8月9日(日)朝の徘徊から帰宅して、パソコンを立ち上げようとして、何時ものようにパスワードを入れてもパソコンが立ち上がりません。何度繰り返しても立ち上がらないので、折角の休日なのに悪いと思いましたが、朝食後塾友のMN氏に電話をして、事情を話しました。彼は予定があったのでしょうが都合を付けて、駆け付けてくれました。いろいろと調べてくれましたが、この日はどうにもならず、「よく調べなおしてまた連絡する」ということで、しばらくパソコンの方はお休みということになりました。
昨日夕方近く、MN氏より電話があり、J-com インターネット設定時の書類があったらFAXして欲しいとのことでした。早速指定の書類を探し出して、彼の自宅へFAXしました。ごご7時過ぎ頃電話が入り、パソコンを今まで通り立ち上げてみてくれとのことなので、早速何時も通り立ち上げてみると、見事復旧していました。「本当にM君 忙しい合間をくぐって爺のパソコンの復旧のために時間を潰してくださってありがとう」
今日は日本が連合国に無条件降伏して70年。およそ310万人の戦没者を追悼し、平和について考える集会や催しが全国で開かれるといいます。これに先立って昨夕6時に70年安倍談話なるものが発表されました。
ウェブニュースより
安倍首相の戦後70年談話、5つのメッセージ ―― 安倍晋三首相は14日、戦後70年の談話を発表した。この中で首相は日本の戦時の歴史について「哀悼の誠」と「痛惜の念」を表明した。また、これまで日本の保守派が頻繁に強調してきた数々の主張も取り入れた。
以下に安倍談話に盛り込まれた5つのメッセージをまとめた。
1. 日本は窮地に追い詰められていた
安倍首相は談話の冒頭、1930年代に「世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました」とし、「その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました」と述べた。
2. 日本も多大な苦痛を受けた
安倍首相は日本軍が海外で与えた苦痛の詳細に触れる前に「先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました」と述べ、東京空爆や広島と長崎での原爆投下、沖縄における地上戦などによって「たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました」と話した。
3. 日本の兵士も英雄だった
安倍首相は「戦後、600万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実」を「心に留めなければなりません」と訴えた。帰還した兵士のおかげで
日本の戦後の発展があると讃えることで、軍人に対するイメージ回復と国内の認識修復を図った。
4. 日本軍と「慰安婦」
安倍首相をはじめとする日本の保守派は、「慰安婦」はほとんどの場合が日本軍が強制的に連行・拘束した女性ではなく、商業的に身売りされた単なる売春婦だったとの見解を示している。首相はこの日の談話で「戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます」と述べたが、日本軍の責任には触れなかった。
5. 日本は十分謝罪した
安倍首相は「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の8割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と主張した。 (THE WALL STREET JOURNAL 2015 年 8 月 15 日 07:02 JST)
今日は立秋。『暦便覧』には、『初めて秋の気立つがゆゑなり』とあります。古今和歌集に『秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ 驚かせぬる』(藤原敏行)とありますが、早朝徘徊でも、川辺に出ると気持ち良い川風が顔を撫でてくれます。
朝食後、高校野球の早稲田実業対今橋西をテレビ観戦しました。早実は初回こそ3点入れたものの6回までは0点の繰り返し、7回にして、清宮のタイムリーヒットで追加点、つづいて加藤のライト前ヒット、富田のタイムリーツーベースで2点追加。今治西を0点で抑え、早実が6対0で圧勝しました。
