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瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 明治10(1877)年、当時帝国大学で動物生物学の講義を受け持っていたアメリカ人Edward S.Morse(エドワード・モールス)は、国電大森駅を過ぎる時、車窓から貝塚らしいもののあるのを発見、すぐに発掘に取り掛かりました。その貝塚からは石器・土岐・人骨などが多数発見され、地名にちなんで『大森貝塚』と名付けられました。これこそ日本の考古学の夜明けを告げる永遠の記念碑であり、昭和の登呂遺跡の発見に勝るとも劣らない重要な事件でした。謎に包まれた太古日本の姿はその1ページを異国の学者の手によって開かれたのです。大森貝塚の発見によって、太古東京近辺にも人間の住んでいたことが実証されたのです。

 次いで、明治173月、当時帝国大学の学生であった有坂鉊蔵によって、本郷弥生町の発見されました。いわゆる弥生土器というのはこの町名に由来しているのです。この発掘により、大森貝塚の場合と同様に昔から東京付近は人間が住み、特に弥生文化は米作農業を基盤としたかなり程度の高い文化の営みであると想定されたのです。

 現在の板橋区・練馬区を始め国分寺付近からは昔の人々の生活を支えた色々な道具が掘り出されています。遠く富士山の噴煙を望み、多島海的な入り江に富んだ東京湾は、昔の人々にとってはかなり海産物に恵まれた住みよい所だったのでしょう。人間の生活が営まれるところには必ずコトバが存在します。野山で狩りをし、木の実を集め、川や海で魚介類を採る時、人々はコトバとコトバを交わし、誘い合いながら共同労働に励んだことでしょう。思わぬ獲物の大漁に人の和を輪を作り、火を焚いて一晩中踊りあかし、歓喜の歌声を張り上げたことでしょう。もっとも今となってはそうした人々のコトバの実態をつかむことは出来ません。
 弥生時代を受けた古墳時代になると、中央では所謂大和国家が形成され、世界最大と言われる仁徳陵も出来上がります。そろそろ『古事記』や『万葉集』に画かれた世界に近づいてくるのです。当時の東京付近は中央と同じく、一定の水準文化を持った土地でした。埼玉県行田市にある古墳群もかなり有力にこのことを示しています。同所にある『丸墓山古墳』は平地における我が国最大の円形古墳だと言われます。

 
東京都内でも、芝公園内の丸山はをはじめ、田園調布や狛江には当時の豪族の古墳が残っているのです。しかし、以上はいずれにせよ書物以前の話で、確実な文字資料があるわけではありません。


 


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 仮に十人の万葉学者に全4500余首の読み下しを作らせれば、十人の間におそらく何百箇所という相違が出て来ることは必定です。それぞれの人が夥しい数の言葉を『万葉集』から消し、あるいは新しく加えることでしょう文庫本に収めてしまえばせいぜい2冊分しかない歌ではありますが、十人十様の読み解きが行われる以上、とどのつまりがどの本に拠ったところで全面的な信用はおけないわけです。柿本人麻呂の代表作、
   東の 野にかぎろひの 立つ見えて
     かへり見すれば 月傾きぬ
        万葉集巻一 0048
の歌にせよ、本当にこういう歌だったという保証はどこにもありません。
 この歌は、十四の漢字で次のように表記されています。
    東野炎立所見而反見為者月西渡
 古い写本を見ると、この原文には「アツマノヽケフリノタテルトコロミテカヘリミスレハツキカタフキヌ」という訓が付されています。つまり、第一句から第三句までの <東野炎立所見而> は、もともと「東野《あづまの》の煙《けぶり》の立てる所見て」と解釈されていたのです。それを「みだり訓(いい加減な訓/まずい訓)」だと断定し、現在一般化している「東の野にかぎろひの立つ見えて…」という訓を考案したのが、江戸時代の賀茂真淵《かものまぶち》です。馬淵がこの新訓を提示してからは、研究者も歌人も「東野《あづまの》の煙《けぶり》の立てる所見て」という伝統的な訓と解釈を捨ててしまったのです。

 写本の訓と馬淵の訓を比較すると、歌の格調は確かに馬淵の訓のほうが高いように感じられます。しかし、馬淵の訓に対して、文法学者たちが異議を唱えています。上代語の表現としては不自然な文法的要素がその訓に含まれている、というのです。それだけでなく、原文の第三字の <> や歌の末尾の <西渡> などの訓に対しても、多くの異論が出ています。


 


