瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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41日午前1140分すぎ、菅官房長官が平成に代わる次の元号を「令和」と発表しました。
 
その直後、日本語学者の金田一秀穂氏は、新しい元号「令和」の第一印象を次のように語りました。
 
金田一秀穂氏:「令」というのは、古い意味では“神様のお告げ”という意味。そして、“皆が仲良く“ということなんだろうと思います。
いい言葉なのではないでしょうか。悪くないですよ。ただ、「和」は昭和の「和」だったから、そういうのは選ばれないのかなと思っていましたけれど。


新元号の「令和」は、8世紀に完成し、さまざまな身分の人が詠んだ4500首以上を収録している日本最古の和歌集『万葉集』(巻5815846)の梅花の歌を出典としています。
 
この和歌を書いたのは大伴旅人とも山上憶良ともいわれていますが、他の人ともいわれており、歴史上作者不明となっています。しかしながら、この歌が発想された場は判明しており、天平2(730)正月13日に大宰府の長官ともいえる大宰帥の大伴旅人の家に集まり、梅を楽しんだ際に生まれたとされています。

 
梅花謌卅二首并序
標訓 梅花の歌三十二首、并せて序
天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾盖、夕岫結霧、鳥封穀而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是盖天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以濾情。詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。


 訓読 天平二年正月十三日に、帥


そち)(おきな)の宅に(あつ)まりて、宴會を()ぶるなり。時、初春の()き月にして、氣()く風(なご)み、梅は鏡前の粉を(ひら)き、(らに)(はい)()の香を(かおら)す。加以(しかのみならず)、曙の嶺に雲移り、松は(うすもの)を掛けて(きぬがさ)を傾け、夕の(くき)に霧結び、鳥は(となみ)()められて林に迷ふ。庭には新しき蝶舞ひ、空には(もと)(かり)歸る。於是、天を(きぬがさ)とし地を(しきい)とし、膝を(ちかづ)(さかづき)を飛ばす。言を一室の(うち)に忘れ、(えり)を煙霞の外に開く。淡然と(みずか)(ほしいまま)にし、快然と自ら足る。若し翰苑に非ずは、何を以ちて情を()べむ。詩に落梅の篇を(しる)す。古と今とそれ何そ異ならむ。宜しく園の梅を()みて聊かに短詠を成すべし。



現代語訳 天平二年正月十三日に、大宰の帥の旅人の宅に集まって、宴会を開いた。時期は、初春のよき月夜で、空気は澄んで風は和ぎ、梅は美女が鏡の前で白粉で装うように花を開き、蘭の香りは身を飾った衣に香を薫ませたような匂いを漂わせている。それだけでなく、曙に染まる嶺に雲が移り行き、松はその枝に羅を掛け、またその枝葉を笠のように傾け、夕べの谷あいには霧が立ち込め、鳥は薄霧に遮られて林の中で迷い鳴く。庭には新蝶が舞ひ、空には故鴈が北に帰る。ここに、天を立派な覆いとし大地を座敷とし、お互いの膝を近づけ酒を酌み交わす。心を通わせて、他人行儀の声を掛け合う言葉を部屋の片隅に忘れ、正しく整えた衿を大自然に向かってくつろげて広げる。淡々と心の趣くままに振る舞い、快くおのおのが満ち足りている。これを書に表すことが出来ないのなら、どのようにこの感情を表すことが出来るだろう。漢詩に落梅の詩篇がある。感情を表すのに漢詩が作られた昔と和歌の今とで何が違うだろう。よろしく庭の梅を詠んで、いささかの大和歌を作ろうではないか。


 

 携帯に岩川真由美女史からメールが入りました。曰く、


 日高先生


 岩川真由美です。


 私も先生にお目にかかれて、本当に嬉しかったです。


 先生のおかげさまで、勉強の楽しさを一生を通じて持ち続けています。


 くれぐれも道子先生によろしくお伝え下さい。


 兄姉からも先生によろしくとの事です。先生、御元気で!   真由美


 


忘年会の写真と説明を続けます。


 


馬場英一氏はIkuoちゃんの紹介で指導員として参加してもらうようになりました。二人は浅草寺が活動母体のボーイスカウト第7団で奉仕活動している知り合いでした。


星野義和氏は荒井正夫氏・永田光広氏と同期の昭和35年生まれの同期生です。Ikuoちゃんの夫人の恵子女史の弟さんに当たります。


荒井正夫氏の親御さんに英語の家庭教師を頼まれTakaya氏を紹介しました。まあTakaya氏は「兼愛塾の臨海にはN嬢といういい娘がいるんだよ」と荒井氏をN嬢を餌に臨海に誘ったのだそうです。――嘘か真か実のところは不明です。


参加1年目にして、海岸でガラス片を踏んづけて大怪我。それでも、大学を出るまで指導員として永田・星野両氏と共に参加してくれました。水泳は他者と比べて抜群、水泳部長を務めてくれました。夫人のMino女史(旧姓 籾井)も臨海参加者で私が2人の媒酌を務めさせていただきました。


永田光広氏はChakiちゃんの末弟で一時「Mini Chaki」なんて呼ばれたこともありました。パソコンのハードにはかなり詳しく、私のパソコンが不調の時はすぐに駆け付けてくれて直してくれます。つい先だっても私のパソコンがパンクした時も連日連夜通い詰めで直してくれました。こうして、皆さんにブログを送れるのも光広氏のお陰です。私が媒酌の労を取らせていただいた夫人については、先のブログで説明した説明した通りです。


前田嘉雄氏・小川治範氏は出身中学は異なりますが、昭和33年生まれの同期生です。


前田氏は就職してからも広島の「もみじ饅頭」をお土産に臨海に訪ねてくれました。毎日ウォーキングに励んでいるそうで、総計4万キロメール(地球一周)を目指しているそうです。北関東三大100キロウォーク(しおや100キロ・ぐんま100キロ・つくば100キロ)の制覇は叶いましたか?


