなくなっちゃいますよ。私服で学校行ってるんですけどね」と述べている。
一連の報道を受け、ネット掲示板では「謝って済む問題ではない」「公務員に対してはタバコ吸ったくらいでクビだとわめくくせに、自分は愛人を作っても開き直るとは」「自分に甘く、他人に厳しい典型的なクズ」「コスプレ変態プレイしてたあとで、どの面下げて君が代歌うのかな?」と橋下市長を批判する声が相次いだ。/しかし、その一方では、「知事就任前の話だからどうでもいいよ」「昔から橋下は女性関係について潔癖だなんて一言も言ってない。こんな問題でいちいち辞めてたら日本中の公務員の半分くらいがいなくなるぞ」「仕事で結果を出せない聖人君子よりは幾分マシ」と、橋下市長を擁護する書き込みも目立つ。/また、その他にも「維新政治塾の塾生はどう思ってるんだろう? やっぱり擁護しなきゃいけないのかな(笑)」「会費払っちゃった塾生涙目ww」と、橋下市長が主催する維新政治塾塾生の行く末を案じる意見も散見された。 〔livedoorニュース 2012年07月19日12時25分〕
今朝のウェブニュースより
民主党政権、モ~末期的! これが“離党予備軍”74人だ ―― 民主党が溶解し始めた。除名された小沢一郎代表率いる新党「国民の生活が第一」の49人に続き、17日に女性参院議員3人、18日に男性衆院議員1人が相次いで離党届を提出した。野田佳彦首相が「政治生命を懸ける」という「社会保障と税の一体改革」関連法案の参院審議が本格化する直前だけに、政権にとっては大打撃だ。党内にはほかに「74人の離党予備軍」がいるといわれており、民主党政権は末期症状を呈している。/連休明けの17日に離党届を出したのは、舟山康江、谷岡郁子、行田邦子の3氏。舟山氏は記者会見で「原発ゼロ社会の実現、反TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)、増税先行でない本当の意味での一体改革に取り組む」と述べ、野田政権の主要政策を全否定した。/中津川博郷衆院議員も18日午前、離党届を提出した。東京都の石原慎太郎知事が模索している「石原新党」入りを希望している。/女性3人は、国民新党を離党して無所属で活動していた亀井亜紀子参院議員と統一会派「みどりの風」を立ち上げる。/全員が、民主党に追い風が吹いた2007年参院選の初当選組で、来年夏に改選を迎えるため、野田首相に近い民主党議員は「風頼りの選挙しか知らないので『民主党では落選する』と思って逃げ出したのだろう」「ただの『緑のおばさん』の乱だ。大勢に影響はない」などと強がった。/しかし、「参院のドン」でもある輿石東幹事長は「党は危機的な状況。政権が崩壊しかねない」と、狼狽したような危機感を示した。/3人の離党で、参院の民主党会派は88人になる。第2会派の自民党が86人のため、さらに参院議員3人が離党すれば民主党会派は第2会派に転落する。議長は第1会派から出すのが慣例のため、民主党会派は議長ポストを失い、政権運営は一層厳しさを増す。/気になるのは、小沢氏らが今月2日に集団で離党届を出してから、さみだれ式に離党者が続いていることだ。/愛知選出の谷岡氏は原発再稼働に反対、山形選出の舟山氏はTPPに反対する急先鋒として知られ、埼玉選出の行田氏は参院幹事長代理と、党執行部の一員だった。/民主党関係者は「党内の、脱原発や反TPP、執行部にも、離党予備軍がいることが浮き彫りになった。野田首相は『決められる政治』を掲げてこれらを進めようとしているが、進めれば離党者が出るというジレンマに陥った」と話した。/官邸の情報過疎も深刻だ。官邸筋は3人の離党について「寝耳に水だ」と述べ、直前まで把握していなかったことを明らかにした。一方で、小沢新党の幹部は結党直後から「民主党内に離党したがっている『隠れキリシタン』がいる」と述べ、こっそり3人を含む数人を名指ししていた。/現時点で、3人は小沢新党への合流は否定したが、同党の東祥三幹事長は17日の記者会見で、「目標が一致しているなら常に連携、協力は惜しまない」と共闘に意欲を示した。/また、18日に離党届を出した中津川氏のほか、民主党から衆院議員15人が離党すれば、内閣不信任案を与党だけで否決できなくなる。野田首相が内閣総辞職か衆院解散・総選挙に追い込まれる可能性も出てくる。自民党は参院審議で民主党の結束を追及する構えで、波乱のタネは尽きない。/注目は、今後も離党者が増えるかどうかだ。/党執行部が「離党予備軍」として危険視しているのは、党原発事故収束対策プロジェクトチーム(荒井聡座長)らが先月5日に提出した、原発再稼働に慎重な判断を求める文書に署名した117人のうち、民主党に残っている74人(衆院50人、参院24人)だ。渡部恒三最高顧問など、絶対に離党しない議員も多いが、中には、小沢グループの重鎮、山田正彦元農水相や、新党構想が報じられた鳩山由紀夫元首相らも名前を連ねている。/「世論の支持が離れて、次の選挙で勝てない」と離党者が続出し、そのことで政権与党の体をなさなくなり、世論の支持が離れるという、完全な悪循環に陥っている民主党だが、離党者にも展望があるわけではない。残留組にも、離党組にも、国民の厳しい視線を象徴する川柳が、ネット上で広まりつつある。
「気をつけろ その候補者は 元民主」 〔zakzak 2012.07.18〕
「気をつけろ その候補者は 元民主」 〔zakzak 2012.07.18〕
今日のウェブニュースより
野田首相:一体改革関連法案 参院での修正に柔軟姿勢示す ―― 消費増税を柱とする税と社会保障の一体改革関連8法案は18日午前、参院一体改革特別委員会で野田佳彦首相と関係閣僚が出席して質疑を行い、実質審議入りした。首相は参院で法案を修正する可能性について問われ、「今の制度改正に加え、より改善されるならば議論はあってしかるべきだ。予断を持っているわけではない」と述べた。衆院段階の民主、自民、公明3党合意を踏まえつつ柔軟に対応する姿勢を示した。/首相は、将来のエネルギー政策に関する意見聴取会で電力会社の社員が発言したことについて「国民に誤解を生む動きがあった。手直ししながら丁寧に国民的な議論を進めたい」と語った。桜井充氏(民主)の質問に答えた。/桜井氏が今後の原発政策について国民投票の実施を求めたのに対し、首相は「できるだけ多くの国民の意思を確認する工夫は最大限取り入れたい」と述べるにとどめた。/午後は宮沢洋一氏ら自民党の5氏が質問し、首相に対して、最低保障年金創設など民主党のマニフェストは3党合意で実現が不可能になったなどと追及する。首相出席の質疑は19日も行う。 〔毎日新聞 2012年07月18日 11時17分(最終更新 07月18日 11時57分)〕
東京夢華録 巻十 十二月
十二月、街市盡賣撒佛花、韭黃、生菜、蘭芽、勃荷、胡桃、澤州餳。初八日、街巷中有僧尼三五人、作隊念佛、以銀銅沙羅或好盆器、坐一金銅或木佛像、浸以香水、楊枝洒浴、排門教化。諸大寺作浴佛會、并送七寶五味粥與門徒、謂之「臘八粥」。都人是日各家亦以果子雜料煑粥而食也。臘日、寺院送面油與門徒、卻入疏教化上元燈油錢。閭巷家家互相遺送。是月景龍門預賞元夕於寶籙宮、一方燈火繁盛。二十四日交年、都人至夜請僧道看經、備酒果送神、燒合家替代錢紙、帖竈馬於竈上。以酒糟塗抹竈門、謂之「醉司命」。夜於床底點燈、謂之「照虛耗」。此月雖無節序、而豪貴之家、遇雪即開筵、塑雪獅、裝雪燈雪□、以會親舊。近歲節、市井皆印賣門神、鍾馗、桃板、桃符、及財門鈍驢、回頭鹿馬、天行帖子。賣乾茄瓠、馬牙菜、膠牙餳之類、以備除夜之用。自入此月、即有貧者三數人為一火、裝婦人神鬼、敲鑼擊皷、巡門乞錢、俗呼為「打夜胡」、亦驅祟之道也。
〔訳〕十二月になると、町ではいっせいに撒仏花・ニラ・チシャ・蘭芽(らんが)・ハッカ・クルミ・沢州〔たくしゅう、山西省晋城県〕のあめを売った。八日には、町を僧尼四、五人が並んでお経を唱え、銀や銅でつくった沙羅(さら)あるいは立派な鉢に、一体の金銅か木でつくった仏像を置き、香水にひたして、楊の枝で香水をかけながら門ごとに教化をする。諸大寺では浴仏会(よくぶつえ)を開いて七宝五味の粥(かゆ)を門徒に与え、これを「臘八粥(ようかがゆ)」という。市民もこの日にはそれぞれ家でいろいろな穀物などを入れて粥をたいて食べた。臘日(ろうじつ)には寺院から門徒に小麦粉と油を贈り、上元節の燈油代の布施を募る。町の家々でも互いに贈答しあった。この月に景竜門〔内城の北門〕では元宵の燈篭祭りを宝籙宮〔ほうろくきゅう、景竜門の近くにある大道教寺院〕で一月はやめて行い、この一帯だけは燈篭が賑やかにともされていた。二十四日には「交年」といって、市民は夜になると僧侶や道士を呼んで看経(かんきん)をしてもらい、酒果を供えて、竈の神を送り、一家そろって紙銭紙馬を焼いた。竈の神の神像を描いた絵馬を竈の上に貼り、酒糟を竈の焚口に塗りつけて、これを「酔司命(すいしめい)」といった。夜中には寝台の下に燈火を置いてこれを「照虚粍(むだてらし)」といった。この月には節句はないが、豪家貴家では、雪が降ると宴席を設け、雪で獅子や燈篭をつくって、親戚旧友と打ち集い楽しむのであった。年越しが近づくと、町ではみな門神・鍾馗(しゅうき)・桃板(とうばん)・桃符(とうふ)および財門鈍驢(ざいもんどんろ)・回頭鹿馬(かいとうろくば)・天行帖子(てんこうちょうし)を刷って売ったり、乾茄瓠(かんぴょう)・馬牙菜(ばがさい)・膠牙餳(ねばりあめ)の類を売って除夜の用にそなえた。この月に入ってから、貧乏人が三人あまりで一組となって、婦人やら神鬼などに扮装(ふんそう)して、ドラ・太鼓をたたいて門づけをして歩く。俗にこれを「打夜胡(おにやらい)」といい、やはり邪気をはらう行事であった。
