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瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 午前5時、昨夜の雨がまだ降り止んでいない。朝食後、薄日が射してきたので、出掛けることにした。昨日の駒形橋の撮影に続いて、今日は吾妻橋。
 吾妻橋は、雷門通り通し西岸は台東区雷門2丁目、および花川戸1丁目を分かち、東岸は墨田区吾妻橋1丁目。西岸の交叉点には浅草1丁目がかかり、神谷バーなど、いわゆる浅草の中心に近い橋である。また、東岸にはアサヒビール本社などが入る墨田リバーサイド地区がある。桜の名所として著名?な隅田公園はこの橋がほぼ南端にあたる。東武伊勢崎線・東京メトロ銀座線・都営地下鉄浅草線の浅草駅はこの橋の西岸にあり、東岸約500メートル先にこの橋の名を冠した本所吾妻橋(都営浅草線)がある。東京観光汽船の桟橋である浅草ステーションが橋の西詰に設けられている。ここから浜離宮を経由して東京港日の出桟橋まで運行されている隅田川ライン(水上バス)が出発しているので、隅田川下りの拠点の一つとしても著名な?地点でもあるんじゃ。
 創架は安永3(1774)年10月のことで、それまでは「竹町の渡し」(「駒形の渡し」とも呼ばれ、現在の吾妻橋と駒形橋のほぼ中間の場所にあった渡しで吾妻橋が架橋されたことによって利用者は減ったものの、明治 9(1876)年まで運行されていた記録が残っている)という渡し舟があった場所じゃという。江戸5橋(千住大橋・両国橋・新大橋・永代橋・吾妻橋)のうち最後の橋であり、明和6(1769)年4月に浅草花川戸の町人伊右衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が幕府によって許可され、着工後5年で完成したもので、長さ八十四間(約150m)、幅三間半(約6.5m)の橋で、武士以外の全ての通行者から2文ずつの通行料を取ったと記録に残っているそうじゃ。天明6(1786)年7月18日の洪水の際に永代橋、新大橋がことごとく流され、両国橋も大きな被害を受ける中で無傷で残り、架橋した大工や奉行らが褒章を賜ったという。その後も幾度かの架け替えが行われたようじゃ。
吾妻橋の浮世絵
ee58bde1.JPG明治時代の木橋
9b1ca34e.JPG明治20年架設の鉄橋
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震災前の吾妻橋
cf5a665b.JPG 架橋を申し出たとき、吾嬬神社の参道橋なので「宮戸橋」で申請したが却下され「大川橋」と命名するように申し渡された。これは近辺で隅田川が「大川」と呼称されていたことにちなむ。かくて大川橋として橋は架かったが、町民からは「あづまばし」とよばれたという。こうしてその由来は、江戸の東にあるために「東橋」と呼ばれ後に慶賀名として「吾妻」とされた説と、東岸方面の向島にある「吾嬬神社」へと通ずる道であったことから転じて「吾妻」となった説の2つの俗説が生れたんじゃろなぁ。いずれにしても、明治9(1876)年2月に木橋として最後の架け替えが行われた際に正式に現在の橋名である「吾妻橋」と命名されたそうじゃ。
 この最後の木橋は明治18(1885)年7月の大洪水で初めて流出した千住大橋の橋桁が上流から流されてきて橋脚に衝突。一緒に流失してしまう。そのために明治20(1887)年12月9日に隅田川最初の鉄橋として再架橋された。鋼製プラットトラス橋で、人道橋、車道橋、鉄道(東京市電)橋の3本が平行して架けられていた。後に関東大震災によって木製だった橋板が焼け落ちてしまい、一時的な補修の後昭和6(1931)年に現在の橋に架け替えられたということじゃ。
台東区側テラスからの全景
cd9043aa.jpg水上バスステーション
b8c725a7.jpg西詰には環状6連の橋灯
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 水上バスステーション横の渡り口
d3d3af2d.jpg車道と歩道の間には雷様マーク
6e1e731e.jpg駐輪禁止の貼り札もなんのその
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西詰、下流側の渡り口
07f0ae4d.jpg径間の橋脚、テラスにて
bfca5bcc.jpg 構造形式は、3径間鋼ソリッドリブタイドアーチ橋、橋長150.0m、幅員20.0mという。昭和4年6月に着工し、昭和6年6月に竣工となっている。
