瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
桜橋から川沿いの遊歩道を北上、白鬚橋を渡って墨堤通りと明治通りの交差点から大正通りを東に向って進む。左側に区立白鬚公園があり、それと向かい合って右側に区立長寿庭園がある。白鬚公園に「岐雲園跡」の説明板がある。
向島岐雲園は岩瀬忠震(ただなり、1818~1861年、幕府の外交官)が不遇の晩年を過ごし、終の住処(ついのすみか、終焉の地)ともなったところである(白鬚神社境内に墓碑がある)。この大正通りは鐘ヶ淵通りまで続いていたらしいが、戦後東武線のガードより東はいろは通りと名称を変えたらしい。
東武伊勢崎線のガード下で、デジカメでいろは通りの標識を撮っていると、「小父さん! 僕たちもうつしてよ」と声がかかる。自転車に乗った若者たちがこちらに手を振っている。今日は日曜日、昨夜は何処かで夜っぴて語り明かしたのかもしれない。
おやおや、ここは昨日鐘ヶ淵通りから西進して徘徊した所であった。このいろは通りの右手辺りは永井荷風の濹東綺譚の舞台となった処であったというが、昭和20年3月10日の東京大空襲で一掃されたらしい。戦後は左手一帯に淫売カフェが立ち並び、一大赤線地帯を形成していた所である。
いろは通りの中間部から左にはいると東清寺がある。どうやらここが玉の井稲荷であるらしい。門をはいり階段を上がってみると左右にお狐様が鎮座ましましている。東清寺は昔は娼婦達の駆け込み寺であったそうだが、ピカピカの鉄筋コンクリートでそんな面影は何処にもない。曹洞宗東清寺は通称玉ノ井稲荷で通っているのは、大正4年、今通ってきた白髭橋のたもとから四ツ木橋近くまで斜めに抜ける道路を、町の開発のために通し、大正道路と呼んでいたのだが、その開発の時に、山梨県塩山からここに移り、同時に玉ノ井稲荷を祀ったものであるという。南葛弘法大師88ヶ所72番札所になっているそうだ。
東清寺からいろは通りを引き返し東武伊勢崎線の線路伝いに南下して、東向島駅から水戸街道を下り、桜橋通りから、桜橋を渡って帰宅した。記録は9572歩、6.2㎞。
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目高 拙痴无
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