瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
謹賀新年 今年も宜しくね
蛇年にちなんで、「蛇」のつく4字熟語を集めてみた。
画蛇添足(がだてんそく): 無用で不必要なものをつけ足すこと。余計なもの。また、無用なものをつけ足してしくじること。蛇の絵を描いて、蛇にはない足をたし描く意から。▽略して「蛇足(だそく)」ともいう。「蛇」は「じゃ」とも読む。「蛇へびを画えがきて足あしを添そう」と訓読する。 出典 戦国策 斉策 前漢の劉向(BC77年~BC6年)著
竜頭蛇尾(りゅうとう-だび):初めは勢いがよいが、終わりのほうになると振るわなくなること。頭は竜のように立派なのに、尾は蛇のよのようにか細くて、前と後とのつりあいがとれない意から。▽「竜」は「りょう」とも読む。 出典 『景徳伝灯録(けいとくでんとうろく、道原によって編纂された禅宗を代表する燈史)』21。「惜しむべし竜頭翻かえって蛇尾と成る」
斗折蛇行(とせつ-だこう):斗(北斗七星)のように折れ曲がり、蛇のようにくねくねと曲がりながら進むこと。転じて、道や川などにカーブが多く、くねくねと続いていくさま。▽「蛇行」は曲がりくねって進むこと。「蛇」は「じゃ」とも読む。 出典 「至小丘西小石潭记(しょうきゅうのにししょうせきたんにいたるのき) 唐の柳宗元(りゅうそうげん、773~819年)著
牛鬼蛇神(ぎゅうき-だしん):妖怪や鬼神。もとは怪しげでとりとめがなく、幻のような作風・作品のたとえ。どうにも奇妙でしまりがなでしまりがないさま。また、邪よこしまなことをするさまざまな悪人のたとえ。さらに容貌ようぼうの醜いたとえとして用いられることもある。▽「牛鬼」は頭が牛の形をした鬼神・怪物のこと。転じて、容姿が醜いたとえ。「蛇神」は顔が人で身体が蛇の姿をした神。 出典 「李賀集序(りがしゅ)」 杜牧(とぼく、803~853年)
封豕長蛇(ほうし-ちょうだ):貪欲(どんよく)で残酷な人や国のたとえ。大きな豚と長い蛇の意から。▽「封」は大きい意。「豕」は豚、いいのししの意。 出典 『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』定公(ていこう)四年
打草驚蛇(だそう-きょうだ):草をたたいてその奥にいる蛇を驚かす意から、あるものを懲らしめることによって、他のものに警告するたするたとえ。後に、よけいなことをして、かえってつまらない災難を受けるたとえ。無用のことをしてかえって相手に警戒心を起こさせてしまうたとえ。▽「打草」は草をたたく、「驚蛇」は蛇を驚かす意。一般に「草を打うって蛇を驚かす」と訓読を用いる。 出典 『南唐近事(なんとうきんじ)』 鄭文寶(ていぶんぽう、953~1013年)著
蜿蜿長蛇(えんえん-ちょうだ)うねうねと長く続いているもののたとえ。▽「蜿蜿」は蛇や竜などが、うねうね曲がりながら進むさま。「蜿蜒」「蜒蜒」とも書く。「長蛇」は長い蛇。転じて、長い列の形容。
蛇年にちなんで、「蛇」のつく4字熟語を集めてみた。
竜頭蛇尾(りゅうとう-だび):初めは勢いがよいが、終わりのほうになると振るわなくなること。頭は竜のように立派なのに、尾は蛇のよのようにか細くて、前と後とのつりあいがとれない意から。▽「竜」は「りょう」とも読む。 出典 『景徳伝灯録(けいとくでんとうろく、道原によって編纂された禅宗を代表する燈史)』21。「惜しむべし竜頭翻かえって蛇尾と成る」
牛鬼蛇神(ぎゅうき-だしん):妖怪や鬼神。もとは怪しげでとりとめがなく、幻のような作風・作品のたとえ。どうにも奇妙でしまりがなでしまりがないさま。また、邪よこしまなことをするさまざまな悪人のたとえ。さらに容貌ようぼうの醜いたとえとして用いられることもある。▽「牛鬼」は頭が牛の形をした鬼神・怪物のこと。転じて、容姿が醜いたとえ。「蛇神」は顔が人で身体が蛇の姿をした神。 出典 「李賀集序(りがしゅ)」 杜牧(とぼく、803~853年)
封豕長蛇(ほうし-ちょうだ):貪欲(どんよく)で残酷な人や国のたとえ。大きな豚と長い蛇の意から。▽「封」は大きい意。「豕」は豚、いいのししの意。 出典 『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』定公(ていこう)四年
蜿蜿長蛇(えんえん-ちょうだ)うねうねと長く続いているもののたとえ。▽「蜿蜿」は蛇や竜などが、うねうね曲がりながら進むさま。「蜿蜒」「蜒蜒」とも書く。「長蛇」は長い蛇。転じて、長い列の形容。
今日は大晦日。来年は巳年(蛇年)。蛇について調べてみた。