立秋後題 杜甫
日月不相饒、節序昨夜隔。
玄蝉無停号、秋燕已如客。
平生独往願、惆悵年半百。
罷官亦由人、何事拘形役。
(読み) 立秋の後に題す
日月(じつげつ)相饒(あいゆる)さず、
節序(せつじょ)昨夜隔(へだ)たる。
玄蝉(げんせん) 号(さけ)ぶこと停(とど)むる無きも、
秋燕(しゅうえん) 已(すで)に客の如し。
平生(へいぜい) 独往(どくおう)の願い、
惆悵(ちゅうちょう)す年(とし)半百(はんぴゃく)。
官を罷(や)むるも亦た人に由(よ)る、何事ぞ形役(けいえき)に拘(こう)せられむ。
(現代語訳) 立秋の後に題す
月と太陽はどちらも豊かでない昼と夜の長さが同じになる立秋になったと思えば、
時節は夜が長くなる序章となってきた。
それでも、蜩(ひぐらし)は啼くのを止めはしない。
秋になると燕はすでに南に旅に出ようとしている。
ひごろから一人静かな隠棲生活を願望しているが、
飢饉に戦乱、こうした嘆き悲しむことが五十年も続いている。
官を辞めるのだがその理由がまた人間関係にあるのだ、
どうして参軍の事務官というものがわが身を拘束されるものであろうか。
広島に原爆が落とされて70年、爺はまだ12歳の少年でした。いやはや、あの惨禍を潜り抜けて、佳くここまで生きてきたものです。
ウェブニュースより
「原爆投下正しかった」米国人46% 若年層は「間違い」が多数 70年経て変化する意識 ―― この8月、日本は太平洋戦争終結70年を迎えるとともに、広島、長崎に原爆が投下されてから70年ともなる。米ウォール・ストリート・ジャーナル紙は、広島への原爆投下を報じた70年前の自紙の報道をブログで紹介し、英デイリー・メール紙(電子版)は、広島で原爆の災禍に見舞われた人たちの証言を伝えるなど、海外メディアで取り扱われる機会が増えている。そんな中、英調査会社ユーガブは7月、アメリカで原爆の発明の是非と、広島、長崎への原爆投下の是非についての世論調査を行った。原爆投下の是非をめぐっては、世代間で認識の開きが大きいようだ。
◆若年層では原爆投下は間違いだったとする意見が優勢
ユーガブは7月18~20日、アメリカ人1000人を対象に面接調査を行い、22日に調査結果を公開した。同社ウェブサイトのリリース記事が注目したのは、回答したアメリカ人の62%が、核兵器の発明は良くないことだったとしている点だ。良いことだったとしたのはわずか20%だった。
接調査を行い、22日に調査結果を公開した。同社ウェブサイトのリリース記事が注目したのは、回答したアメリカ人の62%が、核兵器の発明は良くないことだったとしている点だ。良いことだったとしたのはわずか20%だった。
日本への2回の原爆投下は、正しい決定だったとした回答者は46%に上り、間違った決定だったとした回答者の29%を上回った。アメリカは、広島と長崎に原爆を投下することによって、日本に侵攻する必要を回避したが、この原爆投下によって13万人から25万人が死亡した、と記事は語る。原爆の使用は、戦争終結を早めたと広く信じられている、としている。
けれども、若い世代ではこの見方は大きく変わってくるようだ。18~29歳では、回答者の45%が、原爆投下の決定は間違いだったとした。正しい決定だったと答えたのは31%だった。ユーガブの調査結果を報じた米外交専門誌ナショナル・インタレストは、年齢層による見解の差に注目している。30~44歳では、これよりもう少し意見が割れており、36%が間違いだったとし、33%が正しかったとした、と伝えた。
それ以上の年齢層では、正しかったとする割合が優勢になる。ナショナル・インタレストはこのことを「驚くまでもない」とする。アメリカではこれが伝統的な見方だったからだろう。45~64歳では、55%が正しかったとし、間違いとしたのはわずか21%だった。65歳以上では、この傾向がさらに進み、65%が正しかったとし、間違いとしたのはわずか15%だった。同誌は「圧倒的」支持だとしている。
◆時代が下るにつれて、原爆投下への支持は低下している
ナショナル・インタレストは、時代による見解の変遷にも注目している。上述の通り、回答者全体では、「正しかった」が46%、「間違いだった」が29%だった。アメリカ人の間では、原爆投下の決定への支持が長年にわたって減少しており、今回の調査結果も、この傾向を引き継ぐものだとナショナル・インタレストは語っている。
