瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10]

根岸庵を訪う記(2)    寺田寅彦


隣の庭の折戸の上に烏が三羽下りてガーガーとなく。夕日が畳の半分ほど這入って来た。不折の一番得意で他に及ぶ者のないのは『日本』に連載するような意匠画でこれこそ他に類がない。配合の巧みな事材料の豊富なのには驚いてしまう。例えば犬百題など云う難題でも何処かから材料を引っぱり出して来て苦もなく拵(こしら)える。


いったい無学と云ってよい男であるからこれはきっと僕等がいろんな入智恵をするのだと思う人があるようだが中々そんな事ではない。僕等が夢にも知らぬような事が沢山あって一々説明を聞いてようやく合点が行くくらいである。どうも奇態な男だ。先達(せんだ)って『日本』新聞に掲げた古瓦の画などは最も得意でまた実際真似は出来ぬ。あの瓦の形を近頃秀真(ほずま)と云う美術学校の人が鋳物にして茶托(ちゃたく)にこしらえた。そいつが出来損なったのを僕が貰うてあるから見せようとて見せてくれた。十五枚の内ようよう五枚出来たそうで、それも穴だらけに出来て中に破れて繕(つく)ろったのもあるが、それが却って一段の趣味を増しているようだと云うたら子規も同意した。巧みに古色が付けてあるからどうしても数百年前のものとしか見えぬ。中に蝸牛(かたつむり)を這わして「角ふりわけよ」の句が刻してあるのなどはずいぶん面白い。絵とちがって鋳物だから蝸牛が大変よく利いているとか云うて不折もよほど気に入った様子だった。羽織を質入れしてもぜひ拵えさせると云うていたそうだと。


 


話し半ばへ老母が珈琲(コーヒー)を酌んで来る。子規には牛乳を持って来た。汽車がまた通って蛁蟟(つくつくほうし)の声を打消していった。初対面からちと厚顔(あつかま)しいようではあったが自分は生来絵が好きで予(かね)てよい不折の絵が別けても好きであったから序(つい)でがあったら何でもよいから一枚呉くれまいかと頼んで下さいと云ったら快く引受けてくれたのは嬉しかった。子規も小さい時分から絵画は非常に好きだが自分は一向かけないのが残念でたまらぬと喞(かこっ)ていた。


夕日はますます傾いた。隣の屋敷で琴が聞える。音楽は好きかと聞くと勿論きらいではないが悲しいかな音楽の事は少しも知らぬ。どうか調べてみたいと思うけれどもこれからでは到底駄目であろう。尤もこの頃人の話で大凡こんなものかくらいは解ったようだが元来西洋の音楽などは遠くの昔バイオリンを聞いたばかりでピアノなんか一度も聞いた事はないからなおさら駄目だ。どうかしてあんなものが聞けるようにも一度なりたいと思うけれどもそれも駄目だと云うて暫く黙した。自分は何と云うてよいか判らなかった。黯然(あんぜん)として吾黙した。


また汽車が来た。色々議論もあるようであるが日本の音楽も今のままでは到底見込みこみがないそうだ。国が箱庭的であるからか音楽まで箱庭的である。一度音楽学校の音楽室で琴の弾奏を聞いたが遠くで琴が聞えるくらいの事で物にならぬ。やはり天井の低い狭い室でなければ引合わぬと見える。それに調子が単純で弾ずる人に熱情がないからなおさらいかん。自分は素人考えで何でも楽器は指の先で弾くものだから女に適したものとばかり思うていたが中々そんな浅いものではない。日本人が西洋の楽器を取ってならす事はならすが音楽にならぬと云うのはつまり弾手の情が単調で狂すると云う事がないからで、西洋の名手とまで行かぬ人でも楽(がく)の大切な面白い所へくると一切夢中になってしまうそうだ。こればかりは日本人の真似の出来ぬ事で致し方がない。ことに婦人は駄目だ、冷淡で熱情がないから。露伴の妹などは一時評判であったがやはり駄目だと云う事だ。


空が曇ったのか日が上野の山へかくれたか畳の夕日が消えてしまいつくつくほうしの声が沈んだようになった。烏はいつの間にか飛んで行っていた。また出ますと云うたら宿は何処かと聞いたから一両日中に谷中の禅寺へ籠る事を話して暇(いとま)を告げて門へ出た。隣の琴の音が急になって胸をかき乱さるるような気がする。不知不識(しらずしら)ず其方へと路次を這入ると道はいよいよ狭くなって井戸が道をさえぎっている。その傍で若い女が米を磨(と)いでいる。流しの板のすべりそうなのを踏んで向側へ越すと柵があってその上は鉄道線路、その向うは山の裾である。其処を右へ曲るとようよう広い街に出たから浅草の方へと足を運んだ。琴の音はやはりついて来る。道がまた狭くなってもとの前田邸の裏へ出た。ここから元来た道を交番所の前まであるいてここから曲らずに真直ぐに行くとまた踏切を越えねばならぬ。琴の音はもうついて来ぬ。森の中でつくつくほうしがゆるやかに鳴いて、日陰だから人が蝙蝠傘を阿弥陀にさしてゆるゆるあるく。山の上には人が沢山停車場から凌雲閣の方を眺めている。


 


左側の柵の中で子供が四、五人石炭車に乗ったり押したりしている。機関車がすさまじい音をして小家の向うを出て来た。浅草へ行く積りであったがせっかく根岸で味おうた清閑の情を軽業の太鼓御賽銭の音に汚すが厭になったから山下まで来ると急いで鉄道馬車に飛乗って京橋まで窮屈な目にあって、向うに坐った金縁眼鏡隣に坐った禿頭の行商と欠伸の掛け合いで帰って来たら大通りの時計台が六時を打った。   (明治三十二年九月)


 


根岸庵を訪う記(1)      寺田寅彦



 
九月五日動物園の大蛇を見に行くとて京橋の寓居を出て通り合わせの鉄道馬車に乗り上野へ着いたのが二時頃。今日は曇天で暑さも薄く道も悪くないのでなかなか公園も賑おうている。



 
西郷の銅像の後ろから黒門の前へぬけて動物園の方へ曲ると外国の水兵が人力と何か八釜(やかま)しく云って直(ね)ぶみをしていたが話が纏まらなかったと見えて間もなく商品陳列所の方へ行ってしまった。マニラの帰休兵とかで茶色の制服に中折帽を冠ったのがここばかりでない途中でも沢山見受けた。動物園は休みと見えて門が締まっているようであったから博物館の方へそれて杉林の中へ這入はいった。鞦韆(ぶらんこ)に四、五人子供が集まって騒いでいる。ふり返って見ると動物園の門に田舎者らしい老人と小僧と見えるのが立って掛札を見ている。其処へ美術学校の方から車が二台幌をかけたのが出て来たがこれもそこへ止って何か云うている様子であったがやがてまた勧工場(かんこうば)の方へ引いて行った。自分も陳列所前の砂道を横切って向いの杉林に這入るとパノラマ館の前でやっている楽隊が面白そうに聞えたからつい其方へ足が向いたが丁度その前まで行くと一切り済んだのであろうぴたりと止めてしまって楽手は煙草などふかしてじろじろ見物の顔を見ている。



