瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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ウェブニュースより
 
一時は絶体絶命も…藤井七段 逆転!王将戦今期初戦飾った ――将棋の最年少プロ棋士・藤井聡太七段(16)が12日、大阪市の関西将棋会館で指された第69期大阪王将杯王将戦(スポーツニッポン新聞社、毎日新聞社主催)の1次予選2回戦で池永天志四段(25)に153手で薄氷の勝利を収め、今期初戦を飾った。

 
一時は絶体絶命の状況まで追い込まれたが、池永の「持ち駒を勘違いした」というミスに乗じて「詰まされたらしょうがない」という怒とうの攻めで反撃。最後は1分将棋にもつれ込みながら逆転した。
https://www.youtube.com/watch?v=1qk4J7g5RjQ
 
今年度の勝率はこれで0.844438勝7敗)。中原誠16世名人が1967年度に記録した歴代1位の0.854547勝8敗)を51年ぶりに更新できるかに注目が集まるが、もう1敗もできない戦いは今後も続く。次局は連覇がかかる16日の朝日杯将棋オープン戦の準決勝、決勝。   [Sponichi Annex 2019213 05:30 ]

ウェブニュースより
 
作家堺屋太一さん死去、83歳 「団塊の世代」生みの親 ―― 戦後生まれを描き、流行語にもなった代表作「団塊の世代」で知られる作家で経済評論家の堺屋太一(さかいや・たいち、本名池口小太郎〈いけぐち・こたろう〉)さんが、8日死去した。83歳だった。

 
1935年、大阪市生まれ。60年に通商産業省(現経済産業省)に入省。日本での国際博覧会(万博)開催を提案・企画し、70年の大阪万博(日本万国博覧会)を来場者6422万人という成功に導いた。
 
時代の節目を鋭く切り取ることばで注目された。76年の「団塊の世代」は4749年生まれのベビーブーム世代を主人公とした小説。2000年以降の少子高齢化社会を言い当てる警句だった。   (朝日新聞DIGITAL 20192101320分)


 


宇野昌磨が初優勝、フリーで世界最高 四大陸選手権 ―― フィギュアスケートの欧州以外の国・地域で争う四大陸選手権第3日が9日(日本時間10日)、米カリフォルニア州アナハイムのホンダセンターで男子フリーがあり、平昌(ピョンチャン)五輪銀メダルでショートプログラム(SP)4位の宇野昌磨(トヨタ自動車)が逆転で初優勝を果たした。4回転フリップなど3本の4回転ジャンプを着氷し、ルール改正後に羽生結弦(ANA)が出した190.43点を上回る世界最高の197.36点をマーク。合計289.12点も自己最高得点を更新した。主要国際大会で6戦連続2位だったが、頂点に立った。

 
宇野は「自分はできるんだと、何も考えずに滑った。諦めないのは大事だなと思った」と語った。
 
7位の田中刑事(倉敷芸術科学大大学院)は2本の4回転サルコーを着氷し、167.61点。合計251.54点で総合7位。SP12位の友野一希(同大)は4回転サルコーの失敗が響き、132.25点。合計206.41点で12位だった。


朝日新聞デジタル 2/10 15:56)


 



 

ウェブニュースより
 
逆転の紀平!!ガッツ初V 試練乗り越え国際大会無傷の5戦5勝 ―― ショートプログラム(SP)5位の紀平梨花(16=関大KFSC)がフリーで153.14点を出し、合計221.99点で初優勝した。大会前の練習で転倒し「左手薬指第2関節の亜脱臼」を負いながら、代名詞のトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を1本決めて高得点を叩き出した。首位との5.06点差をひっくり返し、2位に14.53点差をつけるぶっちぎりV。今季の国際大会は5戦5勝で、そのうち3回が逆転になった。男子フリーは9日(日本時間10日正午から)に行われる。
 紀平がまた衝撃的な勝ち方をした。故障を抱えながら、完璧な演技で逆転V。プログラム「ビューティフル・ストーム」のフィニッシュの後、氷に膝をついたまま両手でガッツポーズ、そして、右拳を突き上げた。

