瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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鐘つけば銀杏ちるなり建長寺


これは、正岡子規のとりなしで明治2896日の『海南新聞』(愛媛県の地方紙。現在の『愛媛新聞』)に掲載された夏目漱石の句です(『漱石全集』第12巻所収)。漱石はこの年の4月、友人の菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(松山中学校)の英語教師として赴任します。漱石の俸給は校長よりも20円高く月額80円(当時の子規は340円)という破格の待遇でした。


  


  日清戦争の従軍記者として中国にいた子規は病を得て喀血、神戸病院に入院、そして須磨の保養所に転地します。このとき付き添っていたのが高浜虚子でした。子規はその後、療養のため松山に帰郷、827日に漱石の下宿である「愚陀仏庵」に転がり込み、1017日まで居候を決め込みます。


2階に漱石、1階に子規が住むという生活が始まると、連日、子規の門下生が押しかけ、深夜まで句会が行われました。のちに「ほとときす」を創刊する柳原極堂のほか、中村愛松、野間叟柳、伴 狸伴、村上霽月、御手洗不迷らの松山松風会の面々です。その句会により、本を読むどころではなく、〈止むを得ず俳句を作つた〉のが、先の漱石の句です。漱石は、子規の弟子として実に2,450もの俳句を作ったといわれています。ちなみに、八木 健氏により、平成21年の夏に「愚陀仏庵」で114年ぶりに「松風会」の句会が復活しています。


 


  掲句にある建長寺は、巨福山建長興国禅寺といい、鎌倉五山の第一位とされる臨済宗建長寺派の大本山です。今から756年前の建長5年(1253年)に後深草天皇の勅命で鎌倉幕府五代執権北条時頼が建立したわが国最古の禅寺です。


 


 漱石のこの句は、一見、見たままを素直にありのままに詠んだ句のようです。


 ところで、この句、どこかでみたことがあるような…。そうです。子規のもっとも有名な、


  〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺


です。この子規の句は、漱石の句よりも2か月後の明治28118日の『海南新聞』に発表されます。東京に帰る途中、子規は漱石から10円を借り、奈良に立ち寄り、人口に膾炙されるこの句を詠んだのです。


奈良で5個も6個も柿を食べた子規は、〈柿などゝいふものは従来詩人にも歌よみにも見離されてをるもので、殊に奈良に柿を配合するといふ様な事は思ひもよらなかつた事である。余は此新しい配合を見つけ出して非常に嬉しかつた。〉(「くだもの」明治34年)と回顧しています。


 


 しかしこのとき、子規が実際に聞いたのは東大寺の鐘の音であったようです。そればかりではありません。子規は明治30年の蕪村忌に、漱石を柿になぞらえて、〈漱石君 ウマミ沢山 マダ渋ノヌケヌノモマジレリ〉(「発句経譬喩品」)と評しているのです。当時の漱石には写生という概念はなく、俳句はレトリックとアイデアで作ることを信条とし、俚言や先行の俳句を換骨奪胎した俳句を沢山作っています。一方の子規も、明治28年ころは、まだ言葉遊びの句を作っています。


 


 そこで漱石の先の句は、「金が尽けば食べるのにも困るであろう」と子規に投げかけ、大阪・奈良で漱石から借りた金を使い果たしてしまった子規は、「漱石というウマミの柿を食えば金が成ってくるのだよ」と、漱石に応えている挨拶句のようでもあるようですが、これは穿ち過ぎでしょうか。 


 


 夏目漱石は小説「坊っちゃん」「吾輩は猫である」などを書いた大文豪として知られていますが、俳人でもあります。


 生涯で2,527句を作り、『漱石俳句集』(191711月、岩波書店)『漱石詩集 印譜附』(19196月、岩波書店)といった、俳句集も出版しています。


 漱石は明治時代を代表する俳人、正岡子規と親友でした。


 彼らは帝国大学の学友です。知り合ったのは大学に入る前の大学予備門でのことです。


 子規が書いた『七草集』(しちそうしゅう)という漢詩文集を漱石が読んで批評し、漱石が書いた紀行文集『木屑録』(ぼくせつろく)を子規が読んで批評する、という形で交流を深め、仲良くなっていきました。


 漱石という雅号が初めて使われたのも、『木屑録』からでした。これは正岡子規から譲り受けた物で、漱石の本名は、夏目金之助と言います。


「ふつう、英書を読むものは漢書が読めず、漢書が読めるものは英書が読めないものだが、両方できるきみは、千万中のひとりといっていい」


と正岡子規は、夏目漱石の才能を絶賛しました。


 1893年に帝国大学英文科を卒業した漱石は、2年後、英語教師として松山の中学校に赴任します。この際の下宿先・愚陀仏庵に、1895827日、正岡子規が居候したことをきっかけに、俳句作りを始めるようになりました。この時、漱石は28歳です。


 漱石は、本当は本が読みたかったようなのですが、子規が仲間を大勢集めて句会を開いていたため、うるさくて勉強に集中できず、仕方なくその輪に加わったようです。


永き日や欠伸うつして別れ行く


 漱石は翌年、松山を去った子規に、このような別れの句を送っています。


 どこかユーモラスな響きを伴った句ですね。


 漱石は、滑稽でなユーモア性に溢れた俳句を残しています。


本名は頓とわからず草の花


 こちらは、一読して思わず噴き出してしまいそうになりました。


 草や花の名前を調べて覚えることが、俳句作りの基礎訓練ですが、そういった常識をすっ飛ばしています。


 正岡子規に聞かせたら、月並み句として叱られそうな句ですね。


脱いで丸めて捨てて行くなり更衣(ころもがえ)


