瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
桜橋を渡り、墨堤通りから東白鬚公園に入り、隅田川神社前を通り、水神大橋を渡る。汐入公園では胡録トンネルの上の展望台を越えて、公園内の「さくらばし」を渡って東京都水道局の西白鬚ポンプ場前に出る。瑞光橋を渡り、石濱神社横から白鬚橋西詰めでワンさんと出会う。ワンさんは白鬚橋を渡り、爺は川沿いの遊歩道を通って帰宅した。今日の記録は10565歩、6.8㎞。
隅田川神社のご祭神は、速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)、 速秋津比賣神(はやあきつひめのかみ)、 鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)、 大楫木戸姫神(おおかじきどひめのかみ)で、隅田川の総鎮守であり、水上安全の守護神として崇敬を集め、古くは「水神」又は「水神宮」と称しいたが、明治5年に隅田川神社と改称したという。
速秋津比古神・速秋津比売神は伊弉諾・伊弉冉二神の間に産まれた男女一対の神で、その総体として水戸神(みなとのかみ)ともいう。鳥之石楠船神はまたの名を天鳥船(あめのとりふね)といい、楠で造られた堅牢な速く走る船ということで、船神を表している。輸送や交通を司る神という意味もあるらしい。大楫木戸姫神については全く解らない。
治承(1177~1180年)の頃、源頼朝が関東に下った折、暴風雨に逢い、当社に祈願したと伝えられている。現在の御社殿は嘉永元年造営のものが、安政2年の大地震で倒潰したため、安政5年に再建されたものであるという。関東大震災及び太平洋戦争などで被害を受けたがその都度修理を加え、現在の位置より北約25mに南面して鎮座していたものが、高速道路が神域をかすめることとなって社殿に大修繕を加え、昭和50年6月に現在の位置に遷座ましました。新編武蔵風土記稿によれば御神体は龍神にて長七寸とあるそうだ。創建年代は不詳だが、水神が亀に乗ってこの地に上陸されたという伝承が残るという。古代ではこのあたりが利根川の河口であるから、海からやってきた人々がここに上陸していたかもしれない。
1487年の尭恵法師(1430~1498年)の北国紀行に「利根、入間の二河落ちあえる所に、かの古き渡りあり、東のなぎさに幽村あり、西のなぎさに孤村あり」とある。各地で戦国大名が旗揚げし、関東では北条早雲が伊豆を奪う頃である。西の孤村が石浜、東の幽村が関屋(旧関屋、新荒河橋付近)だろうか。
隅田川神社は水神宮の前は「浮島の宮」とも呼ばれていたようで、入間川と古隅田川の水流がぶつかりあう関係で中洲が生じていたのであろう。中洲が東岸とつながってゆくのは利根川東遷によって古隅田川の水量が減り、ついには廃河となる1700年頃と思われる。江戸時代での奥州路は千住大橋経由となっていて、当地は江戸庶民の観光地となっていたために水神という古典的な形を残したのかもしれない。
江戸名所図会に隅田堤は1574年に小田原北条氏が三圍神社から木母寺の間に築き、堤の左右に桃、桜、柳を植えられて、スミレなどの野草も絨毯のごとくで賞するに壮観であったとある。また、木母寺の北にある内川がかっての古隅田川の名残りだったようで、新編武蔵風土記稿によれば、かっての内川の川幅は100間(約180m)あり、北国紀行にも入間川と劣らぬ様子であったことが書かれている。古隅田川と入間川はほぼ直角にぶつかっていて、たいへん複雑な水流になっていたと思われ、その川筋のせめぎ合いの間に洪水にならない中洲があってそこに水神社(浮島の宮)が作られたであろう。
江戸名所図会に、『昔は橋がなかったが今は浮橋がある、鹿島詣に浮橋を渡った「夫木和歌抄、1310年頃」』とある。名勝として全国的に知られた富山の船橋は、旧神通川(じんづうがわ)に架かっていた橋で、船と板と鎖によって造られていたが(安藤広重 富山の船橋)、多分このような情景だったのだろう。また、太田道灌(1432~1486年)が下総の千葉氏を攻めるために長橋三条を構えたという文の紹介と、1750年頃の文献の引用で、隅田川の渡しより一町ほど川上に昔の橋の古杭が水底に残っていて船の通行の障害になっていたとある。ここでいう隅田川の渡しがどこかは判らないが、当社のある中洲などを利用した飛び石伝いの橋だったのだろうか。これが隅田川に最初に架けられた橋とみえるが、江戸時代にそれが修復されなかったのは軍事的な意味があったからかもしれない。現在は高架6号向島線道路に遮られて隅田川を見ることはできず、当時の面影はまったくなくなっている。
福岡在住の拙痴无爺爺の甥の娘が6月からアフリカはスーダンで勤務することになった。そして、現地の様子をブログにしている。時々開いてみてやってほしい。
http://happinesssharing-eric.blogspot.com/
隅田川神社のご祭神は、速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)、 速秋津比賣神(はやあきつひめのかみ)、 鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)、 大楫木戸姫神(おおかじきどひめのかみ)で、隅田川の総鎮守であり、水上安全の守護神として崇敬を集め、古くは「水神」又は「水神宮」と称しいたが、明治5年に隅田川神社と改称したという。
速秋津比古神・速秋津比売神は伊弉諾・伊弉冉二神の間に産まれた男女一対の神で、その総体として水戸神(みなとのかみ)ともいう。鳥之石楠船神はまたの名を天鳥船(あめのとりふね)といい、楠で造られた堅牢な速く走る船ということで、船神を表している。輸送や交通を司る神という意味もあるらしい。大楫木戸姫神については全く解らない。
