瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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5dc1c9c8.jpeg  Archimedes(アルキメデス)の螺旋〔Archimedes' spiral〕は極座標の方程式 r=aθ によって表される曲線である。等間隔の渦巻きである。 aが負の場合も含めると、y軸に対して線対称となる。
 われわれの身の回りには、蚊取り線香やデンデン虫の殻、鳴戸巻きカマボコの渦など、様々な螺旋がある。Archimedesの螺旋というのはいちばん一般的な螺旋である。数学的にはつぎのようにして作られる螺旋である。
<平面上で、その端の点Oのまわりに半直線 ℓ が定速で回転するとき、ℓ 上を点Oから等速で遠ざかっていく点Pの動いたあと。>
03bf5085.jpeg 一定速度ω[rad/s]で回転する円盤上を点Pが中心から半径方向へ一定速度v [m/s]で移動する場合を想定する。このとき、円盤の外から眺めた点Pの軌跡はどう表されるであろうか。円盤の回転角はθ=ωt [rad]であり、そのとき点Pは円盤の中心からvt [m]だけ移動している。従って、円盤の中心Oから点Pまでの距離r [m]と回転角θの関係は、vとωの比をaとして式(1.1)で表される。(左図)
 この曲線は、原点Oから点Pまでの距離r が位相角θに比例する曲線で、spiral of Archimedes〔アルキメデスの螺線〕と呼ばれている。
e53f3db5.jpeg アルキメデス螺旋について、「動径が1回転して通過する図形の面積(左図の青い部分)は、1回転目の動径を半径とする円の面積の3分の1である」という興味ある事実がある。
 
 マッチ棒を使ったパズルを解くには水平思考が求められる。マッチ棒は1本の直線の代用品としてのみ考えられ、爪楊枝や(未使用の)鉛筆など固い材質でできた均等な長さの棒状であるという点でマッチと共通するもの、さらにはマッチ棒をかたどった模型や絵をマッチ棒の代用として使っても大半の問題は成立する。時にマッチ棒の特性を利用した問題もまれに見られるが、必要となるのはマッチ棒(あるいはその代用品)のみであるため、パズルとしては手軽かつ古典的なものである。
 
 マッチ棒パズルの中には安直にマッチ棒を並べたり、正方形を作ったりするものがあるが、果たして何本ものマッチ棒を1直線に並べたり、2本のマッチ棒を直角に置いたりすることが出来るのであろうか?
0014ad1b.jpeg 3本のマッチ棒で正三角形を作ることができるので、左図のように正三角形を次々に作っていけば、マッチ棒を一直線に並べることが出来る。しかも、n本のマッチ棒を直線に並べるには(n+2)本のマッチ棒で充分なのである。
021f66e0.jpeg では、2本のマッチ棒を直角に置くにはどうすればよいか? これも可能で、わずか4本のマッチ棒で出来るのである。左図はその手順を示したもので、まず、2本のマッチ棒を勝手な角度に広げ(この角度は60度と90度の間になるように調整する)、2本のマッチ棒の間に開いた先端からそれぞれ他のマッチ棒にちょうど接するように別の2本を置き(b)のように出来る。2本の点線は明らかに直角に交わっているから、この2本の点線の上にマッチ棒が来るように(c)、(d)の手順に従えばよいのである。
 
b2e76245.jpeg マッチ棒を一直線に置いたり、直角に置くことが出来るなら、左図のように12本のマッチ棒で面積が9の正方形を囲んだ図を作ることができる。さて、ここからがパズルであるが、この図から、マッチ棒を2本ずつ動かして、面積が8、7、6の図形を作れというのが問題である。


56d81d09.jpeg まあ、答えはいわば小学生向きで簡単に得ることが出来る。(左図解答Ⅰ参照)
 
9062d07f.jpeg 2本ずつの移動で減らせる面積はここまでであるが、移動の本数を4本にすると、形は少し複雑になるが、面積を4と3にすることが出来る。これは、前の解答(c)の図の面積5から、左図解答Ⅱの(a)のように作っておいて、あとは(b)、(c)のように正三角形のふくらみとへこみを対にして作ればよいのである。
a89e463c.jpeg なお、移動の本数を問題にせず、見易い図を念頭に置くならば、解答Ⅱ´の(a)、(b)の作り方もできる。
 