終戦直後の1945年8月に世論調査機関ギャラップが行った調査では、原爆投下の決定を支持する意見が圧倒的だった、と同誌は語る。支持が85%に及び、不支持はわずかに10%だったという。その後、支持は急激に減少してきたが、今なお、概して半数以上が支持している、としている。原爆投下から50年を迎えた時期にギャラップが行った世論調査では、アメリカ人の59%が支持しており、その10年後のギャラップの調査では、57%が支持していたという。
◆存在自体が望ましくない原爆の使用というジレンマ
またナショナル・インタレストは、アメリカ人の相対的多数が、日本に対する原爆使用をいまだに支持しているにもかかわらず、圧倒的に多くのアメリカ人は、核兵器の発明は良くないことだったと答えた、と報じ、相反する見方が存在することを示唆した。
このような相反する見方は、米地方紙デトロイト・ニュースに掲載されたとあるオピニオン記事にも見られる。筆者は、原爆を投下しなくても、アメリカが戦争に勝利していたことは疑いがない、と語る。兵士の犠牲が抑えられた、という説についても検討した上で、事実をすべて考慮すると、原爆の使用はおそらく不必要だった、と筆者は結論付けている。マッカーサー元帥自らが、原爆投下は誤りだったと考えていた、と語る。
けれども、アメリカは原爆投下という過ちを犯したが、その責任はやはり大日本帝国(の指導部)にある、と筆者は語る。恐らく新型兵器の脅威が国民に迫っていることを察しつつ、ポツダム宣言を「黙殺」(記事中では「意図的に無視」)したからである。アメリカはしばしば、核兵器を使用した唯一の国だと批判されるが、罪は国民をそのような惨事にさらした大日本帝国にある、と結論付けている。
◆原爆投下、敗戦を経てきた日本が今後進むべき道とは
カナダの有力全国紙グローブ・アンド・メールは、原爆投下、敗戦という歴史を経てきた日本が、今後取るべき道について提言するオピニオン記事を掲載している。筆者は米デューク大学アジア太平洋研究所のサイモン・パートナー所長。19・20世紀の日本史を専門とする歴史学教授である。
同氏は、日本の国会で安保法制が進められていることに触れ、また憲法改正によって、日本を本格的な軍事国にする案もあるとする。しかし同氏は、日本が目指すべきは再軍備ではなく、世界の調停者になることだと主張する。日本にはそのための資格が立派に備わっているとしている。
「平和憲法」のもと戦後の日本国民は、平和を希求してきた。憲法はアメリカ人の手に成るもので、意に反して日本政府に押しつけられたものであることはよく知られているけれども、憲法、特に9条は、日本国民の間で、驚くほど長く人気を享受している、と氏は語る。また、原爆によって日本国民は、核戦争の惨事をこうむる国が二度と出ないよう、世界的な平和運動をリードするのに自分たち以外に適任者はいないという意識を持つようになった、としている。
にもかかわらず、日米同盟のために、日本は侵略的な戦争への支援も含め、アメリカの外交政策に歩調を合わせねばならなかった。しかし今や、日本は、より自主的で積極的な役割を果たすべき時が来た、と氏は語る。衝突が衝突を生み、世界的に一触即発の状況で超大国が不安定な現代では、力強く、信頼できる調停国が主導する多国間交渉からのみ永続的な解決は生まれうる。日本はその役を果たすのに最も適任だと氏は断言する。
私たちは、この乱れた世界で、強力で影響力の大きな調停者を、どうしようもなく必要としている。まさに日本は、世界がより平和でより繁栄する未来のために最良の希望かもしれない、と氏は結んでいる。 (New Sphere 2015年8月1日)
