今日から3日間は三社祭、昨年は東日本大震災で、取り止めとなったが、本年はスカイツリー効果と相俟って、かなりの人出が期待できるという。
推古天皇の三十六 (628) 年三月十八日、檜前浜成・檜前竹成という兄弟が宮戸川(今の隅田川)で漁をしていたところ、その日は魚は一匹もかからず代わりに金の像のようなものがかかるばかり。何度海中に投げてもまた網にかかってくるので仕方なくその像を持ち帰った。当時の学識者ともいうべき土師眞中知に見せると、それが聖観世音菩薩の尊像でありありがたい仏様の像であるということで、浜成と竹成の兄弟はどうか魚が捕れますようにとその像にお祈りをしたところ、翌日はうって変わって大豊漁。
中知は自宅内に堂を設けて、その観音像を祀った。後に中知と浜成・竹成の子孫がこの三人を神様としておまつりしたのが浅草神社の起源であり、後世この三人が浅草寺の開創者・浅草の開拓者として、三社大権現の尊称を奉られ祭祀される様になりそれが三社祭の起こりだという。だから浅草神社の神紋は漁網をあしらった〝丸に三つ干網〟というわけ。
本日のウェブニュースより
2年ぶり三社祭…18日から ―― 下町に初夏の訪れを告げる台東区浅草の三社祭が、きょう18日から3日間の日程で始まる。今年は祭りの起源とされる「舟祭(ふなまつり)」が始まって700年の節目に当たる。昨年は、東日本大震災に配慮して中止されたため、2年ぶりの開催となり、開業目前の東京スカイツリー効果で、前回2010年の約162万人を上回る人出が見込まれている。/祭りの主な予定は、18日午後1時から、様々な装束の一行が、仲見世通りなどを歩く「大行列」が行われた後、五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する「びんざさら舞」が浅草神社の境内で奉納される。19日は正午から、地元町会の神輿(みこし)約100基が街を巡る。/ 最終日の20日は、午前6時に3基の本社神輿を担ぎ出す「宮出し」で始まり、勇壮な担ぎ手たちの威勢のいいかけ声とともに、神輿が街を練り歩く「本社神輿各町渡御」が行われるほか、地元芸者衆による奉納舞踊も披露される。 (2012年5月18日 読売新聞)
推古天皇の三十六 (628) 年三月十八日、檜前浜成・檜前竹成という兄弟が宮戸川(今の隅田川)で漁をしていたところ、その日は魚は一匹もかからず代わりに金の像のようなものがかかるばかり。何度海中に投げてもまた網にかかってくるので仕方なくその像を持ち帰った。当時の学識者ともいうべき土師眞中知に見せると、それが聖観世音菩薩の尊像でありありがたい仏様の像であるということで、浜成と竹成の兄弟はどうか魚が捕れますようにとその像にお祈りをしたところ、翌日はうって変わって大豊漁。
本日のウェブニュースより
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宝塚市在住のKA氏より、久し振りに封書が届いた。曰く、




前略 先日、YK兄から大谷美術館で開かれたトラモンティ展絵葉書の便りを頂きました。
文面があまりにも懐かしく感じられましたので、当方の写真とともに、KD兄の奥様から愚妻宛に送られてきた四月二四日・読売新聞地方版の切り抜きも同封しました。
当方のチューリップは「母ちゃんに感謝する会」で、毎年YO兄の主催でSO・HS・JT・KD各兄が送ってくれるものです。二ヶ月間ほど、この綺麗な花が友情の証かのように思え、慰められております。楽しみの一助となればと送らせて頂きました。電話で友と話す時は、いつも「ここまで生きているはなぁ…」と、一日一日が未知の世界散歩を、喜びともつかぬ不可思議とも感じる口調で喋り合っております。ただ私達が戦時・終戦ならびに一時の繁栄の積み重ねの歩みを、一つでも現在の人達に反映することが出来ず、残念の極みに思えてなりません。この様に思える事こそ、年寄の為せる業でしょうかね。
変動の激しい、おかしな季節ですが、方々体調に留意されますことを念じております。
最後になりましたが奥様によろしくお伝え下さい。
これと同じものをYK兄にも送っておきました。
平成二四年五月一五日 KS
日高節夫 学兄
東坡志林 巻三 記先夫人不殘鳥雀
吾昔少年時、所居書室前、有竹、柏、桃、雜花、叢生滿庭、眾鳥巢其上。武陽君惡殺生、兒童婢僕、皆不得捕取鳥雀。數年間、皆巢於低枝、其鷇可俯而窺也。又有桐花鳳四五、日翔集其間、此鳥羽毛至為珍異難見、而能馴擾、殊不畏人。閭里間見之、以為異事。此無他、不忮之誠、信於異類也。有野老言、「鳥雀巢去人太遠、則其子有蛇、鼠、狐、貍、鴟、鳶之憂;人既不殺、則自近人者、欲免此患也。」由是觀之、異時鳥雀巢不敢近人者、以人為甚於蛇、鼠之類也。「苛政猛於虎」、信哉!
〔訳〕《鳥と人》私がむかし子供の頃に使っていた書斎の前には竹柏(なぎ)などのいろんな花が庭にいっぱい植わっていて、鳥が沢山その上に巣くっていた。しかし武陽公(蘇軾の父蘇洵の諡号)が殺生を忌まれたので、子供も召使たちも鳥を捕ることができなかった。そのため数年の間に、鳥たちはみな低い枝に巣を作って、その雛をのぞき見ることさえ出来た。また桐の花には鳳凰が四、五羽、毎日飛んできてとまった。鳳凰の羽毛(はね)は非常に珍しくてなかなか見られないのである。ところがこれはよくなれて、少しも人を畏れなかったので、郷里の人々は時々見に来て、珍しいことだといった。これはほかでもない。決して害を与えないというこちらのまごころが異類にしんじられたからである。
「小鳥は人からあまり遠くに離れていると、その子を蛇や鼠や狐や狸や鷹やとんびなどに取られる心配がある。だから人間が殺しさえしなければ、そうした被害を免れるために、自然に人に近づいてくるものだ」
というのを聞いたことがある。してみると、鳥が人の近くに巣を作ろうとしないのは、人が蛇や鼠などよりもこわいと考えているからであろう。「苛政は虎より猛し」というが、たしかにそのとおりである。
※中国からの伝えでは、鳳凰は桐の木に棲み、竹の実を食べたとのことから桐と竹、想像上の瑞鳥である鳳凰(ほうおう)を組み合わせた文様がつくられている。鳳凰は想像上の霊鳥とされる。
前略 先日、YK兄から大谷美術館で開かれたトラモンティ展絵葉書の便りを頂きました。
文面があまりにも懐かしく感じられましたので、当方の写真とともに、KD兄の奥様から愚妻宛に送られてきた四月二四日・読売新聞地方版の切り抜きも同封しました。
当方のチューリップは「母ちゃんに感謝する会」で、毎年YO兄の主催でSO・HS・JT・KD各兄が送ってくれるものです。二ヶ月間ほど、この綺麗な花が友情の証かのように思え、慰められております。楽しみの一助となればと送らせて頂きました。電話で友と話す時は、いつも「ここまで生きているはなぁ…」と、一日一日が未知の世界散歩を、喜びともつかぬ不可思議とも感じる口調で喋り合っております。ただ私達が戦時・終戦ならびに一時の繁栄の積み重ねの歩みを、一つでも現在の人達に反映することが出来ず、残念の極みに思えてなりません。この様に思える事こそ、年寄の為せる業でしょうかね。
変動の激しい、おかしな季節ですが、方々体調に留意されますことを念じております。
最後になりましたが奥様によろしくお伝え下さい。
これと同じものをYK兄にも送っておきました。
平成二四年五月一五日 KS
日高節夫 学兄
東坡志林 巻三 記先夫人不殘鳥雀
吾昔少年時、所居書室前、有竹、柏、桃、雜花、叢生滿庭、眾鳥巢其上。武陽君惡殺生、兒童婢僕、皆不得捕取鳥雀。數年間、皆巢於低枝、其鷇可俯而窺也。又有桐花鳳四五、日翔集其間、此鳥羽毛至為珍異難見、而能馴擾、殊不畏人。閭里間見之、以為異事。此無他、不忮之誠、信於異類也。有野老言、「鳥雀巢去人太遠、則其子有蛇、鼠、狐、貍、鴟、鳶之憂;人既不殺、則自近人者、欲免此患也。」由是觀之、異時鳥雀巢不敢近人者、以人為甚於蛇、鼠之類也。「苛政猛於虎」、信哉!
