瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
徐陵の「毛永喜にに別る」(五言詩)を記す。
別毛永嘉 徐陵
願子厲風規 願はくは子 、風規に厲(はげ)み
帰来振羽儀 帰来 羽儀を振い
嗟余今老病 嗟(ああ) 余れ今老い病む
此別空長離 此の別 空しく長(とこし)へに離れん
白馬君來哭 白馬 君 來たり哭(こく)すとも
黄泉我何知 黄泉(こうせん) 我れ何ぞ知らん
徒労脱宝剣 徒に労せん宝剣を脱し
空掛隴頭枝 空しく隴頭(ろうとう)の枝に掛かるを
〔訳〕《毛永喜に別れる》
願わくは君よ 厳しく風諫の道に則り
世の鑑(かがみ)と称(たた)えられ 帰任されんことを
ああ 今や 老いさらばえて
此の別れが 永遠(とわ)のものとなるであろう
君が白馬に乗り 弔いに駆けつけても
黄泉(よみ)にいる私が どうしてそれと知ろう
たとえ 宝剣を腰からはずして
墓前の枝に掛けても せんないこと
※毛喜〔生没年不詳〕、字は伯武(はくぶ)。永喜内史に任ぜられたので、「永喜」と呼ばれた。陳の重臣で宣帝〔在位568~581年〕に信任され、丹陽尹・史部尚書となったが、陳の後主に疎まれ、永喜内史に左遷された。『南史』の伝によれば、かれが永喜内史になったのは、至徳元〔583〕年で、徐陵の没年に当たるという。彼が詩に詠んだことが事実となったわけである。
※1行目の『風規=風諫の道』とは、それとなく諌めることである。説苑〔劉向《BC77~BC6年》作〕に「諫有五:一曰正諫、二曰降諫、三曰忠諫、四曰指諫、五曰諷諫」とあり、正諫とは真正面からの諫言、降諫はいったんリーダーの意見を受け入れた上で後から徐々にする諫言、忠諫は感情を隠さず真心を込めてする諫言、指諫は誰に憚ることなく愚直なまでにする諫言、諷諫は婉曲に諷刺する諫言であるとする。これら五種類の中で、中国人は古来「諷諫」を最上とする。それは真正面から強固に諫言すればリーダーのプライドを傷つけるだけでなく、自分の身を危うくするからである。
※2行目の『羽儀』については、『易経』漸の爻辞に
上九。鴻漸于陸[逵]。其羽可用為儀。吉。《上九。鴻の逵に漸む。其の羽用って儀と為すべし。吉。》
象曰、其羽可用為儀、吉、不可亂也。《象曰、其の羽用って儀と為すべしの吉は、乱るべからざるなり。》
と見える。鴻は天空に去って帰らずとも、その落とした羽は儀式の飾りにすることが出来るとの意。ここでは「永喜で治績をあげ、それが後の模範となる意」に用いている。
※5行目の「白馬君來哭」は、『後漢書』列伝71「独行伝」にある范式の『張劭が死に、葬列が墓穴の所まで来るが、棺を吊り降ろそうとしても動かない。母が棺を撫で「何か心残りがあるのか」と問い、そのまま待つ。やがて夢で親友の死を知った范式(=巨卿)が駆けつけ、彼が棺の引き綱を取ると、棺は動き出す』。という故事によるという。〔後漢書の范式については、後日調べてみるつもり〕
※最後の2行「徒労脱宝剣 空掛隴頭枝」は次の故事によるものという。
史記 呉太伯世家 第一 より
季札之初使、北過徐君。徐君好季札劍、口弗敢言。季札心知之、為使上國、未獻。還至徐、徐君已死、於是乃解其寶劍、系之徐君冢樹而去。從者曰:「徐君已死、尚誰予乎?」季子曰:「不然。始吾心已許之、豈以死倍吾心哉!」
〔訳〕季札が諸国歴訪の途についたとき、まず呉の北方徐〔江蘇省〕を通過した。徐の君主は、季札が帯びていた剣を欲しがったが、口には出さなかった。季札も、徐君の希望に気がついていた。しかし、諸国を訪問する儀礼として、剣を帯びていなければならなかったので、献上しなかった。やがて歴訪を終えて、帰途また徐についたとき、徐君はすでに死んでいた。そこでのその宝剣をといて、徐君の墓側の樹にかけて去った。従者が問うた。
「徐の君主はすでに死んでしまわれました。それですのに、ああして、誰に与えようというのですか」
「いや、そうではない。はじめに、徐君がわが剣を望まれたとき、わしは差し上げようと心に誓ったのだ。いま徐君が亡くなられたからといって、わが心の誓いにそむくわけにはいかないのだ」