日本への2回の原爆投下は、正しい決定だったとした回答者は46%に上り、間違った決定だったとした回答者の29%を上回った。アメリカは、広島と長崎に原爆を投下することによって、日本に侵攻する必要を回避したが、この原爆投下によって13万人から25万人が死亡した、と記事は語る。原爆の使用は、戦争終結を早めたと広く信じられている、としている。 けれども、若い世代ではこの見方は大きく変わってくるようだ。18~29歳では、回答者の45%が、原爆投下の決定は間違いだったとした。正しい決定だったと答えたのは31%だった。ユーガブの調査結果を報じた米外交専門誌ナショナル・インタレストは、年齢層による見解の差に注目している。30~44歳では、これよりもう少し意見が割れており、36%が間違いだったとし、33%が正しかったとした、と伝えた。 それ以上の年齢層では、正しかったとする割合が優勢になる。ナショナル・インタレストはこのことを「驚くまでもない」とする。アメリカではこれが伝統的な見方だったからだろう。45~64歳では、55%が正しかったとし、間違いとしたのはわずか21%だった。65歳以上では、この傾向がさらに進み、65%が正しかったとし、間違いとしたのはわずか15%だった。同誌は「圧倒的」支持だとしている。
◆時代が下るにつれて、原爆投下への支持は低下している ナショナル・インタレストは、時代による見解の変遷にも注目している。上述の通り、回答者全体では、「正しかった」が46%、「間違いだった」が29%だった。アメリカ人の間では、原爆投下の決定への支持が長年にわたって減少しており、今回の調査結果も、この傾向を引き継ぐものだとナショナル・インタレストは語っている。 終戦直後の1945年8月に世論調査機関ギャラップが行った調査では、原爆投下の決定を支持する意見が圧倒的だった、と同誌は語る。支持が85%に及び、不支持はわずかに10%だったという。その後、支持は急激に減少してきたが、今なお、概して半数以上が支持している、としている。原爆投下から50年を迎えた時期にギャラップが行った世論調査では、アメリカ人の59%が支持しており、その10年後のギャラップの調査では、57%が支持していたという。 ◆存在自体が望ましくない原爆の使用というジレンマ またナショナル・インタレストは、アメリカ人の相対的多数が、日本に対する原爆使用をいまだに支持しているにもかかわらず、圧倒的に多くのアメリカ人は、核兵器の発明は良くないことだったと答えた、と報じ、相反する見方が存在することを示唆した。 このような相反する見方は、米地方紙デトロイト・ニュースに掲載されたとあるオピニオン記事にも見られる。筆者は、原爆を投下しなくても、アメリカが戦争に勝利していたことは疑いがない、と語る。兵士の犠牲が抑えられた、という説についても検討した上で、事実をすべて考慮すると、原爆の使用はおそらく不必要だった、と筆者は結論付けている。マッカーサー元帥自らが、原爆投下は誤りだったと考えていた、と語る。 けれども、アメリカは原爆投下という過ちを犯したが、その責任はやはり大日本帝国(の指導部)にある、と筆者は語る。恐らく新型兵器の脅威が国民に迫っていることを察しつつ、ポツダム宣言を「黙殺」(記事中では「意図的に無視」)したからである。アメリカはしばしば、核兵器を使用した唯一の国だと批判されるが、罪は国民をそのような惨事にさらした大日本帝国にある、と結論付けている。
◆原爆投下、敗戦を経てきた日本が今後進むべき道とは カナダの有力全国紙グローブ・アンド・メールは、原爆投下、敗戦という歴史を経てきた日本が、今後取るべき道について提言するオピニオン記事を掲載している。筆者は米デューク大学アジア太平洋研究所のサイモン・パートナー所長。19・20世紀の日本史を専門とする歴史学教授である。 同氏は、日本の国会で安保法制が進められていることに触れ、また憲法改正によって、日本を本格的な軍事国にする案もあるとする。しかし同氏は、日本が目指すべきは再軍備ではなく、世界の調停者になることだと主張する。日本にはそのための資格が立派に備わっているとしている。 「平和憲法」のもと戦後の日本国民は、平和を希求してきた。憲法はアメリカ人の手に成るもので、意に反して日本政府に押しつけられたものであることはよく知られているけれども、憲法、特に9条は、日本国民の間で、驚くほど長く人気を享受している、と氏は語る。また、原爆によって日本国民は、核戦争の惨事をこうむる国が二度と出ないよう、世界的な平和運動をリードするのに自分たち以外に適任者はいないという意識を持つようになった、としている。 にもかかわらず、日米同盟のために、日本は侵略的な戦争への支援も含め、アメリカの外交政策に歩調を合わせねばならなかった。しかし今や、日本は、より自主的で積極的な役割を果たすべき時が来た、と氏は語る。衝突が衝突を生み、世界的に一触即発の状況で超大国が不安定な現代では、力強く、信頼できる調停国が主導する多国間交渉からのみ永続的な解決は生まれうる。日本はその役を果たすのに最も適任だと氏は断言する。 私たちは、この乱れた世界で、強力で影響力の大きな調停者を、どうしようもなく必要としている。まさに日本は、世界がより平和でより繁栄する未来のために最良の希望かもしれない、と氏は結んでいる。 (New Sphere 2015年8月1日)
