瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
東アジアの漢字文化圏で用いられる血縁集団の名称を姓(かばね、せい)という。その範囲は地域や時代によって変動し、氏や名字といった他の血縁集団名と様々な階層関係にあった。
名字とは平安中期頃から、武士などが「名田(みょうでん)」にちなんだ「字(あざな)」を作るようになったことから、「名田の字」で「名字」となった。「苗字」の表記は江戸時代以降で、「苗」の字は苗裔〔びょうえい、末孫〕の意味からである。江戸時代には「苗字」でほぼ固定してきたが、『苗字帯刀』によって武士と一部の庶民を除き、名乗ることが許されていなかった。平民の使用が許されたのは、明治3年(1870年)の『平民苗字許可令』であるが、当時の国民は政府を信用していなかったため、つけることで余分に課税されるのではないかと警戒し、名乗る者は少なかったという。すべての国民が名乗るようになったのは、明治8年(1875年)、名乗ることが義務付けられた『平民苗字必称義務令』による。
日本には十数万もの種類の名字があるといわれているが、大きくわけて、古来からの姓をそのまま使用しているものと、平安以降に生まれた名字を名乗っているものとにわけるとことができる。
A.姓をそのまま名乗っているもの
日本には数多くの名字が存在するが、これらが古代からすべてあったわけではない。その大部分は、平安後期から室町地代にかけて爆発的に増えた「名字」で、それ以前は韓国や中国同様、「姓」の種類は限られたものであった。明治以降、多くの家は「名字」を戸籍として登録したが、「姓」を登録した家も少なからずあった。こうした姓には大きく次のような種類がある。
1. )賜姓皇族:天皇家には名字がない。従って、天皇家から分家して一家を興す際には、天皇から新しい名字を賜って独立した。これを賜姓皇族といい、「源」「平」「橘」などが有名であるが、他にも「清原」「在原」などがある。江戸時代以前は、家を継がない皇族は分家せずに僧籍に入るのが一般的であった。しかし、明治以降は宮家の分家は新しく家を興すことになった。こうして戦前に新たに12家が新名字で創立さた。さらに、戦後にはGHQの指令で、今度は11家の宮家そのものが皇族を離れ、新しい名字を作っている。この時できた名字が最後の賜姓皇族で、「久邇」「東久邇」「北白川」などがある。
2. 古代豪族:古代においては天皇(大王)家も有力豪族の中で最大の勢力を誇る一族にすぎず、他にも有力な氏族は多数存在していた。日本を統一した大王家は、こうした豪族達に姓を与えることで、その地位や役職をあきらかにしたのである。豪族の多くは、系図も書き換えて、天皇家とつながるようにしている。「蘇我」「物部」「大伴」などの大和地方の有力一族の他に、岡山県の「吉備」や、群馬県の「毛野」など、地方にも多くの豪族がいた。また、藤原氏も古代豪族中臣氏の末裔であった。
3. 渡来人:4世紀以降、日本よりも文明の進んでいた中国や朝鮮半島から、政権争いに敗れた一族など、多くの氏族が移り住んできた。彼らは進んだ技術を持っていたため、中には大和朝廷で重要なポストを占める一族も現れた。当時の大和朝廷は開かれた国家で、出自が外国であることによる差別はなかったようで、たとえば、漢の弓月君の子孫と称する秦氏は、今の京都市太秦に住み、全国に広がっている。土佐の戦国大名・長宗我部氏も秦氏の末裔ということだし、江戸時代の一関藩主の田村家や、室町時代の大名大内家なども、系図上では渡来人の末裔ということになっている。
4. 神官:古代においては、神社は大きな役割をしめていた。全国の有力神社には、それぞれその神事を司る一族があり、独自の発展をしていた。宇佐神宮(大分県)の宇佐氏、阿蘇神社(熊本県)の阿蘇氏、出雲大社(島根県)の出雲氏などがそうで、彼らの中には、鎌倉時代以降は武士化したものもある。たとえば、長野県の諏訪氏はこうした神官から出て、戦国大名となり、江戸時代には高島藩の藩主となっている。
B.名字を名乗っているもの
現在、多くの人は、「姓」ではなく、「名字」を使用している。この名字には以下のようなものがある。