  東山・西川・南野・北原の4家族からそれぞれ、父親・母親・息子・娘の4人が集まって計16人で麻雀大会を開くことになった。テーブルを4卓準備して同時にゲームを進めたいのであるが、組み合わせに次の条件を付けることにした。
条件:どの卓にも東山・西川・南野・北原の家族の誰かが居り、しかも、父親・母親・息子・娘が1人ずつ参加していること。
68ca2e78.jpeg この条件を満たす組み合わせは左の1図の通りで、同じテーブルに着くのは、縦の列の4人でも横の行の4人でも良いわけである。すなわち、4次オイラー方陣になっている。オイラー方陣のいわれは、18世紀の数学者Eulerが「士官36人の問題」を出したことに拠ることは、先日説明した通りである。
 1図の組み合わせで、各家庭だけに目を向ければ、2図が得られ、どの行、どの列にも東山(1)、西川(2)、南野(3)、北原(4)が含まれている。同じように父、母、息子、娘だけに注目空けば、3図が得られ、やはり各行、各列に父(1)、母(2)、息子(3)、娘(4)が含まれている。
 どの行、どの列にも異なるものが1つずつ含まれている組み合わせを「ラテン方陣」という。ラテン方陣の名はEulerによるもので、記号としてラテン文字(ローマ字)を用いたことによるといわれている。
 
b7edb1c5.jpeg 左図のように、2図、3図のラテン方陣を数字で表わすことにすると、2’図、3’図のように見易くなる。そして、オイラー方陣の表わし方も4図のようになり、1~4の数を使った2桁の組み合わせ16個が洩れなく1個ずつ勢ぞろいするのである。
 この表わし方を用いると、n次のオイラー方陣とは「1~nまでの1桁の数字で表わした2つのラテン方陣を重ねたとき、2桁の数字がどれも1回ずつ現われているもの」と定義できるのである。
  昨日は、ブログ集24を印刷したが、印刷の位置ずれ・トナートラブル(黒のトナーが印刷されなくなる)で電話で問い合わせやらで、1日中かかりっきり疲れた。まあ、現在のプリンターは2010年1月に購入したから保障期間5年の半分しか経過していないが、大分くたばってきたらしい。自分の技量は棚に上げ、プリンターの所為にしておこう。というわけで、ブログも打てない始末。今日は製本・裁断の予定。予定はあくまでも予定で、完成はいつになる皮からない。
 