今日は三井記念病院耳鼻科の検診日です。早朝の徘徊はお休みにしました。
午前8時で31℃。三井記念病院に向かいました。聴力検査は今までと変わりなしということです。1年間は2月ごとに検査診断をするということでした。
ウェブニュースより
五輪エンブレムに新たな疑惑浮上 スペインの作品とも酷似? ―― 7月24日に発表されたばかりの2020年東京五輪・パラリンピック大会のエンブレムをめぐって、スペインのデザイン事務所が東日本大震災の際に日本支援を目的に作ったものとも配色やデザインが似ているという新たな疑惑がインターネット上で浮上している。
2020年東京大会のエンブレムをめぐっては、フランスのデザイン事務所「スタジオ・デビー」が2013年にベルギーの劇場のために制作したロゴと書体が似ているという指摘が話題になっている。
この問題について、東京五輪パラリンピック組織委員会は30日までに、政府に対して、「デザインが正式発表される前に国内外で登録された商標に対して類似のものはないか、調査を行っており、問題はない」と報告したばかり。
しかし、今度はスペインのデザイン事務所「Hey」が、東日本大震災の際に制作したスマートフォン用の壁紙のアプリ画像と配色などが酷似しているとインターネットを中心に議論が湧いている。
「Rebuild japan(日本再生)」という作品は、白と赤い円で構成された「J」の文字に、黒と金色の背景で構成されており、配色や右下の弧を描いた三角形などが、東京大会のエンブレムと類似しているという。
これについて国際オリンピック委員会(IOC)は「ロゴのデザインで同じことはしばしば起こる」として、問題はないという見解を示した。 (バザードラボ 2015-07-30 16:23)
新国立の次は…東京五輪エンブレムに浮上した“パクリ疑惑” ―― 24日にお披露目された2020年東京オリンピック・パラリンピックのシンボルマークとなるエンブレムに“パクリ”疑惑が浮上している。
似ているとされたのはベルギーのリエージュ劇場のロゴで、デザインを担当したフランスのデザイン会社が、公式フェイスブックに「フォントが同じだ」と指摘する文章と写真を投稿。世界中に拡散された。ネット上でも「デザインを再考すべきでは」という声が上がっている。
五輪のエンブレムを担当したのはデザイナーの佐野研二郎氏(42)。この作品について「TOKYO(東京)」など3つのことばの頭文字の「T」をイメージしたというが、2つを並べてみると、やっぱり似ている。
そもそも、このデザインに対しては賛否両論が多かった。漫画家のやくみつる氏は「暗い。厳かではない。白紙撤回をお願いしたい」とバッサリ。ネット上でも「のり弁みたい」など批判的な声も多い。海外メディアでも好意的な意見がある一方、英ミラー紙は「ロンドン五輪のロゴは過去最低だったが、これも実にひどい」といった否定的な意見を掲載した。
「今回のエンブレムは前回の東京五輪のデザインとは違い、『日本的』な印象を受けます。文字を日本に特徴的なくせのある字体を使い、全体的に力強く安定したデザインだと思います。ただ、目新しさはなく、日本らしさが国際的に受けるかどうかはわかりません。似ているか? そう言われても仕方ないかもしれません」(デザイン評論家の柏木博氏)
佐野氏の事務所にパクリ疑惑の有無について取材を申し込むと、代わって東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会広報が、「エンブレムについては、発表前に全世界的な商標確認を経ており、問題はないと理解している」と回答した。
それにしてもゴタゴタ続きで先が思いやられる五輪である。 (日刊ゲンダイ2015年7月30日)