 
「絶対にミスが許されないと思っていたので。全部(ジャンプで)立ったので、全部立ったんだと思い出して、素直に喜べました」。SPで代名詞のトリプルアクセルの失敗が響き5位と出遅れた。5日の練習中にジャンプで転倒し、左手薬指第2関節を亜脱臼。テーピングで固定したために、「指を伸ばしていることで空気抵抗が大きくなって」、跳ぶ感覚が狂った。
 
フリーは「もっと速く」と回転を意識した。最初に前日に失敗した大技に挑み、成功。加点も多く引き出した。通常なら次はトリプルアクセルからの連続3回転だが、ダブルアクセルに落とした。
 
「トリプル2本は難しいと感じた。無理をすることなく、安全に成績が残せるように、1本にしようと」
 
冷静な判断でリズムに乗り、ノーミス。演技構成を落としながら7本全てのジャンプでプラスの評価を得て、自己記録にあと1.58点に迫る153.14点を叩きだした。
 
1月16日から27日まで、米国コロラド州で強化合宿を張った。シーズン中初の試みは、分刻みのスケジュールで動くスケート漬けの日々。栄養にもこだわり、毎日、無農薬野菜のサラダを食べた。ジャンプも跳んだ。3月の世界選手権(さいたま市)まで使う予定だった新しいスケート靴を履きつぶすほど、跳んだ。トリプルアクセルを踏み切る側の左足だけが傷んだ。
 
帰国後、「3日間、足が動かなかった」という猛練習が、今大会のアクシデントを乗り切る原動力になった。
 
「アメリカの合宿の成果が結果に表れたと思う。頑張ったという自信があったのが良かったと思います」


浜田美栄コーチ(59)は「いや、まだまだかな。このこと(故障など)を次の勉強にしないと」と手厳しいものの、頂点に立ったことには変わりない。国際試合の無敗を継続し、ドラマチックな逆転劇も定着してきた。世界選手権(3月20日開幕、さいたまスーパーアリーナ)も日本のエースとして臨む。まだシニア1年目の16歳。シンデレラストーリーに終わりが見えない。

《浜田コーチの“魔法の言葉”》 この日の朝には、浜田コーチは紀平に児童文学「オズの魔法使い」の話をしたという。「ライオンが勇気をもらいに行きますよね。勇気をもらうためにこれ(試合に)に出て行くんだねって」。故障をはね返しての逆転Vは、財産になると感じている。演技後は「ライオンになれたね」とねぎらった。平昌五輪4位の宮原ら数々の教え子を励ましてきた“言葉の魔術師”らしく、巧みに気持ちを乗せた。


▽四大陸選手権 欧州をのぞく国と地域で争う大会。大会名はアジア、アメリカ、オセアニア、アフリカの大陸を指す。199899年シーズンから毎年開催。米国では7年ぶり5度目の開催。    [スポニチアネックス 2019210 05:30 ]


 

■昭和9年の「葉」や10年の「ダス・ゲマイネ」、11年の「虚構の春」、12年の「二十世紀旗手」などの小説中には、作品の要素として太宰自身の俳句が挿入され、また芭蕉や其角、子規らの句が散りばめられています。それは、彼の文体にも影響を及ぼします。そもそも太宰は、芥川の影響を強く受け、理知的・技巧的な文学、ダンディズムの文学、純粋芸術至上主義の文学を目ざし、新しい文学を求めたのです。新しい文体や複雑な形式を模索し、青春の感傷と情熱を注ぎ、読点を多用し、助詞を省略した文体を生みだしていきます。このころの太宰の句に、
  外はみぞれ、何を笑ふやレニン像
  歯こぼれし口の寂〈さぶ〉さや三日月
  ソロモンの夢が破れて一匹の蟻。
など、左翼運動にのめり込みながらも満たされない悲哀や芥川賞を受賞できない焦燥感が漂っています。
 
