瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
昨日の徳之山稲荷神社に続き、津軽稲荷神社を訪ねて見ようと思う。言問橋を渡り、東詰めから三つ目通りを南下。源森橋にかかる手前でビルの並びの中にしもた屋風の家を発見。こういう風景は東京では殆んど見られなくなった。淺草通りを東進、業平橋西からは東京スカイツリーの建設現場がよく見える。工事は順調に進んでいるようである。平川橋から大横川親水公園にはいり、長崎橋まで南下。ここ錦糸1丁目9番地に津軽稲荷神社がある。
北斎通りを西進、東京江戸博物館脇の遊歩道を西に進み、国技館横に出る。ここに本所御蔵跡の案内板を発見した。この辺りは戦後風俗小説「雪夫人絵図」などで流行作家になった船橋聖一(1904~1976年)が生れ、6歳頃まで育った地だという。生来の相撲好きで横綱審議委員をつとめたこともうなづける。
隅田川岸に出るとテラスに降りて、吾妻橋まで北上、吾妻橋を渡り、隅田公園を抜けて帰宅した。
本日の記録は10821歩、7.0㎞とあった。
「本所に過ぎたるもの二つあり、津軽大名、炭や塩原」と言われた弘前藩津軽家の下屋敷の跡である。屋敷内に祀られていた稲荷神社のため、津軽稲荷神社と呼ばれているという。説明板にある津軽四郎為信(1550~1608年)は弘前藩の初代藩主である。津軽氏は、元は大浦氏といい、南部氏の支族であったといわれているが、初代藩主となる為信は、南部家の混乱に乗じて独立し、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して大名の地位を公認され、その後、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方して藩の基礎を築き、以後津軽氏が津軽地方を治めた。こうした経緯から、南部藩と津軽藩の間で争いが絶えず、文化5年(1808年)には、南部藩士の下斗米秀之進(かとべひでのしん、1789~1822年)が津軽寧親(つがるやすちか、1765~1833年、津軽藩9代藩主)の暗殺を計画したいわゆる「相馬大作事件」が引き起こされたこともあったのである。
昼前に都議会議員の選挙に行く。午後K夫妻が訪ねてくれた。娘さんはJ大学の3年になるというが、この夏は将来に具えてケニアに2週間の旅行に行くという。親にしてみれば、心配なことではある。
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目高 拙痴无
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1932/02/04
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