墨田公園前からバスで浅草橋駅へ。JR浅草橋駅から両国へ。約束の時間に少々間があったので、東口から出てみた。総武線の線路に沿って殺風景な道を清澄通りまで歩かねば線路の北側に出ることが出来ない。なんとも不便なつくりになっているようだ。
徳川家康の銅像前で
江戸東京博物館入り口前で
でも、そこはI・N兄がこの爺を誘ってくれただけに、書に関する知識を披露してくれた。いろいろと教えてもらうことが多かった。両国駅構内のとある寿司屋で、寿司を食いながらビールを飲んだ。
少し近辺を歩いてみようということで、両国橋を渡り、柳橋から神田川沿いに浅草橋に出る。喫茶店でしばしお互いの近況等を話し合う。喫茶を出ると「あなた地下鉄、私はバスよ」とお別れ。帰宅すると、昼寝。
夕飯を食らって、今日のうちにと、このブログを打ち込むことにした。
朝倉文夫の「あこがれ」
聖天橋を過ぎたところに朝倉文夫作の「あこがれ」という女性像が立っている。平成5年10月1日に宣言された「台東区健康都市宣言」を記念して、台東区の健康施策の象徴として建てられたという。戦後の新しい日本の女性像で、健康的で清潔な美を象徴しているんだと。
ラジオ体操は土曜・日曜はお休みだったのだそうだ。このラジオ体操も8月1日(金)までで終わりということじゃ。今朝は、前の家のKちゃん親子が体操に来ていた。
本日は下関からK・H氏が我家を訪ねてくださるというので、徘徊の時間を大幅に縮めた。午前6時に言問橋を渡り、墨堤側を北上、桜橋を渡り、水門前でくると、夏休みの学生や、少年達がトレーニングに汗を流していた。ラジオ体操が始る前の時間を山谷掘り公園で過す。
6時25分聖天公園に入ると、猿若町会の当番なのかU氏とO氏が来ていた。とんと、忘れていたがO氏はかつて兼愛塾に通っていたとの事である。
K・H氏と爺の仕事部屋で
お昼まで我家で資料を見せながらいろいろと話したが、この爺の思い違いで、爺の祖先様の出た地名を誤って覚えていた。
島根県゜邑智郡邑南町」を「おちぐんゆうなんちょう」と覚えていたが、K・H氏の話で「おおちぐんおおなんちょう」と読むのが正しいことを知った。
いやはや、とんだ赤っ恥(ぱじ)を掻いたもんだ。
角川の中漢和辞典で調べてみると、「邑」の音は「いふ(ゆう)」、訓は「むら」で、「おお」という読みはない。しかし、邑南町のサイトを開いてみると、確かに「おおちぐん、おおなんちょう」となっている。
老舗 うなぎの前川 玄関
前川の看板
前川の裏手 花火打ち上げ場所になるらしい
今日は旧暦の6月22日「土用の丑の日」て゜ある。夏の土用丑の日に「暑気払いに鰻を食うといい」といったのは平賀源内先生というが、日本産の鰻と中国産の鰻では値段が違うんじゃろ。食ってみてもさほど味は違わないと思うけど、なんだかワイドショーのニュースに鰻君も戸惑っていることじゃろう。
江戸通りを南下し、駒形橋西詰めにある鰻の老舗「前川」をカメラに収めた。この「前川」の裏手辺りが隅田川花火大会の第2会場の打ち上げ場所になるらしい。駒形橋を渡り、墨田区側を北上、白鬚橋を渡り、剃刀堤防の細い道に来ると、テラスの青色住宅の住人たちのお引越しで道が塞がれそうになっている。本日より26日の花火大会が終るまで、テラスは立ち入り禁止になるとか。
聖天公園でラジオ体操
聖天町会の方々
桜橋まで来ると6時20分。リバーサイドスポーツセンタの横道から、山谷堀公園にでる。久し振りにラジオ体操とやらをやってみる気になったので、聖天公園に入る。隣家のH・S夫人も見えていて、少々お話をした。体操が終って、町会長のKさんを中心に婦人会の面々で写真を撮らせて頂いた。
徘徊の後のラジオ体操は整理体操としてあっているように思える。
聖天公園の見取り図
アラリンさんのコメントに応えて、待乳山聖天公園の地図を貼り付けてみた。公園の大きさ等については昔とあまり変っておらんようじゃ。
ここは兼愛塾の運動場のようなものであったよのう。
公園の南の入口の所に「池波正太郎生誕の地」の石碑が建てられたよ。