小川氏は荒井氏・永田氏と同じ雷門町会で2人の兄貴格でした。まあ3人ともに生粋の浅草っ子で三社祭が大好きのようです。


 
 菊
地珠子女史は昭和40年生まれで、永田三千代・岡本智子女史等と同期ですが、時々行方をくらますので何をしているのか判らなくなります。


直井加織女史はNew CaledoniaIle-des-Pins(イル==パン)に在住していますが、彼女も浅草っ子、毎年三社祭には必ず帰朝して、神輿を担ぎます。私の所にも顔を見せに来てくれます。これからは、三社様と塾の忘年会には毎年帰朝するといっていました。


 


三村訓久氏は愛称 Gegeさん と呼ばれています。愛称の由来は聞いていません。臨海は小学4年生からと決めていましたが、Gegeさんの祖母様から頼みこまれて小学3年から参加しました。昭和40年生まれの同期生の中では一番の古株です。千束小学校のすぐそばで「三村はり灸整骨院」を開業しています。


 


塾長のスピーチに続いて乾杯。


 


写真のIkuoちゃんは、Kouちゃんの弟君です。星野義一君のお姉さんの恵子女史と結ばれ、私が媒酌を務めさせていただきました。


乾杯が終わる頃には全員がそろったようで、それぞれグループごとに雑談です。


 


女性陣グループの説明に入ります。


 


1枚目のカラー写真の賀来・山岸の両女史は大洗からの臨海参加者です。因みに大洗時代のモノクロ写真を添付します。


 


Akemiさんは高学年になってからは、医務の手伝いで代々の医務部長のお手伝で、とうとう慈恵大の看護学校に入り、看護師になりました。


Kayoさんは、指導員になってからは鈴木道代(武藤、愛称はChabo)女史と親しく臨海が終わってからも、塾によく話に来てくれました。


Chabo女史は平瀬勝久氏の紹介で臨海の指導員として手伝ってもらいました。今年も忘年会参加する予定でしたが、母上のご逝去で急遽取止めになりました。


 


Chieko女史は、木島氏の妹の福嶋操子女史の紹介で、臨海の指導員として手伝ってもらうことになりました。小学W生が熱を出したときなどはNabeちゃんと寝ずの看病をしてくれたこともありました。しかし、二人が紅い紐で結ばれ、私が媒酌の労を取ることなど夢にも思っていませんでした。


カラー写真の2枚目は永田光広夫人の三千代さん(旧姓、瀬古 愛称はミッチー)・岡本智子さん(旧姓は小櫃 愛称はオビッちゃん)・成島典子さん(Naruちゃんの夫人)で、昭和40年生まれ組です。


ミッチーは聖天町の頭の娘さん、臨海でいつの間にかMitsuhiro氏と睦まじくなり、私が媒酌を務めました。Kazuhiro君は二人の次男坊です。


オビッちゃんは、久しぶりの忘年会参加です。昔から色が白く、海の肌焼けで苦労していたようです。


典子女史は成島淳一氏の夫人です。旦那に美味いものばかり食べさせ、私が写真で見間違えるほど太らせてしまったようです(昨日のブログ参照)


 


上の2枚目の写真のShingo氏については、先のブログで説明しましたが、私事ではありますが、付け足していただきます。


私が42歳の厄年の事ですから、今から40年以上も昔になりますが、私の母が九州から上京して、元旦を国分寺にいた叔父(母の実弟)の家で過ごすことになりました。母はそこで旅の疲れが出たのか風邪をこじらせたのか、とにかく具合悪くなり、私に引き取ってくれとの連絡が入りました。この時Shingo氏が車を出してくれて、浅草~国分寺を往復してくれました。国分寺から浅草までの母と私を乗せて、とても気を使った安全運転で走行してくれました。浅草の塾舎から二階の我が家に着いて、母は突然発作を起こしたのですが、その日は休日でどこの病院もやっていませんでした。Shingo氏は友人に頼み込んで友人の父であるK医師に来診してもらうことができました。K医師は診断の結果救急車を呼んでくださり、千束の聖愛病院に入院することができました。母入りました。それから3か月もち、春休みの4月の初めに息子達に看取られて聖愛病院で旅立ちました。今でも母の話が出ると、あの時のShigo氏を思い出し心の中で「ありがとう」と手を合わせています。


 


3枚目の写真のIkuo君の両脇にいる池上尋之氏(愛称はIkeさん)と柏木一朗氏(愛称Nenpai)は同期?です。


Ikeさんは小学4年から参加、確か青山から北大に進学したと思います。


柏木氏は小学5年から参加、父上は大相撲の那智ノ山で、当時の峰崎親方です。


 


全然泳げなかった彼が初めての参加で遠泳をして帰ったということでご両親の喜び一方ならぬものでした。専大を卒業後さらに法大に入学、Kouちゃんと並んで指導員として最も長く務めてくれました。なぜか女子生徒からはNenpaiと呼ばれていました。少し老けて見えたのかな?


