瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
昨日、西宮のK氏より、FAXを戴いた。曰く、
「ブログ集拝受ありがとう。/本日標記ブログ集XXⅡを頂きました。ありがとうございました。/私は昨日兵庫県立美術館へ「カミーユ・ピサロと印象派展」を観に行きました。/また、終戦記念日の8月15日がやって来るね。あの日も暑い日だった。/最後まで日本の勝利を信じていたあの純粋な軍国少年時代が懐かしい。/年のせいか昔のことをいろいろ思い出しては懐かしんでいます。/淺草の夏もいろいろ楽しめると思います。大いに楽しんでください。/まずはとり急ぎブログ拝受お礼まで (以上)8月8日(水)」
徹頭徹尾、印象派:フランス印象派と言えば、まずモネやルノワールの名前が浮かびます。しかし彼らは計8回の「印象派展」に、実は半分ほどしか参加していません。/個性あふれる印象派の面々を最年長者として忍耐強くまとめ、8回の展覧会に欠かさず出品した唯一の画家が、カミーユ・ピサロ(1830-1903)です。ファン・ゴッホやスーラなど新世代にも慕われ、印象主義のためには新奇な手法を取り入れることも恐れませんでした。/自然の風景や人々の暮らしを描いたピサロの穏やかな作品には、19世紀という激動の時代における都市と田園の対比や変貌する自然観など、同時代の様々なテーマも見てとれます。
兵庫県立美術館の開館10周年を記念し開催する本展では、国内外に所蔵されるピサロ約90点に、モネやルノワールも加え100点以上を展示。印象主義の探求に生涯を捧げたピサロの作品を軸に、近代の絵画、そして社会の原点を、あらためて見つめ直します。 兵庫県立美術館
※ピサロってこんな人?! (兵庫県立美術館HPより抜粋)
画家になりたい! カブリ海の孤島からパリへ:カミーユ・ピサロは1830年、カリブ海のセント・トーマス島で、ユダヤ人の貿易商の息子として生まれました。/父の後を継ぐべく働いていたものの、画家になる夢を捨てがたく、1852年に家出を決行、ヴェネズエラの首都カラカスへ。3 年後には芸術の都パリへ出ます。
印象派一「正直」な風景が:印象派の中でもピサロは、モネやシスレーと並び風景画で知られています。当時ある批評家は、この3人を比べ、ピサロを「もっとも真実味にあふれて正直である」と評しました。身近な風景をとらえたピサロの作品からは、たしかに自然のみずみずしい息づかいが感じられます。
子だくさんパパ、カミーユ:ピサロには、妻ジュリーとの間に、早世した2 人を含め8 人の子どもがいました。絵が売れず、家計は相当に苦しかったはず。しかし長男リュシアンをはじめとする5 人の息子たちは、揃いも揃って画家を志します。/絶大な影響を与えたパパ、カミーユ。良き父親ぶりは息子たち、とりわけロンドン在住のリュシアンに宛てた多くの手紙から伺い知ることが出来ます。
徹頭徹尾、印象派:新印象主義に熱心に取り組んだピサロですが、やがてその限界に気づき、晩年にはふたたび自由な筆づかいの作風に戻ります。そして同じ景色を異なる光のもと描く連作という形式で、印象主義の探求を深めていきました。/そもそもピサロが新印象主義に取り組んだのも、印象主義の発展型と考えてのこと。そう、彼は生涯を懸けて印象主義を追求したのです。そんなピサロこそ、唯一、真の印象派と呼ぶに値する画家でしょう。
印象派展皆勤賞の「長老」:1874年、ピサロはモネやルノワールらと共に自主的なグループ展を旗揚げします。これがいわゆる「印象派展」。1886年までの間に計8回開催されたのですが、実は途中からメンバー間で不和が続出。毎回欠かさず参加したのは、結局ピサロだけでした。/第1回印象派展の年、ピサロは既に44歳。最年長者として個性的な面々を忍耐強くまとめた、いわば印象派の「長老」です
セザンヌ、ゴーガン、ファン・ゴッホ みんなピサロがえ好きだった:ピサロの人柄と作風は、多くの若い画家たちからも慕われていました。/気むずかし屋のセザンヌ、株式仲買人の職を捨て画家となったゴーガン、そしてオランダからパリへ出てきたファン・ゴッホ。名だたる天才たちが若かりし頃、最も慕い、影響を受けた画家は、ピサロだったのです。
