桜橋を渡ると、桜橋通りを東武伊勢崎線の踏切まで東進。飛木稲荷神社にも、高木神社にも明6月30日の大祓に備えて、茅の輪が設けられていた。曳舟川通りに出ると、東武伊勢崎線の曳舟駅から、高架線に沿って、水戸街道に出ると、そこは地蔵坂通りへの入口であった。明治通りに入ると、同じ方向に歩いているお方があり、どちらからともなく話しかけて、問わず語りの雑談をしながら歩いた。話によると、茨城県出身の73歳になるお方で、どうやら曳舟あたりに住んでいらっしゃるらしい。結局、一緒に白鬚橋を渡り、川沿いの遊歩道を離しながら歩いた。桜橋碑東詰で別れて帰宅した。9195歩、5.9㎞を歩いていた。
高木神社は応仁2 (1468)年創建と伝えられ、旧寺島村新田の鎮守として尊崇されており、江戸末期の地図では「第六天社」と称えられ、天台宗正圓寺(墨田区押上2-37-4)が別当として管理していたという。明治初年、神仏分離の制度が定められ、社名を「高木神社」と改め、昭和15年6月村社に列格したという。境内にある狛犬は左右同形で、阿・吽の区別がなく、どちらも阿形である。
もとの第六天社は台東区の榊神社で見たように面足神・惶根神を御祭神とすることが多いが、江戸末期の国学者の平田篤胤は天神6代を祀ることはありえないとして神産巣日神や高御産巣日神(高木神)のことだとしているそうだ。ここ高木人神社の祭神を高皇産霊神とするのは、この平田篤胤の説に従ったものだろう。
タカミムスビは古事記では高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、日本書紀では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)と書かれ、葦原中つ国平定・天孫降臨の際には高木神(たかぎのかみ)という名で登場する。神社の祭神としては高皇産霊尊などとも書かれる。別名の通り、本来は高木の神格化されたものを指したと考えられている。天照大神の御子神・天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が高皇産霊神の娘と結婚して生まれたのが天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)であるので、高皇産霊神は天孫瓊瓊杵尊の外祖父に相当することになる。古事記によれば、天地開闢の時、最初に天御中主神が現れ、その次に神皇産霊神(かみむすびのかみ)と共に高天原に出現したとされるのが高皇産霊神という神であったというわけ。天御中主神・神皇産霊神・高皇産霊神は、共に造化の3神とされ、いずれも性別のない神、かつ、人間界から姿を隠している「独神(ひとりがみ)」とされている。
江戸時代には田園と沼地が広がっていた曳舟地域。あちこちに水路が伸び、灌漑用水や舟運に利用されていた。現在の曳舟川通りも、かつては曳舟川が流れ、小舟の先に結ばれた綱を岸から人力で曳いて川を遡っていたといわれている。明治以後は大小の工場が立ちならぶ工場地帯として発展。現在でも優れた技術を持つ中小の工場や江戸切子、桐箪笥などの職人工房も健在。江戸の粋と先進の技がしっかりと息づいているようだ。
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