 今日は、オランダ語から外来語となった器具や日用品の名前に目を向けてみよう。
 インキ(ト)(inkt)、ペン(pen)、ゴム(gom)、ギャマン(diamant)、ガラス(glas)、レッテル(letter)、オルゴ(ー)ル(orgel)、カラン(kraan)、キルク(kurk)、コップ(kop)、ブリキ(blik)、ペンキ(pek)、ポンプ(pomp)、ランプ(lamp) などがある。
 インキはおよそ5000年前に、石の表面に絵や文字を刻むための黒色インク(墨)が中国で開発された。このインクは油煙や松煙と膠の混合物であった。他地域の初期文明においても植物の実や種、鉱物から様々な色のインクが作り出された。エジプトのカリフ、ムイッズは手や衣服を汚すことのないペンを要求した。その要求に応えて953年に万年筆の原型といえるペンが開発された。ペン(pen)とは、硬筆筆記具のうち、インクによって書くものの総称。万年筆やボールペン、サインペンなどがこれにあたる。もともとは「ペン先」と「ペン軸」によって構成されるつけペン形式で、先端にインクや墨をつけて毛管現象などで保持させつつ書くものであったが、近代以降、中にインクが入ったものが発達した。インキはインキもしくはインキトという形で、ペンとともに江戸時代の文献にかなり現れているので、オランダ語からの外来語と見做すことができる。
 ゴムは、元来は植物体を傷つけるなどして得られる無定形かつ軟質の高分子物質のことである。ゴムをはじめて紹介したのはChristopher Columbus(クリストファー コロンブス、1451?~1506年)だといわれる。1493年の第二回目の航海でプエルトリコとジャマイカに上陸し、そこで原住民が大きく跳ねるボールで遊んでいるのを見てとても驚いたといわれている。その後スペインに持ち帰らたが文字消しやおもちゃ程度にしか価値はなく、この後200年あまり科学的研究はされなかった。ちなみにゴムを意味するラバー(Rubber)は英語でこすって消す(rub out)文字消しに由来している。ゴムは後に英語のgum を借り入れたガムと並んで、今も使われているが、英語のgum も本来は「樹皮から分泌する乳状液」の意味だが、もっぱら「チュウインガム」という特殊な意味に限られて使われることとなった。
 ギャマンは、その原語diamant からも想像できるように、本来は「ダイヤモンド」である。日本ではガラス細工を「ギャマン細工」といっているうちに、それを略したギャマンが「ガラス」そのものをさすようになった。しかし、「ガラス」としては同じオランダ語から入ったガラス(glas)が優勢となり、ギャマンもポルトガル語からはいっていたビードロをも駆逐して、今日では王座を確保している。後に英語のglass を借り入れたグラスも使われるようになったが、こちらはもっぱら「洋酒のカップ」の意味に限られた。
 レッテルとは、元はオランダ語で商品などに貼り付ける札(ふだ)のことである。ラベルまたはレーベルが転じて、人や物事に対する類型化された評価のこと。英語と綴りも全く同じletter(文字)を借り入れたものかもしれない。
 オルゴールは、ゼンマイ仕掛けで、蓋を開けることで(あるいは手回しのハンドルを回すことで)音楽が流れる機械。語源はオランダ語の「orgel(オルゲル)、オルガン」で、それが訛って今の「オルゴール」になったという。ちなみに英語では「music box」。
 カランは、オランダ語で「鶴」を意味する「kraan」から。カランが「鶴」の意味からきているのは、蛇口の長い管が鶴の首から頭にかけての形に似ているためである。
 コルクは、コルクガシの樹皮のコルク組織を剥離、加工した弾力性に富む素材。空気をよく含み、軟らかいため、中国語では「軟木」(ruǎnmù)と呼んでいる。コルクの需要は、16世紀のガラス瓶(びん)の出現により、17世紀に入って急激に増加した。そして1760年のスペインでは、コルク量産化のためにコルク樹の育成栽培が始めらた。日本では、江戸時代末期、諸外国から持ち込まれた洋酒類に使われていたコルク栓を再製し、目薬瓶の栓として利用したのがコルク加工のはじまりといわれている。その後、明治時代に入りビール王冠用コルク使用や、ガラス容器の発達に伴いコルク栓の需要は拡大したという。
 歴史的にコップが日本に伝わったのは、江戸時代で、ギヤマンやビードロなどのガラス製品とともに伝わったため、英語を語源とするカップではなくオランダ語を語源とするコップと表現される。古くから日本に伝わっていたため、江戸時代を経て外国との交流のあった長崎などを中心に各地の工芸品に見ることができる。
 ブリキは、スズを鍍金した鋼板のことである。缶詰など、常に水分と接触する部材に用いられるほか、かつては玩具の主要な材料でもあった。オランダ語のBlikから来たという説が有力。明治時代、レンガを鋼板で保護しているものを見た日本人が、鋼板のことを尋ねるつもりでそれは何かと質問したところ、"brick"(レンガを意味する英語)という答えが返ってきたことから誤って付いた名である、とする説がある。しかしブリキについては江戸時代より知られており、この説は疑わしい。
d60815a4.jpeg ペンキは大航海時代に、主に帆船の木材保護や水密性の維持のために使用されたオランダ語(pek)を語源としたものを指す。現在でも商品として売られているスパーワニス(Spar vanish)はSpar=”マスト周りの艤装品”に塗る天然樹液を原料としたワニスのことである。また、帆船の開口部を荒天時に塞ぐキャンバスは布に塗料を塗りこんだ物である。帆にペンキを塗る歴史はノルウェーのバイキングの時代にはすで行われていたのは確かなようである。いずれにせよ、現在使われている塗料の誕生はノアの箱舟にそれらしきものを塗ったという記述からしても船とは切っても切れない関係にありそうである。
0fc0e891.jpeg ポンプは、機械的なエネルギーを液体・気体の圧力・運動エネルギーに変換させる流体機械をいう。圧力を高めたり減圧したり、または移動させるのに用いられる。大正時代から、昇進ポンプと呼ばれる手押しポンプが広島で作られ、また名古屋地区にてガチャポンと呼ばれる手押しポンプが鋳造量産され始めた。
f100f768.jpeg ランプは燃料を燃やす照明器具。石油ランブは石油を金属製またはガラス製の油壺に入れ、口には口金(くちがね)をつけ、灯芯を差し込み点火し、「ほや」(ガラス製の筒)をきせて燃えをよくし、かつ風で吹き消されるのを防ぐ。灯芯はねじで上下した。すすで汚れたほやの清掃は手の小さな子供の仕事であった。種類としては吊り下げるものと、据え置くものとがあった。日本に渡来したのは万延元年(1860年)、林洞海(はやし どうかい、1813~1895年、日本の蘭方医。幕府奥医師)が渡米した友人からもらい、臭水(原油の越後地方での古称)で点火したのが最初であるという。慶応頃からしだいに普及し、その明るさを賞賛され、明治5年には家々で点火され、明治15(1882)年ごろにはランプ亡国論なるものさえもちあがった。平芯から円芯、両芯がおこり、空気ランプから白熱マントルランプが現われ、その一方では携帯用のカンテラも派生し、電灯が普及するまでは王者の位にあった。現在でも電気が利用できない奥地の山小屋などでは現役で用いられているという。
※ランプ亡国論とは、明治初期の僧侶、佐田介石〔さた かいせき、1818~1882年、肥後国出身、幕末から明治初頭にかけての浄土真宗本願寺派(晩年は天台宗)の僧侶〕が外国製品排斥の立場から提唱した説で、灯油を用いるランプを使っていると、菜種油生産農家が困窮し国が滅びると主張した。 
  昨日は朝から咽喉がイガイガして咳は出るは、鼻水は垂れるは、それに体全体が何となくだるい感じだ。どうやら、夏風邪がピークに達したらしい。1日中ぼんやりと過してしまった。
 夕刻、午後6時30分 浅草寺で万霊燈篭供養会が行なわれる。ここにマイチの菩提の供養すべく申し込んであるので、すっぽかすわけには行かない。前もって、ブログで知らせたこともあって、沢山の塾友が参加してくれた。
 午後7時半を過ぎた頃から、ひさご通のTAKEYAで、塾友たちとマイチの冥福を祈り献杯をささげ、供養パーティを行なった。帰宅したときは午後10じ頃であった。
 今朝はいつも通り、4時に目覚ましが鳴ったが、大事をとってそのまま8時まで寝てしまった。夏風邪もどうやら落ち着いたようである。
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 明け方に雨の音で目が覚める。午前3時20分。またもや徘徊に出られず。
 昨日は戯れに、宝塚のKS氏に、徘徊で撮った木槿の写真に「木槿(むくげ) 今日の徘徊で遊歩道に咲いていた木槿です。/長恨歌の作者の白居易は、この木槿を『槿花一日、自ずから栄を為す。何ぞ須(もち)いん、世を恋(した)い、常に死を憂うるを…』と。/昨日も知人の訃報がありました。明日はわが身と自覺しているつもりでも、煩悩を捨てきれない昨今です。 瘋癲のセッチンより」と添え書きして、携帯でメールしてみた。返事に曰く、「外食中の一報に接し、愚妻がメールを開き読みながら『お父さん、お父さん。漢文、漢文…チンプンカンプン!』と私に携帯を慌てて渡してくれましたが、私は字が明確に見えず、外食を終え帰ってきて拡大鏡で見せて戴きました。/白居易については詳しくは存じませんが、貴兄の感想についてはよく理解出来ます。/私は家内と『社会に貢献することなく、このまま生きることは虚しい』とお互いに嘆いています。/特に現在の政治を見るとき、それに荷担した一票の価値の無さに、強烈な怒りを感ずる今日この頃です。/むくげの写真の美しさに慰められております。千里山では紫・白・赤のむくげが有りましたが、朝咲き夕方には萎むものですから、家内だけが楽しんでおりました。今思うと、私自身は自然と調和しない情けない生きざまでした。/体調に気を付けて下さい。」
 