〔訳〕《鳥と人》私がむかし子供の頃に使っていた書斎の前には竹柏(なぎ)などのいろんな花が庭にいっぱい植わっていて、鳥が沢山その上に巣くっていた。しかし武陽公(蘇軾の父蘇洵の諡号)が殺生を忌まれたので、子供も召使たちも鳥を捕ることができなかった。そのため数年の間に、鳥たちはみな低い枝に巣を作って、その雛をのぞき見ることさえ出来た。また桐の花には鳳凰が四、五羽、毎日飛んできてとまった。鳳凰の羽毛(はね)は非常に珍しくてなかなか見られないのである。ところがこれはよくなれて、少しも人を畏れなかったので、郷里の人々は時々見に来て、珍しいことだといった。これはほかでもない。決して害を与えないというこちらのまごころが異類にしんじられたからである。
「小鳥は人からあまり遠くに離れていると、その子を蛇や鼠や狐や狸や鷹やとんびなどに取られる心配がある。だから人間が殺しさえしなければ、そうした被害を免れるために、自然に人に近づいてくるものだ」
というのを聞いたことがある。してみると、鳥が人の近くに巣を作ろうとしないのは、人が蛇や鼠などよりもこわいと考えているからであろう。「苛政は虎より猛し」というが、たしかにそのとおりである。
シアトルママからメールが入っていた。曰く、「日高先生、お久しぶりですが、お元気ですか?/ここシアトルは、やっと雨のシーズンも活動がちょっと収まり、春らしい暖かい日が増えてきました。/それでも、三寒四温で、温かい日が続くなぁ~と思うと、急にまた寒かったりと まだジャケットは玄関に置いたままになっています。/今年の夏は、2年ぶりに日本に一時帰国します。/6月の21日にアメリカを出発し、22日の夜 日本に到着し、8月4日まで日本に滞在します。/子供達は、両親宅近くの小学校に夏休み前まで体験入学させてもらう予定です。/ジョシュは、7月18日から私達に合流します。/余震がまだ多いと聞き 心配もあるのですが、久しぶりに帰れる日本 今から家族で楽しみにしています。/塾長先生・道子先生のご都合があう日に、また塾にお邪魔させて下さい。/ではまた。~Hitomi」
早速返信しておいた。「 メールありがとう。2年ぶりの帰国楽しみにしています。お子さん達も随分成長されたことでしょう。お会いするのが待ち遠しいです。/私のほうは、ほとんど毎日サンデーなのでいつでも都合がつけられます。席を設けてみんなと会うのもよいですね。Sekiちゃんはこの5月からタイに出向しましたので残念ですけど……/とにかく、帰国したら連絡してください。/まずは、メールの御礼まで/日高」
NHKの大河ドラマ『平清盛』が低迷を続けているらしい。爺も見るには見ているが、あまり面白くない。いつも後半部はいつのまにか眠っている。昨夜も午後10時からNHKで、このドラマのてこ入れ放送をやったらしい。ウェブニュースより
【大人のTV】“低迷”NHK平清盛、特番でテコ入れ!★「源平合戦!」(NHK総合、15日午後10時)―― 低視聴率に苦しむ大河ドラマ「平清盛」のてこ入れとして急きょ放送が決まった特番だ。サブタイトルは「宿命のライバルの原点を追う~平清盛vs源義朝~」。保元の乱では同じ陣営に属しながら平治の乱で激突した清盛と義朝はなぜ戦わなければならなかったのか、2人の宿命はどのように子供に継がれたのかを分かりやすく解説していく。源頼朝を演じる岡田将生が武士の都、鎌倉を訪ねたり、これまで放送された「平清盛」を振り返ったりと、涙ぐましい構成となっている。/鳴り物入りで始まった今年の大河だが、視聴率は10%台前半から抜けきれない。6日放送分が13.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区、以下同)。これも大河としては危機的水準だが、史上最低の11.3%を2度も記録している。もし1ケタに陥落すれば、栄光の大河ドラマ史にぬぐえない傷をつけてしまう。/なぜこれほど不振なのか。姫様が歴史を動かすという史実とはほど遠い世界を描いた“スイーツ大河”に背を向けた脚本、臨場感を醸し出そうと狙った演出で、お茶の間に挑んだ。/ それがあっさり裏目に出たのだが、清盛という人物自体、敵役で描かれることはあっても主役でクローズアップされることが極めて少ない上、清盛以外の知名度はさらに低く、よほどの歴史ファンでなければキャラクターに感情移入ができないのだ。ここが戦国や幕末と決定的に違う。画面が暗い、人物が汚い、役者の演技に難がある…と低視聴率の原因がいくつも上げられているが、登場人物のなじみの薄さは、今更どうしようもない。/唯一の救いは知名度では申し分ない頼朝や義経が(敵役だが)奮戦する源平合戦だけ。それが今回の特番にも表れている。もっとも、清盛はその途中でこの世を去るのだが…。視聴率押し上げというよりも、何とか2ケタ台を死守しようというせっぱつまった特番の視聴率はいかほどか。〔zakzak 2012.05.15〕
越前守でもあった平忠盛は日宋貿易に着目し、後院領である肥前国神崎荘を知行して独自に交易を行い、舶来品を院に進呈して近臣として認められるようになった。平氏政権が成立すると、平氏は勢力基盤であった伊勢の産出する銀などを輸出品に貿易を行った。平治の乱の直前の1158年に大宰大弐となった平清盛は、日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ、寺社勢力を排除して瀬戸内海航路を掌握した。また、航路の整備や入港管理を行い、宋船による厳島参詣を行う。1173年(承安3年)には摂津国福原の外港にあたる大輪田泊(現在の神戸港の一部)を拡張し、3月に正式に国交を開いて貿易振興策を行ったという。
そんなこんなで、眠られぬ夜のために、枕元に孟元老の『東京夢華録』を置くことにした。北宋の徽宗の御代〔1100~1125年〕の北宋の首都東京をかいた本の中でも『夢華録』は、市井の事物・年中行事・民俗習慣について見慣れたもの聞きなれたものばかりを挙げ誠にリアルに描いているという。
早速返信しておいた。「 メールありがとう。2年ぶりの帰国楽しみにしています。お子さん達も随分成長されたことでしょう。お会いするのが待ち遠しいです。/私のほうは、ほとんど毎日サンデーなのでいつでも都合がつけられます。席を設けてみんなと会うのもよいですね。Sekiちゃんはこの5月からタイに出向しましたので残念ですけど……/とにかく、帰国したら連絡してください。/まずは、メールの御礼まで/日高」
NHKの大河ドラマ『平清盛』が低迷を続けているらしい。爺も見るには見ているが、あまり面白くない。いつも後半部はいつのまにか眠っている。昨夜も午後10時からNHKで、このドラマのてこ入れ放送をやったらしい。ウェブニュースより
越前守でもあった平忠盛は日宋貿易に着目し、後院領である肥前国神崎荘を知行して独自に交易を行い、舶来品を院に進呈して近臣として認められるようになった。平氏政権が成立すると、平氏は勢力基盤であった伊勢の産出する銀などを輸出品に貿易を行った。平治の乱の直前の1158年に大宰大弐となった平清盛は、日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ、寺社勢力を排除して瀬戸内海航路を掌握した。また、航路の整備や入港管理を行い、宋船による厳島参詣を行う。1173年(承安3年)には摂津国福原の外港にあたる大輪田泊(現在の神戸港の一部)を拡張し、3月に正式に国交を開いて貿易振興策を行ったという。
そんなこんなで、眠られぬ夜のために、枕元に孟元老の『東京夢華録』を置くことにした。北宋の徽宗の御代〔1100~1125年〕の北宋の首都東京をかいた本の中でも『夢華録』は、市井の事物・年中行事・民俗習慣について見慣れたもの聞きなれたものばかりを挙げ誠にリアルに描いているという。