実は過激派:1880年代半ば、ピサロはスーラやシニャックらと点描技法に取り組みます。このときピサロは50代。息子と同世代の仲間たちと最先端の表現に挑むピサロ、老いてますますトンガっています。/彼ら新印象主義と呼ばれる画家たちの多くは、当時流布していたアナーキスム(無政府主義)の思想に共鳴しており、ピサロも例外ではありませんでした。ピサロの穏やかな作風と過激な思想とは、一見、相容れぬように思われます。しかし芸術家としての探求の厳しさに、既にピサロの過激さはあらわれているとも言えそうです。
藤沢市財集のY氏からもメールが届いた。曰く、
「日高 節夫 様/連日暑い日が続いていますが貴ブログを拝見している限りではお変わりない様子で
何よりです。/本日夕刻ブログ集冊子拝受しました。いつも有難うございます。/「東京夢華録」はモニターで読み進めるのにはかなり難儀しましたのが、改めてこの冊子で読み返したいと思います。難しいところが沢山ありますが多岐にわたる事象はたいへん興味のあるところです。/東京スカイツリーが出来てから周辺もいろいろと変わってきたようですがブログを通してその様子が分かります。年末までには一度伺いたいと思っています。/岸本君の調子も少しずつ快方に向かっている由、早くよくなってほしいものです。/酷暑はいましばらくは続くようですが御身くれぐれもご自愛ください。奥様にもよろしくお伝えください。/MY」
横浜市在住のIN氏からもブログ集が届いた報せの電話が入った。彼は、現在のところ水曜日には横浜市歴史博物館で開催されている「続日本紀(しょくにほんぎ)を読む会」に参加しているそうな。元々勉強家の彼のことではあるが、毎週決められた日・時刻にこうした会にきちんきちんと出席する努力には頭が下る。横浜市歴史博物館において、古代史購読講座を終了した者が、さらに研究を深めるため「続日本紀」の国史大系本を史料に読み進めているのだそうだ。
※続日本紀:平安時代初期に編纂された勅撰史書で、『日本書紀』に続く六国史(りっこくし)の第二に当たる。菅野真道(すがの の まみち、741~814年)らが延暦16(797)年に完成した。文武天皇元(697)年から桓武天皇の延暦10(791)年まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。
「ブログ集拝受ありがとう。/本日標記ブログ集XXⅡを頂きました。ありがとうございました。/私は昨日兵庫県立美術館へ「カミーユ・ピサロと印象派展」を観に行きました。/また、終戦記念日の8月15日がやって来るね。あの日も暑い日だった。/最後まで日本の勝利を信じていたあの純粋な軍国少年時代が懐かしい。/年のせいか昔のことをいろいろ思い出しては懐かしんでいます。/淺草の夏もいろいろ楽しめると思います。大いに楽しんでください。/まずはとり急ぎブログ拝受お礼まで (以上)8月8日(水)」
徹頭徹尾、印象派:フランス印象派と言えば、まずモネやルノワールの名前が浮かびます。しかし彼らは計8回の「印象派展」に、実は半分ほどしか参加していません。/個性あふれる印象派の面々を最年長者として忍耐強くまとめ、8回の展覧会に欠かさず出品した唯一の画家が、カミーユ・ピサロ(1830-1903)です。ファン・ゴッホやスーラなど新世代にも慕われ、印象主義のためには新奇な手法を取り入れることも恐れませんでした。/自然の風景や人々の暮らしを描いたピサロの穏やかな作品には、19世紀という激動の時代における都市と田園の対比や変貌する自然観など、同時代の様々なテーマも見てとれます。
兵庫県立美術館の開館10周年を記念し開催する本展では、国内外に所蔵されるピサロ約90点に、モネやルノワールも加え100点以上を展示。印象主義の探求に生涯を捧げたピサロの作品を軸に、近代の絵画、そして社会の原点を、あらためて見つめ直します。 兵庫県立美術館
※ピサロってこんな人?! (兵庫県立美術館HPより抜粋)
画家になりたい! カブリ海の孤島からパリへ:カミーユ・ピサロは1830年、カリブ海のセント・トーマス島で、ユダヤ人の貿易商の息子として生まれました。/父の後を継ぐべく働いていたものの、画家になる夢を捨てがたく、1852年に家出を決行、ヴェネズエラの首都カラカスへ。3 年後には芸術の都パリへ出ます。
印象派一「正直」な風景が:印象派の中でもピサロは、モネやシスレーと並び風景画で知られています。当時ある批評家は、この3人を比べ、ピサロを「もっとも真実味にあふれて正直である」と評しました。身近な風景をとらえたピサロの作品からは、たしかに自然のみずみずしい息づかいが感じられます。