 
後ろへ廻って見ると小さな杉が十本くらいある下に石の観音がころがっている。何々大姉(だいし)と刻してある。真逆かに墓表とは見えずまた墓地でもないのを見るとなんでもこれは其処で情夫に殺された女か何かの供養に立てたのではあるまいかなど凄涼な感に打たれて其処を去り、館の裏手へ廻ると坂の上に三十くらいの女と十歳くらいの女の子とが枯枝を拾うていたからこれに上根岸での道を聞いたら丁寧に教えてくれた。不折の油画にありそうな女だなど考えながら博物館の横手大猷院尊前(だいゆういんそんぜん)と刻した石燈籠の並んだ処を通って行くと下り坂になった。道端に乞食が一人しゃがんで頻りに叩頭(ぬかず)いていたが誰れも慈善家でないと見えて鐚一文(びたいちもん)も奉捨にならなかったのは気の毒であった。これが柴とりの云うた新坂なるべし。



 蟟(つくつくほうし
)が八釜しいまで鳴いているが車の音の聞えぬのは有難いと思うていると上野から出て来た列車が煤煙を吐いて通って行った。三番と掛札した踏切を越えると桜木町で辻に交番所がある。帽子を取って恭しく子規の家を尋ねたが知らぬとの答故(ゆえ)少々意外に思うて顔を見詰めた。するとこれが案外親切な巡査で戸籍簿のようなものを引っくり返して小首を傾けながら見ておったが後を見かえって内に昼ねしていた今一人のを呼び起した。交代の時間が来たからと云うて序(つい)でにこの人にも尋ねてくれたがこれも知らぬ。この巡査の少々横柄顔(おうへいがお)が癪にさわったれども前のが親切に対しまた恭しく礼を述べて左へ曲った。


何でも上根岸八十二番とか思うていたが家々の門札に気を付けて見て行くうち前田の邸と云うに行当ゆきあたったので漱石師に聞いた事を思い出して裏へ廻ると小さな小路で角に鶯横町と札が打ってある。これを這入って黒板塀と竹藪の狭い間を二十間ばかり行くと左側に正岡常規とかなり新しい門札がある。黒い冠木門かぶきもん)の両開き戸をあけるとすぐ玄関で案内を乞うと右脇にある台所で何かしていた老母らしきが出て来た。姓名を告げて漱石師より予かね)て紹介のあった筈である事など述べた。玄関にある下駄が皆女物で子規のらしいのが見えぬのが先ず胸にこたえた。外出と云う事は夢の外ないであろう。枕上まくらがみ)のしきを隔てて座を与えられた。初対面の挨拶もすんであたりを見廻した。四畳半と覚しき間の中央に床をのべて糸のように痩せ細った身体を横たえて時々咳が出ると枕上の白木の箱の蓋を取っては吐き込んでいる。蒼白くて頬の落ちた顔に力なけれど一片の烈火瞳底に燃えているように思われる。左側に机があって俳書らしいものが積んである。机に倚よ)る事さえ叶わぬのであろうか。右脇には句集など取散らして原稿紙に何か書きかけていた様子である。いちばん目に止るのは足の方の鴨居に笠と簑とを吊して笠には「西方十万億土順礼 西子」と書いてある。右側の障子の外が『ホトトギス』へ掲げた小園で奥行四間もあろうか萩の本もと)を束ねたのが数株心のままに茂っているが花はまだついておらぬ。まいかいは花が落ちてうてながまだ残ったままである。白粉花おしろいばな)ばかりは咲き残っていたが鶏頭は障子にかくれて丁度見えなかった。



 
熊本の近況から漱石師の噂になって昔話も出た。師は学生の頃は至って寡言(かげん)な温順な人で学校なども至って欠席が少なかったが子規は俳句分類に取りかかってから欠席ばかりしていたそうだ。



 
師と子規と親密になったのは知り合ってから四年もたって後であったが懇意になるとずいぶん子供らしく議論なんかして時々喧嘩などもする。そう云う風であるから自然細君といさかう事もあるそうだ。それを予(あらかじめ)知っておらぬと細君も驚く事があるかも知れぬが根が気安過ぎるからの事である故驚く事はない。いったい誰れに対してもあたりの良い人の不平の漏らし所は家庭だなど云う。
 
室(へや)の庭に向いた方の鴨居に水彩画が一葉隣室に油画が一枚掛っている。皆不折が書いたので水彩の方は富士の六合目で磊々(らいらい)たる赭土塊(あかつちくれ)を踏んで向うへ行く人物もある。油画は御茶の水の写生、あまり名画とは見えぬようである。不折ほど熱心な画家はない。もう今日の洋画家中唯一の浅井忠ちゅう)氏を除けばいずれも根性の卑劣な媢嫉ぼうしつ)の強い女のような奴ばかりで、浅井氏が今度洋行するとなると誰れもその後任を引受ける人がない。ないではないが浅井の洋行が厭であるから邪魔をしようとするのである。驚いたものだ。


 
 
不折の如きも近来評判がよいので彼等の妬みを買い既に今度仏国博覧会へ出品する積りの作も審査官の黒田等が仕様もあろうに零点をつけて不合格にしてしまったそうだ。こう云う風であるから真面目に熱心に斯道(しどう)の研究をしようと云う考えはなく少しく名が出れば肖像でも画いて黄白を貪むさぼ)ろうと云うさもしい奴ばかりで、中にたまたま不折のような熱心家はあるが貧乏であるから思うように研究が出来ぬ。そこらの車夫でもモデルに雇うとなると一日五十銭も取る。少し若い女などになるとどうしても一円は取られる。それでなかなか時間もかかるから研究と一口に云うても容易な事ではない。景色画でもそうだ。先頃上州へ写生に行って二十日ほど雨のふる日も休まずに画いて帰って来ると浅井氏がもう一週間行って直して来いと云われたからまた行って来てようよう出来上がったと云っていたそうだ。それでもとにかく熱心がひどいからあまり器用なたちでもなくまだ未熟ではあるが成効するだろうよ。


 
 