ウェブニュースより
 藤井四段が5連勝、C級1組昇級へ前進 将棋・順位戦 ―― 将棋の中学生棋士、藤井聡太四段(15)が12日、大阪市福島区の関西将棋会館で第76期将棋名人戦・C級2組順位戦(朝日新聞社、毎日新聞社主催)の5回戦に臨み、星野良生(よしたか)四段(29)に勝った。全10局ある戦いを5連勝で折り返し、一つ上のC級1組への昇級に向けて前進した。

 C級2組は、名人戦につながる順位戦(全5クラス)の中で最も下のクラス。初参加の藤井四段は、先輩棋士を相手に白星を積み重ねている。この日は、星野四段の中飛車に対し、先に敵陣に攻め込んで優位を築き、勝ちきった。「いい星取りで折り返し地点を迎えられた。これからも一局一局頑張りたい」と話した。今期参加の50人のうち上位3人の成績を挙げれば昇級できる。
 藤井四段の通算成績は46勝6敗となった。次の対局は王位戦の予選で、19日に大阪である。  (朝日新聞DIGITAL 2017年10月12日22時19分)
http://sakidori-ch.com/fujiisouta20171012
 2017年10月19日(木) 10:00より、王位戦予選 小林裕士七段との対局が予定されています。

ウェブニュースより
 藤井聡太四段「1つでも上に」叡王戦本戦へ意気込み ―― 将棋の最年少プロ、藤井聡太四段(15)が9日、東京・千駄ケ谷の東京将棋会館で行われた第3期叡王戦段位別予選四段戦の準決勝、決勝と連勝。本戦トーナメント進出を決めた。

 午後2時から行われた準決勝の佐々木大地戦(22)は奇跡の大逆転勝ち。新人王戦準々決勝で敗れた相手に一方的に攻め込まれ、投了寸前だった。ところが、佐々木の致命的なミスが出て、劣勢だった局面が一気にひっくり返った。
https://www.youtube.com/watch?v=DubUj0VPylE
 午後7時からの決勝では、杉本和陽(かずお)四段(26)の三間飛車からのさばきに対し、上から押さえ込もうとして激戦に。最後はチャンスを逃した杉本に対し、着実に寄せきった。「準決勝はハッキリ負け。勝てたのは幸運だった。決勝は何とか勝てて良かった」と振り返った。
https://www.youtube.com/watch?v=4Lnw_VqXmlQ
 
四段戦は参加19人に対し定数1の狭き門。本戦トーナメントには予選シードの佐藤天彦叡王(29)や、九~五段まで各段の予選を勝ち抜いた格上の棋士15人が待ち受ける。「1つでも上に行けるよう、全力で頑張りたい」と話した。

 叡王戦は今期からタイトル戦に昇格。本戦は16人による勝ち抜き戦で争われ、決勝に進んだ2人が7番勝負を行い、勝者が叡王の称号を得る。 [朝日新聞DIGITAL 20171010031]


 


 「たまゆら」という言葉の出どころは、『万葉集』巻一一、柿本人麻呂歌集の歌です。
   玉響 昨夕 見物 今朝 可戀物
      万葉集巻一一 2391

 この歌は早く平安時代から、「たまゆらに 昨日の夕 見しものを 今日の朝に 恋ふべきものか」(『古今六帖』)と読み慣わされてきました。以後「たまゆら」は『万葉集』に典拠を持つ優雅な歌語として歌人の愛好するところとなります。かれらは「たまゆら」を「しばし」の意に理解していました。
   山賎の麻の狭衣ほすばかりたまゆら晴れよ五月雨の空
            (『元永元年五月右近衛中将雅定歌合』)

 散文の世界にも導入されて、鴨長明『方丈記』に、「たまゆら」と「しばし」を対句に配した例があります。

 それにしても、『万葉集』の「たまゆら」は「しばし」の意で通じるのでしょうか。江戸時代に入って万葉学者たちは、「しばし」の意では一首が釈然としないことに気づきます。
 「玉響」の二字をタマユラと読むことは、ものの揺れ動くさまを「ゆら」と心得るわれわれには違和感がありますが、古代語の「ゆら」には鈴、玉、石などの当たって発する音を写す擬音語でしたから、その点では問題はありません。
   足玉も 手玉も由良(ゆら)に 織る機を
      君が御衣(みけし)に 縫ひあへむかも
        万葉集巻一〇 2065
 これは機を織る乙女の動作と共に、足や手につけた飾りの玉が鳴る音を「ゆらに」といった例です。