※蘭芽:中国では野菊に似た馬蘭〔紺菊〕という草の新芽を摘んで食用に供する。
※八日:一般に中国・日本では釈迦の誕生は四月八日、成道日(じょうどうび)すなわち悟りを開いた日は十二月八日、入滅の日は二月十五日としている。宋代には釈迦成道日の十二月八日にも浴仏会を行なった。
※沙羅:サラノキすなわち釈迦入滅の時に寝台の四辺に生えていたという木で、その葉の長さは20cmほどもある楕円形のおおきなものである。
※楊の枝:後趙創建者の石勒〔せきろく、274~333年〕の子が瀕死の重病に罹ったとき、西域の僧仏図澄〔ぶつとちょう、232~348年〕がヤナギの枝を取って水に濡らしてこれを注ぎかけたところ蘇生したという故事があるし、インドでは賓客を迎える時は先ずヤナギの枝と香水を贈って健康を祝う風習があるという。
※臘八粥:十二月を臘月といい、同月八日を臘八と呼び、この日は釈迦の成道を祝う。臘八粥はこの日に食べる粥で、モチアワ・白米・モチゴメ・ナツメ・ヒシノミ・クリ・アズキなどに砂糖を入れた甘い粥である。さまざまなものを入れた粥なので七宝五味の粥などともいう。
※臘日:冬至後第三の戌の日か? この日は中国では古代から諸神や先祖とか百物を合わせる祭りをする年末の祭礼「臘祭」の日である。しかし、俗には十二月八日も臘日と呼んでいたようだ。
※交年:俗にいう灶(かまど)祭りである。俗信によると、この日に灶の神が天に上り、玉王大帝の所へ行って各戸の一年間の善悪を報告し、除夕〔じょせき、大晦日のよる〕にまた帰ってくるという。
※酔司命:これは、わが家の運命をつかさどるかまどの神を酔わせてしまおうという意味。酔わせて我が家の悪口を天帝に言わせぬというわけだ。清代になると酒糟ではなくあめを塗って、かまどの神の口を粘らせてしまおうとしたという。
※門神・鍾馗…桃符:これらはいずれも鬼を払う力のあるものばかり。門神は二人の武神の像を描いて門に貼るもの。鬼を捕まえて食べると信じられていた鍾馗の像が年末に用いられるのは、俗に唐の玄宗が除夜の晩に鍾馗を夢に見て画工に描かせたのに始るというが、『周礼』の考工記に出ている終葵〔しゅうき、椎《つち》〕で鬼を打つ椎を神格化したもので南北朝人の人名によく用いられた鍾葵(しょうき)も魔よけの意味でつけられたというから、その起源はかなり古いものであるいえる。桃板・桃符は門にかける魔よけの板や紙のこと。桃板は新年に邪を避ける力があると信じられていた桃の板に神像を書き、その下に右に鬱塁(うつりつ)、左に神荼(しんじょ)〔いずれも鬼を取り締まる神の名〕と書いて、元日に門にかけた。清代には、竜虎・朝官・桃柳などの絵を描いた一対の細長い板を門の左右にかけて桃符と呼んだ。
※財門鈍驢…天行帖子:これらも除夕に戸口などに貼る絵馬や護摩ふうの物であったようだ。例えば天行帖子は、宋では俗に流行病を天行病と呼び多くは天然痘をさしていたから、後世小児が着物のはしに「天花巳花〔疱瘡はもう済み〕」と書いた布切れをつけた類いの護符であろう。日本で鍾馗とか鎮西八郎や桃太郎などを赤刷りにした疱瘡絵を用いたのと同じ意味をもったものと思われる。
※打夜胡:歳末に郷人が相率いて追儺(ついな)をするのを「打野胡」とある。つまり「打夜胡」は鬼やらいの行事。三、五人が一隊となり、神鬼・判官・鍾馗・小妹〔鍾馗の妹〕などに扮して、ドラ・太鼓を打って門ごとに銭を乞うた。
東京夢華録 巻十 十二月
十二月、街市盡賣撒佛花、韭黃、生菜、蘭芽、勃荷、胡桃、澤州餳。初八日、街巷中有僧尼三五人、作隊念佛、以銀銅沙羅或好盆器、坐一金銅或木佛像、浸以香水、楊枝洒浴、排門教化。諸大寺作浴佛會、并送七寶五味粥與門徒、謂之「臘八粥」。都人是日各家亦以果子雜料煑粥而食也。臘日、寺院送面油與門徒、卻入疏教化上元燈油錢。閭巷家家互相遺送。是月景龍門預賞元夕於寶籙宮、一方燈火繁盛。二十四日交年、都人至夜請僧道看經、備酒果送神、燒合家替代錢紙、帖竈馬於竈上。以酒糟塗抹竈門、謂之「醉司命」。夜於床底點燈、謂之「照虛耗」。此月雖無節序、而豪貴之家、遇雪即開筵、塑雪獅、裝雪燈雪□、以會親舊。近歲節、市井皆印賣門神、鍾馗、桃板、桃符、及財門鈍驢、回頭鹿馬、天行帖子。賣乾茄瓠、馬牙菜、膠牙餳之類、以備除夜之用。自入此月、即有貧者三數人為一火、裝婦人神鬼、敲鑼擊皷、巡門乞錢、俗呼為「打夜胡」、亦驅祟之道也。
〔訳〕十二月になると、町ではいっせいに撒仏花・ニラ・チシャ・蘭芽(らんが)・ハッカ・クルミ・沢州〔たくしゅう、山西省晋城県〕のあめを売った。八日には、町を僧尼四、五人が並んでお経を唱え、銀や銅でつくった沙羅(さら)あるいは立派な鉢に、一体の金銅か木でつくった仏像を置き、香水にひたして、楊の枝で香水をかけながら門ごとに教化をする。諸大寺では浴仏会(よくぶつえ)を開いて七宝五味の粥(かゆ)を門徒に与え、これを「臘八粥(ようかがゆ)」という。市民もこの日にはそれぞれ家でいろいろな穀物などを入れて粥をたいて食べた。臘日(ろうじつ)には寺院から門徒に小麦粉と油を贈り、上元節の燈油代の布施を募る。町の家々でも互いに贈答しあった。この月に景竜門〔内城の北門〕では元宵の燈篭祭りを宝籙宮〔ほうろくきゅう、景竜門の近くにある大道教寺院〕で一月はやめて行い、この一帯だけは燈篭が賑やかにともされていた。二十四日には「交年」といって、市民は夜になると僧侶や道士を呼んで看経(かんきん)をしてもらい、酒果を供えて、竈の神を送り、一家そろって紙銭紙馬を焼いた。竈の神の神像を描いた絵馬を竈の上に貼り、酒糟を竈の焚口に塗りつけて、これを「酔司命(すいしめい)」といった。夜中には寝台の下に燈火を置いてこれを「照虚粍(むだてらし)」といった。この月には節句はないが、豪家貴家では、雪が降ると宴席を設け、雪で獅子や燈篭をつくって、親戚旧友と打ち集い楽しむのであった。年越しが近づくと、町ではみな門神・鍾馗(しゅうき)・桃板(とうばん)・桃符(とうふ)および財門鈍驢(ざいもんどんろ)・回頭鹿馬(かいとうろくば)・天行帖子(てんこうちょうし)を刷って売ったり、乾茄瓠(かんぴょう)・馬牙菜(ばがさい)・膠牙餳(ねばりあめ)の類を売って除夜の用にそなえた。この月に入ってから、貧乏人が三人あまりで一組となって、婦人やら神鬼などに扮装(ふんそう)して、ドラ・太鼓をたたいて門づけをして歩く。俗にこれを「打夜胡(おにやらい)」といい、やはり邪気をはらう行事であった。
※蘭芽:中国では野菊に似た馬蘭〔紺菊〕という草の新芽を摘んで食用に供する。
※八日:一般に中国・日本では釈迦の誕生は四月八日、成道日(じょうどうび)すなわち悟りを開いた日は十二月八日、入滅の日は二月十五日としている。宋代には釈迦成道日の十二月八日にも浴仏会を行なった。
※沙羅:サラノキすなわち釈迦入滅の時に寝台の四辺に生えていたという木で、その葉の長さは20cmほどもある楕円形のおおきなものである。
※楊の枝:後趙創建者の石勒〔せきろく、274~333年〕の子が瀕死の重病に罹ったとき、西域の僧仏図澄〔ぶつとちょう、232~348年〕がヤナギの枝を取って水に濡らしてこれを注ぎかけたところ蘇生したという故事があるし、インドでは賓客を迎える時は先ずヤナギの枝と香水を贈って健康を祝う風習があるという。
※臘八粥:十二月を臘月といい、同月八日を臘八と呼び、この日は釈迦の成道を祝う。臘八粥はこの日に食べる粥で、モチアワ・白米・モチゴメ・ナツメ・ヒシノミ・クリ・アズキなどに砂糖を入れた甘い粥である。さまざまなものを入れた粥なので七宝五味の粥などともいう。
※臘日:冬至後第三の戌の日か? この日は中国では古代から諸神や先祖とか百物を合わせる祭りをする年末の祭礼「臘祭」の日である。しかし、俗には十二月八日も臘日と呼んでいたようだ。
※酔司命:これは、わが家の運命をつかさどるかまどの神を酔わせてしまおうという意味。酔わせて我が家の悪口を天帝に言わせぬというわけだ。清代になると酒糟ではなくあめを塗って、かまどの神の口を粘らせてしまおうとしたという。
※門神・鍾馗…桃符:これらはいずれも鬼を払う力のあるものばかり。門神は二人の武神の像を描いて門に貼るもの。鬼を捕まえて食べると信じられていた鍾馗の像が年末に用いられるのは、俗に唐の玄宗が除夜の晩に鍾馗を夢に見て画工に描かせたのに始るというが、『周礼』の考工記に出ている終葵〔しゅうき、椎《つち》〕で鬼を打つ椎を神格化したもので南北朝人の人名によく用いられた鍾葵(しょうき)も魔よけの意味でつけられたというから、その起源はかなり古いものであるいえる。桃板・桃符は門にかける魔よけの板や紙のこと。桃板は新年に邪を避ける力があると信じられていた桃の板に神像を書き、その下に右に鬱塁(うつりつ)、左に神荼(しんじょ)〔いずれも鬼を取り締まる神の名〕と書いて、元日に門にかけた。清代には、竜虎・朝官・桃柳などの絵を描いた一対の細長い板を門の左右にかけて桃符と呼んだ。