やはり『ホトトギス』の裏絵をかく為山(いざん)と云う男があるがこの男は不折とまるで反対な性で趣味も新奇な洋風のを好む。いったい手先は不折なんかとちがってよほど器用だがどうも不勉強であるから近来は少々不折に先を越されそうな。それがちと近来不平のようであるがそれかと云うてやはり不精だから仕方がない。あのくらいの天才を抱きながら終(つい)に不折の熱心に勝を譲るかも知れぬなど話しているうち上野からの汽車が隣の植込の向うをごんごんと通った。


 


 杉田久女は文章もよくしたといいます。2・3漁ってみましょう。


 


朱欒の花のさく頃              杉田久女


 私が生れた鹿児島の平(ヒラ)の馬場の屋敷というのは、明治十年鹿児島にわたって十七年間も住っていた父母が、自ら設計して建てた家なので、九年母(くねんぼ)や朱欒(ザボン)、枇杷、柿など色々植えてあったと母からよく聞かされていた。


 


 城山の見える其家で長兄をのぞく私達兄弟五人は皆生れたのであるが、無心の子供心には、あさ夕眺めた城山も、桜島の噴煙も、西郷どんも、朱欒の花のこぼれ敷く庭の記憶もなく只冠木門(かぶきもん)だけがうっすら頭にのこっている。


 年若な官員様であった父は、母と幼い長子とを神戸に残して一足先に鹿児島へ赴任すると間もなくあの西南戦争で命からがら燃えつつある鹿児島を脱出して、桜島に逃げ民家の床下にかくれて芋粥をもらったり、山中に避難している中官軍の勝になったので、県の書類丈を身にしょっていたのをもって碇泊中の軍艦に辿りつき漸く命びろいしたと云う。


 母達も其翌春かにはるばる鹿児島に上陸した時は、只まっ暗な焼野原で一軒の宿屋もなく漁師の家に一と晩とめて貰ったが言葉はわからず怖ろしかった相である。だが十七年もすみついてすべてに豊富な桃源の様なさつまで私の兄姉達は皆鹿児島風にそだてあげられた。私は長姉の死後三年目に生れたので父母が大変喜んで、旧藩主久光公の久の一字にちなみ長寿する様にと命名されたものだとか。三四歳迄しか住まない其家の事も只母からきくのみで四十年来一度も遊んだ事はないが、兄月蟾(げっせん)が十数年前、平の馬場の其家をたずねて見たところ今は教会に成っていて家も門もそっくり其儘残っていたのであまりの懐しさに兄は其庭には入って朱欒や柿の木の下に佇んで幹をさすったり仰いだり去りがたく覚えたという事を私に語ってきかせたことがあった。


 一体私の父は松本人。母はあの時じくの香ぐの木の実を常世の国から携え帰った田道間守の、但馬の国出石(いずし)の産なので、こじつけの様ではあるが、私が南国にうまれ、其後又琉球、台湾と次第に南へ南へ渡って絶えず朱欒や蜜柑の香気に刺激されつつ成長した事も面白くおもわれる。


 


 台北の官舎では芭蕉や仏桑花、蘭など沢山植えてあったが、私のまっ先に思い出すのは父が一番大切にしていた一株の仏手柑である。指をもつらした様な面白い形の仏手柑はもいで籠に盛られて父の紫檀の机の上や、彫刻した支那の大テーブルの上に青磁の花瓶などと共にかざられていた。


 


 仏手柑は香気が高くて雅致のあるものだった。


 台湾では文旦という形の尖ったうちむらさきや普通の丸いざぼんや、ぽんかん、すいかん(ネーブル)等を籠に入れて毎日の様土人が売りにきた。


 ぽんかんの出盛りの頃になると百も二百も買って石油鑵に入れておいては食べ放題たべた。お芋だのお菓子の嫌いだった私は、非常に果物ずきで、蜜柑畠には入って、枝のぽんかんをもいでは食べ食べした事や、唐黍をかじり、香りの高い鳳梨をむいたり、びろど(ママ)の様な朱欒の皮をむきすてて平らげたり、八九段もついているバナナの房を軒に吊しておく楽しみなど、すべて香気のつよいしたたる様な熱帯地方の果物のうまさを思い出すと今でもよだれが出る様で、実際よくもあんなにたべられたものと思うくらい。お正月など、お雑煮も御飯もたべず私は顔の色がきいろくなるほど蜜柑ばかりよくたべたものである。又朱欒や仏手柑を思い出すと、私達の帯や布団や袴にまでザザクサによく使用された支那ドンスの緋や空色、樺桃色などの幅広い反物が色どりよくつみ上げられていた土人の呉服店の事や、まつりかの花をほしまぜたウーロン茶のむしろや、小さい刺繍靴などを断片的に思い起すのである。


 其頃母からおちごという牛若丸のような髷にいつも結ってもらって友禅の被布をきておとぎ文庫の因幡の白兎や、松山鏡を読みふけり乍ら盆の蜜柑をしきりに飽食する少女だった私は、南国というものによほど縁があると見え、嫁して二十五年余り、小倉の町にすみ馴れて年毎に柑橘の花をめでるのである。


 静かな屋敷町の塀の上から、或は富野辺の大きなわら屋根の門口から、まっ白い膚橘の花が匂ってきたり、まっ白に散りしいたりしているのは中々感じのいいものである。朱欒の花は夏橙や柚の花よりずっと大きくて花数もすくないが、膚橘の方はもみつけた様に花を咲きこぼす。もといた堺町の家の簷(のき)にも一本夏みかんの木があって年々花をつけては塀外へこぼれるのを毎朝起きて掃くのがたのしみで二、三句出来た事がある。


 


塀外の膚橘かげを掃きうつり


     「膚」は「盧」の明らかな誤植であって,正しくは「盧橘(ろきつ)の花」です。この盧橘はナツミカンあるいはキンカンの別名ですが,久女のこの文章では「夏みかん」としています。


 


 私の見た中で朱欒の巨樹は福岡の公会堂の庭にあるのがまず日本一と勝手にいってもいいだろう。八方から支え木で支えた老樹の枝は何百という朱欒をるいるいと地に低くたれていた。


 先年大阪でひらかれた関西俳句大会の翌日、飛鳥川をわたり、橘寺へ行った時鐘楼の簷にかけてあった美しい橘の実の幾聯も、橘のかげをふみつつ往来し、或は時じくの香ぐの実の枝をかざして歌った万葉人と共になつかしいものの一つであった。今南国の小倉辺では深緑の葉かげにまっ青な橙がかっちり実のり垂れ、街の人々はふぐやちぬが手に入る度びに、庭のだいだいをちぎって来ては湯豆腐々々としきりにこのき酢の味をよろこぶ時候となってきた。


 つい四、五日前も門司の桟橋通りの果物店の前に佇んで富有柿や林檎やバナナに交って青みかんや台湾じゃぼんが並べられているのを見ると、私の生れたあの鹿児島の家の朱欒ももうゆたかに実り垂れているのであろうと思い出されるのであった。