東京夢華録 巻七 清明節
 清明節、尋常京師以冬至後一百五日為大寒食。前一日謂之「炊熟」。用麵造棗䭅飛燕、柳條串之、插於門楣、謂之「子推燕」。子女及笄者、多以是日上頭。寒食第三節即清明日矣。凡新墳皆用此日拜掃、都城人出郊。禁中前半月發宮人車馬朝陵、宗室南班近親亦分遣詣諸陵墳享祀、從人皆紫衫、白絹三角子、青行纏、皆係官給。節日亦禁中出車馬、詣奉先寺、道者院祀諸宮人墳、莫非金裝紺幰、錦額珠簾、繡扇雙遮、紗籠前導。士庶闐塞諸門、紙馬鋪皆於當街用紙袞疊成樓閣之狀。四野如市、往往就芳樹之下、或園囿之間、羅列杯盤、互相勸酬。都城之歌兒舞女、遍滿園亭、抵暮而歸。各攜棗䭅、炊餅、黃胖、掉刀、名花異果、山亭戲具、鴨卵雞雛、謂之「門外土儀」。轎子即以楊柳雜花裝簇頂上、四垂遮映。自此三日、皆出城上墳、但一百五日最盛。節日坊市賣稠餳、麥餻、乳酪、乳餅之類。緩入都門、斜陽御柳;醉歸院落、明月梨花。諸軍禁衛、各成隊伍、跨馬作樂四出、謂之「摔腳」。其旗旌鮮明、軍容雄壯、人馬精銳、又別為一景也。
3c6ed160.jpeg〔訳〕《清明節》清明節。都では普通冬至から百五日目を「大寒食」とした。寒食の前日は「炊熟(すいじゅく)」と呼ばれる。粉で棗A〔一種の団子〕飛燕をつくり、柳の枝に串刺しにして門に挿し、これを「子推燕(しすいえん)」といった。十五歳になった少女たちは、多くこの日に笄(こうがい)を頭につけて成人式をおこなった。寒食の第三日が清明節である。新仏(しんほとけ)の墓には、みなこの日に墓参りに行き、都の者は郊外にくり出した。皇室は半月前に宮人の車馬を御陵にさしむけられ、皇室の近親も諸陵に分遣されて祭祀が行われた。従者はみな紫の衫(ひとえ)に白絹の三角子(ひざあて)、青の行纏(きゃはん)をつけるが、これはすべて官給品である。また寒色節の日になると、皇室は奉先寺道者院に車馬を出され、宮人たちの墓参りも行なわれた。車はみな金色に装い紺色の幔幕(まんまく)を張り、錦の額と珠簾(たますだれ)をつけ、二組の綉扇〔しゅうせん、綉=刺繍〕と、薄絹の提灯を持ったものが前導をした。
 士庶(ひとびと)は郊外に向かう都の各門にぎっしりひしめきあい、紙馬を売る店は、通りに紙馬を楼閣のように積み上げていた。郊外はどこも市のような賑わいで、それぞれ花木の下、あるいは庭園の中に、皿・杯を並べ、互いに酒をくみかわし、都の歌童(うたわらべ)や踊子たちも庭園・四阿(あずまや)に満ちて歌い踊り、日が暮れてやっと帰るのであった。めいめい棗A(だんご)・炊餅〔むしもち、=蒸餅〕・黄胖〔にんぎょう、黄土をこねて作った泥人形)・掉刀(なぎなた)、花や果物と、山亭(あずまや)での遊び道具、アヒルの卵と鶏の雛をたずさえて行く。これを「門外土儀」という。轎子(こし)には楊柳やさまざまの花を屋根いっぱいに飾り付け四方に垂らして日をさえぎった。これより三日間はみな都を出て墓参りをしたが、やはり百五日がいちばん盛んだった。この節句のあいだ、城内の市では稠餳(みすあめ)・麦餻(むぎがし)・乳酪(にゅうらく)・乳餅(こうじどうふ)のたぐいを売った。ゆったりと都の門を潜れば、斜陽は御柳にさし、酔うて帰るわが庭には、明月が梨の花に光りを投げるのだった。なお、この日、禁衛軍の諸部隊が、隊列を整え馬に乗って軍楽を奏しながら都の四方に出た。これを「摔脚(しゅっきゃく)」という。その旗指物は美々しく、軍容は雄壮、人馬ともえりすぐりの精鋭で、また格別な見もののひとつとなっていた。
 
