瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
昨日西宮のYK氏〔鳴尾のuさん〕より、久し振りに絵葉書が届いた。随分長い間便りがなかったので心配していた。一昨日も横浜のIN氏から電話があったので、消息を尋ねてみたが、あまりはっきりしたことは判らなかった。
どうやら西宮市の大谷美術館で開かれているグェッリーノ・トラモンティ展に出かけてらしい。絵はがきの絵は、グェッリーノ・トラモンティ「水瓶」1961年 とあった。
「G.Wもあと1日となったが君はいかがおすごしですか。サンデー毎日の私にとって特に変わったこともなく、小磯美術館・大谷美術館へ行って来ました。関東は雨が多いようですね。東京スカイツリーも5/26にオープンで浅草も賑やかになるでしょう。機会があれば一度行ってみたいものです。東京タワーはいったことがあります。お体に気をつけてこの5月を元気でお過し下さい。
安かろう 危険だろうと 家で寝る(川柳) 草々」 という文面あった。
最後の川柳はまるでこの瘋癲爺のG.W. を言っているようだ。
Guerrino Ttamonti (1915-1992)
ファエンツァ生まれ。1930年代に彫刻のコンクールで受賞を重ねる。その後、ヴェネチアやローマで画家や文学者たちと交流し、絵画も手がけるようになる。'40年代末からは陶芸制作を再開させ、'52年と'55年にファエンツァ市主催の全国陶芸コンクールでグランプリに輝く。'53年からはカステッリの美術学校で、'59年からはフォッリの芸術院で教鞭を執る。'60年代に高火度による結晶釉を駆使した〈二重構造のフォルム〉シリーズを展開。さらに'60年代の終わり頃からは、ガラス釉を厚く施した色彩豊かな絵画的表現の作風へと転換し、それと並行して絵画の制作活動を盛んにおこなう。
今朝ほど、宝塚にいるKS氏から、電話があり、彼もYK氏と時たま電話で連絡を取り合っているらしい。
東坡志林 巻三 論貧士
俗傳書生入官庫、見錢不識。或怪而問之、生曰:“固知其為錢、但怪其不在紙裹中耳。”予偶讀淵明歸去來詞雲:“幼稚盈室、瓶無儲粟。”乃知俗傳信而有徵。使瓶有儲粟、亦甚微矣、此翁平生只於瓶中見粟也耶? 馬後紀:夫人見大練以為異物;晉惠帝問飢民何不食肉糜、細思之皆一理也、聊為好事者一笑。永叔常言:“孟郊詩:‘鬢邊雖有絲、不堪織寒衣’、縱使堪織、能得多少?”
〔訳〕《貧書生と銭》俗伝によると、ある書生が官庫に入って、銭を見たが、それが何だか呑み込めぬ様子。ある人が不審に思って聞くと、書生は
「むろん銭であることは知っていますよ。ただそれが財布の中にないのを不思議に思っただけです」
と答えたという。私はたまたま陶淵明の「帰去来の辞」に
「幼稚は室に盈(み)ち、瓶(かめ)に儲粟(ちょぞく)無し」
とあるのを読み、はじめて俗語の信にしてにして徴あるを知った。仮に瓶に儲粟があったにしても、ほんのちょっぴりだったに相違なく、淵明翁はふだん瓶の中にしか粟(穀物)を見なかったのではあるまいか。「馬后記」(『後漢書』)によると、この皇后は大練をよほど珍しいものだと思っておられた。晋の恵帝は飢餓に苦しんでいる民にむかって
「なぜ肉入りの粥をくわぬのか」
といった。それらのことを細かに考えてみると、みな同じ道理である。いささか好事家の一笑にきょうしたい。
欧陽得永淑(欧楊修)がよくいっておられた。
「孟郊〔751~814年、唐の詩人〕の詩に
『鬢辺に絲(しらが)有りと雖も、寒衣を識るに堪えず』
とあるが、たとえ識ることができたとしても、いくらもえられるものではあるまい」と。
どうやら西宮市の大谷美術館で開かれているグェッリーノ・トラモンティ展に出かけてらしい。絵はがきの絵は、グェッリーノ・トラモンティ「水瓶」1961年 とあった。
「G.Wもあと1日となったが君はいかがおすごしですか。サンデー毎日の私にとって特に変わったこともなく、小磯美術館・大谷美術館へ行って来ました。関東は雨が多いようですね。東京スカイツリーも5/26にオープンで浅草も賑やかになるでしょう。機会があれば一度行ってみたいものです。東京タワーはいったことがあります。お体に気をつけてこの5月を元気でお過し下さい。
安かろう 危険だろうと 家で寝る(川柳) 草々」 という文面あった。
最後の川柳はまるでこの瘋癲爺のG.W. を言っているようだ。
Guerrino Ttamonti (1915-1992)
ファエンツァ生まれ。1930年代に彫刻のコンクールで受賞を重ねる。その後、ヴェネチアやローマで画家や文学者たちと交流し、絵画も手がけるようになる。'40年代末からは陶芸制作を再開させ、'52年と'55年にファエンツァ市主催の全国陶芸コンクールでグランプリに輝く。'53年からはカステッリの美術学校で、'59年からはフォッリの芸術院で教鞭を執る。'60年代に高火度による結晶釉を駆使した〈二重構造のフォルム〉シリーズを展開。さらに'60年代の終わり頃からは、ガラス釉を厚く施した色彩豊かな絵画的表現の作風へと転換し、それと並行して絵画の制作活動を盛んにおこなう。
今朝ほど、宝塚にいるKS氏から、電話があり、彼もYK氏と時たま電話で連絡を取り合っているらしい。
東坡志林 巻三 論貧士
俗傳書生入官庫、見錢不識。或怪而問之、生曰:“固知其為錢、但怪其不在紙裹中耳。”予偶讀淵明歸去來詞雲:“幼稚盈室、瓶無儲粟。”乃知俗傳信而有徵。使瓶有儲粟、亦甚微矣、此翁平生只於瓶中見粟也耶? 馬後紀:夫人見大練以為異物;晉惠帝問飢民何不食肉糜、細思之皆一理也、聊為好事者一笑。永叔常言:“孟郊詩:‘鬢邊雖有絲、不堪織寒衣’、縱使堪織、能得多少?”
〔訳〕《貧書生と銭》俗伝によると、ある書生が官庫に入って、銭を見たが、それが何だか呑み込めぬ様子。ある人が不審に思って聞くと、書生は
「むろん銭であることは知っていますよ。ただそれが財布の中にないのを不思議に思っただけです」
と答えたという。私はたまたま陶淵明の「帰去来の辞」に
「幼稚は室に盈(み)ち、瓶(かめ)に儲粟(ちょぞく)無し」
とあるのを読み、はじめて俗語の信にしてにして徴あるを知った。仮に瓶に儲粟があったにしても、ほんのちょっぴりだったに相違なく、淵明翁はふだん瓶の中にしか粟(穀物)を見なかったのではあるまいか。「馬后記」(『後漢書』)によると、この皇后は大練をよほど珍しいものだと思っておられた。晋の恵帝は飢餓に苦しんでいる民にむかって
「なぜ肉入りの粥をくわぬのか」
といった。それらのことを細かに考えてみると、みな同じ道理である。いささか好事家の一笑にきょうしたい。
欧陽得永淑(欧楊修)がよくいっておられた。
「孟郊〔751~814年、唐の詩人〕の詩に
『鬢辺に絲(しらが)有りと雖も、寒衣を識るに堪えず』
とあるが、たとえ識ることができたとしても、いくらもえられるものではあるまい」と。
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目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
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sechin@nethome.ne.jp です。
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