瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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木歩終焉の地の碑
d264afbd.JPG木歩の挿絵
eb58ded8.JPG 枕橋を渡ると水戸庭園の入り口のまえに、「富田木歩終焉の地」と書かれた碑が建っている。
 富田木歩は、明治30(1897)年、東京本所区(現墨田区)向島小梅町に生まれた。本名は一(はじめ)。2歳のとき、病いにより歩行不能の体となった。加えて貧困のため、本人の強い希望にもかかわらず小学校教育も受けられなかった。文字は「いろはがるた」「軍人めんこ」などで覚えた。少年雑誌などを夢中で読む本好きの子供だったらしい。彼には4人の姉妹と兄、聾唖の弟がいたが、姉妹は貧困のゆえにことごとく遊郭に身を落とし、一人の妹と弟は結核で亡くなっている。木歩自身も、大正7年(21歳)ころから喀血するようになり、病臥の身となった。 彼の最期も無惨なものだった。関東大震災の猛火の中で死んだのである。享年数えでわずか27歳だった。
 木歩と同い年の慶応の学生で浅草に住んでいた新井声風(1930~1972年)は、木歩の俳句を高く評価し木歩と親交を結んだ。大震災のときは木歩の元に駆けつけ、混乱の中で土手の上に妹たちと居る木歩を見つけた。浅草方面に逃げようと彼を背負って枕橋近くまで走ったが(言問橋、桜橋はこの当時なかった)、橋は燃え落ちまわりには火の手が迫りどうにもならなかったという。木歩と無言の握手の後、津波で普段の2倍にも水嵩を増し激流と化した隅田川に飛び込んだ声風は奇跡的に助かり、その後の人生を木歩の句集・文集の編纂をしたり、木歩に関する本や文をまとめるなど、木歩の業績を世に知らしめる為に尽力している。
三囲の大鳥居と竹屋の渡しの説明
c923adfe.JPG境内の富田木歩の句碑
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 朝5時はまだ暗い。何時もとは逆回りで、例の落書通りを北上し、白鬚橋を渡ると、青色御殿通りを南下、桜橋を過ぎた所で、僕亭通りを渡り、三囲神社の裏参道にくると、鳥居の傍に「竹屋の渡し」の説明板があった。敷地に沿って表参道に出ると、境内に入ってみた。ここに木歩の句碑があると聞いたことがあるからじゃ。あったあった、句碑は本殿の真裏の銀杏の木の下につつましく佇んでいた。「夢に見れば死もなつかしや冬木風」 台座を入れても高さは1メートルにも満たない控えめな句碑であった。
駒形橋上で朝日を浴びて
3fe97478.jpg 枕橋をわたって、駒形橋まで下り橋を渡っていると、行き違いにトールちゃんが愛犬ココアを連れて、朝のお散歩。ここから桜橋を渡って帰宅するのだそうだ。ココア君なかなかカメラの方を向いてくれないので、トールちゃんがココアを抱いてカメラに収まってくれた。
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目高 拙痴无
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1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
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