北十間川
源森橋由来
北十間川というのは江東区亀戸付近にて旧中川と分かれ、ほぼ東から西へ伸びて墨田区向島付近にて隅田川とつながる、延長3.24kmの荒川水系の一級河川である。江戸時代初期に運河として開削され、川幅が10間(約18.18m)で本所(墨田区南部の商工業地区)の北を流れることから北十間川と呼ばれた。
このほとりに新しく東京スカイツリーが建設されるという。NHKと民放五社が計画を呼びかけてから五年、熾烈な誘致合戦を経て建設予定地の決定が下されてから三年、地上610メートル、事業総予算650億円のプロジェクトが三年半後2011年12月の竣工に向かって動き出した。7月14日、まずは午前、建設予定地である墨田区押上一丁目にて、「安全祈願祭」が行われ、午後は錦糸町駅前の東武ホテルに地元関係者が招ねかれ「記念式典」が開かれたそうじゃ。
源森橋南詰め
橋上より枕橋と水門を臨む
源森橋北詰
隅田公園を抜けると何となく、吾妻橋を渡り、そのまま墨田区役所の表玄関前に出て、枕橋手前を右折すると、そこは源森橋であった。橋口に由来碑が立っている。
牛島神社
水戸庭園よりの区役所
桜橋辺りから北の朝焼けを望む
源森橋を渡り、水戸屋敷庭園を抜けて牛島神社前から言問橋袂の墨堤通りを横断し、何時もの遊歩道に入った。桜橋近辺から見る北方面は朝焼けで綺麗だ。そのまま白鬚橋まで北上し、何時もどおり白鬚橋を渡り、件の落書き通りを通って帰宅した。
『最近 ホームシックでね。だから1週間だけ日本へ行く事にしました。きっと「誰かの」ブログのせいかと思いますが、、、 日本着は3日(金)。週末は海へ行く予定ですが、平日の予定は まだ殆どありませんので是非伺います。塾友中心で集まるなら、日程を決めましょう!』
昨夜、マイチに電話したけど、爺は10日には九州ゆきじゃ。6,7,8日の3日のうちに何とか集まれればよいのだが。あれやこれや考えているうちに、今朝は写真撮影をすっかり忘れてしまった。
白鬚橋を渡り、隅田公園に入ると、何となく言問橋から公園に入ってすぐの築山を写真に納めた。この築山こそかつて「蟻の街」のあったところなんじゃ。
築山 かつて蟻の街のあった所
第二次世界大戦後、職もなく、住む家もない人々が隅田川の言問橋の近くに集まって、「蟻の会」という共同体を作り、廃品回収で生計を立てていた。人々はここを「蟻の街」とよんだ。大学教授の娘で、恵まれた家庭に育った北原怜子(さとこ)というカトリックの女性はゼノという修道士から蟻の町の話を聞き、そこに出かけるようになり、献身的に蟻の町の子どもたちの世話をした。怜子は次第に持てる者が持たない者を助けるという姿勢に疑問を抱くようになり、自ら「バタ屋」となって廃品回収を行うようになったのじゃ。怜子はいつしか結核を患い、静養のために蟻の町を去ったそうじゃ。東京都はいく度となく、蟻の会に立ち退きを求めた。蟻の町を存続させるために、当時の蟻の会の人々は、教会を建てると言って、建物の屋根に十字架を取り付け、新聞にも取り上げられた。怜子の名は「蟻の町のマリア」として知られるようになっていたんじゃ。有名になった蟻の町に対して、都は代替地として「8号埋立地」を提示したが、都が示した条件は蟻の会にとっては厳しいもので、交渉は難航した。
一時蟻の町を離れて、病気療養をしていた怜子は病状が悪化し、これ以上治療方法がないと分かったとき、蟻の町に戻ることを希望した。十字架が立った建物に近い小部屋に住み、蟻の町のためにひたすら祈り続けたということじゃ。1958年1月19日、怜子の祈りが神に通じたかのように、都が蟻の会の要求を全面的に認め、蟻の町の「8号埋立地」への移転が決定し、その直後北原怜子は1月23日に28歳の若さで息を引き取ったということじゃ。
ガード下のまくらばし茶屋
待乳山聖天の天狗坂
上流
朝早くからの太極拳
木母寺の裏玄関
秋空に聳えるリバーサイド隅田
ワンさん夫妻の後姿
仏教上では、お彼岸といわれ、お墓参りをする日と聞かされた。彼岸(ひがん)とは、煩悩をを脱した悟りの境地をいうのであって、煩悩や迷いに満ちたこの世をこちら側の岸「此岸」(しがん)と言うのに対して、向う側の岸ということで「彼岸」と名付けられたらしい。