 


17日のコメントにあったように姪の住んでいる兵庫県篠山市では地名変更を問う全国でも珍しい住民投票が行われたようです。


ウェブニュースより


「丹波篠山市」が多数 市名変更の住民投票/兵庫・篠山市 ―― 兵庫県篠山市の市名を「丹波篠山市」にするか否かを巡る住民投票が18日、投開票され、市名変更に「賛成」する票が「反対」を上回ることが確実となった。


 


同日実施の市長選では、変更推進の酒井隆明・前市長(64)=自民、公明、兵庫維新、国民民主推薦=の当選が確実な情勢で、来年5月の元号変更に合わせて、市名を「丹波篠山市」に変更する見通し。


 


◆篠山市の「市名変更問題」


1999年、平成の合併第一号として誕生した兵庫県篠山市。04年、隣接する同県氷上郡が合併して、旧国名を冠した「丹波市」となったことを機に、篠山市の愛称「丹波篠山」が「丹波市と篠山市」と誤解されるようになったことや、ブランドとしての「丹波篠山」を守る目的から、昨年2月以降、商工会や観光協会、JAなどの団体が、市に対して「丹波篠山市」への変更要望書を提出した。


要望を受けた市は今年4月、市名を変更した場合の経済効果を「52億円以上」と発表し、8月には市として、「丹波篠山市に変更を検討する」と意志決定した。


一方で、現状維持を望む市民もおり、「問題」に発展。9月には市名の変更の賛否にかかわらず、「市名は、市長と議会だけで決めるのではなく、市民みんなで考える問題」として、住民投票の実施を求める住民団体が、条例で必要な有権者の署名(7066筆)を超える約1万筆を集め、住民投票が実施されることが決まった。


住民投票の実施を受け、同市の酒井市長(当時)は、「変更の方針を決めた責任があり、市民に信を問う」として1016日付で退職。住民投票と合わせた出直し市長選への出馬を表明していた。   ((丹波新聞 20181118日)


 


九州場所9日目の勝敗結果は次の通りです。


 


貴景勝が勝ち越し、高安7勝目 九州場所9日目 ―― 大相撲九州場所9日目(19日・福岡国際センター)単独トップの小結貴景勝は大関栃ノ心を押し倒して勝ち越しを決めた。栃ノ心は5敗目。


 


他の大関陣は高安が平幕嘉風をはたき込んで7勝目、豪栄道は平幕千代大龍を引き落として6勝目を挙げた。


 


関脇は御嶽海が竜電に寄り切られて5勝4敗。逸ノ城は正代を押し出して3勝6敗とした。


   


貴景勝を追う2敗は高安、大栄翔、碧山、阿武咲の4人となった。


 


十両は2敗の照強、炎鵬がトップ。


 


    (共同 2018/11/19 19:07


 



根岸庵を訪う記(2)    寺田寅彦


隣の庭の折戸の上に烏が三羽下りてガーガーとなく。夕日が畳の半分ほど這入って来た。不折の一番得意で他に及ぶ者のないのは『日本』に連載するような意匠画でこれこそ他に類がない。配合の巧みな事材料の豊富なのには驚いてしまう。例えば犬百題など云う難題でも何処かから材料を引っぱり出して来て苦もなく拵(こしら)える。


いったい無学と云ってよい男であるからこれはきっと僕等がいろんな入智恵をするのだと思う人があるようだが中々そんな事ではない。僕等が夢にも知らぬような事が沢山あって一々説明を聞いてようやく合点が行くくらいである。どうも奇態な男だ。先達(せんだ)って『日本』新聞に掲げた古瓦の画などは最も得意でまた実際真似は出来ぬ。あの瓦の形を近頃秀真(ほずま)と云う美術学校の人が鋳物にして茶托(ちゃたく)にこしらえた。そいつが出来損なったのを僕が貰うてあるから見せようとて見せてくれた。十五枚の内ようよう五枚出来たそうで、それも穴だらけに出来て中に破れて繕(つく)ろったのもあるが、それが却って一段の趣味を増しているようだと云うたら子規も同意した。巧みに古色が付けてあるからどうしても数百年前のものとしか見えぬ。中に蝸牛(かたつむり)を這わして「角ふりわけよ」の句が刻してあるのなどはずいぶん面白い。絵とちがって鋳物だから蝸牛が大変よく利いているとか云うて不折もよほど気に入った様子だった。羽織を質入れしてもぜひ拵えさせると云うていたそうだと。


 


話し半ばへ老母が珈琲(コーヒー)を酌んで来る。子規には牛乳を持って来た。汽車がまた通って蛁蟟(つくつくほうし)の声を打消していった。初対面からちと厚顔(あつかま)しいようではあったが自分は生来絵が好きで予(かね)てよい不折の絵が別けても好きであったから序(つい)でがあったら何でもよいから一枚呉くれまいかと頼んで下さいと云ったら快く引受けてくれたのは嬉しかった。子規も小さい時分から絵画は非常に好きだが自分は一向かけないのが残念でたまらぬと喞(かこっ)ていた。


夕日はますます傾いた。隣の屋敷で琴が聞える。音楽は好きかと聞くと勿論きらいではないが悲しいかな音楽の事は少しも知らぬ。どうか調べてみたいと思うけれどもこれからでは到底駄目であろう。尤もこの頃人の話で大凡こんなものかくらいは解ったようだが元来西洋の音楽などは遠くの昔バイオリンを聞いたばかりでピアノなんか一度も聞いた事はないからなおさら駄目だ。どうかしてあんなものが聞けるようにも一度なりたいと思うけれどもそれも駄目だと云うて暫く黙した。自分は何と云うてよいか判らなかった。黯然(あんぜん)として吾黙した。