エンブレム酷似騒動の佐野研二郎氏 事務所の公式HPが閲覧制限 ―― ベルギー・リエージュ劇場のロゴに酷似していると、インターネット上で話題になっている2020年東京五輪の公式エンブレムをデザインしたアートディレクターの佐野研二郎氏(42)のデザイン事務所「MR DESIGN」の公式ホームページが29日、閲覧できない状態となった。「アクセスが集中しており、一時的に閲覧制限をおこなっております」としている。
また、佐野氏のツイッターも非公開となり、フェイスブックのアカウントが削除されていることも判明。ネット上では佐野氏の姿勢を厳しく批判する声も上がっている。
東京五輪とパラリンピックの公式エンブレムは昨年9月に公募が行われ、104件の応募から同11月に8人の審査委員会による選考を経て今月24日に発表されたが、ベルギー東部リエージュ在住のデザイナー、オリビエ・ドビさん(52)が自身のデザインしたリエージュ劇場のロゴと「驚くほど似ている」とフェイスブックに投稿し、“騒動”となった。 [スポニチ 2015年7月30日 00:10 ]
昨夜は夜中に目が覚めると、汗びっしょり。それから眠れず、今朝も3時40分頃、家を出ました。川風が肌に気持ちよく感じます。桜橋~駒形橋を一周して帰宅しました。太陽が出ると、風が無くなり体が汗ばんできます。家に帰って温度計を見ると30℃を示しています。朝っぱらから早速クーラーをいれます。
梅雨明けと共に夏の暑さが一気に押し寄せてきて、東京の気温も毎日のように35℃を超えたというニュースがしきりです。こんな時はやはりす涼しくなる工夫が必要です。有名な李白の名作『望廬山湿布』を思い出しました。
望廬山瀑布 李白
日照香爐生紫烟
遙看瀑布挂長川
飛流直下三千尺
疑是銀河落九天
(読み) 日は香炉(こうろ)を照らして 紫烟(しえん)生ず
遥かに看(み)る 瀑布(ばくふ)の長川に挂(か)
かるを
飛流(ひりゅう) 直下(ちょっか) 三千尺(さん
ぜんじゃく)
疑(うたご)うらくは是(これ) 銀河の九天(きゅ
うてん)より落るつかと
(訳) 日の光は香炉峰を照らして、紫の煙が立ち上っている
遥か遠く 滝が長い川を掛けたように流れ落ちている
のが見える。
飛び下る流れは まっすぐに三千尺
銀河の水が空高くから落ちてきているのではないかと思って
しまう。
一昨日は大暑、昨日は土用の丑の日に合わせたように、ここのところ毎日猛暑が続いています。
今朝は、寝苦しくて夜中の2時ごろ目がさめると、なかなか寝付けないので、4時前に家を飛び出して、桜橋~駒形橋を1周して来ました。
今夕は「第38回隅田川花火大会」が催されますので、桜橋を渡ると道の片側は場所取りの人々でいっぱいです。会場は桜橋下の第一会場と駒形橋・厩橋間の第二会場とがあって、何れも川面に曳いて来た大きな浮き桟橋の上から打ち上げられます。少々ピンボケになってしまいましたが、両会場に曳いて来られた浮き桟橋を写真に収めてきました。
隅田公園内の隅田川側にはどこにも柵が設けられて、テラスに降りることは出来ません。特に墨田区側では場所取りでビニールの上に寝転がって番をしている人を踏んづけそうになり歩きづらいといったらありませんでした。
ウェブニュースより、
【今夜】 隅田川花火大会の天気 ―― 今日25日夜、隅田川花火大会が開催されます。今日の東京の最高気温は35度の予想で、夜も気温は高い。湿気も多く、蒸し暑い。熱中症対策を。念のため、にわか雨への備えも。
今夜は、南寄りの風が予想されています。/打ち上げ地点の北側よりも、南側のほうが、煙に邪魔されずに楽しむことができます。/花火を美しく見られる風速は3~4メートル。/今夜は3メートル前後で経過しそう。良いコンディションといえそうです。
今日の東京都内、昼間は晴れ間があり、気温グングン上昇。/予想最高気温35度と、猛烈な暑さに。/隅田川花火大会が開催される『夜7時頃~8時半』にかけても、気温は30度くらい。/さらに、湿度も70~80%と高い!!人が多いと、いっそう蒸し暑く感じられそう。/熱中症、というと、炎天下でかかるイメージが強いかもしれませんが、日が沈んだあとも十分な注意が必要。湿気が多いと、体の熱が逃げにくくなるため、さらに危険性が高くなります。/トイレが近くなるから…、などと敬遠せずに、水分補給を。/うちわや扇子など、暑さをしのげるものを。/凍らせたペットボトルで、首などを冷やすのも効果的です。/また、ビールなどアルコールには利尿作用があるので、飲酒はほどほどに!