「彼岸会(ひがんえ)」は、雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた7日間のことをいうのじゃ。爺が餓鬼の頃は祖母(ばあ)さまやお袋さんが炊いた糯(もちごめ)をすり鉢に入れて、半殺しにしたものに餡子を塗りたくってご馳走してくれた。仏様の供え物として作るもので、「ぼたもち」または「おはぎ」とよんだ。名前の興りは「牡丹餅」(春)と「お萩餅」(秋)なんだそうじゃ。餡子を塗るかわりに黄粉やすり胡麻を塗りたくったものもある。日蓮が鎌倉幕府によって龍ノ口の刑場に引き立てられて行った時、急を聞いた尼さんがなにか最後の供養と考えたが、餡をつくる時間がなく、黄粉と胡麻をまぶした「半殺し糯」を作り日蓮に献上したのが始まりじゃという。
水神大橋のレリーフ
東京の日の出は5時29分。桜橋を渡り、足は東白鬚公園へ向かう。水神大橋を渡るとき、橋柱のバルコニーになっている所の欄干に水神をあらわすレリーフがあった。おそらく伊弉諾・伊弉冉をイメージしたものであろう。汐入公園は最近散策する人がとみに増えたようだ。広場では何人かが集まって太極拳をしているグループがあった。太極拳は緩やかで流れるようにゆったりとした動きが特徴であり、健康、長寿にも良いとされ、朝の公園などで集まって練習している姿が見られるようになった。武術が持つ一般的な激しいイメージとは対照的に、コントロールされたゆっくりとした動きを多く含む。 日本国内でも、太極拳の愛好者は年々増えつつあり、自治体単位で太極拳を推進しているところもあると聞く。右手に大きな球上のガスタンクを臨みながら、いつも危険と隣り合わせにある都会であることを感じながら、瑞光橋を渡り、件(くだん)の落書き通りを通って、帰宅した。
折悪しく、午後から雨が降り出したが、2時半爺婆を小学2年の息子さんTちゃんと国技館の正面玄関で待っていてくれた。相撲博物館を見学して、席に案内してくれたが、審判部長の後(うしろ)の正面溜まり席であった。こんな近くで大相撲を見るのははじめてであったが、テレビでは味わえない熱気を感じた。
写真の方はなかなか難しく、好い勝負は見とれてシャッターを押すのを忘れるし、慌てて押したものはピンボケが多く、あまり上手く撮れなかった。
相撲博物館で
幕内土俵入り
朝青龍はこのあと負けの判定物言いなし
帰りは回向院のすぐ近くのファミリーレストランで、夕食を共にした。外に出るとかなり激しい降りになっていた。K氏親子は両国からJRで上野桜木町まで帰ると言う。回向院前でタクシーに乗るとき、K氏から焼鳥のお土産まで頂いてしまった。
西空に十六夜の月が
墨田区役所
この付近は幕末まで佐竹の庭・浩養園として知られていたらしい。枕橋茶屋の前から墨田区役所をカメラに収めてみた。
白鬚橋をバックに2人をカメラに収めた。ワンさんが爺の徘徊姿をカメラに入れてくれた。しばし、話した後、白鬚橋を渡り、川沿いに桜橋まで南下して帰宅した。
藤田東湖の漢詩碑
説明板
高速6号線の下でのご来光
前のお家のKちゃん
昨13日(土)は、何時もどおり、駒形橋を渡り枕橋を過ぎた所で、藤多東湖の「天地正大気」漢詩碑をカメラに収める。この碑は写真に撮るのは今回で何度目であろうか。随分何回もとったような気がする。傍らにある説明板も前のものとはかわったような気がする。高速6号線の下で見るご来光が、莫迦にはっきりと見えた。多分この朝は大いにガスっていた所為だろう。白鬚橋に近付いた所で、ワンさん夫妻とすれ違う。今日は土曜日でお勤めがお休みと見えて、前のお家のKちゃんもマラソン、白鬚橋ですれ違い、家の玄関先で再びすれ違った。
昔ながらのタイル張りの家
昭和2年の古家屋
用水用の古ポンプ
台東区美術展
朝のNHKテレビ「土曜すてき旅」に鳩の街が取り上げられていた。今年の春、桜橋で花見をしたとき、同期の爺どもで昔年とどのように変ったかと、探索した所である。