 こちらもスピード感のある滑稽な句です。


 江戸っ子だったという漱石の性格を反映しています。


 ただ、漱石は滑稽な句だけでなく、風雅の趣のある句も残しています。


秋の江に打ち込む杭の響きかな


 これなどはなかなか味わい深い句だと思います。


 漱石は、松山で子規と別れてからも句作を続けました。作品が溜まるとそれらをまとめて東京で新聞記者をやっていた子規に送り、子規がその中から良い作品を選んで、新聞の俳壇に掲載したことから、俳句界で名が知られる存在になっていきました。


 その後も二人の親交は続き、1902年イギリスに留学中だった漱石は、高浜虚子から正岡子規の死の知らせを聞き、次のような句を残しています。


招かざる薄(すすき)に帰り来る人ぞ


 夏目漱石と言えば、1905年、38歳の時に『吾輩は猫である』で小説家デビューしたので有名です。俳人・高浜虚子が神経衰弱に陥っていた彼の気晴らしなればと、俳句雑誌ホトトギスに掲載する文章を書かないかと勧めたのが切っ掛けで、執筆されました。


 『吾輩は猫である』は大好評となり、当時、3,4000部程度の発行部数だったホトトギスは増刷を繰り返し、8,000部にも達したそうです。この作品のおかげで、ホトトギスの売れ行きも好調になったのですね。


 『吾輩は猫である』は、彼が実際に飼っていた猫を、主役の猫のモデルにしています。漱石はこの猫にかなりの思い入れがあったようで、


行く年や猫うずくまる膝の上


 というほのぼのした句を残しています。


 


個人データ


出自・家族構成


 明治維新のまっただ中、186729日(慶応315)に江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)で生まれました。53女の末子です。


 この年には、正岡子規も生まれており、二人は同級生です。この翌年に年号が明治に変ります。


 父、夏目小兵衛直克は牛込から高田馬場一帯を治めている名主で、家はかなり裕福でした。しかし、明治維新によって名主が没落しつつあったためか、すぐに里子に出されます。その後、連れ戻されるも、一歳の頃に養子に出され、養父母の離婚が原因で生家に戻るなど、家庭環境はかなりゴタゴタしていました。



 29歳の時、貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子とお見合いして、婚約を決めます。二人が結婚したのは、その約半年後の18966月です。


 


 漱石には五千円札の肖像になった女性作家・樋口一葉との縁談もあったという説がありますが、定かではありません。夏目漱石と樋口一葉の父親が同僚だったからです。



 漱石は持病の神経衰弱に苦しみ、妻の鏡子にたびたび暴言を吐くなど、辛くあたった時もあったそうです。ただ、夫婦仲は悪くなく、鏡子は漱石の精神病を理解し、支えになってくれました。


子供


 18995月、33歳の時に、長女・筆子が生まれます。


 その際、漱石は


安々と海鼠(なまこ)の如き子を生めり


 という句を詠んでいます。筆子の名の由来は、妻の字が下手だったので、娘は字が上手な子に育って欲しい、ということから、だったそうです。


 漱石は2男5女の子宝に恵まれましたが、子供たちはかんしゃく持ちの父親を怖がってあまり懐かなかったようです。



性格


 芥川龍之介は「夏目さんは私の知っている限りの誰よりも江戸っ子でした」と語っています。人情に厚く、人の世話をしたり、弟子を集めるのが好きだったようです。漱石は、芥川龍之介の小説『鼻』を「「あなたのものは大変大変面白いと思います。落ち着きがあって巫山戯ていなくって自然そのままの可笑味がおっとり出ている所に上品な趣味があります」と手紙で褒めています。芥川龍之介はこれを大変喜んだそうです。


 


 また、非常にまじめで潔癖症であり、かんしゃく持ちであったと言われています。イギリス留学中にノイローゼを発症し、被害妄想に悩まされるなど、躁鬱的な傾向があったようです。


名前・俳号


 本名は夏目金之助(なつめきんのすけ)と言います。


 漱石は、正岡子規から譲り受けた雅号(ペンネーム)です。


 『漱石』の名は、数ある子規の俳号の一つでした。負け惜しみが強い変人という意味の故事「漱石枕流」に由来します。


 漱石の俳号は、愚陀佛(ぐだぶつあん)と言います。漱石が愛媛県松山市に赴任していた時の下宿先、『愚陀仏庵』がその由来です。彼はここで俳句の世界に入っています。


日本俳句研究会 「俳人列伝」より


 


 10月9日(火)に、中尾有爲子女史に訪問の礼状を送りました。曰く、


 拝啓


 先日(10月4日)は御多忙中さらに遠路のところを、お訪ねくださり、その上お土産や本まで戴き有難うございます。


 楽しくてためになるお話をたくさん聞かせていただき、子規庵にまでお付き合いいただき、お陰で充実した1日になりました。


 10月5日~10月7日の私のブログは貴女と東樹君の来訪の事と、子規庵について書かせて戴きました。


 ブログをプリントしてお送りいたします。


 ブログの写真はthumbnail表示になっているので、元の大きさにして印刷しておきました。なお、子規庵で貰ったパンフレットから引用したものは、拡大しないでそのままにして置きました。


 何せ、右の耳が全く聞こえませんので、ブログの記事に聞き違いがあるかもしれません。その場合はお許しください。


 字が小さくて、読みづらいと思いますが、通り一遍に読み流してくだされば幸甚です。


 何せ私ども二人とも半病人のようなものなれば、何のおもてなしも出来ませんでした。どうか、これに懲りずに機会があればまたお訪ねください。またの日を楽しみにしています。


 その日まで、お互いに体調など崩さずに元気でいましょう。


 連休で郵便局が休みで、発送が遅れてしまい申し訳ありせん。


敬具


  201810月8日


中尾有爲子 様


日高節夫 拝


 