   初春の 初音の今日の 玉箒(たまばはき)
      手に取るからに 由良久(ゆらく)玉の緒
        万葉集巻二〇 4493
 この「ゆらく玉の緒」も決してただ「揺れ動く」意ではありません。作者大伴家持は、天平宝字二(758)年正月三日の初子(はつね)の日に天皇から往例の玉箒を賜り、その後の祝宴で、「今日拝領した玉箒は、手に取っただけでめでたい初音をはっしました」と「初音」と「初子」の掛け言葉としてこの賀歌を詠んでいるのです。

 「たまゆら」の語義を玉の音だと解釈してみたところで、「たまゆらに昨日の夕見しものを…」という歌の意味は依然として通じません。「たまゆら」を「しばし也」とする平安時代の語釈は、歌意に適合しないばかりか、なぜ「たまゆら」が「しばし」の意を持ちえたのかという疑問にも答えられません。今日では、「たまゆら」は『万葉集』り原文「玉響」の誤読から生まれた平安時代語に過ぎないのではないかと疑われているのです。
 柳田国夫の弟の松岡静雄(人類学者)は「日本古語大辞典 昭.4」の中で、「古い読み方は“たまゆら”だが、木に竹を接いだような恨みがある。賀茂真淵は“ぬばたまの”と読んで夕べの枕ことばにしたが、この歌の趣から言えば、響という言葉を間違えて“たまかぎる――玉隔”と言う言葉を写し誤ったのだろう」と言っているそうです。

 「たまかぎる 昨日の夕 見しものを…」 「たまかぎる」は「夕(ゆふべ)」の枕詞ですから、第二句への続きに支障はありません。
 「たまかぎる」と言う言葉が「夕べ」の枕詞に使われた例は、万葉集に2例あります。
   ――前略―― 玉かぎる 夕さりくれば み雪ふる ――後略――
            万葉集巻一 0045

   玉かぎる 夕さり来れば 猟人(さつひと)の
      弓月(ゆづき)が嶽(たけ)に 霞たなびく
           万葉集巻一〇 1816

 冒頭の歌
   玉響 昨日の夕 みしものを
      今日の朝に 恋ふべきものか
            万葉集巻一一 2391
は、歌としては初句「たまかぎる」であることがもっとも望ましいようです。「たまかぎる」は「夕」の枕詞ですが、語義は「玉が照り輝く」ことだそうです。原文「玉響」の字義が「玉の響き」である限り、到底タマカギルとは読めそうにありません。
 しかし、音と光は共感覚的印象において決して遠いものではありません。将棋界のスーパースター、羽生善治三冠で揮毫する言葉として有名な「玲瓏」という熟語がありますが、意味は
  1 「明貌」玉などが透き通るように美しいさま。また、玉のように輝くさま。
  2 「玉声」玉などの触れ合って美しく鳴るさま。また、音声の澄んで響くさま。 -デジタル大辞泉  です。

 日本でも「玲瓏」に対しては、ナル(鳴る)とカカヤク(輝く)・テル(照る)の二系統の古訓が与えられています(『類聚名義抄』)。文字は「玉響」と書いてあっても、意味は「玲瓏」の場合と同じように「玉の照り輝く」ことだったと考えれば、タマカギルという読み方も認められてよいのではないでしょうか。


 


ウェブニュースより
 藤井聡太四段、プロ入り2年目の初戦飾り朝日杯2次予選進出 ―― 将棋の公式戦歴代新記録29連勝を樹立した史上最年少棋士で中学3年生の藤井聡太四段(15)が6日、大阪市福島区の関西将棋会館で行われた「第11回朝日杯将棋オープン戦」1次予選で、後手の宮本広志五段(31)を95手で下した。第12ブロックを4連勝して勝ち上がり、2次予選に進出した。公式戦通算43勝目(6敗)。

 藤井四段は昨年10月1日にプロ入りしており(対局デビューは12月)、この対局がプロ2年目の初戦。宮本五段が構えたゴキゲン中飛車と美濃囲いを、粘り強く攻略した。「2次予選に勝ち上がることができたの、さらなる上を目指して一局一局頑張りたい」と藤井四段。2年目突入については「特別な感慨はないが、1年目以上にもっと強くなりたい」と話した。
http://www.asahi.com/shougi/asahicup_live/fujii_souta/?iref=pc_extlink
 通算50戦目となる次回の公式戦は、9日に東京・将棋会館で行われる叡王戦予選の対佐々木大地四段(22)。佐々木四段に勝てば、同日に三枚堂達也五段(24)か杉本和陽四段(26)の勝者と、本戦進出を争う。  (20171061217  スポーツ報知)