また汽車が来た。色々議論もあるようであるが日本の音楽も今のままでは到底見込みこみがないそうだ。国が箱庭的であるからか音楽まで箱庭的である。一度音楽学校の音楽室で琴の弾奏を聞いたが遠くで琴が聞えるくらいの事で物にならぬ。やはり天井の低い狭い室でなければ引合わぬと見える。それに調子が単純で弾ずる人に熱情がないからなおさらいかん。自分は素人考えで何でも楽器は指の先で弾くものだから女に適したものとばかり思うていたが中々そんな浅いものではない。日本人が西洋の楽器を取ってならす事はならすが音楽にならぬと云うのはつまり弾手の情が単調で狂すると云う事がないからで、西洋の名手とまで行かぬ人でも楽(がく)の大切な面白い所へくると一切夢中になってしまうそうだ。こればかりは日本人の真似の出来ぬ事で致し方がない。ことに婦人は駄目だ、冷淡で熱情がないから。露伴の妹などは一時評判であったがやはり駄目だと云う事だ。


空が曇ったのか日が上野の山へかくれたか畳の夕日が消えてしまいつくつくほうしの声が沈んだようになった。烏はいつの間にか飛んで行っていた。また出ますと云うたら宿は何処かと聞いたから一両日中に谷中の禅寺へ籠る事を話して暇(いとま)を告げて門へ出た。隣の琴の音が急になって胸をかき乱さるるような気がする。不知不識(しらずしら)ず其方へと路次を這入ると道はいよいよ狭くなって井戸が道をさえぎっている。その傍で若い女が米を磨(と)いでいる。流しの板のすべりそうなのを踏んで向側へ越すと柵があってその上は鉄道線路、その向うは山の裾である。其処を右へ曲るとようよう広い街に出たから浅草の方へと足を運んだ。琴の音はやはりついて来る。道がまた狭くなってもとの前田邸の裏へ出た。ここから元来た道を交番所の前まであるいてここから曲らずに真直ぐに行くとまた踏切を越えねばならぬ。琴の音はもうついて来ぬ。森の中でつくつくほうしがゆるやかに鳴いて、日陰だから人が蝙蝠傘を阿弥陀にさしてゆるゆるあるく。山の上には人が沢山停車場から凌雲閣の方を眺めている。


 


左側の柵の中で子供が四、五人石炭車に乗ったり押したりしている。機関車がすさまじい音をして小家の向うを出て来た。浅草へ行く積りであったがせっかく根岸で味おうた清閑の情を軽業の太鼓御賽銭の音に汚すが厭になったから山下まで来ると急いで鉄道馬車に飛乗って京橋まで窮屈な目にあって、向うに坐った金縁眼鏡隣に坐った禿頭の行商と欠伸の掛け合いで帰って来たら大通りの時計台が六時を打った。   (明治三十二年九月)


 


根岸庵を訪う記(1)      寺田寅彦



 
九月五日動物園の大蛇を見に行くとて京橋の寓居を出て通り合わせの鉄道馬車に乗り上野へ着いたのが二時頃。今日は曇天で暑さも薄く道も悪くないのでなかなか公園も賑おうている。



 
西郷の銅像の後ろから黒門の前へぬけて動物園の方へ曲ると外国の水兵が人力と何か八釜(やかま)しく云って直(ね)ぶみをしていたが話が纏まらなかったと見えて間もなく商品陳列所の方へ行ってしまった。マニラの帰休兵とかで茶色の制服に中折帽を冠ったのがここばかりでない途中でも沢山見受けた。動物園は休みと見えて門が締まっているようであったから博物館の方へそれて杉林の中へ這入はいった。鞦韆(ぶらんこ)に四、五人子供が集まって騒いでいる。ふり返って見ると動物園の門に田舎者らしい老人と小僧と見えるのが立って掛札を見ている。其処へ美術学校の方から車が二台幌をかけたのが出て来たがこれもそこへ止って何か云うている様子であったがやがてまた勧工場(かんこうば)の方へ引いて行った。自分も陳列所前の砂道を横切って向いの杉林に這入るとパノラマ館の前でやっている楽隊が面白そうに聞えたからつい其方へ足が向いたが丁度その前まで行くと一切り済んだのであろうぴたりと止めてしまって楽手は煙草などふかしてじろじろ見物の顔を見ている。



 
後ろへ廻って見ると小さな杉が十本くらいある下に石の観音がころがっている。何々大姉(だいし)と刻してある。真逆かに墓表とは見えずまた墓地でもないのを見るとなんでもこれは其処で情夫に殺された女か何かの供養に立てたのではあるまいかなど凄涼な感に打たれて其処を去り、館の裏手へ廻ると坂の上に三十くらいの女と十歳くらいの女の子とが枯枝を拾うていたからこれに上根岸での道を聞いたら丁寧に教えてくれた。不折の油画にありそうな女だなど考えながら博物館の横手大猷院尊前(だいゆういんそんぜん)と刻した石燈籠の並んだ処を通って行くと下り坂になった。道端に乞食が一人しゃがんで頻りに叩頭(ぬかず)いていたが誰れも慈善家でないと見えて鐚一文(びたいちもん)も奉捨にならなかったのは気の毒であった。これが柴とりの云うた新坂なるべし。



 蟟(つくつくほうし
)が八釜しいまで鳴いているが車の音の聞えぬのは有難いと思うていると上野から出て来た列車が煤煙を吐いて通って行った。三番と掛札した踏切を越えると桜木町で辻に交番所がある。帽子を取って恭しく子規の家を尋ねたが知らぬとの答故(ゆえ)少々意外に思うて顔を見詰めた。するとこれが案外親切な巡査で戸籍簿のようなものを引っくり返して小首を傾けながら見ておったが後を見かえって内に昼ねしていた今一人のを呼び起した。交代の時間が来たからと云うて序(つい)でにこの人にも尋ねてくれたがこれも知らぬ。この巡査の少々横柄顔(おうへいがお)が癪にさわったれども前のが親切に対しまた恭しく礼を述べて左へ曲った。