シアトルママからメールが入っていた。曰く、「日高先生、お久しぶりですが、お元気ですか?/ここシアトルは、やっと雨のシーズンも活動がちょっと収まり、春らしい暖かい日が増えてきました。/それでも、三寒四温で、温かい日が続くなぁ~と思うと、急にまた寒かったりと まだジャケットは玄関に置いたままになっています。/今年の夏は、2年ぶりに日本に一時帰国します。/6月の21日にアメリカを出発し、22日の夜 日本に到着し、8月4日まで日本に滞在します。/子供達は、両親宅近くの小学校に夏休み前まで体験入学させてもらう予定です。/ジョシュは、7月18日から私達に合流します。/余震がまだ多いと聞き 心配もあるのですが、久しぶりに帰れる日本 今から家族で楽しみにしています。/塾長先生・道子先生のご都合があう日に、また塾にお邪魔させて下さい。/ではまた。~Hitomi」
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NHKの大河ドラマ『平清盛』が低迷を続けているらしい。爺も見るには見ているが、あまり面白くない。いつも後半部はいつのまにか眠っている。昨夜も午後10時からNHKで、このドラマのてこ入れ放送をやるらしい。ウェブニュースより
【大人のTV】“低迷”NHK平清盛、特番でテコ入れ!★「源平合戦!」(NHK総合、15日午後10時)―― 低視聴率に苦しむ大河ドラマ「平清盛」のてこ入れとして急きょ放送が決まった特番だ。サブタイトルは「宿命のライバルの原点を追う~平清盛vs源義朝~」。保元の乱では同じ陣営に属しながら平治の乱で激突した清盛と義朝はなぜ戦わなければならなかったのか、2人の宿命はどのように子供に継がれたのかを分かりやすく解説していく。源頼朝を演じる岡田将生が武士の都、鎌倉を訪ねたり、これまで放送された「平清盛」を振り返ったりと、涙ぐましい構成となっている。/鳴り物入りで始まった今年の大河だが、視聴率は10%台前半から抜けきれない。6日放送分が13.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区、以下同)。これも大河としては危機的水準だが、史上最低の11.3%を2度も記録している。もし1ケタに陥落すれば、栄光の大河ドラマ史にぬぐえない傷をつけてしまう。/なぜこれほど不振なのか。姫様が歴史を動かすという史実とはほど遠い世界を描いた“スイーツ大河”に背を向けた脚本、臨場感を醸し出そうと狙った演出で、お茶の間に挑んだ。/ それがあっさり裏目に出たのだが、清盛という人物自体、敵役で描かれることはあっても主役でクローズアップされることが極めて少ない上、清盛以外の知名度はさらに低く、よほどの歴史ファンでなければキャラクターに感情移入ができないのだ。ここが戦国や幕末と決定的に違う。画面が暗い、人物が汚い、役者の演技に難がある…と低視聴率の原因がいくつも上げられているが、登場人物のなじみの薄さは、今更どうしようもない。/唯一の救いは知名度では申し分ない頼朝や義経が(敵役だが)奮戦する源平合戦だけ。それが今回の特番にも表れている。もっとも、清盛はその途中でこの世を去るのだが…。視聴率押し上げというよりも、何とか2ケタ台を死守しようというせっぱつまった特番の視聴率はいかほどか。〔zakzak 2012.05.15〕
越前守でもあった平忠盛は日宋貿易に着目し、後院領である肥前国神崎荘を知行して独自に交易を行い、舶来品を院に進呈して近臣として認められるようになった。平氏政権が成立すると、平氏は勢力基盤であった伊勢の産出する銀などを輸出品に貿易を行った。平治の乱の直前の1158年に大宰大弐となった平清盛は、日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ、寺社勢力を排除して瀬戸内海航路を掌握した。また、航路の整備や入港管理を行い、宋船による厳島参詣を行う。1173年(承安3年)には摂津国福原の外港にあたる大輪田泊(現在の神戸港の一部)を拡張し、3月に正式に国交を開いて貿易振興策を行ったという。
そんなこんなで、眠られぬ夜のために、枕元に孟元老の『東京夢華録』を置くことにした。北宋の徽宗の御代〔1100~1125年〕の北宋の首都東京をかいた本の中でも『夢華録』は、市井の事物・年中行事・民俗習慣について見慣れたもの聞きなれたものばかりを挙げ誠にリアルに描いているという。
早速返信しておいた。「 メールありがとう。2年ぶりの帰国楽しみにしています。お子さん達も随分成長されたことでしょう。お会いするのが待ち遠しいです。/私のほうは、ほとんど毎日サンデーなのでいつでも都合がつけられます。席を設けてみんなと会うのもよいですね。Sekiちゃんはこの5月からタイに出向しましたので残念ですけど……/とにかく、帰国したら連絡してください。/まずは、メールの御礼まで/日高」
NHKの大河ドラマ『平清盛』が低迷を続けているらしい。爺も見るには見ているが、あまり面白くない。いつも後半部はいつのまにか眠っている。昨夜も午後10時からNHKで、このドラマのてこ入れ放送をやるらしい。ウェブニュースより
越前守でもあった平忠盛は日宋貿易に着目し、後院領である肥前国神崎荘を知行して独自に交易を行い、舶来品を院に進呈して近臣として認められるようになった。平氏政権が成立すると、平氏は勢力基盤であった伊勢の産出する銀などを輸出品に貿易を行った。平治の乱の直前の1158年に大宰大弐となった平清盛は、日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ、寺社勢力を排除して瀬戸内海航路を掌握した。また、航路の整備や入港管理を行い、宋船による厳島参詣を行う。1173年(承安3年)には摂津国福原の外港にあたる大輪田泊(現在の神戸港の一部)を拡張し、3月に正式に国交を開いて貿易振興策を行ったという。
そんなこんなで、眠られぬ夜のために、枕元に孟元老の『東京夢華録』を置くことにした。北宋の徽宗の御代〔1100~1125年〕の北宋の首都東京をかいた本の中でも『夢華録』は、市井の事物・年中行事・民俗習慣について見慣れたもの聞きなれたものばかりを挙げ誠にリアルに描いているという。
徐陵の「毛永喜にに別る」(五言詩)を記す。
別毛永嘉 徐陵
願子厲風規 願はくは子 、風規に厲(はげ)み
帰来振羽儀 帰来 羽儀を振い
嗟余今老病 嗟(ああ) 余れ今老い病む
此別空長離 此の別 空しく長(とこし)へに離れん
白馬君來哭 白馬 君 來たり哭(こく)すとも
黄泉我何知 黄泉(こうせん) 我れ何ぞ知らん
徒労脱宝剣 徒に労せん宝剣を脱し
空掛隴頭枝 空しく隴頭(ろうとう)の枝に掛かるを
〔訳〕《毛永喜に別れる》
願わくは君よ 厳しく風諫の道に則り
世の鑑(かがみ)と称(たた)えられ 帰任されんことを
ああ 今や 老いさらばえて
此の別れが 永遠(とわ)のものとなるであろう
君が白馬に乗り 弔いに駆けつけても
黄泉(よみ)にいる私が どうしてそれと知ろう
たとえ 宝剣を腰からはずして
墓前の枝に掛けても せんないこと
※毛喜〔生没年不詳〕、字は伯武(はくぶ)。永喜内史に任ぜられたので、「永喜」と呼ばれた。陳の重臣で宣帝〔在位568~581年〕に信任され、丹陽尹・史部尚書となったが、陳の後主に疎まれ、永喜内史に左遷された。『南史』の伝によれば、かれが永喜内史になったのは、至徳元〔583〕年で、徐陵の没年に当たるという。彼が詩に詠んだことが事実となったわけである。