※清明節:北宋代には清明節は、三日間行なわれる寒食節の第三日で、もっとも盛大な年中行事の一つであった。寒食節は当時の民間行事で、冬至後一〇五日目を中心とした三日間〔旧暦の三月初めころ〕火断ちをした。その第一日目〔冬至後一〇四日目〕を大寒食〔私寒食とも〕、第二日を官寒食、第三日を小寒食と呼び、また大寒食の前日〔冬至後一〇三日目〕は火断ちに備えて寒食節三日間の食物を煮炊きしたので炊熟と呼んだ。本文で冬至から百五日目を大寒食としているのは誤りか?あるいは、寒食の中心という気持ちで大の字を用いたものか?
※子推:春秋時代、晋の文公の忠臣 介子推 のこと。寒食の由来について中国の伝説は以下のように言う。後に文公が子推を冷遇したので、彼は山中に隠棲する。そこで文公は山林に火をかけ彼を山中から出そうとするが、彼は木に抱きついて焼死してしまう。これを憐れんだ国人はこの日を命日として毎年火を禁じ子推を祀るようになった。しかし、寒食は、中国で古くから行なわれていた改火の行事〔新しい火の陽気をもって春の陽気を招く儀式〕における新火と旧火のつけかえの間の行事が、介子推焚死の伝説と結びついたといわれている。この節句は亡魂を和め豊作を予祝する儀礼でもあり、春耕のため降雨を招く意味も持っていたようである。柳は桃とともに中国では古くから春の生命のシンボルであり、邪を払う力のあるものと考えられていた。
※道者院:鄭門外五里の所にあり、宋代に建てられ、毎年十月一日、大法会を開き紙銭を焚いて軍陣亡没の孤魂を祀ったが、金の末に兵火に焼かれたという。
※紙馬:祭祀に用いる紙に描かれた彩色の神像。祭りが済むと焼く。
※門外土儀:都では、春、湖の畔の黄土を取ってこれで泥人形をつくり、これを土宜〔土儀〕と言ったという。
※稠餳(ちょうとう):麦芽から作った糖汁のこと。南北朝の古くからあった清明の日の食品である。
※乳酪:乳製品。酪はヨーグルト〔湿酪〕とかチーズ〔乾酪〕など酸味のある乳製品。
※乳餅(にゅうへい):乳腐すなわち現在中国で醤豆腐(ジャントウフ)とよばれる豆腐の麹漬のこと。
※御柳:檉柳(かわやなぎ)ともよばれ、日本での呼び名〔和名〕はムロノキ。
 今朝のウェブニュースより
26e69d94.jpeg オウム:高橋克也容疑者を逮捕 ―― 地下鉄サリン事件などで警察庁から特別手配を受け、川崎市の潜伏先から逃走していたオウム真理教の元信者、高橋克也容疑者(54)が15日、東京都大田区内のJR蒲田駅近くの漫画喫茶で発見された。警視庁は高橋容疑者と確認し、殺人容疑などで逮捕した。6月3日の菊地直子容疑者(40)の逮捕をきっかけに潜伏先が判明。翌日に捜査員が現場にかけつけたものの、直前に姿を消した高橋容疑者だったが、11日に及ぶ逃亡劇の末の逮捕となった。/オウム関連事件での特別手配者の逮捕は今年に入って、1月の平田信被告(47)、菊地容疑者に続き3人目。事件から17年を経てようやく特別手配の19人全員が逮捕されることになった。/「似た男がいる」と通報を受けた捜査員が、漫画喫茶に向かい、店を出てきた高橋容疑者に職務質問。本人と認めたため、蒲田署に任意同行し、午前11時10分に逮捕した。/逮捕後の調べに高橋容疑者は、地下鉄サリン事件については「幹部の指示でやりました」。事件の狙いについては「一部知らなかったこともあります」などと供述しているという。「キャリーバッグは鶴見駅(横浜市鶴見区)のコインロッカーに入れた」と話している。/高橋容疑者は、井上嘉浩死刑囚(42)がトップを務めた教団の非公然部隊「諜報(ちょうほう)省」に所属。95年3月の地下鉄サリン事件と同年2月の目黒公証役場事務長監禁致死事件で警察庁が特別手配。ほかに東京都知事宛ての郵便物爆弾事件などで逮捕状が出ている。/地下鉄サリン事件では散布役の豊田亨死刑囚(44)の送迎役を務めたとされる。警視庁は全容解明を目指すとともに、17年に及ぶ逃走生活の実態を調べる。/高橋容疑者は96年11月ごろまで埼玉県所沢市のマンションで、菊地容疑者らと潜伏していたことが確認されて以降、行方が分からなかった。今年6月3日に菊地容疑者についての潜伏情報が寄せられ、相模原市で菊地容疑者を逮捕。供述などから高橋容疑者が「櫻井信哉」の偽名で川崎市に住んでいたことをつかんだ。勤め先だった市内の建設会社の社員寮を割り出し、今月4日に踏み込んだが、すでに逃走していた。/警視庁は金融機関の防犯カメラの画像などを次々と公開、全国の警察本部が駅やホテルなどの警戒を強化するなど、高橋容疑者を追い込む捜査を進めてきた。
〔毎日新聞 2012年06月15日 11時13分(最終更新 06月15日 13時30分)〕
 
