瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
ボランティアのガイドさんと
具に説明を
飛び石伝いに
今日も朝から雨。朝食を終えて、雨も上がり、薄日が射してきたので、午前11時、2人してうろつきに出掛けた。厩橋の袂の蔵前駅から都営大江戸線で清澄白河駅下車。清澄庭園に行った。東京都指定名称となっていて、大正記念館や涼亭などがある。この地には元禄期の豪商・紀伊国屋文左衛門の屋敷があったと伝えられる。享保期には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、ある程度の庭園が築かれたと推定されている。明治11(1878)年、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手。明治13(1880)年に竣工し、深川親睦園と命名された。三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、明治24(1891)年に回遊式築山林泉庭園としての完成を見た。なお、明治22(1889)年には庭園の西側にJosiah Conder(ジョサイア・コンドル、1852~1920年)設計による洋館が建てられている。大正12(1923)年の関東大震災で庭園は大きな被害を受けて邸宅も焼失したが、図らずも近隣住民の避難場所となり多くの人命が救われた。それを受けて大正13(1924)年、三菱3代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈。市は大正記念館の移築(1929年5月竣工)や深川図書館の新館舎建設(同年6月竣工)など整備を進め、昭和7(1932)年7月24日に清澄庭園として開園したものじゃ。ボランティアの方がこの爺と婆について、庭園の謂れや設備についてつぶさに説明してくださった。
清洲橋東詰渡り口
江東区側テラスにて
橋の真下より
美しい橋の全景
テラスより
西詰渡り口で
万年橋袂で
万年橋南側渡り口
ここまで来れば清洲橋は直ぐ其処である。写真撮影して帰ることにした。清洲橋は清洲橋通を通す。西岸は中央区日本橋中洲、東岸は江東区清澄一丁目。「清洲」という名称は公募により、建設当時の両岸である深川区清住町と日本橋区中洲町から採られた。関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋。「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるような設計で、「震災復興の華」とも呼ばれた優美なデザインである。当時世界最美の橋と呼ばれたドイツ・ケルン市にあった大吊り橋をモデルにしている(この橋は第2次世界大戦で破壊され、現在は吊り橋ではない)。海軍で研究中であった低マンガン鋼を使用して、鋼材の断面を小さくする努力がなされた。もともと「中洲の渡し」という渡船場があった場所でもある。平成12(2000年)に永代橋と共に土木工学の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定された。平成19(2007)年6月18日、都道府県の道路橋として初めて、勝鬨橋・永代橋とともに国の重要文化財(建造物)に指定された。
構造形式は自碇式鋼鉄製吊橋。橋長 186.3m 、幅員 22.0m 。着工は大正14年3月 、竣工は昭和3年3月 であるという。
江戸東京博物館で
説明板
さらに、ここまで来れば、序(ついで)にというわけで、両国は大江戸東京博物館に展示してある、戦災で災難を受けたという言問橋の欄干と縁石を写真に収めてきた。両国で遅い昼飯を食って、浅草橋駅前からバスでご帰還。時に午後2時半をすぎていた。
具に説明を
飛び石伝いに
今日も朝から雨。朝食を終えて、雨も上がり、薄日が射してきたので、午前11時、2人してうろつきに出掛けた。厩橋の袂の蔵前駅から都営大江戸線で清澄白河駅下車。清澄庭園に行った。東京都指定名称となっていて、大正記念館や涼亭などがある。この地には元禄期の豪商・紀伊国屋文左衛門の屋敷があったと伝えられる。享保期には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、ある程度の庭園が築かれたと推定されている。明治11(1878)年、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手。明治13(1880)年に竣工し、深川親睦園と命名された。三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、明治24(1891)年に回遊式築山林泉庭園としての完成を見た。なお、明治22(1889)年には庭園の西側にJosiah Conder(ジョサイア・コンドル、1852~1920年)設計による洋館が建てられている。大正12(1923)年の関東大震災で庭園は大きな被害を受けて邸宅も焼失したが、図らずも近隣住民の避難場所となり多くの人命が救われた。それを受けて大正13(1924)年、三菱3代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈。市は大正記念館の移築(1929年5月竣工)や深川図書館の新館舎建設(同年6月竣工)など整備を進め、昭和7(1932)年7月24日に清澄庭園として開園したものじゃ。ボランティアの方がこの爺と婆について、庭園の謂れや設備についてつぶさに説明してくださった。
清洲橋東詰渡り口
江東区側テラスにて
橋の真下より
美しい橋の全景
テラスより
西詰渡り口で
万年橋袂で
万年橋南側渡り口
ここまで来れば清洲橋は直ぐ其処である。写真撮影して帰ることにした。清洲橋は清洲橋通を通す。西岸は中央区日本橋中洲、東岸は江東区清澄一丁目。「清洲」という名称は公募により、建設当時の両岸である深川区清住町と日本橋区中洲町から採られた。関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋。「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるような設計で、「震災復興の華」とも呼ばれた優美なデザインである。当時世界最美の橋と呼ばれたドイツ・ケルン市にあった大吊り橋をモデルにしている(この橋は第2次世界大戦で破壊され、現在は吊り橋ではない)。海軍で研究中であった低マンガン鋼を使用して、鋼材の断面を小さくする努力がなされた。もともと「中洲の渡し」という渡船場があった場所でもある。平成12(2000年)に永代橋と共に土木工学の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定された。平成19(2007)年6月18日、都道府県の道路橋として初めて、勝鬨橋・永代橋とともに国の重要文化財(建造物)に指定された。
構造形式は自碇式鋼鉄製吊橋。橋長 186.3m 、幅員 22.0m 。着工は大正14年3月 、竣工は昭和3年3月 であるという。
江戸東京博物館で
説明板
さらに、ここまで来れば、序(ついで)にというわけで、両国は大江戸東京博物館に展示してある、戦災で災難を受けたという言問橋の欄干と縁石を写真に収めてきた。両国で遅い昼飯を食って、浅草橋駅前からバスでご帰還。時に午後2時半をすぎていた。
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Re:お疲れ様でした
岩淵水門から勝鬨橋まで、30km弱の間に、人車道橋としての橋が25、鉄道橋は、最近はつくばエクスプレスなどが増えましたので少なくとも、5本くらいはあるでしょう。下流地域吾妻橋(河口より7㎞地点)下流だけで、14・5本の橋がありますので、500m間隔で人車道橋が架かっている勘定になります。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
sechin@nethome.ne.jp です。
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