(大正九年十月三十一日)


 


ウェブニュースより


ベテラン勢、こだわった結果=日本、余力残し16強へ-サッカーW杯 ―― 大事な試合で落ち着きを与えた。フル出場のGK川島、長友に加え、岡崎、長谷部のベテラン4人が中田英寿に並ぶ日本人最多のW杯通算10試合出場をマーク。2大会ぶりの16強進出となり、川島は「一人ひとりの力を一つにできた」と相好を崩した。
 
起伏の少ない展開の中、川島は前半32分に右手1本で好セーブ。長友の豊富な上下動は攻守の活力となる。ところが後半14分にFKから先制点を献上。またもやセットプレーからの失点だった。
 
このままなら敗退という憂き目。ところが他会場が動き、西野監督は0-1のスコアを維持する決断をした。後半37分に送り出された主将の長谷部は「自分が投入される意味を理解しないといけなかった。それを中の選手たちに伝えた」。パスを回して時間を稼ぐ姿にブーイングを浴びようと結果にこだわり抜いた。



 初戦と第2戦で同じだった先発メンバーを6人も入れ替えた。2010年南アフリカ大会は1次リーグの3試合で死力を尽くし、16強では余力が残っていなかった。長友は「休めた選手もいる。次にいい状態で全てをぶつけたい」と言う。
 
日本の初出場から20年がたち、通算20試合という区切り。初めての8強へ向け、長友は「夢はつながっている。歴史に名を刻めるように頑張りたい」。賛否はあるが、価値もある黒星だった。(ボルゴグラード時事)(2018/06/29-08:49


 


 


昔々、「ハハ」は「パパ」でした。冗談でなく本当の話です。
 
ここで一つ、室町時代のなぞなぞ をご紹介しましょう。なぞなぞ好きの後奈良天皇が編集した本『後奈良院御撰何曽』(1516年)に収められているもので、 「母には二度逢ひたれど、父には一度も逢はず。何ぞ。唇と解く」というものです。当時の人々には簡単ななぞなぞだったのでしょうが、後世の人にはチンプンカンプン。
 
答を導き出すヒントをみつけられず、いろいろな珍解答があった そうです。長年に渡るこの謎を解いたのは、広辞苑の編集者として有名な新村出先生だそうです。カギは発音の仕方でした。



 つまり、「母」を現代風に/haha/(ハハ)と発音すると唇は合いませんが、両唇音で/ФaФa/(ファファ)と発音すれば二度唇が合います。チチは唇を合わせず発音されます。 実は、奈良時代以前の古代日本語では、[h]音は[p]音で発音されていたのが定説です。その[p]音は平安時代に[Ф] 音に、江戸時代には[h]音に変わっています。「母」で言えば、パパファファハハと発音が変わったということです。父をパパとも言う現代の私たちは「母がパパだった」なんて聞くと、一瞬混乱してしまうのですが。これは音韻 の話でした。 パパからハハへの変化はなぜ起こったのかを考えてみましょう。[p]は両唇破裂音で、発音時に唇の緊張を伴う音です。その緊張が徐々にゆるむと両唇の隙間から音を出す[Ф]音に、さらにゆるむと、もう唇も使わない[h]音になるのです。こうした変化は唇音退化といわれ、要するに発音は楽な方へ楽な方へと変わってきたということです。



 coffee がコーヒー、earphoneがイヤホン、filletがヒレなど、[f]音が[h]音で発音され、表記されるのも、これらの単語がいつ 取り入れられたかがわかる資料の一つと考えると、興味深いものがあります。 さて、英語をはじめ多くの外来語を取り込んでいる今の日本語。私たちはファ・フィ・フェ・フォの[f]音その他[v]音など も発音し表記するようになりました。これは、もしかして先祖返りなのでしょうか?


 


昨日は、午前11時からBS1チャンネルでエンジェルス対レッドソックスの試合を見ました。残念ながら大谷翔平はいきなり先頭打者にホームランを打たれ、立ち直る間もなく2回表にも連打を浴びて降板となりました。

ウェブニュースより
 
大谷「右手にできたマメの影響」2回3失点で降板 ―― <エンゼルス-レッドソックス>◇17日(日本時間18日)◇エンゼルスタジアム
 
エンゼルスは大谷翔平投手(23)について、2イニング目の投球中に右手にできたマメの影響で降板したと発表した。
 
メジャー3試合目の登板で最短となる2回66球、4安打3失点で降板。3勝目はならなかった。

 
1回無死、ベッツに先頭打者本塁打を浴び、先制点を許した。2回には2四球と2安打で2失点。立ち上がりから苦しんだ。1回は28球を要し、2回も38球と球数がかさんだ。これまで2度の先発登板に比べ、スライダーが抜け気味で、フォークもワンバウンドになる、たたきつけるようなボールが多くみられ、制球が定まらなかった。   [日刊スポーツ 20184181331]

チーム      1   2   3   4   5   6   7   8   9     計
Rソックス    1   2   5   1   0   0   0   1   0    10
エンゼルス                        

 
福田財務次官を更迭=セクハラ疑惑で職責果たせず-テレ朝社員が被害、政権に打撃 ―― 週刊新潮で女性記者へのセクハラ疑惑が報じられた財務省の福田淳一事務次官は18日、「職責を果たすのが困難だ」として、麻生太郎財務相に辞職を申し出た。財務相はこれを認めた。事実上の更迭人事となる。これに関し、テレビ朝日は19日未明に記者会見し、同社女性社員がセクハラ被害を受け、週刊新潮に録音を提供したことを明らかにした。

 
学校法人「森友学園」への国有地売却に関する財務省決裁文書の改ざんもあり、麻生財務相の責任を問う声が高まるのは必至だ。野党は学校法人「加計学園」の獣医学部新設をめぐる疑惑などでも追及を強める構え。支持率が低下傾向の安倍内閣にとって、財務次官辞任は大きな打撃で今後、厳しい政権運営を迫られそうだ。
 
12日発売の週刊新潮は、福田氏が複数の女性記者に会食などの場でセクハラ発言を繰り返したと報道。その後、福田氏とされる音声をインターネットで公開した。これに対し、財務省は16日に福田氏がセクハラ発言を否定したとの調査結果を公表した。野党は次官更迭を要求。18日には与党の自民党と公明党の幹事長・国対委員長会談でも、事実上の更迭要求が出るなど福田氏の辞任は不可避となっていた。
 
セクハラ疑惑で中央省庁の事務方トップが辞任するのは異例だ。財務次官が任期途中で退任するのは、旧大蔵省時代の接待汚職事件の1998年以来、約20年ぶり。次官の職務は矢野康治官房長が代行する。福田次官の辞職は閣議で了解される見通しで、政府は後任の人選に着手した。
 