 平成4年の改修で塗装が青白色から赤色に変わり、夜もライトアップされてレッドブリッジを強調するが、これは浅草寺の紅柄(べんがら)色に相和したものであるということじゃ。
 吾妻橋の東詰には、開園時の「隅田公園入口」の石柱が今も残っており、裏には「昭和七年四月吉日復興完成記念」の文字が見てとれる。
あづま地蔵
9ead8187.jpg隅田公園入口の石柱
16a444f7.jpg石柱の裏面
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ステーションに入る船と出る船の交替
e7d83b07.jpg 吾妻橋の東詰広場には「あづま地蔵」がある。吾妻橋一丁目町会有志によって、震火災水難殉難者各霊供養、交通安全御守護のために建立されたそうじゃ。東京大空襲慰霊の卒塔婆も置かれている。
 「あづま地蔵」の横にある降り口から降りてテラスにを歩く。折しも、川を上ってきた「ヒミコ」が、今まで停泊していた水上バスを追い出すように入ってきた。今夕からこのテラスもふくめた墨田区役所うるおい広場で4日間に亘って「吾妻橋フェスト」が開催されるということじゃ。


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 今朝は夜が明けると、東の空が朝焼けに染まり久し振りに天気が回復したようじゃ。日の出(5時10分ごろ)と同時に家を出る。今日のお目当てはもちろん駒形橋。
西詰、渡り口(上流側)
eaafc26e.jpg西詰にある説明碑
4c608b0c.jpg橋脚上はバルコニーに
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 東詰渡り口(下流側)
952a8849.jpg墨田区側テラス(下流側)より
ff8b9ed4.jpg墨田区側テラス(上流側)より
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東詰上流側渡り口
34befcdf.jpg 駒形橋は浅草通を通す。西岸は台東区雷門2丁目および駒形2丁目を分かち、東岸は墨田区東駒形1丁目と吾妻1丁目を分かつ。橋の名は西詰にある駒形堂に因むんじゃ。関東大震災後の復興計画により現在の橋が始めて架けられたんじゃ。構造形式は 中央径間は中路、側径間は上路アーチという珍しい形の3連アーチ橋。アーチの形式は2ヒンジのソリッドリブタイド。円筒形の橋脚の上には、バルコニーが設けられている。大正13(1924)年7月に着工、昭和2(1927)年6月に竣工。橋長149.6m、幅員22.0mである。架設までは「竹町(竹町)の渡し(駒形の渡しとも言った)」があったという。
 昔、江戸っ子は「コマカタ」と濁らず発音したといい、吉原の遊女2代目高尾が仙台の殿様、伊達綱宗を恋しがって詠んだという「ゆうべは波の上の御帰らせ、いかが候。御館の御首尾つつがなくおわしまし候や。御見のまま忘れねばこそ、思い出さず候。かしこ。 君はいま 駒形あたり ほととぎす」の句で有名じゃ。高尾太夫というのは吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は11人いたと言われている。
駒形堂
2d6af36c.JPGご本尊馬頭観音
5fce68a3.JPG駒形堂説明板
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戒殺碑
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363edb4a.jpg 駒形堂(通称駒堂がなまって「コマンドー」という)は、馬頭観音を本尊に祀るため、駒形とよばれるそうじゃ。馬頭観音は、往還筋、特に東日本の街道沿いによく見られ、馬が唯一の輸送手段だったころの街道のシンボルであっのじゃ。浅草寺の本尊の観音様はこの辺りから引き上げられたというが、こんなことを縁起として建てられたものなのじゃろうか? はじめは川に向けて建てられていたんじゃが、何度か再建された後、南向きになったという。現在の駒形堂は昭和8年に再建されたもので、鉄筋コンクリート造り。駒形は浅草観音への第一の入口であり、舟で上陸する人だけでなく、上野から新寺町通りを真っ直ぐここまで来て、並木町を経て雷門に向かったそうじゃ。
観音祭(現三社祭り)では、陸路を浅草橋まで御輿を渡し、舟で隅田川を北上し、この地から上陸して還御したそうじゃ。
