瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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c3dad637.jpg 本日の早朝は雨。朝食後、水戸街道を北上、久し振りに荒川に架かる四つ木橋東に出る。ここから、土手を降りて、墨田4丁目にある隅田稲荷神社(すみだいなりじんじゃ)に往く。善左衛門稲荷とも呼ばれ、荒川放水路開削で消えた善左衛門村にあった社だという。

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f439f013.jpg ここから鐘ヶ淵通りを南西に下っているといろは商店街というのがあったので、ここを東武伊勢崎線の東向島駅に向って歩いた。東向島駅から東武浅草線で終点の淺草駅まで出た。北口から駅をでるとすぐ前がいつも行く理髪店である。
17cc2cc8.jpg 暫く髪を切っていないので、暑苦しくて仕方ない。理髪店で50分ほど待って、散髪してもらい、吾妻橋を渡り、墨田区役所まえから北十間川の南沿いの道を通り、源森橋を渡り、三つ目通りから水戸街道を北上。桜橋通りの手前に古平酒店というのがあって、ここに清酒オリジナルの「墨堤桜橋」「竹屋の渡し」を売っているというので、日頃から世話になってばかりいるKさんとNさんに送ることにした。桜橋を渡って、帰宅した。既に正午を30分過ぎていた。本日の徘徊は13361歩、8.6㎞となっていた。
 隅田川稲荷神社は稲荷だから、祭神は宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)ということになる。ここの境内にはお稲荷さんというのにお狐様がいない。本殿前には狛犬さんが鎮座まします。社伝によれば、天文年間(1532~54年)伊豆の堀越公方・足利政知(将軍足利義政の弟、伊豆の堀越《今の韮山町》に居を構えたため、堀越公方とよばれた)の家臣であった江川善左衛門雅門は、主家滅亡後、一族郎党とともに当地に逃れ、土地を開墾して善左衛門村を開いた。善左衛門は信仰心篤く、伏見稲荷より御分霊を勧請し、村の鎮守としたという。その後、五代目善左衛門が伊勢神宮に参拝した折、悪鬼に襲われたが、8人の山伏が現れ、危難を救ってくれた。この山伏たちは善左衛門を村まで送ると、忽然と消えてしまったという。戦前までは、この霊験に因んで八僧稲荷、あるいは善左衛門の徳をたたえて善左衛門稲荷と称したという。大正2(1913)年荒川の改修工事のため、現在地に遷座。昭和7(1932)年村社に昇格した。現在の社殿は昭和18(1943)年の改築であるという。
98f4da68.JPG この改築に当たって、氏子でもあった日本画家の鴨下晁湖が本殿天井に描いたのが「板絵墨絵神竜図」である。縦270センチメートル、横300センチメートルのヒノキの板17枚からなる画面にほぼ墨一色で描かれた神竜は、雲間から半身を現し、鋭い表情と力強い姿が際立っている。鴨下晁湖は、東京浅草で生まれ、松本楓湖(1840~1923年、日本画家)に師事、17歳の時、第1回文展で3位に入賞して注目され、美人画や歴史小説の挿絵で定評があったという。大正から終戦にかけて、墨田区に住んでいたそうだ。
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目高 拙痴无
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1932/02/04
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