ヘビの語源には、「這虫(ハヒムシ)」の略など這うように動く様子からとする説や、脱皮をすることから「変身(ヘンミ)」の転とする説、小動物を丸呑みするところから「食む(ハム)」の転といった説がある。
ヘビが体をくねらせて前進する姿は特徴的であるし、脱皮の「ヘンミ」が「ヘミ」「ヘビ」へと変化する過程で、「ビ(尾)」の意味が加わったとも考えられる。また、「ハブ」や「ハミ(マムシ)」は、「食む(ハム)」からと考えられているため、「食む」を語源とする説も十分に考えられる。
古く、「ヘビ」は「ヘミ」と呼ばれており、「ヘミ」が変化して「ヘビ」になったと考えられているが、ヘビの方言には、「ヘミ」「ヘブ」「ヘベ」「ハビ」「ハベ」「ハム」「ハメ」「バブ」「パプ」「ヒビ」などのほか、これら二音の中間に「ン」を挟んだ「ヘンビ」「ヘンミ」など数多くの呼称があり、どの語が元で多くの方言が生じたか定かではないため、語源もどの説が正しいとは言い切れない。
漢字「蛇」の「它」は、頭の大きいヘビを描いた象形文字で、元々は「它」のみで「ヘビ」を表したが、「かれ」「それ」などの 第三人称に「它」が転用されたため、「虫」を加えて「蛇」と表すようになったという。
「巳」(み、し)という字は、胎児の形を表した象形文字で、蛇が冬眠から覚めて地上にはい出す姿を表しているとも言われ、「起こる、始まる、定まる」などの意味がある。
「巳 」を動物にあてはめると「蛇」になるが、古来より、蛇は信仰の対象となっており、谷神(やとのかみ、谷や低湿地を司る)、豊穣神、天候神などとして崇められてきた。祭祀や祀りごとの「祀」に「巳」が用いられているのは、「祀」とは自然神を祀ることをいい、自然神の代表的な神格が巳(蛇)だったからであるという。
また、蛇は脱皮をすることから「復活と再生」を連想させ、餌を食べなくても長く生きることから「神の使い」として崇められ、全国各地に蛇神を祀っている神社がある。たとえば、七福神のひとつである「弁財天」は蓄財と芸能の女神であるが、蛇の形をした神として祀られていることも多い。日本神道古来の神である宇賀神とも習合して一体化し、弁天の頭上に宇賀神が載っている像や蛇身の弁天像もある。宇賀神は日本固有の神で、老人の頭を持ち身体は白蛇(人頭蛇身)の姿をしていて、農業・食物・財福の神とされる。また、蛇の抜け殻を財布に入れて蓄財を願うなど、お守りにする風習が今でもみられる。
巳の特徴は探究心と情熱。蛇は執念深いとされているが、恩を忘れず、助けてくれた人には恩返しをすると言われている。
ヘビの語源には、「這虫(ハヒムシ)」の略など這うように動く様子からとする説や、脱皮をすることから「変身(ヘンミ)」の転とする説、小動物を丸呑みするところから「食む(ハム)」の転といった説がある。
ヘビが体をくねらせて前進する姿は特徴的であるし、脱皮の「ヘンミ」が「ヘミ」「ヘビ」へと変化する過程で、「ビ(尾)」の意味が加わったとも考えられる。また、「ハブ」や「ハミ(マムシ)」は、「食む(ハム)」からと考えられているため、「食む」を語源とする説も十分に考えられる。
古く、「ヘビ」は「ヘミ」と呼ばれており、「ヘミ」が変化して「ヘビ」になったと考えられているが、ヘビの方言には、「ヘミ」「ヘブ」「ヘベ」「ハビ」「ハベ」「ハム」「ハメ」「バブ」「パプ」「ヒビ」などのほか、これら二音の中間に「ン」を挟んだ「ヘンビ」「ヘンミ」など数多くの呼称があり、どの語が元で多くの方言が生じたか定かではないため、語源もどの説が正しいとは言い切れない。
漢字「蛇」の「它」は、頭の大きいヘビを描いた象形文字で、元々は「它」のみで「ヘビ」を表したが、「かれ」「それ」などの 第三人称に「它」が転用されたため、「虫」を加えて「蛇」と表すようになったという。
「巳」(み、し)という字は、胎児の形を表した象形文字で、蛇が冬眠から覚めて地上にはい出す姿を表しているとも言われ、「起こる、始まる、定まる」などの意味がある。
「巳 」を動物にあてはめると「蛇」になるが、古来より、蛇は信仰の対象となっており、谷神(やとのかみ、谷や低湿地を司る)、豊穣神、天候神などとして崇められてきた。祭祀や祀りごとの「祀」に「巳」が用いられているのは、「祀」とは自然神を祀ることをいい、自然神の代表的な神格が巳(蛇)だったからであるという。
巳の特徴は探究心と情熱。蛇は執念深いとされているが、恩を忘れず、助けてくれた人には恩返しをすると言われている。
12月の初め五反田に住まうF氏より電話があり、「先だってYと呑んだのだが、長いこと水門会の会合をやっていないが、みんなにあいたいなぁという話が出た。忘年会か新年会でもやって集まってはどうか?」ということであった。
