瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
今朝は夜が明けると、東の空が朝焼けに染まり久し振りに天気が回復したようじゃ。日の出(5時10分ごろ)と同時に家を出る。今日のお目当てはもちろん駒形橋。
西詰、渡り口(上流側)
西詰にある説明碑
橋脚上はバルコニーに
東詰渡り口(下流側)
墨田区側テラス(下流側)より
墨田区側テラス(上流側)より
東詰上流側渡り口
駒形橋は浅草通を通す。西岸は台東区雷門2丁目および駒形2丁目を分かち、東岸は墨田区東駒形1丁目と吾妻1丁目を分かつ。橋の名は西詰にある駒形堂に因むんじゃ。関東大震災後の復興計画により現在の橋が始めて架けられたんじゃ。構造形式は 中央径間は中路、側径間は上路アーチという珍しい形の3連アーチ橋。アーチの形式は2ヒンジのソリッドリブタイド。円筒形の橋脚の上には、バルコニーが設けられている。大正13(1924)年7月に着工、昭和2(1927)年6月に竣工。橋長149.6m、幅員22.0mである。架設までは「竹町(竹町)の渡し(駒形の渡しとも言った)」があったという。
昔、江戸っ子は「コマカタ」と濁らず発音したといい、吉原の遊女2代目高尾が仙台の殿様、伊達綱宗を恋しがって詠んだという「ゆうべは波の上の御帰らせ、いかが候。御館の御首尾つつがなくおわしまし候や。御見のまま忘れねばこそ、思い出さず候。かしこ。 君はいま 駒形あたり ほととぎす」の句で有名じゃ。高尾太夫というのは吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は11人いたと言われている。
駒形堂
ご本尊馬頭観音
駒形堂説明板
戒殺碑
駒形堂(通称駒堂がなまって「コマンドー」という)は、馬頭観音を本尊に祀るため、駒形とよばれるそうじゃ。馬頭観音は、往還筋、特に東日本の街道沿いによく見られ、馬が唯一の輸送手段だったころの街道のシンボルであっのじゃ。浅草寺の本尊の観音様はこの辺りから引き上げられたというが、こんなことを縁起として建てられたものなのじゃろうか? はじめは川に向けて建てられていたんじゃが、何度か再建された後、南向きになったという。現在の駒形堂は昭和8年に再建されたもので、鉄筋コンクリート造り。駒形は浅草観音への第一の入口であり、舟で上陸する人だけでなく、上野から新寺町通りを真っ直ぐここまで来て、並木町を経て雷門に向かったそうじゃ。
観音祭(現三社祭り)では、陸路を浅草橋まで御輿を渡し、舟で隅田川を北上し、この地から上陸して還御したそうじゃ。
堂内敷地内に「浅草寺領殺生禁断の碑」が立っている。檜前兄弟が観音様を拾い上げたのがこの辺りだというので、生き物を殺すのを禁じたのだというじゃ。従ってここから上流では魚を捕ることは出来なかったそうじゃが、逆に駒形付近では多くの川魚の料理屋が出来たという。
駒形橋を西から東に渡り、いつものコースを北上。桜橋を過ぎた付近で久し振りにワンさん夫妻と出会う。白鬚橋をわたり、台東区側を南下。夏休みも後3・4日、少年野球チームの少年達は今朝もトレーニングに汗を流していた。
西詰、渡り口(上流側)
西詰にある説明碑
橋脚上はバルコニーに
東詰渡り口(下流側)
墨田区側テラス(下流側)より
墨田区側テラス(上流側)より
東詰上流側渡り口
駒形橋は浅草通を通す。西岸は台東区雷門2丁目および駒形2丁目を分かち、東岸は墨田区東駒形1丁目と吾妻1丁目を分かつ。橋の名は西詰にある駒形堂に因むんじゃ。関東大震災後の復興計画により現在の橋が始めて架けられたんじゃ。構造形式は 中央径間は中路、側径間は上路アーチという珍しい形の3連アーチ橋。アーチの形式は2ヒンジのソリッドリブタイド。円筒形の橋脚の上には、バルコニーが設けられている。大正13(1924)年7月に着工、昭和2(1927)年6月に竣工。橋長149.6m、幅員22.0mである。架設までは「竹町(竹町)の渡し(駒形の渡しとも言った)」があったという。
昔、江戸っ子は「コマカタ」と濁らず発音したといい、吉原の遊女2代目高尾が仙台の殿様、伊達綱宗を恋しがって詠んだという「ゆうべは波の上の御帰らせ、いかが候。御館の御首尾つつがなくおわしまし候や。御見のまま忘れねばこそ、思い出さず候。かしこ。 君はいま 駒形あたり ほととぎす」の句で有名じゃ。高尾太夫というのは吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は11人いたと言われている。
駒形堂
ご本尊馬頭観音
駒形堂説明板
戒殺碑
駒形堂(通称駒堂がなまって「コマンドー」という)は、馬頭観音を本尊に祀るため、駒形とよばれるそうじゃ。馬頭観音は、往還筋、特に東日本の街道沿いによく見られ、馬が唯一の輸送手段だったころの街道のシンボルであっのじゃ。浅草寺の本尊の観音様はこの辺りから引き上げられたというが、こんなことを縁起として建てられたものなのじゃろうか? はじめは川に向けて建てられていたんじゃが、何度か再建された後、南向きになったという。現在の駒形堂は昭和8年に再建されたもので、鉄筋コンクリート造り。駒形は浅草観音への第一の入口であり、舟で上陸する人だけでなく、上野から新寺町通りを真っ直ぐここまで来て、並木町を経て雷門に向かったそうじゃ。
観音祭(現三社祭り)では、陸路を浅草橋まで御輿を渡し、舟で隅田川を北上し、この地から上陸して還御したそうじゃ。
堂内敷地内に「浅草寺領殺生禁断の碑」が立っている。檜前兄弟が観音様を拾い上げたのがこの辺りだというので、生き物を殺すのを禁じたのだというじゃ。従ってここから上流では魚を捕ることは出来なかったそうじゃが、逆に駒形付近では多くの川魚の料理屋が出来たという。
駒形橋を西から東に渡り、いつものコースを北上。桜橋を過ぎた付近で久し振りにワンさん夫妻と出会う。白鬚橋をわたり、台東区側を南下。夏休みも後3・4日、少年野球チームの少年達は今朝もトレーニングに汗を流していた。
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プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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