また、マークにはありませんが、雨の可能性はあります。/降っても短い時間ですが、折り畳みの傘、持っておくと安心です。 (tenki.jp 2015年7月25日 8時29分)
昨夜の天気予報によれば、関東地方には暖かく湿った空気が流れ込み、大気の状態が不安定になり、所々に活発な雨雲が発生しているといいます。今日は、あちらこちらで、傘をさしても濡れるような激しい雨が降る見込みだそうです。
午前4時、外は風が少々強いようでしたが、雨は降っていませんでした。簡単な準備体操をしたのち、ためしにビニール傘を持って出かけました。隅田公園を南下して、東武鉄道の橋梁辺りまで来ると、雨交じりの風に変わりました。テラスに降りて、北上。テラスの終わる白鬚橋手前まで来る頃には、雨も激しくなり、傘をさしていても上着は横殴りの雨で、びっしょり。引替えして、桜橋水上バス乗り場から遊歩道に出ると、そのまま早めに切り上げて帰宅しました。
今日のウェブニュースより、
歌麿の肉筆、水墨美人画 福岡市美術館で8月公開 [福岡県] ―― 福岡市美術館は22日、美人画の第一人者として江戸中期に活躍した浮世絵師、喜多川歌麿の肉筆の美人画が新たに見つかった、と発表した。彩色せず、黒い墨だけで童女の禿(かむろ)を従えた花魁(おいらん)を描いている。肉筆は木版画の刷り物ではなく、絵師が絵筆で描いた「一点もの」で、歌麿作は50点余り確認されているが、墨一色の美人画は初めて。同館は8月8日から9月20日まで開く特別展「肉筆浮世絵の世界」(西日本新聞社など主催)で展示する。
同展を監修する国際浮世絵学会の石田泰弘理事が4月、東京のコレクターから所蔵していることを明かされ、「花魁と禿図」と名づけた。床の間に掛けるよう表装されており、紙の大きさは縦117.6センチ、横46..3センチ。上部に、大衆文学を手がける人気戯作(げさく)者だった山東京伝(さんとうきょうでん)の賛文がある。
賛文は文字通り、絵をたたえて書く文章だが、京伝は「ヲイラン界は馬鹿羅洲(ばからす)(=馬鹿らしい)アリンスの北に安(あ)り」と遊女言葉で花魁の世界を茶化し、「頭に鼈甲(べっこう)の如(ごと)き角(つの)を生(はや)し目は糸に似て口は剃刀(さすが)(=かみそり)の如し」とその姿を皮肉っている。
石田理事は、花魁と禿の着物のすそにある菊の模様に着目。「歌麿は、遊女から京伝の妻になった菊園という女性を描いたのでは」と推論する。歌麿と京伝は同じ版元から出版し、親しい間柄だった。歌麿が、色香をたたえた女性美の表現を確立するのは1793~95年ごろ。「花魁と禿図」の制作は90~93年ごろと考えられ、京伝と菊園が夫婦になったのも90年という。
歌麿の研究で知られる大和文華館(奈良市)の浅野秀剛(しゅうごう)館長は「美人画には、主に墨で描き、着物に金や黄色を加える技法が流行した時期がある。歌麿はさらに一歩進め、墨だけでどう描けるか挑戦したのでは」とする。
人物の顔を正面から描いた構図も珍しく、挑戦の表れと考えられるという。 (2015年07月23日 00時10分 =2015/07/23付 西日本新聞朝刊=)
今朝は石浜通りを白鬚橋まで北上、橋を往復して、橋場・今戸の遊歩道に入りました。この遊歩道は現在防潮堤の耐震工事途中から通行止めになっています。最初のテラスの昇降口までの間の遊歩道に沿った茂みには朝顔が纏わり付いて、散在して咲いています。
秋の七草といえば山上憶良が詠った「萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝貌(あさがほ)の花 ――万葉集巻8-1538 」 がよく知られています。
最後の「朝貌」については長年意見がわかれ、「槿(むくげ)」、「朝顔」、「桔梗」、「昼顔」など諸説あります。「朝顔」は平安時代に中国から渡来したものと考えられているので省かれ、「昼顔」はさしたる根拠なしとして、最後に残るのが「槿」と「桔梗」です。