何時だったか、横浜市在住のK氏がよく利用するという品川のグリルで船橋市在住のN氏を交えて会食したことがあったがそのとき、K氏より「ここは水門会の会合なんかでも使えるよ。よければ今度はここで水門会をやれば、俺もお手伝いできると思うよ」と言っていたのを思い出し、F氏にK氏と連絡とって、企画すればと言っておいたが、それっきり連絡がないのでK氏・F氏に経過を訊ねるうちに、この爺がグリルへの連絡やなにやらでお世話することになった。1月17日(木)に品川の「つばめグリル」ということで、各人への連絡はK氏・F氏・Y氏に頼んだ。結局集計はこの爺がやることになり、最終的に19名の出席が決まった。
3人の連絡を信用しないわけではなかったが、電話連絡で聞き違いなどあってはということで、改めて日時と場所を葉書に印刷して、出席者各人に発送すると言うお節介をやらかしてしまった。
本日爺のお節介に、横浜のB氏から返信が届いた。彼とは今から60年を遡る昔、九州から上京した当初、爺の住まっていた野方によく遊びにきてくれたし、爺も彼の国分寺の下宿に遊びに行った。品川プリンスで水門会があったときに出会ったきりで、もう何年になるだろう。いつもこの爺のことを忘れず、去年か、一昨年か東京ドームの巨人戦の入場券を送ってくれたりもした。
アメリカはシアトルから塾友のHitoちゃんから年末・年始の挨拶状が届いた。いやはや、息子と娘に日本の武士道を叩き込むらしい。
何時だったか、横浜市在住のK氏がよく利用するという品川のグリルで船橋市在住のN氏を交えて会食したことがあったがそのとき、K氏より「ここは水門会の会合なんかでも使えるよ。よければ今度はここで水門会をやれば、俺もお手伝いできると思うよ」と言っていたのを思い出し、F氏にK氏と連絡とって、企画すればと言っておいたが、それっきり連絡がないのでK氏・F氏に経過を訊ねるうちに、この爺がグリルへの連絡やなにやらでお世話することになった。1月17日(木)に品川の「つばめグリル」ということで、各人への連絡はK氏・F氏・Y氏に頼んだ。結局集計はこの爺がやることになり、最終的に19名の出席が決まった。
3人の連絡を信用しないわけではなかったが、電話連絡で聞き違いなどあってはということで、改めて日時と場所を葉書に印刷して、出席者各人に発送すると言うお節介をやらかしてしまった。
何時ものように朝食後、隅田川に沿って散策。午後10時過ぎ、山谷堀水門広場に来ると、テントの設営が行なわれているので、近寄ってみると、今月5日になくなった中村勘三郎の追悼記帳所が設営されているところだった。



此処山谷堀水門広場には今年6月まで平成中村座の仮設小屋が建てられ大勢の人々が出入りしていたこと、それに近くの猿若町(現、浅草6・7丁目)は歌舞伎の本拠地であったこともあって、猿若町会などが中心となって、ここに追悼記帳場が儲けられることになったのだろう。
30分程前にはここを、勘九郎に抱かれた勘三郎の遺骨が神輿とともに通ったという。
本日のウェブニュースより
中村勘三郎さん本葬:「息遣いよみがえる」早すぎる死悼む ―― 5日に57歳で亡くなった歌舞伎俳優、中村勘三郎さんの本葬が27日正午、東京都中央区の築地本願寺で営まれた。歌舞伎俳優の坂田藤十郎さん、片岡仁左衛門さん、野球の王貞治さんらが名優の早すぎる死を悼んだ。/祭壇には「十八代目中村勘三郎を祝う会」で、写真家の篠山紀信さんが撮影した手を合わせほほ笑む遺影が飾られ、約15000本の菊の花が会場を囲んだ。「髪結新三(かみゆいしんざ)」など当たり役の写真も並び、往年の勘三郎さんをしのばせた。戒名は「演暢院釈明鏡大居士(えんちょういんしゃくみょうきょうだいこじ)」。/歌舞伎俳優の坂東三津五郎さんは「今でも目をつぶれば、横で踊っている君の息遣い、躍動する体がよみがえってくる。本当にさびしい」と弔辞を述べた。/葬儀に先立ち、遺骨は長男勘九郎さん、次男七之助さんら遺族とともに、平成中村座公演の行われた隅田公園(台東区)と来年4月開場予定で建設が進む歌舞伎座などをまわった。 〔毎日新聞 2012年12月27日 13時09分〔最終更新 12月27日 13時30分〕
此処山谷堀水門広場には今年6月まで平成中村座の仮設小屋が建てられ大勢の人々が出入りしていたこと、それに近くの猿若町(現、浅草6・7丁目)は歌舞伎の本拠地であったこともあって、猿若町会などが中心となって、ここに追悼記帳場が儲けられることになったのだろう。
30分程前にはここを、勘九郎に抱かれた勘三郎の遺骨が神輿とともに通ったという。
本日のウェブニュースより
今日は姉の1周忌。これに先立って福岡のN家では22日に姉夫婦が住んでいた太宰府の家て法要がいとなまれた。東京でも15日の浅草寺五重塔の参拝日に簡単ではあるが、回向を申し込み、爺と婆の2人で姉の1周忌のささやかな法要とした。
