瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 今日は姉の1周忌。これに先立って福岡のN家では22日に姉夫婦が住んでいた太宰府の家て法要がいとなまれた。東京でも15日の浅草寺五重塔の参拝日に簡単ではあるが、回向を申し込み、爺と婆の2人で姉の1周忌のささやかな法要とした。
 思えば、姉とは原爆の廣島を通り抜け、中国山地の山間の邑三次での疎開生活をともにしてきた。その間、枕崎台風で木小屋を改装した住まいが吹き飛ばされそうになったこと、方々の農家に買出しに出かけたこと、終戦の年の年末、木小屋のすき間から雪が舞い込む12畳の部屋の隅で父の死を見取ったこと、姉にとっては広島でのたけのこ生活は一際忘れられないことだったのだろう。毎年必ず三次市にある日高家の墓参りに出かけていた。多くは丹波篠山にいる自分の娘(爺の姪)と一緒であった。
2e5d00c8.jpeg この姪は22日の福岡の法要を済ませ、篠山に帰宅する途中ひとりで三次にも立ち寄って、日高家の墓にお参りしてくれたらしい。三次から携帯で電話が入り、「叔父さん、お祖父さんやお祖母さんに何かいうことありませんか?」ということであったので、ついつい「叔父さんも間もなくそちらに逝くから、宜しくねと伝えておいてよ」と言うと、電話が切れてしまった。もしかしたら、爺の縁起でもない返答で、姪の機嫌をそこねたのかもしれない。数分の後携帯にメールで、日高家の墓の写真が送られてきた。返信に「日高家の墓にお参りしてありがとう」と認(したた)めておいた。

a18b5d3c.jpeg そういえば、12月の初め、姪から「母の遺品の中にあった」と、次兄が舞鶴の海軍兵学校から爺宛に、薄っぺらなパトロン紙に書かれた、手紙を送ってきた。1945年の敗戦間近の夏、(7月乃至8月初め)に九州の門司に届いたものらしい。多分、次兄が家族宛に書いた封書のなかに含まれていたものだろう。何となく爺も昔に見た記憶がある。
 とにかく、姉はN家に嫁いでからも日高家のことについては何かと世話をしてくれた。その日高の家も、この爺を最後に消滅することになる。これも世の倣いというものか。
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目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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