しかし、太宰のその難解な方法は理解されず、昭和1110月、“結核療養”とだまされて精神病棟に入院させられるなど半狂人扱いされ、また入院中に初代と上京していた親戚の画学生小館善四郎の過ちを知ってショックを受け、昭和12年3月、初代とカルモチン自殺未遂をおこし、結局初代と離別します。そのようなどん底の状況の下で、昭和13年9月13日、井伏鱒二は、1年近く下宿生活をしながら筆を断っていた太宰を、山梨県御坂峠の天下茶屋に呼び寄せ、精神の安定と生活の再生を図ろうとしたのです。
       
春服の色教へてよ揚雲雀    太宰 治
は、昭和141215日に、友人の高田英之助に結婚を祝して送った書簡にある句で、前書きに「奥さまには くれぐれもよろしく。」とあります。友人の高田を揚雲雀に見立て、〈結婚したばかりの奥さんは、春の幸せなどんな装いをしているのでしょうか〉と呼びかけているようです。高田夫妻は、婚約からすんなりと結婚できたわけではなかったのです。新婦の思いがいくばくであったかと思いやる太宰の優しさがあらわれた、太宰にはめずらしく明るい佳句です。このとき、井伏の媒酌で斎藤須美子と結婚した高田の似顔絵が残されています。井伏が色紙に描いたもので、その絵の横には、「ほんものはもつとわかくていい男」の太宰の賛も添えられています。

■太宰は、この年の1月8日に井伏鱒二夫妻の媒酌で結婚をし、9月に甲府から三鷹に転居したところでした。妻となった石原美知子を紹介したのが、高田英之助です。彼は、井伏の郷里・広島県福山の後輩で、慶應大学の国文科を出て、東京日日新聞(現・毎日新聞)甲府支局に勤務していました。若きころ、太宰、伊馬春部とともに作家を目指す“井伏門下の三羽ガラス”といわれた人です。井伏から「太宰の妻に誰かよい人はいないだろうか」と高田に話があり、フィアンセの須美子の女学校時代の後輩・美知子はどうか、ということになったのです。実は、その直前にも、太宰には縁談話がありましたが、太宰の風評がよろしくなく、先方から断られていたのでした。
 
■昭和13年のこの太宰と美知子の縁談は、小説「富嶽百景」にあるとおりです。「このうへは、縁談ことわられても仕方がない、と覚悟を決め、とにかく先方へ、事の次第を洗ひざらひ言つて見よう」と破れかぶれの太宰に対し、太宰の過去に目を瞑り、「ことごとしい式などは、かへつて当惑するやうなもので、ただ、あなたおひとり、愛情と、職業に対する誠意さへ、お持ちならば、それで私たち、結構でございます。」と美知子の母親。「この母に、孝行しようと思つた」太宰は、井伏に“生活の立て直し”を誓約します。

■この時期は、太宰にとって最も安定的な至福の時期でした。小説の構成や文体に大きな変化がみられ、平明で自然な落ち着いた文体となりました。“惑乱から安定へ”“絶望から希望へ”と変化したのです。「富嶽百景」「女生徒」「駈込み訴へ」「走れメロス」などの傑作が陸続と発表されます。やがて、「ヴィヨンの妻」「斜陽」「人間失格」へと日本文学史を代表する作品が生み出され、文壇の寵児への道を歩みはじめることになるのです。