財務省内で記者会見した福田氏はセクハラ疑惑に関し、「報道が出たこと自体が不徳の致すところだ。関係者の皆さまにおわびを申し上げたい」と陳謝した。ただ、「週刊誌の記事は事実と異なる。裁判で争っていきたい」とも語った。
 
テレビ朝日は女性社員へのセクハラ被害があったと判断し、福田氏の行為とその後の対応について財務省に抗議する。   (JIJI COM. 2018/04/19-01:02


 


ウェブニュースより
 藤井五段、新人王戦の初戦勝利 持ちきれないチョコも ―― 将棋の中学生棋士として史上初の五段に昇段した藤井聡太(そうた)五段(15)が14日、大阪市福島区関西将棋会館での新人王戦(しんぶん赤旗主催)の初戦で、古森悠太(こもりゆうた)四段(22)に85手で勝った。

 対局は午前10時に始まり、午後4時29分に終局した。終局後、藤井五段は「一手一手、非常に難しい将棋だった。持ち駒の角と桂を生かして攻める展開になって、手応えを感じた」などと述べた。古森四段は「もっと、ゆっくりした展開にしようと思っていた。本局は想定外(の進行)で、自分らしさが、あまり出せなかった」と話した。
 藤井五段は9連勝。五段として負け知らずのまま、17日の第11回朝日杯将棋オープン戦(朝日新聞社主催)準決勝で羽生善治(はぶよしはる)竜王(47)に挑む。終局後、藤井五段は「朝日杯の準決勝で羽生竜王と対戦出来るのは素晴らしいこと。自分の力を出し切るよう、頑張りたい」と話した。
 この日はバレンタインデー。日本将棋連盟関西本部(大阪市)によると、藤井五段あてに「持ちきれないくらいのチョコレートが届いた」という。藤井五段は「今まではまったく縁が無いことでしたけれども……。応援していただけるのは、ありがたく思っています」と答えた。「チョコレートは好き?」という質問には、「そうですね。対局中にも持参していますので」と応じていた。

 日本将棋連盟によると、藤井五段の通算成績は6411敗、17年度の成績は65対局、5411敗となった。
 新人王戦は、26歳以下、六段以下などの条件を満たす若手棋士と、成績選抜の女流枠(ただし、26歳以下)4人、アマ棋戦「赤旗名人戦」優勝者、前期三段リーグ成績上位者が参加。トーナメントを戦い、決勝は三番勝負となる。   (朝日新聞DIGITAL 20182141811分)


https://www.youtube.com/watch?v=YH70Iuw9ACY


 


 


 小平が銀、高木美が銅=渡部暁、平野は2大会連続銀-平昌、メダルラッシュ ―― 【平昌時事】平昌五輪第6日は14日、各競技が行われ、日本勢が銀3、銅1のメダルを獲得した。今大会の合計では7(銀4、銅3)となった。


 スピードスケート女子1000メートルでは、世界記録保持者の小平奈緒(相沢病院)が2位、高木美帆(日体大助手)が3位に入り、日本勢2人が表彰台に上がった。高木美は1000メートルでは1500メートルで銀を獲得しており、冬季五輪の一つの大会で日本女子がメダルを複数獲得したのは全競技を通じて初めて。

 ノルディックスキー複合個人ノーマルヒルでは、ソチ五輪2位の渡部暁斗(北野建設)が2大会連続の銀。

 スノーボードの男子ハーフパイプ決勝でも、平野歩夢(木下グループ)が2大会続けて銀メダルを獲得した。

 アイスホッケー女子で準々決勝進出を逃した日本は、韓国と北朝鮮の南北合同チーム「コリア」を4-1で破り、五輪初勝利を挙げた。コリアは3連敗。


 カーリングは男女1次リーグが始まり、日本は女子が米国に10-5で快勝した。男子もノルウェーを6-4で破って白星スタート。


 フィギュアスケートはペアのショートプログラムが行われ、須崎海羽、木原龍一組(木下ク)は上位16組によるフリーには進めなかった。アルペンスキー女子回転は強風で中止された。   (jiji.com 2018/02/14-23:05


 


ウェブニュースより 大鵬孫・納谷幸之介が新弟子検査 体格で祖父上回る ―― 大相撲初場所(14日初日、東京・両国国技館)の新弟子検査が10日、両国国技館で行われた。元横綱大鵬の孫で、埼玉栄高3年の納谷幸之介(17=大嶽)ら9人が受検。全員が身長167センチ、体重67キロ以上の体格基準を満たした。内臓検査の結果を待ち、14日の初日に合格者が発表される。
 納谷は188センチ、166キロで身長、体重とも9人の中で最高値でパスした。71年夏場所途中で引退した時の大鵬は187センチ、153キロ。入門時で既に、偉大な祖父を体格で上回った。握力は右61キロ、左65キロで、背筋力は180キロ。示された数字で、パワーでも素材の良さを示した。

 
昨秋の愛媛国体は少年で個人、団体で優勝。同12月の全日本選手権の出場資格を得たため(大会は1勝2敗で予選敗退)、デビューを1場所遅らせ、この日の受検となった。
 昨年1219日に埼玉栄高で入門会見し、同26日には新弟子として自宅でもある、大嶽部屋に入門。早速、若い衆と同じ大部屋での生活をスタートさせ、新年は4日から稽古始め。既に幕下、三段目の力士との稽古も「多い時で3040番ぐらい」取っているという。力士として一つの節目の日を迎え「やっと力士になれたという感じで、うれしいです」と実感を口にした。今後も「大横綱の孫」として注目され続けるが「ありがたいこと。注目されるに見合った力を、ちょっとずつでもつけたい」とブレない姿勢も口にしていた。高校の先輩にあたる大関豪栄道(境川)の相撲を理想に、今は天国で眠る祖父の背中を追う。   [日刊スポーツ 20181101143]


藤井四段が竜王戦で18年初白星、勝ち進めば羽生戦 ―― 公式戦29連勝の新記録を樹立した将棋の最年少プロ、藤井聡太四段(15)が11日、大阪市の関西将棋会館で指された第31期竜王戦5組初戦で中田功七段(50)を80手で破り、18年初白星を挙げた。公式戦通算は56勝11敗。