 堂内敷地内に「浅草寺領殺生禁断の碑」が立っている。檜前兄弟が観音様を拾い上げたのがこの辺りだというので、生き物を殺すのを禁じたのだというじゃ。従ってここから上流では魚を捕ることは出来なかったそうじゃが、逆に駒形付近では多くの川魚の料理屋が出来たという。
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    駒形橋を西から東に渡り、いつものコースを北上。桜橋を過ぎた付近で久し振りにワンさん夫妻と出会う。白鬚橋をわたり、台東区側を南下。夏休みも後3・4日、少年野球チームの少年達は今朝もトレーニングに汗を流していた。

 2日続きの雨でウサギ小屋に閉じ込められてしまった。今朝も雨、朝食を終えて空が少し明るくなった頃を見計らって、9時過ぎに小雨の中を折りたたみ傘持参で徘徊に出掛けた。お目当ては蔵前橋の1つ上流の厩橋。
春日通が蔵前と駒形を分かつ
61fe0244.JPG御厩の渡し(葛飾北斎 富嶽36景より)
c6b1697c.jpg 厩橋は、春日通りが隅田川を渡る橋である。西岸は台東区蔵前2丁目と駒形2丁目を分かち、東岸は墨田区本所1丁目で、橋名は西岸にあった「御厩河岸(おんまいがし、蔵前の米蔵のための荷駄馬用の厩があった)」にちなみ、架設当初は「おんまい(や)橋」と俗称されたという。
 もともと元禄年間頃から続いていた「御厩の渡し」のあった場所で、以前から転覆事故が多かったので「三途の渡し」と揶揄されていたが、明治5(1872)年に花見客の人出でこの渡し舟が転覆するという事故があったため、この渡しを利用すものがほとんといなくなったということじゃ。それでも上流の 『吾妻橋』、下流の 『両国橋』 まではかなりの距離があることから、不便を感じた地元住民がその費用を出し合って有料の 木橋 を架設したのが『厩橋』の始まりじゃそうじゃ。明治7(1874)年10月に完成、長さ511尺(約150m)、幅20尺(約6m)の木橋であったと伝えられ、現在の位置より100mほど下流であったそうじゃ。隅田川5橋(千住大橋・両国・新大橋・永代・吾妻)に続いて6番目の橋ということになる。民間による橋の架設は出来ても、維持管理までは手が回らなかったようで、明治20(1887)年には東京府の管理になっている。
明治26年完成の旧厩橋
6a51df95.JPG西詰、上流側渡し口
350a1b46.jpgステンドグラス風ガラス細工
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 橋柱の下のレリーフ
a606cbc8.JPG東詰、下流渡し口
7a2a8453.jpg墨田区側テラス上流より2c1cb962.jpg






橋のましたより橋客と橋桁
e76f0665.jpg この橋は老朽化のために東京府によってトラス鉄橋(てつばし)に架け替えられることになる。ブラットトラス形式で長さ86間(約154m)の橋が明治26(1893)年5月に完成したという。当時この近辺は湿地帯で沼地が多く広い道がなかったので、この厩橋鉄橋の建設に伴い、本所方面から上野広小路を直接接続できるべく、明治23(1890)年には現在の春日通り建設計画が持ち上がっていた。しかしながら、土地買収や立ち退き交渉などでなんこうし、開通は明治28年になってからということじゃ。後関東大震災により被災、橋の崩落こそ免れたものの、火災によって木製の床は焼失し、鉄製の構造部材も熱によって変形してしまったそうじゃから、凄まじい火炎であったのじゃろうなぁ。復興計画によって現在の橋が架橋されたということじゃ。
 震災3年後の大正15(1927)年9月に着工、昭和 4(1929)年9月に震災復興橋梁として架設されたものである。3径間の鋼製アーチ橋で、下流の 『蔵前橋』 が上路式アーチ橋なのに対して、この 『厩橋』 は下路式アーチ橋となっている。3連のアーチ構造と緑の塗装、アーチの下に橋桁が一直線に延びている。親柱には馬をデザインしたステンドグラス風のガラス細工が組み込まれているほか、橋の各所の橋灯の下に 「厩」 にまつわるオブジェが配されている。橋長151.4m、幅員22.5mという。
 

少年野球チームのトレーニング
e84d053e.jpg小気味よい音をたてて
68489bcf.jpg 昨日は、急に気温が下がり、朝は肌寒いくらいであった。日が照り始め朝日に照らされながら川風に吹かれて歩く川筋道は気持ちがよい。何だか真夏から急に秋になったようだ。
 夏休みもあと10日ばかり、隅田グランド前のテラスては、少年野球チームの生徒達があいかわらずトレーニングに励んでいる。橋下を「ポンポンポン…」と小気味よい音を出しながら載積船が過ぎてゆく。昨日はまったくクーラー無しの1日を送ることが出来た。