 今夕、女房が郵便受けから夕刊と一緒に有爲子女史からの手紙を取り出してきました。有爲子女史の女子の手紙に曰く、


 

正岡子規                夏目漱石


 正岡の食意地の張った話か。ハヽヽヽ。そうだなあ。なんでも僕が松山に居た時分、子規は支那から帰って来て僕のところへ遣(や)って来た。自分のうちへ行くのかと思ったら、自分のうちへも行かず親族のうちへも行かず、此処(ここ)に居るのだという。僕が承知もしないうちに、当人一人で極(き)めて居る。御承知の通り僕は上野の裏座敷を借りて居たので、二階と下、合せて四間あった。上野の人が頻(しき)りに止める。正岡さんは肺病だそうだから伝染するといけないおよしなさいと頻りにいう。僕も多少気味が悪かった。けれども断わらんでもいいと、かまわずに置く。僕は二階に居る、大将は下に居る。其うち松山中の俳句を遣(や)る門下生が集まって来る。僕が学校から帰って見ると、毎日のように多勢来て居る。僕は本を読む事もどうすることも出来ん。尤(もっと)も当時はあまり本を読む方でも無かったが、兎(と)に角かく自分の時間というものが無いのだから、止むを得ず俳句を作った。其から大将は昼になると蒲焼(かばやき)を取り寄せて、御承知の通りぴちゃぴちゃと音をさせて食う。それも相談も無く自分で勝手に命じて勝手に食う。まだ他の御馳走(ごちそう)も取寄せて食ったようであったが、僕は蒲焼の事を一番よく覚えて居る。それから東京へ帰る時分に、君払って呉れ玉えといって澄まして帰って行った。僕もこれには驚いた。其上まだ金を貸せという。何でも十円かそこら持って行ったと覚えている。それから帰りに奈良へ寄って其処そこ)から手紙をよこして、恩借の金子きんす)は当地に於(おい)て正に遣つか)い果は)たし候とか何とか書いていた。恐らく一晩で遣ってしまったものであろう。


 併(しか)し其前は始終(しじゅう)僕の方が御馳走ごちそうになったものだ。其うち覚えている事を一つ二つ話そうか。正岡という男は一向学校へ出なかった男だ。それからノートを借りて写すような手数をする男でも無かった。そこで試験前になると僕に来て呉く)れという。僕が行ってノートを大略話してやる。彼奴(あいつ)の事だからええ加減に聞いて、ろくに分っていない癖(くせ)に、よしよし分ったなどと言って生呑込(なまのみこ)みにしてしまう。其時分は常盤会(ときわかい)寄宿舎に居たものだから、時刻になると食堂で飯を食う。或時又来て呉れという。僕が其時返辞をして、行ってもええけれど又鮭(さけ)で飯を食わせるから厭(いや)だといった。其時は大に御馳走(ごちそう)をした。鮭を止めて近処の西洋料理屋か何かへ連れて行った。


 或日突然手紙をよこし、大宮の公園の中の万松庵に居るからすぐ来いという。行った。ところがなかなか綺麗きれいなうちで、大将奥座敷に陣取って威張っている。そうして其処そこで鶉うずらか何かの焼いたのなどを食わせた。僕は其形勢を見て、正岡は金がある男と思っていた。処が実際はそうでは無かった。身代を皆食いつぶしていたのだ。其後熊本に居る時分、東京へ出て来た時、神田川へ飄亭(ひょうてい)と三人で行った事もあった。これはまだ正岡の足の立っていた時分だ。


 正岡の食意地の張った話というのは、もうこれ位ほか思い出せぬ。あの駒込追分奥井の邸内に居った時分は、一軒別棟べつむねの家を借りていたので、下宿から飯を取寄せて食っていた。あの時分は『月の都』という小説を書いていて、大に得意で見せる。其時分は冬だった。大将雪隠(せっちん)へ這入はいるのに火鉢(ひばち)を持って這入る。雪隠へ火鉢を持って行ったとて当る事が出来ないじゃないかというと、いや当り前にするときん隠しが邪魔になっていかぬから、後ろ向きになって前に火鉢を置いて当るのじゃという。それで其火鉢で牛肉をじゃあじゃあ煮て食うのだからたまらない。それから其『月の都』を露伴に見せたら、眉山(びざん)、漣(さざなみ)の比で無いと露伴もいったとか言って、自分も非常にえらいもののようにいうものだから、其時分何も分らなかった僕も、えらいもののように思っていた。あの時分から正岡には何時(いつ)もごまかされていた。発句も近来漸(ようや)く悟ったとかいって、もう恐ろしい者は無いように言っていた。相変らず僕は何も分らないのだから、小説同様えらいのだろうと思っていた。それから頻(しき)りに僕に発句を作れと強(し)いる。其家の向うに笹藪(ささやぶ)がある。あれを句にするのだ、ええかとか何とかいう。こちらは何ともいわぬに、向うで極き)めている。まあ子分のように人を扱うのだなあ。


 


 又正岡はそれより前漢詩を遣(や)っていた。それから一六風か何かの書体を書いていた。其頃僕も詩や漢文を遣っていたので、大に彼の一粲(いっさん)を博した。僕が彼に知られたのはこれが初めであった。或時僕が房州に行った時の紀行文を漢文で書いて其中に下らない詩などを入れて置いた、それを見せた事がある。処が大将頼みもしないのに跋(ばつ)を書いてよこした。何でも其中に、英書を読む者は漢籍が出来ず、漢籍の出来るものは英書は読めん、我兄の如きは千万人中の一人なりとか何とか書いて居った。処が其大将の漢文たるや甚(はなは)だまずいもので、新聞の論説の仮名を抜いた様なものであった。けれども詩になると彼は僕よりも沢山(たくさん)作って居り平仄(ひょうそく)も沢山たくさん知って居る。僕のは整わんが、彼のは整って居る。漢文は僕の方に自信があったが、詩は彼の方が旨(うま)かった。尤(もっと)も今から見たらまずい詩ではあろうが、先(ま)ず其時分の程度で纏(まと)まったものを作って居ったらしい。たしか内藤さんと一緒に始終(しじゅう)やって居たかと聞いている。