子だくさんパパ、カミーユ:ピサロには、妻ジュリーとの間に、早世した2 人を含め8 人の子どもがいました。絵が売れず、家計は相当に苦しかったはず。しかし長男リュシアンをはじめとする5 人の息子たちは、揃いも揃って画家を志します。/絶大な影響を与えたパパ、カミーユ。良き父親ぶりは息子たち、とりわけロンドン在住のリュシアンに宛てた多くの手紙から伺い知ることが出来ます。
徹頭徹尾、印象派:新印象主義に熱心に取り組んだピサロですが、やがてその限界に気づき、晩年にはふたたび自由な筆づかいの作風に戻ります。そして同じ景色を異なる光のもと描く連作という形式で、印象主義の探求を深めていきました。/そもそもピサロが新印象主義に取り組んだのも、印象主義の発展型と考えてのこと。そう、彼は生涯を懸けて印象主義を追求したのです。そんなピサロこそ、唯一、真の印象派と呼ぶに値する画家でしょう。
印象派展皆勤賞の「長老」:1874年、ピサロはモネやルノワールらと共に自主的なグループ展を旗揚げします。これがいわゆる「印象派展」。1886年までの間に計8回開催されたのですが、実は途中からメンバー間で不和が続出。毎回欠かさず参加したのは、結局ピサロだけでした。/第1回印象派展の年、ピサロは既に44歳。最年長者として個性的な面々を忍耐強くまとめた、いわば印象派の「長老」です
セザンヌ、ゴーガン、ファン・ゴッホ みんなピサロがえ好きだった:ピサロの人柄と作風は、多くの若い画家たちからも慕われていました。/気むずかし屋のセザンヌ、株式仲買人の職を捨て画家となったゴーガン、そしてオランダからパリへ出てきたファン・ゴッホ。名だたる天才たちが若かりし頃、最も慕い、影響を受けた画家は、ピサロだったのです。
実は過激派:1880年代半ば、ピサロはスーラやシニャックらと点描技法に取り組みます。このときピサロは50代。息子と同世代の仲間たちと最先端の表現に挑むピサロ、老いてますますトンガっています。/彼ら新印象主義と呼ばれる画家たちの多くは、当時流布していたアナーキスム(無政府主義)の思想に共鳴しており、ピサロも例外ではありませんでした。ピサロの穏やかな作風と過激な思想とは、一見、相容れぬように思われます。しかし芸術家としての探求の厳しさに、既にピサロの過激さはあらわれているとも言えそうです。
藤沢市財集のY氏からもメールが届いた。曰く、
「日高 節夫 様/連日暑い日が続いていますが貴ブログを拝見している限りではお変わりない様子で
何よりです。/本日夕刻ブログ集冊子拝受しました。いつも有難うございます。/「東京夢華録」はモニターで読み進めるのにはかなり難儀しましたのが、改めてこの冊子で読み返したいと思います。難しいところが沢山ありますが多岐にわたる事象はたいへん興味のあるところです。/東京スカイツリーが出来てから周辺もいろいろと変わってきたようですがブログを通してその様子が分かります。年末までには一度伺いたいと思っています。/岸本君の調子も少しずつ快方に向かっている由、早くよくなってほしいものです。/酷暑はいましばらくは続くようですが御身くれぐれもご自愛ください。奥様にもよろしくお伝えください。/MY」
横浜市在住のIN氏からもブログ集が届いた報せの電話が入った。彼は、現在のところ水曜日には横浜市歴史博物館で開催されている「続日本紀(しょくにほんぎ)を読む会」に参加しているそうな。元々勉強家の彼のことではあるが、毎週決められた日・時刻にこうした会にきちんきちんと出席する努力には頭が下る。横浜市歴史博物館において、古代史購読講座を終了した者が、さらに研究を深めるため「続日本紀」の国史大系本を史料に読み進めているのだそうだ。
※続日本紀:平安時代初期に編纂された勅撰史書で、『日本書紀』に続く六国史(りっこくし)の第二に当たる。菅野真道(すがの の まみち、741~814年)らが延暦16(797)年に完成した。文武天皇元(697)年から桓武天皇の延暦10(791)年まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。
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プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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