汐入公園より対岸のテラスを
7c939d58.jpg毎朝警備の巡視ご苦労様
722de62c.jpg瑞光橋
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 ガスタンク
bc2b9583.jpgラジオ体操が始まるよ
09212176.jpg 本日は旧暦7月23日、「処暑(しょしょ)」である。「老陽日々に衰えて秋陰の気増長し暑気退かんとするところの義、涼風吹ききたり暑気おさまるを知る気節」とある。東京での日の出は5時6分、日の入りは6時21分。「暑さ寒さも彼岸まで」というから、まだまだ暑い日があるのだろう。汐入の土手を歩きながら、何時も出会う荒川区の警備員の親父さんに出会う。橋は対岸の青色御殿が並ぶテラスを通ってみようと思う。水神大橋の西詰からテラスに降りて、対岸の瑞光橋とガスタンクを写真に収めてみた。白鬚橋を墨田区側から台東区側に向って渡り、石浜河岸を南下、時刻はちょうど6時半今戸公園でラジオ体操が始まるところであった。ここは、年中休みなしにラジオ体操を行っているということじゃ。
 

 総武線隅田川橋梁と蔵前橋の間の台東区側テラスは、江戸時代の浅草御蔵を模して作られている。
古地図 浅草御蔵
8ff0f06f.jpg蔵前テラスから撮影
e69e817b.jpg 江戸時代、幕府の御蔵があったことから、蔵の前で蔵前の地名が出来たということじゃ。蔵前橋は御蔵の三番堀と四番堀の間に出来たそうじゃ。隅田川を利用して、関東一円の産出米をここに集めたわけじゃのう。当時は八本の堀があり、67棟の倉庫が並んでいたそうじゃ。
旗本や御家人は給料として扶持(ふち)米をここで受け取り、米問屋を通じてお金に換える。年三回の支給日には切米切手という札を藁束に差しておくのじゃ。これを代行したのが札差で、のちにこの札を担保に金を貸す金融業者になったそうじゃ。吉原で派手にお大尽遊びをしたのもこの連中で、それに伴って一般町民も繁盛したわけじゃ。
西詰めのテラス降り口より
0c547340.jpg左:力士 右:芸妓
e2cf6195.jpg西詰、下流側渡り口
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 橋名のレリーフ

3a3b91d1.JPG橋柱上にあるレリーフ
ebd4023b.jpg東詰め、下流側渡り口
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 墨田区側テラス 下流より
adc87584.jpg墨田区側テラスで 橋真下
c8eb07b1.jpg墨田区側テラス 上流より
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厩橋のテラス昇降口で
dd94b27e.jpg 蔵前橋西岸(台東区側)には、かつて蔵前国技館があった。戦後、両国国技館が接収されていた時代、ここで大相撲が行われた。現在跡地は都の蔵前水処理場が建設されている。
 蔵前橋は、東京都道315号御徒町湖岩線(蔵前橋通)を通す。西岸は台東区蔵前一丁目、東岸は墨田区横網一丁目。橋名は「蔵前通り」に因んで付けたそうじゃ。橋全体が稲の籾殻を連想させる黄色に塗装されている。昭和29年9月~昭和59年12月まで東詰には蔵前国技館があり、高欄には力士・芸妓などのレリーフが施されている。
関東大震災の復興計画により現在の橋が架橋されたものじゃそうで、それ以前には「富士見の渡し」と呼ばれていた渡船場があった場所だそうじゃ。橋長は 173.2m (支間 :50.902m《鋼アーチ最大支間》/ 12.192m《コンクリートアーチ支間》)、幅員は 22.0m ということじゃ。
震災の翌年の大正13(1924)年から着工され、昭和2(1927)年の竣工というから、80歳を過ぎることになるんじゃ。
 

 総武線隅田川橋梁は、隅田川に架かる鉄道橋で、東日本旅客鉄道(略称はJR東日本)総武本線の支線を通している。
柳橋テラス降り口にて
d9652dc7.jpg台東区側テラス橋梁真下にて
0ce55284.jpg台東区側テラス下流より
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両国橋上から
4aeee67c.jpg墨田区側テラスにて 下流より
503c8094.jpg墨田区側テラスにて橋梁の下
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 墨田区側テラス上流より