思えば、姉とは原爆の廣島を通り抜け、中国山地の山間の邑三次での疎開生活をともにしてきた。その間、枕崎台風で木小屋を改装した住まいが吹き飛ばされそうになったこと、方々の農家に買出しに出かけたこと、終戦の年の年末、木小屋のすき間から雪が舞い込む12畳の部屋の隅で父の死を見取ったこと、姉にとっては広島でのたけのこ生活は一際忘れられないことだったのだろう。毎年必ず三次市にある日高家の墓参りに出かけていた。多くは丹波篠山にいる自分の娘(爺の姪)と一緒であった。
この姪は22日の福岡の法要を済ませ、篠山に帰宅する途中ひとりで三次にも立ち寄って、日高家の墓にお参りしてくれたらしい。三次から携帯で電話が入り、「叔父さん、お祖父さんやお祖母さんに何かいうことありませんか?」ということであったので、ついつい「叔父さんも間もなくそちらに逝くから、宜しくねと伝えておいてよ」と言うと、電話が切れてしまった。もしかしたら、爺の縁起でもない返答で、姪の機嫌をそこねたのかもしれない。数分の後携帯にメールで、日高家の墓の写真が送られてきた。返信に「日高家の墓にお参りしてありがとう」と認(したた)めておいた。
そういえば、12月の初め、姪から「母の遺品の中にあった」と、次兄が舞鶴の海軍兵学校から爺宛に、薄っぺらなパトロン紙に書かれた、手紙を送ってきた。1945年の敗戦間近の夏、(7月乃至8月初め)に九州の門司に届いたものらしい。多分、次兄が家族宛に書いた封書のなかに含まれていたものだろう。何となく爺も昔に見た記憶がある。
とにかく、姉はN家に嫁いでからも日高家のことについては何かと世話をしてくれた。その日高の家も、この爺を最後に消滅することになる。これも世の倣いというものか。
思えば、姉とは原爆の廣島を通り抜け、中国山地の山間の邑三次での疎開生活をともにしてきた。その間、枕崎台風で木小屋を改装した住まいが吹き飛ばされそうになったこと、方々の農家に買出しに出かけたこと、終戦の年の年末、木小屋のすき間から雪が舞い込む12畳の部屋の隅で父の死を見取ったこと、姉にとっては広島でのたけのこ生活は一際忘れられないことだったのだろう。毎年必ず三次市にある日高家の墓参りに出かけていた。多くは丹波篠山にいる自分の娘(爺の姪)と一緒であった。
とにかく、姉はN家に嫁いでからも日高家のことについては何かと世話をしてくれた。その日高の家も、この爺を最後に消滅することになる。これも世の倣いというものか。
この「贋金の問題」は発表と同時に大きな反響を呼び、多くの数学者や数学愛好者を熱中させた。忽ちの内に、さらに一般化した形の「コイン12枚の問題」が創案されて、《Scripta Mathematical》に発表され、海を渡って、イギリスの《Mathematical Gazette》にも、この種の問題がしばしば掲載されるようになったという。その過熱振りは相当なものであったらしく、ドイツの潜水艦を沈めるために使われるべき多くの頭脳が、この遊戯のために消費されたと書く本もあったということである。
「コイン8枚の問題」がアメリカで発表された時は、不幸にも我が国ではこのアメリカを相手に交戦中であった。我が国で人々がこの問題を知ったのは昭和22(1947)年に『リーダース・ダイジェスト』を通じてであったが、これでは贋金の問題ではなく、ボールの重さの問題になっていた。この問題は我が国でもかなりの問題となったが、以後我が国では贋金の問題が、ボールまたはパチンコ玉の問題として扱われるようになった。
話をアメリカに戻すと、この「コイン8枚の問題」から発展して、「コイン12枚の問題」となったが、こけは《Scripta Mathematica》1945年9~12月号に載ったH.Grossman(グロスマン)という人の問題であるという。曰く、
「見かけは全く同じコインが12枚あるが、そのうち1枚は僅かに重さが異なっている。その重さが重いか軽いかを知らずに、3回天秤を使うだけでそのコインを指摘するには、どうすればよいか。」
この問題は、贋金が本物と重さが違うというだけで、重いか軽いか全くわからないところに難しさがある。
8枚のコインのときと同じように、Lを天秤の左側が軽い時、Hを左側が重いとき、Sを両方がつりあった場合として、コインに1~12まで番号をつけて表わすと、やり方は表1のようにすればよい。
つまり、最初4枚ずつさらに載せて重さを較べ、釣り合ったらその中の3枚と残りのうちの3枚との重さを較べ釣り合ったら、それも釣り合ったら、本物1枚と残り1枚とを較べる。これで贋金の確認と、本物より重いか軽いかが決定できる。……という具合に、各場合についてやっていけばよい。この方法は順に贋金を選(え)り出していく「逐次選別法」である。
