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b24d8d51.jpg 桜橋を渡り、桜橋通りを東に進む。水戸街道を過ぎて本所高校の前に向島ハイツというのがあって、その入口にお稲荷さんの小祠がある。墨田区・台東区辺りではこのようなお稲荷さんが方々にある。料亭の玄関先などではもっと小型のお稲荷さんを見かけることもある。石原町に徳之山稲荷神社というのがあることを思い出して、訪ねてみることにした。
 東武伊勢崎線の踏切を渡って、四つ目通りを南下。京成橋から見る東京スカイツリーもだいぶ工事が進んだようである。淺草通りを西進し、業平橋を渡ってすぐの道を左折、春日通まで南下する。春日通を西に進み、清澄通りを南下していると、蔵前橋通りの手前のところに目指す徳之山稲荷神社があった。
 蔵前橋を渡り、江戸通りにでる手前の所に楫取稲荷神社というのがある。なんだか、今日はお稲荷さんに憑かれた朝であった。花火の鉄柵取り付け工事が進んでいる隅田公園をぬけて帰宅した。万歩計は11771歩、7.6kmを記録していた。
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 徳之山稲荷神社は旧幕臣徳山五兵衛重政の邸内社であったのでこの名がある。重政は三河譜代の幕臣で亀戸に天満宮を勧請、深川長慶寺を中興した人である。万治3(1660)年に山崎四郎佐衛門重政ととも初代本所築地奉行(二人重政といわれた)となり、本所・深川の都市計画と埋め立て、掘り割り開削、架橋を行う(現在の墨田区、江東区にみられる整然とした碁盤の目状の街路網はこれを基本としている)、本所開拓に功績があった。寛文4(1664)年、その功によって本所築地小屋に屋敷を賜ったのがこの社地の所在地であったという。重政の孫の重舊(しげとも)は、先手御鉄砲頭から後に火付盗賊改方に就任し、盗賊日本左衛門の捕縛に功績を挙げたという。
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e65b0d5f.jpg 浅草の蔵前2丁目にある楫取稲荷神社(かじとりいなりじんじゃ)の祭神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)・御年神(としがみ)・豊受姫神(とようけひめのかみ)。由緒は説明板にもあるように、その創始は、慶長年間に江戸に幕府が開かれ、米蔵を造営するために用いる石を、遠く肥後国(現在の熊本県)熊本より運搬することになったが、遠州灘の沖において船がしばしば遭難に遭った。ある時、稲荷の神の示現を得て、それ以後は、航海安全に石を運ぶことが出来た。その神徳奉賽のため、稲荷の社を浅草御蔵の中に祀ったという。社名の「楫取」は、神徳に因んで付けられたもので、船の楫取をした稲荷の神の社という意味である。
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