※1行目の『風規=風諫の道』とは、それとなく諌めることである。説苑〔劉向《BC77~BC6年》作〕に「諫有五:一曰正諫、二曰降諫、三曰忠諫、四曰指諫、五曰諷諫」とあり、正諫とは真正面からの諫言、降諫はいったんリーダーの意見を受け入れた上で後から徐々にする諫言、忠諫は感情を隠さず真心を込めてする諫言、指諫は誰に憚ることなく愚直なまでにする諫言、諷諫は婉曲に諷刺する諫言であるとする。これら五種類の中で、中国人は古来「諷諫」を最上とする。それは真正面から強固に諫言すればリーダーのプライドを傷つけるだけでなく、自分の身を危うくするからである。
※2行目の『羽儀』については、『易経』漸の爻辞に
上九。鴻漸于陸[逵]。其羽可用為儀。吉。《上九。鴻の逵に漸む。其の羽用って儀と為すべし。吉。》
象曰、其羽可用為儀、吉、不可亂也。《象曰、其の羽用って儀と為すべしの吉は、乱るべからざるなり。》
と見える。鴻は天空に去って帰らずとも、その落とした羽は儀式の飾りにすることが出来るとの意。ここでは「永喜で治績をあげ、それが後の模範となる意」に用いている。
※5行目の「白馬君來哭」は、『後漢書』列伝71「独行伝」にある范式の『張劭が死に、葬列が墓穴の所まで来るが、棺を吊り降ろそうとしても動かない。母が棺を撫で「何か心残りがあるのか」と問い、そのまま待つ。やがて夢で親友の死を知った范式(=巨卿)が駆けつけ、彼が棺の引き綱を取ると、棺は動き出す』。という故事によるという。〔後漢書の范式については、後日調べてみるつもり〕
※最後の2行「徒労脱宝剣 空掛隴頭枝」は次の故事によるものという。
史記 呉太伯世家 第一 より
季札之初使、北過徐君。徐君好季札劍、口弗敢言。季札心知之、為使上國、未獻。還至徐、徐君已死、於是乃解其寶劍、系之徐君冢樹而去。從者曰:「徐君已死、尚誰予乎?」季子曰:「不然。始吾心已許之、豈以死倍吾心哉!」
〔訳〕季札が諸国歴訪の途についたとき、まず呉の北方徐〔江蘇省〕を通過した。徐の君主は、季札が帯びていた剣を欲しがったが、口には出さなかった。季札も、徐君の希望に気がついていた。しかし、諸国を訪問する儀礼として、剣を帯びていなければならなかったので、献上しなかった。やがて歴訪を終えて、帰途また徐についたとき、徐君はすでに死んでいた。そこでのその宝剣をといて、徐君の墓側の樹にかけて去った。従者が問うた。
「徐の君主はすでに死んでしまわれました。それですのに、ああして、誰に与えようというのですか」
「いや、そうではない。はじめに、徐君がわが剣を望まれたとき、わしは差し上げようと心に誓ったのだ。いま徐君が亡くなられたからといって、わが心の誓いにそむくわけにはいかないのだ」
別毛永嘉 徐陵
願子厲風規 願はくは子 、風規に厲(はげ)み
帰来振羽儀 帰来 羽儀を振い
嗟余今老病 嗟(ああ) 余れ今老い病む
此別空長離 此の別 空しく長(とこし)へに離れん
白馬君來哭 白馬 君 來たり哭(こく)すとも
黄泉我何知 黄泉(こうせん) 我れ何ぞ知らん
徒労脱宝剣 徒に労せん宝剣を脱し
空掛隴頭枝 空しく隴頭(ろうとう)の枝に掛かるを
〔訳〕《毛永喜に別れる》
願わくは君よ 厳しく風諫の道に則り
世の鑑(かがみ)と称(たた)えられ 帰任されんことを
ああ 今や 老いさらばえて
此の別れが 永遠(とわ)のものとなるであろう
君が白馬に乗り 弔いに駆けつけても
黄泉(よみ)にいる私が どうしてそれと知ろう
たとえ 宝剣を腰からはずして
墓前の枝に掛けても せんないこと
※毛喜〔生没年不詳〕、字は伯武(はくぶ)。永喜内史に任ぜられたので、「永喜」と呼ばれた。陳の重臣で宣帝〔在位568~581年〕に信任され、丹陽尹・史部尚書となったが、陳の後主に疎まれ、永喜内史に左遷された。『南史』の伝によれば、かれが永喜内史になったのは、至徳元〔583〕年で、徐陵の没年に当たるという。彼が詩に詠んだことが事実となったわけである。
※1行目の『風規=風諫の道』とは、それとなく諌めることである。説苑〔劉向《BC77~BC6年》作〕に「諫有五:一曰正諫、二曰降諫、三曰忠諫、四曰指諫、五曰諷諫」とあり、正諫とは真正面からの諫言、降諫はいったんリーダーの意見を受け入れた上で後から徐々にする諫言、忠諫は感情を隠さず真心を込めてする諫言、指諫は誰に憚ることなく愚直なまでにする諫言、諷諫は婉曲に諷刺する諫言であるとする。これら五種類の中で、中国人は古来「諷諫」を最上とする。それは真正面から強固に諫言すればリーダーのプライドを傷つけるだけでなく、自分の身を危うくするからである。
※2行目の『羽儀』については、『易経』漸の爻辞に
象曰、其羽可用為儀、吉、不可亂也。《象曰、其の羽用って儀と為すべしの吉は、乱るべからざるなり。》
と見える。鴻は天空に去って帰らずとも、その落とした羽は儀式の飾りにすることが出来るとの意。ここでは「永喜で治績をあげ、それが後の模範となる意」に用いている。
※5行目の「白馬君來哭」は、『後漢書』列伝71「独行伝」にある范式の『張劭が死に、葬列が墓穴の所まで来るが、棺を吊り降ろそうとしても動かない。母が棺を撫で「何か心残りがあるのか」と問い、そのまま待つ。やがて夢で親友の死を知った范式(=巨卿)が駆けつけ、彼が棺の引き綱を取ると、棺は動き出す』。という故事によるという。〔後漢書の范式については、後日調べてみるつもり〕
※最後の2行「徒労脱宝剣 空掛隴頭枝」は次の故事によるものという。
史記 呉太伯世家 第一 より
季札之初使、北過徐君。徐君好季札劍、口弗敢言。季札心知之、為使上國、未獻。還至徐、徐君已死、於是乃解其寶劍、系之徐君冢樹而去。從者曰:「徐君已死、尚誰予乎?」季子曰:「不然。始吾心已許之、豈以死倍吾心哉!」
「徐の君主はすでに死んでしまわれました。それですのに、ああして、誰に与えようというのですか」
「いや、そうではない。はじめに、徐君がわが剣を望まれたとき、わしは差し上げようと心に誓ったのだ。いま徐君が亡くなられたからといって、わが心の誓いにそむくわけにはいかないのだ」
一昨日の夕刻、我孫子市在住のIKUO氏より電話が入り、「メールを入れておいたのですが、明日午後1時過ぎに母と淺草をデートするので、立ち寄ってもよいですか?」ということ。勿論OK返事をしたが、メールを開くと、
「日高先生/お久し振りです。/明日、5月13日(日)の午後一時半頃にお伺いしても良いかお教え下さい。/久し振りに母と浅草をデートする予定です。/来月には、窪田の兄弟で母を喜寿の旅行(日光)に連れ行く予定に成っていますが、ご存知の通り、足並みが揃わず、YOSHIEが苦労をしているようです。/時間がなく申し訳ありませんが、本日中にお教え下さい。/もし時間の都合がつけば、母とお伺いさせて頂きます。/宜しくお願い致します。 I・K」とあった。
おそらく母の日のプレゼントに淺草でご馳走でもするのだろう。
昨日、午後1時過ぎ、IKUO氏が現れたが、母上の姿が見えない。遠慮して外で待っているとのこと、すぐに呼びにいってもらうことにする。家の婆様も交えて、4人で暫し歓談。聞くところに拠れば母上は週に3回の透析を行われているとのこと。1回の透析に4時間かかるということだ。
でも、日頃の生活には差し障りないのだろうか、お見かけする所、お元気のようであった。
今朝ほど写真貼付してメールしておいた。「昨日はお母上と郁夫君にご来訪戴き、お土産まで頂きありがとうございます。/いろいろと話をうかがわせて頂き大変楽しかったです。又、ついでの時にはいつでもお立ち寄り下さい。/来週の土・日は三社祭で淺草は賑わうことでしょう。/写真を貼付送信いたします。/まずは、お礼旁写真貼付まで/日高 節夫」