※財門鈍驢…天行帖子:これらも除夕に戸口などに貼る絵馬や護摩ふうの物であったようだ。例えば天行帖子は、宋では俗に流行病を天行病と呼び多くは天然痘をさしていたから、後世小児が着物のはしに「天花巳花〔疱瘡はもう済み〕」と書いた布切れをつけた類いの護符であろう。日本で鍾馗とか鎮西八郎や桃太郎などを赤刷りにした疱瘡絵を用いたのと同じ意味をもったものと思われる。
今朝のウェブニュースより、
「同じ思いの人がこんなに」=脱原発集会に「17万人」-酷暑の中、最大規模・東京 ―― 脱原発を求め、再稼働を進める政府に抗議する「さようなら原発10万人集会」が16日、東京都渋谷区の代々木公園で開かれ、主催者発表で17万人が集まった。東京電力福島第1原発事故後に行われた脱原発集会の中で最大規模とみられる。「同じ思いの人がこんなにいるなんて」「ぜひ、また来たい」。強い日差しが照りつけ、真夏日を記録する中、参加者らは声を上げ続ける決意を新たにした。/集会では、ルポライターの鎌田慧さんが「大成功です」と興奮冷めやらぬ様子で語り、会場を沸かせた。今秋にも脱原発集会を企画するとし、「まだまだやりましょう」と呼び掛けた。/政治への不信をあらわにしたのは経済評論家の内橋克人さん。「福島の悲劇から学ぼうとしない政治家を二度と国会に送ってはいけない」と声を張り上げた。/作家の落合恵子さんは、民主党が国民の生活重視を訴えて政権を獲得したにもかかわらず「命より原発を選んだ」と痛烈に批判した。ノーベル文学賞作家の大江健三郎さん、音楽家の坂本龍一さんらも次々と脱原発への思いを訴えた。/東京都板橋区の会社員で長崎市出身の池田剛さん(68)は「毎週、官邸前で行われるデモを見て来ようと思った。原発の存在そのものが問題だと思っている」と汗を拭いながら語った。/初めて脱原発集会に参加したという人も。埼玉県川口市の会社員、江田昭敏さん(37)は「同じ気持ちの人がこんなにたくさんいると分かった」と顔をほころばせた。長男(9)と次男(2)を連れて来た東京都府中市の主婦、浅野敦子さん(43)は「野田首相にはがっかりしている。大勢の方がこの問題を考えていると分かり、また参加したい」と話した。 〔jijicom 2012/07/16-17:47〕
さらに最近のウェブニユースから、見つけたニュース。
ヒ弱すぎるゾ スカイツリー 開業1カ月半でもう5度目 風が吹けば休みなんて… <マズい対応にオバサン客も詰め寄る> 「この程度の風で営業をやめちゃうの~」―― 12日午後、東京スカイツリーに観光客の悲鳴が響いた。強風を理由に展望台の営業が突然、休止となったのだ。強風による営業休止は、開業たった1カ月半で、実に5回目。安全のためとはいえ、風に弱すぎないか。/これまで「天望デッキ」(高さ350m)の入場券は完全予約制だったが、11日から当日券も販売開始。12日も朝から大勢の客が行列を作ったが、安全確認のため営業開始は遅れ、午前10時半に一度営業を始めたものの、1時間で再びストップ。結局、午後0時半過ぎに「休止」のアナウンスが流れた。待ち疲れた行列客400~500人の不満は爆発。中には「これだけ待たせたんだから、次回の割引券をよこせ」と詰め寄るオバサン客も現れた。/ちなみに、12日の東京の最大風速は9.9m。肌で風を感じる程度だった。もちろん、地上と高さ350mの上空とでは風の強さは比べ物にならないが、長時間並ばされる立場としては「この程度で? 弱すぎない?」と腹を立てたくもなる。「展望台のエレベーターの安全運行のため、今回、風速20mを基準に営業判断を決めました。観測計は375m、480mの地点に設置しており、それぞれ前日の夜から断続的に風速20m程度を記録していました。一時はこの数字を下回り営業を始めましたが、その後また戻ったため同日の再開を断念しました」(東武タワースカイツリー広報担当者)/そもそも、高層エレベーターの安全基準は地震の揺れを想定しており、強風は想定外。安全対策は事業者任せだが、もう少し風に強くならないものか。/対応のマズさも目立つ。予約客には入場券の払い戻しのほか、30日以内の振り替え入場を受け付ける。だが、世の中そんなに暇じゃない。「この日だけ」という遠方からの客や、修学旅行生などは「一生の思い出」を二度とつくれないかもしれない。最寄り駅に「休止」を告げる案内もなく、公式HPでの発表は、館内アナウンスから遅れること2時間半後。多くの客は何も知らずに、現地に足を運ばされたのだ。/今月28日の隅田川花火大会当日の入場券は倍率186倍のプレミアチケット。この日に強風が吹けば、スカイツリー側は大丈夫か。狭き門をくぐり抜けた来場客が暴動を起こさないか心配だ。 〔日刊ゲンダイ 2012年7月13日 掲載〕
東京夢華録 巻十 冬至
十一月冬至、京師最重此節。雖至貧者、一年之間、積累假借、至此日更易新衣、備辦飲食、享祀先祖。官放關撲、慶賀往來、一如年節。
〔訳〕十一月の冬至の節句を、都ではもっとも重んじた。極貧の者でも、一年がかりのやりくり算段の末、この日は新しい着物に着替え、飲食物をととのえて、先祖をまつった。お上でも関撲(かけ)を許可したし、人々が慶賀をしに往来するさまは、まるで正月のようであった。
※まるで正月の…であった:当時都では寒食・冬至・正月が三大節とされていた。ことに冬至には贈答が非常に盛大に行なわれたから、年末年始の頃には素寒貧になってしまう者も多く、俗諺にも「冬至に肥って正月に痩せる」といわれた。冬至はそのときから再び日が長くなり、新たな太陽の出現を待ち望む時なので、特に農耕民族にあっては陽気と成熟の季節を呼び寄せる儀式を行う日として重要視されて来た。中国では一陽来復の節として天子が祭天の儀式を行い、諸官が参内拝賀するのが常であった。
さらに最近のウェブニユースから、見つけたニュース。
東京夢華録 巻十 冬至
十一月冬至、京師最重此節。雖至貧者、一年之間、積累假借、至此日更易新衣、備辦飲食、享祀先祖。官放關撲、慶賀往來、一如年節。
〔訳〕十一月の冬至の節句を、都ではもっとも重んじた。極貧の者でも、一年がかりのやりくり算段の末、この日は新しい着物に着替え、飲食物をととのえて、先祖をまつった。お上でも関撲(かけ)を許可したし、人々が慶賀をしに往来するさまは、まるで正月のようであった。
※まるで正月の…であった:当時都では寒食・冬至・正月が三大節とされていた。ことに冬至には贈答が非常に盛大に行なわれたから、年末年始の頃には素寒貧になってしまう者も多く、俗諺にも「冬至に肥って正月に痩せる」といわれた。冬至はそのときから再び日が長くなり、新たな太陽の出現を待ち望む時なので、特に農耕民族にあっては陽気と成熟の季節を呼び寄せる儀式を行う日として重要視されて来た。中国では一陽来復の節として天子が祭天の儀式を行い、諸官が参内拝賀するのが常であった。
本日は「海の日」 テレビのニュースに拠れば「全国的に晴れ間が広がり、北陸地方ですでに36度を超えた場所もあるほか、埼玉県の熊谷市でも38度になると予想されるなど各地で猛暑日になるとみられ、気象庁は熱中症への注意を呼びかけている。本州付近は高気圧に広く覆われ、九州から東北の南部にかけて朝から強い日差しが照りつけているという。石川県の金沢で午前10時過ぎに36.4度、富山県の高岡で36度など、北陸の一部ではフェーン現象も加わって、午前中から35度を超える猛暑日となっている場所もある。/午後にかけてさらに気温の上がる場所が多く、予想最高気温は埼玉県の熊谷で38度、群馬県の前橋で36度、などとなっていて、18の都府県に高温注意報が出されている。(16日11:25)」
今朝のウェブニュースより
東日本大震災から、1年3ヵ月が経過したいま、私たちは大自然の猛威への恐怖を忘れかけていないだろうか。だが日本の地殻と気候は、すでに大変動期に入っている。本当の恐怖はこれからだ。
過去のデータが信用できない:早朝、ゴウ、という異様な音で目が覚めた。外に出てみると、瞬く間に道路が川のようになり、膝の高さまで水が押し寄せた---。「60年近く生きとって、はじめて見る『天気』があるとは、思わなかったね」
福岡県在住の男性(59歳)はこう語ってくれた。7月3日から降り始め、大分県や福岡県を襲った豪雨は1時間の雨量が観測史上最多の91mm(大分県中津市耶馬渓町)を記録した。こたつ板ほどの広さ(1平方m)に2リットルサイズのペットボトルが約45本ぶちまけられたことに相当する水量だ。近頃、日本の気候はどうもおかしい。今年に入ってからだけでも、
●1月 記録的寒波。各地で大雪。1月下旬の北日本の平均気温は今世紀最低の平年比マイナス1.4度。
●4月 爆弾低気圧が日本縦断。各地で台風並みの突風、豪雨に襲われた。5人死亡、350人負傷。
●5月 茨城県つくば市で竜巻とみられる突風発生。12kmにわたって民家や工場をなぎ倒し、男子中学生1人が犠牲に。
など、「スーパー異常気象」ともいえる記録的な気候の異変が止まらない。
7月も早々から全国で真夏日が続出し、「この夏一番の暑さ」というフレーズが飛び交うなどイヤな気配が立ち込めている。
気象庁が発表した7月~9月の「3ヵ月予報」では今夏は全国的に暑さ、降水量ともに平年並みとされている。だが予報をよく読むと、不可解な文言が目に入る。「今回の予測には不確定性が大きい」。これは一体、どういう意味なのか。
