瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 昨日に続いて、新大橋の1つ上流の両国橋をを撮影することにした。他の橋の仮名標記ではすべて「はし」と清音になっているのに、ここ両国橋では「りょうごくばし」と濁音標記になっているのは何故なんだろう。
 日本語には連濁という現象がある。「妻問(ツマドヒ)」、「草葉(クサバ)」、「しらじら」のように、ふたつの言葉をつなぐと、あとの言葉の最初の音が濁るという現象がある。だから、言問橋だって「ことといはし」と標記されていても、だれも標記どおりには発音しない。だれもが「ことといばし」と読んでいる。何故に「りょうごくばし」と、ここだけわざわざ濁音標記になっているのだろう… 橋の管理者である東京都に問い合わせれば、その理由を教えてくれるのかな? まあ、どうでもよいことに拘(こだわ)りながら橋を渡るのじゃった。
柳橋の橋上から
67408c08.jpg西詰め渡り口上流がわ
1412727f.jpg中央区側テラス下流から
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西詰め渡り口下流側
864fa94b.jpg墨田区側テラス 下流より
3fb71a22.jpg 両国橋は、国道14号線(靖国通)を通す。西岸の中央区東日本橋2丁目と東岸の墨田区両国1丁目を結ぶ。橋のすぐ近くは神田川と隅田川の合流点となる。
 完成当時は言問橋・天満橋(大阪市)と共に「三大ゲルバー橋(発案者Heinrich Gerber)」とよばれ、技術的にも当時の最先端であったということじゃ。ガードレール部分には軍配や花火が描かかれ、柱部には両国国技館の屋根を模(かたど)った飾りを配するなど、デザイン的にも凝ったつくりになっている。橋長164.5m、橋員24.0mで、竣工は昭和7年、爺の生れた年と同じ。
最後の木橋
09b668c6.jpg旧両国橋
95c144cf.jpg1932年架設当初の現橋0edecb6b.jpg





 両国橋の創架年は2説あるそうで、万治2(1659)年と寛文元(1661)年である、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋じゃ。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。名称は当初「大橋」と名付けられていたが、西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、元禄6(1693)年に新大橋が架橋されると正式名称となったということじゃ。位置は現在よりも下流側であったらしい。
幕府はは防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし明暦3(1657)年の大火(いわゆる明暦の大火)の際に、「橋が無い」ことで逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまんじゃ。事態を重く見た老中酒井忠勝(1587~1662年)らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになるんじゃ。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火地除としての役割も担ったということじゃ。
 両国橋は流出や焼落、破損により何度も架け替えがなされ、木橋としては明治8(1875)年12月の架け替えが最後となったという。この木橋は西洋風の九十六間(約210m)の橋であったが、明治30(1897)年8月10日の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落してしまう。死傷者は10数名にもおよび、明治の世に入ってからの事故ということで、これにより改めて鉄橋(てつばし)へと架け替えが行われることが決定する。
  その結果、明治37(1904)年に、現在の位置より20mほど下流に鉄橋として生まれ変わるのじゃ。曲弦トラス3連桁橋であり、長さ164.5m、幅24.5mと記録に残るそうじゃ。この橋は関東大震災では大きな損傷も無く生き残ったんじゃが、他の隅田川橋梁群の復旧工事に合わせて、震災後に現在の橋に架け替えられた。なお、この架け替え時に取り外された両国橋の橋名板が東京都復興記念館(墨田区横網公園内)に保存されている。両国橋は今年3月、言問橋と共に東京都の東京都選定歴史的建造物に選定された。
両国橋由来碑と大高源五句碑
0e626c64.jpg公衆セッチンの間から橋名が
10faf178.jpg 両国橋東詰めに両国橋の由来説明の石碑と並んで、赤穂浪士で俳句の達人であった大高源五が詠んだという「日の恩や 忽ちくたく 厚氷」という句碑がある。「太陽の暖かさで、分厚い氷も、すぐ砕けて溶ける」という意味じゃが、「色々な人のお陰で、非常に困難な吉良邸討ち入りも、成功裡に終わった」ということになるんじゃろうなぁ。惜しむらくは、この句碑と両国橋の間の狭い空間に公衆セッチンが立てられ、何時もアンモニアの香りを発たせているのはいただけない。
12月14日の夜、宝井其角は、吉良邸の隣の本多孫太郎邸の句会に出席していて、討ち入りで挨拶に来た弟子の源五(俳号は子葉)さんを見て、「我がものと 思えば 軽ろし笠の雪」と呼びかけると、大高源五さんは「日の恩や 忽ちくたく 厚氷」と返したという。その場にいた富森助右衛門(1670~1703年、四十七士の一人)も「飛び込んで 手にもたまらぬ 霰かな」と返したという話じゃが、この話色々な史料を探しても、見つからないようじゃ。おそらく、法螺吹き其角あたりから出た、でっち上げ美談かも知れんてぇ。
水溜りになった両国橋下
098aa7ba.jpg 両国橋の下を潜ろうとすると、水が溜まりテラスの排水溝から水が吹き出ている。よく見ると確かに橋下の路面は川面より低くなっている。遠回りするのも億劫だから、手摺に沿って、どうやら通り過ぎたが、通り終わって手を見ると真っ黒。いやいや手洗いもなく、往生申した。人間横着に構えると碌な目には遭えぬと見える。帰宅後、暦を見ると、本日は旧暦7月19日、中潮で満潮は午前6:00となっていた。
 

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