というわけで、本日14日(日)の婆様との「うろつきどんたく」は、鳩の街へ出掛けることになったんじゃ。墨堤通りから入り、昔のままのタイル張りの家、昭和2年に建ったと言う「鈴木荘」、テレビにも出た用水用のポンプなどもカメラに収めた。この辺りは、本日は牛島神社のお祭で、祭囃子が流れる水戸街道に抜け出た。桜橋通りから墨堤通りに入ると牛島神社を通り、吾妻橋を渡り墨田公園に入ると、水上バス乗場のすぐ近くにある地下ギャラリーで「台東区美術展」をやっていたので見学してきた。
富田木歩は、明治30(1897)年、東京本所区(現墨田区)向島小梅町に生まれた。本名は一(はじめ)。2歳のとき、病いにより歩行不能の体となった。加えて貧困のため、本人の強い希望にもかかわらず小学校教育も受けられなかった。文字は「いろはがるた」「軍人めんこ」などで覚えた。少年雑誌などを夢中で読む本好きの子供だったらしい。彼には4人の姉妹と兄、聾唖の弟がいたが、姉妹は貧困のゆえにことごとく遊郭に身を落とし、一人の妹と弟は結核で亡くなっている。木歩自身も、大正7年(21歳)ころから喀血するようになり、病臥の身となった。 彼の最期も無惨なものだった。関東大震災の猛火の中で死んだのである。享年数えでわずか27歳だった。
木歩と同い年の慶応の学生で浅草に住んでいた新井声風(1930~1972年)は、木歩の俳句を高く評価し木歩と親交を結んだ。大震災のときは木歩の元に駆けつけ、混乱の中で土手の上に妹たちと居る木歩を見つけた。浅草方面に逃げようと彼を背負って枕橋近くまで走ったが(言問橋、桜橋はこの当時なかった)、橋は燃え落ちまわりには火の手が迫りどうにもならなかったという。木歩と無言の握手の後、津波で普段の2倍にも水嵩を増し激流と化した隅田川に飛び込んだ声風は奇跡的に助かり、その後の人生を木歩の句集・文集の編纂をしたり、木歩に関する本や文をまとめるなど、木歩の業績を世に知らしめる為に尽力している。
三囲の大鳥居と竹屋の渡しの説明
朝5時はまだ暗い。何時もとは逆回りで、例の落書通りを北上し、白鬚橋を渡ると、青色御殿通りを南下、桜橋を過ぎた所で、僕亭通りを渡り、三囲神社の裏参道にくると、鳥居の傍に「竹屋の渡し」の説明板があった。敷地に沿って表参道に出ると、境内に入ってみた。ここに木歩の句碑があると聞いたことがあるからじゃ。あったあった、句碑は本殿の真裏の銀杏の木の下につつましく佇んでいた。「夢に見れば死もなつかしや冬木風」 台座を入れても高さは1メートルにも満たない控えめな句碑であった。
駒形橋上で朝日を浴びて
四五年ぶりの九州行きになるが、以前のように方々立ち寄る気力もない。この爺、どこといって悪い所があるわけではないが、最近とみに何をするのも億劫になってきた。まあ、高校時代の同期の連中に会えば、後は兄貴と姉貴に会って、帰京するつもりじゃ。
朝晩は随分涼しくなった。今朝は外は肌寒いほどであった。いつも通る道なのに気付かずにいたが、枕橋の袂に由来碑が立っている。褐色の石に枕橋の由来が彫られていて、白く埋め込みがされているのだが、大変に読み辛い。曰く、
「寛文2年(1662年)、関東郡代であった伊奈半十郎により、中之郷(現在の吾妻橋)から向島に通じる源森川に源森橋が架けられた。またその北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。/その後、堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅した。明治8年、残った源森橋は正式に枕橋と呼ばれることとなった。/現在の枕橋は昭和3年に架け替えられたものである。昭和63年、本橋は東京都著名橋に指定された。/平成4年3月」
気をつけてみないと判らないが、よく観ると枕橋の渡り口の欄干の下に「隅田八景 枕はし夜雨」のレプリカが掘り込んである。二代 広重 画 と記されている。とある芋きん屋の包み紙に隅田八景が描かれている。
枕橋由来碑
例の青色御殿通りでワンさん夫妻とすれ違う。
sechin@nethome.ne.jp です。
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