「天候を左右する海水温や偏西風などの数値予測は、過去30年のデータから約50通りの異なる予想をはじき出し、平均を取って作ります。今回はほとんどのパターンで赤道付近の海水温が高くなるエルニーニョ現象が現れていました。/ところが、我々は冬の終わり頃から『エルニーニョになる』と予想しているのに、現実には一向に起きてこない。それで『不確定性が大きい』としたのです。/実は昨年も予想に反してエルニーニョが起きず、逆に海水温が低くなるラニーニャ現象が起きてしまった。原因はまだよくわかっていません」(気象庁予報課)
気象庁も首をかしげる、奇妙な気候の変化。これから一体、何が起ころうとしているのか。
「残念ながら、激甚災害が日常的に起きてしまうかもしれません。すでに風の吹き方ひとつ取っても、以前とは違う、極端なものに変わってしまったのです」
と話すのは極地や砂漠など辺境の調査を行ってきた長沼毅広島大学准教授だ。
「最近、温暖化が危惧される一方、地球の寒冷化を主張する意見もあります。ふたつは正反対ですが、大きな気候変動である点では同じです。気候変動期の特徴は『激甚化』。これまでも起きていた現象が極端になってしまうということです。/たとえば、竜巻に襲われたつくば市は昔から雷で有名です。つまりもともと、雷を発生させる積乱雲が発達しやすい地域だった。それが現在では、極端に発達してスーパーセル(巨大積乱雲)にまでなってしまうようになったのです」
雨、風、雷、熱波・・・・・・。これらが発生する頻度や規模、変化の速さが極限化し、記録的なスーパー異常気象を引き起こすのだ。/あらためて気象庁予報課に聞くと、最近になって、ようやく少しずつエルニーニョ現象が発生し始めたという。こうなると基本的に日本は多雨・冷夏の傾向となり、残暑が厳しい。一方で、西日本と沖縄・奄美地方では太平洋高気圧が張り出し、晴れて暑い日が多くなるという予想もある。
「氷河期」が近づいている? :仮にこの気候が極端なものになったとすると、単純に言えば、東日本は日照不足で農作物が不作に、西日本は酷暑で水不足となる地域が増えると考えられる。/天候の急変が起こりやすいかを判断する、ひとつの目安は偏西風の蛇行だ。
「偏西風が北に離れていれば日本は晴れて暑くなり、南下してくれば竜巻や急な大雨に見舞われたりしやすいでしょう。気象庁HPで公開している『高層天気図』では、偏西風の通るおよその位置に矢印をつけてあるので、参照してみてください」(気象庁予報課)
前出の長沼准教授は、この激甚化の先に、さらに恐るべき未来が待っているかもしれないという。
「長期的にみて、地球が温暖化と寒冷化のどちらに向かうかといえば、私は寒冷化だと思います。ひとつの根拠として、過去の気候変動を見ると、10万年間の氷期(氷河期)と1万年間の間氷期(温暖な時期)が交互に繰り返していて、いまの間氷期はそろそろ終わるという考え方があります。もしそうだとしたら、今は10万年続く氷期の入り口かもしれないのです」
かつての氷河期には海さえも凍りつき、大陸と地続きになった日本列島に日本人の祖先が移住してきた。気候の大変動を経た数百年後には「海開き」など不可能になるかもしれない。
今夏、日本を襲うかもしれないのは「天」の異変ばかりではない。足元の「地」でも変動が起こっている。「天災地変」という言葉もあるように、古来、賢者たちは天と地の変異をワンセットでとらえてきた。/国土地理院地理地殻活動研究センター地殻変動研究室で日本各地に設置されたGPS(全地球測位システム)データの分析に携わっている西村卓也主任研究官はこう話す。
「東日本大震災では、それまで長い期間、太平洋側から東日本を押していた大地の力が一気に解放されました。今まで北西向きに押し潰されていた東日本は、圧力が抜けたことで、逆に太平洋側に向かって東に伸びているのです」
震災直後、宮城県の牡鹿半島は約5.3m東に移動。震源付近の海底に至っては24mも移動したとされる。
「この動きは現在も続き、1ヵ月に1cm程度は東に動いています」(同前)
首都直下型のイヤな感じ:つまりM9に達した超巨大地震のエネルギーは、いまだにこの日本列島に強い影響を及ぼしているのだ。そしてその力が、次なる大地震や火山の噴火を引き起こす可能性が高まっている。気象庁地震火山部火山課は日本のシンボル、富士山に注視しているという。
「東日本大震災後の3月15日に富士山の直下を震源とするM6.4の地震が発生して以来、富士山で地震活動が高まっています。/今年2月には3合目付近で湯気が出ているのが観測されています。地下で熱せられた水蒸気が地上に出てきた。富士山はまさに『活きている火山』なのです」
さらに、鹿児島県の桜島では7月1日に年明けからの噴火回数が600回を超えた。観測史上2番目のスピードだ。/東北地方では福島の吾妻山で震災以前には見られなかった場所に火山性ガスの噴気孔が出現。秋田駒ヶ岳では山頂付近の地熱が上昇し、木々が枯れ始めた。/一方、6月30日夜、北海道・大雪山系の十勝岳で異変が起こった。札幌管区気象台の設置した高感度カメラで、夜間、火口が真っ赤に燃え上がるような発光現象が撮影されたのだ。
「噴気孔の温度が上がって付着していた硫黄が燃えたと考えられます」
と話すのは、北海道大学地震火山研究観測センターの村上亮教授だ。
「発光現象や硫黄の噴出、噴気の増加など、火山活動の高まりが表に出てくることを『表面現象』と呼びます。十勝岳で直近に起きた過去3回の大きな噴火では、いずれも表面現象が増加した後、マグマが関係する噴火が起きました」
十勝岳では大正時代以来、ほぼ30年おきに大規模な噴火が起きている。1926(大正15)年の大正噴火では大規模な水蒸気爆発で中央火口丘の半分が崩壊。山頂周辺の残雪が融けて泥流となり、噴火後25分で約25km離れた上富良野市街に到達した。この噴火による死傷者・行方不明者は344名、倒壊した家屋は372棟にのぼっている。
「今回の現象がすぐに噴火に結びつくかはわかりませんが、過去の履歴を考えると中長期的には今後、噴火が起こるのは確実だと思います。/地震はいつ起こるかわからないが、噴火は火山性地震の増加などで前兆がわかるから、まだましだ、という人もいるようです。確かにそういう側面はありますが、過信してはいけません。火山でも、地震などが起き始めてすぐに噴火に至る場合もある。専門家が警告し、行政が避難などの対処を取るのも必ず間に合うとは言い切れない。今後も常に油断をしないで見ていく必要があると思います」(同前)
活発化しているのは火山活動ばかりではない。首都を襲う大地震の可能性もまた、高まっている。/7月3日、昼前の関東地方を最大震度4、M5・4の地震が襲った。震源は房総半島南端、館山市付近の東京湾だ。
地震学が専門の武蔵野学院大学・島村英紀特任教授は、「この場所は、元禄型関東地震の震源と極めて近い」と指摘している。
付図を見てほしい。これは6月4日から7月4日の1ヵ月間に、東京湾周辺から房総半島南端付近で発生した地震の震源をプロットしたものだ。/7月3日のM5・4地震は、政府の地震調査委員会が発表している、元禄型関東地震、大正型関東地震の双方の想定震源域に含まれていることがわかる。/元禄の関東地震は、1703(元禄16)年に発生し江戸城の門などが倒壊。小田原城下は大火となり死者約2300名。関東全域の12ヵ所で火災が発生し、被災者は3万7000人にのぼった。この4年後に紀伊半島沖を震源とする宝永地震が発生し、富士山の宝永噴火につながっている。
スカイツリーは大丈夫か:一方の大正関東地震は、1923(大正12)年に発生した、いわゆる「関東大震災」だ。東京は壊滅し、被災者190万人、死者・行方不明者10万5000人以上。日本災害史上、最大級の被害を出している。/「関東地震のような、いわゆる首都直下地震は、江戸時代から17年に1回ずつ起こっていた。ところが関東大震災以来、パッタリなくなっています。東日本大震災の影響もあるはずですから、もういつ起こってもおかしくないと思います。/震源が近い場合、マグニチュードは小さくても海底でM8~M9級の地震が起きたときと同等か、もっと強い揺れが感じられると思います」(前出・島村氏)
関東大震災では8年前から周辺で地震が相次ぎ、東京湾の入り口である浦賀水道でも前震が起きている。今回の地震も、東京湾での大地震の前兆である可能性は否定できない。/さらに、気になる点もある。もう一度、上の図をよく見てほしい。フィリピン海プレートが陸側のプレートに沈み込む相模トラフの北縁に、地震が頻発しているエリアがあるのだ。いま、東京の喉元である房総半島南端周辺で、確実に何かが起きようとしている。/今年4月に東京都が発表した被害想定では、M8・2の元禄型関東地震が発生した場合、広い範囲が震度6以上、大田区や品川区、町田市の一部では震度7の揺れに襲われ、死者約5900人、負傷者は約10万8300人に達するとしている(冬18時発生の場合)。/さらにこのタイプの地震で都は唯一、津波の発生を想定している。高さは最大2・61mだが大田区の埋め立て地や江東区の海抜ゼロメートル地帯などが襲われ、約2500棟の建物が全半壊する予想だ。/しかもこの被害想定には、海抜ゼロメートル地帯にある地下鉄の駅や換気口から浸水が起こることは含まれていない。対策が急がれているとはいえ、東京メトロ東西線東陽町駅や門前仲町駅、半蔵門線清澄白河駅、そして東京スカイツリーの足元、押上駅などはいまだに浸水の可能性があり、最悪の場合、地下鉄のトンネル内で溺れる人が続出する恐れもあるのだ。/この夏、天と地から迫り来る大異変。あなた自身と家族を守れるかは、日本が直面する危険を認識し、覚悟と備えができるかにかかっている。 「週刊現代」2012年7月21・28日号より