何でも上根岸八十二番とか思うていたが家々の門札に気を付けて見て行くうち前田の邸と云うに行当ゆきあたったので漱石師に聞いた事を思い出して裏へ廻ると小さな小路で角に鶯横町と札が打ってある。これを這入って黒板塀と竹藪の狭い間を二十間ばかり行くと左側に正岡常規とかなり新しい門札がある。黒い冠木門かぶきもん)の両開き戸をあけるとすぐ玄関で案内を乞うと右脇にある台所で何かしていた老母らしきが出て来た。姓名を告げて漱石師より予かね)て紹介のあった筈である事など述べた。玄関にある下駄が皆女物で子規のらしいのが見えぬのが先ず胸にこたえた。外出と云う事は夢の外ないであろう。枕上まくらがみ)のしきを隔てて座を与えられた。初対面の挨拶もすんであたりを見廻した。四畳半と覚しき間の中央に床をのべて糸のように痩せ細った身体を横たえて時々咳が出ると枕上の白木の箱の蓋を取っては吐き込んでいる。蒼白くて頬の落ちた顔に力なけれど一片の烈火瞳底に燃えているように思われる。左側に机があって俳書らしいものが積んである。机に倚よ)る事さえ叶わぬのであろうか。右脇には句集など取散らして原稿紙に何か書きかけていた様子である。いちばん目に止るのは足の方の鴨居に笠と簑とを吊して笠には「西方十万億土順礼 西子」と書いてある。右側の障子の外が『ホトトギス』へ掲げた小園で奥行四間もあろうか萩の本もと)を束ねたのが数株心のままに茂っているが花はまだついておらぬ。まいかいは花が落ちてうてながまだ残ったままである。白粉花おしろいばな)ばかりは咲き残っていたが鶏頭は障子にかくれて丁度見えなかった。



 
熊本の近況から漱石師の噂になって昔話も出た。師は学生の頃は至って寡言(かげん)な温順な人で学校なども至って欠席が少なかったが子規は俳句分類に取りかかってから欠席ばかりしていたそうだ。



 
師と子規と親密になったのは知り合ってから四年もたって後であったが懇意になるとずいぶん子供らしく議論なんかして時々喧嘩などもする。そう云う風であるから自然細君といさかう事もあるそうだ。それを予(あらかじめ)知っておらぬと細君も驚く事があるかも知れぬが根が気安過ぎるからの事である故驚く事はない。いったい誰れに対してもあたりの良い人の不平の漏らし所は家庭だなど云う。
 
室(へや)の庭に向いた方の鴨居に水彩画が一葉隣室に油画が一枚掛っている。皆不折が書いたので水彩の方は富士の六合目で磊々(らいらい)たる赭土塊(あかつちくれ)を踏んで向うへ行く人物もある。油画は御茶の水の写生、あまり名画とは見えぬようである。不折ほど熱心な画家はない。もう今日の洋画家中唯一の浅井忠ちゅう)氏を除けばいずれも根性の卑劣な媢嫉ぼうしつ)の強い女のような奴ばかりで、浅井氏が今度洋行するとなると誰れもその後任を引受ける人がない。ないではないが浅井の洋行が厭であるから邪魔をしようとするのである。驚いたものだ。


 
 
不折の如きも近来評判がよいので彼等の妬みを買い既に今度仏国博覧会へ出品する積りの作も審査官の黒田等が仕様もあろうに零点をつけて不合格にしてしまったそうだ。こう云う風であるから真面目に熱心に斯道(しどう)の研究をしようと云う考えはなく少しく名が出れば肖像でも画いて黄白を貪むさぼ)ろうと云うさもしい奴ばかりで、中にたまたま不折のような熱心家はあるが貧乏であるから思うように研究が出来ぬ。そこらの車夫でもモデルに雇うとなると一日五十銭も取る。少し若い女などになるとどうしても一円は取られる。それでなかなか時間もかかるから研究と一口に云うても容易な事ではない。景色画でもそうだ。先頃上州へ写生に行って二十日ほど雨のふる日も休まずに画いて帰って来ると浅井氏がもう一週間行って直して来いと云われたからまた行って来てようよう出来上がったと云っていたそうだ。それでもとにかく熱心がひどいからあまり器用なたちでもなくまだ未熟ではあるが成効するだろうよ。


 
 
やはり『ホトトギス』の裏絵をかく為山(いざん)と云う男があるがこの男は不折とまるで反対な性で趣味も新奇な洋風のを好む。いったい手先は不折なんかとちがってよほど器用だがどうも不勉強であるから近来は少々不折に先を越されそうな。それがちと近来不平のようであるがそれかと云うてやはり不精だから仕方がない。あのくらいの天才を抱きながら終(つい)に不折の熱心に勝を譲るかも知れぬなど話しているうち上野からの汽車が隣の植込の向うをごんごんと通った。


 


 杉田久女は文章もよくしたといいます。2・3漁ってみましょう。


 


朱欒の花のさく頃              杉田久女


 私が生れた鹿児島の平(ヒラ)の馬場の屋敷というのは、明治十年鹿児島にわたって十七年間も住っていた父母が、自ら設計して建てた家なので、九年母(くねんぼ)や朱欒(ザボン)、枇杷、柿など色々植えてあったと母からよく聞かされていた。


 


