瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
ここ2・3日は桜橋西詰を起点とし、テラスを北上 白鬚橋を渡り、向島遊歩道を南下、途中からテラスに降りてさらに南下、東武線橋梁の袂でテラスを上り、枕橋・吾妻橋を渡って、テラス沿いに桜橋まで北上するというコースで休み休み歩行。所要時間2時間、歩数大凡1万歩、距離7㎞強。
宝塚在住のKS氏に写真を添えて携帯メールを出す。曰く、「朝日に映えるスカイツリー 今朝4時40分に剣客商売の舞台である橋場のテラスから撮ったスカイツリーです。/淺草の味を少しだけ味わって戴こうと心ばかりの品をお送り致しました。そのうちお手元に届くと存じます。ご笑納下さい。/このあとすぐに、昨日の日刊ゲンダイの記事をFAXでお送りします。 淺草の瘋癲爺より」
東京夢華録は難読の文字や意味不明の言葉が多く四苦八苦している。今日は、また明日は7月というのに、季節はずれの記事とはなってしまった。
東京夢華録 卷六 正月
正月一日年節、開封府放關撲三日。士庶自早互相慶賀、坊巷以食物、動使、果實、柴炭之類、歌叫關撲。如馬行、潘樓街、州東宋門外、州西梁門外踴路、州北封丘門外、及州南一帶、皆結綵棚、鋪陳冠梳、珠翠、頭面、衣著、花朵、領抹、靴鞋、玩好之類、間列舞場歌館、車馬交馳。向晚、貴家婦女縱賞關賭、入場觀看、入市店飲宴、慣習成風、不相笑{左音右牙}。至寒食、冬至三日亦如此。小民雖貧者、亦須新潔衣服、把酒相酬爾。
〔訳〕《正月》年の初めは「年始(新年の節会)」で、開封府では三日間関撲(かけ)を許可した。士庶は朝早くから互いに慶賀しあい、町々では食物・道具・果物・薪炭の類を賭博方式で売り、「関撲(かけ)」と節をつけて客を呼ぶのだった。馬行・潘楼街・州東の宋門外・州西の梁門外の踴路(ようろ)・州北の封丘門外および州南一帯〔当時、土地の者は東京城の四隅を州東・州西・州南・州北と呼んでいた〕にはみな色絹で飾った屋台が作られ、冠や櫛・珍珠翠玉・頭飾り・衣類・花・領抹・靴鞋(はきもの)・玩好(おもちゃ)のたぐいが並び、その間には踊りや歌の小屋も立ち、車馬が間を縫ってはしるのだった。夜になると貴家の婦女も自由に関撲(かけ)を見て歩き、小屋に入って見物したり、市の店に入って飲み食いしたりしたが、慣習となっているので笑いそしる者はなかった。「寒食」と「冬至」の三日間も同様であった。下ざまの者も、たとえ貧乏煮んでも、新しいさっぱりとした衣服を着て酒をくみかわした。
※関撲:宋代には賭博方式で商売をする小商人があり、これを「関撲」とか「撲売」といった。客は欲しい品物に幾文かの銭を賭け、それから銅銭を地面あるいは瓦鉢の中に投げ、銭の裏がみな上を向けば「渾純〔ぞろ、あるいは渾成〕といい、客の勝ちとなり、銭を払わずその品を得ることが出来た。また、アメうりが三尺ほどの円板に鳥・魚・器物の絵を描いたものを回転させ、羽のついた針で射当てさせ絵に当たったものにアメを渡した。楚の遺習は日本の祭りの露店などにみられる。関僕は正月・冬至・寒食の三節句だけ許され、平日は禁じられていたが、南宋になるといつでもできたらしい。
※領抹:不明。首に巻くスカーフ・マフラーのたぐいか?