 中盤から積極的に攻めた藤井は「難しい将棋でした。相手の玉との距離感が分からなかったので、勝ちと思ったのは最後の最後でした」と振り返った。今年初白星に「前回の王位戦は敗れてしまったので、これでスタートが切れました。今年もいい1年になるように頑張っていきたい」と笑顔を見せた。
 佐藤天彦名人の師匠としても知られる中田は昨年7月の順位戦C級2組の対局に続き、藤井に黒星を喫した。「新年初めの対局が藤井さんでラッキーだなと思い、モチベーションを上げてきた。非常に難しい将棋でした。完敗です」。
 竜王戦は現役全棋士と女流棋士2人、アマチュア4人が参加。1組から6組まで格付けしてトーナメントを実施。勝ち抜き人数は1組から順に優遇し、本戦トーナメントに出場できるのは1組上位5人、2組上位2人、3、4、5、6組各上位1人の計11人。本戦トーナメントを勝ち抜けば、国民栄誉賞受賞が正式に決まった羽生善治竜王(47)に挑むことになる。
 遠い道程となるが「(羽生竜王は)私が将棋を始めるずっと前から活躍してこられた。プロになった以上は大きな目標として、少しでも近づきたい」と意気込んだ。https://www.youtube.com/watch?v=NcsFJA62fhs
 
次戦は14日、朝日杯将棋オープン戦で澤田真吾六段(26)と対局する。「注目していただける舞台なので、全力を尽くしたい」。勝てば同日午後の準々決勝で佐藤天彦名人と永瀬拓矢七段の勝者と対戦することになる。藤井が優勝すれば、1955年に加藤一二三・九段が六・五・四段戦(現在は廃止)で記録した14日15歳10か月を超える史上最年少での一般棋戦優勝を果たすことになる。   [日刊スポーツ 2018年1月11日20時16分]

 ここで紹介する『八犬傳銘々誌畧』は二世為永春水の手に拠って編まれ、嘉永五年に刊行されたダイジェスト版八犬伝の一種です。嘉永から安政期にかけては、中本サイズの絵本物軍記や武将英雄一代記などが流行した時期で、本作も他の絵本物と同様に、挿絵や見返などに色摺りを施し、極めて美麗な本に仕立てられています。
 八犬伝のダイジェストとして特筆すべきは、編年式や巻順に記述されたものではなく、見開きに二名ほどの登場人物を描き、そこに彼等が関った事件を略述するという銘々伝として編まれた点にあります。
〔表紙〕

〔見返・序〕

〔口絵〕


 


 操作をどう間違えたのかスタート画面が消えてしまいました。どうやっても復元することが出来ず、何時ものようにMN氏に電話してパソコンを診てもらうことをお願いしました。
 早速今朝ほど駆けて付けてくれましたが、どうやら今まで打ち込んでいたワード記事やメールアドレスはみんな消えてしまっているようです。再度来訪して診て呉れる呉れるとのことですが、復元できるかどうかはわかりません。
 とにかく、ワードに変わる別の機能でブログを更新してみましたが、慣れないので、時間のかかること夥しです。

ウェブニュースより
 藤井四段、新人王戦4強入り逃す 佐々木四段に敗れる ――  将棋の中学生棋士、藤井聡太四段(15)が7日、東京都渋谷区将棋会館で指された第48期新人王戦(しんぶん赤旗主催)の準々決勝で、佐々木大地四段(22)に敗れ、ベスト4入りを逃した。通算成績は39勝6敗となった。

 新人王戦は26歳以下・六段以下の棋士、奨励会員、女流棋士らによって争われる新人の登竜門。藤井四段はこれまでも上州YAMADAチャレンジ杯、加古川青流戦と、若手棋士が参加する棋戦で準々決勝に進んだが、いずれも敗退した。対局後、藤井四段は「勝ち進めなかったのは残念ですけど、また実力をつけて挑戦したい」と話した。
 8月に棋王戦での敗退が決まり、中学生のうちにタイトルを取る可能性はなくなったが、全棋士参加の朝日杯将棋オープン戦やNHK杯テレビ将棋トーナメントなど、複数の一般棋戦で勝ち残っている。  (朝日新聞DIGITAL 2017年9月7日19時47分
https://www.youtube.com/watch?v=s-Y7nvBuwds

 大相撲名古屋場所も昨日で千秋楽。小兵力士の石浦・宇良ともに負け越したとはいえ7勝8敗で終わったのは大したものと思う。
ウェブニュースより
 白鵬、2場所連続39度目V 名古屋場所 ―― 大相撲名古屋場所千秋楽(23日・愛知県体育館)単独トップの白鵬が日馬富士との横綱対決を寄り倒しで制して14勝1敗とし、2場所連続39度目の優勝を成し遂げた。自身が持つ最多優勝記録をさらに更新し、40度の大台まで目前に迫った。日馬富士は11勝4敗。

 初優勝の可能性を残していた平幕碧山は小結嘉風をはたき込んで13勝2敗とし、2度目の敢闘賞。大関豪栄道は大関高安にはたき込まれて7勝8敗と負け越し、来場所は6度目のかど番となる。高安は新大関場所で9勝6敗。関脇玉鷲は負け越した。
 新関脇の御嶽海が2度目の殊勲賞を獲得した。十両は11勝4敗で並んだ優勝決定ともえ戦を大奄美が制した。秋場所は9月10日に東京・両国国技館で始まる。  (日本経済新聞 2017/7/23 19:07


●千代丸- 石浦○
 もろ手突きで押し込んだ千代丸だったが、石浦にいなされて背後に回り込まれてしまう。送り出しで石浦の勝ち。千代丸9勝6敗、石浦7勝8敗
https://www.youtube.com/watch?v=Ao-R7HGW9Vg
○宇良- 千代の国●
 頭を下げて低く出る宇良に対して、千代の国は手を出して中に入らせない。千代の国が前に出たところを冷静に見てはたき込む。宇良の勝ち。宇良78敗、千代の国87
https://www.youtube.com/watch?v=VYEZnr4TAAo


 


 藤井聡太四段の対局予定にある棋聖戦予選は第89期になります。棋聖戦は通常毎年6~7月に行われます。7月11日(火)にその前の第88期が羽生棋聖が斎藤慎太郎七段と対局し防衛、10連覇通算16期目のタイトル獲得をしました。
 棋聖戦は一次予選・二次予選トーナメント方式で行います。一次予選はシード以外の順位戦 C級1組以下の棋士と女流棋士二人によりトーナメント形式で行われます。イ~チまで組み分けされてお り各組の勝者8人が二次予選に進みます。持ち時間は1時間(チェスクロック)使用で1日に2局指す場合もあります。(勝ち上がった8人とシードの16人が2次で戦います)
 藤井聡太四段の7月24日棋聖戦予選の相手は?
 7月24日(月)にある第89期は棋聖戦予選の対局相手は西川慶二七段 対局場所は関西将棋会館