別毛永嘉 徐陵
願子厲風規 願はくは子 、風規に厲(はげ)み
帰来振羽儀 帰来 羽儀を振い
嗟余今老病 嗟(ああ) 余れ今老い病む
此別空長離 此の別 空しく長(とこし)へに離れん
白馬君來哭 白馬 君 來たり哭(こく)すとも
黄泉我何知 黄泉(こうせん) 我れ何ぞ知らん
徒労脱宝剣 徒に労せん宝剣を脱し
空掛隴頭枝 空しく隴頭(ろうとう)の枝に掛かるを
〔訳〕《毛永喜に別れる》
願わくは君よ 厳しく風諫の道に則り
世の鑑(かがみ)と称(たた)えられ 帰任されんことを
ああ 今や 老いさらばえて
此の別れが 永遠(とわ)のものとなるであろう
君が白馬に乗り 弔いに駆けつけても
黄泉(よみ)にいる私が どうしてそれと知ろう
たとえ 宝剣を腰からはずして
墓前の枝に掛けても せんないこと
※毛喜〔生没年不詳〕、字は伯武(はくぶ)。永喜内史に任ぜられたので、「永喜」と呼ばれた。陳の重臣で宣帝〔在位568~581年〕に信任され、丹陽尹・史部尚書となったが、陳の後主に疎まれ、永喜内史に左遷された。『南史』の伝によれば、かれが永喜内史になったのは、至徳元〔583〕年で、徐陵の没年に当たるという。彼が詩に詠んだことが事実となったわけである。
※1行目の『風規=風諫の道』とは、それとなく諌めることである。説苑〔劉向《BC77~BC6年》作〕に「諫有五:一曰正諫、二曰降諫、三曰忠諫、四曰指諫、五曰諷諫」とあり、正諫とは真正面からの諫言、降諫はいったんリーダーの意見を受け入れた上で後から徐々にする諫言、忠諫は感情を隠さず真心を込めてする諫言、指諫は誰に憚ることなく愚直なまでにする諫言、諷諫は婉曲に諷刺する諫言であるとする。これら五種類の中で、中国人は古来「諷諫」を最上とする。それは真正面から強固に諫言すればリーダーのプライドを傷つけるだけでなく、自分の身を危うくするからである。
※2行目の『羽儀』については、『易経』漸の爻辞に
上九。鴻漸于陸[逵]。其羽可用為儀。吉。《上九。鴻の逵に漸む。其の羽用って儀と為すべし。吉。》
象曰、其羽可用為儀、吉、不可亂也。《象曰、其の羽用って儀と為すべしの吉は、乱るべからざるなり。》
と見える。鴻は天空に去って帰らずとも、その落とした羽は儀式の飾りにすることが出来るとの意。ここでは「永喜で治績をあげ、それが後の模範となる意」に用いている。
※5行目の「白馬君來哭」は、『後漢書』列伝71「独行伝」にある范式の『張劭が死に、葬列が墓穴の所まで来るが、棺を吊り降ろそうとしても動かない。母が棺を撫で「何か心残りがあるのか」と問い、そのまま待つ。やがて夢で親友の死を知った范式(=巨卿)が駆けつけ、彼が棺の引き綱を取ると、棺は動き出す』。という故事によるという。〔後漢書の范式については、後日調べてみるつもり〕
※最後の2行「徒労脱宝剣 空掛隴頭枝」は次の故事によるものという。
史記 呉太伯世家 第一 より
季札之初使、北過徐君。徐君好季札劍、口弗敢言。季札心知之、為使上國、未獻。還至徐、徐君已死、於是乃解其寶劍、系之徐君冢樹而去。從者曰:「徐君已死、尚誰予乎?」季子曰:「不然。始吾心已許之、豈以死倍吾心哉!」
〔訳〕季札が諸国歴訪の途についたとき、まず呉の北方徐〔江蘇省〕を通過した。徐の君主は、季札が帯びていた剣を欲しがったが、口には出さなかった。季札も、徐君の希望に気がついていた。しかし、諸国を訪問する儀礼として、剣を帯びていなければならなかったので、献上しなかった。やがて歴訪を終えて、帰途また徐についたとき、徐君はすでに死んでいた。そこでのその宝剣をといて、徐君の墓側の樹にかけて去った。従者が問うた。
「徐の君主はすでに死んでしまわれました。それですのに、ああして、誰に与えようというのですか」
「いや、そうではない。はじめに、徐君がわが剣を望まれたとき、わしは差し上げようと心に誓ったのだ。いま徐君が亡くなられたからといって、わが心の誓いにそむくわけにはいかないのだ」
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