 『万葉集』は古代の歌集であるから、音数に拘束されない「字余り」が多いと一般には信じられてきました。「字余り」が多いことは事実かも知れませんが、その大多数は句中に母音音節「あ」「い」「う」「お」のいずれかを含むという法則から逸脱していません。
   玉くしげ 覆ふをやすみ 明けていなば
      君が名はあれど 我が名し惜しも
           万葉集巻二 0093
   昨夜こそは 子ろとさ寝しか 雲の上ゆ
      鳴き行く鶴の 間遠くおもほゆ
           万葉集巻一四 3522

 「明けていなば」の「い」、「君が名はあれど」の「あ」、「雲のうへゆ」の「え」、「間遠くおもほゆ」の「お」―― おそらく全用例の9割以上は母音含有のほうそくを堅持していると思われます。問題は残りの約1割ですが、六音の「字余り」であるのに母音を含まない「木の暮闇」(巻一九、4166)という句が、実は「木の暮の」であったように、点検を進めるにしたがって例外は一つまた一つと減少しています。
   妹と来し 敏馬の崎を 帰るさに
      一人して見れば 涙ぐましも
          万葉集巻三 0449
 
 「一人して見れば」は、原文「独見者」とありますが、「而」を「之」に作る古写本(『古葉略類聚鈔』)を採用することによって「一人し見れば」と、「字余り」のない形が復元されます。


   向(むか)つ峰(を)に 立てる桃の木 成らめやと 
       人ぞささめきし 汝(な)が心ゆめ
          万葉集巻七 1356

 「人ぞささめきし」は、原文「人曾耳言為」とありますが、「為」を「焉」の誤りと推定すれば、「焉」は不読の助字になり、「人そささめく」又は「人そささやく」となります。これも「字余り」のない句に変わります。
 『万葉集』の変則的な「字余り」は、読み方の再検討によって姿を消す場合が多くあります。
   志賀の海人 火気焼き立てて 焼く塩の
      辛き恋をも 我はするかも
          万葉集巻一一 2742

   …… かまどには 火気吹き立てず こしきには 蜘蛛の巣掛きて ……
          万葉集巻五 0893 (貧窮問答歌より)
 「火気」の二字をケブリと読む限り、母船部は「字余り」法則の例外であることを免れ得ません。ホノケと読んでも同じことです。しかし、ホケと読みさえすれば、普通の七音句となります。前にも述べたように「ほけ」は現在の文献の上では『日葡辞典』までしかさかのぼれない語ですが、上の「火気」が「ほけ」だったということになれば、古く奈良時代から存在したことになます。
 このように『万葉集』は、読み方が訂正されれば、新しい万葉時代語を認定する必要も生じてきますし、反対にこれまでの万葉語と思われていた語を、万葉時代語のリストから除かねばならない場合も生じてきます。


 


    わびぬれば  しひて忘れむと  思へども 
       夢と言ふものぞ  人頼めなる
         藤原興風 古今集巻一二 569

 宣長の説にしたがって、第二句を「しひて忘れなむ」できり、第三句を「と思へども」と読めば、第二句は「字余り」はなくなり、第三句の方が「字余り」になりますけれども、「ともへども」と、句中に単独母音「お」を含むので、「字余り」の法則は犯されていません。
 菅原道真の編と言われる『新撰万葉集』(893年成)には同じこの歌の第三句を「鞆倍鞆」と表記しています。トモヘドモとしか読みようのない文字です。助詞「と」が第三句の頭に位置していた有力な証拠といえます。

 「ともへども」は「ともへども」の「お」の脱落した形です。単独母音「あ」「い」「う」「お」は「字余り」の句の中にあって、しばしばこのような脱落をおこしました。あるいは、直前の音節の尾母音と融合して姿を消しました。この歌でも第四句の「夢といふものぞ」の字余りが、『興風集』などには「夢てふものぞ」という形で伝わっています。