昨夜、マイチの奥様より携帯にメールが入った。曰く、「日高先生/ご無沙汰しております。/昨日無事に納骨すみました。/その際、墓守の方に『昨日、どなたかがお墓を訪ねて来られましたよ。』と言われました。先生だったんですね。/先生のブログ拝見しました。/写真まで載せて頂きまして、ありがとうございます。/三社祭に間に合って良かったです。/お時間があったら是非お立ち寄り下さい。/前野」
早速返信しておいた。「来週の土日は三社様のお祭り、あの場所ならYUJI君もゆっくり祭りを楽しむことが出来ますね。なにかの時にはお参りさせていただきます。わざわざのメールありがとうございました。日高」
この五月にタイに出向したSEKIチャンから僕の携帯へメールが入った。曰く、「 日高先生/会社のPCからで失礼いたします。/ご連絡が遅くなりましたが、無事にタイに着任できました。/さすがにバンコクの熱気はすさまじいものがあり、毎日が驚きの連続ですが、なんとかやっております。/是非、一度、遊びに来てください。/連絡させていただきます。S」
早速返信メールを出した。「メールありがとう。/無事に着任よかったですね。/今週末は三社祭です。参加出来なくて残念ですね。/このメールは私用であっても使ってよいものなのでしょうかね。/好いのなら、PCでのメールが遣り取りできて、便利なのですがね。写真など貼付送信も出来るしね。/これからは、メールは下記のアドレス宛にPCで送ってくださるとよいでしょう。時にはタイの珍しい写真などもね。/先ずは、メールのお礼まで/日高」
「日高先生/お久し振りです。/明日、5月13日(日)の午後一時半頃にお伺いしても良いかお教え下さい。/久し振りに母と浅草をデートする予定です。/来月には、窪田の兄弟で母を喜寿の旅行(日光)に連れ行く予定に成っていますが、ご存知の通り、足並みが揃わず、YOSHIEが苦労をしているようです。/時間がなく申し訳ありませんが、本日中にお教え下さい。/もし時間の都合がつけば、母とお伺いさせて頂きます。/宜しくお願い致します。 I・K」とあった。
おそらく母の日のプレゼントに淺草でご馳走でもするのだろう。
昨日、午後1時過ぎ、IKUO氏が現れたが、母上の姿が見えない。遠慮して外で待っているとのこと、すぐに呼びにいってもらうことにする。家の婆様も交えて、4人で暫し歓談。聞くところに拠れば母上は週に3回の透析を行われているとのこと。1回の透析に4時間かかるということだ。
でも、日頃の生活には差し障りないのだろうか、お見かけする所、お元気のようであった。
昨夜、マイチの奥様より携帯にメールが入った。曰く、「日高先生/ご無沙汰しております。/昨日無事に納骨すみました。/その際、墓守の方に『昨日、どなたかがお墓を訪ねて来られましたよ。』と言われました。先生だったんですね。/先生のブログ拝見しました。/写真まで載せて頂きまして、ありがとうございます。/三社祭に間に合って良かったです。/お時間があったら是非お立ち寄り下さい。/前野」
早速返信しておいた。「来週の土日は三社様のお祭り、あの場所ならYUJI君もゆっくり祭りを楽しむことが出来ますね。なにかの時にはお参りさせていただきます。わざわざのメールありがとうございました。日高」
この五月にタイに出向したSEKIチャンから僕の携帯へメールが入った。曰く、「 日高先生/会社のPCからで失礼いたします。/ご連絡が遅くなりましたが、無事にタイに着任できました。/さすがにバンコクの熱気はすさまじいものがあり、毎日が驚きの連続ですが、なんとかやっております。/是非、一度、遊びに来てください。/連絡させていただきます。S」
早速返信メールを出した。「メールありがとう。/無事に着任よかったですね。/今週末は三社祭です。参加出来なくて残念ですね。/このメールは私用であっても使ってよいものなのでしょうかね。/好いのなら、PCでのメールが遣り取りできて、便利なのですがね。写真など貼付送信も出来るしね。/これからは、メールは下記のアドレス宛にPCで送ってくださるとよいでしょう。時にはタイの珍しい写真などもね。/先ずは、メールのお礼まで/日高」
東坡志林 稗海本巻二 記徐陵語
徐陵多忘、每不識人、人以此咎之。曰:“公自難記、若曹劉沈謝輩、暗中摸索、亦合認得。”誠哉是言。
〔訳〕《徐陵(じょりょう)》徐陵は忘れっぽい人で、人の顔をおぼえていないのが毎々だった。人がこのことで彼を咎めると、彼は言った。
「君の顔をおぼえろといわれたって、無理な注文というもの。これがもし曹(そう)・劉(りゅう)とか沈(しん)・謝(しゃ)といった人々の顔だったら、暗闇で手探りしたって、すぐに見分けがつくんだろうがね」
全く、そのとおりである。
※徐陵(507~583年): 南朝梁、陳の文人貴族。字は孝穆(こうぼく)。梁代から文名がたかく、548年には梁朝の使節として東魏を訪問したが、江南に侯景の乱が勃発し、555年の帰国まで辛酸をなめた。陳代に尚書僕射に栄進。梁の簡文帝の皇太子時代、その東宮に父の徐摛(じょち)、および庾肩吾・庾信父子とともに奉職したころの軽艶の詩文は、〈宮体〉(宮体詩)とか〈徐廋体〉とかよばれて世にむかえられた。
※曹=曹植(そう しょく、または、そう ち、192~232年)は、中国後漢末から三国時代の人物で、魏の皇族。字は子建。陳王に封じられ、諡は思であったことから陳思王とも呼ばれる。唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた人物でもある。曹操の正嫡の三男。
劉=劉楨(りゅう てい、?~217年)は、中国、後漢末に曹操に仕えた文学者。字は公幹。建安七子の一人。東平寧陽(現山東省)の人。後漢の宗室の子孫。
沈=沈約(しん やく、441~513年)は、中国南朝を代表する文学者、政治家。呉興武康(現在の浙江省武康県)の人。字は休文。
謝=謝眺(しゃ ちょう、464~499年)は中国南北朝時代、南斉の詩人。字は玄暉(げんき)。陳郡陽夏(現河南省)の人。同族の謝霊運(385~433年)・謝恵連(394~433年)とともに、六朝時代の山水詩人として名高く、あわせて「三謝」と称される。
徐陵多忘、每不識人、人以此咎之。曰:“公自難記、若曹劉沈謝輩、暗中摸索、亦合認得。”誠哉是言。
〔訳〕《徐陵(じょりょう)》徐陵は忘れっぽい人で、人の顔をおぼえていないのが毎々だった。人がこのことで彼を咎めると、彼は言った。
「君の顔をおぼえろといわれたって、無理な注文というもの。これがもし曹(そう)・劉(りゅう)とか沈(しん)・謝(しゃ)といった人々の顔だったら、暗闇で手探りしたって、すぐに見分けがつくんだろうがね」
全く、そのとおりである。
※曹=曹植(そう しょく、または、そう ち、192~232年)は、中国後漢末から三国時代の人物で、魏の皇族。字は子建。陳王に封じられ、諡は思であったことから陳思王とも呼ばれる。唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた人物でもある。曹操の正嫡の三男。
劉=劉楨(りゅう てい、?~217年)は、中国、後漢末に曹操に仕えた文学者。字は公幹。建安七子の一人。東平寧陽(現山東省)の人。後漢の宗室の子孫。
沈=沈約(しん やく、441~513年)は、中国南朝を代表する文学者、政治家。呉興武康(現在の浙江省武康県)の人。字は休文。
謝=謝眺(しゃ ちょう、464~499年)は中国南北朝時代、南斉の詩人。字は玄暉(げんき)。陳郡陽夏(現河南省)の人。同族の謝霊運(385~433年)・謝恵連(394~433年)とともに、六朝時代の山水詩人として名高く、あわせて「三謝」と称される。