 


 彼は僕などより早熟で、いやに哲学などを振り廻すものだから、僕などは恐れを為なしていた。僕はそういう方に少しも発達せず、まるでわからん処へ持って来て、彼はハルトマンの哲学書か何かを持ち込み、大分振り廻していた。尤(もっと)も厚い独逸書(ドイツしょ)で、外国にいる加藤恒忠氏に送って貰ったもので、ろくに読めもせぬものを頻(しき)りにひっくりかえしていた。幼稚な正岡が其を振り廻すのに恐れを為なしていた程、こちらは愈(いよいよ)幼稚なものであった。


 


 妙に気位の高かった男で、僕なども一緒に矢張り気位の高い仲間であった。ところが今から考えると、両方共それ程えらいものでも無かった。といって徒(いたずら)に吹き飛ばすわけでは無かった。当人は事実をいっているので、事実えらいと思っていたのだ。教員などは滅茶苦茶(めちゃくちゃ)であった。同級生なども滅茶苦茶であった。


 非常に好き嫌いのあった人で、滅多めった)に人と交際などはしなかった。僕だけどういうものか交際した。一つは僕の方がええ加減に合わして居ったので、それも苦痛なら止めたのだが、苦痛でもなかったから、まあ出来ていた。こちらが無暗(むやみ)に自分を立てようとしたら迚(とて)も円滑な交際の出来る男ではなかった。例えば発句などを作れという。それを頭からけなしちゃいかない。けなしつつ作ればよいのだ。策略でするわけでも無いのだが、自然とそうなるのであった。つまり僕の方が人が善(よ)かったのだな。今正岡が元気でいたら、余程(よほど)二人の関係は違うたろうと思う。尤(もっと)も其他、半分は性質が似たところもあったし、又半分は趣味の合っていた処もあったろう。も一つは向うの我とこちらの我とが無茶苦茶に衝突もしなかったのでもあろう。忘れていたが、彼と僕と交際し始めたも一つの原因は、二人で寄席(よせ)の話をした時、先生も大に寄席通を以(もって)任じて居る。ところが僕も寄席の事を知っていたので、話すに足るとでも思ったのであろう。それから大(おおい)に近よって来た。


 彼は僕には大抵な事は話したようだ。(其例一二省く)兎と)に角(かく)正岡は僕と同じ歳(とし)なんだが僕は正岡ほど熟さなかった。或部分は万事が弟扱いだった。従って僕の相手し得ない人の悪い事を平気で遣(や)っていた。すれっからしであった。(悪い意味でいうのでは無い。)


 又彼には政治家的のアムビションがあった。それで頻(しき)りに演説などをもやった。敢(あえ)て謹聴するに足る程の能弁でも無いのに、よくのさばり出て遣った。つまらないから僕等聞いてもいないが、先生得意になってやる。


 何でも大将にならなけりゃ承知しない男であった。二人で道を歩いていても、きっと自分の思う通りに僕をひっぱり廻したものだ。尤(もっと)も僕がぐうたらであって、こちらへ行こうと彼がいうと其通りにして居った為であったろう。


 一時正岡が易(えき)を立ててやるといって、これも頼みもしないのに占うらなってくれた。畳一畳位の長さの巻紙に何か書いて来た。何でも僕は教育家になって何(どう)とかするという事が書いてあって、外(ほか)に女の事も何か書いてあった。これは冷かしであった。一体正岡は無暗(むやみ)に手紙をよこした男で、それに対する分量は、こちらからも遣った。今は残っていないが、孰(いずれ)も愚(ぐ)なものであったに相違ない。


 


 中尾有為子さんから、先日の礼状が届きました。


 


 


 昨日、武藤道代女史に電話パソコン障害のためメールアドレスが消失したためメールしてくれるよう依頼したところ、早速メールが届きました。曰く、


武藤道代です。


日高先生 メール遅くなって申し訳ございません。先生のブログは、見えましたので、嬉しかったです。


昨日は、お声も聴くことが出来て、尚更嬉しかったです。


 私は、何とか元気に動き回っております。幡ヶ谷介護生活も2011年からですから7年になりました。


母と夫と私の三人生活も4年になります。あっという間ですね。


年末の浅草の会には、必ず出席致します。夕方に先生のご自宅に伺いたいなあと、思っております。


又、ご連絡いたします。


 今日は、良いお天気ですね。佳世ちゃん達(鍋ちゃんとか平瀬さんとか青木さんとか…らしい)は、ゴルフだそうです。


楽しそうですよ。


 先生、歩いてますか? 道子先生はいかがですか?