今朝のウェブニュースより
東日本大震災から、1年3ヵ月が経過したいま、私たちは大自然の猛威への恐怖を忘れかけていないだろうか。だが日本の地殻と気候は、すでに大変動期に入っている。本当の恐怖はこれからだ。
過去のデータが信用できない:早朝、ゴウ、という異様な音で目が覚めた。外に出てみると、瞬く間に道路が川のようになり、膝の高さまで水が押し寄せた---。「60年近く生きとって、はじめて見る『天気』があるとは、思わなかったね」
福岡県在住の男性(59歳)はこう語ってくれた。7月3日から降り始め、大分県や福岡県を襲った豪雨は1時間の雨量が観測史上最多の91mm(大分県中津市耶馬渓町)を記録した。こたつ板ほどの広さ(1平方m)に2リットルサイズのペットボトルが約45本ぶちまけられたことに相当する水量だ。近頃、日本の気候はどうもおかしい。今年に入ってからだけでも、
●1月 記録的寒波。各地で大雪。1月下旬の北日本の平均気温は今世紀最低の平年比マイナス1.4度。
●4月 爆弾低気圧が日本縦断。各地で台風並みの突風、豪雨に襲われた。5人死亡、350人負傷。
●5月 茨城県つくば市で竜巻とみられる突風発生。12kmにわたって民家や工場をなぎ倒し、男子中学生1人が犠牲に。
など、「スーパー異常気象」ともいえる記録的な気候の異変が止まらない。
7月も早々から全国で真夏日が続出し、「この夏一番の暑さ」というフレーズが飛び交うなどイヤな気配が立ち込めている。
気象庁が発表した7月~9月の「3ヵ月予報」では今夏は全国的に暑さ、降水量ともに平年並みとされている。だが予報をよく読むと、不可解な文言が目に入る。「今回の予測には不確定性が大きい」。これは一体、どういう意味なのか。
「天候を左右する海水温や偏西風などの数値予測は、過去30年のデータから約50通りの異なる予想をはじき出し、平均を取って作ります。今回はほとんどのパターンで赤道付近の海水温が高くなるエルニーニョ現象が現れていました。/ところが、我々は冬の終わり頃から『エルニーニョになる』と予想しているのに、現実には一向に起きてこない。それで『不確定性が大きい』としたのです。/実は昨年も予想に反してエルニーニョが起きず、逆に海水温が低くなるラニーニャ現象が起きてしまった。原因はまだよくわかっていません」(気象庁予報課)
気象庁も首をかしげる、奇妙な気候の変化。これから一体、何が起ころうとしているのか。
「残念ながら、激甚災害が日常的に起きてしまうかもしれません。すでに風の吹き方ひとつ取っても、以前とは違う、極端なものに変わってしまったのです」
と話すのは極地や砂漠など辺境の調査を行ってきた長沼毅広島大学准教授だ。
「最近、温暖化が危惧される一方、地球の寒冷化を主張する意見もあります。ふたつは正反対ですが、大きな気候変動である点では同じです。気候変動期の特徴は『激甚化』。これまでも起きていた現象が極端になってしまうということです。/たとえば、竜巻に襲われたつくば市は昔から雷で有名です。つまりもともと、雷を発生させる積乱雲が発達しやすい地域だった。それが現在では、極端に発達してスーパーセル(巨大積乱雲)にまでなってしまうようになったのです」
雨、風、雷、熱波・・・・・・。これらが発生する頻度や規模、変化の速さが極限化し、記録的なスーパー異常気象を引き起こすのだ。/あらためて気象庁予報課に聞くと、最近になって、ようやく少しずつエルニーニョ現象が発生し始めたという。こうなると基本的に日本は多雨・冷夏の傾向となり、残暑が厳しい。一方で、西日本と沖縄・奄美地方では太平洋高気圧が張り出し、晴れて暑い日が多くなるという予想もある。
「氷河期」が近づいている? :仮にこの気候が極端なものになったとすると、単純に言えば、東日本は日照不足で農作物が不作に、西日本は酷暑で水不足となる地域が増えると考えられる。/天候の急変が起こりやすいかを判断する、ひとつの目安は偏西風の蛇行だ。
「偏西風が北に離れていれば日本は晴れて暑くなり、南下してくれば竜巻や急な大雨に見舞われたりしやすいでしょう。気象庁HPで公開している『高層天気図』では、偏西風の通るおよその位置に矢印をつけてあるので、参照してみてください」(気象庁予報課)
前出の長沼准教授は、この激甚化の先に、さらに恐るべき未来が待っているかもしれないという。
「長期的にみて、地球が温暖化と寒冷化のどちらに向かうかといえば、私は寒冷化だと思います。ひとつの根拠として、過去の気候変動を見ると、10万年間の氷期(氷河期)と1万年間の間氷期(温暖な時期)が交互に繰り返していて、いまの間氷期はそろそろ終わるという考え方があります。もしそうだとしたら、今は10万年続く氷期の入り口かもしれないのです」
かつての氷河期には海さえも凍りつき、大陸と地続きになった日本列島に日本人の祖先が移住してきた。気候の大変動を経た数百年後には「海開き」など不可能になるかもしれない。
今夏、日本を襲うかもしれないのは「天」の異変ばかりではない。足元の「地」でも変動が起こっている。「天災地変」という言葉もあるように、古来、賢者たちは天と地の変異をワンセットでとらえてきた。/国土地理院地理地殻活動研究センター地殻変動研究室で日本各地に設置されたGPS(全地球測位システム)データの分析に携わっている西村卓也主任研究官はこう話す。
「東日本大震災では、それまで長い期間、太平洋側から東日本を押していた大地の力が一気に解放されました。今まで北西向きに押し潰されていた東日本は、圧力が抜けたことで、逆に太平洋側に向かって東に伸びているのです」
震災直後、宮城県の牡鹿半島は約5.3m東に移動。震源付近の海底に至っては24mも移動したとされる。
「この動きは現在も続き、1ヵ月に1cm程度は東に動いています」(同前)
首都直下型のイヤな感じ:つまりM9に達した超巨大地震のエネルギーは、いまだにこの日本列島に強い影響を及ぼしているのだ。そしてその力が、次なる大地震や火山の噴火を引き起こす可能性が高まっている。気象庁地震火山部火山課は日本のシンボル、富士山に注視しているという。
「東日本大震災後の3月15日に富士山の直下を震源とするM6.4の地震が発生して以来、富士山で地震活動が高まっています。/今年2月には3合目付近で湯気が出ているのが観測されています。地下で熱せられた水蒸気が地上に出てきた。富士山はまさに『活きている火山』なのです」
さらに、鹿児島県の桜島では7月1日に年明けからの噴火回数が600回を超えた。観測史上2番目のスピードだ。/東北地方では福島の吾妻山で震災以前には見られなかった場所に火山性ガスの噴気孔が出現。秋田駒ヶ岳では山頂付近の地熱が上昇し、木々が枯れ始めた。/一方、6月30日夜、北海道・大雪山系の十勝岳で異変が起こった。札幌管区気象台の設置した高感度カメラで、夜間、火口が真っ赤に燃え上がるような発光現象が撮影されたのだ。
「噴気孔の温度が上がって付着していた硫黄が燃えたと考えられます」
と話すのは、北海道大学地震火山研究観測センターの村上亮教授だ。
「発光現象や硫黄の噴出、噴気の増加など、火山活動の高まりが表に出てくることを『表面現象』と呼びます。十勝岳で直近に起きた過去3回の大きな噴火では、いずれも表面現象が増加した後、マグマが関係する噴火が起きました」
十勝岳では大正時代以来、ほぼ30年おきに大規模な噴火が起きている。1926(大正15)年の大正噴火では大規模な水蒸気爆発で中央火口丘の半分が崩壊。山頂周辺の残雪が融けて泥流となり、噴火後25分で約25km離れた上富良野市街に到達した。この噴火による死傷者・行方不明者は344名、倒壊した家屋は372棟にのぼっている。
「今回の現象がすぐに噴火に結びつくかはわかりませんが、過去の履歴を考えると中長期的には今後、噴火が起こるのは確実だと思います。/地震はいつ起こるかわからないが、噴火は火山性地震の増加などで前兆がわかるから、まだましだ、という人もいるようです。確かにそういう側面はありますが、過信してはいけません。火山でも、地震などが起き始めてすぐに噴火に至る場合もある。専門家が警告し、行政が避難などの対処を取るのも必ず間に合うとは言い切れない。今後も常に油断をしないで見ていく必要があると思います」(同前)
活発化しているのは火山活動ばかりではない。首都を襲う大地震の可能性もまた、高まっている。/7月3日、昼前の関東地方を最大震度4、M5・4の地震が襲った。震源は房総半島南端、館山市付近の東京湾だ。
地震学が専門の武蔵野学院大学・島村英紀特任教授は、「この場所は、元禄型関東地震の震源と極めて近い」と指摘している。
スカイツリーは大丈夫か:一方の大正関東地震は、1923(大正12)年に発生した、いわゆる「関東大震災」だ。東京は壊滅し、被災者190万人、死者・行方不明者10万5000人以上。日本災害史上、最大級の被害を出している。/「関東地震のような、いわゆる首都直下地震は、江戸時代から17年に1回ずつ起こっていた。ところが関東大震災以来、パッタリなくなっています。東日本大震災の影響もあるはずですから、もういつ起こってもおかしくないと思います。/震源が近い場合、マグニチュードは小さくても海底でM8~M9級の地震が起きたときと同等か、もっと強い揺れが感じられると思います」(前出・島村氏)