1.地名に由来する名字:日本人の名字で、最も種類が多いのが地名を起源とするものだという。これにはいくつかのパターンがあるが、最も多いのは、都から地方に降った人が、住み着いた地名を名字にしたのものである。さらに、分家した次男や三男も新しい土地に移り住むと、そこの地名を名字としたため、有力な一族ほど、本家の周囲の地名を名字とした分家が多くあることになる。武田家や佐竹家といった鎌倉時代からの名家の系図をみると、本家近くの地名を名乗った人が沢山出てくる。都からの移住者でなくても、ある土地の支配者は、自らがその土地の領主であることを明確に示すために、地名を名字として名乗った。地名に由来する名字は、特定の地名を発祥地としているため、比較的そのルーツを探りやすいが、同じ地名が他にもある、という点に注意が必要。たとえば、「石川」という地名は各地にあるので、いろいろなところから「石川」という名字が生まれている。基本的に、地名を名字にできるのはその土地の有力者のみであることが多く、ルーツとなる地名のところに行っても、その名字が極端に多いというわけではない。地名由来の名字にはもう一つの顔があり、ある土地の出身者が別の土地に行って成功した場合、出身地の地名を名字とすることがよくあった。よその土地とは行っても、江戸時代以前にそんなに遠くに行くことはなく、多くはルーツとなった土地から少し離れている、という程度のことが多い。そのため、地名由来の名字の場合は、発祥地となる地名から少しだけ離れた所にその名字が固まっていることがよくある。
2.地形や風景に由来する名字:地名由来についで多いのが、地形や土地の様子、自然の風景などを名字にしたものである。ある土地に住んでいる人が、皆地名を名字とすると、集落中すべて同じ名字になってしまう。これでは、他家と自家を区別するためという名字の本来の意味が失われてしまうので、自分の家の場所の特徴を名字とした。日本は山と川が多く、平地は可能な限り開墾して田畑にしたため、「山」「川」「田」などのつく名字は、数が非常に多くなっている。この他では、「池」「林」「森」「原」「浜」なども地形由来の名字でよく使われる漢字である。こうした名字は、同じような地形があればどこでも同じ名字が発生するわけで、ルーツを探るのは困難となる。地名のルーツも多くは地形であるから、地名由来の名字と地形由来の名字はかなり重なっている。
3.方位や位置関係に由来する名字:文字通り「東西南北」などの方位を表わす名字である。基本的には地形由来の名字と同じで、同じ土地の中での家の位置関係を示したものである。「東西南北」の他にも、「前後奥」「上中下」「右左」などもこの中に含まれる。また複合した名字として「西の方の村」で「西村」や、南東を意味する「巽」などもあり、種類はそれほど多くないが、名乗っている人は非常に多いのが特徴で、これらも通常は発祥地の特定は難しい。沖縄では、新しい分家ができた際、本家との位置関係で、「前」「後」「西」「東」などを名字の頭につけた。そのため、沖縄では、こういった漢字で始まる名字が沢山ある。
4.職業に由来する名字:現代と違って、江戸時代以前は職業は基本的には世襲であった。そのため、自分の職業を名字としたものが多数ある。古代では、犬や鳥を飼っていた「犬養」「鳥飼」、朝廷の大蔵を管理した「大蔵」、荘園の管理をした「荘司」など、公的な職業を名字としたものが主流であった。室町時代以降、貨幣経済が発展してからは、自らの商売を名字としたものが登場した。「○屋」とつく名字がそうで、これには、扱っている商品をつけたもの(鍋屋とか)と、自分の出身地をつけたもの(越後屋とか)がある。明治時代になって名字を届ける際、そのまま「~屋」で届けた家もあるが、「屋」を「谷」に変えたたり(加賀谷など)、「屋」を完全に取ったりしたことも結構多く、これらは一見職業姓とは気づかないこともある。商人の町として栄えた、富山県射水市の旧新湊地区では、ほとんどの家が「屋」をとって名字としたため、この地区には「花」「米」など、ものの名前がそのまま名字となったものが沢山あるという。また、秋田市や大阪府の岸和田市などでは「屋」を「谷」に変えて登録したため、この地方の電話帳をみると、いろいろな種類の「~谷」さんが大量に並んでいるという。
5.藤のつく名字:日本で最も多い名字である佐藤をはじめ、安藤・伊藤・江藤・加藤・工藤・後藤・近藤・斎藤など、下に「藤」のつく名字がいくつかある。いずれも大変ポピュラーなものだが、その大部分が、藤原氏から生まれたものだという。平安時代は藤原氏が朝廷を完全に支配していました。そのため、公家をはじめ、下級官僚なども藤原氏ばかりで区別がつかなくなり、名字(家号)を使用して区別するようになった。しかし、名門「藤原」の名を消し去らないよう、「藤」の漢字を残して、地名や職業と組み合わせた。たとえば、伊勢に所領のある藤原氏は、伊勢の「伊」と藤原の「藤」で「伊藤」、斎宮頭をつとめる藤原氏は「斎藤」という具合である。その後、中央でうだつのあがらない官僚は地方に行って住み着き、全国に「○藤」姓が広がっていったのだという。