「8枚のコインの問題」で述べたと同じように、機械的に3回の試行を行なって、その結果から贋金を判別する「機械的選別法」がある。「逐次選別法」に較べるとパズル的な面白さにはかけるが、この方法でも各自に選別を行うことができる。そのやり方は、まず、つぎのⅠ、Ⅱ、Ⅲ計3回の試行を行なう。
(Ⅰ)(1、2、3、4)――(5、6、7、8)
(Ⅱ)(1、2、3、5)――(4、9、10、11)
(Ⅲ)(1、6、9、12)――(2、5、7、10)
そして、判定は表2によるのであるが、L、H、Sの意味は前述下通りである。
「コイン12枚の問題」のように、贋金が本物より重いか軽いかがわからない場合、N枚のコインがあって、そのNの値が (3ⁿ⁻¹-1)/2≦N<(3ⁿ-1)/2 であれば、n回の試行で贋金を確認することが出来る。もし贋金の重さを確認する必要がなければ、Nの値が、 (3ⁿ⁻¹-1)/2<N≦(3ⁿ-1)/2 の時に、n回の試行で贋金を指摘することが出来る。この場合全く計量されないコインが1枚出来るので、それが贋金の場合は、確認もそれが重いか軽いかの判定はつかないことになる。
「コイン8枚の問題」がアメリカで発表された時は、不幸にも我が国ではこのアメリカを相手に交戦中であった。我が国で人々がこの問題を知ったのは昭和22(1947)年に『リーダース・ダイジェスト』を通じてであったが、これでは贋金の問題ではなく、ボールの重さの問題になっていた。この問題は我が国でもかなりの問題となったが、以後我が国では贋金の問題が、ボールまたはパチンコ玉の問題として扱われるようになった。
話をアメリカに戻すと、この「コイン8枚の問題」から発展して、「コイン12枚の問題」となったが、こけは《Scripta Mathematica》1945年9~12月号に載ったH.Grossman(グロスマン)という人の問題であるという。曰く、
「見かけは全く同じコインが12枚あるが、そのうち1枚は僅かに重さが異なっている。その重さが重いか軽いかを知らずに、3回天秤を使うだけでそのコインを指摘するには、どうすればよいか。」
8枚のコインのときと同じように、Lを天秤の左側が軽い時、Hを左側が重いとき、Sを両方がつりあった場合として、コインに1~12まで番号をつけて表わすと、やり方は表1のようにすればよい。
つまり、最初4枚ずつさらに載せて重さを較べ、釣り合ったらその中の3枚と残りのうちの3枚との重さを較べ釣り合ったら、それも釣り合ったら、本物1枚と残り1枚とを較べる。これで贋金の確認と、本物より重いか軽いかが決定できる。……という具合に、各場合についてやっていけばよい。この方法は順に贋金を選(え)り出していく「逐次選別法」である。
「8枚のコインの問題」で述べたと同じように、機械的に3回の試行を行なって、その結果から贋金を判別する「機械的選別法」がある。「逐次選別法」に較べるとパズル的な面白さにはかけるが、この方法でも各自に選別を行うことができる。そのやり方は、まず、つぎのⅠ、Ⅱ、Ⅲ計3回の試行を行なう。
(Ⅰ)(1、2、3、4)――(5、6、7、8)
(Ⅱ)(1、2、3、5)――(4、9、10、11)
(Ⅲ)(1、6、9、12)――(2、5、7、10)
「コイン12枚の問題」のように、贋金が本物より重いか軽いかがわからない場合、N枚のコインがあって、そのNの値が (3ⁿ⁻¹-1)/2≦N<(3ⁿ-1)/2 であれば、n回の試行で贋金を確認することが出来る。もし贋金の重さを確認する必要がなければ、Nの値が、 (3ⁿ⁻¹-1)/2<N≦(3ⁿ-1)/2 の時に、n回の試行で贋金を指摘することが出来る。この場合全く計量されないコインが1枚出来るので、それが贋金の場合は、確認もそれが重いか軽いかの判定はつかないことになる。
第2次世界大戦も終りに近づいた1945年、アメリカの数学雑誌『American Mathematical Monthly』に次のような問題が載った。出題者はバージニア州アーリントンのE.D.Schell(シェル)という人である。曰く、「同種のコイン8枚と天秤が1台ある。コインのうち1枚は贋金で、他のものよりも目方が軽い。天秤を2回使うだけで、贋金の存在を確認し、それをみつけだすことができるだろうか?」
普通のやり方だと、天秤の左右のさらに4枚ずつを載せて重さを較べ、軽い方を2枚ずつに分けて、再度主さを較べる。そして、最後にその軽いほうの2枚の重さを比較して、軽いほうを贋金とする。しかし、このやり方だと3回量る必要がある。それを2回で済ますにはどうしたらよいだろうか。
この問題は大きな反響を呼び起こし、解答が続々と編集部宛に寄せられ、その解答は8~9月号に発表されたという。皆さん方は、ここで1度このブログを読むのをやめて、しばらく自分で考えて戴きたいものだ。
