瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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8422340b.JPG 今朝は朝から雨。徘徊もできず、つれづれに任せて隅田川周辺にはどれくらいの神社があるのだろうかと、指折り数えてみた。いやはや今まで、回った神社だけでも20社を越えるようだ。その来歴についてはそこそこのことを調べて、今までも記してきたが、復習を兼ねて今一度調べなおしてみようと思い立った。そこで、昨日徘徊した第六天榊神社から、その社歴を調べてみた。まあ、こんなことを書いても、根気のない爺には何時まで続くか判らんが…。
12d0bee3.JPG この神社を第六天榊神社というのはどうやら、古事記による神世七代の国常立尊から数えて第六代目の天つ神を祀ってあることに拠るものと思われる。日本武尊が東征の折にこの地に斎庭(まつりのにわ)を定めて面足尊(おもだちのみこと)と惶根尊(かしこねのみこと)の夫婦神を祀り、白銅の宝鏡を納めて東国の平安と国家鎮護を願ったことを縁起としているという。
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34f85caa.JPG この辺りは武蔵野台地の東端にあって、はるか昔に白鳥が去来する地であったことから白鳥の丘と呼ばれていたらしいが、後に鳥越の丘とよばれるようになったという。現在の鳥越周辺は平坦であるが、江戸初期に江戸市街の土木工事用に丘が取り崩されて平坦になったとされている。旧社地は森田町(現:蔵前2丁目付近)にあったが、元和6(1630)年に江戸幕府が付近に米倉を作り、それが拡張されたために享保4(1719)年に浅草榊町(現:柳橋1、江戸末期で浅草茅町)に移転し、浅草御蔵の鎮守として第六天神あるいは第六天神宮と称された。榊神社の名称は明治6年からで、大正12年の関東大震災によって現在地に移転し、全国の第六天を祀る社の総本社となったといわれている。
9a5f7a67.JPG 江戸名所図会(江戸は神田の名主斉藤家の3代にわたって書き継がれた地誌。長谷川雪旦《1778~1843年》に挿絵を依頼)によれば「榊神社」は鳥越(現、鳥越二丁目)にあった「鳥越三所明神」のひとつであったとあり、正保2(1645)年にこの地が公用となったためにわずかな地に鳥越神社を残して、1社は熱田神社として山谷掘(清川一丁目、現:今戸二丁目)に移転。もう1社は第六天社として浅草大蔵前森田町に移転、その後、享保4(1719)年に火災により「浅草御門外」に移転したとある。江戸名所図会の絵は浅草御門外の図と思われる。
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