ac1c055e.jpg 本橋は総武本線を両国駅から御茶ノ水駅まで延長するために隅田川に架けたられた橋であり、両国駅と浅草橋の間に位置する。 上部構造は3径間で隅田川を渡り、連続プレートガーダーのうち側径間(1径間目・3径間目)にヒンジ(関節のようなもの)を設けたGerber桁を基本としている。さらに、中央径間にはアーチ部材を組み合わせたランガー橋(Langer Bridge)を採用し、本橋の外観上の特徴となっている。ランガー桁は、桁とアーチの双方で荷重を支える補剛アーチ形式の一つで、日本では本橋に初めて採用されたということじゃ。
本橋は水面に近く、水に映えるアーチ部分は優雅である。また、橋の袂には遊歩道(テラス)があり、下から見上げると雄大に腕を広げている姿を見ることができる。橋長 - 172m(支間:38m + 96m + 38m ) 着工は昭和6(1931)年2月、竣工は昭和7(1932)年3月。
Langer Bridge
871a608e.JPG 爺にもあまりよくは解らんが、ランガー橋 (Langer Bridge) とは、補剛桁が曲げモーメント、アーチ部材が圧縮力のみを分担する補剛アーチ橋であるということじゃ。この形式において主たる部材は補剛桁であり、他のアーチ橋に比べ挙動は桁橋に近く、アーチ部材は補助的な部材となっている。






 昨日に続いて、新大橋の1つ上流の両国橋をを撮影することにした。他の橋の仮名標記ではすべて「はし」と清音になっているのに、ここ両国橋では「りょうごくばし」と濁音標記になっているのは何故なんだろう。
 日本語には連濁という現象がある。「妻問(ツマドヒ)」、「草葉(クサバ)」、「しらじら」のように、ふたつの言葉をつなぐと、あとの言葉の最初の音が濁るという現象がある。だから、言問橋だって「ことといはし」と標記されていても、だれも標記どおりには発音しない。だれもが「ことといばし」と読んでいる。何故に「りょうごくばし」と、ここだけわざわざ濁音標記になっているのだろう… 橋の管理者である東京都に問い合わせれば、その理由を教えてくれるのかな? まあ、どうでもよいことに拘(こだわ)りながら橋を渡るのじゃった。
柳橋の橋上から
67408c08.jpg西詰め渡り口上流がわ
1412727f.jpg中央区側テラス下流から
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西詰め渡り口下流側
864fa94b.jpg墨田区側テラス 下流より
3fb71a22.jpg 両国橋は、国道14号線(靖国通)を通す。西岸の中央区東日本橋2丁目と東岸の墨田区両国1丁目を結ぶ。橋のすぐ近くは神田川と隅田川の合流点となる。
 完成当時は言問橋・天満橋(大阪市)と共に「三大ゲルバー橋(発案者Heinrich Gerber)」とよばれ、技術的にも当時の最先端であったということじゃ。ガードレール部分には軍配や花火が描かかれ、柱部には両国国技館の屋根を模(かたど)った飾りを配するなど、デザイン的にも凝ったつくりになっている。橋長164.5m、橋員24.0mで、竣工は昭和7年、爺の生れた年と同じ。
最後の木橋
09b668c6.jpg旧両国橋
95c144cf.jpg1932年架設当初の現橋0edecb6b.jpg





 両国橋の創架年は2説あるそうで、万治2(1659)年と寛文元(1661)年である、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋じゃ。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。名称は当初「大橋」と名付けられていたが、西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、元禄6(1693)年に新大橋が架橋されると正式名称となったということじゃ。位置は現在よりも下流側であったらしい。
幕府はは防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし明暦3(1657)年の大火(いわゆる明暦の大火)の際に、「橋が無い」ことで逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまんじゃ。事態を重く見た老中酒井忠勝(1587~1662年)らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになるんじゃ。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火地除としての役割も担ったということじゃ。