正解は左図で示すようになる。4枚ずつ測らずに、 (枚数+1)÷3、つまり3枚ずつ測るのが妙手である。このようにすると、N枚のコインがあって、Nが 3n―1≦ N < 3n である場合は、n回の測定で贋金を見つけだすことができる。ただし、にせがねが混ざっていることが確実で、その確認をする必要がなければ、Nが 3ⁿ⁻¹ < N ≦ 3ⁿ のときにn回の測定で贋金を指摘することが可能なのである。
このコイン8枚から1枚の軽いものを選別するのに、次のような機械的方法でも選別することが出来る。8枚のコインにそれぞれ1~8まで番号をつけ、
(Ⅰ)(1、2、3)――(4、5、6)
(Ⅱ)(1、4、7)――(2、5、8)
の2回の試行をおこなう。右側が軽い時はL(Light)、左右が釣り合った時はS(Same)、右側が重い時はH(heavy)で表わすことにすると、
試行結果 LL LH LS HL HH HS SL SH
贋 金 1 2 3 4 5 6 7 8
のように出来る。
普通のやり方だと、天秤の左右のさらに4枚ずつを載せて重さを較べ、軽い方を2枚ずつに分けて、再度主さを較べる。そして、最後にその軽いほうの2枚の重さを比較して、軽いほうを贋金とする。しかし、このやり方だと3回量る必要がある。それを2回で済ますにはどうしたらよいだろうか。
この問題は大きな反響を呼び起こし、解答が続々と編集部宛に寄せられ、その解答は8~9月号に発表されたという。皆さん方は、ここで1度このブログを読むのをやめて、しばらく自分で考えて戴きたいものだ。
このコイン8枚から1枚の軽いものを選別するのに、次のような機械的方法でも選別することが出来る。8枚のコインにそれぞれ1~8まで番号をつけ、
(Ⅰ)(1、2、3)――(4、5、6)
(Ⅱ)(1、4、7)――(2、5、8)
の2回の試行をおこなう。右側が軽い時はL(Light)、左右が釣り合った時はS(Same)、右側が重い時はH(heavy)で表わすことにすると、
試行結果 LL LH LS HL HH HS SL SH
贋 金 1 2 3 4 5 6 7 8
のように出来る。
「AとBとDにある」といわれたら、それぞれの箱の左上の1、2、8を足して「11でしょう」と答える。そのネタは次のようになる。
1~31までの数を2の羃乗(2ⁿ)で表わしてみると、例えば11は、
11=2⁰+2¹+2³=1+2+8 となる。これは十進数を二進数に直すことになり、11は二進数で1011となる。そして、2⁰(=1)の項が含まれている数をAの箱に、2¹(=2)の項が含まれている数をBに、2²(=4)の項が含まれている数をCに、2³(=8)の項が含まれている数をDに、2⁴(=16)の項が含まれている数をEに、それぞれ書き込む。すると、各箱の左上すみの数が、A、B、C、D、Eの順に
2⁰=1、2¹=2、2²=4、2³=8、2⁴=16 となっているから、覚えた数が含まれている表の左上隅の数を加えればよいのである。
128=11で、上の和歌の11番目の文字「れ」がこたえになるのである。
このネタ明かしは、和歌の各文字に番号をつけると
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17
さ く ら 木 の ふ み や い ず れ と お ぼ ろ げ も
18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31
は な に あ り し を か ず え て ぞ う る
となる。そこで、各文字を数と見立てて、例えば「れ」ならば、
「れ」=11=2⁰+2¹+2³ とすると、前の表の問題と全く同じになり、「れ」を1番目、2番目、4番目の花に書き込めばよいわけである。この書き込みを書く文字において行い、1つの枝に書かれていない文字は葉に書き込んだものが左の図なのである。
「みそひさもし」を活用したこの美しさにはまったく驚嘆させられるものがある。
朝食後、隅田川の散策から帰宅して、パソコンを開くと、横浜のIN氏より、メールが入っていた。曰く、「今朝、N.O.さんのテレビを見た:日高 節夫 様/今朝、NHKテレビのASAICHI(あさいち)を見ていたら、君のよくご存知のN.O.さんが、インフルエンザのことで出演していた。肩書がK市衛生研究所長になっていた。/ネットで調べてみたら、今年の3月末に、国立感染症研究所を定年で辞められて、K市の研究所長に移られたと分かった。今年は君が80歳、N.O.先生が65歳、これを仁科の海浜学校の頃の、インターン時代のN.O.先生に年代逆戻しをして見ると、君は40歳代か。君の文集「仁科の海よ」(第24回夏期学校文集『想ひ出』)を読ませてもらってから、そろそろ15年になるなあ。まさに歳月はあっという間に過ぎて行くね。/でも君のお陰で、一昨日は楽しい思いをさせてもらえた。/どうもありがとう。ちょっと岡部先生の近況で一筆。 横浜 IN」