春服の色教へてよ揚雲雀    太宰 治
 
■「太宰治と俳句」というと、エーッ? と思われるかもしれません。確かに、「太宰治全集(全13巻)」の第11巻「俳句」の項には、「旅人」と題した連句の発句を含めて太宰の句は16句しか掲出されていませんし、太宰の作と認められるのは33句ほどでしょうか。しかし、太宰の文体と俳句は密接な関係にあるのです。
■昭和2年に芥川龍之介が青酸カリを服毒して自殺した時、太宰は弘前高等学校の1年生で、いわゆる芥川の辞世の句「水洟や鼻の先だけ暮れのこる」を、ノートのあちこちに書き連ねています。太宰は芥川に心酔し、芥川を芸術至上主義の理想としていたのです。当時の太宰には、顎の下に手を添えた芥川と同じポーズをとった写真が多数見られますし、芥川になぞらえて、“芹川麟一郎”や“小川麟一郎”の筆名も考えていたようです。

■太宰は、やがて学業を放棄して、義太夫を習い、花柳界に出入りし、青森の料亭で15歳の芸妓紅子・小山(おやま)初代と知り合います。

■このころの太宰の俳句に、
  大川端道化に窶〈やつ〉れ幇間の
  幇間の道化窶れやみづつぱな
などがあります。これらは“衆二”の名で蔵書の表紙裏などに記されていたもので、中学から『蜃気楼』『細胞文芸』では、主に“辻島衆二”の名義を使っていました。その後は、『弘高新聞』や『猟騎兵』『座標』等に、“大藤熊太”や“小菅銀吉”の名義で左翼傾向の作品を書いています。
■ちなみに、“太宰治”の筆名の由来には、「高校の同級生太宰友次郎説」「ダダイズム説」「ダァ・ザイン(da sein =そこに存在すること)説」「堕罪説」など諸説がありますが、「友人と考えた」としか本人は語っていません。

■明治42619日、津軽の大地主で、のちに貴族院議員となる父津島源右衛門、母タ子(たね)の第10子・六男として、太宰は青森県北津軽郡金木村に生まれました。長兄総一郎・次兄勤三郎の二人が夭折し、弟も早く亡くなり、芥川の境遇に似て、叔母のキヱ(きゑ)を実母のごとくにして育てられ、早熟で異常に感受性の強い子供でした。16歳のころから、同人雑誌に小説やエッセイを書きはじめています。太宰が14歳の時、父の源右衛門が病没し、三男の文治が家督を継ぎます。

■昭和4年12月、カルモチンを服用して、太宰は最初の自殺未遂を起こします。自分の出身階級に悩んでのことといわれていますが、太宰自身は、“微笑するだけ”で答えていません。翌年の4月、21歳で東京大学フランス文学科に入学、かねてから尊敬していた「山椒魚」の作者井伏鱒二に弟子入りします。青森から初代を呼び寄せ、同棲。1124日に兄文治が小山家と結納を交わしますが、翌日、銀座のカフェの女給田部あつみ(シメ子・19歳)と出会い、3日間を共に過ごした後、神奈川県の小動崎(こゆるがさき)の岩の上で心中を図ります。シメ子は死亡、太宰は一命を取り留め、翌12月、青森で初代と仮祝言をあげます。
 
■しだいに左翼運動に傾倒し、昭和10年、太宰は授業料未納により大学を除籍、都新聞社の入社試験にも失敗し、316日、鎌倉八幡宮の山中で縊死を企てますが未遂におわります。その直後、盲腸炎から腹膜炎を併発し、入院先で鎮痛のために使用した麻酔剤(パビナール)をきっかけにして、薬物の中毒地獄に陥ります。
太宰の自伝的な作品「東京八景」に昭和7年「朱鱗堂と号して俳句に凝つたりしてゐた」とあり、また、同年812日の沼津から青森の親戚・小館善四郎に宛てた書簡に、「一昨晩近所の俳句好きの青年たちと俳句に就いて語り合ひました」とあります。相当に俳句に入れ込んでいたことがわかります。

 このころの太宰の句に、
  旅人よゆくて野ざらし知らやいさ
  今朝は初雪あゝ誰もゐないのだ
  亀の子われに問へ春近きや
  老ひそめし身の紅かねや今朝の寒
などがあり、孤独感が漂う、破調の句が目立ちます。