本日は爺婆の53回目の結婚記念日。当時お世話になった人々はほとんど逝ってしまった。仲人であったS先生ご夫妻は言うまでもなく、戦中戦後私を女手で育ててくれた母、結婚後ずっとお世話に成りっ放(ぱ)なしであった婆様のご両親…… 我々二人を祝福して式に参加してくれたほとんどの人々がいまは鬼籍に名を連ねる。やがて、我々もまたこの人たちの後を追うことになるのだろう。
今日はまた、今年2月2日に亡くなったYM君の「百か日」に当たる。百か日は「卒哭忌(そつこくき)」ともいわれ、故人が亡くなった悲しみに区切りをつける日で、故人への悲しみのために泣き暮らしていたのを泣きやむ日を意味するらしいが、百か日、一周忌、三回忌は中国で行われていたしきたりであると聞く。
朝食後、花川戸公園を通り、二天門を潜って、浅草寺境内へ。午前10時前というのに、修学旅行の中学生・高校生で混み合っている。仲見世の裏道を通って雷門へ。雷門通りを西進して西浅草の清光寺に行ってみる。墓守の小父さんに、前野家の墓を訊ねていると、事務受付から女子の係員が出てきて、丁寧に案内してくださった。明日の土曜日に納骨の法要が行われるとのことであった。
清光寺の山門正面に長谷川一夫の碑と岡崎屋勘六墓がある。それぞれの説明板を呼んだが、長谷川一夫の碑には略歴が書いてあるだけで、この碑が清光寺にある謂れについては触れていなかった。

岡崎屋勘六は歌舞伎の看板、番付に使われる書体を考案した人らしい。説明板に曰く、
『岡崎屋勘六』 いわゆる歌舞伎文字である勘亭流の祖。勘六は、号を勘亭と称し、延享三(1746)年江戸に生まれる。堺町(現中央区日本橋)に住み、後家流の書を指南して能書家として知られる。勘亭流の生まれるもとは、同町中村座の依頼で安永八(1779)年春の狂言の大名題を書いたことに始まるといわれている。以来、中村座の看板を書き続け、その独特の書風は鳥居派の芝居絵とともに世に流行した。天明年中(1781~88年)からは勘亭流といえる一家の書法として公表。文化二(1805)年59歳で没するまで、もっぱら劇場のための看板や番付の執筆を業とした。墓石裏面に

と、勘亭流文字で刻まれている。
スカイツリーブームで、隅田川周辺にはアート環境プロジェクト(アート作品、アートベンチ)と称して、我々凡人にはよく理解の出来ないへんちくりんな作品が建てられている。本日通った花川戸公園にも、「石の舟」と称する得体の知れない石が置かれていた。説明板に曰く、
「石の舟」 【作品解説】 以前、台東区内にあった旧福井中学校の校舎の敷石を再利用し、作品の基盤として残した。そして、その上に大きな自然の玉石を設置した。この石は、共に茨城県産花崗岩である。玉石には隣接する浅草小学校の子供たちと藝大生が協力してつくったブロンズの人や動物の頭部(顔)が110個以上埋めこまれている。
この彫刻のテーマである過去・現在・未来の時間を、これまで台東区(浅草橋)の公共施設の一部であった敷石を記憶の積層と捉え、大きな玉石を地球とみたて、皆でつくった人間や動物のブロンズが地球上に生きる多くの生き物の現在を表している。そして「石の舟」が東京スカイツリーを眺め見つめることで未来を想い、時を漂う。本プロジェクトに関わった誰もが、周囲の環境(花川戸公園)と呼応し、これから長く愛され、しっかりと地域に根付く彫刻であることを望む。
【設置場所】 花川戸公園南(台東区)
挽歌詩(其一) 晋 陶淵明
有生必有死 生有れば必ず死有り
早終非命促 早く終うるも命の促さるるにはあらず
昨暮同爲人 昨暮は同じく人たりしに
今旦在鬼録 今旦は鬼録に在り
魂氣散何之 魂氣は散じて何くにか之く
枯形寄空木 枯形を空木に寄す
嬌兒索父啼 嬌兒は父を索めて啼き
良友撫我哭 良友は我を撫して哭く
得失不復知 得失 復た知らず
是非安能覺 是非 安んぞ能く覚らんや
千秋萬歳後 千秋万歳の後
誰知榮與辱 誰か栄と辱とを知らんや
但恨在世時 但だ恨む 在世の時
飮酒不得足 酒を飮むこと 足るを得ざりしを
〔訳〕命ある者は必ず死ぬ。
若くして死んだからとて
寿命が縮まったわけではないのだ。
昨日の暮れは皆と同じく生きていたのに、
今日の朝は死者の名簿に名を連ねている。
魂は体から離れてどこへ行ったのだろう。
亡骸だけが棺おけの中に横たわっている。
まだ幼い息子が父を求めて泣き、
親しい友が亡骸を撫でて号泣している。
死者にはもう物事の得失はわからない。
まして何が良くてなにが悪いかなど、わからない。
千年万年の後はこの世の栄誉や恥辱などどうでもいいことだ。
ただ惜しいのは生きていた時、十分に酒を飲まなかったこと
今日はまた、今年2月2日に亡くなったYM君の「百か日」に当たる。百か日は「卒哭忌(そつこくき)」ともいわれ、故人が亡くなった悲しみに区切りをつける日で、故人への悲しみのために泣き暮らしていたのを泣きやむ日を意味するらしいが、百か日、一周忌、三回忌は中国で行われていたしきたりであると聞く。
『岡崎屋勘六』 いわゆる歌舞伎文字である勘亭流の祖。勘六は、号を勘亭と称し、延享三(1746)年江戸に生まれる。堺町(現中央区日本橋)に住み、後家流の書を指南して能書家として知られる。勘亭流の生まれるもとは、同町中村座の依頼で安永八(1779)年春の狂言の大名題を書いたことに始まるといわれている。以来、中村座の看板を書き続け、その独特の書風は鳥居派の芝居絵とともに世に流行した。天明年中(1781~88年)からは勘亭流といえる一家の書法として公表。文化二(1805)年59歳で没するまで、もっぱら劇場のための看板や番付の執筆を業とした。墓石裏面に

と、勘亭流文字で刻まれている。
スカイツリーブームで、隅田川周辺にはアート環境プロジェクト(アート作品、アートベンチ)と称して、我々凡人にはよく理解の出来ないへんちくりんな作品が建てられている。本日通った花川戸公園にも、「石の舟」と称する得体の知れない石が置かれていた。説明板に曰く、
この彫刻のテーマである過去・現在・未来の時間を、これまで台東区(浅草橋)の公共施設の一部であった敷石を記憶の積層と捉え、大きな玉石を地球とみたて、皆でつくった人間や動物のブロンズが地球上に生きる多くの生き物の現在を表している。そして「石の舟」が東京スカイツリーを眺め見つめることで未来を想い、時を漂う。本プロジェクトに関わった誰もが、周囲の環境(花川戸公園)と呼応し、これから長く愛され、しっかりと地域に根付く彫刻であることを望む。
【設置場所】 花川戸公園南(台東区)
挽歌詩(其一) 晋 陶淵明
有生必有死 生有れば必ず死有り
早終非命促 早く終うるも命の促さるるにはあらず
昨暮同爲人 昨暮は同じく人たりしに
今旦在鬼録 今旦は鬼録に在り
魂氣散何之 魂氣は散じて何くにか之く
枯形寄空木 枯形を空木に寄す
嬌兒索父啼 嬌兒は父を索めて啼き
良友撫我哭 良友は我を撫して哭く
得失不復知 得失 復た知らず
是非安能覺 是非 安んぞ能く覚らんや
千秋萬歳後 千秋万歳の後
誰知榮與辱 誰か栄と辱とを知らんや
但恨在世時 但だ恨む 在世の時
飮酒不得足 酒を飮むこと 足るを得ざりしを
若くして死んだからとて
寿命が縮まったわけではないのだ。
昨日の暮れは皆と同じく生きていたのに、
今日の朝は死者の名簿に名を連ねている。
魂は体から離れてどこへ行ったのだろう。
亡骸だけが棺おけの中に横たわっている。
まだ幼い息子が父を求めて泣き、
親しい友が亡骸を撫でて号泣している。
死者にはもう物事の得失はわからない。
まして何が良くてなにが悪いかなど、わからない。
千年万年の後はこの世の栄誉や恥辱などどうでもいいことだ。
ただ惜しいのは生きていた時、十分に酒を飲まなかったこと
今朝のウェブニュースより