 両国橋は流出や焼落、破損により何度も架け替えがなされ、木橋としては明治8(1875)年12月の架け替えが最後となったという。この木橋は西洋風の九十六間(約210m)の橋であったが、明治30(1897)年8月10日の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落してしまう。死傷者は10数名にもおよび、明治の世に入ってからの事故ということで、これにより改めて鉄橋(てつばし)へと架け替えが行われることが決定する。
  その結果、明治37(1904)年に、現在の位置より20mほど下流に鉄橋として生まれ変わるのじゃ。曲弦トラス3連桁橋であり、長さ164.5m、幅24.5mと記録に残るそうじゃ。この橋は関東大震災では大きな損傷も無く生き残ったんじゃが、他の隅田川橋梁群の復旧工事に合わせて、震災後に現在の橋に架け替えられた。なお、この架け替え時に取り外された両国橋の橋名板が東京都復興記念館(墨田区横網公園内)に保存されている。両国橋は今年3月、言問橋と共に東京都の東京都選定歴史的建造物に選定された。
両国橋由来碑と大高源五句碑
0e626c64.jpg公衆セッチンの間から橋名が
10faf178.jpg 両国橋東詰めに両国橋の由来説明の石碑と並んで、赤穂浪士で俳句の達人であった大高源五が詠んだという「日の恩や 忽ちくたく 厚氷」という句碑がある。「太陽の暖かさで、分厚い氷も、すぐ砕けて溶ける」という意味じゃが、「色々な人のお陰で、非常に困難な吉良邸討ち入りも、成功裡に終わった」ということになるんじゃろうなぁ。惜しむらくは、この句碑と両国橋の間の狭い空間に公衆セッチンが立てられ、何時もアンモニアの香りを発たせているのはいただけない。
12月14日の夜、宝井其角は、吉良邸の隣の本多孫太郎邸の句会に出席していて、討ち入りで挨拶に来た弟子の源五(俳号は子葉)さんを見て、「我がものと 思えば 軽ろし笠の雪」と呼びかけると、大高源五さんは「日の恩や 忽ちくたく 厚氷」と返したという。その場にいた富森助右衛門(1670~1703年、四十七士の一人)も「飛び込んで 手にもたまらぬ 霰かな」と返したという話じゃが、この話色々な史料を探しても、見つからないようじゃ。おそらく、法螺吹き其角あたりから出た、でっち上げ美談かも知れんてぇ。
水溜りになった両国橋下
098aa7ba.jpg 両国橋の下を潜ろうとすると、水が溜まりテラスの排水溝から水が吹き出ている。よく見ると確かに橋下の路面は川面より低くなっている。遠回りするのも億劫だから、手摺に沿って、どうやら通り過ぎたが、通り終わって手を見ると真っ黒。いやいや手洗いもなく、往生申した。人間横着に構えると碌な目には遭えぬと見える。帰宅後、暦を見ると、本日は旧暦7月19日、中潮で満潮は午前6:00となっていた。
 

両国広小路の石碑
30b480f6.JPG浜町明治座付近より
f67dfd68.jpg 昨夜の雨のためか、今朝方は毛布を被(かぶ)らないと寒いくらいであった。関西へ送るメール便もあったし、朝の徘徊は朝食が終ってからにした。8時半ごろ花川戸のクロネコ宅配所で用を済ませると、コースを南に取った。先週は爺の徘徊範囲の北の端の3橋を撮影したので、今週は南端の橋を撮影してみることにした。朝方はかなり涼しかったが、日が照り始め、陽射しも強くなった。腕時計も忘れてきたので、時刻も判らない。柳橋を渡り、靖国通に出た所は昔両国広小路といわれていたそうじゃ。少々暑いが、ついでに新大橋まで足を伸ばすことにした。
 新大橋は、西岸は中央区日本橋浜町2・3丁目、東岸は江東区新大橋1丁目で、橋の架かる通りは「新大橋通」と呼ばれているらしい。この付近の地下には都営地下鉄新宿線が通っているはず。
中央区側上流渡り口
6530e537.jpg中央区側上流テラスより
e334dfe0.jpg中央区側下流テラスより
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中央区側下流渡り口
0c09f58d.jpg江東区側テラスより 清州橋
e947937e.jpg江東区側テラス 上流より 今しも遊覧船が