治承(1177~1180年)の頃、源頼朝が関東に下った折、暴風雨に逢い、当社に祈願したと伝えられている。現在の御社殿は嘉永元年造営のものが、安政2年の大地震で倒潰したため、安政5年に再建されたものであるという。関東大震災及び太平洋戦争などで被害を受けたがその都度修理を加え、現在の位置より北約25mに南面して鎮座していたものが、高速道路が神域をかすめることとなって社殿に大修繕を加え、昭和50年6月に現在の位置に遷座ましました。新編武蔵風土記稿によれば御神体は龍神にて長七寸とあるそうだ。創建年代は不詳だが、水神が亀に乗ってこの地に上陸されたという伝承が残るという。古代ではこのあたりが利根川の河口であるから、海からやってきた人々がここに上陸していたかもしれない。
1487年の尭恵法師(1430~1498年)の北国紀行に「利根、入間の二河落ちあえる所に、かの古き渡りあり、東のなぎさに幽村あり、西のなぎさに孤村あり」とある。各地で戦国大名が旗揚げし、関東では北条早雲が伊豆を奪う頃である。西の孤村が石浜、東の幽村が関屋(旧関屋、新荒河橋付近)だろうか。
隅田川神社は水神宮の前は「浮島の宮」とも呼ばれていたようで、入間川と古隅田川の水流がぶつかりあう関係で中洲が生じていたのであろう。中洲が東岸とつながってゆくのは利根川東遷によって古隅田川の水量が減り、ついには廃河となる1700年頃と思われる。江戸時代での奥州路は千住大橋経由となっていて、当地は江戸庶民の観光地となっていたために水神という古典的な形を残したのかもしれない。
江戸名所図会に隅田堤は1574年に小田原北条氏が三圍神社から木母寺の間に築き、堤の左右に桃、桜、柳を植えられて、スミレなどの野草も絨毯のごとくで賞するに壮観であったとある。また、木母寺の北にある内川がかっての古隅田川の名残りだったようで、新編武蔵風土記稿によれば、かっての内川の川幅は100間(約180m)あり、北国紀行にも入間川と劣らぬ様子であったことが書かれている。古隅田川と入間川はほぼ直角にぶつかっていて、たいへん複雑な水流になっていたと思われ、その川筋のせめぎ合いの間に洪水にならない中洲があってそこに水神社(浮島の宮)が作られたであろう。
江戸名所図会に、『昔は橋がなかったが今は浮橋がある、鹿島詣に浮橋を渡った「夫木和歌抄、1310年頃」』とある。名勝として全国的に知られた富山の船橋は、旧神通川(じんづうがわ)に架かっていた橋で、船と板と鎖によって造られていたが(安藤広重 富山の船橋)、多分このような情景だったのだろう。また、太田道灌(1432~1486年)が下総の千葉氏を攻めるために長橋三条を構えたという文の紹介と、1750年頃の文献の引用で、隅田川の渡しより一町ほど川上に昔の橋の古杭が水底に残っていて船の通行の障害になっていたとある。ここでいう隅田川の渡しがどこかは判らないが、当社のある中洲などを利用した飛び石伝いの橋だったのだろうか。これが隅田川に最初に架けられた橋とみえるが、江戸時代にそれが修復されなかったのは軍事的な意味があったからかもしれない。現在は高架6号向島線道路に遮られて隅田川を見ることはできず、当時の面影はまったくなくなっている。
福岡在住の拙痴无爺爺の甥の娘が6月からアフリカはスーダンで勤務することになった。そして、現地の様子をブログにしている。時々開いてみてやってほしい。
http://happinesssharing-eric.blogspot.com/
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無題
NHKのプロフェッショナル、見ました。女性なのにすごいと思いました。私なんか、他人のことより、自分が怖くて無理だと思いました。交渉する力って、すごいと思いました。異文化、価値観の違い、差別など、想像を絶する世界の中で、あきらめない気持ちを持ち続けている彼女はすばらしい人だと思いました。
Re:無題
偶々、爺の甥の娘がスーダンで勤務するというので、どんな所かというので、この番組を見たわけ。甥の娘Eriはスーダンからのブログを始めたらしい。時々見てやってくださいね。
http://happinesssharing-eric.blogspot.com/
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無題
ありがとうございます。時々のぞかせていただきます。
やっぱり、衣食住は大変そうですねぇ。私も昔、ケニアにいったことがあり、アフリカには少し興味があります。貧富の差も垣間見ることができたと思っています。やはり、貧しさから抜け出すには、教養を身に付けることではないかとその時に私も思いましたよ。
やっぱり、衣食住は大変そうですねぇ。私も昔、ケニアにいったことがあり、アフリカには少し興味があります。貧富の差も垣間見ることができたと思っています。やはり、貧しさから抜け出すには、教養を身に付けることではないかとその時に私も思いましたよ。
Re:無題
貴方の兄貴様は中近東の問題のプロフェッショナルだし、アフリカに興味を持つのも無理からぬことだと思います。昨日はナベちゃん夫妻が見え、話に聞くと、この夏にJ大3年になる長女のTちゃんが2週間ばかりケニアに行くそうです。何か助言があればおしえてあげてね。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
sechin@nethome.ne.jp です。
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