関東大震災では8年前から周辺で地震が相次ぎ、東京湾の入り口である浦賀水道でも前震が起きている。今回の地震も、東京湾での大地震の前兆である可能性は否定できない。/さらに、気になる点もある。もう一度、上の図をよく見てほしい。フィリピン海プレートが陸側のプレートに沈み込む相模トラフの北縁に、地震が頻発しているエリアがあるのだ。いま、東京の喉元である房総半島南端周辺で、確実に何かが起きようとしている。/今年4月に東京都が発表した被害想定では、M8・2の元禄型関東地震が発生した場合、広い範囲が震度6以上、大田区や品川区、町田市の一部では震度7の揺れに襲われ、死者約5900人、負傷者は約10万8300人に達するとしている(冬18時発生の場合)。/さらにこのタイプの地震で都は唯一、津波の発生を想定している。高さは最大2・61mだが大田区の埋め立て地や江東区の海抜ゼロメートル地帯などが襲われ、約2500棟の建物が全半壊する予想だ。/しかもこの被害想定には、海抜ゼロメートル地帯にある地下鉄の駅や換気口から浸水が起こることは含まれていない。対策が急がれているとはいえ、東京メトロ東西線東陽町駅や門前仲町駅、半蔵門線清澄白河駅、そして東京スカイツリーの足元、押上駅などはいまだに浸水の可能性があり、最悪の場合、地下鉄のトンネル内で溺れる人が続出する恐れもあるのだ。/この夏、天と地から迫り来る大異変。あなた自身と家族を守れるかは、日本が直面する危険を認識し、覚悟と備えができるかにかかっている。 「週刊現代」2012年7月21・28日号より
7月または8月の13日~16日までの4日間を「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と言い、先祖の精霊を迎え追善の供養をする期間とする風習がある。亡くなってはじめて迎えるお盆を新盆(初盆)といい、特に手厚く供養することになっている。親族や知人が一堂に会し、先祖や故人を偲び、今日ある自分をかえりみるという、お盆の根幹をなす理念は、千古の昔から変わらないものだといっていいだろう。
去年の12月には姉のTを、そして今年2月には敬愛する塾友M(マイチ)を送った。今日は新盆に当たる。
浅草寺では毎年、8月15日の終戦記念日の午後6時30分より、『万燈籠供養会』といって本堂内の外陣(げじん)に霊名と施主の名前を記した「燈籠」を並べ、読経法要を営み、亡き人々の冥福を祈っているいう。
というわけで、本日瘋癲爺が本名 日高節夫 の名で万燈籠供養会に「德譽祐心居士〔マイチの戒名〕」、「釋勝蓮〔姉の法名〕」で二霊の供養を申し込んで置いた。どうか、塾友の皆さん方で都合のつく方々は来月15日のこの供養会に参加してマイチの冥福を祈ってやって欲しい。このあと、マイチにかこつけてどこかで飲み会をやるもいいなあという声が聞こえてくるようだ。誰かが企画してくれれば、またこのブログでお知らせもしよう。
東京夢華録 巻八 重陽
九月重陽、都下賞菊、有數種:其黃白色蘂若蓮房、曰「萬齡菊」:粉紅色曰「桃花菊」:白而檀心曰「木香菊」:黃色而圓者曰「金鈴菊」:純白而大者曰「喜容菊」:無處無之。酒家皆以菊花縛成洞戶。都人多出郊外登高、如倉王廟、四里橋、愁臺、梁王城、硯臺、毛駝岡、獨樂岡等處宴聚。前一二日、各以粉麵蒸餻遺送、上插剪綵小旗、摻飣果實、如石榴子、栗子黃、銀杏、松子肉之類。又以粉作獅子蠻王之狀、置於糕上、謂之「獅蠻」。諸禪寺各有齋會、惟開寶寺、仁王寺有獅子會。諸僧皆坐獅子上、作法事講說、遊人最盛。下旬即賣冥衣靴鞋席帽衣段、以十月朔日燒獻故也。
〔訳〕九月重陽に、都で鑑賞する菊には色々な種類があった。黄白色で蘂(しべ)がハスの花房の形をしているものを「万齢菊」、粉紅(ももいろ)のものを「桃花菊」、白で檀香〔だんこう、香木の総称)のような花心のものを「木香菊」、黄色で丸いものを「金鈴菊」、純白で大輪のものを「喜容菊」と呼ぶ。都じゅうこれらの菊の無いところはなく、酒家もみな菊花を飾り付けた洞戸(アーチ)をつくった。都人は多く郊外に出て高い所に登った。例えば倉王(そうおう)廟、四里橋(しりきょう)・愁台(しゅうだい)・梁王城(りょうおうじょう)・硯(けん)台・毛駝岡(もうだこう)・独楽(どくらく)岡などに集まり、宴会を開くのだった。八日か七日に、めいめい粉で餻(かし)を蒸して贈りあうが、その上には色絹を切って作った小旗を立て、ザクロの実・クリの実・ギンナン・マツの実などの果実を散らし載せた。また、粉で獅子と南蛮の王の形を作り、糕の上に置いてこれを「獅蛮(しばん)」といった。諸禅寺では、それぞれお斎(とき)の会を開く。開王寺・仁王寺では獅子会が開かれた。諸僧がみな獅子の上に坐って法要説経を行なうもので、もっとも見物人が多かった。九月下旬には冥衣(めいい)・靴鞋(はきもの)・席帽(かぶりもの)・衣段(たんもの)などを売るが、これは十月一日に仏に焼いて献ずるためであった。
※九月重陽:九は陽数で、九月九日はその陽数の九が重なるので「重陽」という。
※高い所に上った:重陽の日に高所に登る風習はすでに魏晋南北朝時代に見え、地方によって登高の名所が決まっていたようだ。登高の起源については、「桓景という人が費長房に教えられ九月九日茱茰〔しゅゆ、からはじかみ〕を携え、山に登って菊花の酒を飲み邪を避けた」のが始まりとされるが、この行事の本来の意味は古代中国人が山や川で歌垣のような季節的な祭礼を行なった所からその祭礼が行われる山・川が神聖化されたものだろうといわれる。
※独楽岡:城東十五里にあり、宋代に楽隠居の身の一富翁が、古馴染みを集めては、都人が九日に登高するこの岡で、酒を飲んで楽しんでいた。徽宗が微行の折、これを見てうらやましがり、あの男こそ独り楽しんでいるぞといったので、独楽岡と呼ばれるようになったという。
※餻(こう):重陽糕(ちょうようこう)といい、砂糖と粉とをこねて蒸したもの。清の『燕京歳時記』にも、重陽の日に花糕といって、蒸し餅の上に星のようにナツメやクリを並べて置いたものを食べたとある。なお、餻は糕に同じ。
※獅蛮:文殊菩薩が獅子に乗り蛮人がこれを引いている泥の像を作って、餻の上に置くという。この餻は重陽の日、夜が明けようとする時、その一片を頭に載せて、乳母が「百事みな高く」と祈るのだという。「登高」の高(こう)と餻(こう)が同音なのにかけて出世をいのるわけである。
※冥衣:亡くなった人の冥福を祈ってこれを焼き供養する紙製の衣服。
※席帽:唐宋時代に用いられた籐織りの帽子。
※十月一日:十月一日から3日間は、寒食節と同じように、都人はみな郊外に出て墓参りをした。この際、墓に供えて焼く冥衣は、五色の紙で作って寒衣と呼んだ。そこで十月一日のこの行事を明清時代には「送寒衣」といったという。
東京夢華録 巻八 中秋
中秋節前、諸店皆賣新酒、重新結絡門面綵樓花頭、畫竿醉仙錦旆。市人爭飲、至午未間家家無酒、拽下望子。是時螯蟹新出、石榴、榅勃、梨、棗、栗、孛萄、弄色棖橘皆新上市。中秋夜、貴家結飾臺榭、民間爭占酒樓翫月。絲篁鼎沸、近內庭居民、夜深遙聞笙竽之聲、宛若雲外。閭里兒童、連宵嬉戲。夜市駢闐、至於通曉。
〔訳〕中秋節の前には、各酒店では、みな新酒を売り出し、門の前に新しく色絹で飾った楼を建てなおし、彩色した旗竿に酔仙の錦旗をかかげた。市民が争って飲むので、正午(ひる)過ぎ頃には、軒並みに酒が切れてしまい、望子(かんばん)をしまいこむのだった。この頃には、カニが新しく出、ザクロ・マルメロ・ナシ・ナツメ・クリ・ブドウ・タチバナもみな市場に顔を出した。中秋の夜は、貴人の家では楼台を美しく飾り立て、庶民は争って酒楼に座を占めて、月見をし、管弦の音が賑わしかった。宮城に近い住民たちは、夜ふけてさながら雲外からの調べのように遠くかすかに宮中の笙の音をみみにするのだった。町々では子供たちも夜通し遊びたわむれ、夜店は暁まで賑わった。
※中秋節:陰暦では、七・八・九の三ヶ月が秋で、八月十五日がちょうど秋の真ん中の満月なので、これを中秋節という。
※酔仙:宋元代の酒店では「酔八仙」を壁や旗に画いて看板としていた。酔八仙の八仙とは、杜甫の「飲中八仙歌」で有名な李白・賀知章・李適之・汝陽王璡・崔宗之・蘇晋・張旭・焦遂の八人か? 日本の七福神のように中国民間に親しまれている八仙といえば、漢鍾離・張果老・韓湘子・李鉄拐・曹国舅・呂洞賓・藍采和・何仙姑の八人の仙人を指すが、この八人を描いた八仙図は元以前には見当たらないので元代に起源するものであろう。唐代から八仙図・八仙伝なるものはあったが、描かれる人物は元以後のものとは異なっていた。例えば五代の頃描かれた八仙は李己・容成・董仲舒・張道陵・厳君平・李八百・范長寿・葛永〔かい、王偏+貴〕の八仙任であった。
※望子:酒店の看板。青帘(あおはた)が酒店の望子であったという。
※笙:原文は「笙竽(しょうう)」。竽も笙の一種で、笙が十三管なのにたいして、竽は三十六管のおおきなもの。笙竽で笙類の総称となる。
※子供たちも…遊びたわむれ:この日、子供はみな大人の服を着て楼に登り、あるいは中庭で香を焚き、月を拝む。男子は早く月の宮居に歩み桂に登ること、すなわち高等文官試験に合格して出世することを、女子は月の精である嫦娥(じょうが)のように美しくなることを祈る。
飲中八仙歌 杜甫