N.O.先生はインターン時代に兼愛塾の臨海学校を指導員として手伝っていただいた。たまたまIN氏の息子さんが国立感染症研究所でご一緒されたということで、この爺とIN氏との間で時たま話題になる人物である。
いやはや、当時兼愛塾の塾生は悪餓鬼揃いで、失礼にもN.O.先生を「やぶ先生」なんて呼んでいた。なかには「いや、まだやぶにもなっていない『たけのこ先生』だ」なんていう悪餓鬼もいた。にもかかわらず、本当に生徒達の面倒をよく見てくださった。
室町時代の数学遊戯で、貴族の間の娯楽として発達した問題は少なくないが、そのなかに目付字がある。いわゆる字探しの当てものである。室町時代の『簾中抄』に曰く、
「いろはの文字くさり、花にあり、葉にあり、とのみ言ひおきて、人の心をなぐさむるかな。また、花はとれ、葉はあだものと思ふべし。一、二、四、八、十六」
木の絵が描かれていて、その木に五本の枝があり、おのおのの枝に花と葉がある。どの枝にも花か葉の上に “い”から“け”までの31文字が書かれている。遊び方は、甲と乙と2人で行なう。甲が乙に「いろはのうち“い”から“け”までの中のどれかひとつを頭の中に覚えておけ」という。つぎに甲が「覚えた文字をこのえの中で、第1番目の枝には花の上に書かれているか、葉の上に書かれているかを言え」「二番目の枝ではどうか?」「3番目の枝では…」と順に聞いてゆく。
乙が「花の上に書かれている」といったら、第1枝は1、第2枝は2、第3枝は4、第4枝は8、第5枝は16という数を甲は覚えておく。乙が「葉の上に書かれている」と言ったら何も覚えておかなくてよい。
花の上に書かれているのが、第1枝(1)、第3枝(4)、第4枝(8)であったら、その対応する数の1、4、8を全て加えて、 1+4+8=13 であるから、いろは…の第13番目の“わ”が答えとなるのである。すなわち、数を2進法で表わせば、 13→1101 で第1位、第3位、第4位が1で他は0となるのである。
目付字には、表を使う方法、絵を組み合わせる方法などいろいろと工夫され、江戸時代には多くの人々が楽しんだという。
いやはや、当時兼愛塾の塾生は悪餓鬼揃いで、失礼にもN.O.先生を「やぶ先生」なんて呼んでいた。なかには「いや、まだやぶにもなっていない『たけのこ先生』だ」なんていう悪餓鬼もいた。にもかかわらず、本当に生徒達の面倒をよく見てくださった。
「いろはの文字くさり、花にあり、葉にあり、とのみ言ひおきて、人の心をなぐさむるかな。また、花はとれ、葉はあだものと思ふべし。一、二、四、八、十六」
木の絵が描かれていて、その木に五本の枝があり、おのおのの枝に花と葉がある。どの枝にも花か葉の上に “い”から“け”までの31文字が書かれている。遊び方は、甲と乙と2人で行なう。甲が乙に「いろはのうち“い”から“け”までの中のどれかひとつを頭の中に覚えておけ」という。つぎに甲が「覚えた文字をこのえの中で、第1番目の枝には花の上に書かれているか、葉の上に書かれているかを言え」「二番目の枝ではどうか?」「3番目の枝では…」と順に聞いてゆく。
乙が「花の上に書かれている」といったら、第1枝は1、第2枝は2、第3枝は4、第4枝は8、第5枝は16という数を甲は覚えておく。乙が「葉の上に書かれている」と言ったら何も覚えておかなくてよい。
花の上に書かれているのが、第1枝(1)、第3枝(4)、第4枝(8)であったら、その対応する数の1、4、8を全て加えて、 1+4+8=13 であるから、いろは…の第13番目の“わ”が答えとなるのである。すなわち、数を2進法で表わせば、 13→1101 で第1位、第3位、第4位が1で他は0となるのである。
目付字には、表を使う方法、絵を組み合わせる方法などいろいろと工夫され、江戸時代には多くの人々が楽しんだという。
昨日は藤沢の水門会のMY氏・横浜のIN氏・海老名のYR氏に、大連出身のshinさんを交えた5人で会食した。浅草EKIMISE七階の「天津飯店」で、携帯で水門会の3人のそれぞれの写真を撮って、宝塚市の水門会の共通の友人であるKS氏に送信したところ、その都度返信をしてくれた。
IN氏の写真について 感謝:メールで賢人会の雰囲気に少しでも溶け込ませて戴き、心から感謝しております。八十を越えたとは言え、自覚の無いまま何かしら世の仕組みに腹を立てております。こう考えながらも家内が言う「私の元気な内に、ポックリ逝くのですよ」と言う言葉を納得せざる得ない自分がいる今日この頃です。いつの日かの再会を楽しみにしております。