本日東京の日の出は午前4時41分、日の入りは午後6時55分という。
桜橋手前より
そのまま北上、東白鬚公園をぬけて、水神大橋を渡り、何時ものコースを通ったが、途中でテラスに降りた。白鬚橋から言問橋の間のテラス、隅田川花火のため、24日(木)から閉鎖され、立入り禁止となる。
花火大会では立入り禁止
まあ、隅田公園内は花火大会のため、どこもかしこも金網がめぐらされている。今週一ぱいはこの状態が続きそうだ。
朝顔市は昨日で終了
入谷鬼子母神
今日は海の日で祝日。サミットの為に半月遅れた朝顔市はてっきり今日までと決め込んでいた。
言問通りを真っ直ぐ西進、入谷の高速道入口のところに並んでいるはずの市は昨日のうちに片付けられていた。鬼子母神の境内もすっかり片付いていた。
「朝顔まつり」の標識も今日のうちに取り払われるのであろう。言問通りと並行する町並み(松が谷・柴崎町)をとおって、国際通りから花やしき通りをとおって、浅草寺境内をぬけ、改装中の二天門の横道を通って、馬道を南下し、雷門通りをでると吾妻橋をわたって、枕橋まで来るとワンさん夫妻に出会う。そこへトールちゃんが合流。こんなことも珍しいので、3人をカメラに収めた。トールちゃんは遊歩道を桜橋の方へ、ワンさん夫妻は吾妻橋のほうへ、そして爺は水戸屋敷のほうへそれぞれ別れた。
そのまま、言問橋を渡って帰宅した。
博多でクリニックをやっている甥が、連休を利用して夫婦で、東京に遊学中の息子に会いに上京し、午後4時ごろ、浅草のこの爺の家にも立ち寄ってくれた。
クリニックの方もなかなか忙しくらしく、明日には帰福するとのこと。我家の近辺と浅草寺を案内し、夕食をともにして東京メトロ浅草駅で別れた。
浅草寺境内 団十郎碑の前で
それにしても、本堂前に設えてある賽銭箱の前には、お賽銭を上げるために順番をまつ人たちの行列が出来ていた。
隅田川神社
隅田川の総鎮守であり、水上安全の守護神として崇敬を集め、古くは「水神」又は「水神宮」と称していたが、明治5年に隅田川神社と改称したという。
治承(1177~1180年)の頃、源頼朝が関東に下った折、暴風雨に逢い、当社に祈願したと伝えられている。
現在の御社殿は嘉永元年造営のものが、安政2年の大地震で倒潰したため、安政5年に再建されたものである。関東大震災及び太平洋戦争などで被害を受けたがその都度修理を加え、現在の位置より北約25mに南面して鎮座していたが、高速道路が神域を掠めることとなって御社殿に大修繕を加え、昭和50年6月現在の位置に遷座したという。
江戸時代での奥州路は千住大橋経由となっていて、当地は江戸庶民の観光地となっていたために水神という 古典的な形を残したのかもしれない。江戸名所図会に隅田堤(墨堤)は1574年に小田原北条氏が三圍神社から木母寺の間に築き、堤の左右に桃、桜、柳を植え、スミレなどの野草も絨毯の如くで賞するに壮観であると記されている。
江戸・東京の重ね地図を記しておこう。
江戸の地図
江戸の地図の中の図会1・図会2の風景もあったので合わせて掲載しておこう。
東京の地図
太田道灌(1432~1486年)が下総の千葉氏を攻めるために長橋三条を構えたという文の紹介と、1750年頃の文献の引用で、隅田川の渡しより一町ほど川上に昔の橋の古杭が水底に残っていて船の通行の障害になっていたとあるが、ここでいう隅田川の渡しがどこかは不詳である。当社のある中洲などを利用した飛び石伝いの橋だったのであろう。これが隅田川に最初に架けられた橋とみえるが、江戸時代にそれが修復されなかったのは軍事的な意味があったからであろう。
現在は高架道路に遮られて隅田川を見ることはできず、当時の面影は全く失われているのだろう。
梅若橋 公園内で
梅若橋を潜(くぐ)り、水神大橋を渡って、汐入公園の遊歩道を通って、帰宅した。
sechin@nethome.ne.jp です。
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