瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
素盞雄神社からもと来たコツ通りを引き返し、一つ目の信号を左折して、最近若い人たちの間で評判のLaLaテラスに出る。ここから真っ直ぐに西に進むと西白鬚ポンプ場へ出る。ここから何時もの道を瑞光橋を渡り、橋場・今戸の街中を通って帰宅した。本日の記録は10519歩、6.8km。
素盞雄神社(飛鳥神社)の祭神は素盞雄命、事代主命(飛鳥大神)、大己貴命(おほなむち、大国主の若い頃の名前)で、境内には稲荷神社・菅原神社などいくつかの併社がある。当社の縁起由来では、「開祖の黒珍(こくちん:修験道の開祖役小角の高弟)の住居の東方小高い塚上に奇岩があり、黒珍はそれを霊場と崇め日夜斎戒礼拝すると、延暦14(795)年4月8日の夜、小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様が翁に姿を変えて現れ、『吾はスサノオ大神・アスカ大神なり。吾れを祀らば疫病を祓い福を増し、永く此の郷土を栄えしめん』と神託を授け、黒珍は一祠を建て鄭重に祀り、当社が御創建された」とある。スサノオ大神の御社殿を西向きに、アスカ大神の御社殿を南向きにそれぞれ造営し、神霊を遷したが、享保3(1718)年類焼による両社炎上のため、同12年に相殿(あいどの:一つの御社殿)として二柱を祀る御殿(瑞光殿:ずいこうでん)を新たに建築し奉斎したという。
江戸名所図絵による社伝縁起では、「延暦年中に比叡の黒珍師が東国での布教の途中に当地に至った。小塚があり、夜な夜な小塚が瑞光を現し、白衣を着た2人の翁が石の上に降臨し、我は素盞鳴尊の和魂大己貴命なり、またひとりの翁が我は事代主命なりと名乗った」とある。隅田川周辺の社の縁起からも、出雲系の人々の小集落がここにもあって、その子孫が先祖を祀っていたとおもわれる。
新編武蔵風土記では、飛鳥権現牛頭天王合社とあり、別当は能円坊・神翁寺(本山派修験)である。(風土記は1822年で権現、図絵は1836年で明神… はてさてどこで違いがでたのだろうか?)
だれかが、大己貴命の祭祀であったところに、素盞鳴尊(牛頭天王)を習合させるために和魂の考え方を持ち込んだのではないだろうか? それがいつかは解らないが、少なくとも名所図絵の著者にはそれが混じり込んできたものであろう。往古では大己貴命と事代主命を祀る社であったものが、いつの時代からか牛頭天王が習合され、明治にはいって牛頭天王が素盞鳴尊となったのだろうと考えられる。僧侶らしき人物の前に素盞鳴尊(牛頭天王)が現れる縁起は、蔵前の須賀神社や牛島神社に類例がある。年代的にも類似であり、この頃に密教僧が各地で布教活動を行い、地元にあった祭祀に神仏習合を行っていたことが窺える。
三圍神社も天台系僧侶(三井寺)が縁起に登場しており、こちらでは稲荷となった。牛頭天王(疫病退散)も稲荷も現世での御利益を得ることが主眼とみえ、それをもって流布されていったことが推定される。なお、本山派修験は京都の聖護院を中心とする天台密教系の修験で開祖を役行者として平安末期に確立している。園城寺(三井寺)にはその修行僧が多く登場したようである。修験には当山派もあり、こちらは真言密教系で金峰山など山岳寺院を中心としていて本山派より少し遅れて登場している。当社縁起の比叡の黒珍なる人物が延暦年間であれば、天台の密教僧か修験の黎明期の人物ではないかと思われる。
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