a088ce56.jpeg 消費増税へ3党合意 一体改革談合の末 ―― 民主、自民、公明三党による社会保障と税の一体改革の修正協議は十五日深夜、決着した。三党の実務者が確認書に署名した。関連法案が成立すれば、消費税率は二〇一四年四月に8%、一五年十月に10%に二段階で引き上げられ、民、自、公の増税容認三党による消費税増税が現実のものとなった。低所得の高齢者への年金加算案は撤回して、代わりに月額五千円を基準に給付金を支給し、消費税率を8%に引き上げるまでに法制化することで合意した。/三党は週明けにも党内手続きを終え、幹事長・政調会長クラスが会談して最終合意を目指す。野田佳彦首相が明言していた国会会期末の二十一日までに政府の関連七法案と、自民党の対案の修正案を衆院で採決したい考えだ。/社会保障分野では、基礎年金の国庫負担を50%に維持する財源として「交付国債」を発行するとの規定を関連法案から削除することで合意した。/パート労働者の厚生年金への加入拡大は自民党の要求で、対象者を政府案の月給七万八千円以上から八万八千円以上に引き上げ、拡大対象を四十五万人から三十万人弱に縮小した。/税制分野では、消費税率引き上げに伴う低所得者対策のうち、8%引き上げ時の現金給付については、公明党の主張を受け入れ、給付の法制化を引き上げの条件とすることで合意した。/民主党が消費税率引き上げ法案に盛り込んだ経済成長率「名目3%・実質2%」を努力目標とする景気条項は残し、実施は「その時の政権が判断する」と確認した。/自民党が反対していた10%引き上げ時に減税と現金給付を組み合わせる「給付付き税額控除」については、自公両党が求めている生活必需品などを対象とした軽減税率の検討と両論併記にした。/民主、公明両党で調整が難航していた最低保障年金の導入や後期高齢者医療制度の廃止など、民主党が掲げる主要政策の扱いでは、「あらかじめ内容等について三党間で合意に向けて協議する」と、あいまいな表現で決着した。/民主党の主要政策をめぐっては、民主、自民両党が既に「社会保障制度改革国民会議」で議論し、事実上、棚上げすることで合意していたが、公明党はそれだけでは納得せず、主要政策の関連法案の国会提出の時期を削除して閣議決定をやり直すよう求めていた。/自民党は十五日夜の総務会で修正内容を了承。公明党も対応を執行部に一任した。民主党では小沢一郎元代表のグループが反対しているため、民主党内の了承手続きが次の焦点となる。  (東京新聞 2012年6月16日 07時15分)
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70358bc0.jpeg 寒い、寒いでズルを決め込んで、家に篭りっきりで朝の徘徊をやめていたが、足が随分弱ったらしく、500mも歩くと、膝ががくがく、脹脛はずきずきどうしようもない。まあ、毎日少しずつ歩いて徐々に慣らして回復させるより仕方あるまい。桜橋下の水上バス乗り場からテラス沿いに休み休み、吾妻橋下の水上バス乗り場まで歩いて、今度はテラス上の遊歩道を歩いては休み、休んでは歩きして、何とか帰宅した。
 ソメイヨシノはすっかり葉桜となったが、遅咲きの里ざくらが綺麗である。雑草にまじってタンポポが今を盛りと咲いている。言問橋下のスカイネストはすっかりできあがっていて、脇には展示板まで立ててある。
 