 

ウェブニュースより
 
藤井七段、連勝新記録ならず=昇級も持ち越し-将棋・順位戦 ―― 将棋の最年少棋士、藤井聡太七段(16)が5日、大阪市で指された第77期名人戦・順位戦C級1組の対局で近藤誠也五段(22)に負け、今期8勝1敗とした。藤井七段はデビュー以来、順位戦で勝ち続けていたが、連勝記録は1月に中原誠十六世名人(71)と並んだ史上最長タイの18連勝で止まった。

https://www.youtube.com/watch?v=Y9r4OO4fHVs


師匠の杉本昌隆七段(50)も同日、同組で船江恒平六段(31)と対局して負け、8勝1敗とした。この日、師弟共に勝てばそろってB級2組への昇級が決まったが、これで4人が8勝1敗で並び、昇級者決定は3月5日の最終戦に持ち越しとなった。

https://www.youtube.com/watch?v=cfwgf5xUco4


 藤井七段は「昇級は他力の状況になってしまったが、最後の1戦に全力を尽くしたい」と話した。    (時事通信社 201902052359


 

昨日は節分、グレゴリオ暦での最初の節分となった1873年から22世紀初頭までの具体的な日付は表のようになります(重複している年はどちらの欄を使っても正しい日付が出ます)。節分の日付は数十年のスケールで徐々に前倒しになってきますが、4で割り切れても閏年とならない1900年、2100年、2200年……の翌年に1日遅れて帳消しとなるようです。
 
江戸時代以降からは「節分」といえば立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多く、これは旧暦の新年の始まりに相当する「立春」の前日にあたる節分がもっとも重要視されたためだと考えられています。
 
1984年までは、4年に1度の閏年は2月4日が節分でしたが、2025年から(2021年からになる可能性あり)は閏年の翌年に2月2日が節分になります。

 
立春は太陽黄経が315度となる日てす。したがって、天体の運行に基づいているので、日付は年によって異なり、また未来の日付は軌道計算に基づく予測しかできないようです。

 
因みに、私は1932(昭和7)年2月4日の生まれです。1932年2月4日は節分だったので、節夫なんて名前を付けられました。お袋は、學校へ行くようになったら皆から「セッチン」なんて呼ばれるから可哀想だと反対したそうですが、全くその通りになりました。


節分に豆をまく「豆まき」の行事は、「追俄(ついな)」と呼び、中国から伝わっ た風習です。魔(マ)を滅(メっ)するから、マメを撒くのだといいます。
 
「追俄(ついな)」の行事は、俗に「鬼やらい」「なやらい」「鬼走り」「厄払い」「厄おとし」「厄神送り」と呼ばれ、疫病などをもたらす悪い鬼を追い払う儀式で、日本では文武天皇の慶雲3年 (706) に宮中で初めて行われたといわれています。
 
豆は「煎った大豆」でなければなりません。生の豆は、そこから芽が出てきます。「魔」から目が出てくるということで、大変、縁起が悪いとされています。
 
(いわし)の頭を、柊(ひいらぎ)の小枝に刺して戸口に挿す風習いわゆる「柊いわし」は、近世以降行われるようになったものです。西日本では、節分に鰯を食べる習慣があるようです。
 
鰯を焼くと出る激しい煙と臭いで邪気を追い払い、そして柊の針で鬼の眼を刺すという魔よけの意味があります。主に西日本では鰯を食べる習慣がありますが、これは節分いわしに由来しています。
 
節分に「恵方巻」を食べる風習は、福を巻き込むという意味と、縁を切らないという意味が込められ、恵方(えほう)に向かつて巻寿司を丸かぶりします。
 
願い事をしながら恵方巻を食べる場合には、恵方巻を食べている間は願い事がかなうように祈り続けるために恵方巻を食べている間はしゃべってはいけない事になっているようです。主に大阪の船場で行われていた風習のようですが、大阪海苔問屋協同組合が道頓堀で行っ た「巻き寿司のまるかぶり」のPRイベントがマスコミに取り上げられて関西地方に広まり、のちにコンビニ等でも販売され全国ヘ広まっていきました。
 