6.僧侶の名字:江戸時代以前、僧籍に入ると俗世間を離れるために、公式に名字を捨てた。現在では武士以外も名字があったというのは定説であるが、僧侶は正式に名字のない人達だった。しかし、明治維新後は、彼らも名字を持つことが義務づけられた。僧侶は武士や庄屋階級の出身者が多く、本来の名字もあったのだろうが、あえて仏教用語や経典にある言葉を名字として採用していることが多かったという。そのため、僧侶の名字には、仏教関係の難しい漢字や読み方のものが多くみられる。爺が戦時中疎開していた広島県の三次にも梵(そよぎ)なんて名字があったが、廣島カーブの梵英心(そよぎえいしん、1980年生)選手はその一族かもしれない。
7.主君から賜った名字など、独特の由来を持つもの:戦で功績をあげた時などに、主君から褒美として名字を賜ることがある。たとえば、織田信長が美濃の伊木山城を攻めた際、功をあげた2人の家臣に伊木という名字を与えている。1家はのちに岡山藩の家老となったという。江戸時代になると、借金を引き受けてくれた町人に名字を与える、ということもあった。江戸時代の譜代大名の大河内家や滝脇家のように、将軍家から松平の名字をもらったため、やむを得ず「松平」と名乗ってが、幕府の崩壊とともに本来の名字に戻したというケースもある。この他にも、徳川家康に粥を振るまったことからもらったという静岡県の「小粥」家や、源義経から授かったという岩手県の「風呂」家など、各地にあるという。また、戦で負けた際、二十里逃げたところで無事敵から逃れることができたため、そのまま住み着いて「二十里(つりふじ・いそすり)」を名字にしたなど、名字には色々な由来があるものである。こうした名字の場合、由来はその家だけに代々伝わるものなので、どこかで伝達がもれてしまえば、由来は誰にも解らなくなってしまうもの。自分の名字の由来などもふくめて、各家の起源などは、大切に子孫に伝えていってもらいたいものである。
名字とは平安中期頃から、武士などが「名田(みょうでん)」にちなんだ「字(あざな)」を作るようになったことから、「名田の字」で「名字」となった。「苗字」の表記は江戸時代以降で、「苗」の字は苗裔〔びょうえい、末孫〕の意味からである。江戸時代には「苗字」でほぼ固定してきたが、『苗字帯刀』によって武士と一部の庶民を除き、名乗ることが許されていなかった。平民の使用が許されたのは、明治3年(1870年)の『平民苗字許可令』であるが、当時の国民は政府を信用していなかったため、つけることで余分に課税されるのではないかと警戒し、名乗る者は少なかったという。すべての国民が名乗るようになったのは、明治8年(1875年)、名乗ることが義務付けられた『平民苗字必称義務令』による。
日本には十数万もの種類の名字があるといわれているが、大きくわけて、古来からの姓をそのまま使用しているものと、平安以降に生まれた名字を名乗っているものとにわけるとことができる。
A.姓をそのまま名乗っているもの
日本には数多くの名字が存在するが、これらが古代からすべてあったわけではない。その大部分は、平安後期から室町地代にかけて爆発的に増えた「名字」で、それ以前は韓国や中国同様、「姓」の種類は限られたものであった。明治以降、多くの家は「名字」を戸籍として登録したが、「姓」を登録した家も少なからずあった。こうした姓には大きく次のような種類がある。
1. )賜姓皇族:天皇家には名字がない。従って、天皇家から分家して一家を興す際には、天皇から新しい名字を賜って独立した。これを賜姓皇族といい、「源」「平」「橘」などが有名であるが、他にも「清原」「在原」などがある。江戸時代以前は、家を継がない皇族は分家せずに僧籍に入るのが一般的であった。しかし、明治以降は宮家の分家は新しく家を興すことになった。こうして戦前に新たに12家が新名字で創立さた。さらに、戦後にはGHQの指令で、今度は11家の宮家そのものが皇族を離れ、新しい名字を作っている。この時できた名字が最後の賜姓皇族で、「久邇」「東久邇」「北白川」などがある。