知章騎馬似乗船 知章が馬に騎(の)るは船に乗るに似たり
眼花落井水底眠 眼(まなこ)花(くら)み井に落ちて水底に眠る
汝陽三斗始朝天 汝陽は三斗にして始めて天に朝す
道逢麹車口流涎 道に麹車に逢えば口に涎を流し
恨不移封向酒泉 恨むらくは封を移して酒泉に向かわざりしを
左相日興費萬錢 左相の日興 万銭を費す
飲如長鯨吸百川 飲むこと長鯨の百川を吸うが如く
銜杯楽聖稱避賢 杯を銜(ふく)み聖を楽しみ賢を避くと称す
宗之瀟洒美少年 宗之は瀟洒たる美少年
挙觴白眼望青天 觴(さかずき)を挙げ白眼にして青天を望めば
皎如玉樹臨風前 皎(きょう)として玉樹の風前に臨むが如し
蘇晋長斎繍佛前 蘇晋は長斎す 繍仏の前
酔中往往愛逃禅 酔中往往逃禅を愛す
李白一斗詩百篇 李白は一斗 詩百篇
長安市上酒家眠 長安市上 酒家に眠る
天子呼来不上船 天子呼び来たれども船に上らず
自稱臣是酒中仙 自ら称す 臣は是れ酒中の仙と
張旭三杯草聖傅 張旭は三杯 草聖伝わる
脱帽露頂王公前 帽を脱ぎ頂を露(あらわ)す 王公の前
揮毫落紙如雲煙 毫を揮い紙に落とせば雲煙の如し
焦遂五斗方卓然 焦遂は五斗 方(はじ)めて卓然
高談雄弁驚四筵 高談雄弁 四筵を驚かす
〔訳〕 八人の酒仙の歌
知章が馬に乗る様子はゆらゆらしてて、
船に乗っているみたいだ。
眼がちらついて井戸に落ちても、
彼なら水中で眠ってるだろう。
汝陽王は三斗の酒を飲んでから
朝廷に出向いていく。
道でこうじを乗せた酒の匂いのする車に出会えば、
涎をたらして
酒の泉が湧いたという酒泉に領地変えしてくれないことに
不平をもらす始末。
左相である李適之は毎日の楽しみに一万ものお金を使う。
酒を飲む様は巨大な鯨が百の川の水を吸い込んでいくようだ。
酒を飲んでは聖人の境地を楽しみ、
賢人にはなりたくないねなどと言う。
宗之はさっぱりとした美少年だ。
杯を挙げ、世俗を見下しながら青い空を見上げる様子は
まるで宝玉の樹が風に吹かれているように白く輝いている。
蘇晋は刺繍の仏像の前で断食し、仏を礼拝しているが
酔っ払うとたまに坐禅から逃げようとする。
李白は一斗飲めば百篇の詩を作る。
長安の酒屋で酔いつぶれ、
天子である玄宗が彼を呼び出したけれど、
天子の乗っている船に乗ろうとしなかったとか。
さらに自分で「私は酒の世界の仙人なのだよ」などと言う。
張旭は三杯飲むと、草聖と讃えられる名筆を後世に残す。
彼は変っていて、王公の前でも帽子を脱いで
頭のてっぺんをむきだしにして字を書く。
だが筆を紙に下ろすと雲や霞が湧き上がるかのように
素晴らしい字が浮かんでくるのだ。
焦遂は五斗を飲んでやっとしゃんとする。
そして高尚な議論と雄弁さで周りの人々を驚かせるのだ。
中秋節前、諸店皆賣新酒、重新結絡門面綵樓花頭、畫竿醉仙錦旆。市人爭飲、至午未間家家無酒、拽下望子。是時螯蟹新出、石榴、榅勃、梨、棗、栗、孛萄、弄色棖橘皆新上市。中秋夜、貴家結飾臺榭、民間爭占酒樓翫月。絲篁鼎沸、近內庭居民、夜深遙聞笙竽之聲、宛若雲外。閭里兒童、連宵嬉戲。夜市駢闐、至於通曉。
〔訳〕中秋節の前には、各酒店では、みな新酒を売り出し、門の前に新しく色絹で飾った楼を建てなおし、彩色した旗竿に酔仙の錦旗をかかげた。市民が争って飲むので、正午(ひる)過ぎ頃には、軒並みに酒が切れてしまい、望子(かんばん)をしまいこむのだった。この頃には、カニが新しく出、ザクロ・マルメロ・ナシ・ナツメ・クリ・ブドウ・タチバナもみな市場に顔を出した。中秋の夜は、貴人の家では楼台を美しく飾り立て、庶民は争って酒楼に座を占めて、月見をし、管弦の音が賑わしかった。宮城に近い住民たちは、夜ふけてさながら雲外からの調べのように遠くかすかに宮中の笙の音をみみにするのだった。町々では子供たちも夜通し遊びたわむれ、夜店は暁まで賑わった。
※中秋節:陰暦では、七・八・九の三ヶ月が秋で、八月十五日がちょうど秋の真ん中の満月なので、これを中秋節という。
※望子:酒店の看板。青帘(あおはた)が酒店の望子であったという。
※笙:原文は「笙竽(しょうう)」。竽も笙の一種で、笙が十三管なのにたいして、竽は三十六管のおおきなもの。笙竽で笙類の総称となる。
※子供たちも…遊びたわむれ:この日、子供はみな大人の服を着て楼に登り、あるいは中庭で香を焚き、月を拝む。男子は早く月の宮居に歩み桂に登ること、すなわち高等文官試験に合格して出世することを、女子は月の精である嫦娥(じょうが)のように美しくなることを祈る。
飲中八仙歌 杜甫
知章騎馬似乗船 知章が馬に騎(の)るは船に乗るに似たり
眼花落井水底眠 眼(まなこ)花(くら)み井に落ちて水底に眠る
汝陽三斗始朝天 汝陽は三斗にして始めて天に朝す
道逢麹車口流涎 道に麹車に逢えば口に涎を流し
恨不移封向酒泉 恨むらくは封を移して酒泉に向かわざりしを
左相日興費萬錢 左相の日興 万銭を費す
飲如長鯨吸百川 飲むこと長鯨の百川を吸うが如く
銜杯楽聖稱避賢 杯を銜(ふく)み聖を楽しみ賢を避くと称す
宗之瀟洒美少年 宗之は瀟洒たる美少年
挙觴白眼望青天 觴(さかずき)を挙げ白眼にして青天を望めば
皎如玉樹臨風前 皎(きょう)として玉樹の風前に臨むが如し
蘇晋長斎繍佛前 蘇晋は長斎す 繍仏の前
酔中往往愛逃禅 酔中往往逃禅を愛す
李白一斗詩百篇 李白は一斗 詩百篇
長安市上酒家眠 長安市上 酒家に眠る
天子呼来不上船 天子呼び来たれども船に上らず
自稱臣是酒中仙 自ら称す 臣は是れ酒中の仙と
張旭三杯草聖傅 張旭は三杯 草聖伝わる
脱帽露頂王公前 帽を脱ぎ頂を露(あらわ)す 王公の前
揮毫落紙如雲煙 毫を揮い紙に落とせば雲煙の如し
焦遂五斗方卓然 焦遂は五斗 方(はじ)めて卓然
高談雄弁驚四筵 高談雄弁 四筵を驚かす
知章が馬に乗る様子はゆらゆらしてて、
船に乗っているみたいだ。
眼がちらついて井戸に落ちても、
彼なら水中で眠ってるだろう。
汝陽王は三斗の酒を飲んでから
朝廷に出向いていく。
道でこうじを乗せた酒の匂いのする車に出会えば、
涎をたらして
酒の泉が湧いたという酒泉に領地変えしてくれないことに
不平をもらす始末。
左相である李適之は毎日の楽しみに一万ものお金を使う。
酒を飲む様は巨大な鯨が百の川の水を吸い込んでいくようだ。
酒を飲んでは聖人の境地を楽しみ、
賢人にはなりたくないねなどと言う。
宗之はさっぱりとした美少年だ。
杯を挙げ、世俗を見下しながら青い空を見上げる様子は
まるで宝玉の樹が風に吹かれているように白く輝いている。
蘇晋は刺繍の仏像の前で断食し、仏を礼拝しているが
酔っ払うとたまに坐禅から逃げようとする。
李白は一斗飲めば百篇の詩を作る。
長安の酒屋で酔いつぶれ、
天子である玄宗が彼を呼び出したけれど、
天子の乗っている船に乗ろうとしなかったとか。
さらに自分で「私は酒の世界の仙人なのだよ」などと言う。
張旭は三杯飲むと、草聖と讃えられる名筆を後世に残す。
彼は変っていて、王公の前でも帽子を脱いで
頭のてっぺんをむきだしにして字を書く。
だが筆を紙に下ろすと雲や霞が湧き上がるかのように
素晴らしい字が浮かんでくるのだ。
焦遂は五斗を飲んでやっとしゃんとする。
そして高尚な議論と雄弁さで周りの人々を驚かせるのだ。
東京夢華録 巻八 七夕
七月七夕、潘樓街東宋門外瓦子、州西梁門外瓦子、北門外、南朱雀門外街及馬行街內、皆賣磨喝樂:乃小塑土偶耳。悉以雕木彩裝欄座、或用紅紗碧籠、或飾以金珠牙翠、有一對直數千者。禁中及貴家與士庶為時物追陪。又以黃䗶鑄為鳧鴈、鴛鴦、鸂鶆、龜魚之類、彩畫金縷、謂之「水上浮」。又以小板上傅土、旋種粟令生苗、置小茅屋花木、作田舍家小人物、皆村落之態、謂之「穀板」。又以瓜雕刻成花樣、謂之「花瓜」。又以油麪糖蜜造為笑靨兒、謂之「果實」。花樣奇巧百端、如捺香方勝之類。若買一斤數內有一對被介胄者、如門神之像、蓋自來風流、不知其從、謂之「果食將軍」。又以菉豆、小豆、小麥於磁器內以水浸之、生芽數寸、以紅籃綵縷束之、謂之「種生」。皆於街心綵幙帳設出絡貨賣。七夕前三五日、車馬盈市、羅綺滿街。旋折未開荷花、都人善假做雙頭蓮、取玩一時、提攜而歸、路人往往嗟愛。又小兒須買新荷葉執之、蓋効顰磨喝樂。兒童輩特地新妝、競誇鮮麗。至初六日、七日晚、貴家多結綵樓於庭、謂之「乞巧樓」。鋪陳磨喝樂、花瓜、酒炙、筆硯、針線、或兒童裁詩、女郎呈巧、焚香列拜、謂之「乞巧」。婦女望月穿針。或以小蜘蛛安合子內、次日看之、若網圓正、謂之「得巧」。里巷與妓館、往往列之門首、爭以侈靡相向。「磨喝樂」本佛經「摩睺羅」、今通俗而書之。