小沢“控訴”で大ダメージ! 再び被告で復権戦略を大幅転換か ―― 資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐり、政治資金規正法違反(虚偽記載)罪で強制起訴された民主党の小沢一郎元代表(69)を無罪とした東京地裁判決について、検察官役の指定弁護士3人は9日、控訴の可否を協議し、無罪を不服として控訴する方針を決定した。小沢氏の無罪は確定せず、再び刑事裁判を抱える「被告」となる。剛腕政治家の「完全復権」は先送りとなり、今後の政治活動も大幅に制約されそうだ。
「特段、高揚や緊張はない。よく話し合って結論を出したい」
指定弁護士のまとめ役、大室俊三弁護士(62)は9日午前9時半ごろ、東京都内の個人事務所に立ち寄った際、待ち受けた報道陣に話した。大室弁護士は今月2日、「心証としては『黒』(有罪)だと思うからこそ控訴したい」と話していたが、その思いを通したことになる。
先月26日の東京地裁判決は、元秘書らによる虚偽記載を認定し、小沢氏の「事件後も収支報告書など見たこともない」という証言も、「およそ信用できない」と断定。小沢氏と元秘書の間に政治資金収支報告書の記載をめぐる「報告・了承」があったことまで認めた。/ところが、なぜか「元秘書との共謀」までは認めず、禁錮3年の求刑に対して「無罪」を言い渡した。/小沢氏や周辺議員らは大喜びしたが、「限りなく黒に近い灰色」(東京都の石原慎太郎知事)、「政界の霧はさらに深くなった」(自民党の小泉進次郎衆院議員)といった論評や感想が続出した。
通常の刑事裁判では、検察が判決に不服がある場合、上級庁(高検、最高検)と協議して控訴や上告を決定する。今回の裁判は、一般人による検察審査会での二度の起訴議決を受けて指定弁護士が強制起訴したため、指定弁護士3人で控訴を判断した。
運命の日、小沢氏は午前7時半前、黒っぽいスーツに白いマスク姿で東京都世田谷区の自宅をワゴン車で出発。知り合いを見つけたのか窓を開け、手を振る姿も。文京区の日本医大病院で診察を受け、出てきた際はマスクを外しており、その表情は硬かった。
今回の控訴は、小沢氏にとってダメージが極めて大きい。
1審無罪を受け、小沢氏は「党員資格停止」処分を解除し、完全復権に動き出す戦略を描いていた。野田佳彦首相が「不退転の決意」で進める消費税増税路線を、小沢氏は「国民への背信行為」と批判してきたが、党内最大勢力を率いる立場を生かし、さらに圧力を強めるとみられていた。
ところが、再び「被告」となり、刑事裁判を抱えることで、復権戦略は大きく方針転換されそうだ。
政治評論家の浅川博忠氏は「これで、小沢氏自身が9月の民主党代表選に出馬することは不可能になった。党の役職復帰も無理だろう。小沢グループでも『もう付いていけない』という議員が出てくる。党内各派の草刈り場となり、小沢グループは半減するのでは。小沢氏の政治力・影響力は激減する。一方、野田首相は一体改革成立に強気になり、小沢氏やグループ議員の党議拘束違反に厳しく対処するはず。離党→新党結成しても、大阪市の橋下徹市長は小沢新党とは組まないだろう」と語っている。 〔zakzak 2012.05.09〕
小沢裁判「国民騙したメディアは猛省すべき」と鳥越俊太郎氏 ―― それは、小沢一郎氏の“陸山会裁判”でも繰り返された。なぜ、新聞・テレビは捜査や裁判の冤罪構造に斬り込もうとしないのか。/ジャーナリスト・鳥越俊太郎氏は、「それは陸山会事件そのものがメディアによってつくりあげられた事件だったからだ」と指摘する。
すべてのスタートは政権交代前の2009年の「西松建設事件」だった。/検察は建設業者がダム建設の受注を有利にしようと小沢氏の事務所にお金を持っていったという古典的な贈収賄シナリオを描き、新聞にバンバンとリークしたことが発端だった。新聞はそれを検証せずに垂れ流すように書いていった。/新聞が建設会社から小沢氏にカネが渡ったのが事実のような書き方をして、それを追いかけるように特捜部の捜査が進んでいく。情報の出元は同じだから各紙横並びの記事になり、国民には、『どの新聞も書いているから小沢氏は何か悪いことをしている』という印象が植え付けられる。その繰り返しを何年も続けたので、“小沢一郎は巨悪”というイメージがつくられてしまった」(鳥越氏)
判決後にもテレビは街頭インタビューで、「無罪? おかしいんじゃないか」と答える国民の声を放映した。メディアが国民に「小沢は巨悪」のイメージを植え付け、無罪判決が出ると今度は国民に「おかしい」といわせていかにも国民が判決に納得していないように報じる。これこそ戦前のメディアが得意としていた危険な世論操作である。こんなかつて取った杵柄はしまっておくほうがよい。/鳥越氏が続ける。
「総選挙前の西松事件は政権交代を阻止する、政権交代後の陸山会事件は小沢氏を政治の中枢からできるだけ遠ざけるという特捜部の考える“正義”のための捜査だった。それにメディアが完全に乗って世論はつくられた。国民はメディアに騙されてきたのであり、メディアは猛省しなければならない」
毎日新聞記者から『サンデー毎日』編集長、テレビ朝日『スーパーモーニング』のコメンテーターを歴任し、新聞・テレビの報道第一線に立ってきた鳥越氏の発言だけに迫真性と説得力がある。(週刊ポスト2012年5月18日号)
「特段、高揚や緊張はない。よく話し合って結論を出したい」
指定弁護士のまとめ役、大室俊三弁護士(62)は9日午前9時半ごろ、東京都内の個人事務所に立ち寄った際、待ち受けた報道陣に話した。大室弁護士は今月2日、「心証としては『黒』(有罪)だと思うからこそ控訴したい」と話していたが、その思いを通したことになる。
先月26日の東京地裁判決は、元秘書らによる虚偽記載を認定し、小沢氏の「事件後も収支報告書など見たこともない」という証言も、「およそ信用できない」と断定。小沢氏と元秘書の間に政治資金収支報告書の記載をめぐる「報告・了承」があったことまで認めた。/ところが、なぜか「元秘書との共謀」までは認めず、禁錮3年の求刑に対して「無罪」を言い渡した。/小沢氏や周辺議員らは大喜びしたが、「限りなく黒に近い灰色」(東京都の石原慎太郎知事)、「政界の霧はさらに深くなった」(自民党の小泉進次郎衆院議員)といった論評や感想が続出した。
通常の刑事裁判では、検察が判決に不服がある場合、上級庁(高検、最高検)と協議して控訴や上告を決定する。今回の裁判は、一般人による検察審査会での二度の起訴議決を受けて指定弁護士が強制起訴したため、指定弁護士3人で控訴を判断した。
運命の日、小沢氏は午前7時半前、黒っぽいスーツに白いマスク姿で東京都世田谷区の自宅をワゴン車で出発。知り合いを見つけたのか窓を開け、手を振る姿も。文京区の日本医大病院で診察を受け、出てきた際はマスクを外しており、その表情は硬かった。
今回の控訴は、小沢氏にとってダメージが極めて大きい。
1審無罪を受け、小沢氏は「党員資格停止」処分を解除し、完全復権に動き出す戦略を描いていた。野田佳彦首相が「不退転の決意」で進める消費税増税路線を、小沢氏は「国民への背信行為」と批判してきたが、党内最大勢力を率いる立場を生かし、さらに圧力を強めるとみられていた。
ところが、再び「被告」となり、刑事裁判を抱えることで、復権戦略は大きく方針転換されそうだ。
政治評論家の浅川博忠氏は「これで、小沢氏自身が9月の民主党代表選に出馬することは不可能になった。党の役職復帰も無理だろう。小沢グループでも『もう付いていけない』という議員が出てくる。党内各派の草刈り場となり、小沢グループは半減するのでは。小沢氏の政治力・影響力は激減する。一方、野田首相は一体改革成立に強気になり、小沢氏やグループ議員の党議拘束違反に厳しく対処するはず。離党→新党結成しても、大阪市の橋下徹市長は小沢新党とは組まないだろう」と語っている。 〔zakzak 2012.05.09〕