 城山の見える其家で長兄をのぞく私達兄弟五人は皆生れたのであるが、無心の子供心には、あさ夕眺めた城山も、桜島の噴煙も、西郷どんも、朱欒の花のこぼれ敷く庭の記憶もなく只冠木門(かぶきもん)だけがうっすら頭にのこっている。


 年若な官員様であった父は、母と幼い長子とを神戸に残して一足先に鹿児島へ赴任すると間もなくあの西南戦争で命からがら燃えつつある鹿児島を脱出して、桜島に逃げ民家の床下にかくれて芋粥をもらったり、山中に避難している中官軍の勝になったので、県の書類丈を身にしょっていたのをもって碇泊中の軍艦に辿りつき漸く命びろいしたと云う。


 母達も其翌春かにはるばる鹿児島に上陸した時は、只まっ暗な焼野原で一軒の宿屋もなく漁師の家に一と晩とめて貰ったが言葉はわからず怖ろしかった相である。だが十七年もすみついてすべてに豊富な桃源の様なさつまで私の兄姉達は皆鹿児島風にそだてあげられた。私は長姉の死後三年目に生れたので父母が大変喜んで、旧藩主久光公の久の一字にちなみ長寿する様にと命名されたものだとか。三四歳迄しか住まない其家の事も只母からきくのみで四十年来一度も遊んだ事はないが、兄月蟾(げっせん)が十数年前、平の馬場の其家をたずねて見たところ今は教会に成っていて家も門もそっくり其儘残っていたのであまりの懐しさに兄は其庭には入って朱欒や柿の木の下に佇んで幹をさすったり仰いだり去りがたく覚えたという事を私に語ってきかせたことがあった。


 一体私の父は松本人。母はあの時じくの香ぐの木の実を常世の国から携え帰った田道間守の、但馬の国出石(いずし)の産なので、こじつけの様ではあるが、私が南国にうまれ、其後又琉球、台湾と次第に南へ南へ渡って絶えず朱欒や蜜柑の香気に刺激されつつ成長した事も面白くおもわれる。


 


 台北の官舎では芭蕉や仏桑花、蘭など沢山植えてあったが、私のまっ先に思い出すのは父が一番大切にしていた一株の仏手柑である。指をもつらした様な面白い形の仏手柑はもいで籠に盛られて父の紫檀の机の上や、彫刻した支那の大テーブルの上に青磁の花瓶などと共にかざられていた。


 


 仏手柑は香気が高くて雅致のあるものだった。


 台湾では文旦という形の尖ったうちむらさきや普通の丸いざぼんや、ぽんかん、すいかん(ネーブル)等を籠に入れて毎日の様土人が売りにきた。


 ぽんかんの出盛りの頃になると百も二百も買って石油鑵に入れておいては食べ放題たべた。お芋だのお菓子の嫌いだった私は、非常に果物ずきで、蜜柑畠には入って、枝のぽんかんをもいでは食べ食べした事や、唐黍をかじり、香りの高い鳳梨をむいたり、びろど(ママ)の様な朱欒の皮をむきすてて平らげたり、八九段もついているバナナの房を軒に吊しておく楽しみなど、すべて香気のつよいしたたる様な熱帯地方の果物のうまさを思い出すと今でもよだれが出る様で、実際よくもあんなにたべられたものと思うくらい。お正月など、お雑煮も御飯もたべず私は顔の色がきいろくなるほど蜜柑ばかりよくたべたものである。又朱欒や仏手柑を思い出すと、私達の帯や布団や袴にまでザザクサによく使用された支那ドンスの緋や空色、樺桃色などの幅広い反物が色どりよくつみ上げられていた土人の呉服店の事や、まつりかの花をほしまぜたウーロン茶のむしろや、小さい刺繍靴などを断片的に思い起すのである。


 其頃母からおちごという牛若丸のような髷にいつも結ってもらって友禅の被布をきておとぎ文庫の因幡の白兎や、松山鏡を読みふけり乍ら盆の蜜柑をしきりに飽食する少女だった私は、南国というものによほど縁があると見え、嫁して二十五年余り、小倉の町にすみ馴れて年毎に柑橘の花をめでるのである。


 静かな屋敷町の塀の上から、或は富野辺の大きなわら屋根の門口から、まっ白い膚橘の花が匂ってきたり、まっ白に散りしいたりしているのは中々感じのいいものである。朱欒の花は夏橙や柚の花よりずっと大きくて花数もすくないが、膚橘の方はもみつけた様に花を咲きこぼす。もといた堺町の家の簷(のき)にも一本夏みかんの木があって年々花をつけては塀外へこぼれるのを毎朝起きて掃くのがたのしみで二、三句出来た事がある。


 


塀外の膚橘かげを掃きうつり


     「膚」は「盧」の明らかな誤植であって,正しくは「盧橘(ろきつ)の花」です。この盧橘はナツミカンあるいはキンカンの別名ですが,久女のこの文章では「夏みかん」としています。


 


 私の見た中で朱欒の巨樹は福岡の公会堂の庭にあるのがまず日本一と勝手にいってもいいだろう。八方から支え木で支えた老樹の枝は何百という朱欒をるいるいと地に低くたれていた。


 先年大阪でひらかれた関西俳句大会の翌日、飛鳥川をわたり、橘寺へ行った時鐘楼の簷にかけてあった美しい橘の実の幾聯も、橘のかげをふみつつ往来し、或は時じくの香ぐの実の枝をかざして歌った万葉人と共になつかしいものの一つであった。今南国の小倉辺では深緑の葉かげにまっ青な橙がかっちり実のり垂れ、街の人々はふぐやちぬが手に入る度びに、庭のだいだいをちぎって来ては湯豆腐々々としきりにこのき酢の味をよろこぶ時候となってきた。