 家の中を動くのも運動だそうです。道子先生も少しづつ、絶対動いて下さいね。   実感です。


 100歳まで生きる時代です。自分の身体大事に動かして使って行きたいと思っております。


私だって65歳です。まだ30年も生きるのかとびっくりです。だから、頑張ります。


本当は、あっちこち痛いのです。私たちも・・・。


 取り留めなく書いてしまいました。


今、漢詩作りを学んでいます。自信作とは行きませんが、いつか見て頂きたいです。 難しいです。


 どうぞどうぞいつまでも、お二人でお元気でいらしてくださいね。


 


 109日のブログ入ったコメントの差出人が誰かわからなかったのですが、武藤道代女史であることがわかりました。


 


ウェブニュースより


将棋:藤井七段が出口三段に先勝 新人王戦第1局 ―― 大阪市福島区の関西将棋会館で10日午前始まった高校生棋士、藤井聡太七段(16)とプロ棋士養成機関「奨励会」の出口若武(わかむ)三段(23)の第49期新人王戦決勝三番勝負(しんぶん赤旗主催)第1局は、藤井が112手で先勝した。第2局は17日、同所で指される。


 出口の先手番で、居飛車対居飛車の「相掛かり」と呼ばれる戦いになった。出口の序盤作戦が功を奏し、指しやすい場面もあったが、藤井が落ち着いた手で受け止め、熱戦を制した。


https://www.youtube.com/watch?v=I1eCMxdrHk4


2月の朝日杯将棋オープン戦に続く2度目の優勝を目指す藤井七段は「第1局が非常に大事だと思っていた。途中は苦しくなったかもしれないが、粘り強く指せたのがよかった。次も、時間配分に気をつけて指せればいい」と話した。出口三段は「対局が始まるまでかなり緊張した。序盤はまずまずだと思っていたが、粘られて(どう指していいか)分からなくなった。(次も)引きずらずにやっていきたい」と語った。


開幕時に四段だった藤井はその後、七段にスピード昇段したため、六段までしか出場できない新人王戦は今期が優勝のラストチャンス。一方、奨励会員の決勝進出は5人目で、出口は都成(となり)竜馬(りゅうま)五段(28)が三段時代の2013年に優勝して以来、2人目の優勝を目指す。   (毎日新聞社 20181010 1707分)


 


子規の畫             夏目漱石


 余は子規(しき)の描かいた畫(ゑ)をたつた一枚持つてゐる。亡友の記念(かたみ)だと思つて長い間それを袋の中に入れて仕舞つて置いた。年數(ねんすう)の經(た)つに伴(つ)れて、ある時は丸(まる)で袋の所在を忘れて打ち過ぎる事も多かつた。近頃不圖(ふと)思ひ出して、あゝして置いては轉宅の際などに何處へ散逸するかも知れないから、今のうちに表具屋へ遣(や)つて懸物(かけもの)にでも仕立てさせやうと云ふ氣が起つた。澁紙の袋を引き出して塵を拂(はた)いて中を檢しらべると、畫は元の儘濕(しめ)つぽく四折(よつを)りに疊んであつた。畫の外に、無いと思つた子規の手紙も幾通か出て來た。余は其中(そのうち)から子規が余に宛てゝ寄こした最後のものと、夫(それ)から年月の分らない短いものとを選び出して、其中間に例の畫を挾んで、三を一纒(ひとまと)めに表裝させた。


 畫は一輪花瓶(いちりんざし)にした東菊(あづまぎく)で、圖柄(づがら)としては極めて單簡(たんかん)な者である。傍(わき)に「是は萎(しぼ)み掛(か)けた所と思ひ玉へ。下手(まづい)のは病氣の所爲(せゐ)だと思ひ玉へ。嘘だと思はゞ肱を突いて描(か)いて見玉へ」といふ註釋が加へてある所を以て見ると、自分でもさう旨いとは考へて居なかつたのだらう。子規が此畫を描(か)いた時は、余はもう東京には居なかつた。彼は此畫に、東菊(あづまぎく)活けて置きけり火の國に住みける君の歸り來るがねと云ふ一首の歌を添へて、熊本迄送つて來たのである。


 壁に懸けて眺めて見ると如何にも淋さびしい感じがする。色は花と莖と葉と硝子ガラスの瓶とを合せて僅に三色みいろしか使つてない。花は開いたのが一輪に蕾つぼみが二つだけである。葉の數を勘定して見たら、凡すべてゞやつと九枚あつた。夫それに周圍が白いのと、表裝の絹地が寒い藍なので、どう眺めても冷たい心持が襲つて來てならない。


 


 子規は此簡單(かんたん)な草花を描(ゑ)がくために、非常な努力を惜しまなかつた樣に見える。僅か三莖(みくき)の花に、少くとも五六時間の手間てまを掛けて、何處から何處迄丹念に塗り上げてゐる。是程の骨折は、たゞに病中の根氣仕事として餘程の決心を要するのみならず、如何にも無雜作に俳句や歌を作り上げる彼の性情から云つても、明かな矛盾である。思ふに畫と云ふ事に初心(しよしん)な彼は當時繪畫に於ける寫生の必要を不折(ふせつ)などから聞いて、それを一草一花の上にも實行しやうと企(くはだ)てながら、彼が俳句の上で既に悟入した同一方法を、此方面に向つて適用する事を忘れたか、又は適用する腕がなかつたのであらう。


 


 東菊(あづまぎく)によつて代表された子規の畫は、拙(まづ)くて且(か)つ眞面目である。才を呵(か)して直ちに章をなす彼の文筆が、繪の具皿に浸(ひた)るると同時に、忽ち堅くなつて、穂先の運行がねつとり竦(すく)んで仕舞つたのかと思ふと、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子(きよし)が來て此幅(このふく)を見た時、正岡の繪は旨いぢやありませんかと云つたことがある。余は其時、だつてあれ丈だけの單純な平凡な特色を出すのに、あの位時間と勞力を費さなければならなかつたかと思ふと、何だか正岡の頭と手が、入らざる働きを餘儀なくされた觀がある所に、隱し切れない拙(せつ)が溢(あふれ)てゐると思ふと答へた。馬鹿律氣(ばかりちぎ)なものに厭味(いやみ)も利(き)いた風もあり樣はない。其處に重厚な好所(かうしよ)があるとすれば、子規の畫は正に働きのない愚直ものゝ旨さである。けれども一線一畫の瞬間作用で、優に始末をつけられべき特長を、咄嗟とつさに辨ずる手際がない爲めに、已(や)むを得えず省略の捷徑(せふけい)を棄てゝ、几帳面な塗抹主義を根氣に實行したとすれば、拙(せつ)の一字は何うしても免れ難い。