東坡志林 巻一 黎檬子
 吾故人黎錞、字希聲、治《春秋》有家法、歐陽文忠公喜之。然為人質木遲緩、劉貢父戲之為「黎檬子」、以謂指其德、不知果木中真有是也。一日聯騎出、聞市人有唱是果鬻之者、大笑、幾落馬。今吾謫海南、所居有此、霜實累累、然二君皆入鬼錄。坐念故友之風味、豈復可見! 劉固不泯於世者、黎亦能文守道不苟隨者也。
5d1e5451.jpeg〔訳〕《黎檬子》私の旧友黎錞〔れいじゅん、生卒年不祥〕は、字は希声(きせい)といい、『家学』を受けて「春秋」に詳しく、欧陽文公のお気に入りであった。しかし質朴(じみ)で動作の鈍い人だったので、劉貢父〔りゅうこうほ、1023~1089年〕はたわむれにかれに『黎檬子(のろま)』という仇名を奉った。これは彼の性質を指してつけたもので、果物の中に黎檬子(レモン)というのがあるとは全然知らなかったのである。ところがある日、馬を連ねて外出した所、商人が大きな声でこの果物を呼びたててうっていたので、大笑いしてすんでに馬から落ちそうになったものである。
 今私が流されて住んでいるこの海南島にもこれがあって、霜ふりの実がゴロゴロしている。二君はいずれもすでに鬼籍に入り、そぞろに旧友の風味を想い起すのだが、もはやふたたび相見ることもできぬ。劉君がこの世から忘れられぬは無論であるが、黎君とても文を能くし道を守って、決して凡々の人ではなかったのである。
 
4ff8ce3a.jpeg 李白に「廬山の瀑布を望む」と題する詩が二首ある。一首は五言の長詩であり、一首は七言絶句である。
 廬山は、江西省九江の南にあり、陶淵明がその麓に居をかまえていたことでも知られる。標高はほぼ富士山の半ばに達し、いくつもの峰をつらねるが、中でもよく知られるのは『枕草子』にも見える香炉峰、また最もけわしいのは五老峰であるといわれる。
 
  望廬山瀑布 其一 李白
 西登香爐峰  西のかた香炉峰に登り
 南見瀑布水  南のかた瀑布の水を見る
 挂流三百丈  流れを挂(か)く 三百丈
 噴壑數十里  壑(たに)を噴く 数十里
 歘如飛電來  歘(くつ)として飛電の来るが如く
 隠若白虹起  隠として白虹(はっこう)の起つが若し
 初驚河漢落  初めは驚く 河漢落ちて
 半灑雲天裏  半ば雲天の裏に灑(そそ)ぐかと
 仰觀勢轉雄  仰ぎ観れば 勢い転(うた)た雄なり
 壯哉造化功  壮(さかん)なる哉 造化の功
 海風吹不斷  海風 吹いて断えず
 江月照還空  江月 照らして空を還(めぐ)る
 空中亂潨射  空中 乱れて潨射(そうせき)し
 左右洗靑壁  左右 青壁を洗う
 飛珠散輕霞  飛珠 軽霞を散じ
 流沫沸穹石  流沫 穹石(きゅうせき)に沸く
 而我樂名山  而して我 名山を楽しみ
 對之心益閑  之に対して 心益(ますます)閑かなり
 無論漱瓊液  論ずる無かれ 瓊液を漱ぐを
 還得洗塵顔  還(ま)た得たり 塵顔を洗うことを
 且諧宿所好  且つ諧(かの)う 宿(もとよ)り好む所
 永願辭人間  永く願う 人間(じんかん)を辞するを
 
137b145f.jpeg〔訳〕西のかた 香炉峰に登ると
   南に瀧の落ちるのが見える
   岸壁にかかる高さは三百丈
   谷間のしぶきは数十里にわたる
   稲妻のように落ちるかと思えば
   朦朧として白い虹が立つようだ
   はじめは 銀河が落ちるかと驚き
   もしくは 雲海から注ぐかと息をのむ
 
   仰ぎ見れば 勢いはますます強く
   大自然の壮大な力に圧倒される
   湖うみからの風にも吹きちぎられることはなく
   江上の月の光はなすところなく照っている
   水は乱れて 空中でぶつかり合い
   苔むすあたりの岩肌を洗う
   飛び散る水は 軽やかな霞となって広がり
   流れる飛沫は 岩にあたって舞いあがる
 
   かくて私は 名山に遊び
   山と向かい合って心はますますのどかである
   清らかな水で 口を漱ぐのは当然のこと
   俗塵にまみれた顔を洗うこともできるのだ
   かてて加えて かねてからの私の好みに合っている
   俗世から辞することが永い間の願いであるからだ
 
望廬山瀑布 其二 李白
日照香炉生紫烟  日は香炉を照して紫烟を生じ
遥看瀑布挂長川  遥かに看る瀑布の長川に挂かるを
飛流直下三千尺  飛流 直下 三千尺
疑是銀河落九天  疑ふらくは是れ銀河の九天より落つるかと
 