 つい四、五日前も門司の桟橋通りの果物店の前に佇んで富有柿や林檎やバナナに交って青みかんや台湾じゃぼんが並べられているのを見ると、私の生れたあの鹿児島の家の朱欒ももうゆたかに実り垂れているのであろうと思い出されるのであった。


(大正九年十月三十一日)


 


ウェブニュースより


ベテラン勢、こだわった結果=日本、余力残し16強へ-サッカーW杯 ―― 大事な試合で落ち着きを与えた。フル出場のGK川島、長友に加え、岡崎、長谷部のベテラン4人が中田英寿に並ぶ日本人最多のW杯通算10試合出場をマーク。2大会ぶりの16強進出となり、川島は「一人ひとりの力を一つにできた」と相好を崩した。
 
起伏の少ない展開の中、川島は前半32分に右手1本で好セーブ。長友の豊富な上下動は攻守の活力となる。ところが後半14分にFKから先制点を献上。またもやセットプレーからの失点だった。
 
このままなら敗退という憂き目。ところが他会場が動き、西野監督は0-1のスコアを維持する決断をした。後半37分に送り出された主将の長谷部は「自分が投入される意味を理解しないといけなかった。それを中の選手たちに伝えた」。パスを回して時間を稼ぐ姿にブーイングを浴びようと結果にこだわり抜いた。



 初戦と第2戦で同じだった先発メンバーを6人も入れ替えた。2010年南アフリカ大会は1次リーグの3試合で死力を尽くし、16強では余力が残っていなかった。長友は「休めた選手もいる。次にいい状態で全てをぶつけたい」と言う。
 
日本の初出場から20年がたち、通算20試合という区切り。初めての8強へ向け、長友は「夢はつながっている。歴史に名を刻めるように頑張りたい」。賛否はあるが、価値もある黒星だった。(ボルゴグラード時事)(2018/06/29-08:49


 


 


昔々、「ハハ」は「パパ」でした。冗談でなく本当の話です。
 
ここで一つ、室町時代のなぞなぞ をご紹介しましょう。なぞなぞ好きの後奈良天皇が編集した本『後奈良院御撰何曽』(1516年)に収められているもので、 「母には二度逢ひたれど、父には一度も逢はず。何ぞ。唇と解く」というものです。当時の人々には簡単ななぞなぞだったのでしょうが、後世の人にはチンプンカンプン。
 
答を導き出すヒントをみつけられず、いろいろな珍解答があった そうです。長年に渡るこの謎を解いたのは、広辞苑の編集者として有名な新村出先生だそうです。カギは発音の仕方でした。



 つまり、「母」を現代風に/haha/(ハハ)と発音すると唇は合いませんが、両唇音で/ФaФa/(ファファ)と発音すれば二度唇が合います。チチは唇を合わせず発音されます。 実は、奈良時代以前の古代日本語では、[h]音は[p]音で発音されていたのが定説です。その[p]音は平安時代に[Ф] 音に、江戸時代には[h]音に変わっています。「母」で言えば、パパファファハハと発音が変わったということです。父をパパとも言う現代の私たちは「母がパパだった」なんて聞くと、一瞬混乱してしまうのですが。これは音韻 の話でした。 パパからハハへの変化はなぜ起こったのかを考えてみましょう。[p]は両唇破裂音で、発音時に唇の緊張を伴う音です。その緊張が徐々にゆるむと両唇の隙間から音を出す[Ф]音に、さらにゆるむと、もう唇も使わない[h]音になるのです。こうした変化は唇音退化といわれ、要するに発音は楽な方へ楽な方へと変わってきたということです。



 coffee がコーヒー、earphoneがイヤホン、filletがヒレなど、[f]音が[h]音で発音され、表記されるのも、これらの単語がいつ 取り入れられたかがわかる資料の一つと考えると、興味深いものがあります。 さて、英語をはじめ多くの外来語を取り込んでいる今の日本語。私たちはファ・フィ・フェ・フォの[f]音その他[v]音など も発音し表記するようになりました。これは、もしかして先祖返りなのでしょうか?


 


昨日は、午前11時からBS1チャンネルでエンジェルス対レッドソックスの試合を見ました。残念ながら大谷翔平はいきなり先頭打者にホームランを打たれ、立ち直る間もなく2回表にも連打を浴びて降板となりました。

ウェブニュースより
 
大谷「右手にできたマメの影響」2回3失点で降板 ―― <エンゼルス-レッドソックス>◇17日(日本時間18日)◇エンゼルスタジアム
 
エンゼルスは大谷翔平投手(23)について、2イニング目の投球中に右手にできたマメの影響で降板したと発表した。
 
メジャー3試合目の登板で最短となる2回66球、4安打3失点で降板。3勝目はならなかった。

 
1回無死、ベッツに先頭打者本塁打を浴び、先制点を許した。2回には2四球と2安打で2失点。立ち上がりから苦しんだ。1回は28球を要し、2回も38球と球数がかさんだ。これまで2度の先発登板に比べ、スライダーが抜け気味で、フォークもワンバウンドになる、たたきつけるようなボールが多くみられ、制球が定まらなかった。   [日刊スポーツ 20184181331]

チーム      1   2   3   4   5   6   7   8   9     計
Rソックス    1   2   5   1   0   0   0   1   0    10
エンゼルス                        