 子規は人間として、又文學者として、最も「拙せつ」の缺乏した男であつた。永年(ながねん)彼と交際をした何(ど)の月にも、何(ど)の日にも、余は未だ曾て彼の拙(せつ)を笑ひ得るの機會を捉(と)らへ得(え)た試(ため)しがない。又彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さへ有(も)たなかつた。彼の歿後殆ど十年にならうとする今日(こんにち)、彼のわざわざ余の爲に描(ゑ)がいた一輪の東菊(あづまぎく)の中(うち)に、確に此一拙字を認める事の出來たのは、其結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余に取つては多大の興味がある。たゞ畫が如何にも淋(さび)しい。出來得るならば、子規の此拙な所をもう少し雄大に發揮させて、淋(さび)しさの償(つぐな)ひとしたかつた。   ―明治四四、七、四―


 


夏目漱石が俳句の世界に心惹かれたきっかけは正岡子規との出会いにありました。大学時代に正岡子規と出会い俳句に惹かれていったのです。


 


慶応三年、日本が太陽暦になる前の年に夏目漱石は生まれています。幼少の頃は夏目家の家の事情から里子に出されています。年を経てまた生家に戻り生活をしていますが、とても複雑な家庭環境だったことが分かります。


 


漱石の小説にはその頃の様子を描いたものも執筆されています。


夏目漱石は、英語に興味を持ち大学予備門に入学し正岡子規に出会います。


ここでは子規が書いた漢詩文集の「七草集(しちそうしゅう)」を漱石が読み、批判したことにより仲良くなっていったようです。


 


正岡子規も漱石も漢詩から文学を始めた人物で、これ以降互いが互いを認め合い、日本の文学に影響を与え続けていくのです。


二人が違っていたことは正岡子規の周りにはいつも人がいて人気者、夏目漱石は変わり者だったため、その逆だったという逸話も残っています。小説で読む漱石の変わり者ぶりは本物だったのでしょう。


子規に教えてもらいながら触れた俳句の世界で、夏目漱石は俳句を詠む時に使用する名前、すなわち「号」を「漱石」にしています。夏目金太郎はここから「夏目漱石」と呼ばれるようになったのです。


この「漱石」にはいったいどのような意味があるのか。


それは、中国の唐の時代の故事「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」にちなんだ名前だといいます。


「石に漱ぎ(くちすすぎ)流れに枕す。」


つまり、変わり者の例えです。


 


この号は、実は正岡子規のいくつかある中の号の一つでしたが、のちに子規からこの「漱石」という名前を譲り受け、俳句のみならず小説の世界でもこの「漱石」という号を使い続けていくのです。


漱石が正岡子規に影響を受けたことはこの「号」を譲り受けたことからもはっきりと分かります。


ホトトギスとは正岡子規の号であり、生涯ホトトギスは子規にとって特別なものでしたが、漱石にとっても特別だったのです。


 


夏目漱石が俳句を詠み始めたのは明治22年ごろからです。


初めの句として残されている一句はあの時鳥(ホトトギス)の句でした。


帰ろふと 泣かずに笑へ 時鳥」(夏目漱石/漱石句集)


聞かふとて 誰も待たぬに 時鳥」(夏目漱石/漱石句集)


病院に入院中の子規を見舞い、泣くな!笑え!と励ました俳句です。


明治22年は正岡子規の結核が発覚した年です。結核に倒れ、子規も自身の命が長くないことを知り、自身をホトトギスになぞらえてこんな俳句を詠んでいます。


卯の花の 散るまで啼くか 子規(ホトトギス)」(正岡子規/子規全集第九巻)


子規にとってホトトギスはいわば自分自身、そして漱石にとってもホトトギスは親友以外の何者でもない特別な存在。ホトトギスにはそうした悲しいけれど、苦楽を分かち合った友の特別な季語だったのです。


その後、正岡子規は松山へ養生のため帰郷し、漱石は英語教師として松山の中学校に赴任します。この時、子規と漱石は共同生活を始め、そこを「愚陀仏庵」と呼んでいました。


 


正岡子規の周りには人が集まり、ここでも友人に囲まれ句会を開いています。漱石は人の集まりがうるさいが仕方なく俳句をやると言っていましたが、共同生活をした明治28年、夏目漱石が生涯で一番俳句を詠んだ年とも言われているのです。


夏目漱石は明治28年から正岡子規が亡くなる直前まで膨大な数の俳句を子規に送り、添削を求めていました。


(正岡子規へ送りたる句稿 その一より)


崖下に 紫苑咲きけり 石の間


汽車去って 稲の波うつ 畑かな


(正岡子規へ送りたる句稿 その二より)


紅葉散る ちりゝちりゝとちゞくれて


時鳥 あれに見ゆるが 知恩院


猫も聞け 杓子も是ヘ 時鳥


五月雨ぞ 何処まで行ても 時鳥


夏目漱石が正岡子規ヘ送った俳句の一部です。夏目漱石は子規の俳句の影響を色濃く受けていました。


正岡子規の、俳句をより写実的に詠むという手法が漱石の俳句からも見てとれます。子規の俳句によく登場した「五月雨」の季語を漱石の俳句にも見ることができます。そして「時鳥」。漱石が子規を尊敬し、俳句を心から愛した証がこの句稿を見れば一目瞭然なのです。


最後に、漱石が亡くなった子規に送った俳句です。


永き日や 欠伸(あくび)うつして 別れ行く」(夏目漱石/漱石句集)