KS氏からの携帯返信メールに曰く、「一人のPhoto 芸術家 来客のため返信が遅れました。/いままで種々スカイトリーのPhotoに接してきましたが、朝日に匂う川面に投影されたスカイトリーは初めて観させて戴きました。/若い頃には考えられないほどの科学の進歩=瞬時に誰もがPhoto芸術家になれる刻をみせてもらいました。本当に感動しています。/小沢氏については同感の意を表したく存じますが、ここしばらくが気にかかります。それにつけても松下塾の哲学と人間性の無さを実感しております。/芋焼酎は7月14日朝便着に指定しております。 (6/30 13:36)」
宝塚在住のKS氏に写真を添えて携帯メールを出す。曰く、「朝日に映えるスカイツリー 今朝4時40分に剣客商売の舞台である橋場のテラスから撮ったスカイツリーです。/淺草の味を少しだけ味わって戴こうと心ばかりの品をお送り致しました。そのうちお手元に届くと存じます。ご笑納下さい。/このあとすぐに、昨日の日刊ゲンダイの記事をFAXでお送りします。 淺草の瘋癲爺より」
東京夢華録は難読の文字や意味不明の言葉が多く四苦八苦している。今日は、また明日は7月というのに、季節はずれの記事とはなってしまった。
東京夢華録 卷六 正月
正月一日年節、開封府放關撲三日。士庶自早互相慶賀、坊巷以食物、動使、果實、柴炭之類、歌叫關撲。如馬行、潘樓街、州東宋門外、州西梁門外踴路、州北封丘門外、及州南一帶、皆結綵棚、鋪陳冠梳、珠翠、頭面、衣著、花朵、領抹、靴鞋、玩好之類、間列舞場歌館、車馬交馳。向晚、貴家婦女縱賞關賭、入場觀看、入市店飲宴、慣習成風、不相笑{左音右牙}。至寒食、冬至三日亦如此。小民雖貧者、亦須新潔衣服、把酒相酬爾。
〔訳〕《正月》年の初めは「年始(新年の節会)」で、開封府では三日間関撲(かけ)を許可した。士庶は朝早くから互いに慶賀しあい、町々では食物・道具・果物・薪炭の類を賭博方式で売り、「関撲(かけ)」と節をつけて客を呼ぶのだった。馬行・潘楼街・州東の宋門外・州西の梁門外の踴路(ようろ)・州北の封丘門外および州南一帯〔当時、土地の者は東京城の四隅を州東・州西・州南・州北と呼んでいた〕にはみな色絹で飾った屋台が作られ、冠や櫛・珍珠翠玉・頭飾り・衣類・花・領抹・靴鞋(はきもの)・玩好(おもちゃ)のたぐいが並び、その間には踊りや歌の小屋も立ち、車馬が間を縫ってはしるのだった。夜になると貴家の婦女も自由に関撲(かけ)を見て歩き、小屋に入って見物したり、市の店に入って飲み食いしたりしたが、慣習となっているので笑いそしる者はなかった。「寒食」と「冬至」の三日間も同様であった。下ざまの者も、たとえ貧乏煮んでも、新しいさっぱりとした衣服を着て酒をくみかわした。
※関撲:宋代には賭博方式で商売をする小商人があり、これを「関撲」とか「撲売」といった。客は欲しい品物に幾文かの銭を賭け、それから銅銭を地面あるいは瓦鉢の中に投げ、銭の裏がみな上を向けば「渾純〔ぞろ、あるいは渾成〕といい、客の勝ちとなり、銭を払わずその品を得ることが出来た。また、アメうりが三尺ほどの円板に鳥・魚・器物の絵を描いたものを回転させ、羽のついた針で射当てさせ絵に当たったものにアメを渡した。楚の遺習は日本の祭りの露店などにみられる。関僕は正月・冬至・寒食の三節句だけ許され、平日は禁じられていたが、南宋になるといつでもできたらしい。
※領抹:不明。首に巻くスカーフ・マフラーのたぐいか?
KS氏からの携帯返信メールに曰く、「一人のPhoto 芸術家 来客のため返信が遅れました。/いままで種々スカイトリーのPhotoに接してきましたが、朝日に匂う川面に投影されたスカイトリーは初めて観させて戴きました。/若い頃には考えられないほどの科学の進歩=瞬時に誰もがPhoto芸術家になれる刻をみせてもらいました。本当に感動しています。/小沢氏については同感の意を表したく存じますが、ここしばらくが気にかかります。それにつけても松下塾の哲学と人間性の無さを実感しております。/芋焼酎は7月14日朝便着に指定しております。 (6/30 13:36)」
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プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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