〔訳〕七月七日の夕、潘楼街、東朱門外の瓦子(がし)、州西梁門外の瓦子、北門外との南朱雀門外の通り、および馬行街では、みな「磨喝楽(モホロ)」すなわち小さな泥人形を売った。どれも、彫刻して色絹で飾った木の台座にませたり、紅や緑の薄絹を張った籠をかぶせたり、金・珠玉・象牙・ヒスイで飾ったりしてあり、一体で数千貫文という値がするものもあったが、宮中でも、そして貴族も一般人も節句の縁起物として、値段をはずんで買うのであった。また、蝋でカモ・カリ・オシドリ・鸂鶆(おおおしどり)・カメ・魚の類を作り、彩色して金糸で飾ったものを「水上浮(うかべもの)」といった。また、小さな板の上に土を盛り、それにアワをまき苗をはえさせ、小さい茅葺の家や、花木を置き、農家や小さな人物像を配して農村風景を拵えたものを「穀板」といった。また、ウリに花模様の彫刻をして、これを「花瓜(かざりうり)」という。また、油・粉・糖蜜で笑靨花(しじみばな)をつくり、これを「果食花様(はながし)」といい、腕をふるっていろいろな形のもの、たとえば捺香〔不明〕や違え菱などの形に作る。もし、これを一斤も買えば、そのなかには甲冑をつけた一対の門神ふうの形をしたものもはいっている。長い間の風流な習慣で、由来はわからないがこれを「果食(かし)将軍」といった。また、青大豆・小豆・小麦を磁器にいれ水にひたして、芽が五・六寸も生えると,紅と藍の色糸で束ね、これを「種生(しゅせい)」といった。これらはみな通りの真ん中に色絹の幕を張りめぐらし売るから、七夕の四、五日前になると、車馬は市にあふれ、美しく着飾った人々が通りに満ちた。都の者たちは、ついでにハスの花のつぼみを手折って、巧みに双頭のハスのようにしてしばし楽しんでから手に持って帰ったが、道行く人々の中にはこれを見て花をいとしむものが少なくなかった。また子供が必ず新しいハスの葉を買って手に持つのも、おそらく磨喝楽(マホロ)のようすをまねたものであろう。子供たちは特に新しい着物を着て、美しさを競い合いもした。六日、七日の晩になると、貴人の家では、たいてい庭に色絹を結った楼を建てて、これを「乞巧楼(きっこうろう)」とよんだ。磨喝楽(マホロ)・花瓜(かざりうり)・酒の肴・筆と硯・針と糸を並べ、また男の子は詩をつくり、女の子は針仕事の手並みを示したり、香を焚(た)いて並んで拝礼して祈ったりして、これらを「乞巧」といった。婦人は月に向かって針に糸を通す。あるいは小さなクモを手箱に入れておき、翌日これをみて、もしクモの巣が丸くきちんとできていれば、これを「得巧(とくこう)」といった。町中の妓館では、多くこれを門口に並べて贅(ぜい)を競い合った。
※瓦子:来たれば瓦合し、去れば瓦解する、つまり人々の集散する盛り場の意味でこのながつけられたという。
※磨喝楽:魔合羅とも書く。宋元代の習俗では、土や木で子供姿の人形をつくり、綺麗な着物を着せたものを磨喝楽といって、七夕に供えて子供の玩具とした。その形は肥ったからだに、まんまるの大きな顔、大口を開けてにっこり笑っているという福々しく愛らしいもので、現代無錫で産する「大阿福」という人形がこれに似ているという。手にハスの葉の傘をもっているのが常であったようである。
※水上浮:これ蝋製の鳥魚は水に浮かべた。
※ウリ:七月にウリや小麦を供えるのはこの時季に収穫できる作物の代表的なものであり、七月は乞巧行事のほかに、その年の前半の収穫感謝祭としての意味をもっていたことを示す。
※果食花様:日本における糝粉(しんこ)細工のようなもの。
※門神:中国では新年に各戸の門の両扉に一対の武者姿の神像を張り、これを門神という。
※種生:「五種生」ともいって、七夕の晩に牽牛星に供えるものであった。都では七日の十日まえに青大豆かエンドウ豆を水につけ、日に一・二回水を換えて、芽が五寸ほどの長さになって苗が立つようになると、小さなお盆の中に入れておき、七夕には一尺ばかりの長さにまで育てるのを生花盆児といい、これを漬物にもするという。
※双頭のハス:二輪のハスの花が、一つの根から生じているものを並頭蓮とか並蒂蓮(へいたいれん)などといって、中国では夫婦和合のシンボルとしている。
※得巧:クモの糸の密なるものを巧多しとしている。クモの網が「円正」なら得巧である。
七月七夕、潘樓街東宋門外瓦子、州西梁門外瓦子、北門外、南朱雀門外街及馬行街內、皆賣磨喝樂:乃小塑土偶耳。悉以雕木彩裝欄座、或用紅紗碧籠、或飾以金珠牙翠、有一對直數千者。禁中及貴家與士庶為時物追陪。又以黃䗶鑄為鳧鴈、鴛鴦、鸂鶆、龜魚之類、彩畫金縷、謂之「水上浮」。又以小板上傅土、旋種粟令生苗、置小茅屋花木、作田舍家小人物、皆村落之態、謂之「穀板」。又以瓜雕刻成花樣、謂之「花瓜」。又以油麪糖蜜造為笑靨兒、謂之「果實」。花樣奇巧百端、如捺香方勝之類。若買一斤數內有一對被介胄者、如門神之像、蓋自來風流、不知其從、謂之「果食將軍」。又以菉豆、小豆、小麥於磁器內以水浸之、生芽數寸、以紅籃綵縷束之、謂之「種生」。皆於街心綵幙帳設出絡貨賣。七夕前三五日、車馬盈市、羅綺滿街。旋折未開荷花、都人善假做雙頭蓮、取玩一時、提攜而歸、路人往往嗟愛。又小兒須買新荷葉執之、蓋効顰磨喝樂。兒童輩特地新妝、競誇鮮麗。至初六日、七日晚、貴家多結綵樓於庭、謂之「乞巧樓」。鋪陳磨喝樂、花瓜、酒炙、筆硯、針線、或兒童裁詩、女郎呈巧、焚香列拜、謂之「乞巧」。婦女望月穿針。或以小蜘蛛安合子內、次日看之、若網圓正、謂之「得巧」。里巷與妓館、往往列之門首、爭以侈靡相向。「磨喝樂」本佛經「摩睺羅」、今通俗而書之。
〔訳〕七月七日の夕、潘楼街、東朱門外の瓦子(がし)、州西梁門外の瓦子、北門外との南朱雀門外の通り、および馬行街では、みな「磨喝楽(モホロ)」すなわち小さな泥人形を売った。どれも、彫刻して色絹で飾った木の台座にませたり、紅や緑の薄絹を張った籠をかぶせたり、金・珠玉・象牙・ヒスイで飾ったりしてあり、一体で数千貫文という値がするものもあったが、宮中でも、そして貴族も一般人も節句の縁起物として、値段をはずんで買うのであった。また、蝋でカモ・カリ・オシドリ・鸂鶆(おおおしどり)・カメ・魚の類を作り、彩色して金糸で飾ったものを「水上浮(うかべもの)」といった。また、小さな板の上に土を盛り、それにアワをまき苗をはえさせ、小さい茅葺の家や、花木を置き、農家や小さな人物像を配して農村風景を拵えたものを「穀板」といった。また、ウリに花模様の彫刻をして、これを「花瓜(かざりうり)」という。また、油・粉・糖蜜で笑靨花(しじみばな)をつくり、これを「果食花様(はながし)」といい、腕をふるっていろいろな形のもの、たとえば捺香〔不明〕や違え菱などの形に作る。もし、これを一斤も買えば、そのなかには甲冑をつけた一対の門神ふうの形をしたものもはいっている。長い間の風流な習慣で、由来はわからないがこれを「果食(かし)将軍」といった。また、青大豆・小豆・小麦を磁器にいれ水にひたして、芽が五・六寸も生えると,紅と藍の色糸で束ね、これを「種生(しゅせい)」といった。これらはみな通りの真ん中に色絹の幕を張りめぐらし売るから、七夕の四、五日前になると、車馬は市にあふれ、美しく着飾った人々が通りに満ちた。都の者たちは、ついでにハスの花のつぼみを手折って、巧みに双頭のハスのようにしてしばし楽しんでから手に持って帰ったが、道行く人々の中にはこれを見て花をいとしむものが少なくなかった。また子供が必ず新しいハスの葉を買って手に持つのも、おそらく磨喝楽(マホロ)のようすをまねたものであろう。子供たちは特に新しい着物を着て、美しさを競い合いもした。六日、七日の晩になると、貴人の家では、たいてい庭に色絹を結った楼を建てて、これを「乞巧楼(きっこうろう)」とよんだ。磨喝楽(マホロ)・花瓜(かざりうり)・酒の肴・筆と硯・針と糸を並べ、また男の子は詩をつくり、女の子は針仕事の手並みを示したり、香を焚(た)いて並んで拝礼して祈ったりして、これらを「乞巧」といった。婦人は月に向かって針に糸を通す。あるいは小さなクモを手箱に入れておき、翌日これをみて、もしクモの巣が丸くきちんとできていれば、これを「得巧(とくこう)」といった。町中の妓館では、多くこれを門口に並べて贅(ぜい)を競い合った。
※瓦子:来たれば瓦合し、去れば瓦解する、つまり人々の集散する盛り場の意味でこのながつけられたという。
※水上浮:これ蝋製の鳥魚は水に浮かべた。
※ウリ:七月にウリや小麦を供えるのはこの時季に収穫できる作物の代表的なものであり、七月は乞巧行事のほかに、その年の前半の収穫感謝祭としての意味をもっていたことを示す。
※果食花様:日本における糝粉(しんこ)細工のようなもの。
※門神:中国では新年に各戸の門の両扉に一対の武者姿の神像を張り、これを門神という。
※種生:「五種生」ともいって、七夕の晩に牽牛星に供えるものであった。都では七日の十日まえに青大豆かエンドウ豆を水につけ、日に一・二回水を換えて、芽が五寸ほどの長さになって苗が立つようになると、小さなお盆の中に入れておき、七夕には一尺ばかりの長さにまで育てるのを生花盆児といい、これを漬物にもするという。
※双頭のハス:二輪のハスの花が、一つの根から生じているものを並頭蓮とか並蒂蓮(へいたいれん)などといって、中国では夫婦和合のシンボルとしている。
※得巧:クモの糸の密なるものを巧多しとしている。クモの網が「円正」なら得巧である。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
sechin@nethome.ne.jp です。
カレンダー
04 | 2025/05 | 06 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | ||||
4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
最新コメント
[enken 02/23]
[中村東樹 02/04]
[m、m 02/04]
[爺の姪 01/13]
[レンマ学(メタ数学) 01/02]
[m.m 10/12]
[爺の姪 10/01]
[あは♡ 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
最新トラックバック
ブログ内検索
カウンター