2. 古代豪族:古代においては天皇(大王)家も有力豪族の中で最大の勢力を誇る一族にすぎず、他にも有力な氏族は多数存在していた。日本を統一した大王家は、こうした豪族達に姓を与えることで、その地位や役職をあきらかにしたのである。豪族の多くは、系図も書き換えて、天皇家とつながるようにしている。「蘇我」「物部」「大伴」などの大和地方の有力一族の他に、岡山県の「吉備」や、群馬県の「毛野」など、地方にも多くの豪族がいた。また、藤原氏も古代豪族中臣氏の末裔であった。
3. 渡来人:4世紀以降、日本よりも文明の進んでいた中国や朝鮮半島から、政権争いに敗れた一族など、多くの氏族が移り住んできた。彼らは進んだ技術を持っていたため、中には大和朝廷で重要なポストを占める一族も現れた。当時の大和朝廷は開かれた国家で、出自が外国であることによる差別はなかったようで、たとえば、漢の弓月君の子孫と称する秦氏は、今の京都市太秦に住み、全国に広がっている。土佐の戦国大名・長宗我部氏も秦氏の末裔ということだし、江戸時代の一関藩主の田村家や、室町時代の大名大内家なども、系図上では渡来人の末裔ということになっている。
4. 神官:古代においては、神社は大きな役割をしめていた。全国の有力神社には、それぞれその神事を司る一族があり、独自の発展をしていた。宇佐神宮(大分県)の宇佐氏、阿蘇神社(熊本県)の阿蘇氏、出雲大社(島根県)の出雲氏などがそうで、彼らの中には、鎌倉時代以降は武士化したものもある。たとえば、長野県の諏訪氏はこうした神官から出て、戦国大名となり、江戸時代には高島藩の藩主となっている。
B.名字を名乗っているもの
現在、多くの人は、「姓」ではなく、「名字」を使用している。この名字には以下のようなものがある。
1.地名に由来する名字:日本人の名字で、最も種類が多いのが地名を起源とするものだという。これにはいくつかのパターンがあるが、最も多いのは、都から地方に降った人が、住み着いた地名を名字にしたのものである。さらに、分家した次男や三男も新しい土地に移り住むと、そこの地名を名字としたため、有力な一族ほど、本家の周囲の地名を名字とした分家が多くあることになる。武田家や佐竹家といった鎌倉時代からの名家の系図をみると、本家近くの地名を名乗った人が沢山出てくる。都からの移住者でなくても、ある土地の支配者は、自らがその土地の領主であることを明確に示すために、地名を名字として名乗った。地名に由来する名字は、特定の地名を発祥地としているため、比較的そのルーツを探りやすいが、同じ地名が他にもある、という点に注意が必要。たとえば、「石川」という地名は各地にあるので、いろいろなところから「石川」という名字が生まれている。基本的に、地名を名字にできるのはその土地の有力者のみであることが多く、ルーツとなる地名のところに行っても、その名字が極端に多いというわけではない。地名由来の名字にはもう一つの顔があり、ある土地の出身者が別の土地に行って成功した場合、出身地の地名を名字とすることがよくあった。よその土地とは行っても、江戸時代以前にそんなに遠くに行くことはなく、多くはルーツとなった土地から少し離れている、という程度のことが多い。そのため、地名由来の名字の場合は、発祥地となる地名から少しだけ離れた所にその名字が固まっていることがよくある。
2.地形や風景に由来する名字:地名由来についで多いのが、地形や土地の様子、自然の風景などを名字にしたものである。ある土地に住んでいる人が、皆地名を名字とすると、集落中すべて同じ名字になってしまう。これでは、他家と自家を区別するためという名字の本来の意味が失われてしまうので、自分の家の場所の特徴を名字とした。日本は山と川が多く、平地は可能な限り開墾して田畑にしたため、「山」「川」「田」などのつく名字は、数が非常に多くなっている。この他では、「池」「林」「森」「原」「浜」なども地形由来の名字でよく使われる漢字である。こうした名字は、同じような地形があればどこでも同じ名字が発生するわけで、ルーツを探るのは困難となる。地名のルーツも多くは地形であるから、地名由来の名字と地形由来の名字はかなり重なっている。
3.方位や位置関係に由来する名字:文字通り「東西南北」などの方位を表わす名字である。基本的には地形由来の名字と同じで、同じ土地の中での家の位置関係を示したものである。「東西南北」の他にも、「前後奥」「上中下」「右左」などもこの中に含まれる。また複合した名字として「西の方の村」で「西村」や、南東を意味する「巽」などもあり、種類はそれほど多くないが、名乗っている人は非常に多いのが特徴で、これらも通常は発祥地の特定は難しい。沖縄では、新しい分家ができた際、本家との位置関係で、「前」「後」「西」「東」などを名字の頭につけた。そのため、沖縄では、こういった漢字で始まる名字が沢山ある。