〔訳〕日が香炉峰を照らし、山が紫色に煙っている、
   はるか彼方には滝が長い川のようにかかっているのが見える、
   その滝のまっすぐに流れ落ちる長さは三千尺、
   まるで銀河が天から落ちてきたかのようだ
 東坡志林 巻一 記遊盧山
 僕初入廬山、山谷奇秀、平生所未見、殆應接不暇、遂發意不欲作詩。已而見山中僧俗、皆云:「蘇子瞻來矣!」不覺作一絕云:「芒鞵青竹杖、自掛百錢遊。可怪深山裏、人人識故侯。」既自哂前言之謬、又復作兩絕云:「青山若無素、偃蹇不相親。要識廬山面、他年是故人。」又云:「自昔憶清賞、初遊杳靄間。如今不是夢、真箇是廬山。」是日有以陳令舉《廬山記》見寄者、且行且讀、見其中雲徐凝、李白之詩、不覺失笑。旋入開先寺、主僧求詩、因作一絕云:「帝遣銀河一派垂、古來惟有謫仙辭。飛流濺沫知多少、不與徐凝洗惡詩。」往來山南地十餘日、以為勝絕不可勝談、擇其尤者、莫如漱玉亭、三峽橋、故作此二詩。最後與摠老同遊西林、又作一絕云:「橫看成嶺側成峰、到處看山了不同。不識廬山真面目、只緣身在此山中。」僕廬山詩盡於此矣。
 
50b76bb0.jpeg〔訳〕《廬山に遊ぶ》私は初めて廬山に入るや、その山や谷のこれまでかつて見たこともなかった奇秀さ、ほとんど応接に暇なき勝景を見て、ついに発心してもう詩は作るまいと思った。ところが山中の僧侶も俗人も争って「蘇子瞻来る」といって迎えたので、つい絶句を一首作った。

  芒鞵(ぼうあい)青竹の杖
  自ら百銭を挂(か)けて遊ぶ
  怪しむ可し深山の裏(うち)
  人々 故侯(ここう)を識(し)る
 やがて前の宣言の謬(あやま)りを知り、自分でもおかしくなって、またしても絶句を二首作った。
  青山 素(なじみ)無きが若(ごと)く
  偃蹇〔えんけん、高く傲(おご)る〕として 相親しまず
  識(し)らんと要(ほっ)す廬山の面
  他年(むかし)は是れ故人。
 また、
  昔より清賞を憶い
  初めて遊ぶ杳靄〔ようあい、深い靄〕の間
  如今(いま)こそ是れ夢ならず
  真箇(まこと)に是れ廬山
 この日、陳令挙の『廬山記』をくれた人があったので、歩きながら読んだところ、その中に徐凝〔じょぎょう、生没年不詳、中唐・元和(げんな)年間の詩人〕と李白の詩を引いてあったのを見て思わず失笑した。それから開元寺に入ると、主僧が詩を求めたので、絶句を一首作った。
  帝〔天帝〕銀河一派を遣わして垂れしむ
  古来ただ謫仙〔たくせん、李白〕の辞あるのみ
  飛流濺沫(ひりゅうせんまつ) 多少(いくばく)なるを知らざるも
  徐凝のために悪詩を洗わず
 山の南北を往来すること十余日、絶景は一々挙げられないが、中でも特にすぐれたものを択べば、漱玉亭、三峡橋に及ぶものはないと思う。それでそれをよんだ詩を二首作った。最後に総老〔常総、当時廬山東林寺の住持であった名僧〕と一緒に西林寺に遊び、また絶句を一首作った。
  横より看れば嶺(やまなみ)をなし側よりすれば峯を成す
  到る処 山を看しが了(つい)に同じからず
  廬山の真面目を識らざるは
  ただ身の此の山中にあるに縁(よ)る
 私の廬山の詩はこれに尽きている。
 
※「自掛百錢遊〔自ら百銭を挂けて遊ぶ〕」とは、晋の阮修〔生没年不詳、竹林の七賢・阮籍の甥という〕は外に出るときはいつも杖に百銭を釣り下げて、酒店が見えるごとに入って呑んだことに拠る。また「故侯人人識故侯〔人々 故侯を識る〕とは秦の召平〔生没年不詳〕東陵侯であったが、秦が亡びると晁安城の東で瓜を作って暮らしたということに拠る。
※陳令挙〔生没年不詳、舜兪〕は湖州の人で、王安石の新法に反対して廃官となった。蘇軾は杭州にいるときに訪れたことがあり、陳が死んだ時は哀悼の文も作っている。
 
c927dea7.jpeg※徐凝と李白は二人とも廬山の瀑布の詩を作っている。李白の詩は有名な「飛流直下三千尺、疑是銀河落九天〔飛流直下三千尺、疑うらくは是れ銀河の九天より落つるかと〕」であり、中唐詩人徐凝の詩は「千古長如白練飛、一條界破青山色〔千古長きこと白練(しろぎぬ)の飛ぶが如く、一条界破す青山の色〕というもので、唐の詩人徐凝は、廬山曝布の李白に和して作った詩で蘇軾に笑われたのである。
 
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目高 拙痴无
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92
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1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
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