瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
今日は廣島へ原爆が投下されて67年目の日。朝のNHKテレビで、「語り始めたセーラー服の少女」という題で、広島に原爆が投下された時の3時間後に撮られた写真の女性である河内光子さんが、原爆の記憶を話すニュースが放映されていた。早速、ウェブニュースでその記事を探し当てた。
写真「セーラー服の少女」 原爆忌に体験語る ―― 原爆投下直後の広島で撮影された写真に写る「セーラー服の少女」が原爆忌の6日、広島市安佐南区の市立山本小学校で被爆体験を語る。同市中区の河内(こうち)光子さん(80)で、これまでほとんど人前で話してこなかったが、自らの半生を本に描いた同小教諭の思いに心を動かされた。「あの写真のような惨めな世界にしないで」。未来を託す子どもたちにそう訴えるつもりだ。/広島女子商(現・広島翔洋高)2年の時、爆心地の南約1.6キロにあった学徒動員先の広島貯金支局で被爆。「窓から炎の塊が飛び込んできた」という。
近くで働いていた父が大やけどを負いながら駆け付け、炎とがれきの中を逃げた。その途中、皮膚が垂れ下がった人たちが言葉にならない叫び声を上げていた。約3時間後、南東約500メートル先の御幸橋西詰めにある臨時救護所に着くと、何十人もが倒れ、息のない赤ん坊を抱いて名前を呼び続ける女性もいた。/この時、治療を待つ人々の列を元中国新聞カメラマンの松重美人さん(2005年に92歳で死去)が撮影。同紙が後日掲載し、河内さんはセーラー服の後ろ姿が自分と気付いたが、終戦の混乱で写真の存在は記憶から遠のいていたという。
被爆直後の状況を残す貴重な1枚は1952年、米国の雑誌「ライフ」に掲載され、その後、広島平和記念資料館に収められた。/父は66年に77歳で死去。73年になって報道で写真を見た兄から「お父さんの横顔だ」と聞かされた。河内さんは「父の面影が残る写真がほしい」と、同資料館に「セーラー服の少女は私」と名乗り出た。/だが自宅などに取材が殺到し、「家族に迷惑がかかる」と口をつぐんできた。
転機は昨年だった。旧知の同小教諭大西知子さん(62)から「原爆のむごさを伝えたい」と説得され、被爆の経験など自身の半生をつづった本の出版に同意。反響は大きく、先月には地元中学校で体験を証言した。/ 大西さんからも「写真の中の出来事を語ってほしい」と頼まれ、6日、同小の子どもたちの前に立つ。「戦争では必ず人が死に、食べ物もなくなるんよ。その悲惨さを忘れないでほしい」と伝えたいという。 (2012年8月4日 読売新聞)
元大統領の孫、核廃絶尽力は責任 広島、長崎訪問前に会見 ―― 【ニューヨーク共同】1945年の広島、長崎への原爆投下を命じたトルーマン米大統領(当時)の孫クリフトン・トルーマン・ダニエルさん「55」が、8月2日から日本を訪れる。訪日を前に、核兵器が二度と使用されないように尽力することが同大統領の子孫としての「(道義的)責任」だと感じていると述べた。米シカゴの自宅で共同通信のインタビューに答えた。/ダニエルさんは同6日に広島、9日に長崎の平和式典にそれぞれ参加し、被爆者や学生らと交流、原爆資料館も訪れる予定で「興奮と同時に緊張している」という。/トルーマン大統領の家族が両式典に参加するのは初めてという。 2012/07/30 10:35 【共同通信】
トルーマン米大統領の孫、広島で語る ―― 広島、長崎への原爆投下を命令したトルーマン米大統領(1884~1972年)の孫、クリフトン・トルーマン・ダニエルさん(55)が4日、初訪問中の広島市で読売新聞の単独インタビューに応じた。ダニエルさんは「広島に来て初めて、原爆の被害について多くのことを学んでいる。核兵器廃絶の努力をなす上で、大切な道しるべを与えてくれた」と述べた。/ダニエルさんは2010年、被爆後に白血病を患い、12歳で亡くなった佐々木禎子さんの兄雅弘さん(71)らとニューヨークで出会い、雅弘さんに誘われて広島訪問を決意した。この日、広島市中区の平和記念公園を訪問して原爆死没者慰霊碑に献花。広島平和記念資料館を見学し、被爆者から体験を聞いた。/その後のインタビューで、ダニエルさんは終始、穏やかな表情で、時には真剣に考え込みながら記者の質問に答えた。
祖父が原爆投下を命令したことについて、ダニエルさんは「私は米国の教育を受け、原爆投下は早期終戦のためと教わった。家族や友人を亡くした被爆者が放射線を浴びて今も苦しんでいることは、広島に来て知った」と話した。/祖父から原爆投下について直接、話を聞いたことはないとしたうえで、「祖父は広島と長崎への原爆投下を決断したが、残された手紙や手記から、その後は絶対に核兵器は使ってはいけないという強い思いを持ち、一生懸命取り組んでいたことがわかる」と語った。
広島訪問はダニエルさんの心境に大きな変化をもたらした。「被爆者の話を聞いて悲しい気持ちになったが、(核兵器廃絶に向けた)行動を起こしていることに深い尊敬を持った。被爆者の真剣な思いを感じるようになった」と語った。
「オバマ大統領が掲げる『核兵器なき世界』はとても力強いメッセージだ」と評価するダニエルさんは、「我々が核兵器廃絶を実現できるかどうかわからないが、そうなればいい。互いを理解しあうことで、違いを乗り越えることができる。それが核兵器廃絶へのステップになる」と訴えた。