4.職業に由来する名字:現代と違って、江戸時代以前は職業は基本的には世襲であった。そのため、自分の職業を名字としたものが多数ある。古代では、犬や鳥を飼っていた「犬養」「鳥飼」、朝廷の大蔵を管理した「大蔵」、荘園の管理をした「荘司」など、公的な職業を名字としたものが主流であった。室町時代以降、貨幣経済が発展してからは、自らの商売を名字としたものが登場した。「○屋」とつく名字がそうで、これには、扱っている商品をつけたもの(鍋屋とか)と、自分の出身地をつけたもの(越後屋とか)がある。明治時代になって名字を届ける際、そのまま「~屋」で届けた家もあるが、「屋」を「谷」に変えたたり(加賀谷など)、「屋」を完全に取ったりしたことも結構多く、これらは一見職業姓とは気づかないこともある。商人の町として栄えた、富山県射水市の旧新湊地区では、ほとんどの家が「屋」をとって名字としたため、この地区には「花」「米」など、ものの名前がそのまま名字となったものが沢山あるという。また、秋田市や大阪府の岸和田市などでは「屋」を「谷」に変えて登録したため、この地方の電話帳をみると、いろいろな種類の「~谷」さんが大量に並んでいるという。
5.藤のつく名字:日本で最も多い名字である佐藤をはじめ、安藤・伊藤・江藤・加藤・工藤・後藤・近藤・斎藤など、下に「藤」のつく名字がいくつかある。いずれも大変ポピュラーなものだが、その大部分が、藤原氏から生まれたものだという。平安時代は藤原氏が朝廷を完全に支配していました。そのため、公家をはじめ、下級官僚なども藤原氏ばかりで区別がつかなくなり、名字(家号)を使用して区別するようになった。しかし、名門「藤原」の名を消し去らないよう、「藤」の漢字を残して、地名や職業と組み合わせた。たとえば、伊勢に所領のある藤原氏は、伊勢の「伊」と藤原の「藤」で「伊藤」、斎宮頭をつとめる藤原氏は「斎藤」という具合である。その後、中央でうだつのあがらない官僚は地方に行って住み着き、全国に「○藤」姓が広がっていったのだという。
6.僧侶の名字:江戸時代以前、僧籍に入ると俗世間を離れるために、公式に名字を捨てた。現在では武士以外も名字があったというのは定説であるが、僧侶は正式に名字のない人達だった。しかし、明治維新後は、彼らも名字を持つことが義務づけられた。僧侶は武士や庄屋階級の出身者が多く、本来の名字もあったのだろうが、あえて仏教用語や経典にある言葉を名字として採用していることが多かったという。そのため、僧侶の名字には、仏教関係の難しい漢字や読み方のものが多くみられる。爺が戦時中疎開していた広島県の三次にも梵(そよぎ)なんて名字があったが、廣島カーブの梵英心(そよぎえいしん、1980年生)選手はその一族かもしれない。
7.主君から賜った名字など、独特の由来を持つもの:戦で功績をあげた時などに、主君から褒美として名字を賜ることがある。たとえば、織田信長が美濃の伊木山城を攻めた際、功をあげた2人の家臣に伊木という名字を与えている。1家はのちに岡山藩の家老となったという。江戸時代になると、借金を引き受けてくれた町人に名字を与える、ということもあった。江戸時代の譜代大名の大河内家や滝脇家のように、将軍家から松平の名字をもらったため、やむを得ず「松平」と名乗ってが、幕府の崩壊とともに本来の名字に戻したというケースもある。この他にも、徳川家康に粥を振るまったことからもらったという静岡県の「小粥」家や、源義経から授かったという岩手県の「風呂」家など、各地にあるという。また、戦で負けた際、二十里逃げたところで無事敵から逃れることができたため、そのまま住み着いて「二十里(つりふじ・いそすり)」を名字にしたなど、名字には色々な由来があるものである。こうした名字の場合、由来はその家だけに代々伝わるものなので、どこかで伝達がもれてしまえば、由来は誰にも解らなくなってしまうもの。自分の名字の由来などもふくめて、各家の起源などは、大切に子孫に伝えていってもらいたいものである。
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プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
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