恵方巻の名称は1998年(平成10年)にセブン-イレブンが全国発売にあたり、商品名に採用したことによるとされています。それ以前は「丸かぶり寿司」などと呼ばれておりました。
 
「恵方巻」の認知度も年々上がってきており、いまやほとんどの人が知っており、「豆まき」よりも「恵方巻を食べる」ほうが、上回っています。
 
いまや、「恵方巻」市場は150億円を超える市場になっており、スーパーやコンビニエンスストアでも無視できない商品になっているようです。
 
「恵方巻」は、ネーミングの多様化、高級ネタ化、スリム化、キャラクター使用そして、変わり種として「恵方ロールケーキ」「恵方ロールサンド」「恵方飲み(日本酒)」など更に、ヒートアップしそうである。
 
恵方巻を食べる時に向く方角は、その年の福徳を司っている歳徳神(としとくじん)という神様がいる方向に向かって行います。この歳徳神が居る方向は、基本的には、4つの方角になるようです。


 


 

ウェブニュースより
 
サッカー、日本は5度目Vならず カタールに1―3で敗れる ―― 【アブダビ共同】サッカーのアジア・カップ最終日は1日、アラブ首長国連邦(UAE)のアブダビで決勝が行われ、日本がカタールに1―3で敗れ、2大会ぶり5度目の優勝はならなかった。自国開催する2022年のワールドカップ(W杯)に向け強化を図るカタールは初の決勝進出でアジア制覇を果たした。

 
国際サッカー連盟(FIFA)ランキング50位の日本は同93位のカタールに前半、2点を先行された。後半に南野(ザルツブルク)のゴールで1点を返したが、PKで追加点を許した。16強入りした昨年のW杯ロシア大会後に就任した森保監督は12戦目で初黒星を喫した。   (東京新聞 201922 0112分)


「日本は攻撃の道筋を見失なった」AFC公式が歴史的結末となったアジアカップ決勝を詳報! ―― 「カタールにとっては記録づくめの歴史的な夜」 現地時間2月1日、UAE・アブダビで行なわれたアジアカップ2019決勝。日本代表がカタール代表と雌雄を決した頂上決戦は、1-3の完敗に終わった。

 
立ち上がりから緩やかにボール支配を高めた森保ジャパンだったが、縦へのクサビのパスがなかなか入らず、攻撃に閉塞感が生まれる。すると12分、カウンターからアルモエズ・アリに鮮やかなバイシクルをねじ込まれて被弾。さらに27分にはアブデルアジズ・ハティムに強力な左足ミドルを決められ、まさかの2点リードを奪われてしまう。
 
パススピードを速めて敵を左右に揺さぶり、FKCKからも好機を探った日本だが、決定的なチャンスを掴むには至らない。フラストレーションが募る形でハーフタイムを迎えた。
 
後半は運動量が落ちた相手に対して、ボール支配をグッと高め、日本はさらに攻勢を強めた。そしてようやく69分に南野拓実のゴールで1点を返し、そこから一気に畳みかけたかったが……。83分にVARから吉田麻也のハンドでPKを献上し、スコアを1-3とされて万事休す。2大会ぶりのアジア制覇は露と消えた。
 
カタールが凱歌を上げた一戦を速報でレポートしたのが、AFC(アジア・サッカー連盟)の公式サイトだ。「カタールが歴史的なタイトルをもぎ獲る」と題して、マッチレポートを掲載。要約してお伝えしよう。
 