   年のうちに  春は来にけり  ひととせを
      こぞとや言はむ  今年とや言はむ
           古今集巻一 0001
   春きぬと  人は言へども  うぐひすの
      鳴かぬかぎりは  あらじとぞ思ふ
            古今集巻一 0011
 上の2句で、  部はいずれも「字余り」となっていますが、これらをローマ字で書いてみると、
   年のうちに → toshinouchini
      今年とやいはむ → kotoshitoyaihamu
   あらじとぞ思ふ → arajotozoomohu
のようになり、「字余り」の句の中には母音が2つ並んでいるということがわかります。
 「字余り」の句中になぜ母音が2つ連続して現れるのか、その理由は日本語の母音の特性を知らなければ理解できません。
 国文学者 橋本進吉はその論文の中で、日本語では語頭に母音を有する語が、他の語に結合して複合語または連語を作る時、
(1)   その母音音節が脱落する。
    ナガメ(長雨)→ナガメ カリホ(仮庵)→カリホ
    タツノマ(辰の馬)→タツノマ カタモヒ(片思)→カタモヒ など
(2)   その直前の音節の母音が脱落して、その音節を構成した字音と次の母音音節の母音が結合して新しい音節を作る。
     アラソ(荒磯)→アリソ アラミ(荒海)→アルミ
     ニリ(に在り)→ナリ ズリ(ず在り)→ザリ など
と言っています。

 どちらにしても、結局は単独の母音音節が姿を消してしまうわけですが、これは二つの母音が直接接触し合うのを避けようとしたものなのです。古代語において特に顕著に見られます。
 とにかく母音音節が句の内部にあれば、六音又は八音の句でも五音又は七音の句と同等に取り扱われたいうことは、母音音節が前の音節の母音に接して現れる場合には一つの音節として十分の重みを持っていなかったことを示します。


 


 「字余り」句の句中には必ず単独母音「あ」「い」「う」「お」のいずれかが組み込まれてているという宣長の法則を『古今集』三百余例の実例について調べてみても、西行の歌における「ちるとみれば」「友になりて」のような例外現象は見当たりません。一応問題となる「字余り」は、
    ひぐらしの  鳴きつるなへに  日は暮れぬと 
       思ふは山の  かげにぞありける
         読み人知らず 古今集巻四 204

    忘れなむと  思ふ心の  つくからに 
       ありしよりけに  まづぞ恋しき
         読み人知らず 古今集巻一四 718

の類ですが、宣長がこれを見逃すはずがありません。彼の見解は『字音仮音用格(じおんかなづかい、安永五年刊)』から十八年後の著書『玉あられ(寛政四年刊)』に明記されています。

 すなわち、204番の第三句は句末の序詞「と」を次の句に送って、「日は暮れぬ と思ふは山の ……」と読むべきもの、718番の第一句は「忘れなむ とおもふ心の ……」と読むべきものなのです。実に明解爽やかな解釈ではあります。


 


 聞く人に違和感を与えない「字余り」ならばそんなに気にしなくてもいい、どうしても「字余り」にしなければよい歌が出来ず、「字余り」となっても耳障りでない場合は幾文字余しても構わないとする歌学者もいました。
  染殿后のお前に、花瓶に桜の花をささせ給へるを見てよめる
   年ふれば 齢はおいぬ しかはあれど 
     花をしみれば 物おもひもなし(以上33字)
      前太政大臣(藤原良房:ふじわらのよしふさ)
      古今集・巻1・春歌上・0052 前太政大臣(藤原良房:ふじわらのよしふさ)

 題しらず
  ほのぼのと ありあけの月の 月かげに 
     紅葉吹きおろす 山おろしの風(以上34字)
       源信明(みなもとのさねあきら)
        新古今集・巻六 0591

 「いずれもすぐれたる歌なれば字の余りたるによりて悪くなるべきにはあらず」と、藤原為家の『詠歌一体』に述べられています。

 一字の字余りがかえって格段に効果を挙げた例として、細川幽斎(1534~1610年)は、
   月見れば 千々に物こそ 悲しけれ 
     我が身ひとつの 秋にはあらねど
       大江千里 古今集・巻四 193 
   (月を見ると、ものごとをあれこれ悲しく思ってしまうなあ……
    私一人だけの秋ではないのだけれど)
の歌、第五句は「秋にならねど」などと平板に詠むより、「秋にはあらねど」の方が断然優れている、まさに一字千金の「字余り」であると激賞しています。

 「字余り」の歌は何となく格調高い印象を与えます。その効果を狙って意図的に「字余り」歌を作る風潮が中世以後かなり盛んになります。「文字あまりの歌、好み詠むべからず」(飛鳥井正親『筆のまよひ』)とは、裏返せば「好み詠む」人が多かったことでしょう。順徳天皇の『八雲御抄』に「(歌ノ)長(たけ)を高からむ故に文字を余す事好む人多し。これも返す返す見苦しき異なり。これは西行などが言ひたきままに言ひたるを真似びて悪しくとりなすなり」とありますが、確かに西行法師の作品には「字余り」歌の異風が眼立ちます。