MY氏の写真について 素晴しい友:ご無沙汰しております。お元気な姿に安心しております。若いファッションが似合うのが羨ましく存じます。青春時代、ここ傘寿迄生きるとは思っていなかったので、戸惑っているのが現状です。ここまで来たら可能な限り生きてみましょう。再会を楽しみにしております。
YS氏の写真について 思い出:貴兄のそのにこやかな雰囲気に心和みます。その元気さですので、当然海外を雄飛されている事でしょうね。このところ「みなと外誌」が出版されなくなったので、貴兄の海外便りを目に出来ず残念に存じております。機会があれば再会したいものです。
12時から2時半過ぎまで「天津飯店」で過し、屋上で写真を撮り、丁度羽子板市が開かれている浅草寺の境内を巡り、仲見世の裏道を通って雷門通りへ出る。浅草観光協会の8階の喫茶室でコーヒーを飲みながら暫し歓談。水門会の3人とshinさんは銀座線で帰宅の途についた。爺はひとりガード下の理髪店が空いていたので、散髪をして帰宅した。時に午後6時であった。
今朝方パソコンを開くと横浜のIN氏からメールが入っていた。曰く、「赤い法被の記念写真を送ります/日高節夫様、MY様、YS様、shin様/ハッピーニューイヤーならぬ、松屋の屋上の法被を着せられて移した写真は、有料でした。寒い屋上で、可愛いお姉ちゃんが、懸命に人寄せをした結果、だれも買わないでは、あんまりかわいそう。せめて、爺が一人でも買ってやろうと、買い求めておきました。添付ファイルでお送りします。上手く届けばいいですが、不都合があればご連絡をお願いします。横浜IN 」
Shinさんから携帯にメールが入った。曰く「シンよりのお礼:日高さま、こんにちは。昨日は、楽しく過ごさせていただきましてまことにありがとうございます。今度またお誘いいただければと思います。Nさんには、写真拝受のお礼を申し上げました。まさに日高さんのおかげで、優しい神奈<三賢人>に巡り合いました。あらためてお礼を申し上げます。寒くなりますが、ぜひお体にお気をつけて。奥様にどうぞよろしくお伝えください。シン@横浜」
藤沢市のMY氏からもメールあり、曰く「昨日はありがとう:日高 節夫 様/昨日は久しぶりにみんな元気な顔で集まり、暫し楽しい時を過ごすことが出来ました。/いつもの事ながら浅草では貴兄にいろいろとお世話になり有難く思っています。/私が撮った写真を送る約束をしていましたが実はパソコンに取り込む時にどこをどうしたか、訳が分からず画像が全部消えてしまい大失敗をしてしまいました。/と言うことで送れませんでした。悪しからず。/野崎君から法被姿の写真が送られてきましたのでこれを記念に保存します。MY」
今日は1日年賀状作り。疲れた。
MY氏の写真について 素晴しい友:ご無沙汰しております。お元気な姿に安心しております。若いファッションが似合うのが羨ましく存じます。青春時代、ここ傘寿迄生きるとは思っていなかったので、戸惑っているのが現状です。ここまで来たら可能な限り生きてみましょう。再会を楽しみにしております。
YS氏の写真について 思い出:貴兄のそのにこやかな雰囲気に心和みます。その元気さですので、当然海外を雄飛されている事でしょうね。このところ「みなと外誌」が出版されなくなったので、貴兄の海外便りを目に出来ず残念に存じております。機会があれば再会したいものです。
Shinさんから携帯にメールが入った。曰く「シンよりのお礼:日高さま、こんにちは。昨日は、楽しく過ごさせていただきましてまことにありがとうございます。今度またお誘いいただければと思います。Nさんには、写真拝受のお礼を申し上げました。まさに日高さんのおかげで、優しい神奈<三賢人>に巡り合いました。あらためてお礼を申し上げます。寒くなりますが、ぜひお体にお気をつけて。奥様にどうぞよろしくお伝えください。シン@横浜」
藤沢市のMY氏からもメールあり、曰く「昨日はありがとう:日高 節夫 様/昨日は久しぶりにみんな元気な顔で集まり、暫し楽しい時を過ごすことが出来ました。/いつもの事ながら浅草では貴兄にいろいろとお世話になり有難く思っています。/私が撮った写真を送る約束をしていましたが実はパソコンに取り込む時にどこをどうしたか、訳が分からず画像が全部消えてしまい大失敗をしてしまいました。/と言うことで送れませんでした。悪しからず。/野崎君から法被姿の写真が送られてきましたのでこれを記念に保存します。MY」
今日は1日年賀状作り。疲れた。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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