寂しさや悲しみを匂わせるのではなく、最後まで漱石らしい愛嬌のある俳句に子規も笑いながらこの世を旅立ったのかもしれません。


夏目漱石がイギリスに留学していたことは有名ですが、帰国後はどのような生活を送っていたのでしょうか。


明治36年イギリスから帰国した夏目漱石は東京帝国大学の講師になっています。それまでは外国人が教鞭を振っていましたが、賃金が高いという理由で外国人教師に代わって留学を終えた日本人が英語の教師になるという時代に変わっていったのです。


夏目漱石が来たことにより小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は解雇されています。


この時、漱石が詠んだ面白い俳句があります。


能もなき 教師とならん あら涼し」(夏目漱石/漱石全集)


漱石の教師としてのやる気のなさや自分には向いていないという後ろ向きな態度が、最後の「あら涼し」でさらに伝わってくる一句になっています。


ラフカディオ・ハーンは生徒たちにとても人気があり、八雲留任運動まで起こったほどです。夏目漱石にとっては大ピンチです。生徒に講義を聞いてもらえないという日々でしたが、ある時からイギリスで研究し、陶酔したというシェイクスピアの講義が当たり、大教室でさえ入りきらないほどの生徒たちが押し寄せるという盛況ぶりに、東京帝国大学は漱石だけでもっているようなものだと言われていました。


 


教師という職業に就くことに違和感を感じていた漱石でしたが、才能の前には何ものもかなわないということを思い知らされる出来事でした。


漱石がシェイクスピアの一節を引用して作った独創的な句があります。


罪もうれし 二人にかゝる 朧月」(ロミオとジュリエット)


小夜時雨 眠るなかれと 鐘をつく」(マクベス)


イギリスで出会ったシェイクスピアに陶酔し、このような句を作り、さらにその才能は小説「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」で開花していくのです。


小説家で知られていた夏目漱石ですが、正岡子規と出会い俳句を詠むようになり、海を渡り様々な文学に出会い日本の文学界の巨匠になっていったのです。


小説を書き、売れても俳句を詠むことはやめなかったという夏目漱石。友に教えられた俳句が漱石の原点になっていると言っても過言ではないでしょう。


 


新発見の「歳旦帳」は9月がつ1日から30日までこの子規庵で開かれた「糸瓜忌特別展」で展示されいました。4日ほど遅れて残念でしたが、まあ他に客のいない空いた子規庵を見学できたのは幸いだったと思いましょう。


 


子規没後も、子規庵には母と妹が住み、句会、歌会の世話をつづけましたが老朽化と大正12年の関東大震災の影響により昭和元年に解体、旧材による重修工事を行いました。


昭和2年、母八重(83)月没し、同年7月子規の遺品や遺墨等を保管するため土蔵(子規文庫)建設に着工します。


昭和3年、子規門弟を中心とする子規庵維持保存会が財団法人子規庵保存会として認可され、初代理事長には正岡律が就任いたしました。


昭和16年妹律(71)没後、同20年4月14日の空襲により子規庵は焼失しますが、幸い土蔵は残り貴重な遺品が後世に残されました。


 


 土蔵からすぐのところに井戸があります。当時正岡家が使用していたそうですが、位置から考え、共同井戸だったと思われます。少なくとも二軒長屋のもう一軒とは共用のようです。


 


 最後に、平成になって建てられた「子規絶筆三句」の碑文がありました。


 


 銅版の子規の三句の下に「子規の門弟、河東碧梧桐の『君が絶筆』によれば……」の説明文が彫られていましたが、読む間もなく帰宅の途に就きました。


 


 子規の辞世の句となった糸瓜の三句。その場に居合わせた河東碧梧桐は、当時の様子を次のように回顧しています(出典「子規言行録(明治版)」)。


 君が絶筆      河東碧梧桐


 十八日の頃であったか、どうも様子が悪いという知らせに、胸を躍らせながら早速駆けつけた所、丁度枕辺には陸氏令閨と妹君が居られた。予は病人の左側近くへよって「どうかな」というと別に返辞もなく、左手を四五度動かした許りで静かにいつものまま仰向に寝て居る。余り騒々しくしてはわるいであろうと、予は口をつぐんで、そこに坐りながら妹君と、医者のこと薬のこと、今朝は痰が切れないでこまったこと、宮本へ痰の切れる薬をとりにやったこと、高浜を呼びにやったかどうかということなど話をして居た時に「高浜も呼びにおやりや」と病人が一言いうた。依って予は直ぐに陸氏の電話口へ往って、高浜に大急ぎで来いというて帰って見ると、妹君は病人の右側で墨を磨って居られる。軈《やがて》例の書板に唐紙の貼付けてあるのを妹君が取って病人に渡されるから、何かこの場合に書けるであろうと不審ながらも、予はいつも病人の使いなれた軸も穂も細長い筆に十分墨を含ませて右手へ渡すと、病人は左手で板の左下側を持ち添え、上は妹君に持たせて、いきなり中央へ


 糸瓜咲て


とすらすらと書きつけた。併し「咲て」の二字はかすれて少し書きにくそうであったので、ここで墨をついでまた筆を渡すと、こんど糸瓜咲てより少し下げて


 痰のつまりし


までまた一息に書けた。字がかすれたのでまた墨をつぎながら、次は何と出るかと、暗に好奇心に駆られて板面を注視して居ると、同じ位の高さに


 佛かな


と書かれたので、予は覚えず胸を刺されるように感じた。書き終わって投げるように筆を捨てながら、横を向いて咳を二三度つづけざまにして痰が切れんので如何にも苦しそうに見えた。妹君は板を横へ片付けながら側に坐って居られたが、病人は何とも言わないで無言である。また咳が出る。今度は切れたらしく反故でその痰を拭きとりながら妹君に渡す。痰はこれまでどんなに苦痛の劇しい時でも必ず設けてある痰壺を自分で取って吐き込む例であったのに、きょうはもうその痰壺をとる勇気も無いと見える。その間四五分たったと思うと、無言に前の書板を取り寄せる。予も無言で墨をつける。今度は左手を書板に持ち添える元気もなかったのか、妹君に持たせたまま前句「佛かな」と書いたその横へ


