両国広小路の石碑
浜町明治座付近より
昨夜の雨のためか、今朝方は毛布を被(かぶ)らないと寒いくらいであった。関西へ送るメール便もあったし、朝の徘徊は朝食が終ってからにした。8時半ごろ花川戸のクロネコ宅配所で用を済ませると、コースを南に取った。先週は爺の徘徊範囲の北の端の3橋を撮影したので、今週は南端の橋を撮影してみることにした。朝方はかなり涼しかったが、日が照り始め、陽射しも強くなった。腕時計も忘れてきたので、時刻も判らない。柳橋を渡り、靖国通に出た所は昔両国広小路といわれていたそうじゃ。少々暑いが、ついでに新大橋まで足を伸ばすことにした。
新大橋は、西岸は中央区日本橋浜町2・3丁目、東岸は江東区新大橋1丁目で、橋の架かる通りは「新大橋通」と呼ばれているらしい。この付近の地下には都営地下鉄新宿線が通っているはず。
中央区側上流渡り口
中央区側上流テラスより
中央区側下流テラスより
中央区側下流渡り口
江東区側テラスより 清州橋
江東区側テラス 上流より 今しも遊覧船が
初めて新大橋が架橋されたのは元禄6(1693)年で、千住大橋・両国橋についで隅田川で3番目の橋である。「大橋」とよばれていた両国橋に続く橋として「新大橋」となづけられたそうじゃ。5台将軍綱吉の生母桂昌院が、江戸市民のために架橋するよう将軍に勧めたのじゃと伝えられる。当時の橋は現在よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の繋留地をそれぞれ埋め立てて橋詰としたということじゃ。橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいる。
「初雪やかけかかりたる橋の上」
「ありがたやいただいて踏むはしの霜」
新大橋は何度も破損、流出、焼落しており、その回数は20回を超えているそうじゃ。幕府財政が窮地に立った享保年間に幕府は橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるんじゃが、町民衆の嘆願によって、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に永享元(1744)年には存続を許されたということじゃ。維持のために橋詰にて市場を開いたり、寄付などを集めるほかに、橋が傷まないように当時は橋のたもとに高札が掲げられ、「此橋の上においては昼夜に限らず往来の輩やすらうべからず、商人物もらひ等とどまり居るべからず、車の類一切引き渡るべからず(渡るものは休んだりせず渡れ、商人も物乞いもとどまるな、荷車は禁止)」と書かれたという。
ビントラス式の鉄橋(てつはし)
花崗岩の親柱
大はしあたけの夕立
左:広重 右:ゴッホ
明治18(1885)年に新しい西洋式の木橋として架け替えられ、明治45(1912)年にはピントラス式? の鉄橋として現在の位置に生まれ変わったそうじゃ。竣工後間もなく市電が開通し、アールヌーボー風? の高欄に白い花崗岩の親柱など、特色あるデザインが見られたようじゃ。そのため貴重な建築物として、現在愛知県の犬山市の博物館命じ村に中央区側にあたる全体の八分の一、約25mほどが部分的に移築されて保存されているという。戦後、修理補強を行いながら使われていたものの、橋台の沈下が甚だしく、橋の晩年には大型車の通行が禁止され、4t以下の重量制限が設けられていたが、昭和52年に現在の橋(橋長:170.0m 、幅員:24.0m)に架け替えられたそうじゃ。
歌川広重がその最晩年に描いた名所江戸百景の中に、新大橋は「大はしあたけの夕立」として登場する。ゴッホが特に影響を受けたとされるこの絵は、日本橋側から対岸を望んだ構図だそうじゃ。「あたけ」というのはこの新大橋の河岸にあった幕府の御用船繋留場にその巨体ゆえに繋留されたままになっていた史上最大の安宅船でもある御座船安宅丸(あたけまる)にちなんで、新大橋付近が俗にそう呼ばれていたからだそうじゃ。斎藤月岑(さいとう げっしん、1804~1878年、江戸の名主)の江戸名所図会には「新大橋、三また」として描かれているということじゃ。「三また(三股、三派)」とは神田川、隅田川、竪川の合流点のことで、新大橋のすぐ上流側であるが、この中州部分は月見、花見、夕涼み、花火見物の名所であり、全盛期には江戸一番の繁盛を見せたといわれる場所であったそうじゃ。
両国ジャンクションを潜り抜けるだるま船
両国橋を通り抜ける「ヒミコ」
富岡八幡の祭見学に
江東区側のテラスに降りて、下流を見ると清洲橋の全景が見えた。この橋についても書いてみようとは思うが、今の爺の体力では清洲橋まで行ってみる気になれない。まあ、写真1枚だけに留めておこう。テラスを両国ジャンクションのところまでくると、だるま船が2艘、親船に曳かれて行くところであった。その昔、土地や家を持てずに川や海に船を浮かべて生活している人は珍しくなく、いわゆる水上生活者の船を「だるま船」といったのじゃ。なにゆえ、「だるま船」というのかはわからぬが、思うに動力をもたぬ船なので、親船に曳いてもらわぬことにゃ、手も足も出ず自力で動くことが出来ないからそのような名前が付いたのかも知れんてぇ。
竪川の水門をすぎ墨田区側のテラスを両国橋までくると、今しも水上バスの「ヒミコ」が両国橋を潜り抜けるところであった。漫画・アニメ界でご存知の松本零士がデザインした宇宙船のような「ヒミコ」が、2004年3月から浅草~お台場間を運航している。「ヒミコ」は、松本零士が「ティアドロップ(涙滴)」をイメージ・コンセプトに、「子供たちが乗ってみたいと思ってくれる船」として、デザインを手がけたということじゃ。
厩橋と駒形橋の間のテラスで、福島からわざわざ富岡八幡の祭(8/15が祭礼日であるが、いまはどこも土・日で行う)を見に来たのだという2人連れのご仁にであった。ここで、休憩を兼ねて、少々水掛神輿等について話した。
Ⅰ・K氏、父子鷹
吾妻橋を渡って、江戸通りを北上していると、I・K氏とすれ違った。息子を連れてプールからの帰りだという。「いま、小学2年生ですが、200メートルのメドレーを泳ぎ抜きましたよ。僕が追い付かないほどですよ」まさか、そんなこともないだろうが、小学5年生にして初めて泳げるようになった彼にすれば、自慢の息子には違いない。今は亡き彼の父上・M親方がどんなに喜ばれていることだろう。
いやいや立派な息子さんですから、親莫迦結構です。自分の息子や娘が信用できぬ親が余りにも多すぎます。まあ、あまり利口に育てると今度は親を莫迦にするようになりますので、気をつけましょう。仁科ソーダを味合わせるには体力差があるうちのほうがいいですぞ。これから、親父は爺に、息子は血気盛んな若者に育っていくでしょうから、逆に仁科ビールをご馳走してもらうことにもなりませんね。あと、4・5年後が楽しみですね。
これからも、コメント入れてください。
sechin@nethome.ne.jp です。
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