鳥越神社
下町まちしるべ
鳥越神社説明板
昨日は、散髪が終ってから徘徊ということで、松屋のすぐ北側にある理髪店に開店(午前8時45分)と同時に行ったが、3台での散髪に、先客が8人もいた。いやはや、先に徘徊をと、鳥越神社を回って、蔵前橋を渡り、テラスを通って、吾妻橋にでる。再び理髪店に着いたが、先客が4人いた。1時間ほど待って、散髪を終えて帰宅したのは、正午近くであった。
桜橋を過ぎたあたりから
テラスへの降り口から
西詰め(台東区)から
西詰め(荒川区)から
墨田区テラスから
テラス昇り口階段から
東詰め(川上)より
東詰め(川下)より
テラスより
「名にしおば いざ言問はん都鳥 わが思ふ人は ありやなしや」
言問橋は、爺の家のすぐ近くに架かっているが、在原業平が東下りの折りに隅田川越えをして詠んだとされる場所は、この白鬚橋の辺りだったということである。
橋名の「しらひげはし」は、髭(口ひげ)でも髯(頬ひげ)でもなく、あごひげを表す鬚を用いて「白鬚橋」と書くのが正しいという。この場所はもともとは「橋場の渡し」があったところで、橋場の地名は台東区側に残る。大正2年に木橋が作られたのが最初で、墨田区側にある白鬚神社に因んだ命名である。
現在の橋は昭和6年の竣工で、全長168m、全幅23mという。今朝の撮影はこの白鬚橋を中心にした。
江戸時代はお江戸の市域と郊外の境界を「朱引」といった。振袖火事(明暦3年、1657年)をきっかけに江戸の市域は拡大した。今まで代官支配地の橋場村であったのが、思川(現、明治通)に朱引して、南側を市域にいれて、町奉行の管轄となった。橋場は江戸時代から根岸と並んで風流で雅趣に富んだ土地柄で、大名や大店の寮(別荘)が隅田川河岸に並んでいた。江戸名所図絵にも「都鳥ノ名所ナリ」と描かれ、付近の浅茅が原には水鶏(くいな)が多く棲んでいた。また今戸から橋場にかけては有名な料理屋が多く。橋場の柳屋、今戸橋の有明楼、吉野橋の八百善などは高級料理屋として、華族や文人などが出入りしていたという。
sechin@nethome.ne.jp です。
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