すべてのスタートは政権交代前の2009年の「西松建設事件」だった。/検察は建設業者がダム建設の受注を有利にしようと小沢氏の事務所にお金を持っていったという古典的な贈収賄シナリオを描き、新聞にバンバンとリークしたことが発端だった。新聞はそれを検証せずに垂れ流すように書いていった。/新聞が建設会社から小沢氏にカネが渡ったのが事実のような書き方をして、それを追いかけるように特捜部の捜査が進んでいく。情報の出元は同じだから各紙横並びの記事になり、国民には、『どの新聞も書いているから小沢氏は何か悪いことをしている』という印象が植え付けられる。その繰り返しを何年も続けたので、“小沢一郎は巨悪”というイメージがつくられてしまった」(鳥越氏)
判決後にもテレビは街頭インタビューで、「無罪? おかしいんじゃないか」と答える国民の声を放映した。メディアが国民に「小沢は巨悪」のイメージを植え付け、無罪判決が出ると今度は国民に「おかしい」といわせていかにも国民が判決に納得していないように報じる。これこそ戦前のメディアが得意としていた危険な世論操作である。こんなかつて取った杵柄はしまっておくほうがよい。/鳥越氏が続ける。
「総選挙前の西松事件は政権交代を阻止する、政権交代後の陸山会事件は小沢氏を政治の中枢からできるだけ遠ざけるという特捜部の考える“正義”のための捜査だった。それにメディアが完全に乗って世論はつくられた。国民はメディアに騙されてきたのであり、メディアは猛省しなければならない」
毎日新聞記者から『サンデー毎日』編集長、テレビ朝日『スーパーモーニング』のコメンテーターを歴任し、新聞・テレビの報道第一線に立ってきた鳥越氏の発言だけに迫真性と説得力がある。(週刊ポスト2012年5月18日号)
5月といえば、祭りの月。東京では、来週辺りから6月にかけて、土・日といえば東京の下町のどこかでは祭礼が行われている。

徳川家康は江戸に幕府を開くに当たり、現在の大手町にあった平将門をまつる神田明神を、江戸城の鬼門に当たる北東の方角の湯島に移転し、江戸の総鎮守(守り神)に認定。神社だけでは鬼門の守りが不安なので、江戸城湯島の延長線上に寛永寺も建立。さらに、裏鬼門の南西の方角の溜池山王に日枝神社を設置、その延長線上に増上寺を作ったという。そのため、神田と山王の二つの神社の祭りは、神輿や山車が城内まで入ることが許され、天下祭りと呼ばれて規模が拡大。拡大のあまり、毎年開催すると金がかかり過ぎるようになり、交互の隔年開催と決められたそうだ。その慣習は今もつづいており、どちらの神社も、祭礼の基本となる宗教行事は毎年行うものの、神輿の出る本祭りは、2年に一度。神輿の出ない年は陰祭りと呼ばれ、今年は山王が本祭りで、神田が陰祭りになっている(祭りは地元の寄付金によって成立しており、毎年やると地元の負担が大きすぎるため、観光資源化している三社祭を除けば、下町の大きな祭りはたいてい隔年開催となっている)。
この二つが江戸の二大祭りであることには誰も文句のつけようがない事実なのであるが、日本人は元来が『三大云々』お好き。じゃあ、江戸三大祭りを選ぶってことになると、あとの一つは何かという問題になる。「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様。」と、狂歌に歌われたこともあって、江戸三大祭は「日枝神社山王祭・神田明神神田祭り・富岡八幡宮深川八幡祭り」とする向きもあるが、ここは地元びいきで、訊ねた人、答える人によってそれぞれ見解が異なってくる。

この問題に昔から名乗りを挙げているのが、浅草の三社祭りと深川富岡八幡宮の深川祭りであるという。神田・山王の祭りが武士の祭りとすれば、こちらは町人の祭り。喧嘩っ速い江戸の町人気質を反映してか、浅草と深川はことごとく対立しており、例えば、5月に行われる三社祭りでは、下に履く股引きは足首までの長いものが粋とされているのに対し、8月に行われる深川祭りでは、神輿の担ぎ手に水をかけまくるので、ボトムは膝までの短い半股引でなければならない。かけ声も、浅草が「そいや、そいや」なのに対し、深川は頑なに「わっしょい、わっしょい」。みこしの担ぎ方も、三社祭りは、別名喧嘩みこしと呼ばれるほど荒々しく、激しく上下動させるのに対し、深川祭りは、木場で材木を運ぶ要領で腰を使い上下動を抑えるのがよいとされています。深川では、上下動の激しい担ぎ方は浅草担ぎと呼ばれ、これをやっているとみこしの下からつまみ出されてしまうという始末だという。
まあ、こんな対立などせずに、武家の祭りから2つ、町家の祭りから2つ仲良く取って、江戸四大祭りとは、いかないものだろうか。
東坡志林 巻四 劉凝之沈麟士
南史:劉凝之為人認所著履、即與之、此人後得所失履、送還、不肯復取。又沈麟士亦為鄰人認所著履、麟士笑曰:「是卿履耶?」即與之。鄰人得所失履、送還、麟士曰:「非卿履耶?」笑而受之。此雖小事、然處事當如麟士、不當如凝之也。
〔訳〕《劉凝之(りゅうぎょうし)と沈士麟(しんしりん)》『南史』によると、劉凝之ははいていた履(くつ)を人から自分のだといわれて、すぐ脱いで与えた。そのあとその男が、
「失くした履が見つかりました」
といって送り返すと、彼はどうしても受け取ろうとはしなかったという。また、沈士麟も、隣人からはいていた履を自分のだといわれて、笑いながら
「あなたの履だったのですか」
といってすぐ与えた。そのあと隣人がなくした履が見つかったからといっと送り返すと、士麟は
「貴方の履ではなかったのですか」
といって、笑って受け取ったという。
これは小さなことだが、世に処するには士麟のようであるべきで、凝之のようにあってはならぬとおもうのである。
※『南史』:唐の李延寿〔生没年不詳、唐の歴史家〕撰、南朝の宋・斉・梁・陳四代のことを記した史書。
この二つが江戸の二大祭りであることには誰も文句のつけようがない事実なのであるが、日本人は元来が『三大云々』お好き。じゃあ、江戸三大祭りを選ぶってことになると、あとの一つは何かという問題になる。「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様。」と、狂歌に歌われたこともあって、江戸三大祭は「日枝神社山王祭・神田明神神田祭り・富岡八幡宮深川八幡祭り」とする向きもあるが、ここは地元びいきで、訊ねた人、答える人によってそれぞれ見解が異なってくる。
まあ、こんな対立などせずに、武家の祭りから2つ、町家の祭りから2つ仲良く取って、江戸四大祭りとは、いかないものだろうか。
東坡志林 巻四 劉凝之沈麟士
南史:劉凝之為人認所著履、即與之、此人後得所失履、送還、不肯復取。又沈麟士亦為鄰人認所著履、麟士笑曰:「是卿履耶?」即與之。鄰人得所失履、送還、麟士曰:「非卿履耶?」笑而受之。此雖小事、然處事當如麟士、不當如凝之也。
「失くした履が見つかりました」
といって送り返すと、彼はどうしても受け取ろうとはしなかったという。また、沈士麟も、隣人からはいていた履を自分のだといわれて、笑いながら
「あなたの履だったのですか」
といってすぐ与えた。そのあと隣人がなくした履が見つかったからといっと送り返すと、士麟は
「貴方の履ではなかったのですか」
といって、笑って受け取ったという。
これは小さなことだが、世に処するには士麟のようであるべきで、凝之のようにあってはならぬとおもうのである。
※『南史』:唐の李延寿〔生没年不詳、唐の歴史家〕撰、南朝の宋・斉・梁・陳四代のことを記した史書。
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