 痰一斗糸瓜の水も


と「水も」を別行に認めた。ここで墨ををつぐ。すぐ次へ


 間に合わず


と書いて、矢張り投捨てるように筆を置いた。咳は二三度出る。如何にもせつなそうなので、予は以前にも増して動気が打って胸がわくわくして堪らぬ。また四五分も経てから、無言で板を持たせたので、予も無言で筆を渡す。今度は板の持ち方が少し具合が悪そうであったがそのまま少し筋違いに


 をとひのへちまの


と「へちまの」は行をかえて書く。予は墨をここでつぎながら、「と」の字の上の方が「ふ」のように、その下の方が「ら」の字を略したもののように見えるので「をふらひのへちまの」とは何の事であろうと聊か怪しみながら見て居ると、次を書く前に自分で「ひ」の上へ「と」と書いて、それが「ひ」の上へはいるもののようなしるしをした。それで始めて「をとヽひの」であると合点した。そのあとはすぐに「へちまの」の下へ


 水の


と書いて


 取らざりき


はその右側へ書き流して、例の通り筆を投げすてたが、丁度穂が先に落ちたので、白い寝床の上は少し許り墨の痕をつけた。余は筆を片付ける。妹君は板を障子にもたせかけられる。しばらくは病人自身もその字を見て居る様子であったが、予はこの場合その句に向かって何と言うべき考えも浮かばなかった。がもうこれでお仕舞いであるか、紙には書く場所はないようであるけれども、また書かれはすまいかと少し心待ちにして硯の側を去ることが出来なかったが、その後再び筆を持とうともしなかった。     (碧梧桐) 


 


 子規はこの日のうちに昏睡状態となり、翌19日午前1時頃永遠の眠りに就きました。享年3411ケ月でした。


 10月4日(木)午後3時ごろ我が家を出た3人は言問通でタクシーを拾い、子規庵に向かいました。


 交通止めの標識のため、タクシーを降りて、路地を行くと、子規庵を見つけました。子規庵に沿うの石塀の先に説明版と子規の句が張り付けられています。


 


 子規庵の建物は、旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋といわれています。


 明治27年、子規はこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。子規没後も、子規庵には母と妹が住み、句会、歌会の世話をつづけましたが老朽化と大正12年の関東大震災の影響により 昭和元年に解体、旧材による重修工事を行いました。昭和2年、母八重(83)没。同年7月子規の遺品や遺墨等を保管するため土蔵(子規文庫)建設に着工。 昭和3年、子規門弟を中心とする子規庵維持保存会が財団法人子規庵保存会として認可され、初代理事長には正岡律が就任しました。昭和16年妹律(71)没後、同20年4月14日の空襲により子規庵は焼失。幸い土蔵は残り貴重な遺品が後世に残されました。現在の子規庵は昭和25年高弟、寒川鼠骨等の努力で再建され、同27年東京都文化史蹟に指定されて現在に至っています。


 


 子規庵の玄関を入ると係員が出迎えてくれて、パンフを渡されました。


 


 靴を脱いで、8畳の座敷に上がると椅子が3つ用意されていて、前にテレビが置かれ、子規庵に関するビデオが放送されます。


 この隣の6畳の間が子規終焉の間となっています。


 


 ビデオを見終わると庭に降りて、3人てんでに見て回りました。


 踏み石に乗って庭の奥の方を眺めると手前の立て札に、


  ”ごてごてと 草花植えし 小庭かな” と子規の俳句があり、さらに奥まったところには寒川鼠骨翁の句碑がありました。


 


 余談になりますが、3人が玄関を入った時、鼠が玄関を横切って走り去り、はたまたこの庭でも駈けていました。ふと、この鼠もしかしたら鼠骨翁の姿もしくはお使いかもしれぬと根も葉もないことを思い浮かべました。


  秋風に家兎も駈けだす根岸庵   拙痴无


 日頃俳句など作らない私ですが、俳句とも川柳ともつかない1句をひねってみました。


 


 いやはや、子規庵については1日では記しきれません。この続きはまたの日に。


 


 昨日は、福岡在住の甥のHNドクターが、川崎在住のUN女史と連れ立って我が家を訪ねてくれました。UN女史は高校の教師をしていた今は亡き我が長兄の教え子にして、当時より俳句を手掛け「紺絣」という句集も上梓されている俳句のベテランです。日本銀行門司事務所に勤務していた頃、職場の句会で野見山朱鳥に師事し「菜穀火」で俳句を学んだということです。


 


 ということもあって、ドクターが主宰する「新ネット俳句」の講評をお願いしている関係で、この度の我が家訪問になったわけです。


 また、料理のほうもかなりの腕前で、『栄養と料理』にもたびたび取り上げられているほどです。


 


 挨拶を終え、私の家内も交えて、4人で歓談。昭和28年の門司の大水害の話から、我が日高家とUN女史との関わり、長兄の思い出、私と同学年の長兄の嫁の料理教室の事など話は次から次へと弾みます。


 昭和28年も市の大水害の時UN女史は小学5年生、甥のドクターは3歳というから、ずいぶん昔の話になります。


 


 UN女史の話によると、彼女の料理は長兄の嫁仕込みのものであるということです。


 


 午後3時近くになって、写真を撮りました。ドクターから今朝ほど添付メールで送られてきました。


 


女史・ドクター・私の4人で、根岸の子規庵に向かいました。


 


プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
86
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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