 今度の年の差は41歳! 加藤一二三九段との年の差63歳には及びませんがかなり離れています。
 2017年は今のところ3勝3敗となっています。第73期順位戦C級2組で1勝9敗に終わり降級点3となりフリークラスになりました。 正統派の居飛車党です。
 1次で勝ち上がり2次でシード棋士16人と戦いますが、強豪ぞろいなので大変だと思います。なんとか勝ち上がって羽生棋聖に挑戦してほしいところです


 


 塾友K.Sato氏の母上が亡くなられたとの訃報をM.Nagata氏より受けました。家族葬とのことで、あまり派手なことは避けたいとのこと、ごく近い有志12名で献花をするということでした。詳しい事はわかりませんが、いずれにしても私の年齢と近い世代の知人の死に唯々冥福を捧げるばかりです。
 昨夜、KS氏より電話を戴き、丁重な献花のお礼がありました。MN氏とごく少数の年齢の近い連中で葬儀に参加したらしく、今朝MN氏より写真付きのメールが入りました。曰く、
4月22日 22時14分着信  題 光士からお礼の件
 皆さま夜分にすみません。 光士のご母堂の葬儀も無事に終わりお礼の連絡がありました 。皆さまに直接お礼の連絡をしたいと言っておりますので連絡先(携帯)を伝えました。 連絡があるとおもいますので、宜しくお願いいたします。 Mitsuhiro


 昨日のブログで、「てんてんてんまり てん手まり」の歌い出しで愛唱される日本の童謡、『まりと殿さま(毬と殿様)』が、紀州の殿様の参勤交代に纏わる、残酷な内容を持っていることを述べましたが、日本の昔からのわらべ歌や童謡の中にはこのようにおぞましい内容が隠されているものが沢山あるようです。
 ずいずいずっころばし
 『ずいずいずっころばし ごまみそずい  茶壺に追われて とっぴんしゃん  抜けたら、どんどこしょ  俵のねずみが 米食ってちゅう、ちゅうちゅうちゅう  おっとさんがよんでも、おっかさんがよんでも、行きっこなしよ  井戸のまわりで、お茶碗欠いたのだぁれ』
 意味:胡麻味噌を摩っていると、お茶壺道中が来ると言うので、家の中に入り戸をピシャリと閉めて(=トッピンシャン)やり過ごす。お茶壺道中とは新茶を将軍に献上する行列のことで、切捨御免の時代柄、庶民は粗相の無いように細心の注意を払っており、子どもたちは両親に呼ばれても決して外に出てはならないと教えられた。そしてお茶壺道中が通り過ぎるとやっと一息つけたのである(=ぬけたらドンドコショ)。ところで家の中で息を潜めていると、米を齧っているネズミの鳴き声や、井戸の近くで茶碗が割れたような音まで聞こえてくる。
 「ずいずいずっころばし」は、古くから日本に伝わる童謡で、手遊び歌として知られ、その遊戯をもいいます。「お茶壺道中」についての唄だと言われているほか、不純異性交遊を表す戯歌とも言われています。


 
https://www.youtube.com/watch?v=nm_LPrzgEqM

 通りゃんせ
 『通りゃんせ 通りゃんせ  ここはどこの 細道じゃ  天神さまの 細道じゃ  ちっと通して 下しゃんせ  御用のないもの 通しゃせぬ  この子の七つの お祝いに  お札を納めに まいります  行きはよいよい 帰りはこわい  こわいながらも  通りゃんせ 通りゃんせ』
 意味:通りなさい、通りなさい。 ここは、どこの細道ですか? 天神様の細道ですよ。ちょっと通して下さいませんか? 御用の無い者は、通しはしません。 この子の七つの御祝いに、御札を納めに参ります。 行きは良いですが、帰りは困難です。 困難ですが、通りなさい、通りなさい。
 「通りゃんせ」は、江戸時代に歌詞が成立したと見られる作詞者不明のわらべ歌ということです。一般に歌われているものは本居長世編・作曲で、作詞はあるいは、野口雨情作とも伝えられています(1920年頃収録レコードに作者として記載されています)。
 川越にある三芳野神社は、子供時代に口ずさんだ、わらべ唄「とうりゃんせ」発祥の地と云われています。不作や天変地異を起こす天神様の怒りを鎮める為、子供を生贄として捧げる唄とも云われています。目の前にある川越城の七不思議の1つに人身御供の話が、あります。七つ釜と云われる沼地のため、地盤がとても悪く、川越城の建設は難航し、そのため、子供を人柱として神に捧げ、完成させたそうです。この唄の「行きはよいよい 帰りはこわい」の歌詞は、いいことがあると騙されて連れてこられ、神に捧げられた子供は、人柱として殺されて、二度と帰っては来ないと云う意味のようです。
 日本の神様は、八百万(やおよろず)の神と云われるように様々な神がいます。祭りや神輿に乗せて満足する神がいる反面、生贄を望む恐ろしい神がいても何ら不思議ではありません。

https://www.youtube.com/watch?v=Cq4G5ku_r0w


 


 てるてる坊主
 『(1番)てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ  いつかの夢の空のよに 晴れたら金の鈴あげよ
  (2番)てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ  わたしの願いを聞いたなら あまいお酒をたんと飲ましょ
  (3番)てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ  それでも曇って泣いてたら そなたの首をチョンと切るぞ』作詞・浅原鏡村  作曲・中山晋平
 てるてる坊主で晴れを祈る風習は、平安時代に中国から伝わったのだそうです。ただし中国では「坊主」ではなく、箒を持った女の子・・・『晴娘』という名の少女にまつわる伝説がその起源といわれています。
 日本では、天候の祈祷をする僧侶に因んで「坊主」になったのでは、といわれています。「てるてる坊主の頭の中身」にまつわる、ちょっと閲覧注意?な伝説も・・・。
 昔、降り続く雨に困っていると、ひとりのお坊さんがやって来ました。お経を唱えてもらえば必ず晴れることで有名なのだといいます。そこで殿様の前でお経を唱えてもらいましたが、次の日も雨は降り止みませんでした。罰として、お坊さんは首をはねられてしまいます。その首を白い布で包んで吊るしたところ、次の日はよく晴れました。これがてるてる坊主の始まり、なのだそうです。