「カタールにとってはまさに記録づくめの夜となった。初のファイナルは、アリの大会新記録となる9得点目で幕を開け、ハティムのセンセーショナルなゴールでリードを広げた。ミナミノのゴールで1点差に詰められてしまうが、チーム一丸となって敵に傾きつつあった流れを食い止め、PKでふたたび2点差としたのだ。歴史的な勝利に歓喜が弾けた!」
 
一方で日本代表については、「いつも通りの分厚い攻撃を仕掛けたものの、カタールが築いた5バックの人垣を打破できなかった」と指摘し、「相手守備陣が隙を与えてくれず、数多のコーナーキックでチャンスを掴んだもののひとつもゴールに結びつけられなかった。日本の攻撃は、どこか道筋を見失なっていたようだ」と評している。
 
無念にも準優勝で大会を終えた森保ジャパン。この敗北を糧とし、いかに強化を進めていくのか。3月下旬の国際Aマッチウイークではコロンビア、ボリビアの南米勢を迎え、6月のコパ・アメリカに備える。   (サッカーダイジェストWeb編集部 20190202


 

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月・木・金、そろって天体ショー 東京スカイツリー周辺 ―― 月と木星、金星が1月31日の夜明け前、南東の空で「共演」した。東京スカイツリー(東京都墨田区)の周辺では、塔本体を挟んで細い月の下に木星、左に金星が輝く天体ショーが見られた(写真は午前5時54分、佐藤純哉さん撮影)。

 
国立天文台によると、天気がよければ2月1日未明には金星の下に月が見えるという。   (朝日新聞DIGITAL 1/31() 23:04配信) 


小山田古墳、最大級方墳と判明 被葬者は天皇か蘇我氏か ―― 2014年に養護学校の建て替え工事に伴って発見され、7世紀中ごろに造られた未知の古墳とされる奈良県明日香村の小山田(こやまだ)古墳について、方形の古墳(方墳)の南辺の長さが80メートル以上になることがわかった。県立橿原(かしはら)考古学研究所(橿考研)が31日発表した。千葉県栄町の岩屋古墳(長辺約78メートル、7世紀)や、各地の天皇陵を上回り、飛鳥時代の国内最大規模を誇る巨大方墳だったとみられる。天皇陵なのか、あるいは豪族・蘇我氏の墓なのか。被葬者像をめぐる議論にも弾みがつきそうだ。

 
橿考研によれば、昨年12月下旬から古墳の西南端付近にあたる約64平方メートルを発掘調査し、墳丘西端と想定される裾部がみつかった。14年の調査では古墳北辺に石張りの大きな掘割(ほりわり、濠〈ほり〉)が出土。北辺の長さは約70メートルとされたが、今回、南辺の長さは80メートルを超えることが明らかになった。
 
また、結晶片岩や「榛原(はいばら)石」の板石の破片も多数みつかった。14年の調査でも、北辺の掘割の斜面に結晶片岩と榛原石が階段状に積み上げられた遺構が出土し、西辺でも同じように板石が積み上げられた可能性が高いとみられる。
 
小山田古墳の規模は、聖徳太子の父、用明(ようめい)天皇陵とされる大阪府太子町の春日向山古墳(長辺66メートル)や、蘇我馬子(うまこ、?~626年)の墓とされる奈良県明日香村の石舞台古墳(一辺約50メートル)などを上回る。
 
小山田古墳の被葬者像をめぐっては、飛鳥時代前半に即位した舒明(じょめい)天皇(在位629641年)と、天皇をしのぐほどの権力を持ったとされるが、645年の大化改新で滅ぼされた蘇我蝦夷(えみし)とする見方がある。舒明天皇説は「日本書紀」の記述をもとに、最初に小山田古墳に葬られた後に奈良県桜井市の段ノ塚(だんのづか)古墳(押坂内陵〈おさかのうちのみささぎ〉)に改葬されたと主張。蝦夷説も「日本書紀」が伝える蝦夷と入鹿(いるか)の親子が生前に造ったとされる「双墓(ならびのはか)」のうち、蝦夷の墓とされる「大陵(おおみささぎ)」が小山田古墳だったとみる。
 