我国最初の漢和辞典「新撰字鏡」(901年頃:僧 昌住著)の「桔梗、阿佐加保(アサカホ) 又云 岡止々支(オカトトキ=桔梗の別名)」の記述や、歌の内容などによって「桔梗」とするのが現在ではほぼ通説となっているようです。
万葉集には、山上憶良の七草の歌のほかに、作者不詳の4首の歌が載せられています。ここにいう朝顔とは、いずれも桔梗のことです。
「朝顔は 朝露負ひて 咲くといへど 夕影にこそ さきまさりけれ(巻10-2104)
(訳)朝顔は朝露を浴びて咲くというけれど、夕方のかすかな光のなかでこそ、ひときわ咲きにおうものであった。
「臥いまろび 恋ひは死ぬとも いちしろく 色には出でじ 朝顔の花(巻10-2274)
(訳)身悶えして恋い死にすることはあっても、この思いをはっきり顔色に出したりはいたしますまい。朝顔の花みたいには。
「言に出でて 言はばゆゆしみ 朝顔の 穂には咲き出ぬ 恋はするかも(巻10-2275)
(訳) 口に出して言っては憚り多いので、朝顔の花が表立って咲き出るような、そんな人目に立つ素振りを見せずにひそかに恋い焦がれています。
「我が目妻 人は放くれど 朝顔の としさへこごと 我は離るがへ(巻14-3502)
(訳)私が愛する妻のことを、人は引き離そうとするけれど、朝顔のようにいつまでも大切にして私は離れませんよ。
テラスに降りると、何時ものように桜橋まで南下し、帰宅しました。
橋場・今戸のテラスを往復して、帰宅する。山谷掘り公園を横切って、聖天公園を通ると、公園の入口に百日紅(さるすべり)の木がピンクの花を付けていました。
「紫薇花」 杜牧
暁迎秋露一枝新
不占園中最上春
桃李無言又何在
向風偏笑艶陽人
〈読み〉 暁(あかつき)に秋露(しゅうろ)に迎(あ)いて一枝(いっ
し)新たなり
占(し)めず 園中 最上(さいじょう)の春を
桃李(とうり) 言(げん)無く 又た何(いず)くにか在る
風に向かって偏(ひと)えに笑う 艶陽(えんよう)の人を
〈訳〉 夜明の露に濡れながら 一枝の花が咲き出した
華やぐ春の庭園に 咲きほこる気持ちはない
桃や李は見る影もなく いったい何処へ消えたのか
秋風に吹かれて百日紅 春好みを笑っている
雨または曇り空の毎日でしたが、昨日、今日と夏日がやってきたようです。今日の早朝徘徊は、桜橋~吾妻橋の間を一周して、帰宅しました。桜橋の4つの出入り口には、橋名の標識を囲んで、ミニヒマワリが円形に植えられています。
ひまわりは、キク科の一年草で、北アメリカ原産です。ご承知の通り、茎が太くて直立し、高さ2mぐらいまで成長します。夏、黄色い花を咲かせます。日輪草、日車草、日回り草などともよばれています。
ミニヒマワリといっても非常に多くの種類があるそうです。おおむね花の大きさが10cm程度で、草丈が約30cmほどです。コンパクトでベランダでも育てられるといいます。
太陽の移動につれて花の向きが回ることからの名であるそうですが、実際はそれほど動かず、ヒマワリが太陽の動きに合わせて回るのは成長が盛んな若い時期で、花が咲く頃には動かなくなります。ただし、シロタエヒマワリ(白妙向日葵、茎や葉が白い細かな綿毛に被われて、全体が銀白色にみえることから、この名があります。)の頭花は、太陽の動きにつれて回る事が確認されているそうです。他にも同じような動きをする植物は多く存在するため、動きだけでなく、太陽を連想させる花の色や形、咲く季節も影響したと思われます。漢字表記は、漢名「向日葵(こうじつき)」からです。
sechin@nethome.ne.jp です。
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