https://www.youtube.com/watch?v=Wi1kcHsIC2U


 かごめかごめ(地方により歌詞が異なる)
 『・かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?
・かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ?
・かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が統べった 後ろの正面だあれ?
・かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に つるつる滑った 鍋の鍋の底抜け 底抜いてたもれ
・かごめかごめ 籠の中の鳥は いつもかつもお鳴きゃぁる(お鳴きやる) 八日の晩に 鶴と亀が滑ったとさ、ひと山 ふた山 み山 越えて ヤイトを すえて やれ 熱つ や(お灸を据えて、やれ熱や)
・籠目籠目 加護の中の鳥居は いついつ出会う 夜明けの番人 つるっと亀が滑った 後ろの少年だあれ?
・かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出会う 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だぁれ?
・かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出会う 夜明けの番人 鶴と亀が滑った 後ろの少年だあれ?』
 なお、文献では、このかごめかごめは江戸中期以降に現れます。『後ろの正面』という表現は、明治末期以前の文献では確認されていません。さらに、『鶴と亀』『滑った』についても、明治以前の文献で確認されていません。
 この歌の歌詞が表現する一風変わった(ある意味神秘的な)光景に関しては、その意味を巡って様々な解釈があります。ただ、『鶴と亀』以降の表現は明治期以降に成立したと思われるため、それらの解釈に古い起源などを求めることは困難です。また、この歌の発祥の地についても正確な所不詳です。
姑によって後ろから突き飛ばされ流産する妊婦や、監視された環境から抜け出せない遊女、徳川埋蔵金の所在を謡ったものとする俗説などがあります。
 元々児童遊戯の歌として成立したとする説(国語辞典などが採用):籠の中の鳥=オニであり、「囲め、囲め、オニの人は何時になったら次の人と交代して出て来ることができるのでしょうか。後ろの正面は誰?」と解釈する。ただし「鶴と亀がすべった」の部分については「語呂やリズムを合わせる為」と曖昧にしているものが多い。
遊女説(提唱者不明):一日中(夜明けの晩に)男性の相手をさせられ(鶴と亀が滑った)、いつここから抜け出せるのだろう(いついつ出やる)と嘆いているうちにもう次の相手の顔(後ろの正面だあれ)が見え隠れしている、という自由のない遊女(籠の中の鳥)の悲哀を表している。
日光東照宮説(提唱者不明。埋蔵金と結びつけてテレビ番組等で紹介されている):日光東照宮の三神庫と呼ばれる建築物群や奥院には鶴と亀が対になって飾られている所があり、歌詞中の「鶴と亀が統べった」はこの彫刻を指しているとしている。
豊國廟説(宮本健次など):正面とは京都の豊国神社周辺(現在の正面通り)を指し、徳川家康を神格化する際に邪魔となった豊臣秀吉を神の座から引き摺り降ろす為に行われた、豊国神社の打ち壊しと、秀吉の棺を掘り返して庶民と同じ屈葬にして埋め直した事件を表したものである。
芦名埋蔵金説(提唱者不明):「鶴と亀」はそれぞれ芦名家の城の別名であり、埋蔵金の隠し場所を示している。
陰謀説(提唱者不明):「かごめ」は籠女と書いてお腹に籠を抱いているような女=妊婦を示し、「かごの中の鳥」とはお腹の中にいる子供を示す。その妊婦の家は相続争いで争っている最中で、1人でも相続人の候補が増えることに快く思わないものもいた。出産予定日もそろそろというある夜明けの晩、階段を降りようとした妊婦は誰かに背中を押されて落ちて流産してしまった。自分を落とし子供を殺したのは誰だという母親の恨みの歌という説である。
囚人説(提唱者不明):かごめは、籠つまり牢屋を指していて「籠め籠め」と牢屋に聞いている様。籠の中の鳥=オニは囚人である。鶴と亀が滑った=縁起の良くないこと、つまり脱走や死刑を表す。後ろの正面だあれ=死刑囚を呼びにきた監視、又は脱獄の手助けをするもの。いったい誰が来るのか? どんな運命になるのか? という説である。
明智光秀・南光坊天海同一人物説(岩辺晃三):南光坊天海の正体が、山崎の戦いに敗れた後も生き延びた明智光秀であることを示唆しているとする説[9]。鶴と亀には、日光東照宮の彫刻の他に敦賀と亀岡の意味もあるとする。ただし前述のように、「鶴と亀」の部分が明治期以前に存在していたことを示す文献は確認されていない。
神示説(提唱者不明):「かごの中の鳥」は「肉体に自己同化し、肉体に閉じ込められた人」、「いついつ出やる」は「いつになったら肉体が自分でないことに気づくのか」、「鶴と亀がすべった」は「陰と陽が統べった」即ち「目覚めた」ときに、「うしろの正面だあれ?」=「自分」とは誰なのでしょう?という意味の、人の精神的目覚め・開悟を歌っているとする説。

https://www.youtube.com/watch?v=j4vPvzX9PMM


 


雨降りお月さん
 『雨降りお月さん 雲の蔭  お嫁にゆくときゃ誰とゆく  一人で傘 さしてゆく  傘ないときゃ 誰とゆく  シャラシャラ シャンシャン 鈴つけた  お馬にゆられて ぬれてゆく
  いそがにゃお馬よ 夜が明けよう  手綱の下から チョイと見たりゃ  お袖でお顔を かくしてる  お袖は濡れても 乾しゃ乾く  雨降りお月さん 雲の蔭  お馬にゆられて ぬれてゆく』
 なぜ花嫁が一人で雨の中、傘をさしてお嫁にいくのかの意味がよくわかりません。一説によると、花嫁は死んでしまった娘のことで天国に一人で旅だつ様子を描いているというものがあります。
 雨情の孫、野口不二子さんによると、雨情夫人ひろから興入れの日は雨が降っていて、栃木県塩谷郡喜連川(きつれがわ)から馬で2日もかかって来たという話しを聞かされていたそうです。当時この辺りのしきたりでは、花嫁は馬に乗って婚家に嫁ぎ、花婿や村人たちは、家の前で行列を迎えたそうです。ひろも、しきたり通りに馬に乗って野口家に嫁ぎました。しかし、その日は、あいにくの雨でした・・・ 迎えた雨情は、白無垢姿の花嫁の濡れた綿帽子を心優しくはずしました。これが、2人の初めての対面でした。この詩はそのときのことを歌ったものだそうです。
  お嫁さんは、新しい生活への希望に満ちて、凛として馬に乗って嫁いできたことからこの詩は、雨の中を、遠く長い道のりを濡れながらやってきた花嫁に対するねぎらいの思いを歌ったものなのでしょうか。

https://www.youtube.com/watch?v=21JW-j5JJdc


 


プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


小冊子の紹介
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 3 4 5 6
7 8 10 11 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 26 27
28 29 30
最新コメント
[m1WIN2024Saulp 04/22]
[DavidApazy 02/05]
[シン@蒲田 02/05]
[нужен разнорабочий на день москва 01/09]
[JamesZoolo 12/28]
[松村育将 11/10]
[爺の姪 11/10]
[爺の姪 11/10]
[松村育将 11/09]
[松村育将 11/09]
最新トラックバック
ブログ内検索
カウンター
Powered by ニンジャブログ  Designed by ゆきぱんだ
Copyright © 瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り All Rights Reserved
/