ダニエルさんは広島市の平和記念式典(6日)と長崎市の平和祈念式典(9日)に参列する。 (2012年8月5日 読売新聞)
写真「セーラー服の少女」 原爆忌に体験語る ―― 原爆投下直後の広島で撮影された写真に写る「セーラー服の少女」が原爆忌の6日、広島市安佐南区の市立山本小学校で被爆体験を語る。同市中区の河内(こうち)光子さん(80)で、これまでほとんど人前で話してこなかったが、自らの半生を本に描いた同小教諭の思いに心を動かされた。「あの写真のような惨めな世界にしないで」。未来を託す子どもたちにそう訴えるつもりだ。/広島女子商(現・広島翔洋高)2年の時、爆心地の南約1.6キロにあった学徒動員先の広島貯金支局で被爆。「窓から炎の塊が飛び込んできた」という。
近くで働いていた父が大やけどを負いながら駆け付け、炎とがれきの中を逃げた。その途中、皮膚が垂れ下がった人たちが言葉にならない叫び声を上げていた。約3時間後、南東約500メートル先の御幸橋西詰めにある臨時救護所に着くと、何十人もが倒れ、息のない赤ん坊を抱いて名前を呼び続ける女性もいた。/この時、治療を待つ人々の列を元中国新聞カメラマンの松重美人さん(2005年に92歳で死去)が撮影。同紙が後日掲載し、河内さんはセーラー服の後ろ姿が自分と気付いたが、終戦の混乱で写真の存在は記憶から遠のいていたという。
被爆直後の状況を残す貴重な1枚は1952年、米国の雑誌「ライフ」に掲載され、その後、広島平和記念資料館に収められた。/父は66年に77歳で死去。73年になって報道で写真を見た兄から「お父さんの横顔だ」と聞かされた。河内さんは「父の面影が残る写真がほしい」と、同資料館に「セーラー服の少女は私」と名乗り出た。/だが自宅などに取材が殺到し、「家族に迷惑がかかる」と口をつぐんできた。
転機は昨年だった。旧知の同小教諭大西知子さん(62)から「原爆のむごさを伝えたい」と説得され、被爆の経験など自身の半生をつづった本の出版に同意。反響は大きく、先月には地元中学校で体験を証言した。/ 大西さんからも「写真の中の出来事を語ってほしい」と頼まれ、6日、同小の子どもたちの前に立つ。「戦争では必ず人が死に、食べ物もなくなるんよ。その悲惨さを忘れないでほしい」と伝えたいという。 (2012年8月4日 読売新聞)
元大統領の孫、核廃絶尽力は責任 広島、長崎訪問前に会見 ―― 【ニューヨーク共同】1945年の広島、長崎への原爆投下を命じたトルーマン米大統領(当時)の孫クリフトン・トルーマン・ダニエルさん「55」が、8月2日から日本を訪れる。訪日を前に、核兵器が二度と使用されないように尽力することが同大統領の子孫としての「(道義的)責任」だと感じていると述べた。米シカゴの自宅で共同通信のインタビューに答えた。/ダニエルさんは同6日に広島、9日に長崎の平和式典にそれぞれ参加し、被爆者や学生らと交流、原爆資料館も訪れる予定で「興奮と同時に緊張している」という。/トルーマン大統領の家族が両式典に参加するのは初めてという。 2012/07/30 10:35 【共同通信】
トルーマン米大統領の孫、広島で語る ―― 広島、長崎への原爆投下を命令したトルーマン米大統領(1884~1972年)の孫、クリフトン・トルーマン・ダニエルさん(55)が4日、初訪問中の広島市で読売新聞の単独インタビューに応じた。ダニエルさんは「広島に来て初めて、原爆の被害について多くのことを学んでいる。核兵器廃絶の努力をなす上で、大切な道しるべを与えてくれた」と述べた。/ダニエルさんは2010年、被爆後に白血病を患い、12歳で亡くなった佐々木禎子さんの兄雅弘さん(71)らとニューヨークで出会い、雅弘さんに誘われて広島訪問を決意した。この日、広島市中区の平和記念公園を訪問して原爆死没者慰霊碑に献花。広島平和記念資料館を見学し、被爆者から体験を聞いた。/その後のインタビューで、ダニエルさんは終始、穏やかな表情で、時には真剣に考え込みながら記者の質問に答えた。
祖父が原爆投下を命令したことについて、ダニエルさんは「私は米国の教育を受け、原爆投下は早期終戦のためと教わった。家族や友人を亡くした被爆者が放射線を浴びて今も苦しんでいることは、広島に来て知った」と話した。/祖父から原爆投下について直接、話を聞いたことはないとしたうえで、「祖父は広島と長崎への原爆投下を決断したが、残された手紙や手記から、その後は絶対に核兵器は使ってはいけないという強い思いを持ち、一生懸命取り組んでいたことがわかる」と語った。
広島訪問はダニエルさんの心境に大きな変化をもたらした。「被爆者の話を聞いて悲しい気持ちになったが、(核兵器廃絶に向けた)行動を起こしていることに深い尊敬を持った。被爆者の真剣な思いを感じるようになった」と語った。
「オバマ大統領が掲げる『核兵器なき世界』はとても力強いメッセージだ」と評価するダニエルさんは、「我々が核兵器廃絶を実現できるかどうかわからないが、そうなればいい。互いを理解しあうことで、違いを乗り越えることができる。それが核兵器廃絶へのステップになる」と訴えた。
ダニエルさんは広島市の平和記念式典(6日)と長崎市の平和祈念式典(9日)に参列する。 (2012年8月5日 読売新聞)
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