 
福田財務次官を更迭=セクハラ疑惑で職責果たせず-テレ朝社員が被害、政権に打撃 ―― 週刊新潮で女性記者へのセクハラ疑惑が報じられた財務省の福田淳一事務次官は18日、「職責を果たすのが困難だ」として、麻生太郎財務相に辞職を申し出た。財務相はこれを認めた。事実上の更迭人事となる。これに関し、テレビ朝日は19日未明に記者会見し、同社女性社員がセクハラ被害を受け、週刊新潮に録音を提供したことを明らかにした。

 
学校法人「森友学園」への国有地売却に関する財務省決裁文書の改ざんもあり、麻生財務相の責任を問う声が高まるのは必至だ。野党は学校法人「加計学園」の獣医学部新設をめぐる疑惑などでも追及を強める構え。支持率が低下傾向の安倍内閣にとって、財務次官辞任は大きな打撃で今後、厳しい政権運営を迫られそうだ。
 
12日発売の週刊新潮は、福田氏が複数の女性記者に会食などの場でセクハラ発言を繰り返したと報道。その後、福田氏とされる音声をインターネットで公開した。これに対し、財務省は16日に福田氏がセクハラ発言を否定したとの調査結果を公表した。野党は次官更迭を要求。18日には与党の自民党と公明党の幹事長・国対委員長会談でも、事実上の更迭要求が出るなど福田氏の辞任は不可避となっていた。
 
セクハラ疑惑で中央省庁の事務方トップが辞任するのは異例だ。財務次官が任期途中で退任するのは、旧大蔵省時代の接待汚職事件の1998年以来、約20年ぶり。次官の職務は矢野康治官房長が代行する。福田次官の辞職は閣議で了解される見通しで、政府は後任の人選に着手した。
 
財務省内で記者会見した福田氏はセクハラ疑惑に関し、「報道が出たこと自体が不徳の致すところだ。関係者の皆さまにおわびを申し上げたい」と陳謝した。ただ、「週刊誌の記事は事実と異なる。裁判で争っていきたい」とも語った。
 
テレビ朝日は女性社員へのセクハラ被害があったと判断し、福田氏の行為とその後の対応について財務省に抗議する。   (JIJI COM. 2018/04/19-01:02


 


ウェブニュースより
 藤井五段、新人王戦の初戦勝利 持ちきれないチョコも ―― 将棋の中学生棋士として史上初の五段に昇段した藤井聡太(そうた)五段(15)が14日、大阪市福島区関西将棋会館での新人王戦(しんぶん赤旗主催)の初戦で、古森悠太(こもりゆうた)四段(22)に85手で勝った。

 対局は午前10時に始まり、午後4時29分に終局した。終局後、藤井五段は「一手一手、非常に難しい将棋だった。持ち駒の角と桂を生かして攻める展開になって、手応えを感じた」などと述べた。古森四段は「もっと、ゆっくりした展開にしようと思っていた。本局は想定外(の進行)で、自分らしさが、あまり出せなかった」と話した。
 藤井五段は9連勝。五段として負け知らずのまま、17日の第11回朝日杯将棋オープン戦(朝日新聞社主催)準決勝で羽生善治(はぶよしはる)竜王(47)に挑む。終局後、藤井五段は「朝日杯の準決勝で羽生竜王と対戦出来るのは素晴らしいこと。自分の力を出し切るよう、頑張りたい」と話した。
 この日はバレンタインデー。日本将棋連盟関西本部(大阪市)によると、藤井五段あてに「持ちきれないくらいのチョコレートが届いた」という。藤井五段は「今まではまったく縁が無いことでしたけれども……。応援していただけるのは、ありがたく思っています」と答えた。「チョコレートは好き?」という質問には、「そうですね。対局中にも持参していますので」と応じていた。

 日本将棋連盟によると、藤井五段の通算成績は6411敗、17年度の成績は65対局、5411敗となった。
 新人王戦は、26歳以下、六段以下などの条件を満たす若手棋士と、成績選抜の女流枠(ただし、26歳以下)4人、アマ棋戦「赤旗名人戦」優勝者、前期三段リーグ成績上位者が参加。トーナメントを戦い、決勝は三番勝負となる。   (朝日新聞DIGITAL 20182141811分)


https://www.youtube.com/watch?v=YH70Iuw9ACY


 


 


 小平が銀、高木美が銅=渡部暁、平野は2大会連続銀-平昌、メダルラッシュ ―― 【平昌時事】平昌五輪第6日は14日、各競技が行われ、日本勢が銀3、銅1のメダルを獲得した。今大会の合計では7(銀4、銅3)となった。


 スピードスケート女子1000メートルでは、世界記録保持者の小平奈緒(相沢病院)が2位、高木美帆(日体大助手)が3位に入り、日本勢2人が表彰台に上がった。高木美は1000メートルでは1500メートルで銀を獲得しており、冬季五輪の一つの大会で日本女子がメダルを複数獲得したのは全競技を通じて初めて。

 ノルディックスキー複合個人ノーマルヒルでは、ソチ五輪2位の渡部暁斗(北野建設)が2大会連続の銀。

 スノーボードの男子ハーフパイプ決勝でも、平野歩夢(木下グループ)が2大会続けて銀メダルを獲得した。

 アイスホッケー女子で準々決勝進出を逃した日本は、韓国と北朝鮮の南北合同チーム「コリア」を4-1で破り、五輪初勝利を挙げた。コリアは3連敗。


 カーリングは男女1次リーグが始まり、日本は女子が米国に10-5で快勝した。男子もノルウェーを6-4で破って白星スタート。


 フィギュアスケートはペアのショートプログラムが行われ、須崎海羽、木原龍一組(木下ク)は上位16組によるフリーには進めなかった。アルペンスキー女子回転は強風で中止された。   (jiji.com 2018/02/14-23:05


 


プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
87
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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