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 初めて新大橋が架橋されたのは元禄6(1693)年で、千住大橋・両国橋についで隅田川で3番目の橋である。「大橋」とよばれていた両国橋に続く橋として「新大橋」となづけられたそうじゃ。5台将軍綱吉の生母桂昌院が、江戸市民のために架橋するよう将軍に勧めたのじゃと伝えられる。当時の橋は現在よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の繋留地をそれぞれ埋め立てて橋詰としたということじゃ。橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいる。
「初雪やかけかかりたる橋の上」
「ありがたやいただいて踏むはしの霜」
新大橋は何度も破損、流出、焼落しており、その回数は20回を超えているそうじゃ。幕府財政が窮地に立った享保年間に幕府は橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるんじゃが、町民衆の嘆願によって、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に永享元(1744)年には存続を許されたということじゃ。維持のために橋詰にて市場を開いたり、寄付などを集めるほかに、橋が傷まないように当時は橋のたもとに高札が掲げられ、「此橋の上においては昼夜に限らず往来の輩やすらうべからず、商人物もらひ等とどまり居るべからず、車の類一切引き渡るべからず(渡るものは休んだりせず渡れ、商人も物乞いもとどまるな、荷車は禁止)」と書かれたという。
ビントラス式の鉄橋(てつはし)
3edec1de.JPG花崗岩の親柱
9a3a2bdc.JPG大はしあたけの夕立 
左:広重 右:ゴッホ 
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明治18(1885)年に新しい西洋式の木橋として架け替えられ、明治45(1912)年にはピントラス式? の鉄橋として現在の位置に生まれ変わったそうじゃ。竣工後間もなく市電が開通し、アールヌーボー風? の高欄に白い花崗岩の親柱など、特色あるデザインが見られたようじゃ。そのため貴重な建築物として、現在愛知県の犬山市の博物館命じ村に中央区側にあたる全体の八分の一、約25mほどが部分的に移築されて保存されているという。戦後、修理補強を行いながら使われていたものの、橋台の沈下が甚だしく、橋の晩年には大型車の通行が禁止され、4t以下の重量制限が設けられていたが、昭和52年に現在の橋(橋長:170.0m 、幅員:24.0m)に架け替えられたそうじゃ。
 歌川広重がその最晩年に描いた名所江戸百景の中に、新大橋は「大はしあたけの夕立」として登場する。ゴッホが特に影響を受けたとされるこの絵は、日本橋側から対岸を望んだ構図だそうじゃ。「あたけ」というのはこの新大橋の河岸にあった幕府の御用船繋留場にその巨体ゆえに繋留されたままになっていた史上最大の安宅船でもある御座船安宅丸(あたけまる)にちなんで、新大橋付近が俗にそう呼ばれていたからだそうじゃ。斎藤月岑(さいとう げっしん、1804~1878年、江戸の名主)の江戸名所図会には「新大橋、三また」として描かれているということじゃ。「三また(三股、三派)」とは神田川、隅田川、竪川の合流点のことで、新大橋のすぐ上流側であるが、この中州部分は月見、花見、夕涼み、花火見物の名所であり、全盛期には江戸一番の繁盛を見せたといわれる場所であったそうじゃ。
両国ジャンクションを潜り抜けるだるま船
ff6de8da.jpg両国橋を通り抜ける「ヒミコ」
1279c244.jpg富岡八幡の祭見学に
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  江東区側のテラスに降りて、下流を見ると清洲橋の全景が見えた。この橋についても書いてみようとは思うが、今の爺の体力では清洲橋まで行ってみる気になれない。まあ、写真1枚だけに留めておこう。テラスを両国ジャンクションのところまでくると、だるま船が2艘、親船に曳かれて行くところであった。その昔、土地や家を持てずに川や海に船を浮かべて生活している人は珍しくなく、いわゆる水上生活者の船を「だるま船」といったのじゃ。なにゆえ、「だるま船」というのかはわからぬが、思うに動力をもたぬ船なので、親船に曳いてもらわぬことにゃ、手も足も出ず自力で動くことが出来ないからそのような名前が付いたのかも知れんてぇ。
 竪川の水門をすぎ墨田区側のテラスを両国橋までくると、今しも水上バスの「ヒミコ」が両国橋を潜り抜けるところであった。漫画・アニメ界でご存知の松本零士がデザインした宇宙船のような「ヒミコ」が、2004年3月から浅草~お台場間を運航している。「ヒミコ」は、松本零士が「ティアドロップ(涙滴)」をイメージ・コンセプトに、「子供たちが乗ってみたいと思ってくれる船」として、デザインを手がけたということじゃ。