   ①春のほどは 我が住む庵(いほ)の 友になりて 
      古巣な出でそ 谷の鶯
    (春の間は自分が住んでいる庵の友となって、谷の鶯よ、
     古巣を出て里へ都へと移っていったりしないでくれ)
   ②思へ心 人のあらばや 世にも恥ぢむ 
      さりとてやはと 勇むばかりぞ
    (思え、心よ、こちらがその面前で恥ずかしくなるような
     人がいれば別だが、そんな人はいないし、
     かといって恥を知らずにいてよいというわけではないから、
     奮い立って精進するばかりだ)
 音数の制約に縛られず、必要に応じて自由な「字余り」の歌を作った西行は、あわせてまた漢語の愛用という点においても、(やまとうた)の伝統にとらわれない、文字通り型破りの歌人だったのです。
 西行の歌の「字余り」に関しては、本居宣長の「西行ナド殊ニ是ヲ犯セル歌多シ」(『字音仮字用格』)という指摘が重要な意味を持っているのです。宣長が「是ヲ犯セル歌多シ」と言い切った時、これは「中鈍病」であるとか、「しなしやうにて手づつなるが故に聞きにくきなり」(『詠歌一体』)などという伝統的歌学の基準とは完全に次元を異にしていました。これまでの歌学者が思いもつかなかった新しい角度から、「字余り」の現象を貫く語学的法則を発見し、その上に立って西行の「字余り」を裁断しているのです。
 宣長の法則に照らせば、上の①②のような西行の歌はことごとく「是ヲ犯セル歌」に属することになります。「古今集より金葉・詞花集ナドマデハ、此ノ格二ハヅレタル歌ハ見エズ」、「千載・新古今ノコロヨリシテ此ノ格ノ乱レタル歌ヲリヲリ見ユ。西行ナド殊ニ是ヲ犯セル歌多シ」「『字音仮字用格(じおんかなづかい)』」と宣長は言います。
 本居宣長の発見した「字余り」の法則とは次のような事実を指します。
 「歌ニ五モジ七モジノ句ヲ一モジ余シテ、六モジ八モジニヨムコトアル、是レ必ズ中(なから)ニ右ノあ・い・う・おノ音アル句ニ限レルコト也」〔『字音仮字用格(じおんかなづかい)』〕


 「字余り」の句中には必ず単独の母音「あ」「い」「う」「お」のいずれが含まれているという事実の発見でした。

 『古今集』の実例で当たってみましょう。
    年のうちに 春は来にけり 一年を 
      去年とやいはむ 今年とやいはむ

    年経れば よはひは老いぬ しかはあれど
      花をし見れば 物おもひもなし 
    (冒頭の前太政大臣藤原良房の歌)
 「年のちに」「今年とやはむ」「しかはれど」「ものもひもなし」の各句は、それぞれ六音・八音の「字余り」句中に「う」「い」「あ」「お」の単独母音を含んでいることが確認できます。後者の歌は『詠歌一体』が33字の歌ながら「すぐれたる歌なれば」と評して「字余り」を容認した歌でした。
 『古今集』大江千里の歌、
    月見れば 千々に物こそ 悲しけれ 
      我が身ひとつの 秋にはあらねど
の第五句は、細川幽斎が「いちじせんきん」と絶賛した「字余り」でしたが、「秋にはらねど」の句中には、宣長の「字余り」法則に指摘する単独母音「あ」の存在を確認できるのです。
 元永元(1118)年十月二日、内大臣藤原忠通の催した歌合に、
 源盛家が詠んだ歌
    神無月 三室の山の もみぢ葉も 
      色にいでぬべく 降る時雨かな 
に、判者の源俊頼は第四句に対して「五文字の六文字あり、七文字の八文字あるは常の事なり。それは聞きよきにつけて詠むなり。これはあらはに余りたりと聞こゆれば、いかがあるべからむ」と難を加えます。「聞きよきにつけ」「あらはに余りたり」という俊頼の基準はともかくとして、少なくとも宣長の「字余り」法則にはいささかも背馳しないくなのであります。句中の単独母音として「色にでぬべく」の「い」があります。


プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
85
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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