 
舒明天皇説を主張する木下正史・東京学芸大学名誉教授(考古学)は「飛鳥の中心部から離れた新たな宮殿の百済宮(くだらのみや)や国内最古の国家寺院の百済大寺(くだらのおおでら)を造営するなど、政治の中心にいた舒明天皇にふさわしい大きさだ」。一方、蘇我蝦夷説の立場をとる白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は「蝦夷が天皇墓より大きな古墳をつくるぐらいの権力を持っていたのでは」とみる。   (朝日新聞DIGITAL 20191311916分)


 

ウェブニュースより
 
藤井七段に敗れた中村六段、ドレッドヘア「なりゆきで」 ―― 将棋の高校生棋士、藤井聡太(そうた)七段(16)が30日、大阪市福島区の関西将棋会館で指された第45期棋王戦(共同通信社主催)の予選で中村亮介(りょうすけ)六段(33)に82手で勝った。藤井七段はこれで公式戦10連勝。2018年度の成績は43対局を戦って37勝6敗、勝率は8割6分0厘となった。中原誠十六世名人(71)が1967年度に達成した歴代勝率1位(47勝8敗、勝率8割5分5厘)の記録を更新する可能性もある。

 
対局は午前10時に始まり、午後7時13分に終局した。終局後、藤井七段は「中盤で少し誤算があって、自信の無い展開になってしまった。最後はなんとか逃げ切り、しのぐことができたかなと思います」、中村六段は「結構、大変(難しい形勢)かなと思ったんですが。最後は、あまされちゃった感じですね」と振り返った。

https://www.youtube.com/watch?v=376klJ1S_a4


藤井七段の次の対局は2月5日、名人戦(朝日新聞社、毎日新聞社主催)の予選にあたるC級1組順位戦で近藤誠也五段(22)と対戦する。藤井七段にとって順位戦で通算19連勝という新記録がかかるほか、自らと師匠の杉本昌隆七段(50)がそろって勝てば、師弟での昇級も決まる。藤井七段は「重要な対局です。順位戦なので先手後手があらかじめ決まっているので、準備をするのはもちろんなんですが、何より、いつもと変わらず、落ち着いた気持ちで臨めれば、と思っています」と話した。ドレッドヘアでの対局について質問された中村六段は「たいした意味はないんです。(「気合を入れた?」と問われて)まあ、そうだったんですけど、完敗でしたね。(「この日のために?」と問われて)いや、そんなことではないんです。(髪を)伸ばしてたんで、なりゆきで……」と答えた。
 
ログイン前の続き棋王戦は、将棋界に八つあるタイトル戦の一つ。全棋士と女流名人、アマ名人が参加。予選がトーナメントで行われ、その通過者とシード者で挑戦者決定トーナメントが行われる。挑戦者決定トーナメントはベスト4以上は2敗失格制で、敗者復活戦がある。挑戦者決定戦は変則二番勝負で、勝者組の優勝者は2局のうち1回勝てば挑戦権を獲得できるが、敗者復活戦の優勝者は2連勝が挑戦の条件となる。挑戦者と棋王は、例年2~3月に五番勝負を行っている。
 藤
井七段が対局した予選は、2020年2~3月に予定される第45期棋王戦五番勝負の挑戦者を決める戦い。その予選には141人が参加し、8組に分かれてトーナメントを戦っている。藤井七段はデビュー以来、棋王戦は2期連続で予選を突破したが、挑戦者決定トーナメントの初戦で敗退。今回が3期目。
 
藤井七段のデビュー以来の通算成績は126対局を戦い、10818敗となった。
 
一方、今年2~3月に行われる第44期棋王戦五番勝負では、渡辺明棋王(34)に広瀬章人(あきひと)竜王(32)が挑戦する。   (朝日新聞DIGITAL 佐藤圭司 20191302241分)


 

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目高 拙痴无
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