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 今朝は、台風の影響が残り雨のため徘徊できず。その時間は文天祥の「正気歌」探しと、その写し作りに費やした。
 文天祥(1238~1282年)は、中国南宋末期の軍人、政治家。字は宋瑞(そうずい)または履善(りぜん)。号は文山(ぶんざん)という。滅亡へと向かう宋の臣下として戦い、宋が滅びた後は元に捕らえられ、何度も元に仕えるようにと勧誘されたが、忠節を守るために断って刑死したという人物。
文天祥
4d7d550f.JPG正気歌 原詩
7f325727.GIF正気歌 読み下し文
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一旦は下野した文天祥であつたが、モンゴルの攻撃が激しくなると復職して元との戦いに転戦、1276年に右丞相兼枢密使となり、元との和約交渉の使者とされるが、元側の談判の後で捕らえられる。文天祥が捕らえられている間に首都・臨安(杭州)が陥落したが、宋は幼帝を奉じて抵抗を続けた。文天祥も元の軍中より脱出して、各地でゲリラ活動を行い2年以上抵抗を続けたが、1278年に遂に捕らえられ、大都(北京)へと連行されるのである。その後は死ぬまで獄中にあり、厓山に追い詰められた宋の残党軍への降伏文書を書くことを求められるが『過零丁洋』の詩を送って断った。この詩は「死なない人間はいない。忠誠を尽くして歴史を光照らしているのだ。」と言うような内容なんだそうだ。宋が完全に滅んだ後もその才能を惜しんでクビライより何度も勧誘を受けたのである。この時に文天祥はこの『正気の歌』(せいきのうた)を詠んだのじゃそうだ。何度も断られたクビライだが、文天祥を殺すことには踏み切れなかったらしい。朝廷でも文天祥の人気は高く、隠遁することを条件に釈放してはとの意見も出され、クビライもその気になりかけた。しかし文天祥が生きていることで各地の元に対する反乱が活発化していることが判り、やむなく文天祥の死刑を決めるしである。文天祥は捕らえられた直後から一貫して死を望んでおり、1282年、南(南宋の方角)に向かって拝して刑を受けたという。享年47。クビライは文天祥のことを「真の男子なり」と評したという。刑場跡には後に「文丞相祠」と言う祠が建てられた。
正気歌 訳文 その14c45d21a.GIF
正気歌 訳文 その2
fe629258.GIF 文天祥は忠臣の鑑として後世に称えられ、『正気の歌』は多くの人に読み継がれた。日本でも江戸時代中期の浅見絅斎(あさみけいさい、1652~1712年)が『靖献遺言』に評伝を載せ、幕末の志士たちに愛謡され、藤田東湖だけでなく吉田松陰も、日露戦争時の広瀬武夫などもそれぞれ自作の『正気の歌』を作っているそうだ。
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