 厩橋と駒形橋の間のテラスで、福島からわざわざ富岡八幡の祭(8/15が祭礼日であるが、いまはどこも土・日で行う)を見に来たのだという2人連れのご仁にであった。ここで、休憩を兼ねて、少々水掛神輿等について話した。
Ⅰ・K氏、父子鷹
df1621af.jpg 吾妻橋を渡って、江戸通りを北上していると、I・K氏とすれ違った。息子を連れてプールからの帰りだという。「いま、小学2年生ですが、200メートルのメドレーを泳ぎ抜きましたよ。僕が追い付かないほどですよ」まさか、そんなこともないだろうが、小学5年生にして初めて泳げるようになった彼にすれば、自慢の息子には違いない。今は亡き彼の父上・M親方がどんなに喜ばれていることだろう。
 

左から2人目がK・Nさん
025248c4.jpg聖天町の宮本卯之助商店
fc44d5e2.jpg 今年の6月初めに、横浜在住のK・Nさんから、浅草の「太鼓館」の招待券を頂いた。
 彼女の実家は爺の住む聖天町にある宮本卯之助商店で、彼女は現当主の妹御に当たられる。
 宮本卯之助商店は、神輿・太鼓・祭礼具の製造販売や修理、復元およびレンタルを行っている老舗の商店であれ、文久元(1861)年に創業ということじゃ。宮内庁楽部や歌舞伎座、日本武道館等に楽器を提供しているという。
 本店と西浅草店の2店舗がある。 本店は浅草6丁目(元、聖天町)にあり、本社と工場が併設されている。 また西浅草店は神輿・太鼓をはじめ、祭衣装や神具まで幅広い商品を取り揃えたショールームとなっている。
展示室での撮影はいけなかったのかな?
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718e26aa.jpg 太鼓館は西浅草店の4Fにあり、和太鼓を初め世界の太鼓やく600点を所蔵している世界の太鼓しりょうかんで、世界各国の太鼓を一同に公開するのは世界初であり、その殆どを実際に叩くこともできる。なかでも和太鼓は文久元年を生かして、質量ともに他に類を見ない収蔵を誇っているという。
 さらに太鼓に関する文献図書、視聴覚資料も3000点を越え、研究者の閲覧、利用に便宜を図っているという。
 ここの所、猛暑が続き、それにうろつきどんたくの日なので、朝の徘徊は中止にした。昨夜は一雨あったようで、今朝は過しやすかった。遠出は止めにして、近くの国際通りにある「太鼓館」へ出向いた。館内は我々がトップと見えて他には見学者はいなかったので、カメラのシャッターを切らせていただいた。10時に家を出て、ゆっくりと見学を終え、浅草ROXで、昼飯を済ませ、午後1時前には帰宅した。

千住汐入大橋付近地図
fe7b357c.JPG荒川区側テラス下流より
701a76a5.jpg荒川区側橋桁下(下流)
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荒川区側橋桁下(上流)
c3a923e1.jpg荒川区側渡り口(上流)
9eecc8d5.jpg足立区側渡り口(上流)
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足立区側橋桁下(上流)
e3261e97.jpg足立区側橋桁下(下流)
59aa408d.jpg足立区側渡り口(下流)
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 今朝の爺の写真のお目当ては、昨日の水神大橋下のテラス(荒川区側)をさらに北上すると隅田川が大きく西にカーブする辺りに架けられた千住大橋である。平成18(2006)年2月に開通した隅田川に架かる橋のうち2番目に新しい橋である(最も新しい橋は2007年3月に開通した新豊橋)ということじゃ。南岸は汐入公園で荒川区南千住8丁目、北岸は足立区千住曙町である。橋の名は元々この場所にあった渡船場「汐入の渡し」に因むという。
 東京都が災害時の防災拠点として整備している白鬚西地区の主要連絡路であり、足立区、荒川区、葛飾区を相互につなぐ重要拠点としてかきょうされたとそうじゃ。全長158.6m、幅員20.0m(車道11.0m、人道4.1m)。
 

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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